忍者ブログ
大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



 大晦日なので「今年を振り返って……」的なことをまとめてみようかと思います。ただブログを本格的に再開する以前はTwitterを主戦場として立ち回りをしてきたので、その瞬間瞬間で発散して手元に残っていないんですよね。それでも非公開の日記は毎日つけていたので、ちゃんと何があったのかは書いているのですが……それを全部書くと原稿用紙400枚分くらいの分量になるので、いま思い出して印象的なことを書いていきます。すでにアップロードしているものではありますが、それらを全部振り返って史上最大レベルの情報量でお送りします!

 「春」 編

3月19日 - メディフェスせんだい2023に参戦!

 観客として参加したのですが、最後にちょっとだけ感想を言わせていただきました。この時から『市民メディア』という言葉を意識し、アチコチ出掛けてそこで写真を撮って発信するという活動をしてきました。また、ローカルとか障害者とかトランスジェンダーとかメタバースとか……私は別に壁を作っていたつもりはありませんが、「当事者からの発信」をこうして受信するのは初めてだったので……本当に素晴らしい機会でした。私自身もこの時公式にADHDでASDであることを告白。そして蘭茶みすみさんの大ファンになって、こんな記事を書いたりしていました。
【聴いてみた】蘭茶みすみ5周年ミニアルバム【書いてみた】
【めためた】蘭茶みすみライブおぼえがき【ライブ】
 この時にお目にかかった「つーさん」サンと「蘭茶みすみ」サンには、本当に勇気をもらいました。私の心の中にあった……でも、変なことだと思って押し込めて隠していた気持ちを、こうして表現できるようになったのは……本当に皆さんのおかげです。


 「夏」編

 8月29日 由良ゆらら~列島横断!? ロングロングツーリング!


 夏はアイドルのライブに行ってみたりなんだりかんだり(仙台弁)と、市民メディア『佐藤非常口@仙台』としてバリバリ活動していましたが、真夏のロングツーリングも行ってきました。去年は海沿いの道路をひたすら南下して福島県いわき市に行ったのですが、今年は西海岸を目指して走ってきました。山形県は今年初めて行ったのですが……そして、途中「自動車専用道路」をそれと知らずに走ってしまったのですが(時効でしょうがゴメンナサイ!)……その名に高い由良海岸へ。さらに出羽三山のひとつ「月山」も行ってきました。本来であればそれぞれ別な日に行こうかと思っていたのですが……とにかく山形の行ってみたいところ1位2位を一気に攻略してしまった次第です。じつに、じつにエキサイティングな日帰りロングツーリングでした。長いか短いかは私が決めます!

 「秋」編

 この頃、SNSの速さについていけなくなり、泣きながらブログに戻ってきた私。毎日3000字級の記事を連投し、自分のことを爆裂大解放……みっちり書きまくっているのですが、重要なイベントを上げるとすると、こんな感じでしょうか。

 せんだい21アンデパンダン展

 結構泣きべそみたいな気持ちで行ったのですが、これは大きな転機でした。むしろ時間が経つほどに体験がよみがえってきて、何度も何度も……この時に吹き込んで来た新風、「自由と独立の精神」というのは現在の私、そして未来の私を貫く理念となりました。この気持ちを、倒れるまで続けていきたい……。
 他にも多くの美術展に参加しました。
Rimoさんの個展のこと
仙台写真月間のこと
「植物のある風景展」のこと
亀井桃さんのこと
 そして私のもっとも好きなお三方「ユ、六萠」さん「ペロンミ」さん「門眞妙」さん……
特集記事 その1
特集記事 その2

 ……なお門眞さんには、ペロンミさんの個展を見に行った時に再びお会いしてご挨拶をさせていただくことができました。「またお会いできて嬉しいです」と、気恥しくなるような正直な言葉をお伝えして……でも、それが伝えられたことがとても幸せです……。

 「冬」編

 12月もさまざまなイベントに参加しました。

 ブックハンターセンダイに行ってきました。

 これまで美術系の方面を開拓していたのですが、ここで文芸系の開拓が進みました。やはりこうしてアナログ的な出会いが良いですね。その後もあえて検索せず、自分のなかでイメージをどんどん膨らませる……私の空想力は狂人レベルなので、もうちょっとまとまったら気持ちを伝えたいと思います。

 サブカルチャー合唱団演奏会に行ってきました。

 美術、文芸と来て今度は音楽イベント。これまでもアイドルやシンガーソングライターのライブに行っていましたが、ブログ再開後に行って、記事がある程度まとまっていて……それを押し付けられる方はどう思うかわかりませんが……ともかく私の「狂人解放治療」はこのあたりで目的を果たしたと言っていいかもしれません。

二人展「Destiny」のこと
秋保の杜美術館のこと・1「ドール展」
秋保の杜美術館のこと・2「越後しのさん」
秋保の杜美術館のこと・3「みひろさんの個展」
秋保の杜美術館のこと・4「高校生の皆さんの映像作品」

 全部まとめて振り返ると、ものすごいことになりました。この辺りになると、ひとつひとつ濃厚な感想を述べているので、いま改めて振り返って書くことはありません。やっぱりこうして文章に起こすことで、自分のものになるんですねえ。小賢しいSNSの投稿なんて吹き飛んでしまいます。

  *

 これらの外部要因に対して、内的体験として多く読書をしました(昨日の記事をご覧ください)。元々読んだ本のタイトルと日付くらいはメモしていたのですが、途中から感想をメモするようになって……ブログを再開してからは、ご覧の通りとてつもない分量の記事を書くようになりました。

 そして――
12月21日 『私の両性具有願望とその証明について』

 着たい服を着て、生きたいように生きてみたい! 私はアニマとともに生きていく!……3月からずっと心の中で温め、大切に育ててきた気持ちがとうとう開花しました。既に私の精神はアニマとしっかり手を取り合っています。もう後戻りはできません。
 ただ、この記事でも書いている通り、私は自分が「精神的に完全な女性」すなわちトランスジェンダーにはなれないようです……つーさんサンやみすみんサンのようになりたいという気持ちはあるのですが……男性としても女性としても中途半端な私は、「生存させて置いてはならない」人間なのか……。
 とはいえ、これに関してはあまり悩んでいません。ここで河合隼雄先生が述べているこの言葉を引用させていただきます(引用元で傍点があるところは下線で代用しています)。

……二分法的な思考法は極めて便利で有効であるが、随分と無理をしているものだ。……自然科学における二分法に加えて、人間を考えるときにも二分法が出てくる。そして、たとえば「男らしい」、「女らしい」などという分類ができる。それによって「秩序」ができる。それは便利であるし、時には、それは正しいとさえ感じられる。しかし、多くの場合、その秩序を支えてゆくための無理が何らかの犠牲を要求する場合が多い。しかし、そのような「秩序」を全員が受け入れているときは、それを犠牲として意識されることさえない。
(『とりかへばや、男と女』)

 私も矢川澄子さんの文章を最初に説明する時に「女らしい」と書きました。そう、「男らしさ」「女らしさ」という言葉で説明するのは便利なんです。でも、私の中にある「女らしさ」が大きくなるにつれて、
 「男らしいとか女らしいという言葉は、その範囲から外れることをすると、男のくせにとか女性ながらとかという考え方になるのではないか?」
 そう思ったのです。
 理窟ではわかりますよ。個性とか多様性とかジェンダー不平等とか、色んな言葉があります。ただ、メディフェスを経験したうえで見えてきたものは、そういった理窟ではなく、無意識レベルで刻み込まれた「男らしさ、女らしさ」の呪縛であると私は直感しています。私自身、この呪縛に囚われています。

 そんな悩みがよぎった時は、このイラストを眺めます。
 男らしいか女らしいかは私が決めることじゃないし、私を含めて、そんなものに縛られるべきではありません。それによって生きづらさを感じるようなことがあるなら、なおさらそうです。

 自分の心を守るために何でもする。それは当然のことでしょう?
 誰だって『在りたい私』を守り、そのままで生きていけるように。
 異論は受け付けません。
 「在りたい私」は私が決めるんです!


 そしてこの格好でキラッキラのイルミネーションを眺めるというシンデレラの夢を演じてみたのでした……。


 SNSに復帰するのは来年3月19日の予定です。もちろんその後もブログは続ける予定です。あくまでここが私のホームですから。ただ容量がそろそろ限界に近付いているので、その点はどうしたらいいかな……なんて、ちょっと希望的な悩みもありますが、まあ自分のペースでね。実生活も文芸もアートも、大好きをおなか一杯食べて……

……こんな感じで復帰できるように頑張ります!

拍手[0回]

PR


 別に「今年は100冊、本を読むぞ!」と決めてかかったわけではなく、読んだ本の記録をつけていたら結果的に100冊目に到達した……という話なんですが、ともかく100冊は100冊です。正確に言えば今日時点で108冊くらい読んでいますが、「100冊ちょっと」というあいまいな言い方が気に入ったのでそういうことにします。
 そこで、今年読んだ本について軽く振り返ってみたいと思います。今日は本当にお手軽というか、ドラマの総集編みたいな内容なので、読む方もご自身の今年のことを振り返りながら読んでいただければと思います。

 *

 今年読んだ本のリストを見返して、10冊セレクトするとしたら、こんな感じです。

1.ウォルポール 『オトラントの城』
2.三島由紀夫 『豊饒の海』
3.稲垣足穂 『一千一秒物語』
4.矢川澄子 『兎とよばれた女』
5.来栖千依 『帝都はいから婚物語』
6.安澄加奈 『水沢文具店』
7.夢野久作 『ドグラ・マグラ』
8.森茉莉  『贅沢貧乏』
9.荒俣宏  『帝都物語』
10.ユイスマンス 『さかしま』
 
 主に図書館で借りて読むことが多かったのですが、『帝都はいから婚物語』は刊行直後に新刊で買いました。帝都物語が大好きで今年10年ぶりに再読したんですが(その時の感想はこちら)これをしっかり自分のなかに落とし込んだうえで、あえて言います。これは良い作品でした!

 帝都はいから婚物語 - ポプラ社

 当時の読後感メモによると「これほど可愛い女の子はなかなかいない。そんな女の子が偏見だらけの世の中に飛び込み、呑み込まれるどころか自分で渦を起こしてどんどん周りを巻き込み変えていく展開は読んでいて気持ちよかった。」とのこと。ラノベっぽいタイトルですけど文章も落ち着いてシッカリしているので、最後まで興ざめすることなく読めました。作者の来栖千依さんは、本作でポプラ社小説新人賞ピュアフル部門賞を受賞されたとのことで……私はただの文芸オタクにすぎませんが、とても好きなので書かせて頂きます。応援してます!

   *

 その後、11月に入り、ユイスマンスの『さかしま―美と頽廃の人工楽園―』を読了。その数日後に叔母が帰天し、Xも休止。どんどん内向きの世界に入り込み、一冊ごとに書きつける文章も激増。私のきわめて偏執狂的な、地上十階地下十階の精神的な人工楽園のなかで物語を読みふけり、兎年の100冊目に矢川澄子『兎とよばれた女』を読了した次第です。

 今の私は堂々と『文芸オタク』を宣言してもいいと思うのです。これまで「ちょっと難しそうだから」と敬遠していた『豊饒の海』『ドグラ・マグラ』も次々読了。「旧字旧仮名遣いじゃ読めないよ」とあきらめていた森茉莉も読了。物語の波長が合えば100年前の作品だろうと何だろうとどんどん読んじゃうだけの力を手に入れたんです。精神の危機に瀕していた私を救ってくれたのも文学なら、そこから這い上がって生きていく力を与えてくれたのも文学ですから。これら100冊ちょっとの本に感謝の気持ちを込めて、これからもアナログハートを守りつつアート&ブンゲイで生きていきたいと思います。

拍手[0回]



 図書館も年末年始の休暇に入ってしまったので、先日ブックハンターセンダイのインディーズブックバザールで買い集めた本を読みました。短編か、もしくはそれよりも短い掌編なので、所要時間は短かったのですが、いずれも鮮烈な印象でした。
 そんな各篇の感想をここで書きます。……と思ったのですが、
 「あえて、私が書くこともないか」
 そんな気がしてきました。いや、ひとつひとつの作品に対する感想は書いているんですが、それが……こういうパブリックな場で不特定多数の人に向けて書いた感想ではなくて……作者に感想を伝えるための手紙形式なんですよね。丁寧に書いたけれど、ちょっとパーソナルな感情を込めすぎちゃって、なんか気恥ずかしい……そんな感じです。
 だから、「全部読みました」「とても良かったです」ということだけをここでは書いておきます。あえてこれは、私だけの秘密にしておきたいな、と。

   *

 たとい実際にそういうことをしたことがないとしても、「秘密基地」とか「秘密の宝物」とか、そういうものに心ときめく…という感情は、稚い子供心としてわかっていただけるものと存じます。
 これが発達障がいだからなのかどうか知りませんが、私にはいまだにそういう感情が根深くあります。根が深いものだから年月が経っても枯れない。水をあげればあげたぶんだけ成長を続ける。どこにでもいる子供は誰も知らない秘密を知っていることをアイデンティティとするサブカルオタクとなり、長じてそれは自閉スペクトラム症と呼ばれるまでになりました。それが私の四十年余の来し方です。
 こうして出会った本をこれほどまでに愛おしく感じるのは、そういった私の精神性によるものなのでしょう。もちろん物語そのものが素晴らしいのは言うまでもありませんが、これらの物語は決して一般の書店に並ぶことがない……ごく限られた、本を手にした者たちだけが垣間見ることの出来る世界であり、私もその秘密クラブの会員となって恩恵に預かる……という気持ちになれるからだろう……と。

 ここからは少し「秘密」という言葉について思ったことを書かせていただきます。少々道草になりますが、どうかお許しください。
 秘密とは「知られてはいけない」ことを心に隠し持つことですが、それは秘密を暴く(または「暴かれる」)歓びと表裏一体の緊張感があると思います。いつだって物語の人物は、見てはいけないと言われたものを見て、破滅に至るものです。それは言うまでもなく、秘密をこっそり覗き見てこれを暴くというタブーを犯すことが何よりも快感だからでしょう。
 それがさらに高次の段階に進むと、自分の秘密を誰かに暴かれたいという感情になってしまうのかもしれません。今風の言葉でいえば「匂わせ」ってやつでしょうか。正直に言うとそういうものに私は理解もできるし共感もできます。覗く者であり覗かれる者。本多繁邦が「のぞき」をやってしまうシーンに私自身が共犯者として本多と同じ光景を目にする一方、心は勝手に覗き見られている側の方にも転移し、これを想像する……。
 「死刑囚であり死刑執行人」とはボウドレエルの言葉ですが(私はそれを三島由紀夫さんの文章で知ったので、ずっと三島さんの言葉だと思っていた)、鞭打ちながら鞭打たれる、加虐と被虐を同時に快感とするのがサディストだと私は思っています。十代の頃に『悪徳の栄え』『新ジュスティーヌ』と出会ってしまった私の無意識には、そういう感情がしっかりと根を張っています。
 ええ、私の心にはそういう感情があります。
 この感情は獰猛な獣の如く強烈で、私のちっぽけな自我が抑えつけようとすると、その自我が及ばない暗闇でうなり声をあげ、たびたび心をむさぼってしまいます。そうなると心のバランスを崩し、何らかの形で処置を行い、また無意識のなかに押しやらなければなりません。これを抑圧というのか「コンプレックス」と言うのか。
 ただ、今はそこに新しい希望があります。アニマです。私の自我がアニマの存在を認め、アニマと手を取り合う。もう一人の私たるアニマと協力して、この獣を御するのです。そのために私はスカートを穿き、よりアニマが意識上で自由闊達に振る舞えるようにお膳立てをし…そして私自身、「彼女」と共に生きるのです。
 それが今の私が考える「自己実現」へと至る道です。

   *

 話がメチャクチャに飛躍して、私のこころの問題にまで発展してしまいましたが、これが私の読後感です。どうしてこれほどまでに心惹かれるのか? 自分の感情はどこから来るのか? ということをひたすら心に問いかけ、無意識の海に潜って見つけたものはサドの小説でした。少なくとも感情の領域に深く刻み込まれた記憶は永遠に消えないでしょう。
 でも、それが『在りたい私』かというと、そうではありません。感情のまま消費し続け垂れ流し続けるような生き方を、私は望んでおりません。かといって全ての人間らしい感情を封じ込め、あふれる情報の海に呑み込まれ溺れてしまうような生き方も私はしたくありません。
 理性と感情。(いわゆる)男性らしさとか女性らしさとか強さとか優しさとか秩序とか混沌とか……私はそういうのを全部かき混ぜてぐちゃぐちゃになった心でいいです。いわゆる太極図のマークです。

 太極図 - pixiv

 この辺もユングの思想による影響が大きいと思います。ゲーム『真・女神転生』に出てくる謎の老人は、私にとってはユングでありそれを教えてくれた河合隼雄先生です。何事も調和が大切なのです。
 良い本や素敵なアートはこの世にいながらにして、私の自我が及ばない領域(個人的/集団的無意識)に直接アクセスしてくれます。私はこれからもたくさん本を読み、アートに触れて、自分の心を豊かにしていきたいと思います。

拍手[0回]



 先日チフリグリさんに行った時に紹介して頂いたイベント『仮囲いの中のアート市』に行ってきました。場所は仙台駅に隣接するAER(アエル)の2階にある特設ブースです。つまり仮囲いです。

 今月はアートと名がつく場所に次々と足を運んでは何かしらお迎えしてばかりですが、今回はもう「市」とうたっていますからね。私もそのつもりである程度の現金を用意して行ってきました。いざ突撃~!
 
 ……会場の中の雰囲気は、写真を撮っていいのかどうかわからないので言葉で紹介させていただきます。展示作品としてはポストカードに食器、ろうそく、大きめの絵画、家具、革のバッグやお財布など……アートという大きな囲いの中で心ときめくものがいっぱいありました。


 その中で私が最初に手に取ったのは画家「永田かのん」さんの絵でした。これは実際に私が購入したポストカードの画像です。これは透明水彩で描かれたもので、淡くて優しげな雰囲気が気に入りました。……ということを、会場にいらっしゃった永田さんご本人にお伝えしようとしたのですが、まさかいらっしゃるとは思わず「美術:2」のダメっぷりを発揮。何とも拙い言葉しか出て来ず……それでも! それでも絵柄が気に入ったこと、インコも猫も好きなことはお伝えしました。ポストカード2枚購入しました。とても良い記念でした。


 こちらは幾何学えかき「あまの」さんの作品です。これと同じ図柄の原板(かなり大きなキャンパスに描かれたもの)がありましたが、さすがにそれをお迎えしても飾る場所がないのでポストカードで購入した次第です。色彩的には結構目に刺さるヴィヴィッドな印象ですが、それが整然とした幾何学模様で描かれているので妙に整然としていて、右脳と左脳が一歩も引かずに押し合いへし合う……実に刺激的な体験をさせていただきました。すっごく良いと思います! これを見るために期間中何度か足を運ぶかも。


 そしてこちらはフジワラメグミさんによるハンドクラフトの小銭入れです。
 昔、小岩井農場で買ったホースレザーの小銭入れを愛用していたのですが、それを紛失してしまって……とりあえずダイソーのビニールレザーの小銭入れを利用していたものの、「いつか、ちゃんとした革の小銭入れをまた買おう」と思っていたところにコレですよ。本物の革ということだけではなく、工芸作家の手によるクラフトとあれば、これ以上の逸品はありません。白い革の小銭入れとコレと、どっちにしようか悩んだのですが……確かに見た目は白い革の方が綺麗だしさわやかだし惹かれるのですが……最後に決め手となったのは「手触り」でした。実際に触った時の感触という点ではこの茶色の革の小銭入れに勝るものはなく……普段使いとしてたくさん手にすることを考え、こちらをお迎えしました。過去のいつかは今日来たんです!

   *

 ま、そんなわけでアートに実用品にと、今回も色々お迎えしてしまいました……。
 他にもスニーカーや帽子に腕時計など、スカートコーデにもパンツルックにも合わせやすいユニセックスなものも購入したし、本当、買い物してばっかりです。でも、別に高級ブランドっていう訳じゃないですよ。スニーカーとかはGUで値下げされたものばかりだし。革の小銭入れだって、そんなに極端に高いものじゃないし。いつだって大切なのは気持ちです。
 そんなわけで、今日は良い一日でした。買い物をしなくても、色々と見て回ったり、作家の人とお話ししたり……とっても楽しいイベントです。1月9日まで開催中です! 誰が見るともしれませんが、とにかく告知しておきます!

拍手[0回]



 こんなお二方の本を並べて、今更何を書くつもりなのよと訝る向きもあろうかと思いましたが、特別にそんな意気込みがあるわけではありません。先日仙台市泉図書館に行った時に本棚を眺めていて、気になって手に取った本が矢川澄子さんの本であり澁澤龍彥さんの本だったのです(そしてもう1冊が稲垣足穂でした)。

   *

 最初に『「父の娘」たち―森茉莉とアナイス・ニン―』の感想を。こないだ矢川澄子さんの本は一段落って言ったばかりなんですけどね。
 そもそも私が最初に読んだ矢川澄子さんの本がベスト・エッセイ集だったので既読のものも多少ありましたが、本のサブタイトルにある通り森茉莉とアナイス・ニンという2名の女性に関するテーマのものを集中して読めたのは良かったと思います。以前ユリイカの矢川澄子特集でお名前を知った佐藤亜紀さんの文章も引用されていたし。それをまたこの場で引用することはしませんが。
 そして、今この記事を書いていて印象に残っているのは、これまた引用された室生犀星の文章でした。森茉莉さんの部屋の様子を見て「かなしみのあまりよく眠れなかった」と言った室生犀星に対して「やっぱり男性にはそのように見えるのでしょうね」と厳しく断罪(そうでもない)。それぞれ異なった捉え方をする二人のうち私がどちらに共感したかといえば、これは恐れながら室生犀星の方でした。
 この辺が……男性と女性の違いなのかなあ。どれほどアニマを育てても矢川澄子さんの本を読んでも心の奥から湧き上がる感情は男性原理に基づくものだということに気づきました。「ほら、やっぱりあなたは男じゃない」それはそうです。その通りです。でも、「だからあなたには理解できないのよ」といえば、そんなことはありません。確かに私の感情生活は男性原理に基づいたものですが、私にも女性の心に近しい要素があります。時流も男女間での齟齬を無くそうという風潮になっています。

 そのような風潮と素敵な出会いにより、ずっと押し込めていた私のアニマが解放され……それゆえに矢川澄子さんの本をたくさん読み、その空気を取り入れることができたのだと思います。

 読書中に1枚。私はこの格好をした自分のことをとても可愛いと思います。

   *

 という話をした後で、今度はまた男性に戻ります。『狐のだんぶくろ』の感想です。
 初めて澁澤龍彥というひとの本を読んだのは十代、高校生の頃なんですが、その頃大好きだったのが『玩物草紙』という……朝日ジャーナルの連載をまとめたエッセー集だったんですね。過去と現在を行き来しつつ気ままに筆を振るうっていう印象です。
 この『狐のだんぶくろ』も、まさにそんな感じですね。主に昭和初期、少年時代のことを中心に書いていて……澁澤さんより半世紀ほども遅く生まれた身としては、原風景というより歴史上の出来事に思いをはせるような気持ちで楽しく読みました。
 楽しく読みました、という以上の解説は特に必要ないんじゃないかな、という気がします。あえて言えば、私はこういう文章を書きたいと思って、ブログを始めたんじゃないかな……と言うことを思い出しました。あるいは新聞のコラムのような文章。当たり障りないけれど、読んだ人がクスッと笑ったりヘェーとうなずいたりしてくれる文章。
 でも、そういうのって150キロの快速球が投げられる人が書くからできるんですよね。巻末にある出口裕弘さんの言葉を読んで再認識しました。あくまでこれは「肩に力を入れない投法」で放った緩やかなスローボールであって、そういうボールしか投げられない人は無理なんです。……それでも、ようやく90キロくらいのボールが投げられるようになってきたかな……って気はしますが。

   *

 稲垣足穂、森茉莉、室生犀星、矢川澄子、澁澤龍彥……。
 何となく心に浮かんだ作家の名前を挙げ連ねてみましたが、理性と感情それぞれの分野で「そうだ!」「そうかな!」「そういうものか……」と胸に沁み込みました。言葉抜きで直接共感できることもあれば、言葉を通じて自分の心の中にも同じような要素があることに気づいてハッとしたり、共感はできなくても違いを理解して心を整理したり。
 感じ方は男女で違うかもしれませんが、私はその垣根を身軽に飛び越えて自分の心を育てていきたいです。発達障がいでも自閉スペクトラム症でも、私は私らしく生きるんです。

拍手[0回]



 さて、クリスマスも終わって、いよいよ年末年始モードも本格化するか……という今日この頃ですが、ちょっと心が温かくなる出来事があったので書きます。
 というのは、遠く北海道は函館から速達でお手紙が届いたんですね。差出人は、私の弟が函館の大学に通っていた頃懇意にしてもらった方で、毎年年賀状やクリスマスカードの交換をしているんですが……今年は色々あって忘れていました。これをもらって思い出したという感じです。

 素敵なプレゼントを頂きました。スーパーでコツコツ買い集めたチキンとかピザとかワインとかケーキとかでソロクリスマスを満喫しようと思っていたのですが、こうした心の温かくなるプレゼントを頂けて……本当に嬉しいです。
 私自身も学生の頃、新聞の「文通相手募集」のコーナーを見て遠く離れた女の子に手紙をだし、やり取りをかわしたことがあるくらい手紙好きなんですが、今年は文芸関係でも手紙の話について触れたことがありましたね。
「文体。」(三島由紀夫の手紙について)
「書本。」(森茉莉/早川茉莉さんの手紙について)
 何せ手紙というのは気持ちがこもります。さらに手元に置いといて、時々読み返すことができます。手に取れる形で相手の気持ちがあるというのは嬉しいものです。そうして相手が手に取って読むことを思うと、便箋や封筒それにペンの太さや書きつけるインクの色なんかにも気を配りたくなります。私の勝手な楽しみかもしれませんが、文房具店でアレコレ見て回るのも楽しいです。
 そういう人間なので、こないだ別な人に手紙を書きました。気持ちは目いっぱい込めましたが、あえてシンプルな横書き便箋と茶封筒で送りました。とにかく読んでもらえるように。……何だったら、読んでもらえなくてもいいんです。こうして手紙に書いて送る。勇気を出して手紙を出す。それだけで、ある意味こちらの行動は終わっているのですから。
 ……でも……読んでもらえたらいいなあ。私のヒーロー手帳(違)は無くなっちゃったけれど、気持ちはちゃんと書ききれたと思うので……。
 

拍手[0回]



 メリークリスマス。
 仙台市泉区にある七北田公園で開催されている「七北田公園イルミネーション&キャンドルナイト2023を見てきました。ちょっと早めに会場周辺について、しばらく図書館や周辺の百貨店で過ごしたりして、午後5時過ぎに出発です。

 こないだとは違うスカートです。より可愛らしいデザインだと思って、同じショップで買いました。……ええ、いよいよ私もスカートデビューしました。この格好で図書館も百貨店もイベントも行ってきました。そして手持ちのアイテムを駆使して「ひとり自撮り写真」にもチャレンジしてみました。そんな一日のことを振り返ってみたいと思います。

   *

 今年で7回目を迎える同イベントは敷地内にある「都市緑化ホール」をメイン会場とし、サンルームに植栽しているベンジャミンなどに電飾を施すほか多種類のキャンドルも灯し、白と橙の幻想を演出する……というイベントです。さらに3年前からは、コロナ禍で奮闘する医療従事者に感謝の意を表すべく、公園の敷地内をブルーライトアップするという演出も行われております。今回「行ってみようか」と思ったのは、そのあたりの主旨に賛同したためです。ギリギリ歩いて行けるし、疲れたら地下鉄で帰ってくることもできるしね。
 
 さあ、どうですかこの雰囲気! 残念ながら私のスマホの目をもってしてもその魅力をお伝えすることができないのですが、比較的マシな写真を選んでみました。あ、公式ホームページにはちゃんと綺麗に写った写真があるのでそれを参照してください。私は私で感想を書きますから。
 昨日見た光のページェントは『仙台カラー』の二つ名を持つ電球色で非常に暖かみのある色合いなんですが、これは真逆ですね。寒色系オブ寒色系。それが辺り一面を支配しているので、白黒+青……生命がすべて凍り付いた世界に放り込まれたような気分です。完全に夜の世界ですね。今までこれほど徹底的に青く神秘的な世界を見たことがなかったので、ろくな言葉が出てこなくて申し訳ありません。いやはや、これは素晴らしいと思います!

 あと、これも良く写っていますね。昨日の経験を踏まえて、光の反射具合とかも多少気にして写したので、みすみんサンも映えまくりです。みすみんサンならこういうのをメタバースの世界でやるんでしょうが、私はアナログハートなので……。

   *

 
 メイン会場『都市緑化ホール』の方に来ました。これまたすさまじい力の入り方ですね。気合いが違うんだな気合いが。シャンデリアがいくつもぶら下がった高級ホテルのロビーにも引けを取りません。中にはそれこそキラッキラがあふれかえった空間があり、そのオブジェの前に椅子が2脚か3脚ほど置かれておあつらえ向きの記念写真ブースがありましたが、ちょっと自撮りが難しそうなのでそこは見るだけにして……植物園コーナーに来ました。

 キャン! ド! ル!……ということで、キャンドルの温かい橙の光にきらめく風景を撮影しました。自然の光というのは目にも優しいし、何とも落ち着きますよね。

  *


 これがイベント会場で撮ったセルフポートレートです。
 鞄とかアウターとか、とにかくかさ上げして土台にできそうなものを全部積み重ねてその上にスマホを設置して、セルフタイマーで撮影しました。他の人の順番もあるのであまり取り直す暇はなく、これがパーフェクトであるとは思いませんが、割とよく頑張った方なんじゃないかなと。
 
 そして、璃奈ちゃんボードならぬ「みすみんボード」です。もちろん私は蘭茶みすみさんのことが大好きな一ファンであって、私がみすみんサンではないのですが、ついにこうして一緒に写ることができたのかな……と。これもいまだにメタバースの世界に踏み出すことができないアナログハートたる私の愛情表現です。みすみんサン大好きです!
 ちなみにこの日は服だけではなく、何やら可愛く見える? 女性向けのマスクを着用してお出かけしました。
 具体的には「独自に研究した角度が鼻を高く見せる」「フェイスラインを美しく見せる」などの意匠が盛り込まれているようです。確かにこれを着用している時は、私のアラ(特に、笑うと頬に皺が寄ってしまうところ)が隠され、随分と印象が変わりました。世辞にも可愛いというわけではないし、そういうのを目指しているわけではないのですが、ええ……随分、良くなりました。
 まあ、そうだとしても「眼」と「髪型」は男性の私のままなので、やっぱり自撮り写真を公開する時は璃奈ちゃんボードで行きたいと思います。表紙はこれから考えます。とりあえず今日はみすみんサンにヘルプして頂いたということで。

おまけ。これは屋外でフリースを着て、たすき掛けにショルダーバッグを下げている時に撮影したものなんですが、何となくスーツ&ネクタイにスカートを履いているように見えて、少々気に入っているのでこれも公開させていただきます。

   *

 と、こんな感じで素敵な一夜を過ごしてきました。
 タイトルの『クリスマス・シンデレラ』というのは、『ハロウィン・シンデレラ』の続きという意味を込めています。あの小説も元ネタは私自身が思っていたことと、ハロウィンの夜に衣装(光沢生地のセーラー服風ワンピース!)を着て公園でセルフポートレートを撮った時の顛末をほぼそのまま書いているので、今回が2回目です。私が一夜限りのシンデレラを演じてみた、っていうことですね。
 もっとも、2回目のシンデレラは魔法の力を借りて変身したわけではありません。すでに私は魔法を使わなくても自分で変身して表に出られるようになりました。これは私の普段着です。スカートでもパンツスタイルでもメンズコーデでもジェンダーレスファッションでも、私は着たい服を着て生きていきます。
 私のアニマを解き放つ勇気を与えてくれた――そして『在りたい私』というものを探す知恵を与えてくれたみすみんサンこと蘭茶みすみさんに、ありったけの愛を込めて花束を。
 
 メリークリスマス! みすみんサン!

拍手[0回]


メリークリスマス。
 今日は11月に帰天した叔母の四九日なのであんまり賑やかに騒ぐ気分ではないのですが、皆様におかれましては良いクリスマスを過ごしていただきたく、このような記事を書かせていただきます。
 何の記事かというと、ページェントですよページェント。冬の仙台を彩る『SENDAI光のページェント2023』のことです。昨日もちょこっと書きましたが、今日は他の写真も含めて大盛りで紹介したいと思います。
 
 どうですか! この人と車と電飾の数と言ったら! このブログにアップロードできる画像のサイズ制限が2MBなのでだいぶん抑えていますが、とにかく物凄い綺麗です! 
 別にフォトジェニックな写真を撮ろうという気はさらさらなかったのですが(そんなのはご立派なデジイチを構えた人たちやSNSに精通し「バエル写真」の何たるかを知悉している若い人たちに任せます)、とにかく自分が見て感動した景色を記録し伝えるために写真を撮ってきました。それが1枚目のコレです。一番町四丁目商店街の入り口辺りで、それまでの両サイドにあった建物が消え、パノラマ的に景色が広がって……。
 昨日稲垣足穂の本を一冊読了したからかもしれませんが、突然広い宇宙に放り出されたような、そんなきわめてロマンチックな感動が起こりました。去年は「憧れに初めて出会えた」感動がありましたが、今年はそんな天体嗜好症気味の感動があったのです。

 中央の欅並木エリアにはハート形の電飾など「どうぞSNSでたくさんいいねがつくような記念写真が撮ってください」的なオブジェクトがありましたが、そんな人だかりに私のような心の淋しい暗い人間がひとり並んだところで余計に淋しさが増すだけだし、そもそも誰も写真を撮ってくれないし……ということで車道越しに「そんなのがあるんだなあ」程度に眺め、要所要所で適当に数枚撮影しました。

 もちろん私が大好きな『蘭茶みすみ』さんとも一緒に写真を撮ってきました。別に機材があるわけでもなく、これを片手に持って一緒に写すという極めて原始的な方法で撮影したので「何枚か撮った中で、一番見られるもの」を出展させていただきます。これをフォトコンテストに出そうかな(しません)。仕事鞄にもプライベート鞄にも、出かける先には常にみすみんサンが一緒にいるのです。春夏秋冬全シーズン撮影したらいずれ一冊のフォトブックにしたいと思います。
 そんな感じで滞在15分程度でパーッと見て数枚の写真を撮って帰ってきたのですが、クリスマスの電飾は定禅寺通りだけじゃないんです。仙台駅構内「東西自由通路」から駅近くの商店街「ハピナ名掛丁」から「クリスロード」を経て「一番町商店街」にいたるまで、それぞれ趣向を凝らしたルミナリエや装飾が施されていました。そんな記録写真を一気に公開します。
 せーの、ドン!

 (♪ テーッテレッテーテレッテー)←例の正解ファンファーレ
 そんなわけで12月の夜の都会は右も左も電飾だらけです。皆様にとって、今日という日が素敵でありますように。

   *

 「ふぁーぜる・くりすます。御存じかな?」
 「知ッテマスヨ、ハラサン。
  Santa Claus ノコトデショウ」
 「今夜、私、ふぁーぜるくりすます!
  アハッ、アハッ、アハハハハ!」

 メリークリスマス、ミスターローレンス。

拍手[0回]




 既に100冊を超えてなお衰えない読書熱。今回泉図書館で手に取ったのは、今年2冊目の稲垣足穂です。この表紙の絵が素敵ですよね! 
 これは平凡社STANDARD BOOKSというシリーズです。「科学と文学、双方を横断する知性を持つ科学者・作家の珠玉の作品」を一作家一冊で収録したもので、「科学的視点」があることが特長とのこと。


「自然科学者が書いた随筆を読むと、頭が涼しくなります。科学と文学、科学と芸術を行き来しておもしろがる感性が、そこにはあります。」
(STANDARD BOOKS刊行に際して)


 これは私が先日寺田寅彦の随筆を読んだ時に感じたことです。その寺田寅彦がシリーズ第一冊目らしいので、まさに「そうかな!」と我が意を得る思いでした。まあ稲垣足穂という人は私のなかでは純文人であり、澁澤龍彥・三島由紀夫らと同じカテゴリの人なんですけどね。
 とはいえ稲垣足穂といえばテーマが天体とか飛行機とかSF的なものなので、最近ひたすら人間の内面、精神的な世界に向かっていた私にはとても新鮮でした。文字通り、開かれた世界へ向けられているわけですからね。キラキラと輝く夜空を、100年前の複葉機で空を飛ぶようなイメージを浮かべながら読みました。
 そして、その日の夜には定禅寺通りで開催されている『SENDAI光のページェント』を見てきました。

 おかげで今年のページェントは、去年とはまた違った意味で素敵でした。

   *

 もう少し本の内容について触れたいところですが、私は松岡正剛ではないので(今年3回目)あんまり詳しいことは書けません。本を読んで、そういえば前職の頃はコンビニも何もない代わりに星空が綺麗だったなあとか、お月様とかシャボンとか鉛筆とか身の回りにあるものを取り上げて、それを何でも幻想世界に浮かべてしまうんだなあとか。
 キネオラマなんですよね。
 いや、私は見たことが無いんですけど、私が想像するキネオラマって、そういう……星も月も天井から糸でぶら下げて、空を飛ぶ複葉機もぶら下げて、それに光を当ててキラキラ輝く仕掛けもの。作り物だけに情緒的で幻想的な世界。ゴミと利権で汚れ切った現実の宇宙とは違う……100年経っても古くならないし魅力も損なわれない、永遠の宇宙なんです。やっぱり、この辺の感覚が男性的なのかなあ。
 ちなみにこの「糸でぶら下げた複葉機」というのは原風景があります。
 私が通っていた小学校には鉄筋コンクリートの本校舎と木造の旧校舎が共存していて、その旧校舎の一番奥にある図工室に、そういうのがぶら下がっていたのです。日の丸のマークがついた複葉機なので、もしかしたら戦前からずっとそのままだったのかもしれません。あれから30年以上が経過し、今はもう私の記憶の中にしかありませんが、そういう原風景を強く思い起こさせてくれるような随筆集でした。
 それにしても、繰り返しになりますが、全然古くないんですよね。確かにポン彗星もステッドラー鉛筆の広告も目にすることはないし、今は当時の十倍も速い飛行機が飛ぶ時代なんですが、まったく古さを感じない。また、一読してすらすらと内容を理解できるかといえば、必ずしもそうではないのですが、それでもとりあえず読み通してみると先ほど申し上げたような「キラキラと輝く夜空を、100年前の複葉機で空を飛ぶ」イメージであり「キネオラマ」のイメージなんです。

  *

 そんなわけで、感じたことを一生懸命に書いてみました。私は松岡正剛じゃないので(本日2回目/今年通算4回目)こんなところでいいでしょう。「何だ、わけのわからないことばかり言いやがって」と泉下の稲垣足穂翁も苦い顔をしておられるかもしれませんが、下手な評論を書くよりは気持ちを素直に書く方が良いかなと思ったので。
 大体、稲垣足穂というひとは、わからなくていいと思うんです。三島由紀夫さんが澁澤龍彥さんとの対談で、こんなことをおっしゃっていました。

 三島「わからないでいいんじゃないですか。永久にわからないで。稲垣という作家がわかるということは、なんか気味の悪いことですよ。ほんとうはわかってはならぬことなんですからね。いちばんの、大神秘ということをいっちゃっているんですからね」


 大好きな三島さんがそうおっしゃっているので、私も安心して、わからないながらも感じたことを大切にしていきたいと思います。

拍手[0回]



 とりあえず私が持っているパンツとトップスで組み合わせただけなので、決して上等なものではありませんが、ともかくレディースファッションに身を固めて外出してきました。冬の仙台はとてつもなく寒いので、この上にはフルジップパーカーとコート(メンズ)を着ますが、建物の中などコートを脱げる場所ではこの格好で過ごしました。
 差し当たって、この日に行って来たのは仙台市泉図書館。こないだ借りてきた矢川澄子さんの本を返却しつつ、まだ読めていなかった一冊『水沢文具店』を読んだのです。
 
 これはとても素晴らしい物語でした! 良すぎて読んだ直後にこうしてノートに感想をメモしてきましたし、別な形でも感想を残しました。後ほどまとめてきちんと書きます。

 読書中に一枚撮ってみました。
 図書館にはみんな本を借りに来ていますからね。フロアの端っこにある閲覧席で本を読んでいる私のことなんて誰も気にしません。私もまた周りのことを気にせず一生懸命に本を読み、感想をノートに書くことができます。
 好きなだけ在りたい私でいられる空間。心と体をめいっぱい解放できる空間。私にとって図書館は、そういう場所なのかもしれません。それが嬉しかったので、こんな写真を交えつつ記録します。こんな感じで少しずつ心を慣らしていけば、きっと普段使いの外出着としてスカートや、もっと可愛い服を着用できるようになれるかな……。



 それでも私は自分が男性である(=トランスジェンダーにはなれない)ことを認知しているので、身内や職場にはこのことは言ってないし、男性の格好をして過ごす時間もたくさんあります。特にそうすることに苦痛を感じることはありませんが……男性女性の二元論で分かつことの出来ない……自我とアニマがアナログ的に混ざり合っているような心を持っているので、スカートだろうと背広だろうと、私は着たい服を着ます。
 生まれながらの性で生きるひと、それに違和感や苦痛を感じてトランスジェンダーになるひと。はたまたXジェンダーという言葉もあります(これが今の私に一番近いのかな)。いずれも私はその人の性自認を尊重します。
 そのうえで、私は別に自分の性を固定しようとは思いません。時に男性らしく時に女性らしく。アニマと手を携え共に生きる、ヘルマフロディトス的な…そしてアナログハートの持ち主なんです。

 アート・ブンゲイ・アナログハート!
 これでいい、これで……。

拍手[0回]



 今年に入ってから読んだ矢川澄子さんの本のまとめです。

04-07 『矢川澄子ベスト・エッセイ 妹たちへ』
10-28 『おにいちゃん 回想の澁澤龍彦』
11-07 『ユリイカ臨時増刊 矢川澄子 不滅の少女』
12-04 『いづくへか』
12-11 『兎とよばれた女』
12-13 『失われた庭』
12-15 『反少女の灰皿』
12-17 『受胎告知』

 これで本当に、矢川澄子さんは一段落かな。大体、手に入るような本は全て読めた気がします。もちろん何度だって読み返したくなったら読めばいいんですけど、兎年に矢川澄子さんの本をたくさん読んだというのは、良い記念になった気がします。
 もちろんただ「読んだ」という記録をもって満足するというわけではありません。矢川澄子さんの本を書いたものを通じて、トランスジェンダーの方とも少し違う私の性自認が全く私だけの独りよがりではないことに気づけたのは、発達障がい者の私にとって大きな心の成長につながりました。
 心の問題、性自認の問題というのは、私にとって最も重大なテーマです。まだまだきちんと整理しきれていない部分があります。ただ、以下の点については確信を得ています。

 ・私の心は男性原理で完全な女性(トランスジェンダー)になることはできない
 ・それでも心の中にある女性らしさ(アニマ)があり、それを大切にしたい
 ・お話を書く時に性転換して女性らしく生きることは不可能ではないしおかしなことはない

 ・私は私の中のアニマを隠さずに、手を携えて生きていきたい
 
 もとより肉体的な性別によらず人間の心は曖昧なものであり、社会通念上男女の区別がされたとしても、その人の性自認は肉体の性別によって決まるものではない。特に、それによって差別や中傷を受け、生きづらさや苦しみを感じるようなことは決して許されない。



 私自身元々そういう心を持っていたのですが、今年の3月以来、トランスジェンダーの人たちに対する理解と共感がものすごい勢いで高まっていました。その感情的な要素が、矢川澄子さんの文章をたくさん読むことで理性的にも強化され、いよいよ結実しようかというところまで来ました。
 アニマとの和解。ヘルマフロディトス願望。これまでも何度か「ジェンダーレスファッション」としてレディースパンツスタイルで外出することはありましたが(というか実は最近それがデフォルト)、このたびついにスカートとトップスを買いました。とにかく初めて着用したのでコーディネートも何もあったものじゃないのですが、記念として、そして『在りたい私』の形の証明として写真を公開することにします。
 といっても、先述したようにこの点についてはまだまだ固まっていません。まだこの格好で外出したことないし、なかなかそういう勇気もないし。あくまで最初の1枚です。
 これを一つの過程として、この後また別な形で自撮り写真公開するのか……やがてこの格好で街を歩き、お外で撮影した写真を公開するのか……それは今の時点ではわかりません。
 ただ、どんな形であれ、今の私はやりたいことがたくさんあります。たくさん出掛けたいし、たくさん会いたいし、たくさん楽しいことを経験したい。

 まだまだ生きていたいです。心からそう思います。あと、私はLGBTQの方たちとともに生きていく社会を望んでいます。私はどうしても当事者になることができませんが、可能な限り精神的に寄り添いたいと思っています。LGBTQとか性的マイノリティって言葉も死語になるくらい、当たり前にその人の『在りたい私』を認められるような社会が理想ですね。……そうならないにしても、私の気持ちは変わりませんが。

拍手[0回]




 矢川澄子『反少女の灰皿』『受胎告知』を読みました。
 今年に入ってから矢川澄子さんの本を次々と読み、そのたびに感想を書いているので、これについても感想を書かなければならないと思っているのですが、ちょっと感想を書くのが難しい……と言うのが感想です。
 なぜかというに、これは多分、私にとって相当奥深いところに眠っていた……個人的無意識の彼方に落ち込み、手を伸ばしても届かないようなところにあった記憶を呼び覚ますようなテーマだったからでしょう。それはもう20年も前に心の閉架書庫に放り込んで鍵をかけていた『アリス』の記憶です。
 それに加えてヘルマフロディトスへの強い憧れを持つ私の心にdeep resonanceする記述があって、きちんと正しく感想をまとめるには時間がかかりそうな気がするのです。なので今回はとりあえずこのタイミングで読んだ、ということだけを書いておきます。
 一緒に借りてきた『受胎告知』……これはどういう経緯で発売されたのかとか、あとがきも解説も紹介文もないのでわかりませんが、発売日が2022年11月30日……矢川澄子さんが自死された後に未発表の作品を収録して発売されたことだけはわかりました。作者の歿後に未発表の作品を発表されるのは、作者本人にとってはどんな気持ちなんだろうって思わないこともないですが、読んだ後に気づいたので……。

  *

 もう少し詳しく書いてみます。
 『反少女の灰皿』は1981年(私の生まれ年!)に刊行された矢川澄子さんのエッセイ集としては古い方ですね。これに収録された『不滅の少女』というタイトルのエッセーについて、以前別な機会に読み、今回感じたことを色々書いてしまったのですが、今回はきちんと本を一冊読んだのでね。改めて同じことを今の言葉で書きます。


わたしはそのような架空の男との対話をたえず頭の中でくりかえし、それによって力を得てきたのですし、……相手が異性だと思えばこそ、こちらの感じ考えたことをできるだけよくわかっていただこうとして精神が活撥に動き出すのが、自分でもありありとわかるのですから。
(「透明と聡明」 矢川澄子『反少女の灰皿』)


 矢川澄子さんのこういう感覚が私の心に重なる部分があるのですね。私も誰かに読んでもらうための物語を書くわけではなく、自分の心を整理するために書き出すためだとしても、こんな感じで書きます。何だったら私自身が心の中で性転換を試み、女性として振る舞っていました。私の心の中にあるアニマを解放し、私が自ら「アニマ」になり切るのは現実世界でもメタバースの世界でもなく文芸の世界なんです。


……「お話をかくひと」を夢みるとき、おかしなことにわたしは、無意識のうちにつねに女であることを忘れ、一個の人格として、男としてふるまっていた。この男は、少女の夢想のなかで次第に成長して、ついには架空の恋人役をも兼ねるにいたる。ルイス・キャロル=ドジスン教授にせよ、ポオのウィリアム・ウィルスンにせよ、ドッペルゲンガーはほとんど同性の相似のすがたであるが、わたしの場合はセラフィータなみに、両性具有の願望をもどうにかして叶えようとしていたものか。 
(「不滅の少女」 矢川澄子『反少女の灰皿』)


 果たして私が試みたアニマとの和解は両性具有の願望なのか。あるいは理想のヒロインを作り上げようと躍起になるピュグマリオン・コンプレックスなのか。ともかく事実として、矢川澄子さんとは逆に「男性が想像する女性」が一人称でモノローグを語る形式で、たくさん書きました。女性になり切った私が正直な感情をさらけ出し、それを受け止める男性がいる形式もあれば、別な女性(これもまた私が女性になり切って細かい心理的なアレコレを書き出している)との交流を描いたものもありますが。
 そんな2023年の私の気持ちをまとめたのが久々の短編です。投稿サイトに出してみたら気に入ってくれた人が一人いらっしゃったみたいで……私自身のことを認めてくれたみたいで、とっても嬉しいです……。
ハロウィン・シンデレラ ーpixivー
 失礼、これは余談でした。ともかくそういう部分で非常に共感してしまったということで、『反少女の灰皿』についての初読感想とさせていただきます。

   *

 一方の『受胎告知』の方は、矢川澄子さんの書いた小説のなかでは、ある意味では一番優しい世界観の作品でした。先に読んだ『兎とよばれた女』や『失われた庭』も素敵な世界観ではありますが、矢川澄子さんの私小説的な色合いが強いためか、
 「……と言っても、男性であるあなたにはわからないでしょうね」
 といって鼻先でぴしゃりと閉ざされてしまうような(気がした)場面が何度かありました。でも、これに収録された3篇の小説はそういったこともなく、ただただ素直に楽しめました。
 つまり「聖性」なんでしょうね。初めて矢川澄子さんの文章を読んだ時に感じたこと。何冊も読んで自分なりに矢川澄子さんの人物像が出来上がってきて、親しみを感じつつ「そうかなあ?」と澁谷かのんちゃん的に疑問を呈したりしていたところですが、また聖性に戻ってきたのかもしれません。
 以下、収録作品に関する簡単な感想を。

 『ファラダの首』……肉体の束縛を解き放たれた魂が自由に羽ばたき、時空を超えて語る短編です。別に難しい解釈は必要ないでしょう。読んで白馬とともに天を翔ける想像をして楽しめばよいと思います。ちなみにファラダというのはグリム童話『鵞鳥番の女』に出てくる馬の名前です。
 『受胎告知』……肉体的には血を分けた親子という関係でありながら精神的には対等に話し合い理解しあっていた父娘の物語です。自分の境遇や経験がどうであっても、それをもって幸せな人に恨みや妬みをぶつけたり「特別なひと」と差別するのはやめようと思いました。やればやるほど、みじめな気持ちになりそうなので……。誰がどうであれ、私が幸せかどうかは私が決めればいいんです。そして他の人が幸せなら、それを素直に認めればいいんです。いっしょに喜んで上げられればさらに良いと思いますが、それはなかなか難しいかなあ。
 『湧きいづるモノたち』……未発表作品。それまで前時代的な型枠の中に収められ均衡を保っていた親子関係が、父の死によってくずれ、そこに入り込んで来た外国人『デュモンさん』と新たな世界を歩き出す主人公の女性の物語です。あんまり難しく考えて詳しく感想を書くというよりは、何となく読後に胸がふくらんで「ふはふは」した。それでいいかなって気がします。

   *

 こんな感じで、2冊まとめて感想を書きました。『兎とよばれた女』『失われた庭』が矢川澄子さんの自伝的小説の裏表だとすると、この『反少女の灰皿』『受胎告知』も……形式は全然違いますが同じタイミングで読んだ大好きのカップリングとして……これはまた時間を置いて読みたいと思います。何度も読み返して自分のものにしたい。けれど今回は「読みました」という記録を残すために、簡単な感想を書きました。

拍手[0回]



 先に借りてまだ読んでいない本があったのですが、せっかく仙台市泉図書館に来たのだから何か借りていこうかと思い本棚をじっと眺めていたら……小説の方にもエッセーの方にも矢川澄子さんの本があって、3冊ばかり借りてきてしまいました。そして最初に読んだのが、この『失われた庭』でした。
 非常に面白かったです。正直、一晩経った現在でも上手に感想をまとめることが出来ないのですが、とにかく読後感を書いておきたいと思います。いずれまたユリイカの矢川澄子特集とかを再読して、ちゃんと固まったらまた書くとしてね。

   *

 タイトルにある失われた庭というのは、物語の主人公『F・G』が新人「女流画家」としてグループ展に出展した手造り本の画集『LOST・GARDEN』によります。これは「最近偶然発見されたある前世紀末の擬古典派的画家の遺作の紹介書」という体裁で制作されているのですが、そんな画家は実在せず、すべてF・Gにより創作された作品でした。これがとある美術評論家の目に留まり、めったに新人を褒めないとされていたその評論家がこれを大きく取り上げた……というのが、主人公とその周辺の人間関係を作る切っ掛けになったのですが、物語の大半はそういった人間関係というよりもF・Gと作品『LOST・GARDEN』そしてこの世に一冊しかないオリジナル版を渡した「受取り手」にまつわる話に割かれています。
 この受取り手というのは……私の勝手な想像ではありますが、たぶん明確にモデルがいます。『兎とよばれた女』とか、矢川澄子さんのエッセーで時々触れられていた実在の人物です。私もそのひとが大好きで、これまで読んで来た経験からすぐにあたりを付けました。そして読み進める中で「実際にこういうことがあったのだろうか」という感情と「いやいや、これはあくまで小説なんだから、事実を丸ごと書いているとは限らないよ」という理性が絶えず衝突を繰り返しました。
 そして矢川澄子さんの「同類」どころか「同性」ですらない私が読んでいくと「きっとあなたにはわからないでしょうね」と突き放されるような理性と、「わかりたい、私なりに感じ取りたい」と全力で向き合い寄り添おうとする感情の衝突も繰り返し起こりました。
 正直なところ「男性らしさ」とか「女性らしさ」とかって言葉も、怪しいものです。便宜的に、そう表現するのが一番適当と思われる場面であればそれもよろしいかと思いますが、肉体的には女性であったとしても矢川澄子さんと血を分けた姉や妹の間にさえ思想的な差異が生じていたようですし(これは今読んでいる『反少女の灰皿』によるものですが)、やはり究極的には個々のパーソナリティがあり、それを重んじなければならないと思いました。というか、もともとそういう思想があったのですが、それをさらに強力に推し進めることができたのかなって。

   *

 「女流のくせにですか」
 F・Gのことを褒めた美術評論家に対して、その助手はそんな風に言って懐疑的な目を向けます。それに対して――って、別に作中で面と向き合って言い放ったわけではないんですが、この「女流」という言葉に対するコダワリについて語っている場面があります。さすがに全部引用するわけにはいきませんが、要するに、

 具体的に言えば、少女F・Gは、自分の作品を「女流として」見てほしくなかったのだ。少くとも「男性並に」、ねがわくは「性別の彼岸で」、正しく評価されることを切に、切にのぞんでいたのだった。(『失われた庭』87ページ8-10)


 ということだったんです。そしてこういう考え方は、私自身10年くらい前からひそかに持っていた思想だったんです。
 といっても、別に男女同権とかフェミニズムとかそういう思想的なものではありません。そもそもどうしてそんな風に考えるようになったかといえば、その頃に読んだ『レーシング少女』という小説が切っ掛けだからです。これはミニバイクのレースで戦う少年少女の青春物語なのですが、主人公の女子高生レーサーが同じように悪意と偏見に満ちた目線に晒され憤慨する場面があって……それ以来、「男性も女性も関係ない」「同じステージに立って競っているのだから、同じように正しく結果を評価するべきなんだ」と信じるようになったのです。
 「性別の彼岸」というのは、とても良い言葉だと思います。ちょっと作品の感想とは外れてしまうのですが、特に強い印象を受けたので書かせて頂きました。

   *

 そんなわけで、激しい葛藤とその先にある「止揚」のステージを目指している現在進行形の私の心の中を告白させて頂きました。小説と随筆の中間、告白と創作の黄昏時みたいな作品でした。『兎とよばれた女』とセットで本棚に並べたいです。古本で買おうったって簡単にはいかないと思いますが、いつか巡り合えたら……。

拍手[0回]



 兎年の2023年に入って100冊目に読んだのは、矢川澄子『兎とよばれた女』でした。なお向こう側にある兎のぬいぐるみは先日秋保の杜佐々木美術館&人形館に行った時にお迎えしたものです。清水だいきちさんの作品です。
 多分これは、今まで読んで来た矢川澄子さんの作品のなかで一番、私の心に沁み込みました。活字を読んで想像するのが文学なので意識や思考のフィルターは透過しているのですが、大好きなアート作品を見た時のように心の奥底――プシケー(たましい)の領域にまで浸透した作品でした。そのために、一度読んで一晩経った程度ですべてを語り尽くせるとは思えませんが、これまで何度か矢川澄子さんの文章について書いてきた以上、これを内緒にしておくわけにはいかないと思うので……とりあえずメモしたことをもとに、今書けることを書きたいと思います。読了直後の新鮮な感想は、今しか書けないと思うので。そういうのをどんどん書いていくのが私のブログなので。

   *

 「できるだけかるく生きること」
 「人並みの幸福を追いもとめるのはやめようね」
 本を開いて僅か数ページ目で出て来たこの言葉を読んだ時、デジャヴュを感じました。矢川澄子さんのエッセーでも何度か出て来た、ある人物――矢川澄子さんが、かつて親しくし一緒に暮らしていたていた男性がしょっちゅう言っていた言葉として知っていたので、すぐに世界観に入り込むことができました。
 果たしてこれをそういう前提条件なしに読んだ人はどう思うのかな、なんてこともチラと考えましたが、私はあくまでも矢川澄子さん自身のことを先に知り、その上でそこから入ったのだから、そんなことを考えてみても仕方がないですよね。そういう前提で読むことは私の特権だし、取り消すことはできないし。
 なのでこれは自伝小説なんだろうな、と認識しました。自伝小説であり、自分の主張を訴える小説。小説であり思想書でありその中間にあるもの。……私はこれを「自分の感想」として書いています。実際にそうだとかそうじゃないとかっていう客観的評論は他の人に任せます。この先もそんな感じで書きます。
 
   *

 率直な感想<1>
 本の中で語られる「女性の気持ち」を読むほどに、あくまで私は男性なのだと認識しました。あなたには解らないでしょうねと言われれば、「本当のところ、私にはよく分らなかったとしかいいようがない」と澁澤龍彥さんの文章を引用して言わざるを得ません。どれほど「私の中の女性らしさ」と認識しても、それは私のアニマであって、それを同一化することはできません。私はどこまでも男性であり、アニマと共に手を携えて生きる人間なのです。それを改めて認識しました。
 率直な感想<2>
 文章はとても澄み切っています。特にエッセーという、私と同じ世界にいる矢川澄子さんが語る言葉ではなく、小説という別世界の登場人物が語る感情の言葉なので、その中では読者にすぎない私もまた声を出すことは固く禁じられ、息をして空気を震わせることさえためらわれるような世界のように感じられました。もちろん肉体の方では息しないと倒れちゃうから息はするけど、心の中に息をしなくてもいい私……それは肉体とは別な、より精神的な私……メタバースというデジタル的な世界でいえばそれを「アバター」というのでしょうが……を想像し、その子をリモートコントロールして、矢川澄子さんの文章の世界を探検するような読書体験でした。
 率直な感想<3>
 先ほど「心の奥底――プシケー(たましい)の領域にまで浸透した作品」であると書きましたが、改めてその点について書きます。ちょっと、メモした内容をそのまま引用してみます。


切ない? 悲しい? 優しい? 愛おしい? どんな言葉が適切なのかわからない。あるいは、これらの感情がカキマゼられて、ドロッドロのマーブル模様になっているのかな。ともかく「愛おしい」という感情が強いかな。読み返すこともあるだろうし、それがなかったとしても、手元に置いておきたい。『おにいちゃん』とこの本を並べて置いておきたい。本そのものに対する愛おしさが溢れてやまない。
(私の読書メモより)


 感じたことをダイレクトにさらけ出すのも気恥しいのですが、これ以上、自分の気持ちを適切に表現する言葉が見つからないので、そのまま引用しました。そして、ここに至るまでの道のりを、「電燈と案内板のある兎穴」というふうに表現していました。つまり観光洞窟みたいに坑内支保とラムプそれに地図まで用意されていて、ある程度の道のりを知っている状態で探検するような読書体験。既にそうやって知識があるから、余計なことを考えずアリスのように兎穴の奥底にある世界に飛び降りて、世界観に浸ることができたのでしょうね。このタイミングで読むのも必然だったのかな。そう思った方が良いのでそういうことにします。
 なお、私の読書メモの最後は、こんな言葉で締めくくられていました。

 兎穴の奥の世界には、一羽の兎がいました。兎は怯えているようでした。でも、生きることをあきらめていなかったから、私にお話を聞かせてくれました。私は幸せでした。



   *

 今年は兎年ということもあって、年初から兎に関する写真を撮ったりしていましたが、12月に入って兎アートを見て兎のぬいぐるみをお迎えして『兎とよばれた女』を読む……と、間に合わせたように兎尽くしですね。巷間ではもう来年の干支のことばかり話していて、兎のことなんて12年後まで忘れられてしまうでしょうが、私はギリギリ間に合って良かったです。これは本の感想とは関係ない余談ですが。
 それでは皆様良いお年を!(まだまだ年内更新します)

拍手[0回]



 風邪をひきました。睡眠時無呼吸症候群なので口呼吸して口の中が渇いて夜中に目が覚めることがあるのですが、先日は口どころか喉の方までカラカラに干上がってゴホンゴホンと咳が出る有様でした。そのあと頭が重たかったり熱っぽかったりと体調不良に苦しめられる有様です。
 やはり20代の頃のようにはいきません。かつては多少体調が悪くても「こんなところで休んじゃいられない」「頑張らなくちゃ」と思って仕事とか日常生活を押し通していたら、そのうち風邪の方があきれてどこかに行っちゃうという強引な方式で切り抜けていたのですが……だんだんそういう無理が通らなくなってきたような気がします。
 これを衰えたというのか。確かにその通りですが、いつまでも若いつもりでいようというのが四諦八苦の真理に逆らうものです。無理が利かないならそれなりに健康に気を遣って、一日一日を良い日にしていきたいと思います。20代の頃と40代の頃で色々違うのは当たり前なのです。
 このところは神経症めいたことばかり書いていましたが、今日はちょっと力を抜いて、日記めいたことを書いてみたいと思います。


 えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。(梶井基次郎 『檸檬』)


 そんな状況なので昨日は帰ってきて着替えてすぐに寝てしまいました。年間350日以上飲酒する私ではありますが、さすがに酒を飲む気にはなれませんでした。入浴することさえままならず、菓子パンだけ食べて就寝。もはやどうしようもありません。
 それでも今日は休日で、出かける用事もあり、こうしてブログを書きながら「……」ちょっと気になったので、ちゃんとシャワーを使いました。そうしたところ気力が回復して、この記事の内容もいくらか明るいものとなりました。さらにこの後、いつも通り朝ごはんも食べたし。体力的にもまずまず回復してきました。
 天気は悪いんですが、元気出していきましょう。エーザイ。

 7:41 追記:日記の公開順序が前後してしまいましたが、「出かける用事」というのはチフリグリさんにカレンダーを買いに行くことでした。今日はこれから仕事です。がんばります!

拍手[0回]



 昨日は朝から雨ふりで、なおかつ体調もちょっと良くないという有様でしたが、イベントに行ける日にちは今日しかなかったので、宮城野区五輪の「ギャラリーチフリグリ」に行ってきました。このように雨でみすぼらしい感じになっていますが、来年2024年のカレンダーを買ってきたのです。

  *

 シフト勤務の仕事を始めてから十数年来、1か月の勤務表をそのまま壁に貼り付けてカレンダー代わりにしてましたからね。そのシフト表だってころころ変わるし、予定も組みようがありません。大体スマホなりパソコンなり、そういったもので見たい時には見られるし。
 と、初っ端からカレンダー不要論を書いてどうするんだと憤慨される向きもあろうかと思いますが、それでも毎年何かしらカレンダーは買っています。それは1年をお気に入りの人物とかアニメとか車とかオートバイとか犬とか猫とか……まあ何でもいいんですが、いわゆるお気に入りと一緒に過ごすためのアイテムだからです。よく、言い訳程度に小さな文字で2か月分の数字が印刷された代物がありますが、まあそんな感じです。
 最初にそういうものを意識したのは、私の兄が自分の部屋に『魔法騎士レイアース』のカレンダーを飾っていたのを見た時でした。当時中学生で可愛い女の子の漫画やアニメが大好きだったので、私もと言って翌96年の卓上カレンダーを購入。原作版とアニメ版の違いこそありましたが、色々辛いことがあっても『レイアース』のキャラクターのおかげで乗り切ることができました。
 ある年には、部屋に3種もカレンダーを飾っていました。「尾崎豊」「奥菜恵」「夏目雅子」……ちょうどこの頃キヤノンのCMで夏目雅子さんの写真が使われ、写真集なんかも復刊されて、ちょっとしたブームがあったのですが、その勢いで買っちゃいました。要するに月替わりのポスターを買って1年を過ごしたということですね。
 そのあとは『カードキャプターさくら』に『きらりん☆レボリューション』など、アニメなカレンダーを貼って1年をワクドキしながら過ごしていました。それから時は流れて、オートバイの免許を取ってからはカワサキの公式カレンダーを購入。今は移籍してしまいましたがジョナサン・レイ選手の勇姿を眺めながら辛い時期を乗り越えてきました。
 今年は実際に予定を書き込んでいつでもパッと見られるようにしておきたかったので、ダイソーで購入したものを使っていたのですが、2024年はコダワリの1枚を! ということで……って、えらく前置きが長くなってしまいましたが、ここから本題です。

   *

 

 今日並べられていたのはこれら4作品。宮城の銘品『白石和紙』を貼り付けたもの、神奈川の版画家が作成したイラストをあしらったもの、さらに福島のアマチュアデザイン集団『しろくまクリエイターギルド』の皆さんが作ったもの、そしてチフリグリと同じ建物にある駄菓子屋さんの店主(2018年閉店。なおこちらの方は、チフリグリを経営する方のお兄さまでもあるそうです!)が作った万年カレンダー。
 『しろくまクリエイターギルド』の皆さんが作ったものは、色相図の順番に従って異なるクリエイターが月ごとに描いた絵をつづったもので、1枚ごとに全く違った作風の絵が続きます。中には、本来の主役であるはずの日付が絵の一部として幾何学的なカーブを描いていて読みづらいことこの上ない(=実に面白い)のもあったりして楽しかったです。
 また、駄菓子屋さんの店主が作った万年カレンダーは……いわゆる日付が入っていないタイプのものなんですが、月すら書いていなくて、「春」「夏」「秋」「冬」「暑くなってきた」「寒くなってきた」と非常~に曖昧なものです。見る人の気分でめくればいいって感じでしょうか。とてものどかな感じです。
 そんななかで、私がセレクトしたこちらの作品はずいぶんとスタンダードな作品なのかもしれません。こちらの作者の方は、かつてチフリグリの方が事務方として手伝っていた美術家の方で、現在は目白山(神奈川県藤沢市)で銅版画と切り紙イラストレーションを製作されているそうなのですが……こういった素敵な絵柄が12か月、月替わりで楽しめます。
 ただ、これはお話を聞いて気づいたことなんですが……
 
 ちょ、先生! 何で作品のところに穴開けちゃってるんですか! 穴開けるなら開けるなりに、もう少し余白を多めに取るとか、そうすればよかったのに!……とかってお話で盛り上がっちゃって、楽しかったです。

   *

 なかなか自分から話を切り出すことが苦手な私ですが、今回も色々と楽しくお話をさせて頂きました。
 「こないだ来ましたよ~」ということをアピールするためにわざわざブクハンで買ったトートバッグを持っていったのですが、その前、初めて来た時(アンデパンダン展)のことも覚えて下さっていて、それがとても嬉しかったです。実は今回来たのも、もちろんカレンダーを買いに来たっていうのもあるのですが、やっぱり顔を覚えてもらいたかったというのがあるので……こうして私も少しずつ、仙台のお店やギャラリーに顔なじみが出来てきました……私なんかのことを覚えてくれて、本当に嬉しいです……。

 そして今回、次のイベントの案内チラシを頂きました。今回こちらのイベントに出展される作家の方も別な用事があって来ていました。その方もまじえてお話をさせて頂いたのですが……うん、このイベントも面白そうです。今回こうしてお会いして、お話を伺って、よりいっそう行きたくなりました。あくまで私のタイミングではありますが、行った時に再会できればいいなあ。

 以上、とりとめもないことを楽しさ任せで書いてしまいました。思い詰めてどうしようもなくなって書き出す時だけじゃないんですね、こんなに言葉が山ほどあふれかえっちゃうのって。来年も良い年でありますように。


 追記:

 写真を振り返っていて「あ、これもあった!」と思い出したので慌ててアップロードします。先ほどご紹介した福島のアマチュアデザイン集団『しろくまクリエイターギルド』こと『しろくまデザイン研究室』のキャラクター「真素白玖(ましろ・はく)」です。チフリグリの方も「えーと、こういうの……なんていうんでしたっけ?」と困惑してしまうくらいなので私も明確にどういう位置づけのキャラクターなのかわかりませんが、とにかく可愛いので真っ先に写真を撮ってしまいました。やっぱり時代はアクリルスタンドか~! そりゃ撮るよね~!

拍手[0回]



 前回「内田百閒の本を借りて来た」という話をした時は、私のなかでも若干の気負いがありました。何と言っても内田百閒です。文豪漱石の門下生です。同じ漱石門下の寺田寅彦の文章は物理学者らしく正確かつ精緻な文章で、とても硬質な印象を受けました。その下地の上に文人趣味と優しいお人柄を感じ取ることができて、心の中に一陣の涼風が吹き抜けるような印象を受けました。土方歳三さんが入ってきた時の印象を「入室伹清風」という言葉で表した榎本武揚氏が感じたのも、こういうことなのかな、なんてね。
 さあ今度は内田百聞だと意気込んで読んだところ、そんな自分の気負いっぷりが恥ずかしくなるくらいスチャラカな紀行文でした。大体にして作者がこんなことを言っているのだから、ネームバリューに目がくらんでおずおずと本を開いた私みたいな人類はひたすら恥じ入るしかありません。

……汽車が走ったから遠くまで行き著き、又こっちへ走ったから、それに乗っていた私が帰って来ただけの事で、面白い話の種なんかない。……抑(そもそ)も、話が面白いなぞと云ふのが余計な事であって、何でもないに越した事はない。……今のところ私は、差し当たつて外に用事はない。ゆっくりしてゐるから、ゆっくり話す。読者の方が忙しいか、忙しくないか、それは私の知つた事ではない。
(『第二阿房列車』内「春光山陽特別阿房列車」より)

 内容はといえば、内田百聞とお供のヒマラヤ某氏が列車に乗り、飲食し、世の中のボイやほかの乗客や目に入るものすべてにぼやく。そういうことになります。気負いも何も必要ありません。酒と煙草とお弁当があればよろしいのです。それさえあれば一等車のコムパアトだろうと喫煙室だろうと飲食をし no smoking in bed.という標識のある寝台だろうと乱暴な解釈判断をして喫煙するなど、手前勝手で天下御免の内田百聞がまかり通るのです。
 なんて随分と意地悪な書き方をしてみましたが、もちろんこれは「そういう時代」の話ですから、読む方は読む方で勝手に楽しめばよろしい。大体にして書いている人があんな風に言っているんだから、こっちだって居住まいを正してサア読むぞと意気込むこともないし、義憤に駆られて悪行の数々をSNS等で書きだす必要もありません。すればするほど自分は莫迦だと宣伝してまわるようなものです。
 そんな感じで、まさに東京から博多に驀進する汽車のごとく一気に読み進めてしまいました。色々と凝り固まった心を物凄い力でもみほぐされて、何となく軽くなった気がします。同じ漱石門下とはいえ物理学者と純文学者では洋食と和食ほどの違いがあるので、それぞれの味わいを楽しめばよいですよね。そういえば内田百聞の随筆の読後感は、いくらか和食的というか、見た目の優雅さよりもガツガツと食べて口中調味してああ美味しかったなあというアノ感覚に近いですね。対して寺田寅彦は見た目を観察し、一口ずつ食べて食感とか味の変化をゆっくり楽しむ……いわゆる洋食の食べ方ですね。そうか、寺田寅彦は洋の人で内田百聞は和の人なんだ。
 なんて、私も随分と荒っぽい読後感を述べてしまいましたが、まあ、それほど深い感想を述べても仕方がないし、こんなものに対して分析めいたことをするのも野暮というものでしょう。本を読んで旅をしている気分になれれば、それでいいんじゃないでしょうか。私はなれました。ただ、傍目に見ている分には面白いけど、こういう人が近くにいたら私は嫌だなと思いました。すでに内田百聞は幽冥境を異にしているし、昨今の窮屈で清潔な時代では、こんな人間が湧いて出ることはないと思いますが。
 むしろこの本は、時々読み返したり思い出したりして、何度も何度も楽しむのがいいんじゃないでしょうか。一回読んで一回感想を書いてコレデオシマイじゃもったいない気がします。それを「深さ」という言葉で表現すると少々安っぽくなってしまい恐縮ですが、そういう随筆なのかもしれませんね。
 良いと思います!

   *

 ひとまず内田百聞『第二阿房列車』のお話は終わりましたが、ちょっと思い出したことがあったので備忘録をさせていただきます。
 ネームバリューに目がくらんで、サア読むぞと構えて本を開いたら拍子抜けした……という体験は、遠藤周作の本を初めて読んだ時にもありました。というか、その時のことを思い出しました。そのあたりのことは今から10年前の記事にまとめてあります。

 狐狸庵先生! - 2013年11月3日

 それから9年も経ってようやく『沈黙』を読み、ようやく「純文学作家・遠藤周作」の作品に触れたというのですから、きっと内田百聞も純文学の世界ではまた違った雰囲気があるのでしょう。まあこれはこれで十分に面白がったので、いずれ小説の方も読んでみたいと思います。5年後になるか10年後になるか、はたまたその機会は永久に失われることになるのか、それはわかりませんが。

拍手[0回]


~今日は、朝起きてふと思ったこと書きつけるだけの記事となります~
 これでも23年ほどホームページ運営というのをやっています。しかも一般的な内容のものとビデオゲームに特化したものの2種類で、そのうちゲーム系HPの方は今年で開設20周年を迎えました。

The Place of the Video games

 ただ、こんなサイトを運営していて何なんですが、最近は本当にゲームそのものをやらなくなりました。せいぜいスマートフォンで遊ぶ『ポケモンGO』とか『どうぶつの森ポケットキャンプ』とか、位置情報と他者との交流をもって遊ぶゲーム暗いですね。PS4とかメガドライブミニとかはあるんですが、全然やらない。……ただしそれは、大好きすぎていったんやり始めると寝食を忘れて没頭してしまうので、それが怖くてやらないだけで、ゲームそのものに興味がなくなったわけではありません。特にメガドライブミニは危険ですね。既にもう何十時間も遊んでしまったので。
 それに今のゲームセンターに行ってもプライズゲームばかりで、それも技術より資金力で景品を獲得できる「抽選機」ばかりですから、私がアレコレと蘊蓄を語る余地がありません。そうすると文章として書きたいゲームーー私が実際にプレイして大好きだったゲームに関しては概ね書き尽くしてしまった、という感はあります。元々書きたいことを書いていたので、無理して題材を探して書かなきゃなんていうのは本末転倒です。
 何よりも今はデジタル的なコンテンツが進化充実して、ゲーム関係なら実況しながらプレイ動画を垂れ流すのが主流ですからね。どれほど画像をキャプチャして文章を書き連ねたところで、しゃべりながら実際のゲーム動画を見せるコンテンツにはかないません。
 私がHPを始めた頃に相互リンク(この言葉も最近聞きませんね)をしていただいていた方や、私自身が楽しく読んでいた先達のホームページはずいぶんと消えてしまいました。Infoseekとかジオシティーズみたいに、提供元がサービス終了してしまったこともあり、随分と淋しい状況になってしまいました。
 だからといって一部のサイトがやっているように、クラウドファンディングを募って維持存続させようという気もありません。
 もう役割を終えて誰も見ないかもしれませんが、特にやめなくちゃいけない差し迫った事情もないのなら、続けていこうと思います。そして続けるからには、年に1度でも2度でもいいから、何かしら新しいことをしていきたいと思います。

 これで終わりにするか? また続けるか?
 その決定権は私にあります。
 まだです、まだ終わりません!

CONTINUE
09
■YES NO

    *

ということを思ったので書いてみました。せっかくなので20周年の御挨拶として今年2回目のホームページ更新をしました。
 どんなことでも言葉にして伝える。それが伝わるか伝わらないかは私の筆力とかタイミングとか色々あると思うのですが、最低限、私が読み返して楽しめればいいんです。

 (てんとう虫コミックス12巻 「ベロ相うらない大当たり!」より)
 私はSNSとか動画投稿とか文章以外の方法でチャレンジして失敗して不幸な出来事もあって打ちひしがれてまた文章の世界に戻って来た人間なのですが、本当に……本当にちょっぴりだけなんですが……この元高さんの気持ちがわかりました。門眞妙さんのこととか、アンデパンダン展のこととか、美術関係の文章に関しては、自分でも割とよく書けたなという気がします。かえって誰かに読ませるのを意識せず、自由に書いたのが良かったのかもしれませんね。
 そして今この記事を書くため「変ドラ」さんのHPを参照しこの話を振り返ったところ、色々込み上げて涙ぐんでしまいました。年齢的にもドラのびから元高さんサイドに近づいたしなあ。本当に良い話です。
 うん、やっぱり私は文章で頑張ってみます。仕事をしながらアマチュアで文章を書き続けます。いつか自分で本を綴じて世の中に出せるように……。

拍手[0回]


佐々木美術館&人形館で体験したことを書いたら1万字を軽く超える分量になってしまいました(1日がかりで思い切り書きまくり、ある程度区切りながら公開しています)。書く方はいったん書いてしまえばそれでいいんですが、映画も言語も短縮短縮でタイパなんて言葉が横行する世の中にあって誰が読むんだろう。まあ確かにそんな気はします。
 ただ、私自身がきちんと感じたことを正確に遺すための文章ですからね。直感的に発言して直感的にいいねをもらうのも楽しいんですが、そんなのを繰り返していたら心も体も疲れちゃいます。それに、ひとつのことに対して深く深く深く潜れ八犬伝2001とばかりにこだわってしまうので、そんなに次々食べられないんです。
 ま、自分としては大事なことをちゃんと書ききれたかな、とは思います。ペロンミさんの個展のこととか、まだまだ書きたいことはたくさんありますが、みひろさんの個展みたいに2回目で大きな爆発が起こり一気に書きつけるようなことがあるかもしれないし。今はとりあえず、心の中で準備をするにとどめておくことにしましょう。
 今日は軽めの話をしたいと思います。軽めの話というか、日常的な話。

  *

 どうやら私という人間はいよいよ本そのものが好きになってきたみたいで、図書館で本を借りて帰ってくる時、妙に心がときめいてしまうのですね。これまでに読んだ本は98冊。別に1年100冊という数字的な目標を決めているわけではないし私は松岡正剛ではないので100冊だろうと1000冊だろうと何でもいいんですが、結果的にそうなりました。そうなると「100冊目に読む本は……」とか、「今年最後に読む本は……」とかって意識もしてしまいます。
 読むペースなんかもあるので、今年最後に読む本が何になるかはわかりませんが、とりあえず99冊目に読む本は内田百閒の『第二阿房列車』とすることにしました。
 内田百閒。こちらも今まで読んだことのない作家です。名前はもちろん知っていますが、現代文の時間に「国語便覧」でチラッとプロフィールを知り、黒澤明の遺作がこの人の映画だったなとWikipediaで見て知った……その程度の知識です。大体今こうして記事を書いている時百「閒」という文字を「聞」と見間違え、内田百聞内田百聞と書いていました。「百聞は一見にしかず」という言葉に引きずられた……という言い訳はありますが、人の名前を間違えるとはとんでもない奴です。六代目松鶴師匠じゃなくても激怒すること必至です(笑福亭鶴光 - Wikipedia)。
 その程度の知識しかないのに何で急に読もうというのか。ははあ、こないだ同じ漱石門下の寺田寅彦の随筆を読んだから今度は内田百閒を読もうって肚だな……ええ、それは確かにあります。あとは、最近再開したmixiで仲良くして頂いている方がおすすめしていた本だからです。その記事を読むと、なんだかとても面白そうだったので、素直に読みたいなと。このところ結構重たい本ばかり読んで重たいことを書いていたし。本来矢川澄子さんの随筆はもっと軽い気持ちで読むべきものなのかもしれませんが。

 ちなみに私が借りてきたのは、現在もっとも手に入りやすい新字新仮名遣いの新潮文庫版ではなく(それは他の人に借りられていた)、1979年初版の『旺文社文庫』というものに収録された旧字旧仮名遣いのオリジナル版です。好むと好まざるとにかかわらず「これしかないから」という理由で借りてきたのです。これまた仙台市泉図書館の閉架書庫に眠っていたものを無理やり引っ張り出してもらって借りてきました。仙台は市営図書館がいくつもあるので、検索すれば大概の本は見つかるのです。
 なんて、まだ読んでもいないのに、無駄に長い文章を書いてしまいましたね……。さあ、これから読んでいきます。そして100冊目に読む予定の本は再び矢川澄子さんの『兎とよばれた女』です。兎年を締めくくるのはやはりこれでしょう。まあ別に100冊読んだらコレデオシマイというわけではないのですが。いっしょに借りて来たボルヘスとか読む予定ですし。
 
   *

 仙台は冬の最大イベント『SENDAI光のページェント』も開幕し、いよいよ年の瀬感が強くなってきました。同時にインフルエンザの流行も強くなってきました。私の職場でも次々と罹患者が出て大変です。皆様もお体には気を付けてください。それではまた。

拍手[0回]




 これも11月15日に佐々木美術館&人形館を訪れた時の話なのですが、2階ではまた違った展示がありました。具体的な告知がなかったので、ぼんやり眺めて「ああ、よかったなあ」と言って帰ってきてしまいましたが、今調べてみるとコレだったのかな。

夜の美術館 2023/

 うん、そんな気がします。ひとつは映像作家・菊池士英さんとサウンドプロデューサー Ikuko
Morozumiさんとのコラボレーション作品で、佐々木正芳さんの作品が音楽とともに動き出すという一風変わった作品です。実に心地いい作品でした。
 そしてもうひとつも、ちゃんと書いていましたね。「東北生活文化大学高等学校映像研究部」の皆さんが制作したショートフィルムが数篇、リピート再生されていました。今日はこのうち、タイトルにもあるようにショートフィルムについての話をします。

   *

 高校時代は既に前世紀のことであり、むしろ自分の息子や娘がいてもおかしくない年齢でありながら独身者(離婚者)ですからね。それこそこういう機会でもないと見られない作品だし、私の弟者も学生の頃同じようなことをやっていたし。
 「さて、どんなもんだろうね」
 といって、すべての作品をしっかり見ました。そうしたところストーリィも作り込みも素晴らしくて、ただただ素直に楽しかったのです。その感想についてメモしていたので、それと会場でもらったテキストをベースに、この場でお伝えしたいと思います。瓶詰にして海に流すか風船につけて飛ばした方がまだ伝わる可能性が高い気もしますが(こないだの鉄腕DASHみたいに)、とにかく書きます。




 【消しゴムの回想】
 あらすじ:消しゴムとして生まれた主人公が自我を持ち、ある女の子に恋をする。友達の虎の消しゴムから、どうやらそれが自分の持ち主だということを知り、拾ってもらう日を待つが、最終的にたどり着いた真実は……。

 ちょうどこれが流れている途中で見始めたので1.5回分くらい見たのですが、最初からなかなか面白かったんですよね。主人公は消しゴムなので、別に立って歩いたりするわけじゃないのですが、自我があるから同じ消しゴム同士で会話をするし、誰かを好きになったりもするんです。ファンタジー、とは少し違うかもしれませんが、そういうところから出発するのが面白いなと思いました。エンドロールのNG集もなかなかシャレていますね。こういうの、あんまり最近は見なくなったなあ……。

 【かみひこうき】
 あらすじ:高校1年生の女の子「翼」は、紙に日時を書いて飛行機にして飛ばすと、その日にまた受け取ることができるという不思議なスキルを持っていた。親友の凛から英語のテストがあることを知らされ、その能力を生かしてテストを乗り切ろうとする……。

 ということは配布されたプリントに書いている概要なんですが、それを読まずにいきなり映画を見始めたものだから、いちいち感情を動かされました。そもそも翼は提出しなくちゃいけないプリントをいきなり紙飛行機にして窓から彼方に飛ばしちゃうような女の子なので、とりあえず何が起こってもすべてを受け入れよう! と思って……何か起こるたびに「さて、どうする?」とニュートラルな気持ちで見守っていました。たとい英語のテストでその特殊能力を使おうとしている翼を見て、「そんなことしていいの……?」と心配しながらも、「翼がどんな決断をしようと、どんな道を進もうと、私は見届けよう」と覚悟を決めて見ていたら……最後は未来に希望をつなぐ、何だかホッとするような、明るいエンディングでした。とても気持ちの良い物語だと思います。

 【ななし】 
 あらすじ:ななし様が何なのか知りたいの? それじゃあ教えてあげる。ななし様っていうのは、人々が何とかって願い事をかなえてもらうためにささげたいけにえに取り付くの。いけにえに選ばれた人に取り付くと自由に動けるんだけど、いけにえの身体がもうもたないって時には、ななし様がそのいけにえを食べ尽くして、新しい身体を探し求めるんだって。それがいつ、どこで選ばれるのかは……ねえ?

 奇妙な都市伝説を語る親友。そして主人公の女の子に襲い掛かる恐怖。こんなふうに、映像作品を見て怖いと思ったのは、すごく久しぶりな気がします。やっぱり私が「怖い」って思うのは東洋的な……要するに正体のつかめない、何だかわからないものにドンドン追い詰められていく過程なんでしょうね。あんまり残虐描写にこだわったものよりは、こういう薄気味悪い展開の方が怖いです。なお、この映画に関しては、私の言葉であらすじを書いてみました。
 
 【ライアードリンク】
 あらすじ:「オレ昨日100万円拾ったんだ」とかって、いつも嘘ばっかりついて面白がっているウソノは謎の男性から「ライアードリンク」っていうヘンな薬を渡される。それを飲むと、自分がついた嘘が全部本当になるっていう触れ込みだが、果たして……
 
 話した嘘が全部本当になるというとドラえもんみたいな話だけど、実際にそうなると結構怖いなと思いました。言葉通り「どんなことでも本当になる」とすれば、嘘をつきたくてもつけなくなっちゃうし、結果的に望まないことになっちゃうかもしれない。だから私は……もし、そういうのがあったとしても、いらないかなあ……って思いました。なんていうふうに、「もしも自分がウソノの立場だったら?」って目線でドキドキしながら最後まで持続できたのが良かったです。その終わり方もまた上手な……本当、世にも奇妙な物語みたいな終わり方で。これは良かったです!
 なお、この話は会場でもらったプリントに載っていませんでした。もしかしたら、そんな映画があったって話も、嘘だったのかもしれません。なんてね。

 【紙飛行機の少女】
 あらすじ:ある日、登校中に紙飛行機を拾ったユウタ。彼はそれが、友達の神木がいつも飛ばしていることを知っていて、尋ねてみる。「お前どうして、いつも紙飛行機飛ばしているの?」それに対する神木の答えは……。

 これは本当に真っ当な、さわやかな青春物語って感じですね。夢はあるけど実現のための一歩が踏み出せない神木と、そもそも自分の夢さえ見えず悶々としているユウタ。ただ、そんな友達同士の会話の中で歯車が動き出し、二人が新たなステージに向けて動き出す……うん、本当にまっすぐで素敵な物語です。あと、ユウタは美術部なんですが、白い画布に自分の思いをすべて描きつけるひとは良いなあ、って思いました。どんなものでも、自分の気持ち次第でどのようにでも表現できるんですからね。そう、どのような夢でも自分の気持ち次第なんです……。




 ……そんな感じでしょうか。最後に、総合的な感想を書きます。
 年齢的には本来であれば映画の中の彼ら彼女ら自身ではなくそれを見守る親目線だったり先生目線だったりするべきなのでしょうが、発達が一般の人たちよりもゆるやかな私は限りなく高校生の目線、高校生になった気分で見ていました。いわば、私の高校時代をもう一度やり直すような体験を、東北生活文化大学高等学校映像研究部の皆さんのおかげで、することができました。当時はこんなにさわやかで真っ当な青春を送ることができなかったので、それを取り戻すことができて本当に楽しかったです。
 それにしても、どれも本当に素晴らしい作品でした。私は写真の人間なので、映像作品がどのような工程を経て作られるのか全くピンと来ないのですが、少なくともひとりで作れるものではないですよね。俳優も撮影も監督もその他スタッフも……多くの人たちが力を合わせて出来上がったのでしょう。つくづく私に出来ないことをやってしまう皆様には「スゲーなあ」と感嘆するばかりです。
 その気持ちをずっと忘れたくないので、今回はこのような形で感想をまとめさせていただきました。とっても良いと思います!

2023年11月15日
佐藤非常口@仙台

拍手[0回]



個展「砂漠の贈り物」
絵を描くことは手紙のやり取りに似ている。対面の会話に比べて速度は劣るけど、その分、重く、深く、より多面的な気持ちを伝えることができる。私は話す事が得意じゃない。とても苦手。だから絵を描く能力を発達させてきたのかもしれない。そう感じる。

観察がとにかく好きだ。道に生えている植物、街、動き、人、表情、空気、音など、あらゆる物事を観察することが好き。見て、興味を持ったら、そのことについてずっと考えてしまう。「どんな構造なんだろう」「アレとアレに似ている」「以前に観たアレと繋げたらどうなるかな」とか、連想が止まらない。

自分の心を描いている。自画像のようなもの。好きな人の事を想いながらも書く。頭のなかの空想を描いたりもする。これらが描きたい物事の全てという訳では無い。言語化が難しいもの、あるいは出来ないものを絵にするので、こればかりはしょうがない。

あらゆる物事は複雑だなと感じる。複雑な問題を考える事、受け入れる事は、脳にとって負荷が大きい。その分、世の中をフラットに捉える力が養われる。可能な限り、複雑な問題から目をそむけない様にしたい。世の中をフラットに捉えたい。その為に、肉体と精神の健康に気を遣い続けたい。

観に来てくれてありがとう。

みひろ
(会場内に掲示されていたステートメントより)



 RAPPIT/みひろさんの個展が開催されることは、例によって告知ポストカードで知りました。一体いつ、どの会場だったか……たぶん仙台写真月間の頃、SARPでもらったんじゃないかなって気がしますが……すみませんよく覚えていません。ただポストカードを見て、その絵柄にひかれて行ってみたというのは事実です。
 最初に行ったのが11月15日で、次に行ったのが12月8日。それぞれ異なる企画展を見るために来たのですが、2回ともしっかり、みひろさんの展示も見ました。
 会場の様子です。

 とりあえず、今こうして振り返ってみると、いわゆるSNS的な個展なのかなと思いました。とにかく分量が多く、画一化されたフォーマット。スマートフォンの画面で一枚ずつ画面をフリックさせるように、膨大な量の絵を眺めていく……そういう個展です。
 正直なところ、一度目は……あまりにも量が多すぎて、私のキャパシティでは受容できませんでした。1枚ごとに感じるところはあるのですが、あまりに短時間でこれほどの量の情報を処理することはできず、全体的にどんなイラストがあるかは全部(動画で)撮影したからいいか! といって、消化不良のまま一度目は帰ってきてしまいました。うまく言語化できなかったのも、そういうことかもしれません。
 それで今回リベンジというか、ちゃんと向き合って自分のものにしたい! と思って、
 「自分が良いと思ったものを10枚だけピックアップしてみよう」
 と決めて、2~3度会場をグルグル回って写真を撮りました(結局11枚撮っちゃいましたが)。

アデニウムの花言葉は、ひとめぼれ、純粋な心。
サボテンの花言葉は、枯れない愛、燃える心、暖かな心、偉大。
燕は幸運の象徴。
presentの意味は、現在、在る、贈り物。
(会場内で展示されていたテキスト)




 これはと思った11枚の中で、それぞれ特徴的なものを1枚ずつ公開してみました。
 みひろさんが「言語化が難しいもの、あるいは出来ないもの」をせっかく絵にしてくれたのに、今度は私がそれを言語化するという試みをしてみようと思ったのですが、いやこれは非常に難しいですね。とりあえず会場でメモした、もっとも生々しい感想を引用してみます。

印象としてはポップで可愛いんだけど優しくはない。爪を立てて心をガリガリガリガリ引っかかれて、皮膚が裂けて血が噴き出してもまだ足りないと言って、今度は鉛筆を突きたてて力任せに引き回されたような感覚を覚えた。……毒がある。その毒はとってもおいしくて刺激的で心にたまってしまうけど、だから忘れられないし、忘れられないのにまた見てみたくなる。相変わらず楽しい。……


 神経症というか、もはや精神分裂病のような……かなり狂気めいたことを書いていますが、たぶん本当に「一時的な狂気」に陥っていたんじゃないかな。こないだ亀井桃さんの個展について書いた時、主催者の言葉として「毒気のさじ加減」という言葉があったのですが、みひろさんの絵にはその毒気がふんだんに盛り込まれているような気がします。そして十代の頃から毒薬や劇薬みたいなものを過剰投与して生きて来たから、個人的無意識の方で勝手に反応しちゃうんです。
 これが今の私にできる精いっぱいの言語化です。私はみひろさんとは反対に絵を描くことが絶望的に苦手で、何でも言語化しようとする人間なのですが、そんな小賢しい考えを破壊して感情を爆発させてくれる……良い意味で私のことを狂気に導いてくれる……危険なほど波長が合うイラストであったと思います。
 あと、「SNS的な個展」と先に書きましたが、さっき気づかなかったこととして……「伝えると伝わる」の距離感がとても近いのかな、って気がしました。描き手の人が表現したいことと、それを見る私の距離感。より近い距離からより刺激的なものをぶつけられたので、私もその分強く反応してしまったのかもしれません。
 ひょっとしたらカワイイとかエモいとかバエルとか、そういう、ある意味では分かりやすい感想で言い表すのが適切な種類のアートなのかな。それをこうして無理やり言語化しようとするから、破綻が来て、狂気に至るのかもしれません。
 でも、やっぱり私には言葉しかないんですよ。自分の気持ちを可能な限り言語化する。自分でアートは上手にできないから、ブンゲイで自分の気持ちを表現していくしかないんです。だからこういう試みは、これからも続けていきます。そうすることで、私の心にしっかりと刻み込まれて……無意識の闇に放り込まれて手が届かなくなることを防ぐことができるのですから。すなわち、消費されない文化。
 
 ともあれ、とっても素敵な個展でした。一応芳名帳には本名と佐藤非常口の名前を書いたし、インスタグラムにもコメントを出しました。そして今回こうして記事を書きました。これがどれほどの人に伝わるかわかりませんが……ひとりでも多くの人に読んでもらえたらいいなあ……。

拍手[0回]


 あゆみさんの作品の中には「祭草」という大変魅力的な人のような不思議な一本足の草花が佇んでいる作品があり、まるでこちらの世界を静かに見守っているかの様です。
(越後しの個展『祭草の歩み』フライヤー裏面より)


 前回の続きです。
 美術館の2階で開催されていた佐々木あゆみ展『悠遠の地』は、佐々木正芳氏との二人展を再現した……というのがコンセプトとなります。その文章を読んでから階段を上って2階へ上がると……

 ……いつもは人形館の2階にいるこの子が出迎えてくれました。こちらも佐々木一葉ことあゆみさんの作品です。70歳を過ぎてから有名な人形作家のもとで勉強して、この人形を作ったのだそうです。残念ながら夢見ていた美術館の開館を見届けることなく帰天してしまいましたが、それでも完成した建物はちゃんと見てくれたそうです(佐々木正芳さんのコメント)。

 2階に上がって最初に目に飛び込んできたのは、佐々木正芳さんの作品「老いたアダムとイブ」でした。これはあゆみさんから「これがいい」と言われて作品として仕上げたものの、実はあまり気が進まなかった……ところが実際に世に出してみると雑誌に掲載され、買い手も付き……今では「芸術的に私の一番上の作品ではないか」と考えるようになったそうです。
 そんな素敵な絵に対して私のような美術2風情が感想を書くなんて……という気もしますが、ちゃんとした美術的な批評は専門家がするでしょうからね。ここはスキル『門外漢の気安さ』を発動して、正直に感じたこと思ったことを一気に書いちゃいます。すなわち、
 「溶けあうようにお互いの肉体を抱擁する姿は、このところ私がとらわれている元型への回帰……2つに分かたれたものが再び1つになろうと求める集団的無意識に強く働きかけて来るのではないか」
 という気がしました。すぐに言語化できないような、心の深いところをグイグイと刺激されました。そして感じるところがありました。

   *


 こちらが『祭草』シリーズです。ここでも冒頭に引用した越後しのさんの言葉以外に拠るところがないので、私の主観による感想を書きます。
 よく絵を見て「音が聞こえる」想像をするのですが、この祭草の1枚目、街角にたたずむ姿を見て私が聴こえたのは、耳を澄ますとかすかに聞こえてくる「静かで賑やかな」音でした。日本語として破綻しているような気がするのでさらに説明しますが、要するに遠いところで盛り上がっている祭囃子を想像していただければよろしいかと存じます。賑やかさと静けさのコントラスト。それが同時にひとつのキャンバスの中に存在する不思議な世界。……いまこの記事を書きながら心の中にイメージしてみると、そういうことなのかなって気がしてきました。
 そのコントラストという意味では、2枚目3枚目になると、いっそう際立ちますね。なお、これに関しては直接、あゆみさんが語っている言葉が同時に掲載されていたので引用します。

一昨年春頃より<祭草月面に咲く>のテーマで描いてみる。乾ききった月の世界と最も人間の臭いのする祭りとの組合わせを試みる。まんまるの青く美しく光る地球を、月面から眺めてもみたかった。
百年前には、兎のすむお月様を、こちらから眺めている丈だった。そこには水があり草も生えていた。
息子が、絵を描いている私のそばへ寄り「宇宙空間と月面は、あくまで無機的にね。」と云って呉れる。
無限なる大宇宙のほんの一角のちっぽけな青い星 だがすばらしい星、
地球 何時までも美しい星であってほしい。
佐々木あゆみ (総合藝術情報誌「場」1981年3月号より)


 ……こうしてあゆみさん自らの言葉を聞くと、私が感じたこともあながち的外れでもないのかなという気がしました。そういう、静けさと賑やかさのコントラスト。すぐに自分が感じたことを説明できなくても、こうして時間をかけて言語化することで自分のものにできるならいいですよね。

   *

 そして再び1階に戻り、越後しのさんの作品『歩歩』を見ます。

 こちらは先日の個展でも観ましたが、今日は前回よりも一段階深く自分のなかで感じ入り、自分なりにアレコレと解釈をしたうえで見たので、印象がまた違ってきました。人物もさることながら、その人物を飾り付ける花草の魅力も合わせて感じられたのですね。
 これは率直に言って、私の感受性が鋭くなって、そういった部分にも反応するようになったものだと思います。そうすると今度は、ふうわっと「何とも云えない好い匂」が漂ってくるような気がします。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』でお釈迦様がぶらぶら歩く極楽に咲く蓮の花の匂いを想像するように、越後しのさんの絵に咲く花の匂いを想像するのです。
 するとかしないとかどんな匂いだとかっていう低次元の話ではありません。私の想像力は無限なのです。また、それが正しいとか正しくないとかってことにも興味はありません。私は私がいいように感じます。そしてここでは、どう感じたかということを可能な限り精緻に記録します。それが感情家の私の表現です。アートでもブンゲイでも、素晴らしい作品を創った製作者の方への返礼なんです。

 いくら撮影OKでSNS共有OKとはいえあんまりビッシビシ写真を貼り付けるのも気が引けるので(そろそろこのブログの容量も心配になって来たし)、写真を見返して特に「これはいいなあ」と思ったのを3枚ほどあげさせていただきます。
 やはり、こういう絵が好きなんでしょうね。しんと静まり返った感じ。あるいはこちらに何も語らないキャラクター。何でも明確に言語化したり解釈したり答えを持ち出したりしなくちゃ気が済まないような気質の人なら「わからない」と言って立ち去ってしまうというような子たち。
 私はその絵の中にいるキャラクターが何かを訴えかけているような気がして、あえてその前に立ち、探ってみる。何を伝えようとしているのか想像を働かせ一生懸命に探ってみる。見つけられなくて、あきらめかけた時にようやく自分の心と波長が合う。
 ……結局、私の意識、私の自我が認知できる範囲なんて、ごくごく狭いってことなんでしょうね。大事なことを感じ取り大事なことを決めるのはたいていの場合無意識の領域であって、アートは私の意識を素通りして直接、無意識の方に働きかけてくれるのでしょう。そして無意識の方では私の自我なんて置いてけぼりにして、私の自己、私の「たましい」に働きかけ、感情を動かしてしまう。それを意識できないから私は多動性とか衝動性とかって言葉を押し付けられてしまう。そういうことなのかもしれません。
 って、これは私の無意識についての話じゃなくて、越後しのさんの個展に関する話だったはずなのに……あわわ、ゴメンナサイ。話を元に戻します。

   *

 越後しのさんのアトリエ『ギャラリー越後』には2度ほどお伺いしたことがあります。1度目はアンデパンダン展の時で、2度目がRimoさんの個展を見に行った時ですね。確かRimoさんも、越後しのさんの作品が大好きで……とおっしゃっていましたが、今回こうして本格的な個展を通じ、作品に触れることができたのは、とても良かったです。

 ちなみに神秘タロット・不思議イラスト展を見に行った一番町の雑貨屋「coco-chi」さんには、越後しのさんの絵柄が入ったグッズがあり、「アレ!? 見たことある!」とひそかに驚愕してしまいました。他にも、前回の企画展で知ったアーティストの人の作品があったりして……何だかすごいところで繋がっちゃったぞ、と。そういうわけで越後しのさんも私の「一目でわかっちゃうアーティスト」に加わりました。私の感受性と知識が着実に増えているような気がして、大変嬉しいです。

   *

 ……毎回そうなんですが、ブログは自由記述というか、半分自動記述みたいな感じで書いているんですよね。最初に「このことについて書こう!」というテーマは決めてかかるんですが、書いている途中で思ったことや気づいたことをどんどん盛り込んでいくから、最終的な着地点がどうなるのかわからない。書くことがなくなればそれでおしまいになるんですが、心がおかしくなって以来神経症的に細かく細かく自分の感じたことを言語化するようになったので、もうメチャクチャになってしまって……。
 この日は私の大好きなアーティストのひとりである『ペロンミ』さんの個展を見に行き、そこで私のアート好きの原点である『門眞妙』さんに邂逅し、また映像研究部の高校生諸君が制作した自主製作ショートフィルムの感想のこととか何とかって、もう1万字でも足りないくらい、書きたいことがたくさんあったんです。それに、今回で2回目だったんですが、Rappit/みひろさんの絵のことも書きたいし。まだまだ私は生きていかなくちゃいけない……書きたいことがありすぎる……。
 でも、越後しのさんのことに関してはひと段落つけることができたので、今日のブログはこの辺にしたいと思います。またいつか、ギャラリーの方にお邪魔したいと思いますので、その節はよろしくお願いいたします! そして、その時には個展を見た感想などもお伝えできれば幸いです!

拍手[0回]


仙台市太白区秋保にある『秋保の杜佐々木美術館&人形館』で開催された企画展『ドールという変移する記号3』を見てきました。去年に引き続き2回目です。

 去年は「書くと気持ちが薄れるから」とかってバカなことを言ってTwitter(当時)で感想をわめくにとどまっていましたが……今年は逆に書かないと気持ちが薄れるので思い切り書きます。去年のこともいずれ改めて、四谷シモン氏のことなどに絡めて書いていきたいと思いますが、いっぺんに書くとごちゃごちゃになっちゃうので、とりあえず今年の展示について書きたいと思います。


明治時代のはじめ、西洋からの彫刻(アート)が日本に伝わり、仏師や人形師などにも大きな影響を与えました。しかし後に、帝展などの場で人形は、彫刻ではなく工芸というジャンルのほうへ振り分けされています。そのことから、あくまで「日常の中で使い、生産され消えていくもの」というイメージが強かったのだと思われます。そして現在、日本の創作人形は、さまざまな影響をうけ、いくつもの文脈をまたいだグラデーションで構成されています。柳宗悦が「民藝」という言葉で語った営みの中の美、西洋から入ってきた彫刻や立体アートといった類のものたち…。さらに、日本のマンガやアニメ文化のフィギュア・ジオラマなどの類も加わり、より複雑に自由なかたちに変化してきました。
人形は他者からの付加価値よりも対峙者個人の精神の重さによる価値が高く、時にその価値は人々の想像を超えることがあります。よって、広義な意味で「人形」は、人が人間と認知する機能を持つものであり、人間の形を保つ必要性すらないともいえるでしょう。人形と対峙する行為は、まだ見ぬ人間の本質を知って行くための入り口なのかもしれません。
今回、会場に並ぶ作品は技法も素材もさまざまです。しかし一貫して、それぞれ人形の役割を連想させる力があります。それらを鑑賞しながら、人形と人間が築くであろう関係性について、改めて探っていければと考えています。(会場に掲示されていた展示概要)


 結局まるごと引用してしまいましたが、どういう展示なのかと言えばこういう内容となります。冒頭の告知ポスターに名を連ねたそうそうたるメンバーによる、ひとりひとり全く違った個性的な絵画であり人形であり……。
 何度かこのブログでも人形について書いたことがありますが、ルーツはこの企画展なんですよね。元々四谷シモン氏の人形は大好きだったのですが、1年前、シモンドールの実物がここ秋保の杜佐々木美術館&人形館にあるとTwitterで恐山Rさん(ウラロジ仙台編集長)から教えていただき……その時にやっていたこの企画展を見てシモンドールに限らず人形全般に対する感情が芽生えました。以来しばらく活動を抑えていたものの、アンデパンダン展で人首美鬼さんの創作人形を見て再燃。そして翌日、鵜坂紅葉さんの作品を見ていよいよ「私は人形が大好きだ」ということを明確に認知したところで今回の企画ですからね。もうね、明確にここに照準を合わせて飛んできたわけですよ。カメラ付き誘導ミサイルのごとく全速力(ただし法定速度内)で飛んできたわけですよ。そして狂気のごとく感情を爆発させ、こんなふうにバリバリとメモを残してきたわけです。

 一応、撮影OKと受付のところにあったので、いくつか撮影した写真を紹介していきたいと思います。

   *


 まずは清水だいきちさんの作品「たからばこ」です。
 清水さんは兎をモチーフにしたぬいぐるみや少女の人形、更に球体関節人形など、いきなり私の心をときめかせる素材の人形を製作されていたのですが、あえてその中から一枚を選ぶとすると、これですね。宝箱だから大切なものをしまっておくんです。
 アンティークな箱のなかに安置された少女たち。果たしてここに来るまでに、どれほどの時間が経っているのでしょう。もしかしたら「実は中世から続くヨーロッパの名家で作られ、19世紀のデカダン蒐集家によって引き取られた後、ここ秋保に流れ着いた」というストーリーがあるのかもしれません。ええ、私はユイスマンスの『さかしま』が大好きなんです。自分の愛好するものを集めた人工楽園を築いたデ・ゼッサントに憧れているので、以降もそんな感じのフィルターを通した感想となります。「人形は他者からの付加価値よりも対峙者個人の精神の重さによる価値が高」いのでね。私が(特にここ数か月で)仕入れた重さで人形と向き合い、無限の想像力をためらいなく爆発させたいと思ったのです。それはこうして文章で書く行為も含まれます。

 次は筥筐(こうよう)さんの作品『冬虫夏草』です。3つある中でこれが一番ワイドな形をしていて、16:9のレイアウトに最適だったのでセレクトしました。これまたデ・ゼッサントが美術品のひとつとしてコレクションしていそうな作品です。なお冬虫夏草というのはゲーム『大航海時代II』でも冒険家の発見物として登場します。十分に希少価値のあるものなんです。それがこうして人の形をしていたとなれば、もはやプリニウスの博物誌を読むようなときめきを感じます。

 柊ノ夜さんの『白鳩』です。これもなかなか私の心に強く訴えかけました。鋭い刃物でグサーッ……と突き刺されたような、「死の匂い」を感じました。ひどくやせ衰え死にかけた少女。手足や膝の赤みからは、通常私たち健康な人間や生物に感じられるような血のぬくもりが感じられません。程なく彼女の肉体は腐りはじめ、そして骨になって、土に還るのでしょう。そんな遠くない未来を予想しました。あと個人的には宇野亜喜良氏のイラストを見た時と同じような感覚を覚えました。60年代アングラ文化の象徴ですよね。天井桟敷とか……おっと、それは余談でした。

 ここで、冷たく暗い暗黒美少女の世界に引きこもっていた私をさんさんと降り注ぐ陽光のもとに引っ張り出してくれるような作品に出会いました。これはしょうじこずえさんの作品『チャームツリー』です。まあこれは、あんまり難しいことは言わなくてもいいですよね。単純にこの極彩色、あるかないか不安になるような細い体に対し「そんなことないよ!」と強く主張する眼。そういった印象を楽しめばいいんじゃないでしょうか。私はそうでした。ここまで神経症めいた空想ばかり広がっていて、さらに直前で柊ノ夜さんの『白鳩』を見て、すっかり死の幻想にとり憑かれていたので、いっそう印象が強まりました。夢から覚める直前、モノクロームの世界から私の自我が認知するところの「現実」というやつに戻ってくる直前の、パーッと光に包まれたような感覚。

 こちらはご覧の通り絵画です。そして、正直なところこの絵がどういうことなのか、今一つ私にはピンと来ませんでした。それは今でも同じです。この絵に対して、これまでのような爆発的な感情がわいてこず、写真を見ていても「う~む……」とうなるのが精一杯です。ただこの絵につけられタイトル、
 『何を以て正常と、何を以て異常と』
 というのは私がず~っとず~っと悩み続け、答えを探しているテーマであって、この絵も私と同じことを訴えかけているんだ! ということだけは認知しました。その問いに対する答えを示してくれたわけではないですが(そして、そもそもそんなものがあるかどうかはきわめて疑わしいものですが……何でもかんでも検索して答えを求められるほど世の中は浅くも薄くもつまらなくもないと信じているので)、自分と同じようなことを考えている人がいるんだということが嬉しかったです。こちらは「せん」さんの作品でした。

   *

 というわけで、ここでいったん文章を区切ります。すでに十分神経症めいた文章になったと思いますし。
 今回の企画展に合わせて、当美術館のオーナーである佐々木正芳氏の奥様・佐々木あゆみさん(故人)の企画展も「後援企画」として開催されておりました。元々あゆみさんは、佐々木正芳氏の作品だけでは物足りないだろうから人形館も併設しようと言い、自ら人形制作を学んで人形に対する理解を深めていたと言います。こうして人形に関する企画展をこの場所で開催できるのもそういう縁があってのこと……とは、今回の企画展の主催団体である「秋保ひとがた文化研究室」からの言葉です。
 また、個人的な話となってしまいますが、先日観た越後しのさんの個展も、あゆみさんの代表的な作品群『祭草』シリーズへの関連がありました。私はその辺のことを知らず、ただ越後しのさんの作品を見たい! という気持ちで来て……もちろん、それなりに感じるところはあったのですが……今回私も「祭草」シリーズの絵を見て、さらに越後しのさんの絵も会場で見て、感情がよりいっそう込み上げてくるものがあったので……2階の展示を見た感想と先日の個展のことを言ったり来たりしながら、次の文章を書きたいと思います。「書くべき時が来るまで待たなければいけないことがある」とは、こないだ読んだ『ハドリアヌス帝の回想』に関するユルスナールの言葉ですが、どうやらこれもそんな感じみたいです。何でもSNSで速報みたいにポンポン出せばいいわけじゃないんです。じっくり温めて、一気に書くのが大事なんです。

 消費してはいけない。
 消費されない心を大切にしたい。


 ※追記。越後しのさんの個展を見に行った日の写真を見返すと、ちゃんと祭草シリーズは見ていました。写真も撮っていました。ただ、その時は今回ほど強く意識せず……というか、感じたことがあまりにも多すぎて、忘れていたみたいです。また、個展のタイトルが『祭草の歩み』というものですが、関連というとちょっと違う気がします。いずれにしても、越後しのさんの個展については次回の記事でまとめます。そのうえで、今回書いたものは訂正せず追記という形で言い訳をさせていただきますスミマセンでした。

拍手[0回]


昨日(12月7日)は二十四節気のひとつ「大雪」でした。言葉通りここから本格的な冬が来るぞ冬が来るぞということを暦の上で意識づける日です。そして12月下旬の「冬至」に向かって冬将軍が驀進する……かと思いきや、昨日も今日も明日も暖かくなるみたいですね。

 昨日も? そう、午前中はね。

 

 昨日から『秋保の杜 佐々木美術館&人形館』で新しい企画展が始まったので、久々にオートバイで出かけたのですが、秋保の道路の温度計は18度を示していました。こんなに暖かいなら、ここまで厚着をしてこなくてもよかったな……なんて思いつつ、今回も開館直後に突入しました。そして色々なことを感じ、ひたすらメモしてきました。メモしてきたのでその点についてはまた稿を改めて書きたいと思います。ここでは展示以外のことについて、まとめて書きます。

 一通り展示を眺め、なんだか今にも雨が降り出しそうな雰囲気を心配しながら我が愛車小虎号(カワサキ・Dトラッカー125)に戻ると、2匹の犬を連れて来た白人男性が。そして門矢士のごとき通りすがりのライダーにすぎない私なんかに、
 「何ccデスカ?」
 と話し掛けてくれたのです。さらに、
 「タイヤ、小サイネ」
 「モトクロス、ヤラナイ?」
 などとたくさんお話をさせてもらって……私も自分のオートバイのことを聞かれるのが嬉しいので、とっても楽しい気分になれました。
 
 看板だけは去年初めて訪れた時に写真を撮っていたので、たぶんここの方なんだろうなというアタリはついていましたが、やはりSteveさんだったのですね。公式ホームページもぜひチェックしてみてください! ThanksですSteveサン!(お前はいったい何国人だ)

   *

 その後の天候はどうかといえば、多少の強弱こそあれ、しっかり雨でした……そして雨よりも大変だったのは風です。元より仙台は杜の都ならぬ『風の都』との異名もあるくらい風が強くて冷たいのですが、午前中の陽気をすべて吹き飛ばしてしまうような雨風になすすべなくやられまくり、ゲームで冷気系の魔法を食らった時というのはこんな感じなんだなと思いました。こちらも冷気系ダメージを軽減する装備をしているから「効果はいまひとつだ……」なんですが、それだって地味に体力は削られていきます。久々の気力勝負でした。

 それでも、こんな日だからこそ見られた景色もありました。せーの、ドン!

 撮ってみて、その出来栄えに「写真にはうつらない美しさがあるから……」という歌を思い出しました。私の印象としてはもっときれいに見えたんですが。まあとりあえず「久々に虹を見た」という事実だけ伝われば幸いです。
 そして体力を削られつつも無事に帰ってきたところ、私の部屋の隣に住まう人もちょうどお仕事から帰ってこられたようで、久々にご挨拶をさせて頂きました。近所付き合いがない私ではありますが、最も近い隣人ですからね。これもまた、すべてのタイミングが合ったからこその出会いでしょう。

   *

 というわけで、12月7日の出来事をまとめてみました。やはり対面で誰かと話すのは楽しいです。決して話し上手なわけではないし、誰彼構わずすぐに打ち解けられるようなことはありませんが、こういう小さな経験を積み重ねて、ゆるやかに心を成長させていければと思います。

 すべてが大切な出会い。
 (久保ユリカの1stアルバムのタイトル締め)

拍手[0回]




 「本書は、昨年5月29日に自死した矢川澄子の既刊単行本および『矢川澄子作品集成』(1998年、書肆山田)、『ユリイカ臨時増刊号 矢川澄子・不滅の少女』(2002年、青土社)に未収録のエッセイを対象として、彼女の71年にわたる試行を跡付けることを念願して編集したものである。」(郡淳一郎・編集付記)

先日、ユイスマンス『大伽藍』とユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』という、駆け出し文芸オタクの私にとってはなかなかの大物を読了し、図書館に返しに行った後……ずっと前から読みたいと思っていたエンマ・ユングの『内なる異性』を書庫から引っ張り出してもらっている間に開架エリアの本棚で見つけたものです。

 今年の4月にちくま文庫の『矢川澄子ベストエッセイ 妹たちへ』でざっくりと読み、そのあと『おにいちゃん 回想の澁澤龍彦』『ユリイカ臨時増刊 矢川澄子 不滅の少女』と来て、この『いづくへか』と至ります。その時にも一度、私なりの矢川澄子さん(の文章を読んで得たイメージ)をスケッチしたことがあります。下記リンクから開けます。
心象スケッチ・矢川澄子さんについて。 2023年11月11日
 さらにその前には森茉莉さんのこと書くとき、矢川澄子さんの文章を引き合いに出して「女性らしい文章の極地点」というふうに表現したこともありました。そして今回、読了後に書いたメモを読み返すと、
 「聖性」
 という言葉を使って感想を書いていました。これは先ほど書いたちくま文庫のエッセイ集を編纂した早川茉莉さんも感じておられたようなので、あながち私のばか妄想を入れ置きし鉄鉢袋から湧いて出たトンチンカンというわけではありますまい。

 やたら前置きが長くなってしまいましたが、そんなときめく気持ちと、その後に知ってしまった事実……2002年に自死という形でこの世をいきなり去ってしまったこと……をどうにかバランスさせながら読みました。
 そして……

……矢川澄子さんに対する妄執というか、自分でもコントロールできないような感情も、ようやく薄らいだ気がする。相変わらず矢川澄子さんの文章は精緻で透き通っている。でも、私が生きていた80年代や90年代を語る時の矢川澄子さんの文章は、どうしても受け入れられなかった。それは仕方がない。その時代には私の現実があるんだ。私にだって、私なりに素晴らしい80年代と90年代がある。それをアレコレ言われても素直に賛同できない。それは、私の権利だ。私という独立した人生を歩んできた私が持っている当然の権利だ。(12月4日 私のプライベート日記より)

 ……今回の文章の引用もとは私の日記なので、丸ごと私の感想です。批評とかではなく、感想。私は感情家なので、巧拙というよりも快不快を書きます。とりあえず「どう感じたか」をいったん書き出し、その上でゆっくり考えます。なので今回もそういう文章を――ほとんどそのままの形で公開することにします。多分これが、「カチャカチャかちゃかちゃ、狐憑きみたいな目をしてくいいるように画面をみつめて」ファミコンに夢中になり、矢川さんが自死した2002年頃は立派な「パソコン狂い」になってしまった1981年生まれの私の感情をもっとも正確に表した言葉だと思うので。
 ただし、日記のなかにも書いているように、今なお矢川澄子さんの文章は私にとって少しも魅力を減ずるものではありません。嫌いになるようなこともありません。むしろようやく無知を想像力で補う私の特性がねじ伏せられ、ようやく矢川澄子さんの文章をきちんと自分のものとして取り込める準備が整ったのかな、という気がします。この『いづくへか』だけでなく、他に読んだ色々な本や私自身の体験に基づくゆるやかな心の成長、軌道修正なんかも含めた複合的な要素によるものだとは思いますが。

  *

 私が幸せだったのは「澁澤龍彦夫人、だった人」以外のしがらみなく文章を読み、さらにちくま文庫のベストエッセイを読んで、それほど先入観なく矢川澄子さんを好きになれたことです。純な気持ちで矢川さんの文章を吸収した私たちの世代の人たちというのは、とても幸せなのだと思います。2023年に40代で読んだ私と、当時読んでいた人たちとの間では違った感情があるとは思いますが、それで良いと思います。
 これは私の基本理念なんですが、好き嫌いと巧拙は別な問題です。批評家とか研究家といった人たちから見れば巧拙の判断もあるでしょうが、それとは別に感情として好き嫌いで受け入れたり拒絶したりするのも良いでしょう。どんな人にもその人なりのパーソナルがあるのだし、その人だけの大好きがあるのですから。大切なのは、自分が好きじゃなくても他の誰かにとっては大好きでたまらないのだから、その点をわきまえることだと思います。
 もとより私は主観や感情を抜きにしてなにかを語ることはできないと思っております。そう考えると好き嫌いに平等公平というものはないのかもしれません。気に入らなければ読まなきゃいいというのは、実に明快な解決策であると思います。私たちは常に自分の大好きをかき集めて、心のなかを満たして生きる原動力にしているのですから。食べ物は好き嫌いせずバランス良く摂取するべきですが、趣味の世界は偏食上等です。好きなものをとことん突き詰めてこそファンというものです。
 その時代、その人なりの限界はあります。矢川澄子さんが澁澤龍彥さんと離婚した時、「矢川澄子もヒューマニズムに負けたか」と言った三島由紀夫さんは「それが彼の限界だった」と断罪されましたが、同様に矢川澄子さんの限界が先ほど書いたファミコン・パソコン世代に対する感想なのだと思います。そして今、40代の私は動画投稿で盛り上がる世の中に対して自分の限界を感じています。限界値の高い低いはありますが、それを認めることも必要であると思います。だって三島さんでさえ、そんな風に言われちゃうんだから、仕方がないですよ。

   *

 『いづくへか』の話に戻ります。だいぶん話が長くなったのでそろそろまとめます。
 これは1966年年に矢川澄子さんが翻訳したルネ・ホッケ『迷宮としての世界』に三島由紀夫さんが寄せた推薦文にからめて現代(といっても1986年のことですが)の世の中について触れた文章です。すでに少年少女の自殺が流行しそれを「救えなかった」と嘆く大人たちに対して……すみません、この辺のことに関しては私自身のパーソナルな部分も重なって、あまり話したくないので、とっとと引用文を持ってきます……自殺ということについて私自身、まだ冷静に語れるほど人間ができていないので……

一九六六年、三島由紀夫さんがこのように書いてくださった当時、人類はまだ月に上陸してもいなかった。世紀末という表現もまだここでは使われていない。しかしその「二十世紀後半」もこうしてここまで押しつまってみると、彼の予見の確かさが一層はっきりするような気がする。……
 それにしても「水爆とエロティシズム」とは。前者が原発事故に見合うのは当然としても、後者がまさかエイズ、いじめ、自殺といったもっとも陰惨なエロスの次元にまでエスカレートしようとは、自殺者となった彼自身どこまで予測していただろうか。……
(矢川澄子『いづくへか』 115ページ「使者としての少女」より)


 改めて書きますが、これは1986年に書かれた文章です。原発事故というのは福島第一原発ではなくチェルノブイリのことです。エイズを新型コロナウイルスと置き換えることもできなくはないと思いますが、いじめとか自殺とかって問題は30年以上経った今でも解決できていないんですよ。それでも私は生きてきたんですよ。そしてこの時三島さんのことを自殺者と呼んだ矢川澄子さんまで自殺者になってしまって、それから20年も経ってしまって……。

 やはり私は幻想と神秘の世界に生きることにします。『さかしま』の世界を心の中に築いて、時々生きるための糧を得るために出てきてはまた引きこもります。私はそれでいいです。私はいつだって、自分の大好きに囲まれて生きていたいんです。メタバースでもアート&ブンゲイでも結構だと思います。私はそうして暮らします。そして感情家として、人の迷惑顧みず大好きな人に大好きと伝えて果てたいと思います。

   *

 なんだか色々なことを書いて、すさまじい内容になってしまいましたね。
 「こんなにメチャクチャにしてどう思ってんだよ!」
 「……手ごたえあり!」
 ハイ! ブパパブパパブパパ~!
 現場からは以上で~す!

 メイプル超合金が大好きなのでこれでオチとします。

拍手[0回]