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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。


 こないだ秋保の杜佐々木美術館&人形館で開催された『辰展』について、このブログでもXでもInstagramでも発信したわけですが、やはりXとInstagramでは投稿する側の私の気持ちも少々違うんですよね。Xの方は男性時代からずっとやっている一般メディア的なものですから、確かに特定のひとの作品をピックアップして載せたりもしたのですが、感想は控えめにしてレポート的な内容でまとめました(大体140文字しか入力できないし)。
 一方Instagramの方は、今回の主目的であるトキワさんも見てくれる可能性が(Xよりは)高いので、フォーカスをトキワさんに合わせて投稿しました。わざわざ感想を書いたノートと一緒に写したりして。……まあ随分と厚顔無恥な感じもしますが、それでいいんです。私はそうやって感情をまっすぐに発信する生き方をしようって決めたのですから。
 そうしたところ、昨日とうとうトキワさんが、私の投稿に対していいねをしてくれました。さらに、さかいふうかさんに関する投稿にも……それにトキワさんだけではなく、東北生活文化大学の卒展を切っ掛けにフォローした(してもらった)方からも……。



 この時の格好については、Xでも投稿しました。復帰戦の写真として。そして「最後のみすみんボード」仕様の私として……



 ただInstagramでは、さかいふうかさんに「あの時会場でお会いした私です」ということを証明するために、そして確かに会場に見に行きましたよ~! ということを東北生活文化大学の卒展に出展されていた(さかいふうかさんと同級生の)方たちに向けて証明するために、あのように一緒に写り込んだ写真を投稿したのです。それを「胎に刺さったリボン展」でいっしょに出展されていたトキワさんに見ていただけたことは光栄の至りです。いぎなり嬉しいです。「とうとうやったか……」という感じです。
 XもInstagramも、もう何度も言っていることですが、別に10万フォロワー目指しているとかその日のトレンドに取り上げられて毎日10万いいねをもらえるような人類になろうとしているとか、そういうわけではありません。ただ私がどういう人間であるのかを――時々私自身がわからなくなってしまうので――確認するためにやっています。その上で私に良くしてくれる方、私の投稿にいいねをしてくれる方、コメントのやり取りをさせていただける方がいらっしゃるなら、それを大切にしたい。そう思うのです。
 とりあえず、トキワさんにもミナセさんにも「私がさかいふうかさんの個展に行ったことのあるアート好き」であることは伝わったと思います。それでまずは地盤固めは大体オーケーでしょう。あとはここから、どれだけ積み増すことができるか。美術系の学生さんには私のこういう格好も好意的に受け入れてもらえることが多そうだし、私は今後もこういう生き方をしていきます。

 余談:


 
 先日仙台駅東口ダテリウムで出張販売が開催され、ペロンミさんもXで「仙台で流行っているモナカ」として紹介していたシーラカンスモナカですが、私が初めてその名前を知ったのは去年のメディフェスで登壇されたトランスジェンダーの「つーさん」サンのお話によるものでした。記憶違いだったらごめんなさいと言って投稿したらつーさんサンから「わたしが言いました」と温かいリプライを頂いたので改めて書きますが、Xに復帰した後も何度かやり取りをさせていただいております。

 つーさんサンについては前にも記事を書きましたが、本当に綺麗な方です。そして素敵な女性です。自分がそうありたいと思う性で生きることに邁進しておられます。そんなつーさんサンの言葉をXで読むうちに、
 「果たして私が在りたい性とは何なんだろう?」
 と疑問に思うことがあります。
 私が生まれながらに神様から授かった肉体は男性のものですが、正直なところ常に男性として生きることは少々苦痛です。だから職場と実家以外では、極力、女性らしい生き方をしようとしています。ただ、そうしたところで私はどこまでも男性であることを捨てられない……トランスジェンダーとして踏み切るほど女性にはなり切れないけど、心から自分が男性であることを受け入れられない……。
 そういう私だからヘルマフロディトス(アンドロギュノス、両性具有者)を理想の形に定めて生きてきたのですが、つーさんサンの生き方を見ていると、「私はこれでいいのかしらん……」と、少し立ち止まってしまいます。
 でも、何度もそうやって考えていると「これでいい」と踏み切る勇気も湧いてきます。
 女性になり切れないなら、それでいい。朝起きて、男性の肉体を持った私のある部分が生理的な反応を示すのも仕方がありません。神様が私に与えてくれた肉体が、私の意志とは別に動くのは、自然なことです。身体髪膚之を神様に受くです。この肉体で性を全うし、やがて帰天することとしましょう。
 そのうえで、私は私の美的感覚に従い生きていきたいと思います。自分の意志ではどうにもならない肉体をなだめて受け入れつつ、私が心ときめくもの――可愛いもの、美しいもの――を身の回りに並べ、さらに身に着けて……さすがに(どれほど可愛くても)若い女の子向けファッションはできませんが、私にだってどうにか似合うスカートやブラウスもあります。ギリギリのところで私は自分が良いと思う服装をして生きていきます。それが私自身の心をときめかせ、生きる力の源泉となるのなら、私は喜んでそういう生き方をします。



 何よりも、生きていくために。
 まだまだ、生きていたいから。

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 おはようございます。
 今日は東北大と東北学院大の入学式ですね。仙台市地下鉄の構内アナウンスで「この日は混雑すると思うので気を付けて」と流れていたのを聞いて知ったのですが、まさに「こりゃめでたい」ですね(仙台市博物館も再開館しました)。私は私で今年は社会人になって20周年。家庭も役職もないけど、私は今日も元気です。

 今日の1枚は、先日BOOTHで注文した東北大学学友会美術部の作品集『307のドア』です。こないだ後期展で見た作品も収録されていました。……ということを書き出して、過去の記事を参照しようとして検索したら「改めて書く予定です」といって書いていないことに気づいたので、今日この機会に書きます。ちなみに今BOOTHを見たらダウンロード版しか販売していなかったので、すぐ検索してすぐ注文したのは良かったかな。でもダウンロード版なら全世界どこの人でも瞬時に作品を眺めることができるからいいですよね。個人的には紙媒体の方が好きなんですが。……



 とにかく美術展と名がつけば何でも行ってみている最近の私ですが、これも随分と楽しませていただきました。その時のことを、観覧直後に書いたノートをもとにまとめてみます。
 美術展といっても描き手の数だけ種類があり、写実的なものからアニメチックで可愛いものまで……そういうわけで結構気軽に入って、作品に親しむことができました。
 


 特に素敵だなと思ったのがこちら「しろ」さんの作品でした。今年で卒業し県外にて新生活を始められるとのことで、仙台市内の風景を地図と一緒にたくさん展示していました。私の知っている場所もあり、知らない場所もありましたが、6年いたしろさんに対して私は2年ですからね。これを参考に、私なりにもっとこの街を好きになれたらいいなと思います。
 本当はもっとたくさん写真を載せて紹介したいところですが、容量もきわどいところですからね。もしかしたら追記するかもしれませんが、とりあえず今日はこんなところで。

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シモンドール(佐々木美術館&人形館蔵)

 秋保の杜佐々木美術館&人形館で開催中の企画展『辰展』を見てきました。

 辰展|秋保の杜 佐々木美術館&人形館 公式ホームページ
 
 今は車を持っていないので気軽に行くことができないんですが、先日胎に刺さったリボン展で好きになったトキワさんが出展していることを知ったので、ぜひとも行くしかない! と発起。加えて、私が初めて佐々木美術館に行った時からずっと好きな画家『川村千紘』さんをはじめ、結構好きな方がいたので、繁忙期が始まる前に行っておこうと思い地下鉄と在来線とバスを駆使して行ってきた次第です。オートバイは昨日の雪が溶け残っている恐れがあるのと、私の女性性を覚醒させてくれた人だから特別に可愛い格好で行きたいので、もう少し延期します。


 企画展「辰展」は人形館の2階で開催されていたのですが、最初は美術館の常設展を見ました。館長の佐々木正芳さんと奥様のあゆみさん(故人)の作品が展示されています。

 

 そういった絵のひとつひとつに私が解説を加えるのは余りにもおこがましいので書きませんが、「おや!」と思ったのがこのブースですね。これは別に体験コーナーというわけではなくて、館長が冬の間に手掛けた作品がいまだ完成しないためこの場所で制作しているのだそうです。そういうわけなので決して見せるためにこのような場所を作っているわけではないのでしょうが、このような場所で私が大好きなアート作品は製作されるのだなあと興味深く眺めさせてもらいました。



 冒頭に掲げた四谷シモン氏の人形や、今にも動き出しそうなビスクドールたちとの再会を楽しみつつ、やがて2階にある「辰展」の会場に移動。何人かの知っている名前を見て作品を確認しつつ、お目当てのトキワさんの作品を見ました。

トキワ 「火龍」

 感想については自分のノートに書き、さらに会場にあるノートにも書いたので、改めてテキストに起こす気力がないのですが、簡単に書くと……やっぱり感情を揺さぶられるんですよね。可愛いとかきれいとかの内側にある激しい感情。それに加えて今回感じたのは「生々しさ」でした。ご覧の通り絵にある縫い目から、一度切り裂かれた傷口を縫合したあとの様子を想像して、そういう痛みを感じました。

 とにかく今日はお昼ご飯も食べずにひたすら絵を眺め、感想をノートに書き、さらに先日買った門眞妙さんと滝沢市葉さんの画集を眺め、また感想をノートに書き……というのも、帰りのバスが来るまで3時間以上待たなければいけなかったので……そして帰ってきた次第です。だからブログの方であんまり詳しく書くことがないというか……すみません今、メチャクチャおなかがすいて気力が切れかけているんです(帰ってきた直後に書いています)。
 でも、こういうのって、時間が経つと色々と気持ちが整理できて、書きたいことが湧き上がってくるものですからね。とりあえず今日は「こういうことがあった」という事実を書き連ねて締めくくりとしましょう。良い体験でした。


3/31 追記

2024年3月29日17時50分、秋保の杜佐々木美術館&人形館の創設者である画家・佐々木正芳氏が帰天されたと公式ホームページ等でお知らせがありました。ご冥福をお祈り申し上げます。

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 昨日のことですが、青葉区錦町にある仙台アーティストランプレイスで開催中の企画展『旅するオイルパステル展-Reflection-』に行ってきました。

 主催者の公式ホームページ内におけるイベント概要

 さらに会場にあるステートメントも全文を引用させていただきます(傍線筆者)。
 せーの、ドン!

旅するオイルパステル展
-Reflection-
心の深層に潜む感情と自己探究の旅

Reflection ” リフレクション”
一内省一
リフレクションは内省という意味を持ちます。
SOKOAGE CAMP では自己と向き合い、 内省する作業が多くあります。
それは自分の深くにあるまだ出会うことのない感情と出会うことを意味します。
Reflection ” リフレクション”
一反射一
リフレクションは反射という意味を持ちます。
SOKOAGE CAMP は一人では成立しません。必ず他者が必要となります。それは参加者同士が対話を繰り返し、
自己と向き合う中で相互が反射しあうことを意味します。
自己と向き合うとは一体どんなことなのでしょうか?
それは、過去のトラウマに向き合うことかもしれません。それは、見たくない自分を見ることかもしれません。それは、孤独なことかもしれません。
それでも自己と向き合うのは、
きっと意義ある人生を送りたいからなのだと思います。
この展示会では来場者の 「あなた」 が作品を制作し、 展示することで出来上がっていく展示会です。 是非、じっくり 「あなた」の内面を表現いただければ幸いです。
 少しでも心が動けば「へぇー面白そうじゃないの」といって、門外漢の気安さでホイホイ首を突っ込んでしまう私ですが、これは私も興味をそそられました。「内省と反射」。私も含め元々美術で自己表現をするタイプではない人類がほとんどだと思うのですが、そういう人たちが真っ白い紙の上にオイルパステルで表現した自己の心象世界というのは、文字通り十人十色です。巧拙や評価の基準は初めから存在しない自由な世界。
 
 こんな風に言われれば「そうかな!」としか言えないでしょう。全ての作品について、「そういうものなんだな」という認識で見て回り、そのことを在廊していたスタッフのオノデラさんに伝えたところ、
 「せっかくだから、描いていきます?」
 とのお誘いが。自分から率先してサッサッと描き出すほど積極的ではありませんが、そういうふうに水を向けられればすぐにダイヴィングしてしまいます。そんなわけで3x年ぶりにオイルパステルを手に取り、私のReflection――内省と反射の試みが始まったのでした。


 初めにマスキングテープで縁取りをし(オノデラさんいわく「額縁みたいになる」から)、とりあえず手にしたオイルパステルを走らせます。心に浮かんだ風景――それこそ小学校の図工の時間に、風景画を描く時のように、草むらがあって太陽があって空があって……という景色を描こうと思ったのですが、このオイルパステルそのものの特徴が面白くて、もう景色とかどうでもよくなっちゃったんですよね。
 特徴というのは、結構、顔料が濃いので線を引いた後指でこするとボヤ~ッと色が広がったり、別な色で重ね塗りをすると全然違う色になったり……ということです。そんなわけで、心が求めるままにオイルパステルを手に取り、「ここにこの色を重ねたらどんな色になるんだろう」とかって、未就学児のような思いで描き上げたのがコレです。
 タイトルの『分光 -spectrum-』というのは完全に後付けのタイトルです。ADHDでASDの当事者として……ASDというのは「自閉スペクトラム症」というもので、感情がグラデーション的でうまく切り分けができない性質があるのですが、そういう自分の心を反射して投影したものがこれかな、って気がしたのでそうしました。どちらかというと心理療法みたいな感じですが、そういうふうに解釈すれば今回の企画展の主旨にバッチリかなっているんじゃないかなって気がします。
 そしてこれを展示に加えていただくことになりました。それが1枚目の写真です。



 別アングルから。……自分で描いた作品だから一番気になるのは当然ですが、異彩を放っていますね。まさか、こうしてSARPさんの美術展に私の作品が展示される日が来るとは……夢のようです……。
 しかも、それだけでは終わりませんでした。来場していた方と(まるで関係者のように)話していたところ、私の絵はどれなの? と聞かれ……自分の絵のことを自分で説明するという体験をすることになってしまいました。もっともらしい理屈をつけてしゃべるのは得意なので、その辺はスラスラ語ることができましたが、これはもう望外の喜びとしか言えません。オノデラさんありがとうございます!!!

   *

 そういうわけで、これまでは「アートとか、見るのは大好きなんですけど、自分では全然やったことなくて……」と少し負い目を感じていたのですが、今度からは堂々と「自分で絵を描いて、それを展示してもらったことがあります」と言えるようになりました。美術展とは少し違うかもしれませんが、何度も通って素敵なアートに感動したこの場所に私の作品が展示されること自体が重要なのです。その事実が、私の気持ちを強く後押ししてくれるのです。

 「これは私以外の人類にとっては小さな一歩だが、
  私にとっては偉大な一歩である。」

 私がこんなことを言っても、泉下のアームストロング船長も「まあ気持ちはわかるけどね」と笑って許してくれるでしょう。
 今回得た一番大きな収穫は、私は「絵が描けない」わけじゃなくて「自分の心を絵で表現することに臆病だった」「どこに道があるのかわからなくて、一歩を踏み出すことができなかった」という私の心に気づいたことです。その一歩を踏み出すことができたのなら、あとは気持ち次第で何とでもなるはずです。この1年、いえ、仙台に拠点を移し生きてきた2年の間に、実際そういうものであると私は知っています。
 去年から名乗り始めた「佐藤非常口」名義での活動。第2シーズンは、もうちょっとだけ美術で自分を表現できるようになる! を目標に、頑張って行きたいと思います。 Salut !

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 改めて……さる3月16日、青葉区東勝山の住宅地にある中本誠司現代美術館で「さかいふうか個展 神様のいないせかい」を見てきました。ここに来るのは去年の10月以来ですね(前回はアンデパンダン展でした)。
 さかのぼって2月に三人展『胎に刺さったリボン』を見て私の中の女性性が強く共鳴(加えて、初めて私の服装を可愛いと言ってくれる方に出会った)し、卒展ではインスタレーション作品で体験的に可愛いの雰囲気を感じ取り、それからにがつのいぬとねこ展を見て、あとブログでは書いていませんが3/14にSARPで見た森敏美さんの個展『とっ替ゑ、ひっ替ゑ、すり替ゑ展』でもソロ作品それにトキワさん、かんのさんとの共同作品(注)と……2月以降の美術展で展示されたものは全部見ているんじゃないかってくらいの勢いで見ています。


「9の心」(にがつのいぬとねこ展にて)

(とっ替ゑ、ひっ替ゑ、すり替ゑ展にて。右はアレンジ前のオリジナル版)

 そして今回、満を持しての個展です。東勝山というのはそこそこ距離があるのでオートバイを出そうかとも思ったのですが、せっかく私の女性性を開花させてくれた方なので、私が持っているお洋服の中でも一番オシャレなものをチョイス。清楚系なのかロリータ系なのかわかりませんが、「とにかく可愛い鳴瀬」仕様で歩いて行ってきました。
とにかく可愛い鳴瀬

 ではここから、作品についての感想を少しまとめてみます。
 私だってさかいふうかさんの作品を見て大好きになった人類だから、このくらいのことは言ってもいいと思うのですが、さかいふうかさんの作品はやはりマゼンタがベースカラーなのだなと感じました。白でも黒でもなくマゼンタ(でいいのかな)。それが基調にあって、その上に描かれた可愛らしい女の子に私は「女性性」を感じました。
「夢幻クロニクル」

 ただ、可愛いだけじゃなくて……その笑顔の陰に潜み、うっすらと滲み出てくるような悲しさとか辛さとか……そういう単純ではない心の疼きを感じました。温かいマゼンタベースの色合いと愛くるしいキャラクターに心を開いて打ち解けるんですが、ただそれだけでは終わらない感情……切なささえも、さかいふうかさんの作品には、感じ取ってしまうのです。



 この写真の左側にある「魔法少女と呼ばないで」という作品は、2月の『胎に刺さったリボン』でも観ましたが、これを見た時にそう感じたんですよね。可愛いけれど、その可愛さに包み込まれた、隠された負の感情。でも、それは私でも誰でも持っている自然なものですから、かえってそういうところに安心したのかもしれません。
 ちなみにこの作品については、2024年1月30日の河北新報夕刊で同展が取り上げられた時に写真が掲載されたので、ご覧になった方も多いかと存じます。記事によれば、
美醜や年齢を重ねる不安と戦う女性を戦士に見立てる。ハート形のキャンバス、明るいピンク、光るラインストーンで「かわいい世界観」を組み立てた。
 とのことで、やはりこの作品がさかいふうかさんの作品に対する第一印象であり基調となっています。もう一度この場所でお目にかかることができてうれしかったです。

「思考故、葦のように」

 正誤の問題ではありません。とにかく私はそう感じました。そして、そのことを正直に発信することが私のするべきこと、大好きなさかいふうかさんの作品に対する至誠だと思うのでそうします。今回の個展で私の感性をフル稼働させて溢れかえった感情を言葉にすると、大体そういうことであると思います。

何でこれほどまでにそう思うかと言えば、やはり前回の「胎に刺さったリボン」と今回の個展それぞれに掲げられたステートメントを読んだからでしょうね。文芸オタクの美術好きはそう考えます。以下引用。
「神様はいなかった」
これは6年前の日記の一文。
6年前私は手を痛め絵が描けなくなった。
当時はこれが一生続くのだと思っていた。
今でこそ大きな不自由も無くまた絵を描くことが出来るようになったが、別に手が完治した訳でもなく当時感じた諦めの感覚はまだ確かに自分の中に残り続けている。
結局神様が本当にいるかどうかなんて分からない。
だがこの先どんな未来が待っていても、絶望することがあっても、自分の軸を持ち続けたいと願う。
もしここが神様のいない世界だったとしても、自分が自分の神様になるくらいの気持ちで生きていきたい。
 『胎に刺さったリボン』から卒展、さらにいくつかの展示を経て個展にたどり着き、実際にさかいふうかさんにお会いして気持ちを伝え(さかいふうかさんは感想を書きつけた私の手書きのノートをも、写真を撮るくらい喜んでくれたのです!)、今こうして写真を振り返りながら気持ちをたどっていると……可愛らしさと悲しみ……そしてその向こう側にある優しさと強さにたどり着きました。

『乙女信仰』

 涙をたたえているようにも見えるけれど、その目力は決してか弱くなく、強い意志をもって……それも、さかいふうかさんの「気持ち」なのかな? と勝手に想像してしまうのはファンの深読みと笑って御容赦いただければ嬉しいのですが……神様のいないせかいを生きようとしているのだ、と。そういう結論にたどり着きました。
 この作品も2月の『胎に刺さったリボン』展で初めて見たのですが、結構気に入っている作品です。その時にもユニコーンの角が雄々しさというか……弱さやはかなさに真正面から戦ってこれを乗り越えようとする強さが秘められているような気がして、印象に残っていたのかもしれません。今回の個展で改めて観て、それを思い出して……ステートメントに表現された、さかいふうかさんの強い意志が込められているように感じました。

「終わったはずのせかいで」

 これは卒業制作のインスタレーション作品の中にも飾られていました。タイトルは、今ある画像を拡大してそう読み取ったので正しいかどうか少し心配ですが、河北新報の紹介記事を読んだらそれであっていることを確認しました。
 卒展には2回行って、2回目の時に「作品の中に入り込む」という試みをしたのですが、不慣れだったり人目を気にして慌てていたりしてひどい代物だったので、今回改めて撮影しました。私が制作したわけじゃないんですけどね。でも大好きな作品と一緒に写るっていうのは、自然な気持ちですよね。

 

 ……今にして思うのは「何で絵の前に立つの!」ということですが……でもその時はこれが良いと思ったんでしょうね。仕方がありません。今回こうしてちゃんとした写真を撮ることができましたしね。うん、これはこれで良しとしましょう。



 こちらは今回お迎えしたドローイングと、卒業制作「夢幻クロニクル」の記録写真集です。私も自分で一生懸命写真を撮りましたが、こうして公式のパンフレットがあるのはとても嬉しいです。私が見て感じた世界観がさらに充実して、世界が深まります。そしてドローイング……私が普段ご飯を食べたりこうしてパソコンに向き合ったりする場所から一番よく見える場所に置いています。ふっと見ると、いつでもそこにさかいふうかさんの手で描かれたものがあるという幸せを感じながら、私も生きていきます。
 
 最後になりますが……今回は本当に素敵な時間を過ごさせていただきました。私が来館してから少し遅れて来られたさかいふうかさんは、ベージュのワンピースにヘッドドレスをつけて……いわゆるロリータファッション? なスタイルでした。
 その恰好が作品の世界観同様とても可愛らしいのは言うまでもありませんが、私も私にできる限り頑張って考えた「とにかく可愛い鳴瀬」のコーデを「素敵なお召し物ですね」と褒めてくださったのです!!! 
 感想を聞いてくれて、待ち時間にまとめていたノートを「嬉しいです」と言って写真を撮ってくれて……私の方も気絶しそうなくらい嬉しくて、その勢いに任せて一緒に写真を撮ってもらいました。これは別にSNSに投稿するためとかじゃなく、本当に、この日の思い出を残すための記念写真です。

 可愛い服を着て生きること。
 美術展があれば積極的に行くこと。
 感想をノートに手書きでまとめること。
 
 これまで(特にSNS休止後)一生懸命に頑張ってきたことの全てが結実し、今回こうして素敵な体験ができました。先日書きましたが、私は自分の感性を信じます。自分が良いと思ったことを受け入れ、良いと思った方を向いて生きていきます。今回の、さかいふうかさんの個展で私が体験したことは「みきわめ」をもらったものと受け止めます。
 卒業? そう言っていいのかもしれません。
 メディフェスせんだいから1年。色々と悩んだり立ち止まったり飛び降りたりしながらも、こうしてひとつの作品――文章を書くことが得意な私にとって、手書きのノートに書いた感想文は「作品」のようなものです。それを、さかいふうかさんが受け入れてくれたのだから、私は堂々と「作品」であると宣言します!――を作り上げることができたのだから、新たなステージへ進みます。

 さかいふうかさん、今回は素敵な時間を過ごさせていただきました。もう一度、別な機会にお会いできることを楽しみにしております。個展があれば絶対に行きます。
 ありがとうございました!




(注:これは厳密に言うと東北生活文化大学の学生として本名で制作したものを森敏美さんがアレンジした作品なので、少し違うかもしれませんが、卒業制作も同じように学生として本名で出展していたのだし、いいですよね。この展示も素敵なものだったのでいずれ改めて書きます!)

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 3月15日、さかいふうかさんの個展「神様のいないせかい」を見てきました。
 ……これに関しては初めにノートに感情を書きつけ、そのあと非公開の日記に書きつけ、少しずつ心の温度を下げているのですが、まだブログで詳細を書けるような温度にはなっていません。感情がまだまだ激しく燃焼していて……むしろ噴火って言った方が良いのかな。心に閉じ込めていた感情がいっぺんにあふれ出して、その余韻がまだ消え去らないので……そういうのが冷えて固まったら書き出してみます。
 かといって他のことを書く気がないので、ごく短く今日はまとめさせていただきます。



 こういう格好をして街を歩きたいと思う自分の心を正当化するために「CVトランスジェンダー」とか「ノンバイナリー」とか一生懸命語ってきたのですが、今日、
 「そういうの、私は何でもいいや」
 と思うようになりました。
 残念ながらどうあがいても私は男性であり、完全なる女性にはなれません。それでも私は私に出来ることをします。私は自分が可愛いとか美しいとかって感じたら、その感情を大切にします。その感性を信じて、大好きを身に付け、大好きと一緒に生きたいと思います。
 前にも書きましたが、それは仙台じゃなければならないのです。この街で私の服装を可愛いと言ってくれる人に、また、素敵ですねと言ってくれる人に出会うことができたのですから。そういう強力な思い出が私の心の中にオベリスクの如く屹立した今となっては、これからもずっとこの街で生きていきたいと、心から思います。そして……

 メディフェスせんだいから1年。どうやら私の生きる道は決まったみたいです。
 私は自分の感性を信じます。自分が良いと思ったことを受け入れ、良いと思った方を向いて生きていきます。この街にはそういう生き方をする私のことを理解してくれる人がいるって、もう知ってますから。
 この街で出会い私のことを助けてくれた全ての人たちに感謝を込めて。Salut !

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 仙台アーティストランプレイス(SARP)で開催された「持ち寄りこれくしょん宮城輝夫作品展」を見てきました。
 私なんかが説明する必要も無いくらい超有名な美術家です。戦前から前衛美術家・超現実主義画家として活躍し、三島学園(現・東北生活文化大学)でも教鞭をとられるなど、後進の指導にも熱心だった……みたいです。こないだ私の女性性を極限まで引き出してくれた胎に刺さったリボン展の主催者である三名も同学校の生徒ですから、何となくつながりを感じます。
 ただし今回の企画展はそこまで格式ばったものではなく、「教え子やファンが所蔵している作品をファンが持ち寄り」開催されたもので……絵画作品もたくさんありましたが、本とかパンフレットとか他の人の美術展の案内はがきとか個人に宛てられた手紙とか……とにかく宮城輝夫氏の言葉や雰囲気が伝わるものを集められるだけ集めてみました、という雰囲気の内容でした。
 そういう雰囲気がとても温かくて、私も初めて見る絵画に「おおう……」と息を呑み、宮城県の他の美術家(中本誠司氏、佐々木正芳氏など)との写真を眺めて知識の幅を広げ、案内はがきなどに書かれた推薦文を丁寧に読み……長い時間をかけて味わった後、感想を残しました。こんな感じです。
 せーの、ドン!

 迷走気味の走り書きなのでずいぶんと文章がおかしいですが、逆に率直な感情は伝えられたかな。ちゃんと本名で住所を書いて会場内のポストに投稿してきました。ともかく私の正直な気持ちを受け取ってもらえれば……。

   *


 お隣の会場では全然違う催し物をやっていました。こちらは菅野光子さんの個展<『半分の庭 』Vol.4 ほしにうまれるさかなたち>です。
あたたかい 
ちいさな 灯りを
ひと粒 抱いて
夜の波間を
越えていく
届かなくて
泡と溶けても
 こちらは人生で3回目のインスタレーション……でいいのかな。会場全体に張り巡らされた幕と光源によって床といい壁といい目に入る空間全てに映し出された光と影の世界を楽しんできました。


 一応会場の雰囲気を伝えるために写真を掲載しますが、元よりこれは「作品を鑑賞するという行為を少し横に置いて」(入口のステートメントより)光と影の空間にたたずみ雰囲気を味わうものですから、いちいちこの写真を取り上げて何がどうとかって解説する必要はないと思います。私も可能な限りあれこれ考えることをやめ、ただキラキラと輝く光と影の海を泳いで……一通り泳いだら真ん中に据えられたベンチに腰掛け、周りを見回し休む……そういう体験をしてきました。
 

 とりあえず、こんな感じでちょっとしたアート体験をしてきました。結構大きな美術展を見て、何千字もあるような感想文を書いて、疲れてしまったので……ちょうど良かったかな。この辺で少し気持ちを休めながら、次に向かうための準備をした。そんな日でした。このあとは中本誠司美術館で「さかいふうか」さんの個展もあるし、東北学院大学の卒展もあるし。それから他にも色々あるかもしれないし……たくさん案内はがきをもらってきたので、この中からどこにどう行くか考えてみたいと思います。3月も時速100キロで美術展行きまくりです!

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 この日(2月10日)は、元々東北生活文化大学の卒展を見に行ったんですよね。そうしたところ会場前に大きな看板があって、「まあせっかく来たんだから見てみようかしら」という感じで見てみた。そんな感じです。完全に美術モードで来た上に、どちらかというと理系の雰囲気のする卒展でしたから、「私なんか……場違いじゃないかしらん」という気持ちがあったのですが、十和田市とか泉中央とか宇都宮市(兄が20年来暮らしている)とか、割と身近な場所をテーマに展開された研究内容があって、
 「なるほど、これなら私なんかでも十分に楽しめるな」
……後に東北工業大学の卒展(産業デザイン科生活デザイン科)へとつながる大きな一歩となったのです。アームストロング船長が初めて月面に降り立ったくらい大きな出来事でした。
 一方で、まだまだ私の心が出来上がっていなかったので、記事を書くための見方をして来ておらず……一応ある程度、写真は撮ってきたので、少々不足があるかもしれませんが……ちょっと振り返ってみたいと思います。

   *


 まず入り口の方にあったのは、こういう……街の活性化ということを課題に掲げ、それに対してどのようなアプローチで実現するかという研究ですね。せっかくなので十和田市について私が知っている時代のことを少し振り返ります。
 神さんが書いている通り十和田市は街の中心に現代美術館があり、それを中心に図書館とか市役所とか、非常に先進的な街づくりを行おうとしているのですが、そのメインストリート(官庁街通り)を外れると昭和感爆発のアーケード商店街があります。私が来たばかりの頃(2015年ごろ)はまだポツポツと昔ながらの商店があり、雰囲気があったのですが、私が去る直前(2022年2月ごろ)にはシャッター商店街化が加速して何とも寂しい雰囲気になっていました。そのため「もう十和田市は私の好きな十和田市じゃない」と見切りをつけ、忘れよう忘れようとしていたところだったのですが……そうですね、アートを引き金に町全体が盛り上がれば、また好きになれるかもしれません。もう行くことはないと思いますが、もう少し街のことを気にしてもいいかしらん。
 こんな感じで最近アリオが閉店して先行きが心配な泉中央エリアのことや、「中心市街地のウォーカブル化」に向けて動いているけどいまいち確立できていない栃木県宇都宮市など、私にもなじみのある街の問題を取り上げて研究するので、勢い興味を持ってさらに会場内を歩きました。ちなみにこの日は土曜日ということもあってか、意外と子供連れが多かったです。だからあんまり落ち着いて見ていられなかったとは言いませんよ。むしろ私みたいなのが混ざるには、このくらいごちゃごちゃしていた方がちょうどいいんじゃなかったでしょうか。
「私みたいなの」

 その後、竹駒神社に関する研究を読んで「最近は境内にマンションを建てるような神社があるのか!?」などと驚愕しつつ足を止めたのがこちら。後藤香乃さんによる研究「吊り下げ装飾の可能性」についてです。こちらの研究に関しては後藤さん自ら内容について解説をしていただき……私も直接感想を伝えることができて嬉しかったので、ちょっと深く紹介します。後藤さんありがとうございました!


研究目的
「上から吊るす」という行為は古くから様々な地域で伝わり、多くの文化や伝統で象徴的な価値を 提供してきた。例えば、フィンランドでは「ヒンメリ」 を上から吊るし、冬至祭の装飾品として穀 物の精霊が宿っていると信じられていた。日本でも、「風鈴」を平安・鎌倉時代の貴族は魔除けのた めに吊るしていたという記録がある。 このように上から吊るして動く装飾品は、人類にとっては昔から存在しており、多くの文化や伝統で象徴的な価値を提供してきた。1940年に米国の彫刻家であるアレクサンダー・カルダーのモビールをきっかけとして、宗教的な要素に加え芸術的な要素を持つようになった。そして徐々に、装飾的さらには創作活動による娯楽的な要素も持ち、現代では吊り下げ装飾が様々な場所や用途で用いられている。 そこで本研究では吊り下げ装飾の魅力に着目し、 吊り下げ装飾がもつ特徴を活かした制作物を提案することで、吊り下げ装飾の魅力を示すとともに豊かな空間を演出することを目指す。
 という目的のもと後藤さんが設計製作したこちらの装飾は「水の流れ」をイメージしているとのことです。こうした静止画でも十分にキラキラした雰囲気が伝わるかとは思いますが、実際の会場では適度な風が当たることにより飾りが揺らめき、まさに光に反射する水面のようにキラキラした輝きと流れる水のシルエットが浮かび上がるのです。
 文章にもありますが、私もこの吊り下げ装飾から連想したのは「風鈴」でした。そのことは実際に後藤さんにもお伝えしたのですが、目にもきらびやかでなおかつ涼しげなオブジェで……それだけでも十分だと思うんですが、それに対してしっかりとした研究に基づく理論を付け加えることで、今後同じような吊り下げ装飾を見た時に自分でも考えを深める切っ掛けになりそうです。実に良いと思います!

 あとは花の配色デザインを分析し「花の色を美しいと感じるメカニズム」を突き止めようとする研究や、犬の散歩ルートに関するアルゴリズムを分析し「犬好きの人同士の交流機会を増やす」研究、さらに「印象評価に基づいて音を視覚表現に変換する手法の検討」など……そんなことどうすればいいの? と思うようなテーマに対して「確かに、できそうな気がする」ところまで導く理論(=研究成果)がいくつも掲げられ、理解が追い付かないながらも写真だけは撮ってきました。今こうして記事を書きながら落ち着いて読み返せば理解できますけれど、それでも正直「考えたこともない」ようなテーマばかりで……ちょっと私のキャパシティを超える内容ですが、ともかく面白い研究だと思います。まあ私は大学の先生じゃないのですべてを理解できなくてもいいと思うのですが、来年はもっと深く内容を理解できると思うので、今年はこのくらいで勘弁して下さい。

 音を視覚表現に変換するとか、言葉を空間デザインに変換するとか……「音は音として、言葉は言葉として」理解しようとすることしかできない(少なくとも展示を見るまでそれ以外のことをしようとも思わなかった)私にとっては、「そういうものか」とうなずくことしかできませんが、これが理系なんでしょうね……恐れ入ります。
 最後になりましたが、宮城大学事業構想学群価値創造デザイン学類卒業の皆さん、ご卒業おめでとうございます。いずれも私が想像だにしなかったテーマばかりで、見るたび「そういうものか……」と驚嘆しきりでした。すべてを理解するためには、私の心のキャパシティが狭すぎて難しいですが、新しい世界を切り開く第一歩となりました。皆様も社会人として、私が想像していなかった社会を創造してくれることを祈っております。félicitations !

   *   *   *

 これで、2月に行った美術展・卒展のことは大体書けたかな。亀井桃さんの個展については書いていませんが、前に特集を組んだので今回はご容赦いただきましょう。
 とにかく集中的に色んなものを見て、それを書き出すことで、私も大きく成長した気がします。分量もメチャクチャ大盛りになってしまいましたが、「消費されない文化」をまずは私の心に積み上げていくための技術は確実に向上しました。これからもこうして、自分なりに……分量の多寡にはこだわらず、感じたことはすべて書き出し伝えたいです。いつか、誰かが見てくれることを信じて……。

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 2月27日――この日はいくつも美術展やら卒展を見て回り、さらに夜にはアベココアさんのライブに行ったりと大忙しの日でした。とりあえず時系列でまとめてみて後から一つずつ回想という形で振り返っているのですが、今回はこれ。

 *

 元々は「宮城教育大学美術科卒業修了制作展」を見るために東京エレクトロンホールに行ったのですが、初日は少し遅い時間からの会場ということに現地に着いてから気づき、ちょっと図書館で時間調整しようかとメディアテークに行ったら何かやっているみたいだなあ、と……いつものようにふらりと立ち寄った次第です。

 「新現美術協会」……今年で73回目です。受付の方によると戦後に始まった新現美術……いわゆる『日展』とか『二科展』のような主流とは違った方向性の作品を制作する美術家たちの展覧会ということで……久々に入場料のある美術展を見てきました。受付の人からして「かれこれ50年、美術の世界でやっています」といった年配の、そして物腰柔らかく丁寧な男性でしたから、これはどんなものかなと勇んで突撃しました。
 なお、この美術展については、いつものように気軽に写真を撮って公開して……ということをしていいのかどうかわからないので、公式ホームページへのリンクを貼っておきます。こちらで作品についてはご覧いただけますので、とりあえずこの場は私のレポート(感想文)だけにとどめさせていただきます。

 新現美術協会ホームページ

 感想を率直に申し上げると、
 「いぎなりスゴイ」
 そんな感じでした。平面も立体も、写実的なものも抽象的なものも色々ありましたが、やっぱり長い間美術家として走り続けてきた人たちの組み上げた作品というのは言葉を失うほど素敵なものです。あまりにも技術がすごすぎて、私の感情も全く暴走することなく……しげしげと作品に見入り、「ああ、いいなあ」「素敵だなあ」と味わうことができました。
 感情よりも理性が先行して、そのフィルターを通して作品の投げかける印象を受け止めるので、感情からのリプライも割と理性的です。つまり「写真と見まがうほど精緻な輪郭線があり、それを彩るヴィヴィッドな色遣いが素敵」だとか「ネガポジ、光と影の世界に配置されたオブジェがシンメトリー的だけど、よく見てみるとそれぞれの世界で微妙に表情が異なっている」だとか、「昔の香港みたいな怪しい日本語のネオンサインが乱立する夜景がいかにも現代的」だとか、そんな風に説明できちゃうんです。別に難しいことをひねり出そうとしているわけじゃなく、「絵のどの部分にどう感じたか」というのが説明できちゃう。そういう作品ばかりでした。
 とはいえ、そういうのをパッと見て瞬時に言葉に変換できるかというと、そんなことはありません。いつだって私の単焦点マニュアルフォーカスな心は、ピント合わせが大変です。近づいてみたり離れてみたり、「う~ん……」と言いながらいったんその場を離れ、後になってまた絵の前に近づいていったり。あるいは自分が持っているフィルターを差し替えてみたり。新しい眼鏡を作る時のような調整を続けて、ある時カチリとピントが合った時、「とくん」と心が大きく脈打つんです。グラップラー刃牙で愚地独歩が菩薩の拳に気づいた時のような表情になるんです。
 いずれも素敵な作品ばかりでした。もっと激しく感情を揺さぶられる(=もっと好きな)美術家さんは何人かいますが、今回はこうして美術展を見る側のスキル……「ピントの合わせ方」について大きな経験になりました。私なんかが別に美術プロパーになって解説や批評をする必要はないと思うのですが、アートに助けてもらっている身としては、こういう心のときめきを大切にしたいです。そのためにもこうやってピントを調節し、合焦範囲を広げていかなければ……。
 なお、こないだの記事も書きましたが、すべての展示を見終わった後、受付の方に感想をお伝えし帰ろうかとした時に、
 「お元気で!……ご活躍を!」
 というふうにお声を掛けていただきました。冒頭に掲載した写真のような恰好をして行ったからか、どうも現代アートをやっている人に思われたようです。いや実は美術「2」でして……とは言いませんでした。だって嬉しかったんですもの。やはりこれからは、こういう方向性でオシャレをして美術展に行くのがいいかしらん。

   *   

 さて、そんな感じで美術展の会場を後にし、1階下の別な会場で東北工業大学生活デザイン学科の卒展を大真面目に眺め、開場時間も過ぎたところで改めて東京エレクトロンホール(この建物も今回初めて入ります!)に突入しました。
 
 果たして私のような人間をも受付の人は温かく迎え入れてくれました。そしてゆっくりと会場内を眺めまわしました。作品によって写真撮影/SNS投稿がOKだったりNGだったりするので、ここも安全のためにテキストだけで話を進めていきます(一部を除く)。
 すでに色んな美術展やら卒展やらを見て回ったうえでの感想なのですが、とりあえず会場全てを見て回って感じたことは、東北生活文化大学の卒展と専門学校日本芸術デザイナー学院の卒展を合わせたような雰囲気だな、ということでした。どういうことかというと、美術系の大学らしく油彩とデジタル、平面と立体……製作者によって形は様々だったのですが、そのデジタルな作品というのがアニメだったりVtuberのキャラクターモデルだったりして、
 「へえっ! こういうのもあるんだ」
 と意表を突かれました。この辺がやっぱり今風ですよね~。良いと思います!
 そのうえで、私の好みとしては、やはり油彩画に心惹かれます。特に大胆な色使いでヴィヴィッドに彩られた作品なんかは真っ先に感情が動きますね。その一方で、全体的に暗いトーンで塗り固められた暗黒的な雰囲気の作品も、心が落ち着くので好きです。写真撮影がNGだったので私の文章での解説となりますが、「白衣を着て椅子に座った人間――ただし赤い心臓がむき出しで、首から上は既に髑髏になっている」絵があって……これなんかは私の心の暗黒面に共鳴しました。ええ、可愛いだけじゃなく、こういうのも大好きなんです。
 一通り会場を眺め、ここにも付箋で感想を貼り付けるコーナーがあったので、しっかり感想を書いてきました。……その中で気づいたのですが、
 「裏に回って写真を撮れる発想が面白いと思いました」
 という感想を誰かが貼っていたのですね。「あれ? そんなのあったかな?」と思って会場内をうろうろしていると……「もしかして、これかな」というのがあったので……受付の男の子にお願いして写真を撮ってもらいました。

 「ポーズは、そんな感じでいいですか?」
 「あ~そうですね、まあ、あんまり撮られ慣れてないからわかんないですけど……はい、お願いします!」
 「はい、それじゃ撮りま~す!」
  

 アレ!? なんか可愛くないですか!!!?
 いや正直なところ、なかなかの大作だったので全体が収まるように撮影すれば私の姿も小さくなって……「ナンチャンを探せ!」みたいなつもりで写真を掲載しようと思ったのですが……正方形でトリミングしたらピッタリ収まるし、しかもちょうどこの日、白づくめのコーデでお出かけしたから、見事に溶け込んで……本当に白いドレスを着て写真撮ってもらったみたいになってる!!!
 そうか、そういうことだったのか……! すべてはこうして横画面で撮影して、正方形に切り取ってInstagramに投稿する時に最大限見栄えが良くなるような計算のもとで……!

 ゴメンナサイ、私、こうして加工しなかったら、それに気づかず……
 たった今、そういう計算のもとで作られたことに気づいて……
 なんかビックリしすぎて泣きそうです……!
 素晴らしい……本当に素晴らしいです……!!!


 会場で作品を眺めている途中で、出来上がったばかりのパンフレットもいただきました。今回の卒展で作品を発表した皆さんがどのような気持ちで制作したのかという言葉が書かれていて、改めて気持ちが温かくなりました。当日、見終わった直後にノートに書いた感想では「極端にエキセントリックなのはなくて、全体的に安定して見られた気がする」と書いていましたが、安定していたからこそ、こうして時間が経つにつれ、良さがじわじわと……あるいは急にパチン! とはじけるように胸を打ったのでしょう。

 
「天才もAIももう足りていてそれでも私は美術を学ぶ」
 これは今年の「現代学生百人一首」のうち、入選作品として宮城の大学4年生が書いた一句です。前にも書きましたが、やはり私は美術そのものの美しさもさることながら、それを創った人の気持ちに触れて心を動かされます。自分なりに美術作品と向き合い心をときめかせる……あえて自分の勝手気まま、心の向くままに自由な受け止め方をして感情を羽ばたかせるのも楽しいのですが、やはり英文科上がりの身としてはテキストがあると理解しやすいです。いっそう作品への愛着が湧くのです。後にまた別な作品に触れた時、それをよりよく理解するための助けになるのです。「心のピント合わせ」の技術が上がる……私なんかが言うのもおこがましいですが、「審美眼」が鍛えられるのです。
 そして私も人間として生きていこうという希望につながるのです。私にこういう感動を与えてくれる人間がいるのなら、私もその感動を伝えられる人間になろう、って。

 大げさですか? でもいいんです。
 美術も文学も、いかに心が動くかが大事なんですから。私はどちらも素人ですけど、心を動かされた人間として、そのことはしっかり伝えたいと思います。
 宮城教育大学美術科の皆さん、ご卒業/修了おめでとうございます。今回はたまたま『OH!バンデス』の伝言板デスを見ている時に開催を知り駆けつけた次第ですが、皆様の素敵な作品に触れられて、本当に幸せでした。これからの皆様のご活躍を心よりお待ち申し上げております。félicitations!

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 去る2/10、仙台フォーラスで【仙台藝術舎/creek成果発表展Vol.5「つくるところ」】を見ました。その中の一部分、赤瀬川沙耶さんによる東北大学日就寮に関する展示とそれに対する私の感想について、一度書きました。
2024年2月18日|それでも私は市民メディア

 その時こう思ったのは事実なんですが、時間を置いて写真を見返したり手持ちの資料を眺めたりしていると、その時とは違った感情が湧き上がってきたんですね。あるいは、心の整理がついて、その時に感じたことをちゃんとまとめられるようになったからかな。
 そんなわけで、改めて――今度は展覧会全体のことを含めて、振り返りたいと思います。また引用しまくり写真掲載しまくりですが(差支えがある場合は直ちに削除します)、これはこれで今の気持ちですから。手加減なしでしっかり書ききります。



◎テーマ 「つくるところ」について
現在、表現活動をめぐる状況は、高度に戦略的に見えます。
SNSやデザインツール、 AI をはじめとする様々なメディア環境によって、 作品を 授受することのグローバルな拡散性に満ちている一方、自身の表現を問い、 生み出す困難さやしがらみを感じることも多々あります。 翻って、私たちが暮らす 場所に立ち返ると、 地方都市 「仙台」で表現することにおける、どこか「むず痒い」 感覚も同時にあることでしょう。必要なのは、そのむず痒さを土着のクリティカルな感性の種とし、耕し育むことだと考えます。例えば、私たちが (仙台・・・etc.) で働き、学び、生活している理由を、一般的な現実や状況に求めるのではなく、極私的な好奇心や探究心、作品を制作する感性にまで開いてみること。これもまた、技術の習得と同等な「つくること」、そして「つくるところ」 へのプラクティスであるはずです。
キュレーター 丹治圭蔵 (5期生)



 今回の美術展は前もって開催情報を知って出かけたわけではなく……メディアテークで東北生活文化大学美術表現学科の卒展を見終わった後、余勢を駆って仙台フォーラスの7階にあったギャラリー『TURN ANOTHER ROUND』で何かやってるかな~? と思って立ち寄ったらやっていた……そういう感じで見ました。そして、今こうして記事を書こうとした時になって、頂いたリーフレットを読み、そのコンセプトを知りました。
 ただ、最近何かと繰り返し申し上げておりますが、切っ掛けはそれほど重要ではないと思っています。どういう切っ掛けであれ、実際にその展示内容を眺め、それが気に入ったということが緊要なのですから。

   *

 まず「おおっ!」と思ったのが、イトウモモカさんの作品「この街で生きるということは…」「明日はきっといい日になるよね」です。わざと1枚目の写真にもちょっと写り込むようにしたのですが、改めて全文を引用します。この文章も含めてすごく心打たれたからです。
 せーの、ドン!


これまで地元から逃れたいという気持ちを抱えて生きてきた。この場所にいるとトラウマが蘇るからだ。だがどんな遠くへ逃げても、生まれも育ちも宮城である私にとって帰る場所はただ一つしかない。 逃れることの出来ない絶望感を抱えていたが「つくること」を通して素晴らしい人たちと出会い、生きる希望を見出すことができた。 憎しみに執着して見ようとしなかっただけで、私には居場所があるということに気づいた。今いる環境で自分ができることを考える。それこそが心のケアにも繋がっている。 地元に対する特別な思いを表現した。


 ……
 最初に読んだ時もそうだったのですが、今こうして記事を書きながら読み返してみても、ちょっと込み上げてくるものがあります。岩手県盛岡市で生まれ育ち、トラウマが散々生成された十和田から逃れ、たどり着いた安息地が仙台である私にとって帰る場所はどこだろう……とか、逃れることの出来ない絶望感の代わりに、「ここが私の居場所だ」「この街なら私は私らしく生きていけるはず」と信じて日々を頑張る私は幸せなのかな……とか何とかって。
 この辺が、やっぱり「宮城出身か、そうじゃないか」っていうことなんでしょうね。宮城県、特に仙台市がホームなのか、そうじゃないのか。それによって考え方は全然異なるでしょう。当然です。イトウモモカさんにとっての仙台は私にとっての盛岡です。その辺の、異なる部分と重なる部分を少しずつ調整しながらしみじみと感じ入りました。
 ちなみに、イトウモモカさんの作品はタナランで開催された「にがつのねこといぬ」展さらに仙台フォーラス7Fのギャラリー『TURN ANOTHER ROUND』最後のイベント「アートバザール」でも拝見しました。良いと思います!


   *


 このイトウモモカさんの作品のほかに、しばらく手に取って見入ったのは写真集「帽子の女の子」でした。絵画などがメインだと思って見に来たら写真作品もあって、私自身も写真を好んでやる人類なので「ああ、こういうのもあるのか」と思って見ていて……作者の言葉を読まずいきなり作品を眺めたので、
 「ああ、可愛いねえ」
 「……あれ?」
 「……ああ、そうか……そういうことなのかな……」
 という順番で、自分なりにストーリィを作り上げ、後になってパンフレットを読み自分の推測が正しかったことを確認した。そういう次第でした。記事を書くつもりで眺めたわけではないので詳細なことは書けませんが、これは製作者の御母堂の生涯を追いかけた写真集であり――可愛いねえと言った幼少期のものは製作者の祖父が撮影した写真で、そういうことなのかなと推測したのは御母堂が帰天した1年後の世界を映したものだったのです。
 恐らくひとつのコンセプトに沿って編まれたものだとは思いましたが、それがどういうことなのかをテキストで知り、改めて得心しました。こうして、写真集という形で編み最後まで読むことで伝える方法もあるのですね。ただ、それは私みたいにちゃんと最後まで手に取って眺める人類でなければ伝わらないと思いますが……まあ、他の人のことはいいか。
 私はちゃんと受け止めました。それでいいですよね。

   *

 そして、改めて振り返ります。赤瀬川沙耶さんによる『日就寮の暮らし2023-2024』です。ステートメントに関しては、前回の記事を読み返すと一部省略していたので、改めて全文を引用させていただきます。





 本展覧会のテーマ 「つくるところ」 を問いかけとすると、 私のアンサーは「仙台の中にある閉じられたモノ・コト」へ向ける興味関心なのだと思う。

 自身が雑誌、ポータルサイトなどのメディアを用いた発信を飯の種としている一方で、無責任な手癖で運用されているメディアのあり方に疲労感を覚える。元・表現者としての目が残っているからなのか、マスメディアによる雑な報道は言うまでもなく、マスに属さないメディアが「適当でも速報性があれば良い」と持て囃される現代においては、編集を学ぶ意欲すら削がれる。

 マスに属さないメディアとは、ニコニコ動画やYoutube、ブログ、SNSをはじめとした誰でも情報発信できるものを指す。せんだいメディアテーク(以下・smt)の言葉を借りれば「草野球」的なものだ。堅く言えば、市民メディア。その市民によるメディアも商業的な手垢がつきすぎた。

 私はそんなものより、学生自治寮の壁の落書きや張り紙の方がよっぽど純粋な事実であり、本来の草野球的な市民メディアなのではないかと捉えた。クローズドではあるものの、形式にとらわれず学生生活を送る中での叫び、遊び、学びを残しておくことに純粋な美しさを感じる。その純粋さは大衆性、専門性の外側にある限界芸術のような趣がある。

 今回は東北大学日就寮の近年の暮らしや建物について寮内の「壁メディア (と勝手に呼ばせていただく)」のアウトラインをなぞる形で見聞録を制作した。正統派の編集やジャーナリズムの梯子を外した上で、壁メディアの変化や寮の位置付け、近年の暮らしのありかたを感じていただければと思う。


 このステートメントに対する最初の感想はすでに書いたのですが、展示内容を見て、さらに手元の写真を振り返りながら1か月後の現在どう感じたかといえば、
 「こんな60年代的な世界が、令和の時代にも生き残っていたのか」
 それが適切な言い方なのか、赤瀬川沙耶さんの伝えたいことと一致するのかどうかというと、まったく自信がないのですが、とにかく私はそう感じました。今からそのことについて、一生懸命自分が感じたことを説明します。
 1981年生まれの私が想像する「60年代的」な概念は、その当時を生きていた人――澁澤龍彥、寺山修司、三島由紀夫、四谷シモン――が書いた本を通じて組み立てたリブレスクなものです。そういったものをベースにして、テレビや雑誌などで触れた映像イメージの世界……特に大学生が「自治」を求め体制と全面戦争を繰り広げていたイメージなんですが、それがまだ八木山に残っていたのか!……と。そんなシステムは精神的なものも含め安保闘争の終焉と共に滅び去ったのだと思っていたので、これは本当に驚きました。さすが帝国大学以来の歴史を誇る東北大学ですね。
 そういう、閉じられた空間の中であふれかえる熱さが飾り立てられることなく壁に書きつけられたり貼り付けられたりした「落書き文化」と「張り紙文化」は、このところ積み上げてきた私の美的感覚を軽々と飛び越え感情に訴えかけてきます。これは私の「直観」なので、あまり上手に説明することができないのですが……。
 「いや違うから!!!」と怒られるのを覚悟で申し上げると、私がこの20年あまりやってきたことと似てるからかな。バズるとかトレンドとかとは一切関係なく、自分の身の回りのことを一生懸命にストレートに伝えること。
 確かに私もSNSをやっている時、思いがけず反響を呼んで嬉しくなったことはあります。一方で「今の時代、情報を発信するなら速報性や話題性をもった内容じゃなければならない」と思い、すっかり疲れ切ってしまったのも事実です。
 そして原点に立ち返り、私が読んだ本とか見た景色とかのことを時速100キロの勢いで伝えること(このブログ)を再開しました。ここ半年で原稿用紙数百枚分も書きました。寺山修司は「モノローグ的」と批判するかもしれませんが、それでいいんです。私の記事を読んでくれる人がいたし、私が書いた小説を気に入ってくれた人もいたし、私の服装を「可愛い」と言ってくれる人もいました。
 「時代の流れについて行けなくてもいい。取り残されてもいい。私は私が良いと思ったものを発信しよう」
 そういう人間なので、強力に背中を押してもらったような気がしたのです。私もそんなにくよくよしないで、思い切り自分が良いと思ったことを、自分の方法で爆発させればいいじゃないかって。

 既に私もそういうものを始めています。

 あちこちのイベントに参加し、感想を書くノートがあれば必要以上に書き込みまくり……

今年の1月末で閉店したアリオ仙台泉とか2月で長期休業に入り恐らく休業明けにはオーパになるであろう仙台フォーラスとかにメッセージを貼り付け……

 こんな感じで自分が良いと思った服を着て街を歩いているわけです。ああ、そうか、既にこういうことをやっていたから、共感しやすかったのかもしれませんね。

 というわけで、赤瀬川沙耶さんのステートメントを読み、展示内容を見て感じたことを書いた後で、改めて20年以上「市民メディア」と呼ばれるものをやってきた人類としての率直な気持ちをまとめます。
 安易に赤瀬川沙耶さんの言葉に乗っかるつもりはないのですが、私は私で「商業的な手垢がつきすぎた」市民メディアというものに対して疲れ切ってしまった……というのがあります。
動画の世界は言うまでもなく、私がやっているブログの世界も、私が書き始めた頃と比べると、やっぱり変わってきているな……というのは肌感覚で感じています。
 初めから私は商業的なこととか考えて始めたわけじゃないんですよね。むしろそういったもの、大衆性とは真逆のサブカルチャー的なこと、マニアックなこと、「私だけが知っている」ことをあえて書き、みんなに知ってもらいたい! そういう気持ちでホームページを始め、ブログを18年も続けているので……そう思っていたところでした。
 その一方で今回の仙台藝術舎/creek成果発表展も含め、昨年秋から色んなイベントに(観る側の人間として)参加しました。そしてローカルな世界で共有する作品や人との交流をたくさん体験し、少しずつ私がやりたいことを思い出し、再構成してきました。
 私はADHDでASDで……定型発達者の皆さんと比べれば心の発達が緩やかな人間であると自認していますが、それとは別にユング心理学でいうところの「内向的感情型」タイプです。いつだって他の人と話している時「こういう時、なんて言ったらいいのかな」「こんなことを言ったら、相手が変に思うんじゃないかしらん」ということばかり考えて、上手に言葉が出て来なかったりトンチンカンなことを言ったりしてしまいますが、その分、感じることにかけては自信があります。
 最近になって、感じたことを文章に翻訳する技術の方も、少しずつ身についてきた気がします。相手の言っていることを上手に理解することが苦手でも、とりあえず自分が感じたことを伝えたい。「そういうことじゃないんだけど!!!」と言われたら「ごめんなさい」ですけど、
 「とにかく私はそう感じた、そう考えた」
 それをすぐに引っ込めてゴミ箱に放り込むのではなく、それはそれとして大事にするのが、きっと心の成長に必要なことなんですよね。「あの時はこう思ったんだけど、それは実は、こういうことだったんだよね」って修正するために必要な材料としてね。そうやって少しずつ修正しながら、生きていければいいかな。
 それに、こんな私の言葉を、ひょっとしたら誰かが「いいね」って言ってくれるかもしれないし。――なんて、そんな夢まで見ちゃいました。壁メディア、良いと思います!

 思いつくままに長々と、私の心の一部を開陳してみました。美術展のレポートにかこつけて、心の整理をしているところをお見せするような文章になってしまいましたが……私という人間をわかってもらいたいので、最後までしっかり書ききります。
 今回の美術展はそんなアートと文芸の両面で心が共鳴し、こうした形で昇華させることができた――とても良い機会に恵まれたと思います。赤瀬川沙耶さん、イトウモモカさん、そして今回の美術展に出展された皆様、ありがとうございました。好き勝手なことばかり申し上げましたが、どうか怒らないでくださいね。

 恐らくアートと文芸は、これからもずっと大好きであり続けると思います。

 アートは私の感情を解放し爆発させ心を生かすために。
 文芸は爆発的な感情をうまく制御し心を活かすために。

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 さる2月27日、せんだいメディアテークで東北工業大学生活デザイン学科の卒展を見ました。
 この日は元々宮城教育大学の卒展を見るために街に繰り出したのですが、初日は開場時間が遅いことを現地に着いてから知り、「ちょっと図書館にでも行ってみるか」と言って仙台市図書館も入っているメディアテークに行き……
 「へえ、今こういうのやってるんだ」
 「時間もあるからちょっと見てみようかしらん」
 という感じで見てきた……まあそんな感じです。切っ掛けとしてはひどいものですが、ともかくこれが事実だから仕方がありません。前にも書いたような気がしますが、切っ掛けなんか何でもいいんです。内容を見て面白かったり為になったりプラス要素があればそれでいいんです。むしろ私は「来るべくして来たのだ」と受け止めます。シンクロニシティ!
 東北工大の卒展は2回目ですね。こないだは産業デザイン学科の卒展でしたが、今回はライフデザイン学科……いずれにしても私が門外漢であることに変わりはありません。2回目ということで気安さにもターボがかかっているので、何らためらうことなく突撃しました。
 そして、激動する世の中の一挙一動に反応することに疲れ「大問題を論ずる興味を急速に失っていった」(澁澤龍彥『黄金時代』河出文庫版あとがきより)私でさえ、身近な生活や私の本分である文学の世界にまで切り込み、理系ならではのアプローチで作り上げた学生の皆さんの理論に驚嘆し恐れ入ったのでした。
 そういうことを私のポンスケブログで語ったところで、どうせ誰も見てくれないと思いますが、私は私なりに精いっぱい感じたことをまとめます。いつだって、そうしてきたんですから。どうせ誰も見てくれないと言いつつ、もしかしたら誰かひとりくらいは「ヘェー」って言ってくれるかもしれない……いつか、いつかきっと……そう信じていますから。



 ……
 「生活デザイン」は、人間の心身や生活を起点として、地域社会の価値向上や課題解決についてデザイン探求する分野横断的な学術領域です。 地域社会や環境の変容と向き合い、具体的な解決・改善に貢献することを目標に、下図の10 研究室に分かれて探求してきました。 本企画は、これに関わる卒業研修・修士研修の成果を展示するもので、大別して、知識技術を統合してデザイン提案する 「制作」と、 価値向上や課題解決に関わる諸問題を明らかにする「研究」に分けられます。また会場内には、現1~3年生の一部作品も展示しています。
 とりわけ、今回展示している卒業研修は、入学と同時にコロナ禍でのオンライン授業に突入した学生たちがとりまとめた成果です。 困難は多くありましたが、みなそれぞれの課題に向きあい、乗り越えました。視点や提案は大小さまざまですが、生活デザインの重要な課題に向きあい、一隅を照らしてくれました。 そうしたもろもろを想像しながら、ご高覧頂ければ幸いです。


 一隅(いちぐう)を照らす。素敵な言葉です。私もそんな挨拶を受けて、門外漢の気安さで見てみました。見てみたというか、やっぱりテキストが多くて、それをじっくりと読んできました。何分にも強度の近眼で高いところにある細かい文字が読めない……ということもあり、写真もビッシビシ撮ってきました。ここだけで150枚近く撮ってましたからね。それを全部振り返って、その時に感じたことも合わせて……ただ、それを全部書き出そうとすると、さすがに私も大変だし読む方はもっともっと大変でしょうから、ほどほどにまとめてみようと思います。

   *

 文学や芸術の世界は受け取り手次第で色んな解釈が生まれるものであると思っているのですが、科学の世界には物理法則というものが横たわっているので、「何に対してどう考えて、どんなアプローチをしたか」というのが極めて明快なんですよね。すなわち、
「自然科学者が書いた随筆を読むと、頭が涼しくなります。科学と文学、科学と芸術を行き来しておもしろがる感性が、そこにはあります。」
(STANDARD BOOKS刊行に際して)
 ということなのです。文学や芸術の楽しみ方にも幾何学的精神が持ち込まれ、よりいっそうはっきりとした輪郭線を見出し親しむことができるのです。なんて、これは今記事を書きながら思いついたことなんですけどね。でも今回の展示では本当に、文学と科学の世界をクロスオーバーする卒業研究があって、すごく刺激を受けました。これからその内容について、自分の感想を中心に紹介したいと思います。


 すべての展示を眺めてみて、結構「こういうのが多いのかな」と思ったのは、やはり少子高齢化とか時代の流れとかによって過疎化が進むエリアの再開発に関するアイデアですね。私の大好きなウラロジ仙台さんでも取り上げられ実際にオートバイで行ったこともある丸森町筆甫とか、私の地元である盛岡市の中でも特にお気に入りの場所である盛岡市立図書館のある高松地域とか。中には仙台駅周辺のように「人が留まるスペースがないから結局郊外に人が流れていく=ドーナツ化現象」現状を改善するべくマイクロパブリックスペースを作ろう! という研究もあって……昔、仙台駅前でやった社会実験movemoveを思い出しました。あれで私も体験的に、「街中に人が留まれるスペースがある方が良い」と考えている人類なので、これは大いに共感しました。良いと思います! その気持ちを伝えたいので、写真を掲載していいのかどうかわかりませんが掲載しちゃいます!

   *

 ここからは、私のなかにある「科学と芸術を行き来しておもしろがる感性」が強く刺激された展示を2点紹介します。


 こちらも丸森町に関連したことですが、私が特に興味をひかれたのはアートを引き金に街の活性化を図ろうというアプローチをしていることです。超現実主義画家というと超時空要塞に似た力強さを感じますが、そうか丸森町にはそんなスゴい人の文化資源があったのか! というかそんな人がいたのか!……まだまだ私は素人ですねスミマセン。でもいいんです、これをきっかけに一歩ずつアートの海に入水するんですから。それと同時に街の活性化についても考えられるのなら、これほど面白いことはありません。


 これは気仙沼の街の活性化を目的に新規作成された絵画ですね。アートを引き金にという点では先ほどの丸森町のそれと共通する部分がありますが、その内容としては超現実的なものではなくて、むしろ人々の現実、特に独自の文化が発展しにぎわっていた昭和30~40年代の気仙沼市の生活を盛り込んで制作されたもの……ということでいいのかな。今改めて、写真に撮ってきたパネルの記事を読んで私なりに解釈したところでは、そんな感じです。
 たくさんのエピソードを一枚のキャンバスにまとめ上げる作業というのは非常にアート的なことだと思いますが、その工程をフローチャートで説明するところが出色ですね。絵画もやはり技術の積み重ねなんです。それを包み隠さず説明してくれたことは、私にとっては非常に大きな収穫でした。これまた、いぎなり良いと思います!
 ただ、私が感情的に良いと思います! というだけでは消費されて終わってしまうので、そうならないよう最後にこちらの研究をした学生さんのまとめを引用します。


 以上のことを踏まえて、アートという手法を使った調査おいて判明したことが2つあった。1つ目は、アートがきっかけで人々に研究への関心を持ってもらったことである。 聞き取り調査では、人々に「人々の気仙沼市への思い出から絵画制作をする」旨を伝えると、絵画制作について関心を持つ人々が多かったからである。 また、自分の思い出が絵画として表現されることに好奇心を持つ人が居たことである。2つ目は、多くの人に協力して貰う為には気仙沼市民を中心に気持ちに寄り添った研究をする必要があることである。特に、震災関連の研究によっては 「感動ポルノ」 や 「震災をネタとして扱っている」と捉える可能性があるからである。 その為、本研究では研究のきっかけや今まで行って来た研究を明示した。以上のことを踏まえて、本研究では人に取材する上で、本研究の説明が上手く伝わらないことがあったが、滞在取材やエピソード集計、フィー ドバックでは、人々から「気仙沼への想い」を聞き出せたと考える。


 私は門外漢のいち市民メディアなので専門的な分析や批評はできませんが、「震災」という大きな(そして重い)テーマに対して複合的なアプローチをして、こうして科学と芸術を行ったり来たりしながら形にしたのが本当に面白いなと思いました。この気持ちを忘れたくない、こういうスタンスを私も真似してみたいと思ったので、特に詳しく感想を書きました。いぎなり良いと思います!

   *

 今回の卒業展示はせんだいメディアテークの5階のフロア全体を使って行われたのですが、隣の会場に行くと、今度はいかにも理系の大学って感じの研究発表に出くわしました。さすがに全部は書ききれないので、特に印象に残ったものをいくつか紹介します。


 まずは、これですね。「画像生成AIを用いた建築パース生成手法に関する基礎的研究」……いいですね、いかにも理系の卒論って感じのタイトルです。そして生成AIといえば、最近じゃほとんどの人が「聞いたことがある」程度の浸透度合いを見せている代物です。私も文芸オタクではありますが、一応ITパスポート試験に合格するくらいの知識はありますから、ちゃんと最後まで読んで「そういうものなのだな……」と得心することができました。
 こうしてAIを育てることは、残念ながら私にはできないでしょうが、それでも『仮面ライダーゼロワン』みたいに、人間とAIが助け合って生活する世界は確実に近づいていると思いました。今のところ私は積極的にAIの助けを借りることはありませんが……いつか、ね。イズみたいなヒューマギアが私のもとにもいたらいいなあ、なんてくらいのことは思いますよ。そういう未来を夢見る権利くらいは、私なんかにだってあるはずです。





明るい洞窟

洞窟に入ると次第に前の人の姿が闇に消える瞬間がある
見えなくなってもその存在はわかる

明るい光と暗い闇という二つの関係性において
私は”明るい闇”というものが存在すると考える

光 と  闇
直進する光 と 屈折する光
見えること と 見えないこと
近づくこと と 遠ざかること

おもかげとうつろい
お日様の下で不確かな像が現れては消えていく

本制作は光から建築を見つめ直す試みである


 このステートメントの雰囲気も極めて文学的アート的な印象があって気に入ったので、それも含めて写真を掲載します。最初に掲載した2枚の写真は、「ものが見える仕組み」……光源から出た光がものに当たり、反射した光を私たちが目で受け止めるという原理をふまえて、あえて光の方向を変えることにより、そこにあるものが見えなくなるという理論を誰でもわかるようにした実験装置です。どんなに目を凝らしても、このアクリル板を通すと見えなくなってしまうんですね。不思議といえば不思議ですが、神秘でも何でもないんです。すべては物理のうえに成り立っているのですから。
 そんな私の認知・発見・気づきによる心のときめきを見越していたかのように、ステートメントの最後にはこんな文章がありました。これまた素敵な文章なので丸ごと引用させていただきます。


本設計ではものが見えるという現象について根源的な仕組みから掘り下げ、光の屈折という一つの テーマに終着した。制作を進めながら現象とは何かということをずっと考えていた。ある時それはみえていなかった”存在”を” 知覚” する瞬間なのではないかという結論に至った。既に目の前にある事象が、ある条件下で姿かたちを少し変えて私の前に現れた時に私はその存在をようやく知覚する。柱があればそこに影が落ちる 落ちた影が光の存在を私に知覚させる そのようにしてまだ知覚できていない目の前の事象をそっと掬い上げるような空間が出来た時、初めて建築と環境が調和したといえるのではないだろうか。 本修士設計では、レンチキュラーと呼ばれる光学レンズを用いて壁 のみでの思考に留まったが、建築と環境の知覚については自身の卒業設計から続く終わらないテー マである。 これからも引き続き考えていきたい。


 改めてしっかり文章を読み直してみると、小林秀雄みたいな鋭く怜悧な言葉ですね。これをきちんと理解できたという自信はありませんが、それなら理解できるまで胸に秘めておいて、また何度でも振り返ればよろしい。楽しみが長く続くに越したことはないのですから……。

   *

 「記憶をもとに設計し記憶を積み重ねながら暮らしていける家」「緑の侵食をうけながらも残り続けたいという建物の意志を汲んだデザインの在り方」「台湾の新竹市にある軍需工場の遺跡を再利用した『異空間並置設計論』」「現在の日本人の死生観を改めるための『葬儀~後に故人と向き合う場』の建築デザイン」……撮りまくった写真を振り返り、そこに書かれた記事をしっかり読み返すことで、どれもこれも面白いなあと思ったのですが、文芸オタクとして最も深いところに突き刺さった研究を取り上げます。



 
言語は感情を変化させる一つの手段であり、生活をする上で欠かせないものである。 小説から感情を読み取り、「私」自身がイメージする空間イメージを頼りに、言語表現から空間を形成し、感情の印象を埋め込む。 そこで本設計では自分自身の感情と向き合える「小説」という媒体を使い、小説の文章を修辞法の一つである隠喩を用いて、空間イメージと掛け合わせながら、言語化し、主人公の感情をこれまで自分が体験したイメージの中で空間を知覚し形成する。 言葉により紡ぎ出される主人公の感情を自分の体験したイメージから空間の設計を試みる。



 小説の世界というのは文系の……盛岡大学文学部英米文学科を卒業した私にとっては本丸のようなものです。ここは決して理系の世界の人たちが立ち入れない領域であり、逆にこの文系の世界の人間だから理系の世界には入り込めないんだ……と思っていただけに、この研究発表は衝撃でした。あくまでも私は感情を言語で表現することが一等得意な人間なので、こうしてオブジェとして小説の世界を実直に表現する試みというのはまさに幾何学的精神に基づく真面目な研究成果であると思います。私に出来ないことをやってのけたことに、素直に感動してしまったのです。

 感情を形にする作業ではありますが、そこに不純物が入り込む余地はありません。ひたすらまっすぐに空間イメージを作り上げ、出来上がったものがこれらのオブジェです。

 建築家でも美術家でも、いや何だったら小説家でもなんでもそうですが、やはり形を作るためにはきちんとした体系だった技術が必要なのだなと痛感しました。たぶん20年前、私が足りなかったのはそういう技術なのでしょう。色んな本や解説書を読んで「そうかな!」と思って、それを引用しながらでっち上げた卒論は、いま思い返してもひどい出来だったと思います。
 ただ、20年経った今なら「それが私の限界だったんだろう」と思います。今更「ああ、もっと勉強しておけばよかった」なんて思いません。ともかく私の大学時代は20年前に終わっているのです。そして今回も含めてたくさんの卒展を見て回り、改めて自分の限界を確認したうえで、「これが私なら仕方ないか」という一つの着地点を見出すことができました。
 私なんかに出来ることはそれほど多くありませんが、一応社会人として生きているわけだし、全くないわけじゃないはずです。それなら出来ることを精いっぱいやって、出来ないことはできる人にやってもらえばいい、という未来への道筋もできました。そういう人を育て世に送り出すために教育機関というものがこの世に存在し、教える人と教わる人が存在するのだから、それでいいはずなのです。
 (関連記事:20年目の卒業



 たくさん引用しながら書いたので、単純に文字数だけ数えればメチャクチャ長くなってしまいましたが、そろそろこの小文もまとめます。最後に、今回の東北工業大学生活デザイン学科の卒展および、先に見た同大学産業デザイン学科の卒展そして記事には起こしていませんが宮城大学事業構想学群価値創造デザイン学類卒業展示(公式ホームページ)も合わせた「理系の卒展」を見て回ったことをまとめた感想を書きます。
 いずれも「メディアテークに行ったら何かやっていた」「入場無料だしとりあえず見てきた」的なきっかけで立ち寄ったのですが、実際に見てみると本当に面白くて、いっぱい楽しませてもらいました。イベントってたいてい身内とか友達とか学校関係者の人が主で、いくらこういうパブリックな場所で開催されているからと言って私みたいな純然たる門外漢が行くような場所ではないと思うのですが、それならそれで新しい発見、化学反応みたいなものがあるんです。
 テーマにしても、私たちが住んでいる街のこととか身近なものを取り上げて、それを深く掘り下げて研究成果としているから入りやすいし。パネルとして掲げられているサマリーも、誰でも理解できるようわかりやすくまとめられているし。そうして色んなことを知って、新しい考え方――そこまで大上段に構えなくても、日々の生活の中でそれまでとは少し違ったものの見え方や気づきが生まれ心が動く瞬間が増えるようになれば、私はそれでいいと思うし、研究成果としても成功だと思うのです。
 最初に見た宮城大学の卒展では、私も初めての「理系の卒展」だったのでドキドキしていたというか、「私なんか場違いじゃないかしらん……」という後ろめたさもあって、まだ心を閉じていた部分がありましたが、ひとつひとつの展示を丁寧に読み……中には展示ブースの前にいて自ら内容を説明してくれた子もいて(代わりに私も自分の感想を直接伝えることができて嬉しかったです!)……「なるほど、結構面白いものだな」ということで確かな手ごたえを感じました。
 それをふまえて行った同じ東北工業大学産業デザイン学科の卒展は、まだそこまで深く掘り下げるには至りませんでした。これはひとえに私の心が「理系の卒展」というものの見方に慣れていなかったためであって、実際に見てみて面白かったのは事実です。それは感情として記憶しています。ただ、具体的に何がどう面白かったかということをまとめるためには、もう少し私の心のチューニングが必要だった。そういうことなのです。
 そして今回、ひとつの集大成として……とにかく可能な限り書ききろう! と思って書ききったのが今回の記事です。他にも取り上げたい研究テーマはたくさんありましたが、それらを全部書ききることは私の手に余るのであえて絞りました。
 書くためにその内容を読み返し、それをもとに自分で文章を書いてみると……美術展の感想と違って、初めからきちんと理論が出来上がっているものを書くので、ある程度伝えやすかったのかな、という気がします。いつも形の無いマグマみたいな感情を拙い語彙力で何とか形にして作り上げてきたのですが、幾何学的精神というか、より論理的で立体的な伝え方が出来るように頑張らなくちゃいけないな、という新しい目標が見えてきました。それをどこまで実現出来るかは未知数ですが、やはり文章で伝えるためには、そういった技術も身に付けなくてはいけませんよね。
 とまれ、文系出身だろうと理系出身だろうと、色んなものに触れてみるのは大切です。臆せずどんどん、こういう機会があればアタックしてみたいと思います。

 改めて……。
 皆さん、ご卒業おめでとうございます。未来は皆さんのように一生懸命勉強しその成果をきちんと形にできた人たちによって創られるものと信じています。私は20年先に卒業した先輩として、皆さんが活躍するための世の中を作ってきたという自負があります。これからも生きている限り、私にできる範囲で世の中を作っていくので、皆さんが勉強してきたことを目いっぱい生かして活躍することを祈っております。
félicitations !

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胎に刺さったリボン

私が自分らしく生きるために、私の中に強く存在する「女性性」を肯定したい。

 第二次性徴が訪れ、思春期には身体に様々な変化が起き、自分の身体ながら嫌悪し、戸惑いを感じたのを覚えている。気が付くと私の意志に反して肉体は女性になっていた。同年代との会話の内容も、恋愛や外見に関する話題になり、次第に自分に存在する女性性は強くなっていった。
 女性性という言葉は、グロテスクで呪いの言葉の様でもある。美醜に囚われたり、月経で苦しんだり、差別の対象になる事も。それでもそういった地獄を憎む一方で、美しさを感じ、愛着が湧いてくる。多様性が求められる中で女性的な表現は時代錯誤かもしれない。しかし、その表現は本来、他者を決めつけ、傷つける様な言葉ではない。誰もがそれぞれの自分らしさを追求する今だからこそ「女性らしさ」が個性を表現する一つの言葉として生き続けていく事を願う。
 今回の展示では三人の作家が各々の視点から、自身に存在する女性性を見出し、絵画として「女性らしさ」に対するアンビバレントな感情を表現している。それぞれの作品から可愛さと残酷さが共存した世界観を感じてもらいたい。



 2月2日と3日に仙台アーティストランプレイス(SARP)で見た「かんの」さん「トキワ」さん「さかいふうか」さんによる三人展『胎に刺さったリボン』は、私にとっては非常に重大な出会いでした。2022年11月に同じ場所で見た「わたし、にしかみえない星」展に次ぐ衝撃を受けました。
 ステートメントにある『私が自分らしく生きるために、私の中に強く存在する「女性性」を肯定したい。』というのは、丸ごと現在の私が求めるテーマです。ちょうどこの日は隣のスペースで「足跡」展を見て、人生で初めて「可愛い」と言ってもらっていよいよ自分の中にある女性性を肯定しつつ生きようと踏み出したところだったので、余計に強く共感共鳴したのかもしれません。この会場でSARPの人からも「可愛い服装ですね」と言ってもらえたから、もう後戻りはできません。私はこのまま自分の中の「女性性」を肯定し、心の生きづらさを軽減して、私らしく生きていきたいと思います。
 と言いつつ、次の日は仕事帰りに男性の格好をして見てきました。そしてお店の人に改めて感想を伝え、「昨日来たことに気づいていないのかな」すなわち「昨日の私と今日の私は別な人間だと思っているのかも」と感じるに至りました。それならいよいよ「佐藤非常口」と「鳴瀬桜華」でそれぞれ別人格として振る舞うのも面白いかもしれません。
 ……でもこれって、冗談ではなく、結構、本気なんですよね。こうして「男性として『女性性』に触れる」のと「女性として『女性性』に触れる」のでは、やっぱり感じ方が異なるんです。もちろん私の中にある女性性というのはアニマの女性性であって、生理の苦しみなど「女性の肉体をもって生まれ育った女性」じゃなければわからない感覚というのは絶対にあります。そのあたりは矢川澄子さんの本をたくさん読んだのでわかります。恐らく私がどれほど女性に近づいたとしても「あなたは男性だから、わからないでしょうね」と袖にされることは覚悟の上です。
 それでも! 私は自分の中の女性性を肯定します! それが私の心を護り、健やかに生きていくために必要なことだから!…… 
 だから、そういう一歩を踏み出す手助けとなった今回の『胎に刺さったリボン』展は、私にとっては人生で2番目に重大なイベントだったのです。まったく素晴らしい三人展でした……このあとSARPの方から卒展の案内ポストカードを頂き、実際に行ってみて感動したのは先に書いた通りです。



 一度目に見て、二度見て、卒業制作を見た後三度目に撮りためた写真を見て暴れまわる私の感情をノートに活け造りにしたのですが、ここらできちんとまとめておきたいと思います。これはちゃんとオープンにしないといけないと思ったからです。
 今回は三人展ということで、ステートメントにもある通り、それぞれの描き手が「各々の視点」から制作した作品がありました。なので私の感想も見た順番に書き出していきたいと思います。その説明をするためにも、皆さんの作品の写真も掲載させていただきます(会場で「撮影可、SNSなどで公開可」と書いてあったので)。

『幻想』の女性性:さかいふうか


 さかいふうかさんの作品から感じたのは「幻想」から入る女性性でした。ピンクやマゼンタという色合いには、なぜか女性のイメージが連想されます。それがベースの温かい……たぶん、その色合いに加えて人物の中心や周囲に光があるからなのかな……光の中に浮かぶ女性のヴィジョンは、率直に言ってとても可愛らしいと思うのです。それと同時に、その切ない表情から「内包している悲しみ」があるように感じました。ただただ可愛いだけならそれでおしまいですが、それだけでない生々しさ(=感情、人間らしさ)があるので、どんどん心の中に「可愛さ」という肯定的感情があふれてきます。そして心が「可愛さ」で満たされた時、ようやく私は絵の前から離れることができたのでした。

『感情』の女性性:トキワ

 

 トキワさんの作品を見た感想をまとめると「感情」の女性性であり、逆巻く波の中にダイヴィングするような体験でした。ご覧の通り表面的にはとてもアニメ的で可愛い女の子がいるのですが、それに近づこうとするとたちまち表面的なものが崩れ、激しい感情の濁流にのみ込まれるのです。しかし、それは息苦しくてすぐに逃れたくなるようなものではなく、むしろ私の中の女性性と呼応し、しだいに流れに乗って心が解放されていくのを感じました。
 ここからは、先ほどの活け造りノートをそのまま引用してみます。
 
<それは大きなキャンバス地に描かれた少女の幻影や図形やひとすじの曲線……それが「何かわかるもの」と「何かわからないもの」が自在に入り乱れた世界に新しいものを見つけるたび少しずつ加速し、私の意識のキャパシティが限界に到達するまで続き……これ以上「心のままの世界」に意識が耐えられなくなったところでキャンバスから視線をそらし、かろうじて現実に戻ってくることができたのだった。……この三人展で最も激しく感情を動かされた。それがトキワさん。>
 そういうことなのです。読み返してみるとスゴイこと書いてるなあ、と思いましたが、まあ実際にそうだったんだから仕方がありません。ええ、そういうことなのです。

『原始』の女性性:かんの

 ノートには、「胎に刺さったリボン」というタイトルを一番象徴的に表していたのが実はかんのさんなんじゃないかと思った、と書いています。これは卒展でお三方の卒業制作を見た後の感想ですが、パッと見て、「可愛い」とは少し違う感想を抱きました。もっと肉感的な温かさ、暗黒的な……それゆえ心安らぐ感じがしたのでした。
 その感覚をたどって行けば、胎(内)……まだ意識や人格のない、形の定まっていない人間の原初の記憶までさかのぼるのではないか、と。
 ユングかぶれの私はこれを『原始心像』の世界だ! というふうに解釈しました。あまりにもプリミティブで、普段は意識の俎上に載らない……でも心の奥深いところで共感する温かさ。普段の私を動かしている自我からはうんと離れたところにあるから、深い共鳴が起こるんでしょう。
 たとえがあまり適当ではないかもしれませんが、それはまるで地震のようなものです。地下数十キロという深い場所で激しい動きが起こると、それが地表の全てをなぎ倒すような強大なエネルギーとなるように……さかいふうかさん、トキワさん、かんのさんの作品をぐるりと見て回っているうちに共鳴強振した私の女性性は自我を突き破り、あらゆる感情を、感覚を、意識を、理性を飲み込み……
 あえて断言します。信じてもらえなくて結構ですが、私は全く正直に感じたことを言います。
 私は服装だけでなく心的に女性として三人の世界を眺め、共感、共有しました。これほどまでに私のアニマが強い力をもって心を支配した体験はありません。それくらい特別な体験だったのです。
 それは翌日、男性として同じように絵を眺めた時、「可愛いとかきれいとかだけじゃない、ちょっとドロドロしたところが良かったです」としか感想を伝えられなかったことで確信しました。具体的にどう感じたのかを正確に伝えると、これほどの言葉が必要になります。
 そして、マンガで書くとこういうことになります。

 ノートに書き、それをさらに修正して言葉にすることで、少しずつ感情を御することができるのかな。これが私の『胎に刺さったリボン』展の感想です。

   *

 さかいふうかさん、トキワさん、かんのさんについてのファーストインプレッションを書ききったところで、もう一度、東北生活文化大学美術表現学科の皆さんの卒展について触れます。


卒展全体に対する記事はこちら

 個々の作品の感想については、既に書ききってしまったので、「その感動がキャンバスの面積に比例して大きく感じた」という程度にとどめておくことにしましょう。なお、さかいふうかさんは小さな部屋の形を作り、その中に展示するというインスタレーションという形式で作品を制作されていました。昨年見たRimoさんの個展に続き人生で2度目のインスタレーション体験です。素晴らしい。
 こちらも2回行ったのですが、2回目に行った時は「作品と一緒に私自身を撮影する」という試みを実践してきました。VRでやっているようなことをアナログ的に再現する。いったん自分を二次元の世界に閉じ込め、それを見ることで復元する。そういう試みです。それによって世界を外側から見るのではなく、ちゃんと同じ世界に実在することを再確認することができました。私が良ければそれで良いんです。





 以上で、『胎に刺さったリボン』展にまつわる私のお話はおしまいです。すでに3週間くらいが経過しましたが、その間に卒展などもあって……やはり醸成する時間が必要でした。また、「女性性」がテーマだけに、私の心の準備も必要でした。今日はこうして自分の部屋にて、女性らしさを十分に高めて書きましたが……やはり自分が女性であると思うことで、とても心安い気持ちになれるのです。
 改めて性自認というのは、必ずしも肉体の性別に従うものではないと思いました。肉体的にどうであれ、自分が一番自分らしく思える形で生きることが基本的人権として尊重されるべきことだと思うので、私も自分の女性性を隠さずに記事を書きました。私なんかがこんなことを書いたところで、決して多くの人に受け入れられることはないと思いますが、そういう人間が仙台にいるということを知ってもらえたら、私みたいな人類でも生きる価値があるのかなって……そう信じたいです……。

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 2月22日、仙台アーティストランプレイス(SARP)で開催された専門学校日本デザイナー芸術学院写真映像科の皆さんによる写真展を見てきました。
 会場は2ブロックに分かれていて、ひとつは1/2年生の合同展 ”reminiscence”で、もうひとつは1年生による『それぞれの「あい」が集う写真展』という内容でした。私が行った時には雰囲気のある若きアーティスト然とした青年が熱心に写真に見入っていたので、私も静かに眺め、真摯に感想をアンケート用紙に書いてきました。なおこの時は仕事帰りだったので男性の格好で行ったことを念のため書いておきます。
 日本デザイナー芸術学院写真映像科といえば、こないだせんだいメディアテークで開催された卒展を見て「これはスゴイ!」と感動した経緯があったので、割と積極的な気持ちで行きました。
 そして(高校時代は写真部にいたとはいえ)専門的な勉強をしたことがなく、一眼レフも持っていない私なんか足元にも及ばない素晴らしい写真に打ちのめされ「もう写真が趣味だなんて言うのやめます」と泣きながら会場を後にしたのでした……かというと、そんなことはありませんでした。
 素晴らしい作品ばかりだったことは間違いありません。ただ卒展の時に見たような、私が想像できる範囲を超えた衝撃的な作品というよりは、とても共感しやすい作品だったのです。作品を見て、そのあとキャプションの説明……作り手のイメージを文字で補完したうえで、
 「私もこういう写真、好きだなあ」
 そう思ったのです。
 もちろん、私に同じような写真がすぐに撮れるかといえば、そんなことはないでしょう。まず、イメージを実現するための機材が必要ですし、物理的に実現できる限度が低ければ、作り手の技術向上にも制約があるでしょう。たくさん経験を積んでレベルアップするためには、コンピュータゲームでいうところの「レベルキャップ」を外す必要があります。スマホカメラでデジタル一眼レフと同じような写真を撮ることは物理的に不可能です。別物なのです。
 ただ、「どういう写真を撮るか」という題材探しとか……体系的な技術ではなく感覚的な部分であれば、私でもなんとか追いつけ追い越せで近づく余地があるような気がするのです。
 そういう気持ちで共感しながら自分の感覚を広げていくことが楽しいのかな。たといSNSで10万いいねがつくようなフォトジェニックな写真じゃなくてもいいんです。私の撮影した写真だって「よさはあるはずだし、好いてくれる人もいる」そう信じて、少しでも良い写真が撮れるよう、撮り続けます。

 私はまずは私のために写真を撮るんです。
 その先に、誰かが共感してくれることを信じて。

 ……うん、これでいい。
 上手な写真じゃなくてもいいんです。そういうのは他の人に任せます。私は私が良いと思える写真を撮れればいいです。同じように良いと思ってくれる人がいる(かもしれない)写真。
 これからは、そんな自分の気持ちを大切にしながら、たくさん他の人の写真も見ます。素敵な写真をたくさん見て、自分の心を磨いていきたいと思います。







 という流れで書いてしまうのは少々申し訳ないのですが、2/20にタナランで「にがつのねこといぬ」展を見て、さらにその後東北工業大学の卒展を見た後、同じせんだいメディアテークで開催されていた東北大・東北学院大・東北工業大の写真部有志による三大学合同写真展を見てきました。
 結果的に短いスパンで若い人たちの写真展を見たわけですが、心の中で比べてみると……同じくらいの世代の人たちが撮った写真でも雰囲気が異なるんですよね。
 あくまでこれはセンスだけで写真を撮る門外漢の気安さで、主観を大切にして語る言葉です。その上で「この印象の違いは何だろう?」と思った時、こんな言葉が浮かびました。すなわち、
 「技術が先行するのか、感性が先行するのか」
 ということでした。
 どちらも素晴らしい写真なんですが、大学写真部の皆さんの作品は「プロっぽい」んですよね。この言い方がいかにも素人っぽいので嫌だから言い換えると「技術が感性を追い越していない」というか……つまり「安定感がある」んですね。ヴィヴィッドな紅葉の写真にしても、微笑みながら手にした飲み物の缶を掲げる(「乾杯!」のポーズ)写真にしても、パネルの端から端までピシッと定着化され、見ている私も心の揺らぎが起こらないんです。安心して「ああ、綺麗な写真だなあ」「こういう写真が撮れればいいなあ」と眺め、感じ入ることができる写真なんです。
 それに対して専門学校で写真を勉強した人たちの写真は、「感性が技術を飛び越えて私に訴えかけてくる」印象でした。直接私の感情に訴えかけてくる写真。撮る人も割と自分の感情を表現しようとして結構センシティブな感じに仕上げてきている(とキャプションから読み取れた)から、私もより感情が動くのです。感情家ですから、そういうのはすぐ反応しちゃうんです。

   *

 どちらかだけじゃ足りなかったのです。両方合わせて、私のなかで結実しました。それらを合わせて、私は私の写真を撮る。これでも社会人になってから、観光写真コンテストで表彰されたこともあるし、スマホカメラだって捨てたもんじゃないはず……上手な写真は撮れなくても良い写真が撮れればいいんです……だからやっぱり、写真は一生続けると思います。
 専門学校日本デザイナー芸術学院写真映像科の皆さん、各大学写真部の皆さん、ありがとうございました。私が写真部だったのはもう25年も前のことになりますが、写真好きとして皆さんのこれからの活動を応援しております。また写真展があればお伺いしたいと思いますので、頑張ってください。終わりで~す!

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 2月20日、せんだいメディアテークで東北工業大学産業デザイン学科の卒業制作展を見ました。
 東北工業大学というのは私の兄の母校です。今から25年ほど前の話になるのですが、センター試験経由で東北工大に入学した兄は優秀な成績で同大学を卒業、IT系の企業に就職し現在に至るまで自動車の制御システムとかカメラの制御システムとか、最先端のテクノロジーに関わる人類として活躍しています。
 当時中学生~高校生だった不肖の弟はそんな兄のいる仙台に何度か遊びに来たことはありますが、私自身は特に関係性がないんですよね。まったくの門外漢です。文学部上がりだから文系理系の段階で異なるし。
 しかも私がエレベーターを降りた時は学生のプレゼンテーションが行われているところで、とっても厳粛アカデミックな雰囲気であり、私なんかが来るところじゃなかったんだ! って言って逃げ出そうかと思いました。
 
 しかしながらエレベーターを降りた時点でこの格好でしたから、この卒展しかやっていないフロアに来て何もせず引き返したのではいよいよ不審がられると思い、
 「こうして誰でも見られる場所だから来ましたが何か?」
 という『門外漢の気安さ』(河合隼雄先生)で冷静を装い受付を済ませ突入しました。

 およそ社会活動の役に立つ見込みがなさそうな文学と違って、産業デザインというのは直接世の中の仕組みを作る学問であると思いました。
 「科学は人の生活を助ける」
 これは90年代の名作ゲーム『メタルギアソリッド』の登場人物の台詞ですが、きっとこういう学問をしている人たちは、そんな思いでやっているんだろうなと思いました。実際、皆さんの研究成果は私たちが生活しているなかで苦慮する問題を解決するために「こうすれば何とかなると思います」といって編み出したようなシステムばかりで……
 「やはり私が生きている世界というのは、こういうことを一生懸命に創ろうとする人たちによって創られているんだな」
 そう思いました。
 
 そういった人たちの真摯な研究成果がたまたま2024年現在の最新心的外傷(キーワード『VRChat』)にクリティカルヒットし一瞬死にたくなってしまったとしても、それは全く私の個人的な問題であって、良いんですよこれからの時代はVRChatなんです。人類みんな肉体廃止してメタバースの世界で在りたい私を生きればいいんです。私なんかはずっと憧れながらいまだに踏み切ることができなくて……だからもう、みすみんサンと交わる資格なんかないのかもしれないって思っていて……このまま肉体が朽ち果てるまで生きながらえるしかないんですが……私はそれでいいと思います。元々交わることができなかったのだから、なにも悲しむことは無いんです……これでいい、これで……。

   *

 先日、河北新報で「現代学生百人一首」というものが紹介されましたが、その入選作品として宮城の大学4年生が書いた一句が紹介されていました。

 「天才もAIももう足りていてそれでも私は美術を学ぶ」

 そういう若い人がいるのなら、私は応援します。綺麗な美術作品を生成AIが描いたとしても、美術作品を見て私が感動するのは技術的な巧拙だけではなく「それをどんな人が、どんな思いで描いたか」であって、そういう意味で人間の「美術家」というのは永遠になくなることはないと信じているからです。
 一方で「科学は人の生活を助ける」ということも私は信じています。だから今回の卒業制作展で見た学生の皆さんが、これから先の世界をもっと良くしてくれることを信じています。多くの「生きづらさ」を抱えている人たちがその「生きづらさ」を軽減し、より幸せになれるように……若い皆さんが自分の一等得意な方法でアプローチして、これからの世の中を作ってくれることを祈っています。私もそのために、いま自分ができることをします。

 東北工業大学の皆さん、ご卒業おめでとうございます。私は私で自分ができることを頑張りますから、みなさんも頑張ってください。終わりで~す!(三四郎小宮さん風祝辞オチ)

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 大手町にあるGallery TURNAROUNDで「にがつのねこといぬ」展を見てきました。
 これは2月のはじめ、「私の推し展」を見た時に開催のことを知りました。当然の如くポストカードもいただいてきたのですが、今になって見てみると、私が色んなイベントで出会い好きになった人が何人もいらっしゃるんですよね。
 昨年10月のアンデパンダン展で初めて作品を拝見し、12月のブックハンターセンダイではご本人に感想をお伝えすることができた「かくらこう」さん、仙台藝術舎/creekの成果発表展で見て作品とその制作主旨に共感し手書きの感想を残してきた「イトウモモカ」さん、そして『胎に刺さったリボン』展~東北生活文化大学の卒展と続けざまに見て「女性性」に共鳴した「さかいふうか」さん……いずれも私が大好きな人たちです。
 何でしょうね、こう、「道中で出会った仲間が最終決戦前に再集結してクライマックスになだれ込む」みたいな……ここ半年くらいの美術遍路旅の、ひとつのマイルストーンになりそうだと思って……開催期間ギリギリになりましたが、何とか馳せ参じました。

  *

 実際に行ってみてどうだったか。「イトウモモカ」さんと「さかいふうか」さんの作品はパッと見て「ああ、これだ」とすぐにわかりました。眺めていて幸せな気持ちになりました。その一方でこのようなテキストも読みました。

 保護猫の問題というのはテレビCMなどで見て「そういうのがあるんだなあ」という知識を入れ込む程度に過ぎなかったのですが、実際の地域住民にとっては非常に難しい問題であることを知りました。私なんかは猫好きだから、ニャアニャア鳴いているのを見るとつい餌付けのひとつもしてやりたくなるものですが、そうすることによって「望まれない命」が増えるのであれば、これは厳に慎むべきでしょう。だからと言って片っ端から駆除すればいいのかというと、十和田にいた頃に殺処分される動物たちの話を見た私としては「そんなわけないだろう」と全力で反対します。  
 ではどうすればいいのかというと、「猫好きにも猫嫌いにも『気にならない』存在」として生活してもらう……望まれない命が殖えることないよう去勢する……つまりこの保護猫活動というのが、人類/猫類の共存の道であると私も考えます。そういう思いに賛同したので、今回も「かくらこう」さんの本を買って賛同の意志を示しました。会場の写真も撮ったつもりだったのですが、良い感じの写真がなかったので文章で説明させていただきます。

 今日は猫の日(にゃんにゃんにゃん)。私が行ったのは会期最終日(20日)でしたが、アートとブンゲイ、両面から大好きを楽しむことができて良かったです。Instagramにも「会場に行った証拠」として写真を上げましたが、それが上記のテキストを2枚に分けたものだからたまりません。「さかいふうか」さんの絵の写真でも共有すれば「いいね」がつくのかもしれませんが……もとよりとってもパーソナルな楽しみですからね。知らない誰かと気持ちを共有したいと思わないこともないのですが……だから「ああ、会場に行ったんだな」ということがわかればいいかな、という程度の投稿はしてみたものの……もう、私なんかがそれをSNSで伝えたって誰にも伝わらないと思うんです……描き手に感想を伝えたいなら会場に行って直接(アンケートを書くなどして)伝えれば済む話だし。「さかいふうか」さんは3月に個展があるから、またその時に感想を伝えられればいいかな。

おまけ【本日のコーデ】

 今日は久々にパンツルックでお出かけました。正直暑いのか寒いのかよくわからなかったので薄手のバックボタンブラウスと、使い道が今一つよくわからなかった「ビスチェ」というのを着用……これに例のダウンジャケットを合わせてみました。出先で写真を撮影するのを忘れたので、家に帰ってきてから撮影しました。
 ちょっとビスチェの使い方が分かった気がします。これから春夏コーデも考えていかなければなりませんからね。まずは色々試してみます。

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 これは『胎に刺さったリボン』展を見に行った時、「隣で何かやってるし、せっかくだから見ていこうか」という……そもそも、こういう企画展が行われていることも知らなかったので、本当にそんな感じでした。ただ、切っ掛けがどうであったかというのはあまり意味がない話ですよね。
 「来た、見た、良かった」
 いま私がそう感じている。それが現下最も緊要なことですから。




なぜグループ展「足跡」を開いたのか

 この「足跡」というグループ展は授業作品を展示するために開いたもので す。
 開くきっかけとしては、授業で描い た作品は大抵講評を受けたらそこで作品が終わってしまうことに虚しさを覚えたからです。授業の作品はほぼ特定の先生方に見せ、ある程度の基準と無意識に作用する好みで評価されます。 先生方から高評価を受けることは簡単ではありません。しかし、だからと言って自分が制作した作品が1から10までダメだったのか魅力がないのかというと決してそうではないと考えています。必ず私の制作した絵によさはあるはずだし、好いてくれる人もいると思 います。そんな人と私の作品を結ぶ機会をつくるために企画しました。ありがたいことに今回、この気持ちに賛同してくれてる人が13人集まりました。 特に一緒に企画を進めてくれた佐藤みのりさんには感謝しています。
 この企画を通して誰かに頼ることの 大変さと心強さを知ることが出来たよ うに思います。
 今後、改善していきながらもこの 「足跡」を続けていけるように、より一層邁進していきますのでどうぞよろしくお願いします!

東北生活文化大学
美術表現学科2年 木俣佑実子



 良いと思います。特に私みたいな「自分で絵は描けないけど、こうして絵を見て回るのが大好き」な人種にとっては、とてもありがたい企画だと思います。なまじ美術の素養がないからこそ、門外漢の気安さで好きなように絵を眺め、思い切りその内容を好きになって……そんな感じで片っ端から写真を撮りまくり、今こうして振り返りながら記事を書いています。


 作品のモチーフは本当、描き手によってさまざまで……植物・動物・人物・風景また油絵に漫画イラストそれからレリーフなどなど、とってもバラエティに富んでいました。また一部の作品にはこうして内容に関するステートメントがあって、作品の理解と想像力の強化に役立ちました。アートとブンゲイ、どちらも大好きなので、こういう言葉による解説はありがたいです。
 なお、こちらの絵についての感想としては、このようなものでした。
 「全体に暖色系の色合いが血の温かさを感じる。血が通っている人間の息遣い」
 大体、描き手の松山さんも同じようなことを言っているので、全く的外れな見解ではないでしょう。良かった。ただし絵の中で何人もの人間がいることに気づいたのは後日写真を眺めなおした時でした。絵って、あまり近すぎても理解できないものなんですね……失礼しました。


 もう一枚ピックアップしたいのがこちらの絵です。……この絵を見た時、いわゆるデジャヴュ(既視感)を感じたんですよね。
 思い出せないけど見たことがある気がする。何でだろう。……
 その答えは、絵の隣に描き手の大沼新季さんが添えてくれたステートメントにありました。

!!!

 ……そういうことだったのです……まさか仙台で、このタイミングで開運橋を見ることになるとは……なお、この絵に関しては以下のような感想を持ちました。
 「見覚えのある景色にデジャヴュを感じた。そうこれは開運橋だ。でもそれを信じることはできなかった。薄暗くて不確かな世界に若干の不安感があったからかな。眼鏡とサンゴ、死のイメージとタイトル。(描き手が)自分で『説明しなきゃわからない』って言ってるんだから、わからなくても仕方がないけど……」
 仕方がないけど、これでいいんです。テキストを読んで対話して、絵の内容に対して理解を深める。文芸オタクにとっては非常に嬉しいです。



 こんな感じで、特に求められていないのにわざわざ記名して感想を書き込んだほか、会場にいらっしゃった女の子にも直接感想を伝えました。そうしたところその子から「可愛い服装ですね」と言われて……人生で初めてファッションを褒めてもらえた(しかも女性に)のがメチャクチャ嬉しかったのです……!
  (その時の服装)
 その子が言うには、前日にはメイド服姿の男子学生がいたみたいで……何やら、そういう服装が好きな人がいるみたいです。ということはやはりセクシュアルな問題ではなく、ファッショナブルな観点から可愛い服装を身に着けるのはいいことであり、私の服装もある程度の水準をクリアしていたんだ! ということを知りました。これは私にとって最も難しい……私自身が可愛いと思って着るのは自由ですが、客観的に見て可愛いと言ってもらうのは私の意志ではどうにもならないことなので……ことでしたが、その一番難しい実績を達成したことで、自信をもって可愛い服装で出かけることができるようになりました。

 そんな感じで、私にとっては人生で最も嬉しい体験をした一日でした。
 木俣さん、私にとっても今回の「足跡」展は非常に素晴らしい機会でした。またこのような機会があれば伺いますので、ぜひともよろしくお願いします! ありがとうございましたあ!

 追記:

 2/2に行った時は先に挙げたように可愛い服装で出かけたのですが、その時に大沼さんの作品に関する感想を書き忘れたことに気づき、仕事帰りに男性の格好で行ってきました。その際にメイド服の男の子がいれば良かったんですが誰もおらず……その代わり会場(SARP)の方が来て、ご挨拶をさせていただきました。実は前日、可愛い服装で隣の会場(「胎に刺さったリボン」展)でお会いし「可愛い服装ですね」とお褒め頂いていたのですが、もしかすると別人物だと思われていたのかもしれません。そのため改めて「胎に刺さったリボン」展を見て感想を伝え、同展の描き手(トキワさん、かんのさん、さかいふうかさん)も出展している東北生活文化大学の卒展に関する案内を頂いたのでした。そうなるとギャラリーには男性の格好で行った方がいいのかな……せっかく顔を覚えてもらったのだから……ただ、可愛い格好をして行ったから1日に2人もの女性から服装を褒めてもらえたのだし……いやはやどうしたものか。

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 さる2月10日、仙台フォーラスで開催された仙台藝術舎/creekの成果発表展を見てきました。
 絵画、写真など色々素敵なものがありましたが、その中であえてこれを取り上げてみます。というのは、このステートメントを見て、かなり色々考えこんじゃったからです。その考えこんだ結果を私なりにまとめて形にしてみたいと思ったからです。私だって文章で自分の考えを表現することを20年以上やってきた人間だからです。

 全文をきちんと掲載したうえで、私が特に気になった部分を引用します。


……無責任な手癖で運用されているメディアのあり方に疲労感を覚える。……マスメディアによる雑な報道は言うまでもなく、マスに属さないメディアが「適当でも速報性があれば良い」と持て囃される現代においては、編集を学ぶ意欲すら削がれる。

 マスに属さないメディアとは、ニコニコ動画やYoutube、ブログ、SNSをはじめとした誰でも情報発信できるものを指す。せんだいメディアテーク(以下・smt)の言葉を借りれば「草野球」的なものだ。堅く言えば、市民メディア。その市民によるメディアも商業的な手垢がつきすぎた。

 私はそんなものより、学生自治寮の壁の落書きや張り紙の方がよっぽど純粋な事実であり、本来の草野球的な市民メディアなのではないかと捉えた。クローズドではあるものの、形式にとらわれず学生生活を送る中での叫び、遊び、学びを残しておくことに純粋な美しさを感じる。その純粋さは大衆性、専門性の外側にある限界芸術のような趣がある。


 反発というと少々語弊がありますが、一応ブログをやっている人間として「そんな言い方しなくたっていいじゃない!」と言いたくなる気持ちが起こったのは事実です。でも、そんな脊髄反射みたいな言葉は直ちに叩き伏せて、何度も文章を読み返し、「本当は、私はどう思っているのかな」ということを丁寧に問いかけました。
 ……なのでこれはあくまで私の感想です。正しく文章を理解できたか自信がないのですが、とにかく私はそう思った。私は感情家なのでそう思ったことを書きます。
 まず『無責任な手癖で運用されているメディアのあり方に疲労感を覚える』というのは、私も共感できます。何かあれば視聴者からの投稿動画を垂れ流す『マスメディアによる雑な報道』を見ていると、わざわざテレビでニュースを見る必要がないんじゃないか……という気がします。
 また『マスに属さないメディアが「適当でも速報性があれば良い」と持て囃され』ているな、というのも、そうだよねと思います。そういうのがあまりにも嫌すぎて、最近は動画サイトもSNSもほとんど見なくなりました。Instagramに関しては、最近アート系の人たちをポツポツフォローすると同時に「ちゃんと実体のある人間ですよ」ということをアピールするため一日一枚ずつ全然フォトジェニックでも何でもない写真をアップロードしていますが、その程度のものです。
 SNSで世の中の動きをキャッチしようとか、そういうことを考えていた時期もありましたが(ブログの記事が極端に少ない時期があるのはそのため)、そういうのに疲れ切ってしまったので現在はやめています。
 『市民によるメディアも商業的な手垢がつきすぎた』というのも、「そうかもしれない」と思います。『そんなものより、学生自治寮の壁の落書きや張り紙の方がよっぽど純粋な事実であり、本来の草野球的な市民メディアなのではないか』と言われて、ただちに「そうだ!」というには、私はあまりにも素人すぎるのですが……強く感情が揺さぶられたのは事実です。SNSの百万言よりも、よほど心に響くんです。
 個人的な体験のアーカイブから一番近いものを探ってみると、限られたコミュニティの中で秘密を共有する愉しみでしょうかね。大衆受けするわけでもなく、極端にわかりづらいわけでもなく……そうか! それが『大衆性、専門性の外側にある限界芸術のような趣がある』『純粋な美しさ』ということなのかな!
 今、ようやく自分の中でカチリとかみ合った気がします。ステートメントを読んだだけではなく、実際の展示内容を見ただけではなく……理論だけじゃなく、感情だけでもなく……それらが和合してようやく腑に落ちました。「そういうことじゃないんだけど!!!」と出展者の赤瀬川沙耶さんに怒られてしまうかもしれませんが、とにかく私がそう感じてたどり着いたのがそういうことだったので、大目に見ていただければと存じます。

 最後になりますが、私だって20年以上ホームページとかブログとかで自己表現をしてきた『市民メディア』の人間ですから、やっぱり文章による市民メディア活動は続けていきます。速報性よりも自分の感性を大切にし、バズるとかエモいとかバエるとかって流行の言葉とは最も縁遠い文章。
 一言でまとめると、私も「消費されない文化」を求め、これを作りたいのです。
 特別企画:消費されない文化
 この言葉、何度かブログの中で書いているんですが、そうやって繰り返しているうちに自分の中でも重要なテーマになってきました。大量生産大量消費の時代であり、そういう大きな流れは止められなくても、そんな中に竿を差して旗を立ててみたい。流されて溺れそうになってもまた浮き上がって旗を立ててみたい。
 それが私の自己表現です。絵を描くように、歌を歌うように、私は文章を書きます。

   *

 いっぺんに考えをまとめて書き出すことは難しいです。だから私はこうして少しずつ書いていきます。こうして積み上げながら、自分の『在りたい私』を組み立てていければいいかな。スプリントじゃなくてエンデュランス。ひとつ同じ場所で18年も続けてきたんですから、20年25年30年……NISA並みのロングディスタンスで書いていこうと思います。こうして日々を大切に生きていければ。

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 今月は亀井桃さんの個展を皮切りに、東北生活文化大学の皆さんのものを中心に多くの美術展を見ていますが、その感想をまずはノートに手書きでまとめてから、こうして記事にしています。出先で急いで気持ちをメモするためだったり、【ユ、六萠】さんと【ペロンミ】さんのノートを見て「私も真似してみたい」と思ったからだったり、切っ掛けは色々ありますが、今回こうして書き出してみると、意外なことに気づきました。
 文字を書くだけでも、手を動かして書くとそこに感情が乗るんですよね。最終的にはこうしてゴシック体でまとめられるんですが、そこに感情が乗るということは、自分が感じたことが少しだけ精緻に表れるということです。私は感情家であり感じたことを可能な限り文章で書き出すことを目的にこうして文章を書いているので、これはとても大切なことです。それによって、後で清書する時も振り返りが容易だったのです。
 同じようなことを、昨年帰天した伊集院静さんがおっしゃっていました。河北新報夕刊のコラム「河北抄」です。

河北抄(2024/1/20)|河北新報オンライン

 いわく「筆記用具の感触や筆圧も創作に影響する」とのことで、手書きで原稿を書くことにこだわっておられたそうです。そういえば、矢川澄子さんも手書き派の方だったように記憶しています。
 記事の中で、特に私が心を打たれたのは下記の言葉です。記者が字の拙さを恥じたところに言われたところ、こんな風に言われたそうです。
 
“字が下手でも構わないんだ。とにかく丁寧に書くことだ。何事も誠実さが肝要なんだよ”

 この言葉を読んだ時、文字を書くことに限らず日々を生きることそのものに対して実直であろうという気持ちがわいてきました。特別なことがなくても、現在をしっかり生きていく。手書きのノートとこのブログを基礎にして、SNSとか何とかも少しずつやりながら……反応がなくても何でも毎日続けていれば、いつかいいことがあるさ……そんな感じでやって行こうと思います。

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グループ展 テーマ「自分の推し」
現代では「推し」という言葉、文化が流行っています。この言葉は2000年代初頭から使われており、最初は日本のアイドル文化が始めであるとされています。今回はその「推し」にフォーカスを置いてみました。
 今回の展覧会では推しをただ描くのではなく、「推し」から連想(マインドマップ)をして、推しそのものを書かないようにしています。そうすることで、作品を見た人たちにこれは何だろう、誰だろうという謎解きのようにすることで作品をじっくり見てもらい、推しているモノを知っていたときに、共感や関心を得れて、自分とは違う視点を知ることができると考えました。
(会場内のステートメントより)

 これの開催を知ったのは、たぶんフォーラスの7階にあるギャラリーで告知ポストカードを見た時だったと思います。その日は亀井桃さんの個展を見るのがメインで、これを一通り楽しんだ後に、「どんなものかね」「今年に入ってからまだタナラン(GALLERY TURNAROUND) に行っていないし、ちょっと見てみようかな」という……結構軽い気持ちで見に行きました。
 こちらのグループ展ではみんなが同じサイズのキャンバスに描き手の「推し」を表現したものがずらりと並べられていました。わざわざこうしてステートメントの内容を書き出したのは、会場で一度読んだだけではちゃんと理解できていなかったからです。タイピングとはいえ、こうして自分で言葉をしっかりなぞってみることで、「そうだったのか……」ということが理解できました。とりあえず全作品を写真に撮ってきたので、記憶と合わせて改めて振り返ってみたいと思います。せっかくなので皆様も一緒にお付き合いください。

 
 先ほどのステートメントにあったように「推し」を直接書かずに連想イメージを表現した作品は、シンプルだったり緻密だったり可愛かったり格好良かったり明るかったり暗かったり……数が多いのでそのすべてを紹介することはできませんが、ひとりひとりの「推し」に対する表現の違いを眺めるのはとても楽しいものでした。描き手が推しているモティーフが何なのか? そのものを当てることは難しくても、それが何であるのかを想像することが、このグループ展の愉しみですよね。
 一通り眺めてみて、自分の好きなものをいくつかピックアップしてみると、私の心が浮かび上がってくるようでした。動物とダークファンタジー的なもの、それに可愛いもの、優しい雰囲気のもの……私の自我と影が、これによって映しだされたようです。
 鏡みたいなものなんでしょうね。でも肉体に覆われた心は、三島由紀夫さんが言うところの「林檎の芯」であり、鏡に映しても見えてこないから、それを表現するためには自分で書くか、服を着て表現するかないと思っていましたが……こうして誰かに描いてもらったものに共感するという形でも浮かび上がってくるのかな……なんて、振り返りながら思いました。せっかくアートを見たんだから、私だってそのくらいのこと思ったっていいですよね。
 またこうして、作品を見る機会があれば行ってみたいと思います。良いと思います!

   *

 これは「私の推し展」とは少し離れますが、この日タナランに行ってみると、一昨年の11月に開催された門眞妙さんの個展『まあたらしい庭』の図録がありました。前日(2/1)にお披露目になったばかりとのことで、亀井桃さんの図録に続き問答無用で即買いしました。私が仙台に来て初めて見たアートなイベントで、現在に至るまでのアート好きの原点なので、とても嬉しいです。門眞妙さんについてはこのブログでも何度か触れていますが、2度もお会いすることができて本当に幸せです……その時はまだ女の子の格好をしていなかったので、やはりギャラリーには男性として行った方が良いかな……今の私を見てもらいたいという気持ちよりも、ちゃんと気づいてもらいたいという気持ちの方が強いので……。

関連記事:
特別企画:消費されない文化
特別企画:消費されない文化(続)

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 多分2/2は私の服装を可愛いと言ってくれたことが嬉しすぎたのでしょう。撮りためた写真を振り返っていると、せんだいメディアテークで開催されていた「日本デザイナー芸術学院」の卒展の写真がありました。完全に記憶が抜け落ちていました。
 大学と専門学校、アートとデザイン。いずれにしても私は門外漢なのでどちらがどうとか言えるような身分ではありませんが、よりポップで万人受けしやすいというのは事実ですよね。多分専門学校というのはそういうものだと思うので、深い感動を受けた作品というのは少なかったのですが、それでも「ヘェー、こういうものなんだ」というのを一通り眺めてみて楽しみました。せっかく写真を撮ったので、その一部を紹介し今日の記事としたいと思います。

 

 イラストレーション科・加藤心奈さんの作品でタイトルは「Flyby Girl」。宇宙が大好きで、宇宙に夢見る少女をモチーフに制作された作品です。様々な夢が浮かんで憧れの空に広がっていくような雰囲気が素敵です。良いと思います!
 あとは……そうですねえ……あんまり写真を撮っていなかったんですよね。そういうものを勉強するための学校だから当然なのですが、ポップで受け入れやすい代わりに心にも残りづらかった……「ああ綺麗だねえ」「可愛いねえ」と思うものの、すぐに消えて次のものに移ってしまう……そんな感じです。pixivとかで可愛いイラストを眺めるのとあまり変わらないかな、と。
 そんな中で私が立ち止まり「おおっ!」と思ったのは、写真映像科の皆さんの作品です。私も素人なりに写真が好きな人類なので、やはり感じるところがあります。
 特に気に入ったのが小形真央さんの『私たちは』という作品です。他の人のところを見ると仕様ソフトにphotoshopとか何とかって書いていて、「やはりデジタル的な加工をするのが今時だよねえ」なんて思っていたのですが、こちらの作品の使用ソフト欄には「Nikon F3」とだけ書いてありました。
 これは良い! と思います。私もフィルムカメラ上がりですから、この時代にあってニコンF3で写真を撮って作品に仕立てるとは! とすごく嬉しくなってしまいました。残念ながら写真撮影不可の作品だったのでそれを紹介することはできませんが、代わりに私が書いた感想を(誰も求めてないとは思いますが)。

 最近はXを休止している代わりにあちこちのイベントに参加し、特に名前を求められていないのに名前をばらまいています。本名と(佐藤非常口@仙台)と併記したり、佐藤非常口だけで名前を残していったり。別に名前を売りたいわけではなく、しっかり自分の言葉に責任をもって感想を伝えたいという真摯な思いからそのようにしています。
 
 日本デザイナー芸術学院の皆様、ご卒業おめでとうございます。社会で直接役に立つ技術を習得するのが専門学校だと思うので、これからのますますのご活躍を祈念いたします。以上で甚だ簡単ではありますが、お祝いの言葉とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
 (今年2度目の祝辞風シメ)

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 せんだいメディアテークで「東北生活文化大学美術表現学科 卒業制作展」を見てきました。……ということで最近見た美術展についてピックアップしてみます。
 1.「私の推し活展」4期生によるグループ展 Gallary TURNAROUND
 2.「足跡」美術表現学科2年 木俣佑実子さんと有志13名 SARP
 3.『胎に刺さったリボン』 三人展 SARP
 4.「東北生活文化大学美術表現学科 卒業制作展」せんだいメディアテーク
 3.の三人展『胎に刺さったリボン』の出展者であるトキワさん/かんのさん/さかいふうかさんも4.に出展していましたから、これらはみんな、東北生活文化大学美術表現学科の皆様によるものだった……ということになりますね。
 それを盛岡大学文学部英米文学科(平成17年に英語文化学科に名称変更)出身で美術の勉強は中学で辞めてしまった(最終成績「2」)私が見る……これはアンデパンダン展以来の、仙台市内の各ギャラリーを舞台とした全面戦争……じゃなくて異文化交流みたいなものかもしれませんね。「自分で絵筆をとることはないけど見るのは大好き」っていうのは、やはり私が大学をギリッギリの成績で「とりあえず卒業させてもらった」というコンプレックスがあるのかもしれません。
 自分にはできないもの、できないこと、でもやってみたいということを代わりに表現してくれる……それは今回に限らず、すべての私が大好きな美術家の人たちに対しての気持ちではありますが……そういうものをたくさん感じることができました。
 自分が好きなものを自分の技術で表現する。色使いも筆使いも自由自在で真っ白なキャンバスに描かれたそれぞれの作品は、見るたび私に新鮮な刺激を与えてくれました。それが抽象画であれマンガ・イラストであれ人形であれ(※)、いずれも素晴らしい作品です。そのたびに心が元気になりました。
 そして、ちょうど20年前に私が体験した「学生からの卒業」というものを、ようやく自分のものとして受け入れることができた気がしました。
 当時の私はとにかく現実から目をそむけたくて……就職先も決まらないし卒業できるかどうかもギリギリだし……本来であれば自分が打ち込んできた勉強の集大成たる卒業論文も、「とりあえず出さなきゃ卒業させてもらえないから出しました」という、ひどく出来の悪い代物だという自覚があります(といっても、それが私の精一杯ではありましたが)。
 それに対してこの卒展に作品を出している方々は、全部でどれほどの学生がいるのかわかりませんが、そういった人たちの中でも選りすぐりの方々なのでしょう。
 これで終わりにするのか、まだ続けるのか。もちろん私にそんな決定権はありませんが、「学生からの卒業」というものは意外と重たいものなんだな……と、20年経ってようやく腑に落ちました。

 ……そうか、私が卒業したのは2004年だから、ちょうど20年前だったんだ!

 いまこの文章を書きながら、そのあたりのピントが合いました。
 中途半端な気持ちで卒業してしまった私の心を救ってくれたというと大げさかもしれませんが、でもいいです。私は発達がちょっと緩やかで片寄っている人間なので、心を前に動かさなければいけません。
住む場所を変えるとか仕事を変えるとか、そういうことだけじゃない心の成長。この2年間少しずつ動かしてきて、ようやく20年前のモヤモヤしたところまで手が届くようになったのかな。これも私が心を開いてたくさん栄養をつけたからであり、そういうチャンスを与えてくれた皆様のおかげです。

 色々と感動が大きすぎて、上手に言葉にするには時間がかかりそうです。とりあえず今日は甚だ簡単ではありますが、卒業される皆様にお祝いの言葉を申し上げます。卒展に出展された方もそれ以外の方も、新たなステージで生きていくことになろうかと思いますが、また別な機会にお目にかかれれば嬉しいです。東北生活文化大学美術表現学科の皆様、ご卒業おめでとうございます!
 (「仙台市、佐藤非常口@仙台さまより祝電を頂戴いたしました」)

※ アンデパンダン展で見てひどく心を奪われた「鵜坂紅葉」さんの作品も実は美術表現学科の学生だということを今回の卒展で知りました。見つけた時は「あっ!」と声を上げそうになりました。まさか、もう一度お目にかかれるとは思っていなかったので……本当に嬉しかったです……。

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 2月2日は私にとって久々の「アートまつり」な一日でした。アートとはちょっと違うところも含めて、同じ日に行きたいところを思いきり回ってきたので、まずは大まかな流れを書きます。

 1.宮城野区榴岡のパン屋さん「あさひるぱん」
 2.榴岡天満宮でレース模様が可愛いお守りを購入。鯛と記念撮影。
 3.仙台FORUSで亀井桃さんの個展「ぷりずむ」を見た。古本屋で本を買ったら特別なクリアファイル(ノベルティ)をもらった
 4.TURN AROUNDで「私の推し活」展を見た、前日におひろめになったばかりの門眞妙さんの図録を購入
 5.仙台緑彩館で昼食。フォレッピがまだ生きていた! 
 6.SARPで展覧会2連発。この会場で美大の学生の女の子から「お洋服が可愛いですね」と言ってもらってキャー! と嬉しい悲鳴。昨日はメイド服を着た「男の娘」がいたらしい。隣の三人展でもお店の人から「可愛いですね」と言ってもらえた。
 7.帰宅。写真を整理したら今日は180枚くらい撮影していた。

 この日の総歩数は20147歩、歩いた距離は16キロくらいといえば、どれだけ私が歩きまくったかお分かりいただけるかと存じます。いずれも素晴らしいイベントで、特にも……ね。私のコーデを「可愛い」と女性に言っていただけたのは、とても嬉しいです。
 それぞれのイベントについて個別に書くかどうかはまだ未定ですが、今回改めてアートに触れて思ったことは、
 「私にできないことだからこそ、純粋にこれを受け入れられる」
 ということです。美術に関しては中学を卒業した後全くご無沙汰なので、余計な理屈がわいてこない。技術的なことがわからない代わりに、私が「どう感じたか」を言語化する……それが私のアーティストに対するアンサーです。美術をやっている人が絵画や彫刻で自分の感情を表現するように、私は文章でこれを表現するんです。門外漢の気安さで、感じたことをそのまま書く。河合隼雄さんのマネですが、これがなかなか楽しいのです。

 アートを見て感情を揺さぶられることは、私にとって「生きること」と同じ意味のことです。だから私はアートに心が救われたといいます。そしてこれからもアートをたくさん食べて、心を健やかに保ちたいです。

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「アート・ブンゲイ・アナログハート」を旗印に掲げてブログをやっている手前、やはりアート系のイベントには積極的に首を突っ込みたいと思い日々を生きているのですが、この「MACHIYART-エニナルモリオカ-」というイベントについては、たまたまコンビニで買った地元紙「盛岡タイムス」の小さな記事により知りました。「盛岡を表現した絵画、版画、写真の小作品を展示……」という短い紹介文に興味を持ち、「どんなものかね」と思って行ってみた。そんな感じです。
 最初に数点の絵画を見て、「ほう、これか」と思ってみていたのですが、どうやらそれは勘違いであることに気づきました。私が目当てにして行ったものとは別に開催されている「盛岡市所蔵美術品展」だったのです。通りに面した正面玄関から堂々と突入すればよかったのですが、わざわざ裏口から潜入したものだから、こういうポンスケをしてしまったのでしょう。粗忽、粗忽。
 裏口のギャラリーからカフェと売店へ。全体的にレトロ感あふれる雰囲気のなかをうろうろしていると、ひときわ目を引く可愛らしい女の子のイラストが飛び込んできました。

 具体的にどんな感じで飛び込んで来たのかを記録したものがこちらです。……そう、岩手で活躍するイラストレーター「滝沢市葉」さんのイラスト集でした。他にもクリアファイルなんかもありましたが……滝沢市葉さんは私が大好きなイラストレーターなので即座に購入を決めました。今月は服を爆買いしたり新年会で散財したり2度の来盛に伴う交通費を支払ったりときわめて厳しい財政状況なんですが、門眞妙さんや亀井桃さんと同じくらい大好きな作家なので買わない手はありません。すべてに優先するのです。大好きな気持ちが強すぎるので滝沢市葉さんに関しては後ほど改めて書きます。そういうわけで話題を進めます。

   *

 「ああ、こっちが会場だったのね」と別棟の方に移動し、本格的に「MACHIYART-エニナルモリオカ-」を見ました。作家によってデジタルイラストあり鉛筆や水彩画があり写真やコラージュ作品あり……本当にバラエティに富んでいました。滝沢市葉さんのイラストが2点もありキャー! と快哉を叫んだり、昨年10月に仙台のアンデパンダン展で見て腰を抜かした村井康文さんの作品があるのを見てまたもや度肝を抜かれ、さらにさらに……色んな良さを大盛り特盛りメガ盛りで感じ取り……本当に盛岡という街って素晴らしいなあ……と。大変な満足感を胸に会場を後にしました。
 やっぱり盛岡って、誰にでもわかりやすい、これ見よがしの観光名所らしい観光名所がないのが魅力なんですよ。だから、それを目指して一直線に突撃し、記念写真を撮って、また一目散に立ち去る……という観光には向かない。街並みとか、実際に歩いて眺めまわして「気づかない」と、たぶん盛岡の良さってわからないのかも……って思うのです。
 皆さん、盛岡に来たら、ひたすら歩いてください。ガイドマップとか街の案内板とかを見て、面白そうと思ったら、そこまでのんびり歩いてください。その道程、その途中の景色が盛岡のいいところなんです。ハッキリ形はないけれど、確かにある「雰囲気」が盛岡のいいところなんです。
 ううん……今の私は仙台が大好きですが、盛岡も改めて大好きになりました……このくらいの距離感だから、ピントが合うのかなあ……。

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 これも11月15日に佐々木美術館&人形館を訪れた時の話なのですが、2階ではまた違った展示がありました。具体的な告知がなかったので、ぼんやり眺めて「ああ、よかったなあ」と言って帰ってきてしまいましたが、今調べてみるとコレだったのかな。

夜の美術館 2023/

 うん、そんな気がします。ひとつは映像作家・菊池士英さんとサウンドプロデューサー Ikuko
Morozumiさんとのコラボレーション作品で、佐々木正芳さんの作品が音楽とともに動き出すという一風変わった作品です。実に心地いい作品でした。
 そしてもうひとつも、ちゃんと書いていましたね。「東北生活文化大学高等学校映像研究部」の皆さんが制作したショートフィルムが数篇、リピート再生されていました。今日はこのうち、タイトルにもあるようにショートフィルムについての話をします。

   *

 高校時代は既に前世紀のことであり、むしろ自分の息子や娘がいてもおかしくない年齢でありながら独身者(離婚者)ですからね。それこそこういう機会でもないと見られない作品だし、私の弟者も学生の頃同じようなことをやっていたし。
 「さて、どんなもんだろうね」
 といって、すべての作品をしっかり見ました。そうしたところストーリィも作り込みも素晴らしくて、ただただ素直に楽しかったのです。その感想についてメモしていたので、それと会場でもらったテキストをベースに、この場でお伝えしたいと思います。瓶詰にして海に流すか風船につけて飛ばした方がまだ伝わる可能性が高い気もしますが(こないだの鉄腕DASHみたいに)、とにかく書きます。




 【消しゴムの回想】
 あらすじ:消しゴムとして生まれた主人公が自我を持ち、ある女の子に恋をする。友達の虎の消しゴムから、どうやらそれが自分の持ち主だということを知り、拾ってもらう日を待つが、最終的にたどり着いた真実は……。

 ちょうどこれが流れている途中で見始めたので1.5回分くらい見たのですが、最初からなかなか面白かったんですよね。主人公は消しゴムなので、別に立って歩いたりするわけじゃないのですが、自我があるから同じ消しゴム同士で会話をするし、誰かを好きになったりもするんです。ファンタジー、とは少し違うかもしれませんが、そういうところから出発するのが面白いなと思いました。エンドロールのNG集もなかなかシャレていますね。こういうの、あんまり最近は見なくなったなあ……。

 【かみひこうき】
 あらすじ:高校1年生の女の子「翼」は、紙に日時を書いて飛行機にして飛ばすと、その日にまた受け取ることができるという不思議なスキルを持っていた。親友の凛から英語のテストがあることを知らされ、その能力を生かしてテストを乗り切ろうとする……。

 ということは配布されたプリントに書いている概要なんですが、それを読まずにいきなり映画を見始めたものだから、いちいち感情を動かされました。そもそも翼は提出しなくちゃいけないプリントをいきなり紙飛行機にして窓から彼方に飛ばしちゃうような女の子なので、とりあえず何が起こってもすべてを受け入れよう! と思って……何か起こるたびに「さて、どうする?」とニュートラルな気持ちで見守っていました。たとい英語のテストでその特殊能力を使おうとしている翼を見て、「そんなことしていいの……?」と心配しながらも、「翼がどんな決断をしようと、どんな道を進もうと、私は見届けよう」と覚悟を決めて見ていたら……最後は未来に希望をつなぐ、何だかホッとするような、明るいエンディングでした。とても気持ちの良い物語だと思います。

 【ななし】 
 あらすじ:ななし様が何なのか知りたいの? それじゃあ教えてあげる。ななし様っていうのは、人々が何とかって願い事をかなえてもらうためにささげたいけにえに取り付くの。いけにえに選ばれた人に取り付くと自由に動けるんだけど、いけにえの身体がもうもたないって時には、ななし様がそのいけにえを食べ尽くして、新しい身体を探し求めるんだって。それがいつ、どこで選ばれるのかは……ねえ?

 奇妙な都市伝説を語る親友。そして主人公の女の子に襲い掛かる恐怖。こんなふうに、映像作品を見て怖いと思ったのは、すごく久しぶりな気がします。やっぱり私が「怖い」って思うのは東洋的な……要するに正体のつかめない、何だかわからないものにドンドン追い詰められていく過程なんでしょうね。あんまり残虐描写にこだわったものよりは、こういう薄気味悪い展開の方が怖いです。なお、この映画に関しては、私の言葉であらすじを書いてみました。
 
 【ライアードリンク】
 あらすじ:「オレ昨日100万円拾ったんだ」とかって、いつも嘘ばっかりついて面白がっているウソノは謎の男性から「ライアードリンク」っていうヘンな薬を渡される。それを飲むと、自分がついた嘘が全部本当になるっていう触れ込みだが、果たして……
 
 話した嘘が全部本当になるというとドラえもんみたいな話だけど、実際にそうなると結構怖いなと思いました。言葉通り「どんなことでも本当になる」とすれば、嘘をつきたくてもつけなくなっちゃうし、結果的に望まないことになっちゃうかもしれない。だから私は……もし、そういうのがあったとしても、いらないかなあ……って思いました。なんていうふうに、「もしも自分がウソノの立場だったら?」って目線でドキドキしながら最後まで持続できたのが良かったです。その終わり方もまた上手な……本当、世にも奇妙な物語みたいな終わり方で。これは良かったです!
 なお、この話は会場でもらったプリントに載っていませんでした。もしかしたら、そんな映画があったって話も、嘘だったのかもしれません。なんてね。

 【紙飛行機の少女】
 あらすじ:ある日、登校中に紙飛行機を拾ったユウタ。彼はそれが、友達の神木がいつも飛ばしていることを知っていて、尋ねてみる。「お前どうして、いつも紙飛行機飛ばしているの?」それに対する神木の答えは……。

 これは本当に真っ当な、さわやかな青春物語って感じですね。夢はあるけど実現のための一歩が踏み出せない神木と、そもそも自分の夢さえ見えず悶々としているユウタ。ただ、そんな友達同士の会話の中で歯車が動き出し、二人が新たなステージに向けて動き出す……うん、本当にまっすぐで素敵な物語です。あと、ユウタは美術部なんですが、白い画布に自分の思いをすべて描きつけるひとは良いなあ、って思いました。どんなものでも、自分の気持ち次第でどのようにでも表現できるんですからね。そう、どのような夢でも自分の気持ち次第なんです……。




 ……そんな感じでしょうか。最後に、総合的な感想を書きます。
 年齢的には本来であれば映画の中の彼ら彼女ら自身ではなくそれを見守る親目線だったり先生目線だったりするべきなのでしょうが、発達が一般の人たちよりもゆるやかな私は限りなく高校生の目線、高校生になった気分で見ていました。いわば、私の高校時代をもう一度やり直すような体験を、東北生活文化大学高等学校映像研究部の皆さんのおかげで、することができました。当時はこんなにさわやかで真っ当な青春を送ることができなかったので、それを取り戻すことができて本当に楽しかったです。
 それにしても、どれも本当に素晴らしい作品でした。私は写真の人間なので、映像作品がどのような工程を経て作られるのか全くピンと来ないのですが、少なくともひとりで作れるものではないですよね。俳優も撮影も監督もその他スタッフも……多くの人たちが力を合わせて出来上がったのでしょう。つくづく私に出来ないことをやってしまう皆様には「スゲーなあ」と感嘆するばかりです。
 その気持ちをずっと忘れたくないので、今回はこのような形で感想をまとめさせていただきました。とっても良いと思います!

2023年11月15日
佐藤非常口@仙台

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個展「砂漠の贈り物」
絵を描くことは手紙のやり取りに似ている。対面の会話に比べて速度は劣るけど、その分、重く、深く、より多面的な気持ちを伝えることができる。私は話す事が得意じゃない。とても苦手。だから絵を描く能力を発達させてきたのかもしれない。そう感じる。

観察がとにかく好きだ。道に生えている植物、街、動き、人、表情、空気、音など、あらゆる物事を観察することが好き。見て、興味を持ったら、そのことについてずっと考えてしまう。「どんな構造なんだろう」「アレとアレに似ている」「以前に観たアレと繋げたらどうなるかな」とか、連想が止まらない。

自分の心を描いている。自画像のようなもの。好きな人の事を想いながらも書く。頭のなかの空想を描いたりもする。これらが描きたい物事の全てという訳では無い。言語化が難しいもの、あるいは出来ないものを絵にするので、こればかりはしょうがない。

あらゆる物事は複雑だなと感じる。複雑な問題を考える事、受け入れる事は、脳にとって負荷が大きい。その分、世の中をフラットに捉える力が養われる。可能な限り、複雑な問題から目をそむけない様にしたい。世の中をフラットに捉えたい。その為に、肉体と精神の健康に気を遣い続けたい。

観に来てくれてありがとう。

みひろ
(会場内に掲示されていたステートメントより)



 RAPPIT/みひろさんの個展が開催されることは、例によって告知ポストカードで知りました。一体いつ、どの会場だったか……たぶん仙台写真月間の頃、SARPでもらったんじゃないかなって気がしますが……すみませんよく覚えていません。ただポストカードを見て、その絵柄にひかれて行ってみたというのは事実です。
 最初に行ったのが11月15日で、次に行ったのが12月8日。それぞれ異なる企画展を見るために来たのですが、2回ともしっかり、みひろさんの展示も見ました。
 会場の様子です。

 とりあえず、今こうして振り返ってみると、いわゆるSNS的な個展なのかなと思いました。とにかく分量が多く、画一化されたフォーマット。スマートフォンの画面で一枚ずつ画面をフリックさせるように、膨大な量の絵を眺めていく……そういう個展です。
 正直なところ、一度目は……あまりにも量が多すぎて、私のキャパシティでは受容できませんでした。1枚ごとに感じるところはあるのですが、あまりに短時間でこれほどの量の情報を処理することはできず、全体的にどんなイラストがあるかは全部(動画で)撮影したからいいか! といって、消化不良のまま一度目は帰ってきてしまいました。うまく言語化できなかったのも、そういうことかもしれません。
 それで今回リベンジというか、ちゃんと向き合って自分のものにしたい! と思って、
 「自分が良いと思ったものを10枚だけピックアップしてみよう」
 と決めて、2~3度会場をグルグル回って写真を撮りました(結局11枚撮っちゃいましたが)。

アデニウムの花言葉は、ひとめぼれ、純粋な心。
サボテンの花言葉は、枯れない愛、燃える心、暖かな心、偉大。
燕は幸運の象徴。
presentの意味は、現在、在る、贈り物。
(会場内で展示されていたテキスト)




 これはと思った11枚の中で、それぞれ特徴的なものを1枚ずつ公開してみました。
 みひろさんが「言語化が難しいもの、あるいは出来ないもの」をせっかく絵にしてくれたのに、今度は私がそれを言語化するという試みをしてみようと思ったのですが、いやこれは非常に難しいですね。とりあえず会場でメモした、もっとも生々しい感想を引用してみます。

印象としてはポップで可愛いんだけど優しくはない。爪を立てて心をガリガリガリガリ引っかかれて、皮膚が裂けて血が噴き出してもまだ足りないと言って、今度は鉛筆を突きたてて力任せに引き回されたような感覚を覚えた。……毒がある。その毒はとってもおいしくて刺激的で心にたまってしまうけど、だから忘れられないし、忘れられないのにまた見てみたくなる。相変わらず楽しい。……


 神経症というか、もはや精神分裂病のような……かなり狂気めいたことを書いていますが、たぶん本当に「一時的な狂気」に陥っていたんじゃないかな。こないだ亀井桃さんの個展について書いた時、主催者の言葉として「毒気のさじ加減」という言葉があったのですが、みひろさんの絵にはその毒気がふんだんに盛り込まれているような気がします。そして十代の頃から毒薬や劇薬みたいなものを過剰投与して生きて来たから、個人的無意識の方で勝手に反応しちゃうんです。
 これが今の私にできる精いっぱいの言語化です。私はみひろさんとは反対に絵を描くことが絶望的に苦手で、何でも言語化しようとする人間なのですが、そんな小賢しい考えを破壊して感情を爆発させてくれる……良い意味で私のことを狂気に導いてくれる……危険なほど波長が合うイラストであったと思います。
 あと、「SNS的な個展」と先に書きましたが、さっき気づかなかったこととして……「伝えると伝わる」の距離感がとても近いのかな、って気がしました。描き手の人が表現したいことと、それを見る私の距離感。より近い距離からより刺激的なものをぶつけられたので、私もその分強く反応してしまったのかもしれません。
 ひょっとしたらカワイイとかエモいとかバエルとか、そういう、ある意味では分かりやすい感想で言い表すのが適切な種類のアートなのかな。それをこうして無理やり言語化しようとするから、破綻が来て、狂気に至るのかもしれません。
 でも、やっぱり私には言葉しかないんですよ。自分の気持ちを可能な限り言語化する。自分でアートは上手にできないから、ブンゲイで自分の気持ちを表現していくしかないんです。だからこういう試みは、これからも続けていきます。そうすることで、私の心にしっかりと刻み込まれて……無意識の闇に放り込まれて手が届かなくなることを防ぐことができるのですから。すなわち、消費されない文化。
 
 ともあれ、とっても素敵な個展でした。一応芳名帳には本名と佐藤非常口の名前を書いたし、インスタグラムにもコメントを出しました。そして今回こうして記事を書きました。これがどれほどの人に伝わるかわかりませんが……ひとりでも多くの人に読んでもらえたらいいなあ……。

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