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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。

 2月2日は私にとって久々の「アートまつり」な一日でした。アートとはちょっと違うところも含めて、同じ日に行きたいところを思いきり回ってきたので、まずは大まかな流れを書きます。

 1.宮城野区榴岡のパン屋さん「あさひるぱん」
 2.榴岡天満宮でレース模様が可愛いお守りを購入。鯛と記念撮影。
 3.仙台FORUSで亀井桃さんの個展「ぷりずむ」を見た。古本屋で本を買ったら特別なクリアファイル(ノベルティ)をもらった
 4.TURN AROUNDで「私の推し活」展を見た、前日におひろめになったばかりの門眞妙さんの図録を購入
 5.仙台緑彩館で昼食。フォレッピがまだ生きていた! 
 6.SARPで展覧会2連発。この会場で美大の学生の女の子から「お洋服が可愛いですね」と言ってもらってキャー! と嬉しい悲鳴。昨日はメイド服を着た「男の娘」がいたらしい。隣の三人展でもお店の人から「可愛いですね」と言ってもらえた。
 7.帰宅。写真を整理したら今日は180枚くらい撮影していた。

 この日の総歩数は20147歩、歩いた距離は16キロくらいといえば、どれだけ私が歩きまくったかお分かりいただけるかと存じます。いずれも素晴らしいイベントで、特にも……ね。私のコーデを「可愛い」と女性に言っていただけたのは、とても嬉しいです。
 それぞれのイベントについて個別に書くかどうかはまだ未定ですが、今回改めてアートに触れて思ったことは、
 「私にできないことだからこそ、純粋にこれを受け入れられる」
 ということです。美術に関しては中学を卒業した後全くご無沙汰なので、余計な理屈がわいてこない。技術的なことがわからない代わりに、私が「どう感じたか」を言語化する……それが私のアーティストに対するアンサーです。美術をやっている人が絵画や彫刻で自分の感情を表現するように、私は文章でこれを表現するんです。門外漢の気安さで、感じたことをそのまま書く。河合隼雄さんのマネですが、これがなかなか楽しいのです。

 アートを見て感情を揺さぶられることは、私にとって「生きること」と同じ意味のことです。だから私はアートに心が救われたといいます。そしてこれからもアートをたくさん食べて、心を健やかに保ちたいです。

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「アート・ブンゲイ・アナログハート」を旗印に掲げてブログをやっている手前、やはりアート系のイベントには積極的に首を突っ込みたいと思い日々を生きているのですが、この「MACHIYART-エニナルモリオカ-」というイベントについては、たまたまコンビニで買った地元紙「盛岡タイムス」の小さな記事により知りました。「盛岡を表現した絵画、版画、写真の小作品を展示……」という短い紹介文に興味を持ち、「どんなものかね」と思って行ってみた。そんな感じです。
 最初に数点の絵画を見て、「ほう、これか」と思ってみていたのですが、どうやらそれは勘違いであることに気づきました。私が目当てにして行ったものとは別に開催されている「盛岡市所蔵美術品展」だったのです。通りに面した正面玄関から堂々と突入すればよかったのですが、わざわざ裏口から潜入したものだから、こういうポンスケをしてしまったのでしょう。粗忽、粗忽。
 裏口のギャラリーからカフェと売店へ。全体的にレトロ感あふれる雰囲気のなかをうろうろしていると、ひときわ目を引く可愛らしい女の子のイラストが飛び込んできました。

 具体的にどんな感じで飛び込んで来たのかを記録したものがこちらです。……そう、岩手で活躍するイラストレーター「滝沢市葉」さんのイラスト集でした。他にもクリアファイルなんかもありましたが……滝沢市葉さんは私が大好きなイラストレーターなので即座に購入を決めました。今月は服を爆買いしたり新年会で散財したり2度の来盛に伴う交通費を支払ったりときわめて厳しい財政状況なんですが、門眞妙さんや亀井桃さんと同じくらい大好きな作家なので買わない手はありません。すべてに優先するのです。大好きな気持ちが強すぎるので滝沢市葉さんに関しては後ほど改めて書きます。そういうわけで話題を進めます。

   *

 「ああ、こっちが会場だったのね」と別棟の方に移動し、本格的に「MACHIYART-エニナルモリオカ-」を見ました。作家によってデジタルイラストあり鉛筆や水彩画があり写真やコラージュ作品あり……本当にバラエティに富んでいました。滝沢市葉さんのイラストが2点もありキャー! と快哉を叫んだり、昨年10月に仙台のアンデパンダン展で見て腰を抜かした村井康文さんの作品があるのを見てまたもや度肝を抜かれ、さらにさらに……色んな良さを大盛り特盛りメガ盛りで感じ取り……本当に盛岡という街って素晴らしいなあ……と。大変な満足感を胸に会場を後にしました。
 やっぱり盛岡って、誰にでもわかりやすい、これ見よがしの観光名所らしい観光名所がないのが魅力なんですよ。だから、それを目指して一直線に突撃し、記念写真を撮って、また一目散に立ち去る……という観光には向かない。街並みとか、実際に歩いて眺めまわして「気づかない」と、たぶん盛岡の良さってわからないのかも……って思うのです。
 皆さん、盛岡に来たら、ひたすら歩いてください。ガイドマップとか街の案内板とかを見て、面白そうと思ったら、そこまでのんびり歩いてください。その道程、その途中の景色が盛岡のいいところなんです。ハッキリ形はないけれど、確かにある「雰囲気」が盛岡のいいところなんです。
 ううん……今の私は仙台が大好きですが、盛岡も改めて大好きになりました……このくらいの距離感だから、ピントが合うのかなあ……。

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 これも11月15日に佐々木美術館&人形館を訪れた時の話なのですが、2階ではまた違った展示がありました。具体的な告知がなかったので、ぼんやり眺めて「ああ、よかったなあ」と言って帰ってきてしまいましたが、今調べてみるとコレだったのかな。

夜の美術館 2023/

 うん、そんな気がします。ひとつは映像作家・菊池士英さんとサウンドプロデューサー Ikuko
Morozumiさんとのコラボレーション作品で、佐々木正芳さんの作品が音楽とともに動き出すという一風変わった作品です。実に心地いい作品でした。
 そしてもうひとつも、ちゃんと書いていましたね。「東北生活文化大学高等学校映像研究部」の皆さんが制作したショートフィルムが数篇、リピート再生されていました。今日はこのうち、タイトルにもあるようにショートフィルムについての話をします。

   *

 高校時代は既に前世紀のことであり、むしろ自分の息子や娘がいてもおかしくない年齢でありながら独身者(離婚者)ですからね。それこそこういう機会でもないと見られない作品だし、私の弟者も学生の頃同じようなことをやっていたし。
 「さて、どんなもんだろうね」
 といって、すべての作品をしっかり見ました。そうしたところストーリィも作り込みも素晴らしくて、ただただ素直に楽しかったのです。その感想についてメモしていたので、それと会場でもらったテキストをベースに、この場でお伝えしたいと思います。瓶詰にして海に流すか風船につけて飛ばした方がまだ伝わる可能性が高い気もしますが(こないだの鉄腕DASHみたいに)、とにかく書きます。




 【消しゴムの回想】
 あらすじ:消しゴムとして生まれた主人公が自我を持ち、ある女の子に恋をする。友達の虎の消しゴムから、どうやらそれが自分の持ち主だということを知り、拾ってもらう日を待つが、最終的にたどり着いた真実は……。

 ちょうどこれが流れている途中で見始めたので1.5回分くらい見たのですが、最初からなかなか面白かったんですよね。主人公は消しゴムなので、別に立って歩いたりするわけじゃないのですが、自我があるから同じ消しゴム同士で会話をするし、誰かを好きになったりもするんです。ファンタジー、とは少し違うかもしれませんが、そういうところから出発するのが面白いなと思いました。エンドロールのNG集もなかなかシャレていますね。こういうの、あんまり最近は見なくなったなあ……。

 【かみひこうき】
 あらすじ:高校1年生の女の子「翼」は、紙に日時を書いて飛行機にして飛ばすと、その日にまた受け取ることができるという不思議なスキルを持っていた。親友の凛から英語のテストがあることを知らされ、その能力を生かしてテストを乗り切ろうとする……。

 ということは配布されたプリントに書いている概要なんですが、それを読まずにいきなり映画を見始めたものだから、いちいち感情を動かされました。そもそも翼は提出しなくちゃいけないプリントをいきなり紙飛行機にして窓から彼方に飛ばしちゃうような女の子なので、とりあえず何が起こってもすべてを受け入れよう! と思って……何か起こるたびに「さて、どうする?」とニュートラルな気持ちで見守っていました。たとい英語のテストでその特殊能力を使おうとしている翼を見て、「そんなことしていいの……?」と心配しながらも、「翼がどんな決断をしようと、どんな道を進もうと、私は見届けよう」と覚悟を決めて見ていたら……最後は未来に希望をつなぐ、何だかホッとするような、明るいエンディングでした。とても気持ちの良い物語だと思います。

 【ななし】 
 あらすじ:ななし様が何なのか知りたいの? それじゃあ教えてあげる。ななし様っていうのは、人々が何とかって願い事をかなえてもらうためにささげたいけにえに取り付くの。いけにえに選ばれた人に取り付くと自由に動けるんだけど、いけにえの身体がもうもたないって時には、ななし様がそのいけにえを食べ尽くして、新しい身体を探し求めるんだって。それがいつ、どこで選ばれるのかは……ねえ?

 奇妙な都市伝説を語る親友。そして主人公の女の子に襲い掛かる恐怖。こんなふうに、映像作品を見て怖いと思ったのは、すごく久しぶりな気がします。やっぱり私が「怖い」って思うのは東洋的な……要するに正体のつかめない、何だかわからないものにドンドン追い詰められていく過程なんでしょうね。あんまり残虐描写にこだわったものよりは、こういう薄気味悪い展開の方が怖いです。なお、この映画に関しては、私の言葉であらすじを書いてみました。
 
 【ライアードリンク】
 あらすじ:「オレ昨日100万円拾ったんだ」とかって、いつも嘘ばっかりついて面白がっているウソノは謎の男性から「ライアードリンク」っていうヘンな薬を渡される。それを飲むと、自分がついた嘘が全部本当になるっていう触れ込みだが、果たして……
 
 話した嘘が全部本当になるというとドラえもんみたいな話だけど、実際にそうなると結構怖いなと思いました。言葉通り「どんなことでも本当になる」とすれば、嘘をつきたくてもつけなくなっちゃうし、結果的に望まないことになっちゃうかもしれない。だから私は……もし、そういうのがあったとしても、いらないかなあ……って思いました。なんていうふうに、「もしも自分がウソノの立場だったら?」って目線でドキドキしながら最後まで持続できたのが良かったです。その終わり方もまた上手な……本当、世にも奇妙な物語みたいな終わり方で。これは良かったです!
 なお、この話は会場でもらったプリントに載っていませんでした。もしかしたら、そんな映画があったって話も、嘘だったのかもしれません。なんてね。

 【紙飛行機の少女】
 あらすじ:ある日、登校中に紙飛行機を拾ったユウタ。彼はそれが、友達の神木がいつも飛ばしていることを知っていて、尋ねてみる。「お前どうして、いつも紙飛行機飛ばしているの?」それに対する神木の答えは……。

 これは本当に真っ当な、さわやかな青春物語って感じですね。夢はあるけど実現のための一歩が踏み出せない神木と、そもそも自分の夢さえ見えず悶々としているユウタ。ただ、そんな友達同士の会話の中で歯車が動き出し、二人が新たなステージに向けて動き出す……うん、本当にまっすぐで素敵な物語です。あと、ユウタは美術部なんですが、白い画布に自分の思いをすべて描きつけるひとは良いなあ、って思いました。どんなものでも、自分の気持ち次第でどのようにでも表現できるんですからね。そう、どのような夢でも自分の気持ち次第なんです……。




 ……そんな感じでしょうか。最後に、総合的な感想を書きます。
 年齢的には本来であれば映画の中の彼ら彼女ら自身ではなくそれを見守る親目線だったり先生目線だったりするべきなのでしょうが、発達が一般の人たちよりもゆるやかな私は限りなく高校生の目線、高校生になった気分で見ていました。いわば、私の高校時代をもう一度やり直すような体験を、東北生活文化大学高等学校映像研究部の皆さんのおかげで、することができました。当時はこんなにさわやかで真っ当な青春を送ることができなかったので、それを取り戻すことができて本当に楽しかったです。
 それにしても、どれも本当に素晴らしい作品でした。私は写真の人間なので、映像作品がどのような工程を経て作られるのか全くピンと来ないのですが、少なくともひとりで作れるものではないですよね。俳優も撮影も監督もその他スタッフも……多くの人たちが力を合わせて出来上がったのでしょう。つくづく私に出来ないことをやってしまう皆様には「スゲーなあ」と感嘆するばかりです。
 その気持ちをずっと忘れたくないので、今回はこのような形で感想をまとめさせていただきました。とっても良いと思います!

2023年11月15日
佐藤非常口@仙台

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個展「砂漠の贈り物」
絵を描くことは手紙のやり取りに似ている。対面の会話に比べて速度は劣るけど、その分、重く、深く、より多面的な気持ちを伝えることができる。私は話す事が得意じゃない。とても苦手。だから絵を描く能力を発達させてきたのかもしれない。そう感じる。

観察がとにかく好きだ。道に生えている植物、街、動き、人、表情、空気、音など、あらゆる物事を観察することが好き。見て、興味を持ったら、そのことについてずっと考えてしまう。「どんな構造なんだろう」「アレとアレに似ている」「以前に観たアレと繋げたらどうなるかな」とか、連想が止まらない。

自分の心を描いている。自画像のようなもの。好きな人の事を想いながらも書く。頭のなかの空想を描いたりもする。これらが描きたい物事の全てという訳では無い。言語化が難しいもの、あるいは出来ないものを絵にするので、こればかりはしょうがない。

あらゆる物事は複雑だなと感じる。複雑な問題を考える事、受け入れる事は、脳にとって負荷が大きい。その分、世の中をフラットに捉える力が養われる。可能な限り、複雑な問題から目をそむけない様にしたい。世の中をフラットに捉えたい。その為に、肉体と精神の健康に気を遣い続けたい。

観に来てくれてありがとう。

みひろ
(会場内に掲示されていたステートメントより)



 RAPPIT/みひろさんの個展が開催されることは、例によって告知ポストカードで知りました。一体いつ、どの会場だったか……たぶん仙台写真月間の頃、SARPでもらったんじゃないかなって気がしますが……すみませんよく覚えていません。ただポストカードを見て、その絵柄にひかれて行ってみたというのは事実です。
 最初に行ったのが11月15日で、次に行ったのが12月8日。それぞれ異なる企画展を見るために来たのですが、2回ともしっかり、みひろさんの展示も見ました。
 会場の様子です。

 とりあえず、今こうして振り返ってみると、いわゆるSNS的な個展なのかなと思いました。とにかく分量が多く、画一化されたフォーマット。スマートフォンの画面で一枚ずつ画面をフリックさせるように、膨大な量の絵を眺めていく……そういう個展です。
 正直なところ、一度目は……あまりにも量が多すぎて、私のキャパシティでは受容できませんでした。1枚ごとに感じるところはあるのですが、あまりに短時間でこれほどの量の情報を処理することはできず、全体的にどんなイラストがあるかは全部(動画で)撮影したからいいか! といって、消化不良のまま一度目は帰ってきてしまいました。うまく言語化できなかったのも、そういうことかもしれません。
 それで今回リベンジというか、ちゃんと向き合って自分のものにしたい! と思って、
 「自分が良いと思ったものを10枚だけピックアップしてみよう」
 と決めて、2~3度会場をグルグル回って写真を撮りました(結局11枚撮っちゃいましたが)。

アデニウムの花言葉は、ひとめぼれ、純粋な心。
サボテンの花言葉は、枯れない愛、燃える心、暖かな心、偉大。
燕は幸運の象徴。
presentの意味は、現在、在る、贈り物。
(会場内で展示されていたテキスト)




 これはと思った11枚の中で、それぞれ特徴的なものを1枚ずつ公開してみました。
 みひろさんが「言語化が難しいもの、あるいは出来ないもの」をせっかく絵にしてくれたのに、今度は私がそれを言語化するという試みをしてみようと思ったのですが、いやこれは非常に難しいですね。とりあえず会場でメモした、もっとも生々しい感想を引用してみます。

印象としてはポップで可愛いんだけど優しくはない。爪を立てて心をガリガリガリガリ引っかかれて、皮膚が裂けて血が噴き出してもまだ足りないと言って、今度は鉛筆を突きたてて力任せに引き回されたような感覚を覚えた。……毒がある。その毒はとってもおいしくて刺激的で心にたまってしまうけど、だから忘れられないし、忘れられないのにまた見てみたくなる。相変わらず楽しい。……


 神経症というか、もはや精神分裂病のような……かなり狂気めいたことを書いていますが、たぶん本当に「一時的な狂気」に陥っていたんじゃないかな。こないだ亀井桃さんの個展について書いた時、主催者の言葉として「毒気のさじ加減」という言葉があったのですが、みひろさんの絵にはその毒気がふんだんに盛り込まれているような気がします。そして十代の頃から毒薬や劇薬みたいなものを過剰投与して生きて来たから、個人的無意識の方で勝手に反応しちゃうんです。
 これが今の私にできる精いっぱいの言語化です。私はみひろさんとは反対に絵を描くことが絶望的に苦手で、何でも言語化しようとする人間なのですが、そんな小賢しい考えを破壊して感情を爆発させてくれる……良い意味で私のことを狂気に導いてくれる……危険なほど波長が合うイラストであったと思います。
 あと、「SNS的な個展」と先に書きましたが、さっき気づかなかったこととして……「伝えると伝わる」の距離感がとても近いのかな、って気がしました。描き手の人が表現したいことと、それを見る私の距離感。より近い距離からより刺激的なものをぶつけられたので、私もその分強く反応してしまったのかもしれません。
 ひょっとしたらカワイイとかエモいとかバエルとか、そういう、ある意味では分かりやすい感想で言い表すのが適切な種類のアートなのかな。それをこうして無理やり言語化しようとするから、破綻が来て、狂気に至るのかもしれません。
 でも、やっぱり私には言葉しかないんですよ。自分の気持ちを可能な限り言語化する。自分でアートは上手にできないから、ブンゲイで自分の気持ちを表現していくしかないんです。だからこういう試みは、これからも続けていきます。そうすることで、私の心にしっかりと刻み込まれて……無意識の闇に放り込まれて手が届かなくなることを防ぐことができるのですから。すなわち、消費されない文化。
 
 ともあれ、とっても素敵な個展でした。一応芳名帳には本名と佐藤非常口の名前を書いたし、インスタグラムにもコメントを出しました。そして今回こうして記事を書きました。これがどれほどの人に伝わるかわかりませんが……ひとりでも多くの人に読んでもらえたらいいなあ……。

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 あゆみさんの作品の中には「祭草」という大変魅力的な人のような不思議な一本足の草花が佇んでいる作品があり、まるでこちらの世界を静かに見守っているかの様です。
(越後しの個展『祭草の歩み』フライヤー裏面より)


 前回の続きです。
 美術館の2階で開催されていた佐々木あゆみ展『悠遠の地』は、佐々木正芳氏との二人展を再現した……というのがコンセプトとなります。その文章を読んでから階段を上って2階へ上がると……

 ……いつもは人形館の2階にいるこの子が出迎えてくれました。こちらも佐々木一葉ことあゆみさんの作品です。70歳を過ぎてから有名な人形作家のもとで勉強して、この人形を作ったのだそうです。残念ながら夢見ていた美術館の開館を見届けることなく帰天してしまいましたが、それでも完成した建物はちゃんと見てくれたそうです(佐々木正芳さんのコメント)。

 2階に上がって最初に目に飛び込んできたのは、佐々木正芳さんの作品「老いたアダムとイブ」でした。これはあゆみさんから「これがいい」と言われて作品として仕上げたものの、実はあまり気が進まなかった……ところが実際に世に出してみると雑誌に掲載され、買い手も付き……今では「芸術的に私の一番上の作品ではないか」と考えるようになったそうです。
 そんな素敵な絵に対して私のような美術2風情が感想を書くなんて……という気もしますが、ちゃんとした美術的な批評は専門家がするでしょうからね。ここはスキル『門外漢の気安さ』を発動して、正直に感じたこと思ったことを一気に書いちゃいます。すなわち、
 「溶けあうようにお互いの肉体を抱擁する姿は、このところ私がとらわれている元型への回帰……2つに分かたれたものが再び1つになろうと求める集団的無意識に強く働きかけて来るのではないか」
 という気がしました。すぐに言語化できないような、心の深いところをグイグイと刺激されました。そして感じるところがありました。

   *


 こちらが『祭草』シリーズです。ここでも冒頭に引用した越後しのさんの言葉以外に拠るところがないので、私の主観による感想を書きます。
 よく絵を見て「音が聞こえる」想像をするのですが、この祭草の1枚目、街角にたたずむ姿を見て私が聴こえたのは、耳を澄ますとかすかに聞こえてくる「静かで賑やかな」音でした。日本語として破綻しているような気がするのでさらに説明しますが、要するに遠いところで盛り上がっている祭囃子を想像していただければよろしいかと存じます。賑やかさと静けさのコントラスト。それが同時にひとつのキャンバスの中に存在する不思議な世界。……いまこの記事を書きながら心の中にイメージしてみると、そういうことなのかなって気がしてきました。
 そのコントラストという意味では、2枚目3枚目になると、いっそう際立ちますね。なお、これに関しては直接、あゆみさんが語っている言葉が同時に掲載されていたので引用します。

一昨年春頃より<祭草月面に咲く>のテーマで描いてみる。乾ききった月の世界と最も人間の臭いのする祭りとの組合わせを試みる。まんまるの青く美しく光る地球を、月面から眺めてもみたかった。
百年前には、兎のすむお月様を、こちらから眺めている丈だった。そこには水があり草も生えていた。
息子が、絵を描いている私のそばへ寄り「宇宙空間と月面は、あくまで無機的にね。」と云って呉れる。
無限なる大宇宙のほんの一角のちっぽけな青い星 だがすばらしい星、
地球 何時までも美しい星であってほしい。
佐々木あゆみ (総合藝術情報誌「場」1981年3月号より)


 ……こうしてあゆみさん自らの言葉を聞くと、私が感じたこともあながち的外れでもないのかなという気がしました。そういう、静けさと賑やかさのコントラスト。すぐに自分が感じたことを説明できなくても、こうして時間をかけて言語化することで自分のものにできるならいいですよね。

   *

 そして再び1階に戻り、越後しのさんの作品『歩歩』を見ます。

 こちらは先日の個展でも観ましたが、今日は前回よりも一段階深く自分のなかで感じ入り、自分なりにアレコレと解釈をしたうえで見たので、印象がまた違ってきました。人物もさることながら、その人物を飾り付ける花草の魅力も合わせて感じられたのですね。
 これは率直に言って、私の感受性が鋭くなって、そういった部分にも反応するようになったものだと思います。そうすると今度は、ふうわっと「何とも云えない好い匂」が漂ってくるような気がします。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』でお釈迦様がぶらぶら歩く極楽に咲く蓮の花の匂いを想像するように、越後しのさんの絵に咲く花の匂いを想像するのです。
 するとかしないとかどんな匂いだとかっていう低次元の話ではありません。私の想像力は無限なのです。また、それが正しいとか正しくないとかってことにも興味はありません。私は私がいいように感じます。そしてここでは、どう感じたかということを可能な限り精緻に記録します。それが感情家の私の表現です。アートでもブンゲイでも、素晴らしい作品を創った製作者の方への返礼なんです。

 いくら撮影OKでSNS共有OKとはいえあんまりビッシビシ写真を貼り付けるのも気が引けるので(そろそろこのブログの容量も心配になって来たし)、写真を見返して特に「これはいいなあ」と思ったのを3枚ほどあげさせていただきます。
 やはり、こういう絵が好きなんでしょうね。しんと静まり返った感じ。あるいはこちらに何も語らないキャラクター。何でも明確に言語化したり解釈したり答えを持ち出したりしなくちゃ気が済まないような気質の人なら「わからない」と言って立ち去ってしまうというような子たち。
 私はその絵の中にいるキャラクターが何かを訴えかけているような気がして、あえてその前に立ち、探ってみる。何を伝えようとしているのか想像を働かせ一生懸命に探ってみる。見つけられなくて、あきらめかけた時にようやく自分の心と波長が合う。
 ……結局、私の意識、私の自我が認知できる範囲なんて、ごくごく狭いってことなんでしょうね。大事なことを感じ取り大事なことを決めるのはたいていの場合無意識の領域であって、アートは私の意識を素通りして直接、無意識の方に働きかけてくれるのでしょう。そして無意識の方では私の自我なんて置いてけぼりにして、私の自己、私の「たましい」に働きかけ、感情を動かしてしまう。それを意識できないから私は多動性とか衝動性とかって言葉を押し付けられてしまう。そういうことなのかもしれません。
 って、これは私の無意識についての話じゃなくて、越後しのさんの個展に関する話だったはずなのに……あわわ、ゴメンナサイ。話を元に戻します。

   *

 越後しのさんのアトリエ『ギャラリー越後』には2度ほどお伺いしたことがあります。1度目はアンデパンダン展の時で、2度目がRimoさんの個展を見に行った時ですね。確かRimoさんも、越後しのさんの作品が大好きで……とおっしゃっていましたが、今回こうして本格的な個展を通じ、作品に触れることができたのは、とても良かったです。

 ちなみに神秘タロット・不思議イラスト展を見に行った一番町の雑貨屋「coco-chi」さんには、越後しのさんの絵柄が入ったグッズがあり、「アレ!? 見たことある!」とひそかに驚愕してしまいました。他にも、前回の企画展で知ったアーティストの人の作品があったりして……何だかすごいところで繋がっちゃったぞ、と。そういうわけで越後しのさんも私の「一目でわかっちゃうアーティスト」に加わりました。私の感受性と知識が着実に増えているような気がして、大変嬉しいです。

   *

 ……毎回そうなんですが、ブログは自由記述というか、半分自動記述みたいな感じで書いているんですよね。最初に「このことについて書こう!」というテーマは決めてかかるんですが、書いている途中で思ったことや気づいたことをどんどん盛り込んでいくから、最終的な着地点がどうなるのかわからない。書くことがなくなればそれでおしまいになるんですが、心がおかしくなって以来神経症的に細かく細かく自分の感じたことを言語化するようになったので、もうメチャクチャになってしまって……。
 この日は私の大好きなアーティストのひとりである『ペロンミ』さんの個展を見に行き、そこで私のアート好きの原点である『門眞妙』さんに邂逅し、また映像研究部の高校生諸君が制作した自主製作ショートフィルムの感想のこととか何とかって、もう1万字でも足りないくらい、書きたいことがたくさんあったんです。それに、今回で2回目だったんですが、Rappit/みひろさんの絵のことも書きたいし。まだまだ私は生きていかなくちゃいけない……書きたいことがありすぎる……。
 でも、越後しのさんのことに関してはひと段落つけることができたので、今日のブログはこの辺にしたいと思います。またいつか、ギャラリーの方にお邪魔したいと思いますので、その節はよろしくお願いいたします! そして、その時には個展を見た感想などもお伝えできれば幸いです!

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仙台市太白区秋保にある『秋保の杜佐々木美術館&人形館』で開催された企画展『ドールという変移する記号3』を見てきました。去年に引き続き2回目です。

 去年は「書くと気持ちが薄れるから」とかってバカなことを言ってTwitter(当時)で感想をわめくにとどまっていましたが……今年は逆に書かないと気持ちが薄れるので思い切り書きます。去年のこともいずれ改めて、四谷シモン氏のことなどに絡めて書いていきたいと思いますが、いっぺんに書くとごちゃごちゃになっちゃうので、とりあえず今年の展示について書きたいと思います。


明治時代のはじめ、西洋からの彫刻(アート)が日本に伝わり、仏師や人形師などにも大きな影響を与えました。しかし後に、帝展などの場で人形は、彫刻ではなく工芸というジャンルのほうへ振り分けされています。そのことから、あくまで「日常の中で使い、生産され消えていくもの」というイメージが強かったのだと思われます。そして現在、日本の創作人形は、さまざまな影響をうけ、いくつもの文脈をまたいだグラデーションで構成されています。柳宗悦が「民藝」という言葉で語った営みの中の美、西洋から入ってきた彫刻や立体アートといった類のものたち…。さらに、日本のマンガやアニメ文化のフィギュア・ジオラマなどの類も加わり、より複雑に自由なかたちに変化してきました。
人形は他者からの付加価値よりも対峙者個人の精神の重さによる価値が高く、時にその価値は人々の想像を超えることがあります。よって、広義な意味で「人形」は、人が人間と認知する機能を持つものであり、人間の形を保つ必要性すらないともいえるでしょう。人形と対峙する行為は、まだ見ぬ人間の本質を知って行くための入り口なのかもしれません。
今回、会場に並ぶ作品は技法も素材もさまざまです。しかし一貫して、それぞれ人形の役割を連想させる力があります。それらを鑑賞しながら、人形と人間が築くであろう関係性について、改めて探っていければと考えています。(会場に掲示されていた展示概要)


 結局まるごと引用してしまいましたが、どういう展示なのかと言えばこういう内容となります。冒頭の告知ポスターに名を連ねたそうそうたるメンバーによる、ひとりひとり全く違った個性的な絵画であり人形であり……。
 何度かこのブログでも人形について書いたことがありますが、ルーツはこの企画展なんですよね。元々四谷シモン氏の人形は大好きだったのですが、1年前、シモンドールの実物がここ秋保の杜佐々木美術館&人形館にあるとTwitterで恐山Rさん(ウラロジ仙台編集長)から教えていただき……その時にやっていたこの企画展を見てシモンドールに限らず人形全般に対する感情が芽生えました。以来しばらく活動を抑えていたものの、アンデパンダン展で人首美鬼さんの創作人形を見て再燃。そして翌日、鵜坂紅葉さんの作品を見ていよいよ「私は人形が大好きだ」ということを明確に認知したところで今回の企画ですからね。もうね、明確にここに照準を合わせて飛んできたわけですよ。カメラ付き誘導ミサイルのごとく全速力(ただし法定速度内)で飛んできたわけですよ。そして狂気のごとく感情を爆発させ、こんなふうにバリバリとメモを残してきたわけです。

 一応、撮影OKと受付のところにあったので、いくつか撮影した写真を紹介していきたいと思います。

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 まずは清水だいきちさんの作品「たからばこ」です。
 清水さんは兎をモチーフにしたぬいぐるみや少女の人形、更に球体関節人形など、いきなり私の心をときめかせる素材の人形を製作されていたのですが、あえてその中から一枚を選ぶとすると、これですね。宝箱だから大切なものをしまっておくんです。
 アンティークな箱のなかに安置された少女たち。果たしてここに来るまでに、どれほどの時間が経っているのでしょう。もしかしたら「実は中世から続くヨーロッパの名家で作られ、19世紀のデカダン蒐集家によって引き取られた後、ここ秋保に流れ着いた」というストーリーがあるのかもしれません。ええ、私はユイスマンスの『さかしま』が大好きなんです。自分の愛好するものを集めた人工楽園を築いたデ・ゼッサントに憧れているので、以降もそんな感じのフィルターを通した感想となります。「人形は他者からの付加価値よりも対峙者個人の精神の重さによる価値が高」いのでね。私が(特にここ数か月で)仕入れた重さで人形と向き合い、無限の想像力をためらいなく爆発させたいと思ったのです。それはこうして文章で書く行為も含まれます。

 次は筥筐(こうよう)さんの作品『冬虫夏草』です。3つある中でこれが一番ワイドな形をしていて、16:9のレイアウトに最適だったのでセレクトしました。これまたデ・ゼッサントが美術品のひとつとしてコレクションしていそうな作品です。なお冬虫夏草というのはゲーム『大航海時代II』でも冒険家の発見物として登場します。十分に希少価値のあるものなんです。それがこうして人の形をしていたとなれば、もはやプリニウスの博物誌を読むようなときめきを感じます。

 柊ノ夜さんの『白鳩』です。これもなかなか私の心に強く訴えかけました。鋭い刃物でグサーッ……と突き刺されたような、「死の匂い」を感じました。ひどくやせ衰え死にかけた少女。手足や膝の赤みからは、通常私たち健康な人間や生物に感じられるような血のぬくもりが感じられません。程なく彼女の肉体は腐りはじめ、そして骨になって、土に還るのでしょう。そんな遠くない未来を予想しました。あと個人的には宇野亜喜良氏のイラストを見た時と同じような感覚を覚えました。60年代アングラ文化の象徴ですよね。天井桟敷とか……おっと、それは余談でした。

 ここで、冷たく暗い暗黒美少女の世界に引きこもっていた私をさんさんと降り注ぐ陽光のもとに引っ張り出してくれるような作品に出会いました。これはしょうじこずえさんの作品『チャームツリー』です。まあこれは、あんまり難しいことは言わなくてもいいですよね。単純にこの極彩色、あるかないか不安になるような細い体に対し「そんなことないよ!」と強く主張する眼。そういった印象を楽しめばいいんじゃないでしょうか。私はそうでした。ここまで神経症めいた空想ばかり広がっていて、さらに直前で柊ノ夜さんの『白鳩』を見て、すっかり死の幻想にとり憑かれていたので、いっそう印象が強まりました。夢から覚める直前、モノクロームの世界から私の自我が認知するところの「現実」というやつに戻ってくる直前の、パーッと光に包まれたような感覚。

 こちらはご覧の通り絵画です。そして、正直なところこの絵がどういうことなのか、今一つ私にはピンと来ませんでした。それは今でも同じです。この絵に対して、これまでのような爆発的な感情がわいてこず、写真を見ていても「う~む……」とうなるのが精一杯です。ただこの絵につけられタイトル、
 『何を以て正常と、何を以て異常と』
 というのは私がず~っとず~っと悩み続け、答えを探しているテーマであって、この絵も私と同じことを訴えかけているんだ! ということだけは認知しました。その問いに対する答えを示してくれたわけではないですが(そして、そもそもそんなものがあるかどうかはきわめて疑わしいものですが……何でもかんでも検索して答えを求められるほど世の中は浅くも薄くもつまらなくもないと信じているので)、自分と同じようなことを考えている人がいるんだということが嬉しかったです。こちらは「せん」さんの作品でした。

   *

 というわけで、ここでいったん文章を区切ります。すでに十分神経症めいた文章になったと思いますし。
 今回の企画展に合わせて、当美術館のオーナーである佐々木正芳氏の奥様・佐々木あゆみさん(故人)の企画展も「後援企画」として開催されておりました。元々あゆみさんは、佐々木正芳氏の作品だけでは物足りないだろうから人形館も併設しようと言い、自ら人形制作を学んで人形に対する理解を深めていたと言います。こうして人形に関する企画展をこの場所で開催できるのもそういう縁があってのこと……とは、今回の企画展の主催団体である「秋保ひとがた文化研究室」からの言葉です。
 また、個人的な話となってしまいますが、先日観た越後しのさんの個展も、あゆみさんの代表的な作品群『祭草』シリーズへの関連がありました。私はその辺のことを知らず、ただ越後しのさんの作品を見たい! という気持ちで来て……もちろん、それなりに感じるところはあったのですが……今回私も「祭草」シリーズの絵を見て、さらに越後しのさんの絵も会場で見て、感情がよりいっそう込み上げてくるものがあったので……2階の展示を見た感想と先日の個展のことを言ったり来たりしながら、次の文章を書きたいと思います。「書くべき時が来るまで待たなければいけないことがある」とは、こないだ読んだ『ハドリアヌス帝の回想』に関するユルスナールの言葉ですが、どうやらこれもそんな感じみたいです。何でもSNSで速報みたいにポンポン出せばいいわけじゃないんです。じっくり温めて、一気に書くのが大事なんです。

 消費してはいけない。
 消費されない心を大切にしたい。


 ※追記。越後しのさんの個展を見に行った日の写真を見返すと、ちゃんと祭草シリーズは見ていました。写真も撮っていました。ただ、その時は今回ほど強く意識せず……というか、感じたことがあまりにも多すぎて、忘れていたみたいです。また、個展のタイトルが『祭草の歩み』というものですが、関連というとちょっと違う気がします。いずれにしても、越後しのさんの個展については次回の記事でまとめます。そのうえで、今回書いたものは訂正せず追記という形で言い訳をさせていただきますスミマセンでした。

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12月2日――
 この日はブックハンターセンダイというイベントに行って来たのですが、そこから3kmほど歩いた先にある一番町の雑貨屋「coco-chi」さんで開催されたイラスト二人展「Destiny」も、見てきました。ブックハンターの話題が重たかったので後回しになっていましたが、作家の方とお話しをしたり素敵な作品をたくさんお迎えしたりと、素敵な体験をしたので、その点について書いていきたいと思います。少し時間が空いてしまいましたが、一生懸命思い出しながら書きます。



 「元々こういう幻想的なもの、神秘的なものが大好き」というのは会場にいらっしゃった作者の『秋草おと』さんにうかがったお話しです。自分たちは本格的な占いはできないけれど、こうしてタロットカードをモチーフにしたイラストを描いた……というのが今回の展示概要。この点においては私も強く共鳴するところです。私はイラストも描けないので、その分こうして足を運び写真を撮りポストカードなどをお迎えします。せーの、ドン!




 何とも下手な写真の撮り方をしてしまったなと今更ながら後悔していますが、何とか全体的な雰囲気は伝わるのではないでしょうか。どうですか! 良いでしょう! 私は良いと思います! 作風は全く異なるのですが、お二方とも非常に可愛らしくて幻想的なイラストで……ここに来る前にブックハンターセンダイでも爆買いしていたのですが、ここでもポストカードを3枚ずつ計6枚購入。元よりポストカードを買い集めるのが趣味なのですが、これによっていっそう華やかになりました。

 そして、これらポストカードとは別に購入したワンドロ作品がこちらです。はい、ドン!

 

 やはり手書きの一点物は格別です。パッと見たイラストの可愛らしさは言うまでもありません。何よりこのメッセージが、今の私にとって非常に強烈な……それこそタロット占いで示されたような、動き始めた私の背中をギューッと強く後押ししてくれるメッセージであると受け取りました。

 「どっちでもよくない」
 「私は私」

  *

 ……今回の展示も、フォーラスの7FにあるTURN ANOTHER ROUNDにある告知はがきを見てきました。亀井桃さんもペロンミさんも、最近参加したイベントは大体、紙媒体で開催を知り実際に足を運んで見ています。SNSによらないアナログハート生活は、地道に楽しいです。今日からは秋保の杜佐々木美術館&人形館で新しいイベントが始まるし。これを見に行った感想を書く勢いで、先日の「越後しの」さんの個展のこと、みひろさんのこと、さらに同じ会場で見た高校生の皆さんの映像作品のことに四谷シモン氏の人形のことなど……。

 こないだ借りてきた矢川澄子さんの本とかエンマ・ユングの本とかを読んでひと段落したのでね。ブックハンターセンダイで買い求めた本を読みつつ、たくさん書くべきことを書いていきたいと思います! そのためにも今日はお仕事頑張ります! 川島明さん年間テレビ出演数1位おめでとうございます! ラヴィット!

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先日、仙台や東京で活躍するイラストレーター『亀井桃』さん(公式HP)の「FULLSWING展」を見てきました。会場は古着屋さんで、あまりそういう場所には行かないので少々緊張しましたが、とにかく亀井桃さんのイラストが大好きなので行ってきました。


 今回はこれまでに撮りためた写真を一挙公開。私が初めて見た絵から現在に至るまでの亀井桃さん大好き特集をやってみたいと思います。ほとんど私の言葉はありません。でも写真はいっぱいあります。

    *


 初めて亀井桃さんのイラストを見たのは昨年10月に青葉通地下道で開催された少数派のためのマーケットイベント『地下道-3150』です。私も大好きなウラロジ仙台さんの主催によるもので、これ以来、私も自分の生き方に大きく自信を持つことができました。それはSNSを休止している現在でも同じです。


 その後、去年の暮れにフォーラスの「TURN ANOTHER ROUND」で開催された個展も見に行きました。ここで初めて「ああ、亀井桃さんの絵って、こんな感じなんだなあ」ということを認識しました。



 実際のイラストはご覧の通り、非常にポップで可愛らしい絵柄です。ただ、それだけにとどまらず、何か目に見えづらい魅力があるんですよね。ただ可愛らしいだけならフワーッと感じて通り過ぎてしまいますし、強すぎる刺激もいずれ慣れて何も感じなくなってしまうでしょう。そうならず何度見てもそのたび気持ちがときめき心惹かれてしまうのは何か。残念ながら美術が2の私には語る言葉がないので、当時ギャラリーにあった紹介文を丸ごと引用させて頂きます。せーの、ドン!


亀井桃は、器用なバランス感覚に優れている作家です。それは幼少期から続く創作行為によって培われた資質なのかもしれません。ポップさとキュートさの中で展開する自在な毒気のさじ加減が、観るものを惹きつけてやまない要因となっています。そして、日常の一瞬一瞬のきらめきをとらえた人物や事物さえも、躍動感のある表情をたたえ、まるでこの不毛で陰鬱な時代を軽やかに、逞しく生きることを謳歌しているかのようです。


 ……そういうことです。LOVE&DESTROYがテーマなんです。今回のFULLSWING展でも同じ文字がペイントされたバットがありました。個人的には非常に素敵な逸品だと思いました。

 素晴らしい。

 一方で、今回のFULLSWING展を開催した古着屋の店員さんと少しお話しさせて頂いたのですが、最近は「大きな仕事」もドンドンするようになってきたとのことで、こんなポスターも描いていました。宮城県名取市にある日本三稲荷のひとつ竹駒神社の「夏詣」のポスターです。こちらです、はいドン!



 自慢じゃないですがこの絵柄を見て、「あれ? これって亀井桃さんの絵じゃない!?」と気づくことができました(一応ご本人のインスタグラムを見て同じデザインがあることを確認しました)。門眞妙さん、ペロンミさん、亀井桃さんあたりはもう、そのくらい大好きのレベルが上がりました。イエイ。

 なお、亀井桃さんはアンデパンダン展にも出展していました。その時の記事のなかではテキストでしか書いていませんでしたが、素敵なイラストでした。


 そして同日、去年に引き続き開催された青葉通地下道のイベント『地下道-3150』のポスターも描いていました。アンデパンダン展を見に行った後、その足で行ってみたのですが……せっかくなので、去年のものとあえて並べてみます。

 相変わらず可愛いです。なお今年のイベントは小さいお友達がたくさんいて、来年の3月までSNSを休止しようと思っていた私も強行復帰してしまいました(その後、治りきらなかった心が叔母の帰天に伴い悪化し再び休止)。

   *

 そして時は現在この記事を書いている11月29日に戻ります。



 竹駒神社のポスターを見た時、何とかこれを譲ってもらえないか社務所にかけあおうと思ったのですが(未遂)、今回こうして亀井桃さんのイラストを自分の部屋にお迎えすることができて、本当に嬉しく思っています。それを記念して、自分なりにまとめてみましたが……まあ、こんな私ですからね。上手に文章でまとめられないけど、大好きな気持ちはまとめられたかな。また何か、この気持ちを言葉にする機会があればそうしたいと思いますが、個展の主催者側の言葉がすべてではないでしょうか。LOVE & DESTROY !

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最近はギャラリーにいった時、必ず芳名帖に名前を残すようにしています。いや最近って訳でもないのかな。前から何となく、そういうのはやっていた気がしますが、最近とくにそれを意識するようになりました。
 多分それはSNSでの発信を休止し、こんな誰も見ていないような場所で書いていても伝わらないだろう、と思うからです。別に不特定多数のひとに「この展示会に行きましたよ~!」なんてアピールしてたくさんいいねをもらいたいわけではないので。私のことなんかどうだっていいので。
 でも当事者のひとには、私という人間がことによっては二度も三度も来てみましたよ、ということが伝わってほしいので、特に意識して書いているような気がします。大好きになったらその気持ちを一番伝えたいのは、いつだって大好きになったそのお相手ですから。

 ということを、仙台フォーラスの中にあるTURN ANOTHER ROUNDさんで23日まで開催している「植物のある風景展」を見た直後に書きました。
 どうやらパッと見た時の感想が熟成され言葉になるまで、時間がかかるみたいです。落ち着いて思い出して、少しずつ言葉にしていく。その作業には時間がかかるようなので、2度見てさらに時間をおいて、ようやく浮き上がってきた感想を少しまとめてみたいと思います。



 「実際の風景や、架空の世界を問わず、”植物と日常が混ざり合った世界”を自由に表現しています。会場全体がさまざまな植物で溢れ、ご来場のお客様に癒しをお届けできるような展示」とは、会場側のホームページにある展示概要ですが、こちらに出店しているのは東北イラストレーターズクラブ所属の皆様です。つまりプロのイラストレーターの人たちによる展覧会なんですね。
 このところはもっと美術寄りの展覧会ばかり見ていたので、ちょっと心のチューニングを合わせるのに少し手間取りましたが、
 「可愛い、ポップなキャラクタをそのまま楽しめばいいんだ」
 というふうに考えて、最終的には物販コーナーでお土産も買って帰りました。そして2回も会場に行きました。1回目はチューニングを合わせるために、そして2回目は全力で楽しむために……。



 ひときわ私が「あら、可愛い」と気に入ったのがコチラ、三日月ここな先生の「光と水と」という作品です。私の暗黒みたいな心もキラキラなメイドさんによって明るくなりました。そうだ、可愛いを可愛いって、素直に楽しめばいいんだ! って思いました。

 

 その流れで、気に入った絵をビッシビシ撮影しつつ楽しませて頂きました。物販コーナーでは、このメイドさんのコースターがあったので買ってきました。記帳も2回分やってきました。手書きで感想を残すコーナーでは2回分書きました。また名刺とかポストカードも片っ端からかき集めてきました。これを機会に名前を覚えて、もっともっと好きになりたいと思います。

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さる11月8日、本を返しに行ったついでに、同じ建物(せんだいメディアテーク)で開催されていた美術展やら写真展やらを見てきました。このうち「現在(いま)展」について書きます。画像を削除してその分文字をたくさん書きます。
 手元の資料によると、「仙台美術研究所、美術専門カルチャーsenbiくらぶ受講生と講師による作品展です。現在(いま)の自分を製作の原点とし、技術や表現などの実力を越えて<現在(いま)の自分の表現>を目指し制作した作品の展示です。」との内容でした。

 アマチュアが主役となって大きな場所で展示をする……というのはアンデパンダン展のような感じですが、こちらはそれぞれの教室に通う人たちがしっかり技術を身につけたうえで出展しているので、安定感というか、油彩・水彩・デッサンなど皆さん同じ向きの作品が並びます。私は門外漢なので技術的な巧拙はわかりませんが、そういう人間だからこそ感じることがありました。

 絵のテーマとして仙台市の一風景を切り取って描いておられる方がいました。橋の上から見た景色とか、地下鉄駅の入り口とか、通りに面したお店とか。私にとってもごくごく見慣れた景色です。あえてスマホで写真を撮るようなこともせず、なんとな~く通り過ぎている景色です。改めてこうして見てみたところで新たな魅力に気が付いたとか、そう言うこともありません。

 気が付いたのは、そういった景色を「自分で描く」ことが良いんだなあ、ということでした。真っ白い画布に絵具で塗り付けていく行程を想像してみると……見たものや想像したものを自由に表現するのはどんなに楽しいんだろう、と。私が見ている「外の世界」にはない、心に思い描く「内の世界」を「外の世界」で表現するのはどんなに楽しいんだろう、と。

 絵が上手なのは才能なのか。それとも近づける努力をすれば少しは何とかなるのか。ただちに絵の修行に取り組むとか、そういうことではありませんが、また一歩野望に近づいた気がします。違います野望とかないです。ただ「自分は一生、上手な絵なんか描けっこない」と閉ざしていた扉が、天岩戸のごとく、ちょっぴりだけ開いた。そういうことです。

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ここまであっちこっちまわってきたアンデパンダン展。その回想録についても思いのほか長くなってしまいましたが、これで終わりです。最後は私が初めて訪れた仙台市のギャラリー『ターンアラウンド』です(通称タナラン)。

 実は、前もってどこの会場で誰の作品が展示されるのかというのをリサーチしたうえで来ていた私。このタナランでは、ウラロジ仙台さんの『地下道3150』や竹駒神社の『夏詣』のイラストを描いている『亀井桃』さんが作品を展示しているということで、非常に楽しみにしておりました。



 ……前回の記事でも書きましたが、作品そのものは無審査で通るものの、どのギャラリーに配置するかは主催者側で選定し決めることですからね。やはり一定の安定感はあるように感じました。ちょっと変わった作品だとしても、ある程度の枠のなかでの「変わった」であって、文字通りのバーリトゥードな感じではないんです。

 ある一定の枠――または一定の方向性の上での「変わった」作品。本当に何が飛び出すかわからないっていう雰囲気は、タナランとかSARPとかといった仙台市中心部のギャラリーでは感じられませんでした。そういうものだから、そのうえで私も楽しむのだから、全く問題ないわけですが。むしろ、中本美術館で見たような、「ウムム……こ、これは……!?」と若干不安になるようなものがあってもアレだと思うので。あったらあったで面白がると思うんですが。



 平面の作品としては、このあたりが私の波長に合う作品でした。やっぱり前回のアンポンタンズ展で少し気持ちが前向きになったとはいえ、まだまだ暗い部分が残っていたので、そういう私の心にダークな(でも、綺麗な)雰囲気が共鳴したのでしょう。それは理性でわかっている範囲だったので、安心して楽しむことができました。

 ちょっとドキリとしたのは、一通りの展示を眺めた後でまたこの人形のところに戻ってきた時でした。一度目にサ……と眺めた後に戻ってくると、妙にこの人形が愛おしくなってしまったのです。得も言われぬ魅力を感じて、「いわゆる世間でストーカーと呼ばれる者たちの心境とは、このようなものではなかっただろうか」とギリギリのところで自分の感情を俯瞰するような視線を送ってしまったのです。



 他のお客の視線を気にしつつ、色んな方向から写真を撮ってみる。どうやったら、私が感じている彼女の魅力を一番引き出せる写真が撮れるのだろう。どこから撮ればいいんだろう。そうやっているうちに、ある一点を見つけ、ベスト写真を撮ることができました。

 

 「ここだったか!」

 電光に打たれたような衝撃を感じました。ちょうど彼女の視線と私の視線がぶつかり合い、彼女が放つエネルギーを真正面から受け止められるアングルとは、ここだったのです。かくしてこのアンデパンダン展最大のクライマックス、自分の被造物に恋してしまう名工ピュグマリオンのごとき人形への愛情が爆発してしまったのです。

 まあ、爆発したとはいえ、これはあくまで「鵜坂紅葉」さんの作品です。私がどうこうできるものではありませんし、そうすることでこの感動を自ら破壊してしまう勇気もありません。ただ満足できる一枚が撮影できた。私はそれでよいのです。この写真を大切にすることで、私のピュグマリオン・コンプレックス(by澁澤龍彦さん)は満たされるのですから……。

 その後、改めて亀井桃さんのイラストを見ました。そしてカウンターの方を眺めていて特に何という札もなくちょこんと置かれている女の子のイラストを見て「あ、門眞妙さんの絵がある」と思いつつ、まだ気持ちが復調していないために「これって門眞妙さんの絵ですよね?」と確信をもって問いかけることもできず無言でその場を後にしたのですが、これで私のアンデパンダン展は終わりです。このあとは青葉通を仙台駅方面にまっすぐ歩き、ウラロジ仙台さんの最大イベント「地下道3150」に突撃したわけですが……それはまた別なお話です。

 *

 最後に結論めいた話をするべきなのかもしれませんが、それは以前の記事で書いちゃったんですよね……。でも、いきなりこの記事にたどり着いた人もいるかもしれないので、自分で書いた記事を引用するという、インチキくさいことをしてしまいます。私が私の記事を引用して何が悪い! なんてねテヘッ!




 自由と独立の精神。誰にでも開かれた場。自分がいいと思ったものを自分の一等得意な方法で精いっぱい表現する。ジャンルも形式も違ったアレコレをいっぺんに見て私が感じたことをまとめているうちに、何かがはじけた気がします。

 私だって、思い切り大好きを表現してもいいはずなんです。誰に遠慮がいるものか。公序良俗に反するのはダメですけど、そうでないなら……ね。今の時代はコミュニケーションツールが発達して、バズるとか、たくさん「いいね」がつくような表現じゃないといけないような風潮がありますが、そんなことはないんです。むしろ流行るものは廃れるものでもあります。それよりも「消費されない」ものを……誰にも気づかれず褒められもしないけど、無くなりもしない、ずっと心に残り続けるものを……そういうものを食べて生きていきたいし、自分でも形にしていきたいなと思いました。




 まったく面白いイベントでありました。またアートに心を救われました。来年は私も何かしら出展してみようかしらん。そんな気持ちにさえなってしまう……そう、何よりも自由と独立の精神、どんな表現だって良いも悪いもないんだっていうことを体験的に教えられたというのが、一番大きな収穫でした。

 良いと思います!

(完)

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「せんだい21アンデパンダン展2023」仙台市中心部における会場は屋内が3か所と屋外が1か所。このうち2か所は11時オープンで1か所(商業ビル「仙台FORUS」の中にある)は10時オープンなので、とりあえず早い時間にオープンする仙台FORUS内「TURN ANOTHER ROUND」に行きました。

 『展示会場については実行委員会が決定し、後日「会場決定通知書」で連絡いたします。』

 公式ホームページの応募要項にそんな風に書いてありました。だからどれほど無審査で自由な展示会とはいっても「ある程度は」ギャラリーによって雰囲気のカラーリングがあったのでしょうね。というのは、この商業ビルの7階にある場所を見て思いました。

 結構、ちゃんとしてるんです。……というと語弊がありそうな気もしますが、1日目にまわったバーリトゥード感が薄くて。回を重ねるごとにルールが決まって選手の戦い方も洗練されていった総合格闘技の世界みたいに、うん、いわゆる美術展の形に収まっているんです。みんな綺麗なんですよ。――そう、とっても綺麗で清潔で、ちょっと高級な感じがするんです。チフリグリさんとか中本美術館で見たような手作り感がなくて、洗練されているんです。

 

 ロングで2枚ほど、会場の雰囲気を撮ってみましたが、こんな写真を撮りたくなるくらい整然としているんです。ちょっとエッジの利いた作品もありましたが、それさえこの「FORUSというオシャレな商業ビルの中にあるオシャレなギャラリー」の雰囲気を壊すものではありません。そういう雰囲気を一通り味わい、「よし、見たぞ!」と言って、次の会場に移動します。今度は仙台アーティストランプレイス(SARP)です。




 SARPのアンデパンダン展は、こちらは先ほどの「TURN ANOTHER ROUND」よりは幅が広い印象でしたね。抽象画あり、マンガっぽい可愛いキャラクタがあり、私の心の奥深いところまで突き刺さってくるような……要するに「波長が合う」作品が多くて、とても楽しかったです。先日書いたRimoさんの作品もこの会場にありましたしね。



 これはいいですね。説明文も合わせて読まないとわかってもらえないと思うので一緒に掲載しました。ハレとかケとか、いかにも日本的な光と闇の概念を可愛らしい絵柄で覆い隠しているものの、包帯ににじむ血のように染み出している雰囲気が、私の無意識に眠っている感情を突き動かします。



 これもまた強烈な印象を受けました。ただでさえ目というのは時によって相手を射すくめるような力があり、最近読了した『帝都物語』には目の力で超常現象を引き起こし相手を殺害する『邪視』の持ち主がいました。そのようなエネルギーが青い針金で顕在化していて、まさに「その場の空間を支配するかのような独特なプレッシャーを放つ」のです。



 これはちょっと変わった展示ですね。鑑賞者参加型と言いますか。かたわらには手のひらに収まるくらいのサイズにカットされた水流の写真がいくつもあって、私が好きなものを選んで好きな場所に貼り付ける……というものだそうです。そういうものかね、といって私も素直に写真を選び、貼り付けてみました。こう、製作者側から積極的に私の感情をコントロールされるのも面白いですね。おかげで、ざわざわしていた気持ちがだいぶん落ち着きました。



 本来の順番としては、先にこちらを見てアンポンタンズ展を見ました。そしてここで気持ちが前向きにスイッチしたところで、大手町にあるギャラリー ターンアラウンドに向かったのでした。






 なお、アンデパンダン展ではこのような屋外会場でも展示がありました。ここは……ねえ。もうバーリトゥードというか、ストリートファイトみたいな感じですよね。私も正直、「一応、やっているっていうから見てみるか」って感じで来たので、それほど強い印象はありません。この屋外会場とタナランが比較的近いので、ちょっと寄り道をしてからタナランに行きました。そして久々に「ドール」に入れ込んでしまったのでした。

 (つづく)

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アンデパンダン展、2日目(仙台市中心部編)の話の前に、同時開催された別な展覧会について触れたいと思います。

 その集団の名前は「アンポンタンズ」……なんか本気なのか冗談なのか、名前を聞いた段階ではわかりませんでした。ちなみに世田谷で活動しているバンドとは関係ありません多分。



 いわく「本展は仙台で同時期に開催されるアンデパンダン展2023の勝手に応援(便乗)企画です。」とのこと。でも会場は仙台市内の、それこそ昨日書いた「わたし、にしかみえない星」展も開催された仙台アーティストランプレイス(SARP)ですからね。片方でアンデパンダン展、もう片方でアンポンタンズ展……これはなかなか高度なレベルで混沌としている感じがします。

 ま、一応アンデパンダン展の方を見てから、シームレスに隣の展示会場に移動しました。たまたまギャラリーの方がいらっしゃったので、その人に少し声を掛けて、いざ見てみましょう……企画展の名前は「それって、意味あるんですか。展」とのことで……むむ……。

 何かにつけて意味があるから価値があり意味がないから価値がないと判断される昨今の情勢を鑑みてのテーマなのでしょうか。私はこの言葉が、あらゆる情熱を冷まし虚無に追いやる「トカトントン」と同じような意味合いの言葉だと思っていて、ひどく嫌いなんですが(私にそういうことを言ってくる人とは一生付き合いたくないレベル)、果たしてどんな「意味」を持ちだしてくるのか。ちょっと構えて見てみました。



 大体一周する前に、構えは解けました。別に私に意味(=絶対的な価値)を求めていじめるような人たちはなく、皆それぞれが自由に意味があるとかないとかあってもなくてもいいんじゃないとか、そういう感じで絵と一緒にコメントしていたので、すっかり安心しました。そして今度はそれぞれの作者のコメントがA4の紙に印刷されたものを手に、もう一周しました。

 特に尾勝健太さんのコメントが私にはすごく響きました。以下引用です。因みに作品のタイトルは「答えないといけないですか?」……これは今回のテーマに対するアンサーなのでしょうか。もう、この時点で結構喧嘩腰というか、企画そのものにも反発している感じですね。

 

正直昨今流行ったテーマの煽り文句が嫌いです。いや、、、簡単に乱用する人が嫌いなのかもしれません。
本質を問うための鋭い指摘ともとらえることはできますが、誰彼構わずその言葉を使うことで、無形の経験値を削ぐ怖ろしい言葉でもあると感じるからです。
おおらかな心で、細かいことを抜きにした経験値が余裕を生むと思いたいです。
 
 あと、いま読み返していて「そうかな!」と思ったのが、キヨさんのコメントです。また引用します。

意味と無意味は複雑で、主観と客観によっても違うし、時が経つにつれ変化することもありますね。なので、あまり意味に囚われず「直感と偶然」を重視して生きていきたいです。
 そして最後に鑑賞者に向けて問いかけられた言葉と、それに対する皆様のアンサー。



 絵を描くことって、意味があるんですか?

 今の時代にあっては、本当に恐ろしい問いかけです。でも、それに対して皆さんそれぞれあるとかないとか分りませんとか、自分の言葉でまっすぐに答えていらっしゃいました。そもそも絵を日常的に描いていない私まで何とか答えを引き出して書いて貼り付けてきました。その時にちょうどギャラリーの方とお話しする機会があったので、このアンポンタンズって何なんですか? ということを聞いてみました。

 それによると、毎年このアンデパンダン展に合わせてテーマを決めて作品を描くのだけれど、それに合わせたものを作る人がいれば全然関係なく自分の好きなものを作ってくる人もいるとか……全くもって自由な世界です。そもそもアンデパンダン展って言うのが、無審査で自由に出展できる催し物でありますが、こちらはさらに自由というか……でもみんな一定のカリテがあるからこそ、それが成立するんでしょうね。ノンセンスの物語は、実は卓越したセンスがないと書けないように。ルイス・キャロルとかね。

 *

 という感じで、アンポンタンズ2023「それって、意味あるんですか。展」は、ひょっとしたら本家アンデパンダン展よりもメッセージ的に強く響いたかもしれません。実際にテーマとそれに対する言葉があったからかもしれませんが。アンデパンダン展の方はあくまでも私の感情世界なので。……でも、事実として弱った心が元気になったきっかけは、アンポンタンズの皆さんのおかげです。ここで気持ちが切り替わって、徐々に動き出して、最終的にウラロジ仙台さんの「地下道3150」に参加することができたのですから。

 逆に言うと、この企画展を見なければ、1年間ずっと楽しみにしてきた地下道3150にも行けなかったかもしれません。「今の私なんか、行かない方がいいんだ」って泣きべその気持ちで立ち去っていた可能性があります。実際そのくらい心が不安定だったのです。

 この先もずっと、忘れません。すごく感謝してます。また来年、見に行きます!

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それは「わたし、にしかみえない星」という名前の企画展でした。これは『門眞妙』さんと『ペロンミ』さん、『ユ、六萠』さんらのグループ展ということでした。

 まず場所を探すところから始めて、大手町からどこをどう歩いたか……たぶん定禅寺通りまで来て、それから錦町に向かって歩いたのだと思いますが……ともかく1時間くらい歩いたのかな。途中でふらふらと寄り道しながら歩いたので、そのくらい時間が経っていました。

 これは1年前の記憶だけなので少々不確かですが、外側から「わたし、にしかみえない星」という企画展の大きな看板と一緒に何か絵を見た気がします。その時の印象を限りなくリアルに再現するとこんな感じです。

 「ほう……
  ……?……
  うん……まあ、見てみようかな」

 正直に申し上げると、この展示を見るまで『ドローイング』というものを見たことがなく、その存在さえ知らずに生きてきたので、ちょっと理解するのに時間がかかったのです。こう、展覧会に飾る絵って、鮮やかな彩色があるものばかりだと思っていたので。まあ、生まれて初めてドローイングというものを見た非美術畑の人はこういうふうに思うんだって、そのくらいの軽さで受け止めてください。

 中に入ります。

 

 いまならもっと積極的に写真を撮りまくっていたのですが、この時はまだちょっと遠慮があって、それほど写真を撮っていませんでした。それでも、ちゃんと象徴的な絵はおさえていたので、何とか格好はつくかな。

 

 これは一緒に会場にあった『ユ、六萠』さんの創作ノート(というのかな?)です。そっと中身を見させていただきましたが、その時に、私といま自分が見ている美術の世界をさえぎっていた透明な壁がパリンッ! と音を立てて崩れ落ち――見ている私もようやく門眞さんとペロンミさんとユ、六萠さんの世界に入り込めたような気がします。

 むしろ、見終わってから1日経ち、2日経ち……その時に感じたことを思い出し定着させようとするほどに、「ああ、あれは良かったなあ」という感情が押し寄せてきて、少しずつ波高が上昇していくようでした。今だったらもっと写真を撮ったのに! とか、もっとじっくり見てたくさんテキストに書き起こしたのに! とかという後悔が起こりました。まあ、これがその時の私のキャパシティ的な限界だったのでしょう。仕方がありません。よく頑張ったよ……。



 これはお知らせのはがきと、会場にあった『ユ、六萠』さんのテキストです。活字を食べて生きてきた人間なので、こういうのはしっかり読みます。門眞さんの、開催にあたってのテキストもじっくり読みました。ペロンミさんは……いいんですよ。逆にSNSで何のコメントもなくパン! と画像を見せられて、ウムム!? とうなるのがいいんです。ペロンミさんは問答無用なんです。なんかすごいこと言っちゃった。いや本当に皆さんの作品がとっても好きです。

 そして、今年の8月にお披露目された回顧本(?)『「わたし、にしかみえない星」の本』が発売され、それを購入して振り返ることができるようになったのは、私にとっては望外の喜びでした。一度は見えなくなってしまった星がまたきらめきだした! といって飛び上がるくらい嬉しかったのです。

 

 この時は春日町の古書店『マゼラン』さんでお披露目会と称して小さな展示会があったので、開催期間中に4度も通い、ここぞとばかりに写真を撮りまくりました。そしてコーヒーを頂き、森茉莉さんの『贅沢貧乏』を購入し、そしてそして! 新作を持ってきた門眞妙さんにご挨拶をさせて頂いたのでした!!! もうね、もう嬉しすぎて膝が震えるし声が震えるし号泣寸前だったんです。



 このように、本にサインもしていただきました。催し物としてのサイン会に並んだことはありますが、こうしてだしぬけにサインをお願いしたのはほかに一度しかありません。ただ、その時よりも心が近しく感じていたので、緊張の度合いは格段に上でした。私の宝物です。



 そしてこれは、マゼランさんで行われた「おひろめ会」に展示されていたユ、六萠さんの『天界へようこそ』という作品です。マゼランの店主の高熊さんにお願いしてユ、六萠さんに連絡を取ってもらい、譲ってもらって現在は私の部屋に飾ってあります。その上には門眞妙さんの新作があります。さらにその周りも、ここ1年でお迎えしたキャンバスがあるので、とてつもなく賑やかになってきました。

 *

 かくして現在に至ります。ずっと考えてきた「消費されないキャラクタ」とは何か。何かって、明確な形に残るようなものではないかもしれませんが、少なくともこの日に見た作品のキャラクタたちは1年近く経った現在でも生き続けています。

 その時に見たキャラクタ、読んだテキスト、小さなテレビの中に映し出された景色。


(2022年11月16日、タナラン『まあたらしい庭』にて)

 私にとってそれは、ただパッと見て「可愛い!」だけじゃ成立しないような気がします。もちろんアニメも漫画も大好きなので、「可愛い!」キャラクタは大好きです。広告の看板だろうと何だろうと写真を撮ったり右クリックで保存したりします。でもその印象以上の何かがないと、すぐに気持ちが薄れて、忘れてしまう――「消費」されてしまうような気がします。

 次から次へ矢継ぎ早に大量生産され世に出回り、ちょっとかじってすぐ捨てて次の新しいものに食いつくのが今の流行なのかもしれませんが……そしてそれは良いも悪いもない、「時流」とか「時勢」とかいう、私なんかが竿をさしてもすぐに流されてしまうようなものであると思うのですが……私はそういうの、ちょっとついていけないです。時流についていこうとしたら飲み込まれておぼれかけてギリギリのところで岸に流れ着いて、しばらくそこで動けなくなって、ようやく呼吸が少し楽になった。そういう感じの人類なので、消費されないキャラクタというのは私にとって必要不可欠というか、私が求めているものである気がします。

 ここで「わたし、にしかみえない星」展の会場にあった門眞さんのステートメントを引用させて頂きます。

現代において私たちは消費せずには生きてゆけない。各方面でその速度は早まっているように思う。”キャラクター”も同様に欲望を喚起し消費されることを宿命づけられている表象だが、一方で私たちに安心を与えてくれる、お守りのような存在でもある。ここにいる三名は、まずは自身のために制作を始める。その過程を踏まなければ、”キャラクター”へも、作ることそのものへも、そして鑑賞者へもアクセスできないことを知っているからだ。

わたしにしか見えない星が、あなたにも見えるかもしれない。
その事に希望を託して。

門眞妙
 
 これを自分の中に落とし込むためには1年近い時間が必要だったのかなと思います。言葉の上で理解したものの心の深いところまでしみ込むには、ある程度の時間と経験が必要でした。

 つまり、私はキャラクタが物凄い勢いで生産され、消費されていることを、知らなかったのです! あるいはそれを感じ取りつつも、まだ個人的無意識の闇にあって、そこから意識の此岸(しがん)に引っ張り出すことができなかったのです! だから激流にもまれ、足のつかない真っ暗な水の中で足をバタバタさせながら流され、溺れたのでしょう……。

 でも、この時の言葉をずっと大切に持ち続けていたから、何とか水面に顔をだし、岸にたどり着き、息を吹き返すことができたのでしょう。消費されないキャラクタ、誰にでも見えるものではないけど私には見える星があることを知っていて、それを追い求めていたから……。

 *

 仙台に来て、新生活を始めて、生き方レベルで変わったことはたくさんあります。色んな場所に行って、イベントにも行って、SNSで知り合って……それを何度か文章にしたことはあります。

 ただ、これまで門眞妙さんやペロンミさんやユ、六萠さんのことについては、まとまった形で話したり書いたりしたことがなかったので、この機会とばかりにまとめてみました。あれもこれもと盛り込んでいたら、なんだか分量ばかり多くて不格好で胃もたれしそうな爆盛り料理みたいになってしまいましたが、大好きを語る時はどうしたって一生懸命になっちゃうのでお許しください。

 曇っていたり、太陽がまぶしすぎたりして、しばしば見えなくなるけれど、そこに星があると信じられるから、私は生きていけそうです。たまにくじけそうになるけど、そんな時は時間をかけて元気になるまで待つことにします。



 また、こういう機会があることを信じています。

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この記事が公開されるのは11月3日……「文化の日」です。

 積みあがった記事が押されて押されてついに11月3日まで押し出されたわけですが、せっかくなので、この1年近く温め続けてきた(と同時に、なんだか形が見えなくて少々モヤモヤしていた)ものについて、まとめてみようかと思った次第です。

 何せ去年のこの時期というのは、ちょうどTwitterが面白くなってきた頃だったので、ブログの方はほとんど開店休業でした。そのため、結構いろんな体験をしているにもかかわらず、あんまり深い文章が無いんですよね。

 というわけで一生懸命思い出しながらの内容とはなりますが、できる限りのことをします。

 それは去年の11月に行った、ふたつの美術展のことです――。

 

 もう1年前の記事だし許していただきたいと思うのですが、去年の河北新報の夕刊でこの記事を見た時、

 「アニメっぽい」

 そう思いました。アニメっぽいというのはひどく漠然としているのですが、それは私が好きなアニメのキャラクタの要素がいくつも混在しているからです。ただ、それでも一番強く連想したのは、「ラブライブ 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」というアニメのキャラクタですね。その中のキャラクターー特に私が好きな、いわゆる「推しの子」――の髪の毛がピンク色だったので、何かそれっぽいな、と思ったのです。

 別にそれまでは好んでギャラリー通いなどするようなことはなかった……正直に言うと、私なんかが急にギャラリーに行ったら、ディレッタントな感じに思われるんじゃないかという、意味の分からない不安があって……そもそもこうして新聞にでも載らない限り、その開催のことも知らないまま生きていくことになったと思うのですが……ともかく心惹かれたのなら行ってみればいいか、ということで足を運びました。

 

 この時は一応「ハッシュタグ:タナランとつける」という条件の下で写真を撮ってSNSに公開してもいいという掲示があったので、遠慮がちに数枚の写真を撮りましたが、後ろ姿の女の子の絵が中心でしたね。



 おや、随分と可愛らしいテレビがあるぞ……と思って写真を撮りました。映像と音声による表現作品もありました。1年前のことですし、そもそも見る側の私も感覚が今ほど敏感ではなかったので、具体的にどのようなものだったかというと甚だ曖昧なんですが……じーっと見つめて耳を澄ませていると、徐々に今いる自分の景色がぼんやりしてきて、心地いい想像の世界に浸ることができたような感覚があります。



 「消費されない少女を表現したい。(直接的でなく)キャラクターを挟むことで被災地と向き合うことができると感じる」

 河北新報の記事でこのようにおっしゃっていた門眞さんの意図を念頭に置きながら見ました。正面を向いた女の子の絵もあり、それはとても可愛らしい絵柄で、割とわかりやすく心を打ったのですが、それでも強く印象に残ったのは後ろ向きの女の子たちでした。それはあまり見慣れない構図だったからだとは思います。例によってここでその意図とか効果とかを説明する知識がない私のきわめて感情的な――しかもそれは、ほぼ1年前に見た記憶とその時に撮影した写真をいま見直しての印象が入り混じった、非常に不確かで頼りない――印象となってしまいますが、ともかく言葉にして言います。

 後ろ向きの女の子の絵を見た時、なんか、安心感があるんですよね。一体感というか。それは視線を意識しなくてもいい(私の個人的な)心安さなのか、同じ景色を見ているという一体感なのか。その両方という気もしますが、ともかく事実として、視線も意識も彼女が見ている向こう側――海であるとか、防波堤であるとか、はたまた造成中の住宅地であるとか――に向けることができるんですよね。

 それが門眞さんの意図しているところなのか、そうでないのか――何分にも中学時代の美術の成績が「2」だったという強烈なコンプレックスが四半世紀が経過した今なお残り続ける身なので、まったく自信がないのですが、私はそのように感じました。いまデータが残っている作品の写真を見直していると、そう思いました。

 そしてそれ以来、門眞さんの絵が大好きになりました。

 これは後に、2017年に塩竃で開催された「あなたと海のあいま、通り過ぎてゆくすべて」の本も買って読んだ(見た)記憶も加味して、2023年10月現在の私が思うことなのですが、門眞さんの絵が好きな理由は、限りなく澄み切っている印象があるからです。言い換えれば、何かと感じやすくまた余計なことを考えやすい私に対して、そういう余計な思いをさせない心地よさ――それは先述した、視線を意識しなくてもいい心安さということに由来するのでしょうか――。

 だから私も自分なりに「消費されないキャラクタ」というものは何だろう? と考えながら生きてきた次第です。それに関しては、このあと行った門眞さんも参加しているグループ展の場でも突きつけられ、1年くらいずっと大切に心の中で温め続けたものでした。その結果どうなったのかというのは、次回の記事で書きます。仙台アーティストランプレイス(SARP)で開催されたグループ展「わたし、にしかみえない星」展について……そして、先月開催された関連イベントその他もろもろのお話です。

 *



 こちらの絵は今年の10月にタナランで開催されたアンデパンダン展に行った時、カフェスペースのカウンターの上にあるのを見つけて写真を撮ったものです。特に説明書きとかはなかったのですが、パッと見て「あ、門眞妙さんの絵だ」と思ったものの、万が一間違っていたら一生ファンと名乗る資格がないくらいの失態となるので、それを恐れて言い出せませんでした。

 後日お店の人に「これって誰の作品ですか?」という聞き方で問うたところ門眞さんの名前が出てきたので「そうだと思っていたんですが……」と後だしじゃんけんみたいな確認をしたので、堂々と掲載させて頂きます。別にクイズ番組とか当てっことかしているわけじゃないんだから、後出しも何もないとは思うんですけどね。

 ただ、何のヒントもなく絵だけを見て『門眞妙さんの絵』とわかるくらい、私の感性も生きてきているのだということが確認できました。そういうこともあって、このようなテキストを書かせて頂きました。

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ギャラリー越後さんについては、一度Rimoさんの個展の時に書いてしまいましたが、時系列的にはこちらが最初となります。アンデパンダン展の時に初めて行ったということですね。

 双葉ケ丘というのは住宅地です。正直、これまで訪れたことのないエリアであったため、完全にGoogle map頼みでどこをどう走ったものか……ともかく「目的地に到着しました」ということであたりを見回してみると……

 

 はい、これがそうです。付近に駐車場らしい駐車場が見つけられなかったので(車でご来場の方はご注意ください)、邪魔にならなさそうなところにオートバイを止め、「ここ……だよねえ?」と恐る恐るドアを開きました。そうしたところギャラリーのオーナーである『越後しの』さんに温かく迎え入れていただき、3か所目のアンデパンダン観覧が始まりました。

 チフリグリさんで心がときめき、中本美術館で心が若干ギスギスして、今度はどうなんだろう……と不安/高揚の入り混じった気分で入ると、まずはよく陽の入る窓にこれらの作品が展示されていました。せーのドン!



 さて、これらの中でも特に文字通り心に刺さったのが、一番手前のこれでした。倍率ドンさらに倍!



 まだXに復帰できないくらい心が痛んでいたので、まるで自分の心臓に錆びた釘を刺され、さらにそれをギギギギ……と引きずられているような感じがしました。まあ、見たままの内容なんですけど、本当にそのくらいの錯覚をしました。

 一方で、このようにわかりやすく可愛いイラストもあり、色々な意味で不安定だった心がホッと和みました。今まで変化球(または魔球)みたいなのばかりポンポン投げ込まれていたので、ここに来て直球が来て安心したのでしょう。これは素直に文句なしで良いと思います! だって可愛いですもの!



 あとは、写真作品で出展している人もいらっしゃいました。

 

 これはルワンダで撮影された子どもたちの写真ということです。そういう写真の原点としては、私はやはり澤田教一さんとか一ノ瀬泰造氏らが活躍したヴェトナム戦争時代の写真になるんですが、そういう私が見て思ったのは、

 「やっぱり、子どもの笑顔を撮るのが上手な人は素晴らしいなあ」

 ということでした。それは写真撮影の技術というよりは、上手に被写体をリラックスさせる雰囲気作りとか、そういうところになるのだと思います。それは『ライカでグッドバイ』とか『地雷を踏んだらサヨウナラ』とか、あとヴェトナム戦争関連の色んな本を読んだうえで私が想像しているスキルです。きっとそういう場所で生きている人が自然に身につけているであろうスキル。私にそういうのがなかったとしても「ま、仕方ないか」と納得できるような種類のスキル。……

 で、私はせいぜいこのギャラリー越後さんの雰囲気のいい出窓と合わせて、ちょっと「それっぽい」写真を撮ろうとして手持ちのスマホカメラでパチリとやり、出来栄えの無惨さに嗤いながらちょっと泣いてみるのが精一杯なのです。これでいい、これで……だって、私にも素敵な写真を見て「素敵だな」って感じる素直な心がまだ残っているのですから……。

 なんて、ちょっとセンチメンタルな振りをしましたが、スミマセン泣いてはいません。でも、良いものを良いと認め、それを受け入れて楽しむことができるようになったのは事実です。何も私まで無理して輝かなくてもいいんだって。下手でも何でも写真が好きなら撮ればいいし、それをみんなに見せたかったら見せればいいんです。私にはそういう自由があるはずです。アマチュアの自由な精神。まさにアンデパンダン。

 ……そうか、そういうことか!

 この記事が公開されるのは11月2日ですから、翌3日は「文化の日」です。なので最後にちょっとだけ、それを意識して、ちょっと結論めいたことを書いてみようと思います。

 自由と独立の精神。誰にでも開かれた場。自分がいいと思ったものを自分の一等得意な方法で精いっぱい表現する。ジャンルも形式も違ったアレコレをいっぺんに見て私が感じたことをまとめているうちに、何かがはじけた気がします。

 私だって、思い切り大好きを表現してもいいはずなんです。誰に遠慮がいるものか。公序良俗に反するのはダメですけど、そうでないなら……ね。今の時代はコミュニケーションツールが発達して、バズるとか、たくさん「いいね」がつくような表現じゃないといけないような風潮がありますが、そんなことはないんです。むしろ流行るものは廃れるものでもあります。それよりも「消費されない」ものを……誰にも気づかれず褒められもしないけど、無くなりもしない、ずっと心に残り続けるものを……そういうものを食べて生きていきたいし、自分でも形にしていきたいなと思いました。

 この「消費されない」という言葉については、また別な機会に書きます。あとアンデパンダン展の話は、まだ続きます。これはまだ1日目のことなので。2日目の話はまた明日。

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11月になりました。秋深し、隣は何をする人ぞ。これを書いているのはまだ10月21日なんですけどね。

 前回の続きです。ギャラリーチフリグリさんでお話を伺いながら色々と見て回り、次に訪れた「中本誠司現代美術館」は、青葉区の住宅街の中にあります。地理的なものはGoogle Mapを使わないとだめでしたが、近づいてみるとすぐにわかりました。



 私はこの美術館に冠せられた作家のことをよく知りません。今回はアンデパンダン展のために来ました。特に運営の人がいるわけでもなく、詳しい説明もなかったので、次の機会があるまでこの中本誠司という人のことについては触れずに置きます。展示作品だけ見て帰って来たので、私の感想によるところがすべてです。

 

 ここもなかなかバラエティに富んでいました。幼稚園だったか保育園だったか……子どもたちが真っ白なTシャツに思い思いの絵の具で彩ったシャツの歓迎を受けて館内に入ると、こちらも平面と立体それぞれの作品が展示されていました。まずは、ざっと写真をあげてみます。



 ……どうですか。

 改めて写真を見返しつつ、ギャラリーを見た時のことを思い出すと、チフリグリさんの明るく楽しい雰囲気と逆に、冷たくて暗い雰囲気がしました。ただ、どちらも平面と立体、小さな子どもから大人まで、カオスなほどにバラエティに富んでいるのは事実です。

 違いといえば、気持ちが明るくウキウキしてくるチフリグリさんと違い、こちらの展示物はどうも私にプレッシャーを与えて来るんですよね。なんか、目に見えない透明な板をもって私の心と体を押しつぶそうとするような圧力。それが、絵に込められた力だと思うので、心地よくはありませんが素晴らしいと思います。見ても何にも感じられない……具体的に何がそうだとは言いませんが……代物よりはずっといいです。

 いや、本当に不思議な感じなんですよね。心地よくはないけど、それはそれで何か、心のなかのセンサーを刺激しているから。「この感情は何だろう?」というのが気になって、ますます絵の世界に入り込んでいく。これはなかなか面白い体験です。

 ある意味、対決ですね。絵(あるいはその作者)と私との、心のぶつかり合い。私の心の中に、これをどう落とし込んでやろうかと挑戦的な気分になってしまいます。というとなんか喧嘩腰みたいになっちゃうなあ。違うんですよね、そうじゃなくて……ううん……。

 あるいは、怖いものを見た時の感動に近いのかなあ。普段、あまり身近でないものを見てびっくりして、ちょっと怖がったりして。お化け屋敷に行ってキャー! って言って、怖い思いをして、でも終わった後なぜか「楽しかった!」ってなるような。うん、そういうのが、一等近い感覚かもしれません。

 あと、4枚目のさんまのあたまについては、作者の意図とは違った写真の撮り方をしています。本来はこのような形で1セットとなります。手前の段ボール箱は豆腐であり、「醤油をかけたくなるもの」というのがコンセプトだそうです(後で展示リストと製作者のコメントを読んで気づきました)。ただ、私がパッと見た時の印象を伝えるため、あえてあのような構図の写真を先に掲載しました。



 一方で、下記のような冷静かつ優しい作品もありました。写真の撮影順に並べているので、おおむね私が見た順番と思っていただいてよろしいかと存じます。



 『アリアドネの糸』とは希臘神話に由来するものです。勇者テセウスがミノタウロス討伐のために迷宮に入った際、ちゃんと戻ってこられるように用意した糸のことで、現代では非常に難しい状況から抜け出す際に、その道しるべとなるもののたとえとして使われるそうです。果たして展示の順序を決めた人がそれと知っていたわけではないでしょうが、私としてもこのタイミングでアリアドネの糸にたどり着いたのは良かったです。そのあとは不安にざわざわした気持ちがゆっくりと癒されていき、最後は穏やかな気分で次の目的地『ギャラリー越後』さんに向かうことができたのですから。


 ……あれ? 結局チフリグリさんと同じくらいの文字数になっちゃいましたね。では、また日を改めて書きましょうか。こんなに長くなるとは思わなかったなあ。

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どういう切っ掛けでこの『せんだい21アンデパンダン展』というイベントが開催されることを知ったのか。正直よく覚えていないのですが、たぶん、9月21日あたりではないかと思うのです。その日はXに2件「これが最後の投稿になってもいいように」という内容をポストし、とある企画展(その話はまた長くなるので今日は語りません)を見て、

 「1年前と同じように、ちょっとギャラリー巡りでもしてやろうか」

 と泣きべその気持ちで青葉区大手町にある「ギャラリー ターンアラウンド」(タナラン)に行って撮った写真があったので、そういうことにしておきます。



 この頃はブログ復帰後最初の記事でも書いたように、ひどく心を乱していて、自分で何かを発信することが上手にできなくなっていたので……その一方で、その企画展を切っ掛けに心がアートの世界に親しんでいたので……

 「無審査? 何が飛び出すかわかったもんじゃないな。
  面白そうじゃないか!」

 と、『美男子と煙草』で浮浪者と一緒に写真を撮られた太宰治みたいに泣きながら強がって、実際に行ってみたら非常に面白かった……そういうことです。

 面白かった。それで心の中にしまい込んでいてもいいんですが、今日(10月21日)は朝から何本も記事を書いていて、あれもこれも書きたいと気持ちが加速して止まらないので、勢いのままに書き出してみたいと思います。こうして感想を書くことで、私の筆力も僅かながら向上するでしょうし、(空)想像力も確実に向上するでしょうから。ええ、ここまで読んでくださったんですから。まあしばらくお付き合いください。

 

 初めにお伺いしたのは宮城野区五輪の「ギャラリーチフリグリ」さん。近くには楽天の球場、また仙台育英の校舎などがあります。ギャラリーの方が私みたいなのにも色々と話し掛けてくれて、この後のギャラリー行脚(郊外篇)の良いスタートダッシュが切れました。

 

 全部で6か所(+屋外会場1か所)回った中で、最初に訪れたここが一番カオス……いやバラエティに富んでいました。またギャラリーの方から聞いたお話しもあわせて、「アンデパンダン展って、こういう感じのイベント」という概要がつかめました。

 平面でも立体でも、絵でも書画でも楽器でも人形でもいい。出展料さえ支払えば無審査でそれが美術展に出せるということで、

 「普段はダンサーとして活動しているが、毎年この時だけは絵を描いて出展する」
 「普段は書画の活動をしている人たちが、この企画のために共同で作品を作った」
 「普段は職業美術家として活動しているが、毎年この時だけは変名で自由な作品を出展する」

 ……とのことです。また出展者の年齢も下は年中さん上は75歳と、本当に自由な感じです。

 

 こちらは私のXでの投稿によく「いいね」をつけて下さる人首美鬼さんの作品です。

 

 こちらは村井康文さんが描く……まあ、一見すると流行の漫画の二次創作であり、実際そうだといえばそうなんですが、混ぜ込まれた時事問題と地元ネタとの配分がとてつもなく高度で、凡百の二次創作同人誌なんかが束になっても勝てっこないような質と熱量でした。1ページめくるごとにドンドンのめり込んでしまって……ギャラリーの方も大変お気に入りだったようですが、それもわかります。これはスゴイ!

 

 そしてこれは「カリンバ」という楽器です。楽器? そう楽器です。ベンチに腰かけて、両端にある金属の棒をはじくと、えもいわれぬ美しい澄んだ音が響きます。楽譜が読めなくたってカリンバを一度も演奏したことなくたって問題ありません。ただ座って適当に弾いてあげればいいのです。そうすると、何となく気持ちよくなって心がふわふわしてきます。これはそういう『宇宙船』のようなものなのです。
(これは私の空想ではなく、製作者「創作カリンバ工房」の方のテキストによるものです)

 *

 なんだか、チフリグリさんの話だけで1,500字くらい費やしてしまいましたが、まあ、たくさんお話をさせて頂きましたからね。いったんここで休憩しましょうか。続きはまた明日。

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仙台市青葉区は双葉ケ丘というところにある「ギャラリー越後」にて、仙台市の美術作家Rimoさんの個展『再び生きる』を見てきました。

 先日仙台市内の数か所のギャラリーで開催された無審査の芸術展『アンデパンダン展』の時にこちらのギャラリーの存在を知ったのですが、ここはアパルトマンの一室を使ったアトリエ兼ギャラリーで、私のアパルトマンから乗り物で10分、歩いても30分程度で着いてしまうという、割合近くの場所なのです。

 ただしいつもオープンしているわけではなく、このように時々個展などを開催する時だけ開けるのだそうです。実際入り口は(扉の横に「いらっしゃいませどうぞ」という札が張り付いている以外は)アパルトマンのそれなので、なかなか入りづらいものがありますが、そ~っと開けるとオーナーの越後しのさんがご挨拶をして下さるので、私も気安く入れます。今回は二回目の来訪でした。

 私が行ったのは10月22日の午前中だったのですが、ちょうどその時、作者のRimoさんがいらっしゃいました。新しい作品ができたのでそれを追加しに来たのだそうです。

 作品は2点あります。まず1点は油絵。せーの、ドン!

 

 Rimoさんいわく、「初めて、自分でも好きだと思えるような絵が描けた」とのことですから、会心の出来と言ったところでしょうか。30号のキャンバスに大きく鳥が描かれておりますが、それでも足りず、周りを覆うようにキャンバスを追加して雲の模様を付け加えた大作です。この機会とばかりにお話を伺いながら見ることができたのですが、よく見るとキャンバスごとに一つ一つ独立した、違った雲の絵が描かれているのですね。これはそれぞれ別な日の雲の様子を描いたそうで……。

 そして感情家の私はどう思ったのか。じっと見ていると、特に真ん中の鳥ですね。これが、もう……キャンバスから浮き出して見えたんです。そのくらい印象が強くて。いや本当にステレオグラムとか、ああいう仕掛け絵を見た時のように、この鳥が飛び出してきたような錯覚をしました。隣の部屋でインスタレーション作品の準備をしているから、というのもあったのですが、いつまでも見飽きない、素敵な絵でした。いぎなり良いと思います!

 そしてもう一点が、隣の部屋全体を使って表現されたインスタレーション作品です。なお私は今回この記事を書くにあたり、初めてこういう作品のことをインスタレーションというのだと知りました。続いての作品です。はい、ドン!



 まったく全体像が伝わらない写真ばかりで申し訳ないのですが、本当に私自身、どう写真を撮ればいいのか、正直わからなかったのです。とりあえず印象的な部分を切り取っては見たものの、これは完全に力不足です。トホホ……。

 仕方がないのでこれまたRimoさんのお話で補完します。それだってメモを取りながら聞いたわけじゃないので、結構抜け落ちている部分もあるのですが。

 まずこのドレスですね。これは30年ほど前にRimoさんのお嬢様のために縫ったものだそうです(それをお召しになったお嬢様の当時の写真も飾られておりました)。それをベースに、リハビリのために歩いていた『万葉の森』(黒川郡大衡村)と、そこに住まうたくさんの蝶をちりばめた……今日いらっしゃったのは、その蝶の新しいものが出来上がったので、追加するためにやってきた……とのことです。何せひとつひとつ色付けをしているもので、大変な時間がかかっているそうです(1頭に3日かかったとか)。またドレスの足元に広がる長い裾は、万葉の森の水の流れを表しているとのことで、これは密かに「そうか!」と声を上げました。そうすると、部屋中に広がる木の枝のイメージともリンクしてきます。

 そして感情家の私のダイナモが激しく回転し始め、ムクムクとイメージが広がりました。

 30年前に少女を飾ったドレスは役目を終え、少しずつ朽ち始めていた。しかし、Rimoさんの手によって新たな生命を吹き込まれたドレスからは清らかな水が流れ出し、それを含んだ木々が成長して部屋いっぱいに広がっている。やがて無数の蝶が宿り、ここは思い出と希望をたたえた『万葉の森』となったのだった……。

 なんかヤプーズの『森に棲む』みたいな話ですが(私はヤプーズが大好きです)、パッと見て、お話しを聞いて私の無意識からわき出したイメージはそんな感じです。これはむしろ、帰ってきて数時間経って思い返すほどに気持ちが湧き上がってきますね。ああ、これは良かったなあ、って。

 *

 帰り際、もう一度Rimoさんとお話しする機会があったので、アンデパンダン展で見た作品の感想も伝えさせていただきました。

 

 これは教科書で読んで「初めて泣いた」宮沢賢治の『よだかの星』をイメージして制作した作品だった、とのことです。たまたまというか……いや、アンデパンダン展は仙台市内の数か所のギャラリーで同時多発的に開催されていて、それを頑張って全部回った私ですから、出合うべくして出合ったというべきでしょうね。そして、個展が開催されることも、このアンデパンダン展で初めて行ったギャラリー越後さんで開催されることも何かの縁だ、って言って訪れた。そうしたところ、ちょうどRimoさんご本人とお会いすることができた。すべてにおいて縁でしょう。やはり、積極的に行動すれば、おのずと縁が強まるのです。

 そんな感じで一生懸命に気持ちを伝え、会場を後にしました。来年もまた個展を開催されるとのことなので、その時のために、今日はこの記事を書きました。色んなものを見て想像力を働かせ、感情のままに自分だけの空想世界を広げてそれを書きつける。それが感情家たる私の自己空想表現です。

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初めに大事なことを書いておきます。

 先月Xを休止してブログを再開した頃から、「認識者」または「受信者」としての自分を突き詰めるべく奮闘しております。

 それは対象によって「観る」だったり「聴く」だったり「読む」だったりするわけですが、いずれにしても私は完全な受け手としてそれに向き合います。「自分だったらこう演じる」とか「私も今度、文章を書くときにこういう技法を真似てみよう」とか、そんな小賢しいことはすべて排除し、ただただ楽しむのです。

 でも、楽しんで終わりじゃただの消費行為です。XでもyoutubeでもTikTokとやらでもいいんですが、次から次へと新しいものが現れては消えてしまいます。感想も「エモい」とか何とかって刹那的な快楽になっているのではないでしょうか。少なくとも私の感想はそうです。そうなっていました。
確かに、最初に字数制限を無視して書きたいことを書き、そこから削りに削ってようやく140文字にして発信するとか、そういう方法をとってはいるのですが、それでも毎日毎日そんな短い言葉ばかり使っていると、短い文章しか書けなくなります。せっかくの感動も薄まって細切れになって溶けてしまいます。私はね。私は……。

 だから、じっくりと長い文章に向き合う。そして自分の心が感じたことを大切にしながら、それをどんどん膨らませていく。膨らんだ感想をできるだけ損なわないように片っ端から文章にしてみる。そうすると1000~3000字、時には6000字級の文章が出てくるわけです。このブログは今やそんなヘヴィ級の文章を連発する壮絶な解放治療場と化してしまったのです。

 でも、そう言うのが必要だと思います。そうして自分の心をしっかり守りながらはぐくんでいく。1か月くらい続けて、私の心も少しずつ復調しています。1日おきとか2日おきにXもやっていますし、やったら自分の好きな人にリプライをつける位のことはしますが、わざわざXで発信するよりはこのブログで思い切りのびのびと書いていた方が楽しいのです。誰が読んでくれているのかわかりませんが、ともかくこれが私です。そんな私がこないだ見てきた写真展のことについて、今回は、書いてみたいと思います。

 *

 現在、仙台市内のギャラリーでは「仙台写真月間」という催し物が開催されています。仙台市青葉区錦町にある「仙台アーティストランプレイス」(SARP)で毎週、異なる写真家のひとの展示が開催されるので、写真(下手の横)好きとして見てきました。ただこのごろは先述したように、もう自分にはいわゆる「上手な写真」は撮れっこないから……という気になっているので、別に技術を学ぼうとかそういうわけではなく、ね。ただ見てみたいから見に行く。それだけです。

 

 感想を第一に言うと、沖縄で撮影されたという事前情報がなければ、それとわからないような写真です。送電線の鉄塔とか、どこかの橋脚とか、そんなのばかりで。ただ、そんなことはどうでもよくて――ひたすら画面の大半を占める空間の広さが気に入りました。

 心をふさいでいた蓋がパン! と吹き飛ばされたのです。そして、それっきり音も何もない「制止した世界」に自分が立っている気分になりました。しばらく――ずっと――眺めていたくて、その場に立っていました。

 嬉しかったです。嬉しい? 

 ええ、確実に「受け手」としての私の内面、心は開かれていることが確認できたからです。そして、こうしてそれを言葉にして伝えることも、だんだん思い通りにできるようになってきたからです。

 そう、やはり私はこれがいいんです。自分が何かを発信して誰かを感動させるなんて夢のまた夢です。というよりも、夢見る必要すらありません。私がどれほど頑張って輝いて見せたところで、それ以上に輝く星がいっぱいあるのでは、仕方ないじゃありませんか。だったら私が輝かなくてもいい。その代わりそこに星が輝いていることを見つける側の人間になろう。地上から星を見上げる人間になろう。観測者、認識者になろう。そういう活動が確実に心身を良い方向に運んでいると確認できたのです。

 そのうえで、感想は伝えます。感想を伝えるにも技術は必要です。ただし感想とは別に技術技法を解説するものでなくても良いと思います。自分がどんなところをどう感じたか、自分の経験と照らし合わせて何を思ったか。そういう、私にしか見えないような魅力を伝え、「そうだったのか…」と思ってもらえるだけの技術は必要であると思います。

 おや? 確か私は「別に、誰も読んでくれなくてもいい、伝わらなくてもいい」と思っていたのではなかったかな? 確かにそれはそうです。ただ、今この文章を書いている中で思ったのは、それとはまた少し違っていて……まだうまく言えないのですが、大体こんな感じでしょうか。すなわち、

 「読んでくれなくてもいい。伝わらなくてもいい。でも伝わるよう努力はする。読んでもらいたい心は込める。今は伝わらなくても、いつか伝わるように。わかってもらえる人がいてくれると信じて、ひたすら書き続ける」

 今は誰も読んでくれなくても、更に十年二十年と続けたら、少しは良くなっていくかもしれない。もしかしたら、一生誰にも読まれないまま終わってしまうかもしれないけれど、それでもいいじゃないか。とにかく書き出してみる。それで私の心が育つなら、それでいいじゃないか。

 そんな感じで、やっぱりブログは続けていきたいと思います。毎日書きます。ただ、既にお気づきと思いますが、時間があって書きたいことが山ほどある時は、何日分かまとめて書いています。時間が経てば鮮度が落ちるから、新鮮なうちに調理してしまわないといけないのです。今日はもう4日分くらい書きました。読むに堪えない雑文ですが、それでも積み上げればきっと……。

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こんにちは

 ちょっとアート見てきました

 高杉です(6/18に書いた記事です)。


 通勤やお出かけのため週5か週6くらいで利用する仙台市地下鉄南北線旭ヶ丘駅の掲示板で、佐々木香奈子さんの個展をメディアテークでやるという情報を聞いて、行ってきました。

 

 あいにく美術方面には全く明るくないものの、かつて拠点を置いていた青森県十和田市の名所「現代美術館」で少しく影響を受けていたので、

 「パッと見てハッとして!Goodしたらそれでオッケー」

 という感覚があります。若干80年代的な言い回しで恐縮ですが、素人であることを言い訳にして、評論的な良し悪しをレビューすることをご容赦していただきたいと思います。てなことを言いつつ見てきました。ちょうど借りていた本を返すために行ったしね。


 率直に言ってどうだったかといえば、非常に良かったです。

 青色を基調に描かれた抽象画はキャンパスだけでなく、ハーレーダビッドソンの車体を彩ったり(解説文の中では、映画の中でジャンヌ・ダルクが発した「follow me」という言葉に関連付けられていたようです)、AR的な演出をしたり……と、色々楽しませていただきました。これは私がオートバイ乗りで新しもの好きだから、というだけではありません。

 確かに抽象画というのは、具体的に「何がどういいのか」わかりません。ただ私の精神構造も抽象画みたいなもんですから、グチャグチャドロドロした、自分でもよくわからない自分の心を限りなく純粋に形にしてくれたような気がして。それが嬉しいような、気持ちいいような。

 そうですね、とにかく見ていて、心地よかったのです。


 会場には佐々木香奈子さんご本人もいらっしゃいました。もちろんシャイな私ですから、顔見知りの人と親しげに話しているのと遠めに見ているだけだったのですが、すごく心に響きました。このブログで発信したところで……とは思いますが、とにかく世界中に発信します。すごく良かったです。

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