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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。

 通信環境がおかげさまで改善しました。というか、本当に「たまたま電波を拾えなかっただけ」だったみたいです。別に機器故障じゃなくて。なぜそう思ったかといえば、家から駅まで歩いて行くうちにまた電波を拾って正常に通信できるようになっていたからです。これがクラウドWi-Fiというものか。

 榴岡図書館で借りた『漂流郵便局』という本を読みました。Xで書いた文章を転載するのも手抜きのようで恐縮なんですが、結構ちゃんと自分が感じたことをまとめられたので、このまま読んだ本の感想としてまとめておいてもいいかなと思ったので転載します。
 
 返事を無くとも、ただ私の気持ちが相手に伝わればいいと言い聞かせて手紙を出したことが何度かあります。このブログでは何度も書いているから、あえて繰り返すことはしませんが、Xで書く時は「お迎えしたアート作品や読んで感動した物語の作者だったり」とボカして書きました。
 自分の感想をモノローグ的にまとめることも必要ですが、そこから一歩踏み出して「伝える」為に文章を書くことも大事だと感じました。
 手紙を受け取った方がどう思ったのかはわかりません。ただ、私の中ではしっかり気持ちを作り上げて言葉にして私の手を離れてしまえば、それ以上のことはどうしようもありません。
ただ、「私が感じたことが正確に伝われば嬉しいなあ」それだけを祈っています。手紙ってそういうものですよね。
 今も粟島にこの郵便局はあるのか。手紙は届き続けているのか。それを仕分けする人はいるのか。
あえてここに手紙を出してみようとは思いませんが、私の手紙趣味が少し加速しそうな手応えがありました。良い本との出会いでした。 榴岡図書館で借りられます。
 あとは、読んだ後急速にこの本と漂流郵便局に対する興味が薄れてしまったこともあるでしょう。まあ確かに面白い試みだと思うのですが、私はそういうのいいかなって気がします。
 だって私はもう、そんなところに手紙を出さなくても気持ちが伝わることを知っているから。伝える相手がない手紙なら、自分でどうやって処理すればいいか知っているから。わざわざそんなところに出さなくても、イマジナリーな郵便局を知っているから。私はそれでいいです。

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 2月は本当に……ここで書ききれないくらい色んな体験をしました。文字通り人生初の体験もしました。本から知識を得て世界を認識してきたリブレスクな私が本の世界に入り込んで自分がその登場人物になり……物語で読んだような体験をする機会があって……これ以上詳しく申し上げることはできませんが、これまでの日常がすべて吹き飛ぶような爆発的な出来事でした。
 私にとって必要な体験だったとは思いますが、私が求める日常は、その体験の延長線上にあるものではありません。やはり私が求める日常とは「アート・アンド・ブンゲイ」であって、それをもう一度確立するために一生懸命に記事を書いています。
 差し当たって2月27日に行った東北工業大学ライフデザイン学科の卒展について書き始めたのですが、宮城大学事業構想学群価値創造デザイン学類の卒展(2/10)に東北工業大学産業デザイン学科の卒展(2/24)と、2度にわたる理系の卒展を見たおかげで色んなものが見えてきて、書きたいことが大氾濫してしまい、全くまとまらないんですね。私も別に仕事がある人類なので、書ける時間も限られていますし、何よりも「気持ち」が大事ですから。内容をまとめたノートはあるし写真も150枚くらい撮影しているので、それをまとめようと思えばまとめられると思うのですが、ちゃんと気持ちを載せて書かないと納得がいきません。
 一方で、毎日書くと前に宣言して以来(1日に何日か分まとめて書いて予約投稿することも多々ありますが)ちゃんと毎日掲載しているし、穴をあけるのも業腹です。そもそも速報性なんか初めからありはしない気ままなブログだし、この辺でちょっと空気を入れ替えます。久々に、読んだ本のことなどを書きます。いぎなり前置きが長くなってしまいましたが、今日はそんな感じで気楽に書きます。どうか皆様におかれましても、コーヒーでも飲みながらお読みください。



 『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』澁澤龍彦著
 立風書房 1990年8月30日初版

 これは先日盛岡に帰省した時、一緒に仙台に連れてきた本です。具体的にいつどこで買ったかは覚えていませんが、最後のページに鉛筆で1800円と書いていたので、この本をその金額で購入したことはハッキリしています。また、これが初めて購入した澁澤さんの単行本であることも間違いないです。当時新たに澁澤龍彥を読もうとなれば河出文庫や中公文庫で刊行されたものがメインで、単行本はそもそも見かけることがなかったので……。
 一方で内容の方については、あまり強烈な印象は残っていませんでした。死刑制度に反対する理由として「制度においても習俗においても完全に聖性を失っている社会では、聖性への可能性においてのみ存在理由を示す死刑を存続させるべき根拠はない」と述べているところだけはすごく鮮明に焼き付いていますが、それ以外はあんまり……でも澁澤さんの単行本だしね、といって何度か訪れた金銭的危機に伴う大処分にも遭わず、ずっと本棚の奥に眠っていたのがこれです。
 今回久々に読んでみた感想としては、
 「よくぞここまで、色んなところから文章をかき集めたものだ」
 そんな印象でした。最後のページにある初出を見ると、もちろん『文學界』『新潮』といった本格的な文芸雑誌に掲載されたエッセーがあり、他の人の本に寄せた解説文などもるのですが、新聞とか映画のパンフレットとか『週刊住宅情報』!? とかに掲載された文章もまとめられているのでビックリしました。だから印象としては「かき集めた」なんです。サドとか終末思想とかエロティシズムとか論じていた人が週刊住宅情報に……やはり60年代と80年代では同じ澁澤龍彥という人物でも全然違うものなんですね。かく言う私も「玩物草紙」という、非常に穏やかな澁澤さんの文章が大好きなんですが。
 じゃあこれは(最近某有名文庫レーベルから刊行された本のように)明らかな商業目的、澁澤さんの死後に一儲けしようとたくらむ人類によって刊行された寄せ集めの本に過ぎないのか……といえば、そんなことはありません。この本は生前から出版する予定で立風書房の編集者と相談していたものであったといいます。そのことはあとがきで澁澤龍子さんがおっしゃっております。
 癌で喉を切り取り声を失った自分の現在を幻灯機で映し出したようなアナクロニズム爆発の小説『高丘親王航海記』を刊行、次作『玉虫物語』に次のエッセーにと意欲を燃やしていた澁澤さん。「ジャン・ジュネ追悼」「ボルヘス追悼」の次に来たのが澁澤龍子さんの「澁澤龍彦追悼」のあとがきになってしまうとは……今こうして読み返すと、遺された人間の気持ちが伝わってきます。それは私自身が長く生きて色んな感覚が身についたことと、最近、身内との永訣を体験したことが影響しているのかな。
 ともかくこれが澁澤龍彥「最後の」エッセー集です。この本を切っ掛けに澁澤龍彥を知り、その文章の中に出てくる人物の名前を知り、後にその人の著書に触れる。そしてある程度遍歴を終えてから戻ってきて、「ああ、これはあの本に載っていた文章だな」とか「うんうん、あそこで読んだ本に書いてたっけね」と思い出す……ちょっとしたハンドブックみたいな面白さを感じました。ジャン・ジュネは未読ですがボルヘスは去年の暮れに読んだし、三島由紀夫も稲垣足穂も結構ガッチリ取り組みました。
 何よりもベルメール! これは私のなかでも特に思い出深い文章です。
 今は閉店してしまった仙台市内の喫茶店で、「澁澤龍彥が好きなんです……」と言ったら店員さんが差し出してくれたハンス・ベルメールの写真集。これに載っていた「写真家ベルメールーー序にかえて」という文章を、実際にベルメールの写真集の中で読むことができたのは、私の読書体験の中でも一等素晴らしいものでした。再びその文章を読み、あの時の写真集の重さ、紅茶の味、お店の人との会話……すべてが鮮明によみがえってきて……結局お店を訪れることができたのは一度きりだったのですが、素敵な体験でした……。
(2022年12月7日撮影)
 こうして何でもかんでも写真を撮っておくのはいいですね。フォトジェニックだとかSNSで10万いいねだとか、そんなことはどうでもよくて、自分の記憶を補強するためにも、私はやたらめったら写真を撮りまくります。

 そんなわけで、今日の記事を書き上げることができました。本の感想文と私の個人的なことと、そういうものがないまぜになったへんてこな文章ですが、良いんですこれが私にしか書けない文章なんですから。終わりで~す!

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 ここ3日ほど、ひどく神経症的な美術展の感想文が続いたので、この辺でちょっと一服します。本当はこういう、穏やかな記事を書く人間だってことをアピールしておかないとね。
 これは2月23日のことですが、私のアパートから生協までの道中にある教会の庭で梅の花が咲いているのを見つけました。
 桜の花と比べて梅の花というのはあまり馴染みがありませんでした。学校でも公園でも染井吉野だ枝垂桜だ河津桜だ八重桜だ……私が通った幼稚園の名前も桜幼稚園だし昔好きだった漫画は『カードキャプターさくら』で好きな食べ物は桜餅……それに対して梅から連想するのは「梅酒」に「梅干し」と何だか大人向けの、ちょっと渋めの印象でした。
 ただ、それは私があまりに子どもっぽい精神の人間だからということばかりではありますまい。私が生まれ育った北東北というのはずっと寒い時期が続いてようやく春になると、梅の花も桜の花もいっぺんに咲き誇るという土地柄ゆえ、同じ時期に咲くならより華やかな桜に気持ちが行ってしまいます。……それどころか、下手すると桜の花も咲くか咲かないかわからないうちに一気に葉桜になっちゃう年もあったりするからたまりません。
 だからきっと、仙台に来てからでしょうね。気候的なこともあるし、榴岡天満宮で菅原道真公と梅の花の関係について知ったことで、桜に先駆けて咲く梅の花が好きになったのです。

 東風吹かば にほひをこせよ梅の花
 主なしとて 春を忘るな
 <『拾遺和歌集』 巻第十六>



 というふうに書いてみましたが、実は私が大好きな歳さんこと土方歳三も、多く梅の花に関する句を残しているんですよね。『豊玉発句集』で検索すれば色々と出てくると思いますが、ここは私が初めて句に触れ、解説および素敵なイラストとともに「ロマンチ」な気分に浸った「WhiteWind歴史館」さんをご紹介したいと思います。

豊玉発句集|WhiteWind歴史館

 司馬遼太郎の『燃えよ剣』にあるように新撰組副長時代に句をひねっていたかどうかはわかりませんが、多摩時代から親しくしていた沖田君なんかは小説のように「豊玉宗匠、ご精励ですな」と言ってからかったり、出来上がった句を見て(ひどいものだ)と心の中で苦笑いしつつ「ああ、この句はいいですな」などと言っていたりしていたのかもしれません。
 『鬼の副長』『希代の喧嘩師』としての側面が印象的な『燃えよ剣』の土方歳三像ですが、意外と俳句に関してはこんな作風であると説明されています。
 
この男の気質にも似あわず、出来る句は、みな、なよなよした女性的なものが多い。むろんうまい句ではない。というより、素人の沖田の眼からみても、おそろしく下手で、月並な句ばかりである。

 そして沖田君によればこれは「歳三がもっている唯一の可愛らしさというもの」であって、「もし歳三が句まで巧者なら、もう救いがない」のだから、心のなかでは苦笑しつつ一生懸命に句を褒め、歳さんも気恥しそうにしながらそれを期待している……という、何とも人間らしいエピソードが大好きなんです。

 「土方さんは可愛いなあ」
 沖田は、ついまじめに顔を見た。
 「なにを云やがる」
 歳三は、あわてて顔をなでた。
 
 いや『燃えよ剣』の話はいいんです。豊玉発句集の中から「梅に関する」私が好きな歌を2首選ばせていただきます。

 梅の花壱輪咲ても梅はうめ

 写真を撮った時、実際はニ三輪かもうちょっと花が咲いていて、それをうまく取り合わせて華やかさを出した方がフォトジェニックかなと思ったのですが、この句を思い出してあえて一輪だけドンと主役に据えた写真を撮りました。高校時代の写真部の顧問がこの写真を見たら、
 「日の丸弁当みたいな写真を撮るな」
 と怒り出すかもしれませんが、いいんです歳さんの句だって下手だから。……なんて言うと今度は歳さんから「うるせえな」と拳骨を食らわされるかもしれませんが。でも本当、写真芸術的にはヘボでもいいんです。これは私が大好きな歳さんへのオマージュですから。きっと「フン、たいしたことねえな」と言いつつ、きっと気に入ってくれると思うのです。
 で、もうひとつの句はこちらです。

 梅の花咲る日だけにさいて散

 これは発句集の最後につづられた一句です。多摩から京都へ、京都から会津へ、会津から函館へ……武士として生きることを志し、最後まで戦い抜いて果てた歳さんのことを想うと如何にも象徴的です。
 もっとも小説やドラマで何度も復活し、函館で鬼神となって魔人加藤および新政府軍と戦ったあとにアイヌの黄金をめぐる戦いに参戦したかと思ったら記憶喪失のままアメリカに渡り、その後は時空を超えて異世界に召喚され島津豊久と殴り合いの喧嘩を繰り広げたり20世紀のニューヨークでベートーヴェンと一緒に召喚され悪魔と戦ったりと大忙しです。続けて書くとなんだかすごいことになったなあ。スミマセン歳さん愛がオーバーフローしちゃって……久しぶりに書くものだから、つい張り切りすぎちゃった……。


 まあ、そんなわけで一枚の梅の花の写真から延々と無駄話をつづってしまいましたが、確実に春は近づいているってことですよね。梅が咲き、やがて桜が咲き、穏やかな東風が吹くことでしょう。弊社は春が一番の繁忙期なので、のんびりお花見……という雰囲気ではありませんが、まあ気持ちもときめく時期だから頑張れます。皆様も季節の移り変わりを楽しみながら、できる範囲で頑張ってまいりましょう。本日もお読みいただきありがとうございました。

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 寺山修司の『誰か故郷を想はざる』『幸福論』を続けて読みました。
 本来であれば十代の若者向けの本だとは思うのですが、正直なところ内容が難しくて、四十代になった今読んでようやく少しわかったかな……というところです。まあ稲垣足穂みたいに「わからないでいいんじゃないですか。永久にわからないで」(by三島由紀夫)という作家なのかもしれませんが。ただ、寺山修司が自分の母親から聞かされた自分の境遇のことについて嘯いた、
 「何しろ、おれの故郷は汽車の中だからな」
 という言葉とか……あと、グリコの箱に描かれている「一粒300メートル」のランナーの絵を見た感想として書いた、
 「私は、グリコの甘味を舌の上で味わうたびに、地の果てまで走ってゆくためには、グリコが何粒あればたりるのだろうか? と、思ったものであった。」
 という文章とか……そんなふうにさらりと書いた一文が妙に鋭い刃物のように私の心を切り裂くのです。太宰治も同じ津軽人ですが、向こうがどうにも情緒的でめそめそしている(だがそれがいい)のに対し、寺山修司はそういった感情をすべて抑え込んでボソリとつぶやく感じで……読むたびその陰鬱さに心が落ち着くのです。

 そんな寺山修司の本を読んでいて、
 「モノローグ」「ダイアローグ」
 この言葉が妙に印象に残りました。具体的にどの場面でどういう風に使われていたのかはわからなくなってしまいましたが、普通の人(定型発達者)なら別に気にならない一点に心がとらわれてしまうのが発達障がい者であり自閉スペクトラム症の私ですから、こうなったら仕方がありません、まずは小文をでっち上げて気持ちを決着させることにしましょう。
 さてモノローグとダイアローグ、日本語に翻訳すれば「独白」と「対話」そんなところでしょうか。
 さしあたってこのブログなんていうのはモノローグ中のモノローグですね。一応誰かが読む前提で書いてはいますが、常に話の中心になるのは「私がどう感じたか」。私の生き方そのものがモノローグ的なものだからかな。誰かと会話することよりも、自分がどう感じたのかを大切にする生き方。
 さらに言えば、最近読んだ本の感想を作者に手紙にして送ることがあるのですが、これなんかもモノローグ的ですよね。絵心がない私が最も気持ちを載せられる手段を用いてつづり、きっと受け取った相手は読んでくれると信じて投函しているのですが、こちらから一方的に自分の感想を送り付けているのですからね。

 「返事を期待せずに出す手紙は、モノローグ的ではないだろうか?」

   *
 
 ……ということを書いてはみたものの、一晩おいてみると、真にモノローグ的な文章とは非公開の日記であり、こうしてオープンにして誰でも読めるようにしているということは、少なくとも相手がいることを前提に書いているのであり、それはむしろダイアローグ的と言えないだろうか? と思いました。
 20代の頃に枕頭の書としていた漫画『湾岸MIDNIGHT』から引用して、今でもずっと心の中で大切していた言葉があります。

 「会話だろ・・城島
  本とか そーゆうの
  書く側と読む側 一対一か
  
  お前の書いたモノ読んで オレとお前はずっと会話してたわけだ
  
  楽しいヨ 城島
  コレからも時々 おまえと会話したいヨ」
  
  (出典:湾岸MIDNIGHT Vol.24 171p)

 自分の心の中にあるものを表現したい――そしてそれを受け止めてくれる人がいるはずと信じる……先日の「足跡」展を主催した木俣さんのように、私も私の文章に「よさはあるはずだし、好いてくれる人もいると」信じている人間なのです……そう思って書くのなら、これもある意味ダイアローグ的な試みだと思うのです。それは文芸でも美術でも同じことです。
 SNSみたいに、わかりやすい形で反応があるのもいいんですが、それよりも私は書(描)く側と読む(観る)側……じっくり向き合う形の対話がいいかな。一瞬で感じられるものは一瞬で消えてしまいますが、しっかり向き合い文章の内容や絵の雰囲気を自分の中で探って得たものはなかなか消えません。それは作者と読者(または観賞者)の対話、ダイアローグだと思います。
 まあ、私は別に寺山修司研究家でも評論家でも何でもないので、私の考えるダイアローグと寺山修司の言うダイアローグの意味合いが一致しているかどうかはわかりません。そもそも本当にこれがダイアローグ的と言えるのか、やはりモノローグに過ぎないのか……それもよくわかりません。
 ただ、とにかく私はそう思ったのです。心の中で思っているだけではモノローグですが、こうして伝えたい人に伝える(またはそういう努力をする)ことでダイアローグになる、と。
 それを上手に伝えるためには、やはり技術が必要です。そして場所も、仙台じゃなくちゃダメなんです。盛岡でも青森でもいけない。東京ならもっと人がいるかもしれませんが、実際に私のことを受け入れてくれた人たちが仙台にいるのだから、私は仙台が一等いいんです。

 「わたしは人生を愛しています。
  そして、仙台を愛しています。」

   *
 
 ここからは余談です。
 冒頭の写真は2017年10月に三沢市内をフラフラしていた時に撮影した写真です。今は大分開発が進んだのでしょうが、当時はまだまだ昭和な街並みが多く残っていて……あるエリアを境に昭和感爆発の寺山修司的世界ときれいに整備された現代的世界(=至米軍基地)にクッキリ分かれていたんですよね。

(2017年10月撮影)
 もちろん私は昭和エリアの方を好み、街の風景を何枚も写真に撮っていました。アメリカ人兵士が残したと思われる壁の落書きと、こういった寺山修司の短歌や言葉が入り乱れ、つぶれたお店の看板と合わさって実に心地よい空気感がありました。

 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 これは有名な短歌ですが、この言葉と一緒に等身大の寺山修司の写真がガソリンスタンドの前に当たり前のようにあったりして……ううん、やっぱり八戸・三沢あたりはもう一度行ってみたいなあ。やっぱり、自死を考えるくらい、一番ひどい精神状態だった私のことを救ってくれたのが、三沢の寺山修司記念館でしたから……。

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 ZINEという言葉を初めて知ったのは去年の秋なんですが、「ザイン」じゃなくて「ジン」ですよね。他に適当な言葉が見つからないので、やむを得ません、私もジンと呼ぶことにしましょう。
 昨日の記事に書いた”MACHIYART-エニナルモリオカ-”を目当てに来たので、このイベントについては来て見て初めて知りました。先日仙台で行われたブックバザールで私も「ブックハンター」デビューしたのでね。こんなイベントがあれば、見て見ぬふりはできません! 実は博物館に行った時に軍資金が底をついていて、今日はお金を使わないつもりだったのですが、緊急に近くのATMで野口英世を動員。大枚三千円なりを握りしめて突撃したのでした。ハンターチャンス!

   *

 行ってみて驚いたのは、小さな子どもの手を引いた家族連れが随分多いな! ということでした。ブックハンターセンダイは「知る人ぞ知る」という……ある種の秘密クラブめいた空気があったのですが、こちらはテレビの取材も入るくらいですからね。ADHDでASDな私なんか、ゆっくり見て回るのが少々ためらわれるくらいニギニギヤカヤカしていました。盛岡の人はこういうイベント大好きなのかな! せっかくイベントを開催するんだから、賑やかな方が良いです!
 そんな人ごみの外側から、できるだけ他の人の邪魔にならないよう立ち止まらずに何度も往復して様子を確かめ……比較的落ち着いている作家さんのブースに行って試し読みしてみる……既に「せっかくだから何か買って行こう」という前提で動いているので、あとは自分の気に入ったものがあるかどうか。作品もそうだし、「どうぞ見ていってください~」なんて声を掛けられたら、小心者の化身みたいな私ですから、買わずに帰るのもためらわれます。
 なんてね。
 そういうふうに声掛けしてくれたのも嬉しかったのですが、中身も気に入ったので買ってきました。「落っこちてきた月の破片をライターの火打石にする」話をはじめとする稲垣足穂的SFショート集と、盛岡の街並みを精緻に表現したイラストあとは極めてオシャレなデザインと心地よい手触りが心地いいブックカバーです。
 ちなみに、一緒にもらった名刺には「イラストレーター」「アクセサリーデザイナー」そして「モデル」と書かれていました。綺麗なものや素敵なものを自分自身の肉体も使ってマルチに表現しているってことですよね。確かにそういう雰囲気はありました……良いと思います!

   *

 改めて振り返ると、やはりこれは僥倖であったと思います。何度か古本市はやっていたみたいですがZINEをメインにしたイベントは初めてだったみたいで……売る方も買う方も、こうしたアンデパンダン精神とこれを温かく受け入れ応援しようとする盛岡人の気質があるのかもしれません。直接的にも間接的にもそんなことを感じました。

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 別に「今年は100冊、本を読むぞ!」と決めてかかったわけではなく、読んだ本の記録をつけていたら結果的に100冊目に到達した……という話なんですが、ともかく100冊は100冊です。正確に言えば今日時点で108冊くらい読んでいますが、「100冊ちょっと」というあいまいな言い方が気に入ったのでそういうことにします。
 そこで、今年読んだ本について軽く振り返ってみたいと思います。今日は本当にお手軽というか、ドラマの総集編みたいな内容なので、読む方もご自身の今年のことを振り返りながら読んでいただければと思います。

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 今年読んだ本のリストを見返して、10冊セレクトするとしたら、こんな感じです。

1.ウォルポール 『オトラントの城』
2.三島由紀夫 『豊饒の海』
3.稲垣足穂 『一千一秒物語』
4.矢川澄子 『兎とよばれた女』
5.来栖千依 『帝都はいから婚物語』
6.安澄加奈 『水沢文具店』
7.夢野久作 『ドグラ・マグラ』
8.森茉莉  『贅沢貧乏』
9.荒俣宏  『帝都物語』
10.ユイスマンス 『さかしま』
 
 主に図書館で借りて読むことが多かったのですが、『帝都はいから婚物語』は刊行直後に新刊で買いました。帝都物語が大好きで今年10年ぶりに再読したんですが(その時の感想はこちら)これをしっかり自分のなかに落とし込んだうえで、あえて言います。これは良い作品でした!

 帝都はいから婚物語 - ポプラ社

 当時の読後感メモによると「これほど可愛い女の子はなかなかいない。そんな女の子が偏見だらけの世の中に飛び込み、呑み込まれるどころか自分で渦を起こしてどんどん周りを巻き込み変えていく展開は読んでいて気持ちよかった。」とのこと。ラノベっぽいタイトルですけど文章も落ち着いてシッカリしているので、最後まで興ざめすることなく読めました。作者の来栖千依さんは、本作でポプラ社小説新人賞ピュアフル部門賞を受賞されたとのことで……私はただの文芸オタクにすぎませんが、とても好きなので書かせて頂きます。応援してます!

   *

 その後、11月に入り、ユイスマンスの『さかしま―美と頽廃の人工楽園―』を読了。その数日後に叔母が帰天し、Xも休止。どんどん内向きの世界に入り込み、一冊ごとに書きつける文章も激増。私のきわめて偏執狂的な、地上十階地下十階の精神的な人工楽園のなかで物語を読みふけり、兎年の100冊目に矢川澄子『兎とよばれた女』を読了した次第です。

 今の私は堂々と『文芸オタク』を宣言してもいいと思うのです。これまで「ちょっと難しそうだから」と敬遠していた『豊饒の海』『ドグラ・マグラ』も次々読了。「旧字旧仮名遣いじゃ読めないよ」とあきらめていた森茉莉も読了。物語の波長が合えば100年前の作品だろうと何だろうとどんどん読んじゃうだけの力を手に入れたんです。精神の危機に瀕していた私を救ってくれたのも文学なら、そこから這い上がって生きていく力を与えてくれたのも文学ですから。これら100冊ちょっとの本に感謝の気持ちを込めて、これからもアナログハートを守りつつアート&ブンゲイで生きていきたいと思います。

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 図書館も年末年始の休暇に入ってしまったので、先日ブックハンターセンダイのインディーズブックバザールで買い集めた本を読みました。短編か、もしくはそれよりも短い掌編なので、所要時間は短かったのですが、いずれも鮮烈な印象でした。
 そんな各篇の感想をここで書きます。……と思ったのですが、
 「あえて、私が書くこともないか」
 そんな気がしてきました。いや、ひとつひとつの作品に対する感想は書いているんですが、それが……こういうパブリックな場で不特定多数の人に向けて書いた感想ではなくて……作者に感想を伝えるための手紙形式なんですよね。丁寧に書いたけれど、ちょっとパーソナルな感情を込めすぎちゃって、なんか気恥ずかしい……そんな感じです。
 だから、「全部読みました」「とても良かったです」ということだけをここでは書いておきます。あえてこれは、私だけの秘密にしておきたいな、と。

   *

 たとい実際にそういうことをしたことがないとしても、「秘密基地」とか「秘密の宝物」とか、そういうものに心ときめく…という感情は、稚い子供心としてわかっていただけるものと存じます。
 これが発達障がいだからなのかどうか知りませんが、私にはいまだにそういう感情が根深くあります。根が深いものだから年月が経っても枯れない。水をあげればあげたぶんだけ成長を続ける。どこにでもいる子供は誰も知らない秘密を知っていることをアイデンティティとするサブカルオタクとなり、長じてそれは自閉スペクトラム症と呼ばれるまでになりました。それが私の四十年余の来し方です。
 こうして出会った本をこれほどまでに愛おしく感じるのは、そういった私の精神性によるものなのでしょう。もちろん物語そのものが素晴らしいのは言うまでもありませんが、これらの物語は決して一般の書店に並ぶことがない……ごく限られた、本を手にした者たちだけが垣間見ることの出来る世界であり、私もその秘密クラブの会員となって恩恵に預かる……という気持ちになれるからだろう……と。

 ここからは少し「秘密」という言葉について思ったことを書かせていただきます。少々道草になりますが、どうかお許しください。
 秘密とは「知られてはいけない」ことを心に隠し持つことですが、それは秘密を暴く(または「暴かれる」)歓びと表裏一体の緊張感があると思います。いつだって物語の人物は、見てはいけないと言われたものを見て、破滅に至るものです。それは言うまでもなく、秘密をこっそり覗き見てこれを暴くというタブーを犯すことが何よりも快感だからでしょう。
 それがさらに高次の段階に進むと、自分の秘密を誰かに暴かれたいという感情になってしまうのかもしれません。今風の言葉でいえば「匂わせ」ってやつでしょうか。正直に言うとそういうものに私は理解もできるし共感もできます。覗く者であり覗かれる者。本多繁邦が「のぞき」をやってしまうシーンに私自身が共犯者として本多と同じ光景を目にする一方、心は勝手に覗き見られている側の方にも転移し、これを想像する……。
 「死刑囚であり死刑執行人」とはボウドレエルの言葉ですが(私はそれを三島由紀夫さんの文章で知ったので、ずっと三島さんの言葉だと思っていた)、鞭打ちながら鞭打たれる、加虐と被虐を同時に快感とするのがサディストだと私は思っています。十代の頃に『悪徳の栄え』『新ジュスティーヌ』と出会ってしまった私の無意識には、そういう感情がしっかりと根を張っています。
 ええ、私の心にはそういう感情があります。
 この感情は獰猛な獣の如く強烈で、私のちっぽけな自我が抑えつけようとすると、その自我が及ばない暗闇でうなり声をあげ、たびたび心をむさぼってしまいます。そうなると心のバランスを崩し、何らかの形で処置を行い、また無意識のなかに押しやらなければなりません。これを抑圧というのか「コンプレックス」と言うのか。
 ただ、今はそこに新しい希望があります。アニマです。私の自我がアニマの存在を認め、アニマと手を取り合う。もう一人の私たるアニマと協力して、この獣を御するのです。そのために私はスカートを穿き、よりアニマが意識上で自由闊達に振る舞えるようにお膳立てをし…そして私自身、「彼女」と共に生きるのです。
 それが今の私が考える「自己実現」へと至る道です。

   *

 話がメチャクチャに飛躍して、私のこころの問題にまで発展してしまいましたが、これが私の読後感です。どうしてこれほどまでに心惹かれるのか? 自分の感情はどこから来るのか? ということをひたすら心に問いかけ、無意識の海に潜って見つけたものはサドの小説でした。少なくとも感情の領域に深く刻み込まれた記憶は永遠に消えないでしょう。
 でも、それが『在りたい私』かというと、そうではありません。感情のまま消費し続け垂れ流し続けるような生き方を、私は望んでおりません。かといって全ての人間らしい感情を封じ込め、あふれる情報の海に呑み込まれ溺れてしまうような生き方も私はしたくありません。
 理性と感情。(いわゆる)男性らしさとか女性らしさとか強さとか優しさとか秩序とか混沌とか……私はそういうのを全部かき混ぜてぐちゃぐちゃになった心でいいです。いわゆる太極図のマークです。

 太極図 - pixiv

 この辺もユングの思想による影響が大きいと思います。ゲーム『真・女神転生』に出てくる謎の老人は、私にとってはユングでありそれを教えてくれた河合隼雄先生です。何事も調和が大切なのです。
 良い本や素敵なアートはこの世にいながらにして、私の自我が及ばない領域(個人的/集団的無意識)に直接アクセスしてくれます。私はこれからもたくさん本を読み、アートに触れて、自分の心を豊かにしていきたいと思います。

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 こんなお二方の本を並べて、今更何を書くつもりなのよと訝る向きもあろうかと思いましたが、特別にそんな意気込みがあるわけではありません。先日仙台市泉図書館に行った時に本棚を眺めていて、気になって手に取った本が矢川澄子さんの本であり澁澤龍彥さんの本だったのです(そしてもう1冊が稲垣足穂でした)。

   *

 最初に『「父の娘」たち―森茉莉とアナイス・ニン―』の感想を。こないだ矢川澄子さんの本は一段落って言ったばかりなんですけどね。
 そもそも私が最初に読んだ矢川澄子さんの本がベスト・エッセイ集だったので既読のものも多少ありましたが、本のサブタイトルにある通り森茉莉とアナイス・ニンという2名の女性に関するテーマのものを集中して読めたのは良かったと思います。以前ユリイカの矢川澄子特集でお名前を知った佐藤亜紀さんの文章も引用されていたし。それをまたこの場で引用することはしませんが。
 そして、今この記事を書いていて印象に残っているのは、これまた引用された室生犀星の文章でした。森茉莉さんの部屋の様子を見て「かなしみのあまりよく眠れなかった」と言った室生犀星に対して「やっぱり男性にはそのように見えるのでしょうね」と厳しく断罪(そうでもない)。それぞれ異なった捉え方をする二人のうち私がどちらに共感したかといえば、これは恐れながら室生犀星の方でした。
 この辺が……男性と女性の違いなのかなあ。どれほどアニマを育てても矢川澄子さんの本を読んでも心の奥から湧き上がる感情は男性原理に基づくものだということに気づきました。「ほら、やっぱりあなたは男じゃない」それはそうです。その通りです。でも、「だからあなたには理解できないのよ」といえば、そんなことはありません。確かに私の感情生活は男性原理に基づいたものですが、私にも女性の心に近しい要素があります。時流も男女間での齟齬を無くそうという風潮になっています。

 そのような風潮と素敵な出会いにより、ずっと押し込めていた私のアニマが解放され……それゆえに矢川澄子さんの本をたくさん読み、その空気を取り入れることができたのだと思います。

 読書中に1枚。私はこの格好をした自分のことをとても可愛いと思います。

   *

 という話をした後で、今度はまた男性に戻ります。『狐のだんぶくろ』の感想です。
 初めて澁澤龍彥というひとの本を読んだのは十代、高校生の頃なんですが、その頃大好きだったのが『玩物草紙』という……朝日ジャーナルの連載をまとめたエッセー集だったんですね。過去と現在を行き来しつつ気ままに筆を振るうっていう印象です。
 この『狐のだんぶくろ』も、まさにそんな感じですね。主に昭和初期、少年時代のことを中心に書いていて……澁澤さんより半世紀ほども遅く生まれた身としては、原風景というより歴史上の出来事に思いをはせるような気持ちで楽しく読みました。
 楽しく読みました、という以上の解説は特に必要ないんじゃないかな、という気がします。あえて言えば、私はこういう文章を書きたいと思って、ブログを始めたんじゃないかな……と言うことを思い出しました。あるいは新聞のコラムのような文章。当たり障りないけれど、読んだ人がクスッと笑ったりヘェーとうなずいたりしてくれる文章。
 でも、そういうのって150キロの快速球が投げられる人が書くからできるんですよね。巻末にある出口裕弘さんの言葉を読んで再認識しました。あくまでこれは「肩に力を入れない投法」で放った緩やかなスローボールであって、そういうボールしか投げられない人は無理なんです。……それでも、ようやく90キロくらいのボールが投げられるようになってきたかな……って気はしますが。

   *

 稲垣足穂、森茉莉、室生犀星、矢川澄子、澁澤龍彥……。
 何となく心に浮かんだ作家の名前を挙げ連ねてみましたが、理性と感情それぞれの分野で「そうだ!」「そうかな!」「そういうものか……」と胸に沁み込みました。言葉抜きで直接共感できることもあれば、言葉を通じて自分の心の中にも同じような要素があることに気づいてハッとしたり、共感はできなくても違いを理解して心を整理したり。
 感じ方は男女で違うかもしれませんが、私はその垣根を身軽に飛び越えて自分の心を育てていきたいです。発達障がいでも自閉スペクトラム症でも、私は私らしく生きるんです。

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 既に100冊を超えてなお衰えない読書熱。今回泉図書館で手に取ったのは、今年2冊目の稲垣足穂です。この表紙の絵が素敵ですよね! 
 これは平凡社STANDARD BOOKSというシリーズです。「科学と文学、双方を横断する知性を持つ科学者・作家の珠玉の作品」を一作家一冊で収録したもので、「科学的視点」があることが特長とのこと。


「自然科学者が書いた随筆を読むと、頭が涼しくなります。科学と文学、科学と芸術を行き来しておもしろがる感性が、そこにはあります。」
(STANDARD BOOKS刊行に際して)


 これは私が先日寺田寅彦の随筆を読んだ時に感じたことです。その寺田寅彦がシリーズ第一冊目らしいので、まさに「そうかな!」と我が意を得る思いでした。まあ稲垣足穂という人は私のなかでは純文人であり、澁澤龍彥・三島由紀夫らと同じカテゴリの人なんですけどね。
 とはいえ稲垣足穂といえばテーマが天体とか飛行機とかSF的なものなので、最近ひたすら人間の内面、精神的な世界に向かっていた私にはとても新鮮でした。文字通り、開かれた世界へ向けられているわけですからね。キラキラと輝く夜空を、100年前の複葉機で空を飛ぶようなイメージを浮かべながら読みました。
 そして、その日の夜には定禅寺通りで開催されている『SENDAI光のページェント』を見てきました。

 おかげで今年のページェントは、去年とはまた違った意味で素敵でした。

   *

 もう少し本の内容について触れたいところですが、私は松岡正剛ではないので(今年3回目)あんまり詳しいことは書けません。本を読んで、そういえば前職の頃はコンビニも何もない代わりに星空が綺麗だったなあとか、お月様とかシャボンとか鉛筆とか身の回りにあるものを取り上げて、それを何でも幻想世界に浮かべてしまうんだなあとか。
 キネオラマなんですよね。
 いや、私は見たことが無いんですけど、私が想像するキネオラマって、そういう……星も月も天井から糸でぶら下げて、空を飛ぶ複葉機もぶら下げて、それに光を当ててキラキラ輝く仕掛けもの。作り物だけに情緒的で幻想的な世界。ゴミと利権で汚れ切った現実の宇宙とは違う……100年経っても古くならないし魅力も損なわれない、永遠の宇宙なんです。やっぱり、この辺の感覚が男性的なのかなあ。
 ちなみにこの「糸でぶら下げた複葉機」というのは原風景があります。
 私が通っていた小学校には鉄筋コンクリートの本校舎と木造の旧校舎が共存していて、その旧校舎の一番奥にある図工室に、そういうのがぶら下がっていたのです。日の丸のマークがついた複葉機なので、もしかしたら戦前からずっとそのままだったのかもしれません。あれから30年以上が経過し、今はもう私の記憶の中にしかありませんが、そういう原風景を強く思い起こさせてくれるような随筆集でした。
 それにしても、繰り返しになりますが、全然古くないんですよね。確かにポン彗星もステッドラー鉛筆の広告も目にすることはないし、今は当時の十倍も速い飛行機が飛ぶ時代なんですが、まったく古さを感じない。また、一読してすらすらと内容を理解できるかといえば、必ずしもそうではないのですが、それでもとりあえず読み通してみると先ほど申し上げたような「キラキラと輝く夜空を、100年前の複葉機で空を飛ぶ」イメージであり「キネオラマ」のイメージなんです。

  *

 そんなわけで、感じたことを一生懸命に書いてみました。私は松岡正剛じゃないので(本日2回目/今年通算4回目)こんなところでいいでしょう。「何だ、わけのわからないことばかり言いやがって」と泉下の稲垣足穂翁も苦い顔をしておられるかもしれませんが、下手な評論を書くよりは気持ちを素直に書く方が良いかなと思ったので。
 大体、稲垣足穂というひとは、わからなくていいと思うんです。三島由紀夫さんが澁澤龍彥さんとの対談で、こんなことをおっしゃっていました。

 三島「わからないでいいんじゃないですか。永久にわからないで。稲垣という作家がわかるということは、なんか気味の悪いことですよ。ほんとうはわかってはならぬことなんですからね。いちばんの、大神秘ということをいっちゃっているんですからね」


 大好きな三島さんがそうおっしゃっているので、私も安心して、わからないながらも感じたことを大切にしていきたいと思います。

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 とりあえず私が持っているパンツとトップスで組み合わせただけなので、決して上等なものではありませんが、ともかくレディースファッションに身を固めて外出してきました。冬の仙台はとてつもなく寒いので、この上にはフルジップパーカーとコート(メンズ)を着ますが、建物の中などコートを脱げる場所ではこの格好で過ごしました。
 差し当たって、この日に行って来たのは仙台市泉図書館。こないだ借りてきた矢川澄子さんの本を返却しつつ、まだ読めていなかった一冊『水沢文具店』を読んだのです。
 
 これはとても素晴らしい物語でした! 良すぎて読んだ直後にこうしてノートに感想をメモしてきましたし、別な形でも感想を残しました。後ほどまとめてきちんと書きます。

 読書中に一枚撮ってみました。
 図書館にはみんな本を借りに来ていますからね。フロアの端っこにある閲覧席で本を読んでいる私のことなんて誰も気にしません。私もまた周りのことを気にせず一生懸命に本を読み、感想をノートに書くことができます。
 好きなだけ在りたい私でいられる空間。心と体をめいっぱい解放できる空間。私にとって図書館は、そういう場所なのかもしれません。それが嬉しかったので、こんな写真を交えつつ記録します。こんな感じで少しずつ心を慣らしていけば、きっと普段使いの外出着としてスカートや、もっと可愛い服を着用できるようになれるかな……。



 それでも私は自分が男性である(=トランスジェンダーにはなれない)ことを認知しているので、身内や職場にはこのことは言ってないし、男性の格好をして過ごす時間もたくさんあります。特にそうすることに苦痛を感じることはありませんが……男性女性の二元論で分かつことの出来ない……自我とアニマがアナログ的に混ざり合っているような心を持っているので、スカートだろうと背広だろうと、私は着たい服を着ます。
 生まれながらの性で生きるひと、それに違和感や苦痛を感じてトランスジェンダーになるひと。はたまたXジェンダーという言葉もあります(これが今の私に一番近いのかな)。いずれも私はその人の性自認を尊重します。
 そのうえで、私は別に自分の性を固定しようとは思いません。時に男性らしく時に女性らしく。アニマと手を携え共に生きる、ヘルマフロディトス的な…そしてアナログハートの持ち主なんです。

 アート・ブンゲイ・アナログハート!
 これでいい、これで……。

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 矢川澄子『反少女の灰皿』『受胎告知』を読みました。
 今年に入ってから矢川澄子さんの本を次々と読み、そのたびに感想を書いているので、これについても感想を書かなければならないと思っているのですが、ちょっと感想を書くのが難しい……と言うのが感想です。
 なぜかというに、これは多分、私にとって相当奥深いところに眠っていた……個人的無意識の彼方に落ち込み、手を伸ばしても届かないようなところにあった記憶を呼び覚ますようなテーマだったからでしょう。それはもう20年も前に心の閉架書庫に放り込んで鍵をかけていた『アリス』の記憶です。
 それに加えてヘルマフロディトスへの強い憧れを持つ私の心にdeep resonanceする記述があって、きちんと正しく感想をまとめるには時間がかかりそうな気がするのです。なので今回はとりあえずこのタイミングで読んだ、ということだけを書いておきます。
 一緒に借りてきた『受胎告知』……これはどういう経緯で発売されたのかとか、あとがきも解説も紹介文もないのでわかりませんが、発売日が2022年11月30日……矢川澄子さんが自死された後に未発表の作品を収録して発売されたことだけはわかりました。作者の歿後に未発表の作品を発表されるのは、作者本人にとってはどんな気持ちなんだろうって思わないこともないですが、読んだ後に気づいたので……。

  *

 もう少し詳しく書いてみます。
 『反少女の灰皿』は1981年(私の生まれ年!)に刊行された矢川澄子さんのエッセイ集としては古い方ですね。これに収録された『不滅の少女』というタイトルのエッセーについて、以前別な機会に読み、今回感じたことを色々書いてしまったのですが、今回はきちんと本を一冊読んだのでね。改めて同じことを今の言葉で書きます。


わたしはそのような架空の男との対話をたえず頭の中でくりかえし、それによって力を得てきたのですし、……相手が異性だと思えばこそ、こちらの感じ考えたことをできるだけよくわかっていただこうとして精神が活撥に動き出すのが、自分でもありありとわかるのですから。
(「透明と聡明」 矢川澄子『反少女の灰皿』)


 矢川澄子さんのこういう感覚が私の心に重なる部分があるのですね。私も誰かに読んでもらうための物語を書くわけではなく、自分の心を整理するために書き出すためだとしても、こんな感じで書きます。何だったら私自身が心の中で性転換を試み、女性として振る舞っていました。私の心の中にあるアニマを解放し、私が自ら「アニマ」になり切るのは現実世界でもメタバースの世界でもなく文芸の世界なんです。


……「お話をかくひと」を夢みるとき、おかしなことにわたしは、無意識のうちにつねに女であることを忘れ、一個の人格として、男としてふるまっていた。この男は、少女の夢想のなかで次第に成長して、ついには架空の恋人役をも兼ねるにいたる。ルイス・キャロル=ドジスン教授にせよ、ポオのウィリアム・ウィルスンにせよ、ドッペルゲンガーはほとんど同性の相似のすがたであるが、わたしの場合はセラフィータなみに、両性具有の願望をもどうにかして叶えようとしていたものか。 
(「不滅の少女」 矢川澄子『反少女の灰皿』)


 果たして私が試みたアニマとの和解は両性具有の願望なのか。あるいは理想のヒロインを作り上げようと躍起になるピュグマリオン・コンプレックスなのか。ともかく事実として、矢川澄子さんとは逆に「男性が想像する女性」が一人称でモノローグを語る形式で、たくさん書きました。女性になり切った私が正直な感情をさらけ出し、それを受け止める男性がいる形式もあれば、別な女性(これもまた私が女性になり切って細かい心理的なアレコレを書き出している)との交流を描いたものもありますが。
 そんな2023年の私の気持ちをまとめたのが久々の短編です。投稿サイトに出してみたら気に入ってくれた人が一人いらっしゃったみたいで……私自身のことを認めてくれたみたいで、とっても嬉しいです……。
ハロウィン・シンデレラ ーpixivー
 失礼、これは余談でした。ともかくそういう部分で非常に共感してしまったということで、『反少女の灰皿』についての初読感想とさせていただきます。

   *

 一方の『受胎告知』の方は、矢川澄子さんの書いた小説のなかでは、ある意味では一番優しい世界観の作品でした。先に読んだ『兎とよばれた女』や『失われた庭』も素敵な世界観ではありますが、矢川澄子さんの私小説的な色合いが強いためか、
 「……と言っても、男性であるあなたにはわからないでしょうね」
 といって鼻先でぴしゃりと閉ざされてしまうような(気がした)場面が何度かありました。でも、これに収録された3篇の小説はそういったこともなく、ただただ素直に楽しめました。
 つまり「聖性」なんでしょうね。初めて矢川澄子さんの文章を読んだ時に感じたこと。何冊も読んで自分なりに矢川澄子さんの人物像が出来上がってきて、親しみを感じつつ「そうかなあ?」と澁谷かのんちゃん的に疑問を呈したりしていたところですが、また聖性に戻ってきたのかもしれません。
 以下、収録作品に関する簡単な感想を。

 『ファラダの首』……肉体の束縛を解き放たれた魂が自由に羽ばたき、時空を超えて語る短編です。別に難しい解釈は必要ないでしょう。読んで白馬とともに天を翔ける想像をして楽しめばよいと思います。ちなみにファラダというのはグリム童話『鵞鳥番の女』に出てくる馬の名前です。
 『受胎告知』……肉体的には血を分けた親子という関係でありながら精神的には対等に話し合い理解しあっていた父娘の物語です。自分の境遇や経験がどうであっても、それをもって幸せな人に恨みや妬みをぶつけたり「特別なひと」と差別するのはやめようと思いました。やればやるほど、みじめな気持ちになりそうなので……。誰がどうであれ、私が幸せかどうかは私が決めればいいんです。そして他の人が幸せなら、それを素直に認めればいいんです。いっしょに喜んで上げられればさらに良いと思いますが、それはなかなか難しいかなあ。
 『湧きいづるモノたち』……未発表作品。それまで前時代的な型枠の中に収められ均衡を保っていた親子関係が、父の死によってくずれ、そこに入り込んで来た外国人『デュモンさん』と新たな世界を歩き出す主人公の女性の物語です。あんまり難しく考えて詳しく感想を書くというよりは、何となく読後に胸がふくらんで「ふはふは」した。それでいいかなって気がします。

   *

 こんな感じで、2冊まとめて感想を書きました。『兎とよばれた女』『失われた庭』が矢川澄子さんの自伝的小説の裏表だとすると、この『反少女の灰皿』『受胎告知』も……形式は全然違いますが同じタイミングで読んだ大好きのカップリングとして……これはまた時間を置いて読みたいと思います。何度も読み返して自分のものにしたい。けれど今回は「読みました」という記録を残すために、簡単な感想を書きました。

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 先に借りてまだ読んでいない本があったのですが、せっかく仙台市泉図書館に来たのだから何か借りていこうかと思い本棚をじっと眺めていたら……小説の方にもエッセーの方にも矢川澄子さんの本があって、3冊ばかり借りてきてしまいました。そして最初に読んだのが、この『失われた庭』でした。
 非常に面白かったです。正直、一晩経った現在でも上手に感想をまとめることが出来ないのですが、とにかく読後感を書いておきたいと思います。いずれまたユリイカの矢川澄子特集とかを再読して、ちゃんと固まったらまた書くとしてね。

   *

 タイトルにある失われた庭というのは、物語の主人公『F・G』が新人「女流画家」としてグループ展に出展した手造り本の画集『LOST・GARDEN』によります。これは「最近偶然発見されたある前世紀末の擬古典派的画家の遺作の紹介書」という体裁で制作されているのですが、そんな画家は実在せず、すべてF・Gにより創作された作品でした。これがとある美術評論家の目に留まり、めったに新人を褒めないとされていたその評論家がこれを大きく取り上げた……というのが、主人公とその周辺の人間関係を作る切っ掛けになったのですが、物語の大半はそういった人間関係というよりもF・Gと作品『LOST・GARDEN』そしてこの世に一冊しかないオリジナル版を渡した「受取り手」にまつわる話に割かれています。
 この受取り手というのは……私の勝手な想像ではありますが、たぶん明確にモデルがいます。『兎とよばれた女』とか、矢川澄子さんのエッセーで時々触れられていた実在の人物です。私もそのひとが大好きで、これまで読んで来た経験からすぐにあたりを付けました。そして読み進める中で「実際にこういうことがあったのだろうか」という感情と「いやいや、これはあくまで小説なんだから、事実を丸ごと書いているとは限らないよ」という理性が絶えず衝突を繰り返しました。
 そして矢川澄子さんの「同類」どころか「同性」ですらない私が読んでいくと「きっとあなたにはわからないでしょうね」と突き放されるような理性と、「わかりたい、私なりに感じ取りたい」と全力で向き合い寄り添おうとする感情の衝突も繰り返し起こりました。
 正直なところ「男性らしさ」とか「女性らしさ」とかって言葉も、怪しいものです。便宜的に、そう表現するのが一番適当と思われる場面であればそれもよろしいかと思いますが、肉体的には女性であったとしても矢川澄子さんと血を分けた姉や妹の間にさえ思想的な差異が生じていたようですし(これは今読んでいる『反少女の灰皿』によるものですが)、やはり究極的には個々のパーソナリティがあり、それを重んじなければならないと思いました。というか、もともとそういう思想があったのですが、それをさらに強力に推し進めることができたのかなって。

   *

 「女流のくせにですか」
 F・Gのことを褒めた美術評論家に対して、その助手はそんな風に言って懐疑的な目を向けます。それに対して――って、別に作中で面と向き合って言い放ったわけではないんですが、この「女流」という言葉に対するコダワリについて語っている場面があります。さすがに全部引用するわけにはいきませんが、要するに、

 具体的に言えば、少女F・Gは、自分の作品を「女流として」見てほしくなかったのだ。少くとも「男性並に」、ねがわくは「性別の彼岸で」、正しく評価されることを切に、切にのぞんでいたのだった。(『失われた庭』87ページ8-10)


 ということだったんです。そしてこういう考え方は、私自身10年くらい前からひそかに持っていた思想だったんです。
 といっても、別に男女同権とかフェミニズムとかそういう思想的なものではありません。そもそもどうしてそんな風に考えるようになったかといえば、その頃に読んだ『レーシング少女』という小説が切っ掛けだからです。これはミニバイクのレースで戦う少年少女の青春物語なのですが、主人公の女子高生レーサーが同じように悪意と偏見に満ちた目線に晒され憤慨する場面があって……それ以来、「男性も女性も関係ない」「同じステージに立って競っているのだから、同じように正しく結果を評価するべきなんだ」と信じるようになったのです。
 「性別の彼岸」というのは、とても良い言葉だと思います。ちょっと作品の感想とは外れてしまうのですが、特に強い印象を受けたので書かせて頂きました。

   *

 そんなわけで、激しい葛藤とその先にある「止揚」のステージを目指している現在進行形の私の心の中を告白させて頂きました。小説と随筆の中間、告白と創作の黄昏時みたいな作品でした。『兎とよばれた女』とセットで本棚に並べたいです。古本で買おうったって簡単にはいかないと思いますが、いつか巡り合えたら……。

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 兎年の2023年に入って100冊目に読んだのは、矢川澄子『兎とよばれた女』でした。なお向こう側にある兎のぬいぐるみは先日秋保の杜佐々木美術館&人形館に行った時にお迎えしたものです。清水だいきちさんの作品です。
 多分これは、今まで読んで来た矢川澄子さんの作品のなかで一番、私の心に沁み込みました。活字を読んで想像するのが文学なので意識や思考のフィルターは透過しているのですが、大好きなアート作品を見た時のように心の奥底――プシケー(たましい)の領域にまで浸透した作品でした。そのために、一度読んで一晩経った程度ですべてを語り尽くせるとは思えませんが、これまで何度か矢川澄子さんの文章について書いてきた以上、これを内緒にしておくわけにはいかないと思うので……とりあえずメモしたことをもとに、今書けることを書きたいと思います。読了直後の新鮮な感想は、今しか書けないと思うので。そういうのをどんどん書いていくのが私のブログなので。

   *

 「できるだけかるく生きること」
 「人並みの幸福を追いもとめるのはやめようね」
 本を開いて僅か数ページ目で出て来たこの言葉を読んだ時、デジャヴュを感じました。矢川澄子さんのエッセーでも何度か出て来た、ある人物――矢川澄子さんが、かつて親しくし一緒に暮らしていたていた男性がしょっちゅう言っていた言葉として知っていたので、すぐに世界観に入り込むことができました。
 果たしてこれをそういう前提条件なしに読んだ人はどう思うのかな、なんてこともチラと考えましたが、私はあくまでも矢川澄子さん自身のことを先に知り、その上でそこから入ったのだから、そんなことを考えてみても仕方がないですよね。そういう前提で読むことは私の特権だし、取り消すことはできないし。
 なのでこれは自伝小説なんだろうな、と認識しました。自伝小説であり、自分の主張を訴える小説。小説であり思想書でありその中間にあるもの。……私はこれを「自分の感想」として書いています。実際にそうだとかそうじゃないとかっていう客観的評論は他の人に任せます。この先もそんな感じで書きます。
 
   *

 率直な感想<1>
 本の中で語られる「女性の気持ち」を読むほどに、あくまで私は男性なのだと認識しました。あなたには解らないでしょうねと言われれば、「本当のところ、私にはよく分らなかったとしかいいようがない」と澁澤龍彥さんの文章を引用して言わざるを得ません。どれほど「私の中の女性らしさ」と認識しても、それは私のアニマであって、それを同一化することはできません。私はどこまでも男性であり、アニマと共に手を携えて生きる人間なのです。それを改めて認識しました。
 率直な感想<2>
 文章はとても澄み切っています。特にエッセーという、私と同じ世界にいる矢川澄子さんが語る言葉ではなく、小説という別世界の登場人物が語る感情の言葉なので、その中では読者にすぎない私もまた声を出すことは固く禁じられ、息をして空気を震わせることさえためらわれるような世界のように感じられました。もちろん肉体の方では息しないと倒れちゃうから息はするけど、心の中に息をしなくてもいい私……それは肉体とは別な、より精神的な私……メタバースというデジタル的な世界でいえばそれを「アバター」というのでしょうが……を想像し、その子をリモートコントロールして、矢川澄子さんの文章の世界を探検するような読書体験でした。
 率直な感想<3>
 先ほど「心の奥底――プシケー(たましい)の領域にまで浸透した作品」であると書きましたが、改めてその点について書きます。ちょっと、メモした内容をそのまま引用してみます。


切ない? 悲しい? 優しい? 愛おしい? どんな言葉が適切なのかわからない。あるいは、これらの感情がカキマゼられて、ドロッドロのマーブル模様になっているのかな。ともかく「愛おしい」という感情が強いかな。読み返すこともあるだろうし、それがなかったとしても、手元に置いておきたい。『おにいちゃん』とこの本を並べて置いておきたい。本そのものに対する愛おしさが溢れてやまない。
(私の読書メモより)


 感じたことをダイレクトにさらけ出すのも気恥しいのですが、これ以上、自分の気持ちを適切に表現する言葉が見つからないので、そのまま引用しました。そして、ここに至るまでの道のりを、「電燈と案内板のある兎穴」というふうに表現していました。つまり観光洞窟みたいに坑内支保とラムプそれに地図まで用意されていて、ある程度の道のりを知っている状態で探検するような読書体験。既にそうやって知識があるから、余計なことを考えずアリスのように兎穴の奥底にある世界に飛び降りて、世界観に浸ることができたのでしょうね。このタイミングで読むのも必然だったのかな。そう思った方が良いのでそういうことにします。
 なお、私の読書メモの最後は、こんな言葉で締めくくられていました。

 兎穴の奥の世界には、一羽の兎がいました。兎は怯えているようでした。でも、生きることをあきらめていなかったから、私にお話を聞かせてくれました。私は幸せでした。



   *

 今年は兎年ということもあって、年初から兎に関する写真を撮ったりしていましたが、12月に入って兎アートを見て兎のぬいぐるみをお迎えして『兎とよばれた女』を読む……と、間に合わせたように兎尽くしですね。巷間ではもう来年の干支のことばかり話していて、兎のことなんて12年後まで忘れられてしまうでしょうが、私はギリギリ間に合って良かったです。これは本の感想とは関係ない余談ですが。
 それでは皆様良いお年を!(まだまだ年内更新します)

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 前回「内田百閒の本を借りて来た」という話をした時は、私のなかでも若干の気負いがありました。何と言っても内田百閒です。文豪漱石の門下生です。同じ漱石門下の寺田寅彦の文章は物理学者らしく正確かつ精緻な文章で、とても硬質な印象を受けました。その下地の上に文人趣味と優しいお人柄を感じ取ることができて、心の中に一陣の涼風が吹き抜けるような印象を受けました。土方歳三さんが入ってきた時の印象を「入室伹清風」という言葉で表した榎本武揚氏が感じたのも、こういうことなのかな、なんてね。
 さあ今度は内田百聞だと意気込んで読んだところ、そんな自分の気負いっぷりが恥ずかしくなるくらいスチャラカな紀行文でした。大体にして作者がこんなことを言っているのだから、ネームバリューに目がくらんでおずおずと本を開いた私みたいな人類はひたすら恥じ入るしかありません。

……汽車が走ったから遠くまで行き著き、又こっちへ走ったから、それに乗っていた私が帰って来ただけの事で、面白い話の種なんかない。……抑(そもそ)も、話が面白いなぞと云ふのが余計な事であって、何でもないに越した事はない。……今のところ私は、差し当たつて外に用事はない。ゆっくりしてゐるから、ゆっくり話す。読者の方が忙しいか、忙しくないか、それは私の知つた事ではない。
(『第二阿房列車』内「春光山陽特別阿房列車」より)

 内容はといえば、内田百聞とお供のヒマラヤ某氏が列車に乗り、飲食し、世の中のボイやほかの乗客や目に入るものすべてにぼやく。そういうことになります。気負いも何も必要ありません。酒と煙草とお弁当があればよろしいのです。それさえあれば一等車のコムパアトだろうと喫煙室だろうと飲食をし no smoking in bed.という標識のある寝台だろうと乱暴な解釈判断をして喫煙するなど、手前勝手で天下御免の内田百聞がまかり通るのです。
 なんて随分と意地悪な書き方をしてみましたが、もちろんこれは「そういう時代」の話ですから、読む方は読む方で勝手に楽しめばよろしい。大体にして書いている人があんな風に言っているんだから、こっちだって居住まいを正してサア読むぞと意気込むこともないし、義憤に駆られて悪行の数々をSNS等で書きだす必要もありません。すればするほど自分は莫迦だと宣伝してまわるようなものです。
 そんな感じで、まさに東京から博多に驀進する汽車のごとく一気に読み進めてしまいました。色々と凝り固まった心を物凄い力でもみほぐされて、何となく軽くなった気がします。同じ漱石門下とはいえ物理学者と純文学者では洋食と和食ほどの違いがあるので、それぞれの味わいを楽しめばよいですよね。そういえば内田百聞の随筆の読後感は、いくらか和食的というか、見た目の優雅さよりもガツガツと食べて口中調味してああ美味しかったなあというアノ感覚に近いですね。対して寺田寅彦は見た目を観察し、一口ずつ食べて食感とか味の変化をゆっくり楽しむ……いわゆる洋食の食べ方ですね。そうか、寺田寅彦は洋の人で内田百聞は和の人なんだ。
 なんて、私も随分と荒っぽい読後感を述べてしまいましたが、まあ、それほど深い感想を述べても仕方がないし、こんなものに対して分析めいたことをするのも野暮というものでしょう。本を読んで旅をしている気分になれれば、それでいいんじゃないでしょうか。私はなれました。ただ、傍目に見ている分には面白いけど、こういう人が近くにいたら私は嫌だなと思いました。すでに内田百聞は幽冥境を異にしているし、昨今の窮屈で清潔な時代では、こんな人間が湧いて出ることはないと思いますが。
 むしろこの本は、時々読み返したり思い出したりして、何度も何度も楽しむのがいいんじゃないでしょうか。一回読んで一回感想を書いてコレデオシマイじゃもったいない気がします。それを「深さ」という言葉で表現すると少々安っぽくなってしまい恐縮ですが、そういう随筆なのかもしれませんね。
 良いと思います!

   *

 ひとまず内田百聞『第二阿房列車』のお話は終わりましたが、ちょっと思い出したことがあったので備忘録をさせていただきます。
 ネームバリューに目がくらんで、サア読むぞと構えて本を開いたら拍子抜けした……という体験は、遠藤周作の本を初めて読んだ時にもありました。というか、その時のことを思い出しました。そのあたりのことは今から10年前の記事にまとめてあります。

 狐狸庵先生! - 2013年11月3日

 それから9年も経ってようやく『沈黙』を読み、ようやく「純文学作家・遠藤周作」の作品に触れたというのですから、きっと内田百聞も純文学の世界ではまた違った雰囲気があるのでしょう。まあこれはこれで十分に面白がったので、いずれ小説の方も読んでみたいと思います。5年後になるか10年後になるか、はたまたその機会は永久に失われることになるのか、それはわかりませんが。

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佐々木美術館&人形館で体験したことを書いたら1万字を軽く超える分量になってしまいました(1日がかりで思い切り書きまくり、ある程度区切りながら公開しています)。書く方はいったん書いてしまえばそれでいいんですが、映画も言語も短縮短縮でタイパなんて言葉が横行する世の中にあって誰が読むんだろう。まあ確かにそんな気はします。
 ただ、私自身がきちんと感じたことを正確に遺すための文章ですからね。直感的に発言して直感的にいいねをもらうのも楽しいんですが、そんなのを繰り返していたら心も体も疲れちゃいます。それに、ひとつのことに対して深く深く深く潜れ八犬伝2001とばかりにこだわってしまうので、そんなに次々食べられないんです。
 ま、自分としては大事なことをちゃんと書ききれたかな、とは思います。ペロンミさんの個展のこととか、まだまだ書きたいことはたくさんありますが、みひろさんの個展みたいに2回目で大きな爆発が起こり一気に書きつけるようなことがあるかもしれないし。今はとりあえず、心の中で準備をするにとどめておくことにしましょう。
 今日は軽めの話をしたいと思います。軽めの話というか、日常的な話。

  *

 どうやら私という人間はいよいよ本そのものが好きになってきたみたいで、図書館で本を借りて帰ってくる時、妙に心がときめいてしまうのですね。これまでに読んだ本は98冊。別に1年100冊という数字的な目標を決めているわけではないし私は松岡正剛ではないので100冊だろうと1000冊だろうと何でもいいんですが、結果的にそうなりました。そうなると「100冊目に読む本は……」とか、「今年最後に読む本は……」とかって意識もしてしまいます。
 読むペースなんかもあるので、今年最後に読む本が何になるかはわかりませんが、とりあえず99冊目に読む本は内田百閒の『第二阿房列車』とすることにしました。
 内田百閒。こちらも今まで読んだことのない作家です。名前はもちろん知っていますが、現代文の時間に「国語便覧」でチラッとプロフィールを知り、黒澤明の遺作がこの人の映画だったなとWikipediaで見て知った……その程度の知識です。大体今こうして記事を書いている時百「閒」という文字を「聞」と見間違え、内田百聞内田百聞と書いていました。「百聞は一見にしかず」という言葉に引きずられた……という言い訳はありますが、人の名前を間違えるとはとんでもない奴です。六代目松鶴師匠じゃなくても激怒すること必至です(笑福亭鶴光 - Wikipedia)。
 その程度の知識しかないのに何で急に読もうというのか。ははあ、こないだ同じ漱石門下の寺田寅彦の随筆を読んだから今度は内田百閒を読もうって肚だな……ええ、それは確かにあります。あとは、最近再開したmixiで仲良くして頂いている方がおすすめしていた本だからです。その記事を読むと、なんだかとても面白そうだったので、素直に読みたいなと。このところ結構重たい本ばかり読んで重たいことを書いていたし。本来矢川澄子さんの随筆はもっと軽い気持ちで読むべきものなのかもしれませんが。

 ちなみに私が借りてきたのは、現在もっとも手に入りやすい新字新仮名遣いの新潮文庫版ではなく(それは他の人に借りられていた)、1979年初版の『旺文社文庫』というものに収録された旧字旧仮名遣いのオリジナル版です。好むと好まざるとにかかわらず「これしかないから」という理由で借りてきたのです。これまた仙台市泉図書館の閉架書庫に眠っていたものを無理やり引っ張り出してもらって借りてきました。仙台は市営図書館がいくつもあるので、検索すれば大概の本は見つかるのです。
 なんて、まだ読んでもいないのに、無駄に長い文章を書いてしまいましたね……。さあ、これから読んでいきます。そして100冊目に読む予定の本は再び矢川澄子さんの『兎とよばれた女』です。兎年を締めくくるのはやはりこれでしょう。まあ別に100冊読んだらコレデオシマイというわけではないのですが。いっしょに借りて来たボルヘスとか読む予定ですし。
 
   *

 仙台は冬の最大イベント『SENDAI光のページェント』も開幕し、いよいよ年の瀬感が強くなってきました。同時にインフルエンザの流行も強くなってきました。私の職場でも次々と罹患者が出て大変です。皆様もお体には気を付けてください。それではまた。

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 「本書は、昨年5月29日に自死した矢川澄子の既刊単行本および『矢川澄子作品集成』(1998年、書肆山田)、『ユリイカ臨時増刊号 矢川澄子・不滅の少女』(2002年、青土社)に未収録のエッセイを対象として、彼女の71年にわたる試行を跡付けることを念願して編集したものである。」(郡淳一郎・編集付記)

先日、ユイスマンス『大伽藍』とユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』という、駆け出し文芸オタクの私にとってはなかなかの大物を読了し、図書館に返しに行った後……ずっと前から読みたいと思っていたエンマ・ユングの『内なる異性』を書庫から引っ張り出してもらっている間に開架エリアの本棚で見つけたものです。

 今年の4月にちくま文庫の『矢川澄子ベストエッセイ 妹たちへ』でざっくりと読み、そのあと『おにいちゃん 回想の澁澤龍彦』『ユリイカ臨時増刊 矢川澄子 不滅の少女』と来て、この『いづくへか』と至ります。その時にも一度、私なりの矢川澄子さん(の文章を読んで得たイメージ)をスケッチしたことがあります。下記リンクから開けます。
心象スケッチ・矢川澄子さんについて。 2023年11月11日
 さらにその前には森茉莉さんのこと書くとき、矢川澄子さんの文章を引き合いに出して「女性らしい文章の極地点」というふうに表現したこともありました。そして今回、読了後に書いたメモを読み返すと、
 「聖性」
 という言葉を使って感想を書いていました。これは先ほど書いたちくま文庫のエッセイ集を編纂した早川茉莉さんも感じておられたようなので、あながち私のばか妄想を入れ置きし鉄鉢袋から湧いて出たトンチンカンというわけではありますまい。

 やたら前置きが長くなってしまいましたが、そんなときめく気持ちと、その後に知ってしまった事実……2002年に自死という形でこの世をいきなり去ってしまったこと……をどうにかバランスさせながら読みました。
 そして……

……矢川澄子さんに対する妄執というか、自分でもコントロールできないような感情も、ようやく薄らいだ気がする。相変わらず矢川澄子さんの文章は精緻で透き通っている。でも、私が生きていた80年代や90年代を語る時の矢川澄子さんの文章は、どうしても受け入れられなかった。それは仕方がない。その時代には私の現実があるんだ。私にだって、私なりに素晴らしい80年代と90年代がある。それをアレコレ言われても素直に賛同できない。それは、私の権利だ。私という独立した人生を歩んできた私が持っている当然の権利だ。(12月4日 私のプライベート日記より)

 ……今回の文章の引用もとは私の日記なので、丸ごと私の感想です。批評とかではなく、感想。私は感情家なので、巧拙というよりも快不快を書きます。とりあえず「どう感じたか」をいったん書き出し、その上でゆっくり考えます。なので今回もそういう文章を――ほとんどそのままの形で公開することにします。多分これが、「カチャカチャかちゃかちゃ、狐憑きみたいな目をしてくいいるように画面をみつめて」ファミコンに夢中になり、矢川さんが自死した2002年頃は立派な「パソコン狂い」になってしまった1981年生まれの私の感情をもっとも正確に表した言葉だと思うので。
 ただし、日記のなかにも書いているように、今なお矢川澄子さんの文章は私にとって少しも魅力を減ずるものではありません。嫌いになるようなこともありません。むしろようやく無知を想像力で補う私の特性がねじ伏せられ、ようやく矢川澄子さんの文章をきちんと自分のものとして取り込める準備が整ったのかな、という気がします。この『いづくへか』だけでなく、他に読んだ色々な本や私自身の体験に基づくゆるやかな心の成長、軌道修正なんかも含めた複合的な要素によるものだとは思いますが。

  *

 私が幸せだったのは「澁澤龍彦夫人、だった人」以外のしがらみなく文章を読み、さらにちくま文庫のベストエッセイを読んで、それほど先入観なく矢川澄子さんを好きになれたことです。純な気持ちで矢川さんの文章を吸収した私たちの世代の人たちというのは、とても幸せなのだと思います。2023年に40代で読んだ私と、当時読んでいた人たちとの間では違った感情があるとは思いますが、それで良いと思います。
 これは私の基本理念なんですが、好き嫌いと巧拙は別な問題です。批評家とか研究家といった人たちから見れば巧拙の判断もあるでしょうが、それとは別に感情として好き嫌いで受け入れたり拒絶したりするのも良いでしょう。どんな人にもその人なりのパーソナルがあるのだし、その人だけの大好きがあるのですから。大切なのは、自分が好きじゃなくても他の誰かにとっては大好きでたまらないのだから、その点をわきまえることだと思います。
 もとより私は主観や感情を抜きにしてなにかを語ることはできないと思っております。そう考えると好き嫌いに平等公平というものはないのかもしれません。気に入らなければ読まなきゃいいというのは、実に明快な解決策であると思います。私たちは常に自分の大好きをかき集めて、心のなかを満たして生きる原動力にしているのですから。食べ物は好き嫌いせずバランス良く摂取するべきですが、趣味の世界は偏食上等です。好きなものをとことん突き詰めてこそファンというものです。
 その時代、その人なりの限界はあります。矢川澄子さんが澁澤龍彥さんと離婚した時、「矢川澄子もヒューマニズムに負けたか」と言った三島由紀夫さんは「それが彼の限界だった」と断罪されましたが、同様に矢川澄子さんの限界が先ほど書いたファミコン・パソコン世代に対する感想なのだと思います。そして今、40代の私は動画投稿で盛り上がる世の中に対して自分の限界を感じています。限界値の高い低いはありますが、それを認めることも必要であると思います。だって三島さんでさえ、そんな風に言われちゃうんだから、仕方がないですよ。

   *

 『いづくへか』の話に戻ります。だいぶん話が長くなったのでそろそろまとめます。
 これは1966年年に矢川澄子さんが翻訳したルネ・ホッケ『迷宮としての世界』に三島由紀夫さんが寄せた推薦文にからめて現代(といっても1986年のことですが)の世の中について触れた文章です。すでに少年少女の自殺が流行しそれを「救えなかった」と嘆く大人たちに対して……すみません、この辺のことに関しては私自身のパーソナルな部分も重なって、あまり話したくないので、とっとと引用文を持ってきます……自殺ということについて私自身、まだ冷静に語れるほど人間ができていないので……

一九六六年、三島由紀夫さんがこのように書いてくださった当時、人類はまだ月に上陸してもいなかった。世紀末という表現もまだここでは使われていない。しかしその「二十世紀後半」もこうしてここまで押しつまってみると、彼の予見の確かさが一層はっきりするような気がする。……
 それにしても「水爆とエロティシズム」とは。前者が原発事故に見合うのは当然としても、後者がまさかエイズ、いじめ、自殺といったもっとも陰惨なエロスの次元にまでエスカレートしようとは、自殺者となった彼自身どこまで予測していただろうか。……
(矢川澄子『いづくへか』 115ページ「使者としての少女」より)


 改めて書きますが、これは1986年に書かれた文章です。原発事故というのは福島第一原発ではなくチェルノブイリのことです。エイズを新型コロナウイルスと置き換えることもできなくはないと思いますが、いじめとか自殺とかって問題は30年以上経った今でも解決できていないんですよ。それでも私は生きてきたんですよ。そしてこの時三島さんのことを自殺者と呼んだ矢川澄子さんまで自殺者になってしまって、それから20年も経ってしまって……。

 やはり私は幻想と神秘の世界に生きることにします。『さかしま』の世界を心の中に築いて、時々生きるための糧を得るために出てきてはまた引きこもります。私はそれでいいです。私はいつだって、自分の大好きに囲まれて生きていたいんです。メタバースでもアート&ブンゲイでも結構だと思います。私はそうして暮らします。そして感情家として、人の迷惑顧みず大好きな人に大好きと伝えて果てたいと思います。

   *

 なんだか色々なことを書いて、すさまじい内容になってしまいましたね。
 「こんなにメチャクチャにしてどう思ってんだよ!」
 「……手ごたえあり!」
 ハイ! ブパパブパパブパパ~!
 現場からは以上で~す!

 メイプル超合金が大好きなのでこれでオチとします。

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すてきなものは、遠くにしかないのでしょうか?
いえ、手の届く範囲に、すてきなひとはいて、すてきなものはあるはず。
宮城で活動する文芸作家が作品を発表し、集まる場がほしい。
「ないなら、つくろう」
それが〈ブックハンターセンダイ〉の始まりでした。
(公式HPより引用)



 宮城県仙台市は、文化的なイベントがたくさんあります。
 音楽イベントといえば『定禅寺ストリートジャズフェスティバル』
 美術イベントといえば『アンデパンダン展』(私も行きました!
 文芸イベントといえば……
 ……
 なかったんですよね。古本市は何度かやるけど、そうじゃなくてジャズフェスやアンパンみたいな、アマチュア文芸愛好家によるそういう人たちのためのイベントというのがなかったようで。そこでこうしたイベントを開いた……というのが開催趣旨です。会場は宮城野区五輪……楽天イーグルスのホームグラウンドの近くにあるギャラリーチフリグリさんです。
 
 チフリグリさんは、それこそ今年の秋に『アンデパンダン展』を見に行ったのが最初だったのですが……後日チフリグリさんの公式ブログを読んで2022年の冬にそういうイベントが開催されていたことを知り、「今年もやるのかしら」と虎視眈々(そんな感じではない)……イベントが開催されることを知り、1か月前から有休を申請して突撃してきた次第です。
 私も大学の頃は創作同人サークルに所属し、今年は20年ぶりに小説のようなものを発表するなど、これでなかなか文芸好きなのですが、そんな私のひそかに温めていた心がパーッと花開くような……そんなイベントでした。そしてアレコレ爆買いしたり、嬉しい再会があったり、非常に素敵な一日となりました。
 個々の作品についても改めて書きたいと思いますが、まずはイベント会場のレポートをしたいと思います。読んだり話したり空想したりするのに忙しくて会場の写真などは少なめですが、文芸イベントらしく、私も文章で色々と書いていきたいと思います。がんばります!


 最初にお邪魔したのは『インディーズブックバザール』。主催者による企画概要と作家紹介ページはこちらからどうぞ。ちゃんとした説明は主催者の方にお任せすることにして、ここからは予備知識ゼロでポンと飛び込んだ私の直感的な印象を並べていきたいと思います。

 ギャラリーのスペースでは6名の作家がお手製の本を陳列していました。すべての作品が試し読み可能だったので、私もひとつひとつ文章を読ませて頂きました。そして、
 「なんてアンデパンダンな世界なんだ……」
 と驚嘆しました。文芸のバーリトゥードです。突然空間にひずみが生まれ、そこから飛び出してきた何者かに頭をボカン! と引っ叩かれたような衝撃です。「そうか、こういうことをやってもいいんだ」「やっている世界があるんだ」と、また私の心を覆っていた壁が破壊されました。自由と独立の精神が、新たな栄養を受けていっそう成長しそうです。
 一通り眺めた後、しっかりと自分の心とのシンクロ率を確認し、「これで行こう」と思った数冊を次々と購入。一作家ごとに一会計となるので、そのたびに言葉を交わし、作者の方から直接本を受け取る感覚というのは、何とも愛おしいものです。どうやら私というのはよくよくアナログハートな人間みたいです。こういった形でお迎えした本ですから、一冊一冊がとても愛おしく感じられてしまうのです。
 いつか私も、こういう形で自分の書いたものを本にしたい。そしてそれを誰かのもとへ送り届けたい。……20年前に志し、頓挫してほったらかしになっていた夢が再び息を吹き返しました。埃まみれで錆びだらけでも、まだ朽ち果ててはいなかったみたいです。まだまだ生きていたい……そんな風に思いました。最近はアートに心を救われる機会が何度もありましたが、今日は文芸に心を救われました。良かった……。



 一通り、作家さんとの直接対決(違)が終わって心を落ち着けるために壁に目をやると、このようなものがありました。こちらはうってかわってデジタル的な世界ですが、これはこれで面白いですね。文芸方面に心が開かれた直後だったので、とりあえず全部の書誌情報カードを写真に撮ってきました。調べて読んでみて波長が合うかどうか。そのすべてを確認するためには大変な時間がかかります。見て覚えようったって覚えられるはずがありません。これから時間をかけて、ゆっくり確かめていきたいと思います。
 文芸は、やっぱりイラストとは違って、難しいですよね。パッと見て「あ、可愛い」「綺麗だなあ」と直感的に理解することができないから。じっくり時間をかけて、縫い目を確かめながら袖を通すように味わわなければいけないから。……でも、そうして時間をかけて向き合うからこそ、ずっと心に刻まれるのも、文芸ならではの魅力だと思います。それに、感情を細かく細かく伝えられるのもやはり文章ならではだと思うし。伝えたいことのすべてを伝えようとすれば、やはり筆力を高めるしかないと、今この記事を書きながら考えています。まあ、あんまりあれもこれもと盛り込んじゃうと食べ切れなくなっちゃうから、そこから推敲することは必要な作業ですが(それも含めて筆力というものでしょう)、ここは自由記述のブログなので書きたいことは全部書きます。書いた後で精査します。

 インディーズブックバザールの空間で思い切りバーリトゥードな空気を吸い込み、心がうんと伸びやかになったところで、今度は本部? に行きました。こちらは主催者側で制作した本や委託販売の本などを販売するスペースですね。例によってちゃんとした作品紹介は公式HP内を確認してください。ここからは、よりいっそう個人的な話になりますので。

 ここでも物語の内容やら装丁やら、すべてにおいて全然違った個性的な作品が多く並べられていて、大正ロマン物やファンタジー物など私の好物がいくつもありましたが、その中でも「オヤ!?」と思ったのが、「かくらこう」さんの作品『あたしはやさしい魔女だから』でした(作品紹介)。

 これ、実は一度、読んだことがあるんです。それこそアンデパンダン展の時に会場に展示されているのを読んで、「ヘェー」「これは、なんか、いいなあ」と。ひそかに心の中にしまい込んでいた人魚と、まさかこの場で再会することができるとは! と……。



 これはアンデパンダン展の時に読んだものです。物語の印象的な一節を写真に撮っていたのですが、まさかこうした形で再会できるとは……直感を信じて行動して良かったと思います。

 そして本部ブースでもアレコレと本を手に取り、同時に買ったトートバッグに入れてもらっている間、アンデパンダン展で初めて読んだことを話していると、
 「私が書いた本なんです」
 なんと私の目の前にいて袋詰めをしてくれている人が作者の「かくらこう」さんだということが発覚。嬉しすぎていぎなりハカハカしてしまいました。何というサプライズ! 何という僥倖! 私以外の人類には共感できないと思いますが、とにかく私にとってはすごく嬉しい出来事でした。物語や作品を読んで、その感動を一番伝えたい相手は誰かっていえば、実際にそれを創った人を置いて他にはないのです。そして私はそれを実現することができたのです。
 美術に関しては門眞妙さん、文芸に関しては「かくらこう」さん。さらに私のようなアングラ人間が世の中と関わる切っ掛けになったウラロジ仙台の恐山編集長をはじめ編集スタッフの方にご挨拶をさせて頂く機会もありました。皆様その節はありがとうございます。まったくもってガチガチでぎこちない話し方になってしまいましたが、すべてが大切な出会いでした。すっごく嬉しかったです!

 SNSをはじめとするデジタル的なものの進化は世界中の人たちとの交流を可能にしましたが、こうしてSNSに依らなくても、十分に心を通わせるチャンスはあるんです。もちろんデジタルな情報を得ることも必要だしデジタルなやり取りで出会い交流することも良いでしょう。私だってXは休止しているけれど来春復帰を目指してアカウントは残しているし、mixiとかは毎日更新しています。それによって新しいつながりもできました。デジタルを全く否定することはしません。
 YoutubeやらTikTokやらで動画を投稿し世界中の人から注目を集めるのも良いでしょう。何万いいねとか何億回再生とかっていうのも良いでしょう。私が大好きな蘭茶みすみさんのいるメタバースの世界は、人類を新たなステージへと導いてくれるでしょう。それによって生きづらさが解消され誰もが『在りたい私』を実現できるのなら、そういう世界になるべきだと思います。
 ……それでも! それでもです!
 私はアナログハートを捨てられないのです! 全てが数値化された断続的な世界よりも、紙とインクによってつづられた連続的な世界が大好きなんです! 私もADHDでASDで生きづらさも感じてはいますが、やはりこの肉体をもって認知する物理世界というか――より的確に言えば、この仙台という街が大好きなんです!
 世界中でデジタル化が急激に進めば、私のような旧い人間はいずれ淘汰されるでしょう。それに、こんなアナログ礼賛な記事を書いてしまったから……私の大好きなみすみんサンも、私のことを見限ってしまうかもしれませんが……私だって、もう後戻りはできません。みすみんサンのことを知って以来、私の『在りたい私』って何なんだろう? ってずっと考えていて、ようやく浮かび上がった輪郭線がこれだから仕方ありません。
 自由と独立の精神! アート・ブンゲイ・アナログハート! 在りたい私は私が決める! 価値があるとかないとかは私が決めるの!
 


 スミマセン、早朝から一生懸命書いていたらプリキュアが始まっちゃって、それを見ながら書いていたので今朝見た話の影響が最後の方で噴出しちゃいました……来春、本格的に復帰したらちゃんと書き直しますが、これはこれでいいでしょう。漫画が雑誌連載版と単行本収録版で変わるようなものですからね。リアルタイムならではの文章ということでご了承ください。

 はい、まじめな話に戻ります。ここ編集点です。

 ……入り口でこのようなスタンプラリーの台紙をもらい、規定数を余裕でクリアしたので記念品を頂きました。少しずつ缶バッヂのコレクションが増えてきました。そしてスタンプラリーの台紙はそのまま、作家さんと交流をした証拠にもなります。これも含めて大切にしたいと思います。

 繰り返しになりますが、これからの私のテーマは「アート・ブンゲイ・アナログハート」です。これを目指して、今後もよりいっそう仙台で開催されるイベントに参加し、体験を通じて心を育てていきたいと思います。以上、文芸オタクの文芸イベントレポでした。

 さ、朝ごはん食べよう。もうこんな時間だ。まじっすか!
 (中丸くんは結構前から好きなんです)

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『ハドリアヌス帝の回想』を読みました。

 この前に読んだユイスマンスもそうなんですが、ユルスナールというひとも澁澤龍彥さんの本で知りました。また、多田智満子さんの翻訳もアルトーの『ヘリオガバルス』で一度読んでいて……これがたまたま仙台市図書館にあるのを見つけて、勇んで借りてきた次第です。

 

 しかしながらユイスマンスの『大伽藍』に続けて結構な密度の本だったので、読むのに結構時間がかかってしまいました。正確に言うと読まない日が何日かありました。おかげで貸出期間を延長して、ようやく読み終えた次第です。

 その割にあんまりここでスラスラと語れるほど内容を理解したわけではありません。私は松岡正剛じゃないので。……でも、上手に語れなくても、色々と感じることがありました。これまで古代ローマのことなんて、遠い昔、世界史の授業で習ったきりでしたが(テルマエ・ロマエは見ていない)、その頃の雰囲気がありありと感じられて……とても良かったです。

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これだけ長い年月ブログをやっていればさすがに何度か名前が出てきていますが『ルイス・キャロル詩集』を読み直しました。前回ちゃんと取り組んだのは28歳の頃ですが、こないだ実家から持ってきて今は手元にあります。全く個人的な話ではありますが、この機会に思い出を定着させたいので、少し詳しく書きます。でも今日は思い出をつらつらと書き連ねるだけにします。
 
 この本を買ったのは1998年8月のことです。当時、高校総合文化祭の全国大会に参加するため鳥取県米子市にいた私。一通りの用事が済み、わずかな自由時間に米子市内のアーケード街を歩いていて見つけた古本屋さんの、本棚の一番上にあったのを背伸びして買いました。ちなみに同時に買ったのは「ときめきメモリアル」のプライズでした。私は美樹原さんが大好きです。

 背伸びっていうのはここで二重の意味があります。この当時は『不思議の国』も『鏡の国』も読んだことがなく、ただルイス・キャロルという人が書いた本だと言うことはを知っているけど……と、そんな程度の17歳がいきなり詩集を手にする。装丁も豪華だし、ラノベとかじゃなくてこういう本を読んでいる自分って格好いいよね。なんてファッション的な気持ちもありました。結構な背伸びでした。

 正直に言って、最初は「夢中になって読んだ」とか、そういうレベルではありませんでした。あまり消化が良くないものを食べた感じがします。とにかく食べ切ったけれど、おなかの中がゴロゴロするような感じ。……もっとも私なりに良さを感じ取り、何よりも「もっと本気で取り組んでみたい!」と英文科への進学を決意する――そして25年経ったいま読み直して、ようやくキャロルそして訳者の高橋康也さんの技巧と玩味に気づいたのですからね。本当に消化に時間がかかったのでしょうね。だから私にとっては大切な本です。

  *

 今回読み直してようやく気が付いた「技巧と玩味」とは、アクロスティックについてです。

 アクロスティックと言うのは、最近の卑俗な言葉で言うと「縦読み」というやつですね。英語の国の詩は横書きですが、その1文字目を拾っていくと別な意味合いが浮かび上がってくるという言葉遊びです。キャロルがそれぞれ愛すべき少女たちに送った詩には、ALICEだったりISAだったり……その相手の名前が隠されていたんですね。

 そして、その英語詩を日本語に翻訳した高橋康也さんの詩も、「あ」「り」「す」とアクロスティックになっていたことに、25年経ってようやく気づいたのです! 「今頃気がついたのか!」と高橋康也さんも泉下で苦笑しておられると思いますが、ええ、そうなんです。当時はとにかく文字を追いかけて、ちょっぴりだけ雰囲気を味わうのが精一杯で、およそ文学的なアレコレまで気が回らなかったのです。

 キャロルを勉強したくて英文科に入って、卒論も「アリス」で書きましたが、正直なところ当時の私は力不足で、なんともひどい文章を書いてしまったと思います。その時のことを思い出したくなくて、遠ざけていた部分もあるのですが……うん、いずれ自分のためにも、今の私が読んで感じた「アリス」論を書きたいと思います。矢川澄子さんが翻訳した版を読んだうえで、その点については改めて書きたいと思います。今日はこのへんで。

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先日初めて行った古書店で購入したのは、矢川澄子『おにいちゃん――回想の澁澤龍彦』という本でした。

 私がちゃんと矢川澄子さんの文章を読んだのは、別冊幻想文学の澁澤龍彦スペシャルに載っていた『≪神話≫の日々』というエッセーで、その透徹した文体に心を打たれ、ちくま文庫のベストエッセイ集を買いました(とりあえず新刊で一番手に入りやすそうな、しかもヴォリュームもあるものだったので)。今回は2冊目の、矢川澄子さんの本です。

 正直なところ何をどう書いていったらいいのか、好きすぎてピントが合わず書きあぐねているところですが、まあこれはブログですからね。別に何か書評を書けと言われているわけじゃないし。書いているうちにまとまるかもしれないので、とりあえず書き出してみます。

 *

 先述したように、私にとっての矢川澄子さんというのは、まず『澁澤龍彥』という幻像を通しての存在でした。あえて幻像としたのは、どうも澁澤さんという人には――たぶん、私みたいに後の時代になってから知った人ほど、そうだと思うのですが――何だか謎めいた暗黒文学者みたいなイメージを持っていたのですね。その割に最初に読んだのが『玩物草紙』という非常に穏やかなエッセイ集だったのですが、とにかく実体がつかめない、浮世離れした人だったのだろうなというイメージをずっと持っていました。10代の頃に読んだから、おのずとそういうイメージも膨らむでしょう。当然のことだと思います。

 その後、別冊幻想文学とかユリイカとかを読み、少しずつ幻像が実像に近づいていったのですが、その澁澤龍彥という実像の一番そばにいた矢川澄子さんの語る澁澤さんは、他のどんな人が語る澁澤龍彥像よりもクリアに現れていました。私がかってに膨らませていたイリュージョンはたちまち雲散霧消し、ようやくはっきりとした景色が見えたのです。矢川澄子さんの文章はいつも冷静で精緻を極めるといった印象なので(きっとご本人もそのように努めて書いておられたのでしょうが)、私も余計な感情や考えが混じることなく、最後まで夢中で読んでしまいました。

 そして私が本を閉じた後に、まず感情として思ったことは、

 「やはり私は生まれついての男性なのだ」

 ということでした。

 正直に申し上げると、生まれながらの肉体的には男性でありそのことを受け入れ男性として社会生活を送っている私の心の中にも「女性らしさ」はあります。最近は以前ほど男性らしさにこだわらず、自分の中にあるその女性らしさ(=アニマ)を大切にし、意識の水面に引っ張り出して共生しているところもあるのですが、やはりアニマはアニマなのです。矢川澄子さんの文章を読んでいると、生まれながらの女性が女性らしさ……もっと言えば『少女らしさ』を保持しつつ、その感覚と観察眼と筆力で表現した男性たち――特に澁澤龍彥、稲垣足穂、三島由紀夫の御三方――のヴィジョンを見ると、私の個人的無意識はそれら男性に感応し、矢川澄子さんの感覚に対しては「そうだったのか……」と気づかされる。

 ……うん、たぶん、そう言うことだと思います。これまで矢川澄子さんの文章を好んで読み、なおかつ読むたびに「そうだったのか……」と気づかされ、女性でなければ絶対に分からない領域のことを感情ではなく理性で受け止める。感情が伴わない純粋な理の世界だから、まるで不純物がすべて蒸発し純化した結晶を観察するように、矢川澄子さんの文章を読んでいたのだと思います。

 *

 『おにいちゃん』の内容について戻ります。

 副題にある通り、初出の時代はバラバラですが、収録されているエッセーはすべて澁澤龍彦さん関連の内容となっています。
 
 「人並みの幸せを追い求めるのはやめようね」

 それが澁澤さんの口癖だったみたいで、何度もこの言葉が出てきます。

 読んでいると、どうも「夫婦」という感じじゃないんですよね。『伴侶』とか『パートナー』とか、そういう言葉が似合う感じで。なぜかといえばお二人とも文学をよくする方ですから、澁澤さんが書いた作品を浄書したり装丁を考えたり資料集めのお手伝いをしたり……と、文字通りの共同作業によって、多くの『澁澤龍彦』名義の本が出版されたからです。

 結婚し、子どもを産み、家庭をもって……というごくありふれた夫婦生活を営む代わりに、『夢の宇宙誌』などの名著がたくさん世に送り出されたわけですから、確かにこれは「人並みの幸せ」ではありません。本を読んでいると胸が詰まる思いがありますが、それでもきっと、矢川澄子さんも澁澤龍彦さんもそう言うのを望んでいたのだし、それが実現できたのだろう……と思います。本を読んでの感想だから、それでいいでしょう。

 なお、この『夢の宇宙誌』というのは三島由紀夫さんもたいそうお気に入りだったみたいで、私もそれならといって電子版を読んだのですが、どうやら矢川澄子さんにとっても「最良の日々の最上の達成」と言うくらい特別な一冊だったみたいです。そうなると、ただ中身を読めればいいやというものではなく、私もまた当時の単行本を読んでみたくなりました。

 *

 まったくとりとめのない話ばかりで恐縮ですが、ひとまずこの辺で筆をおきましょう。これからユリイカの矢川澄子特集も読みます。そうすれば、更に見識が広がって、私が感じたこともより言葉に変換しやすくなるでしょうからね。

 本当に、素敵な本を読みました。これもまた、手元に置いておきたくなる本なのです。

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河北新報の夕刊に寺田寅彦の「科学者とあたま」という文章を引用して……というか、「寺田寅彦という人がこんなことを言っていた」という短い記事の枕詞になっていたのを読んで、青空文庫にある「科学者とあたま」という文章を読みました。エッセンスだけを検索して知った気になるのは危険だと思ったからです。それ以上に寺田寅彦さんは『帝都物語』にも出てきた人だし、すごく好きな人だったので、これを機会に文章を読んでみようと思ったのです。

 そうしたところ、この「科学者とあたま」という文章が大変に面白くて、もっと読みたい! と思ったために、榴岡図書館でちくま日本文学の文庫本を借りてきました。このシリーズはいいんですよね。稲垣足穂とか三島由紀夫とか、「とりあえずこの作家の雰囲気をつかんでみよう」という時にうってつけの本です。

 寺田寅彦という人は、まあとても有名なひとなので私なんかが何を言うかという話なんですが、これからそういう話をするので簡単に書きます。かの夏目漱石に英語を学び、東大で物理を学び、その後教授になります。一方で文筆を好み、この本に収録されているような多くの随筆を残した……というのが、本の表紙を開いたところにある略歴です。

 
 私の印象としては、とても怜悧でカッチリした文章だな、ということです。さすが物理学者だけあって、絵を描くにせよ草を刈るにせよ目に見えるものから入り科学的な感覚で輪郭線をとらえた後に細やかで温かい感情が添えられているので、読んでいてとても心地よいのです。

 「智に働けば角が立つ、情に棹差せば流される」とは師匠・夏目漱石の『草枕』ですが、何でもかんでも理屈で片づけられたのでは息苦しいし味気ないです。昨今は宇宙時代、コスパコスパに最近はタイパとかいう言葉も流行り、実利的な要素を短くまとめるのが美徳とされているようですが、土も草木も全部アスファルトで塗り固められた道路のようで気に入りません。だからといって私のように激濁流の感情的文章を押し付けられたら読みづらくて仕方がない。そこで寺田先生の美文に触れ、心に一陣の涼風が吹き抜けるような心地よさを感じたのでした。

 また心地よさだけでなく、100年後の令和21世紀を生きる私も共感し、安心する場面がありました。自分で書いた文章を読み返すと、他の人が見れば一目瞭然な誤字脱字にも気づきにくいものであるとか。

 特に「そうかな!」と感じたところについて思い切り引用します。



「一体に心の淋しい暗い人間は、人を恐れながら人を恋しがり、光を怖れながら光を慕う虫に似ている。自分の知った範囲内でも、人からは仙人のように思われる学者で思いがけない銀座の漫歩を楽しむ人が少なくないらしい。考えてみるとこの方が当たり前のような気がする。日常人事の交渉に草臥れ果てた人は、暇があったら、むしろ一刻でも人實を離れて、アルプスの尾根でも縦走するか、それとも山の湯に浸って少時の閑寂を味わいたくなるのが自然であろう。心が賑やかで一杯に充実している人には、せせこましくごみごみとした人いきれの銀座を歩くほど馬鹿らしくも不愉快なことはなく、広大な山川の風景を前に腹一杯の深呼吸をして自由に手足を伸ばしたくなるのが当り前である。」
(ちくま日本文学034 寺田寅彦 108ページ 4-13行 『銀座アルプス』より)


 わけても「人を恐れながら人を恋しがり」という一節に強い衝撃を受けました。それはここ1か月余り――あるいはずっと前から感じていたことだからです。何と矛盾した、おかしな性格なんだろう……とひどく悩んでいたのですが、

 「100年前から人類というのはこういうものなのだな」
 「だとすれば、そこまで悩むこともあるまい」

 ということで、直ちに雲散霧消……とはいかぬまでも、少なくとも暗闇から一歩を踏み出すことが出来そうな気がします。方向性が見えたというか。


 やはり何事も、興味を持ったら原典に当たるのが一番よろしい。パッパッと検索して解説している文章を読んで知った気になる……ましてやナニナニ知恵袋で聞いてすぐに答えを求めるようなことはなんという怠惰! なんという堕落! 先人の努力と経験によりようやく実を結んだ智慧の実を窃取する……なんてことは言いませんが、そんな人間はたとい知ったところですぐに忘れてしまうことでしょう。マタイ伝13章の「種まきのたとえ」で言えば、石だらけのところに蒔かれた種のようなものです。

 といっても原典が古文漢文英語ドイツ語フランス語ラテン語など著しく困難な場合もあろうかと思います。ただ『科学者とあたま』とか室生犀星とか太宰治とかは青空文庫で原典に当たることができるのだし。印象的な一節が一番いいのはわかりますが、その前後の文脈も含めて印象的な一節がいよいよ活きてくるのであって、名言ばかり詰め込んでも生悟りのインチキ坊主になるのがせいぜいでしょう。また躓いてしまうでしょう。もうそういう生き方はしたくありません。

 ……と言いつつ、きっとそういう生き方しかできないのであれば、これからもそうなるのでしょう。それは仕方のないことです。

 それでも! 少しでも抗い、ほんの1ミリでも良い方向に動けるのなら、その為の努力は惜しみません! 一時的な刺激に快感を覚え、それを忘れると次の快感を求めて這いまわる畜生のような私の生活が少しでも改善さることが期待できるなら……!

 というわけで、私はこれからもたくさん本を読みます。本も読むし美術にも触れるし疲れたら山川に出かけて自然に飛び込みます。そんな折々の場面で体験したことをできるだけ子細に感じ取り、それを認識して、文章にしてみます。それこそ感情家で認識者たる私ができる自己表現です。

 そうすることによって広く世間に自己表現をしている作家・芸術家の人たちに恩返しができるのなら、それが私が今この世に生を受けこんな拙文を書いている理由なのかな、という気がします。そして、私と同じような人がいるかもしれない……もしかしたらそんな人がこの文章を読んで、「そうだ!」「そうかな!」と膝を打ち、1ミリでも良い方向に動けるようになるかもしれない……そんな希望もあるので……。

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新しい古本屋というと、何とも矛盾に満ちた不可思議な言葉を弄しているように思われるかもしれないので、説明が必要だろう。新しいというのは「初めて見つけた」という程度の意味であって、いわゆる全国展開している大型店舗のことではない。以降の文章は、その前提のもとで読んでいただきたい。

 先日、街を歩いていて、新しい古本屋を見つけた。わくわくする心を抑えられず、すぐに入った。

 何か恋い焦がれるように探し求めている本があるかといえば、ないこともないが、それよりも単純に古本屋というものが好きなのである。

 入り口付近に乱雑に積まれた特価本。その奥に整然と並ぶ色褪せた古書群。しめしめ、これは良い店を見つけたぞと心の中でにやにやしながらも、そんなことを気取られぬよう慎重な面持ちで眺めてみる。そのうち「せっかくだから、何か一冊、これは!というものを見つけて買ってやろう」という気分になる。無論それは帳場の奥に胡坐をかき、腕組みをしてじろりと私のことを睨みつける達磨のような古本屋の店主から無言の圧力をかけられ「とりあえず一冊買って行こうか」と思ったからとか、そういうわけではない。あくまで私の趣味なのである。

 そう、私は本が好きで、また古本屋というものが好きなのである。そもそもこちらだって、いくら店の雰囲気が気に入ったからと言って、そこまで義理立てをしてやる必要もない。一種の宝探しのような気分で店内をうろつきまわるのである。

 そうしているうちに、暗澹たる私の心もいくらか晴れやかになった。もしここに檸檬のひとつも持っていれば、バタバタと洋書を積み上げた後にそれを置き悪漢の気分で立ち去るのだが! と、くだらない空想をしてみるくらい、心の余裕が出てきた。もちろん私はそんな梶井基次郎の『檸檬』は好きだしその気持ちにも大いに賛同するが梶井の足元にも及ばないような平地人であるので、ひたすら「巡り合えた一冊」を追い求めて店内を右往左往するのである。

 歴史、思想、心理学、医学、思想。いずれも良い本ばかりである。その中で私は一冊の本を見つけ、危うく声を上げそうになった。その一冊を手に取り、序盤の数頁を眺めてみる。その本の著者は私が大好きな人なので中身など見ずとも面白いに違いないと確信し、買う気ではいるのだが、やはり先立つものが心細い。勇んで帳場に持っていき、さあ代金を払おうかという時に金子が足りず泣きながら店を出て行ったとあっては、私は一生涯この界隈を歩くことが出来ぬほど打ちひしがれるであろう。そこで前もって値札を見ることを、貧乏くさいと笑わないでほしい。あくまで慎重に行動したと褒めていただきたいくらいである。

 果たしてその値札に書かれていた金額は、決して安いものではなかったが、本の価値を想像すると妥当な気がした。あくまで素人の私が考える価値であるから、まったく世の中のそれと照らし合わせて妥当かどうかは知らぬが、早い話が物を買うというのは自分自身の天秤によるものであって、私が「ちょっと高いけど、まあ仕方がない」と言って帳場に持っていくのならそれでいいのである。

 かくして私は一冊の本を買い求め、大切に鞄にしまって帰宅した。今は図書館で借りてきた京極夏彦の『遠野物語REMIX』などを読まねばならぬから順番的には後回しになるのだが、なにこれはおれがお金を出して身請けしたのだ。どこへもやらぬぞと心やすい気分になり夕食および晩酌(クラフトスパイスソーダ)を痛飲。令和の時代の平地人として今夜も戦慄すべく書を開くものなり。

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読み終えた今、物語全体を通して感じることは、

 「これは鎮魂の物語だったのだな」

 ということです。

 詳しい解説とか書評とかはできません。これは個人の感想です。ただ10年前にもやられ、今回また読み終えた強大な感想をまとめることは私の目下緊要なことであると確信しているのでまとめます。


 最初は私も奇門遁甲とか式神とか、そういう超自然的な魔術妖術を駆使する魔人加藤とそれに立ち向かう人たちとの闘いに心躍らせました。それは今回読んだ時も同じです。また、魔人加藤やそれ以外の人たちの陰謀と情念に翻弄され精神を病みようやく解放されたと思ったらまた現世に呼び戻されまた殺された辰宮由佳理ら薄幸の女性たちに同情し、涙を流しました。

 今回読み直すと、読む方もまた地力がついたのか、それとも2回目だからなのか、あらすじ以外の詳しい話もだいぶん頭に入ってきました。うすぼんやりとしていた世界がよりクリアに見えたのです(だからこうして文章を書きたくなって現在に至ります)。

 およそ100年にわたる戦い。時代が移り変わり、何度も破壊され、そのたびにおびただしい血が流れた――怨霊がうめき、悪鬼がはびこり、魔人が暗躍する地となった東京でしたが、どうやら最後には、それも収まったようです。二度目の大震災、さらに大津波によって破壊され尽くした東京はもはや人の住める地ではなくなり、巨大な墳墓、鎮魂の地となったのです。

 10年前は、この結末を、上手に受け止められませんでした。

 「今までの戦いは何だったんだろう。誰のための、何のための戦いだったんだろう」

 魔人加藤の正体は、あるものが地上に遣わした自分の化身でした。それはわかったのですが、そのために多くの人々が犠牲になったのだとすると……それがどうも自分のなかで消化しきれませんでした。それでも物語は終わってしまったのだから仕方がありません。とりあえず私も生きていくことにしました。戦いの結末を見届け、穏やかな心を取り戻して「破滅教」と呼ばれる新興宗教に入信した彼女のことを思い浮かべながら……。

 10年経って私もたくさん経験を積み、色々と思うようになったところでたどり着いたのが、先述した「鎮魂」ということでした。

 私も地上の亡者のごとく、他人に怨恨を抱き呪詛の言葉を投げかけたことはあります。人を憎み遠ざけたいと思ったことは何度もあります。特に2014年8月~2022年2月の間は、そういう気持ちが高まって高まって高まりまくっていっそ自分がしんじゃえばいいのかなって思ったこともありました。また最近は怨恨と言うよりは、自分自身の感情から発せられる不安要素にさいなまれ、ひどく心を乱していました。

 ああ、そうか。そういう私の心の波長が、物語の波長とぴったり合ったのかもしれませんね。きっと、そう――。

 霊力に敏感に反応する辰宮由佳理の心情に共鳴した私の心。
 数十年にもわたる邪恋を成就するべく、地下に時空を隔てる『境界』を無くすミニチュアの銀座を作り上げる鳴滝翁の心情に共鳴した私の心。
 すべてを受け入れ、穏やかにしてしまう辰宮恵子さんの菩薩のような優しさ(を感じた人たちの心情)に共鳴した私の心。
 
 優しさも激しさも、良い感情も悪い感情も、すべてをさらけ出し、その上で鎮める。

 そう、たぶん一度、表に出さないと、鎮められないのです。一度目覚めてしまったら、ある程度爆発させないと、鎮まらないのです。

 もちろん、これは認識者たる私の視点から見た感想です。物語の中の人物、そして物語を追いかけている――物語の世界に完全に入り込んでいる――間の私には、そんなことはわかりません。ただただ目の前で繰り広げられる出来事に歓び、嘆き、涙し、怒り、戦い、そして――すべてが終わってもまだ自分が生きていることを確認し、ぼんやりしてしまうのです。「完」という文字と、そのあとにある空白に意識が遠のき、のろのろと本を閉じて、今度は自分が現実と呼ぶ世界にある肉体に戻ってきたことを認識するのです。

 まったくもって、壮大な物語でした! ただし10年前と違って、私の精神世界に『帝都物語』の世界はしっかりと溶かし込まれ、ひとつのアマルガムとなりました。それはさらに私自身の経験によって醸成され、きっとまた読み直す時に――高級なウイスキーを詰め込んだ樽の封印が解かれるように、芳醇な香りをふわっと漂わせることでしょう。

 それまで、今しばらく閉じ込めておくことにします。桜の木に抱かれながら……。

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前回の記事はこちら

 最初にヒロインとして名前をあげたいのは、やはり辰宮由佳理です。藤原カムイ氏が描いたユカさんはとても可愛かったです。兄の辰宮洋一郎を「お兄さま!」と慕う快活な女学生だったのですが、強大な霊力を持つため加藤の手によって将門降霊の依代にされ、蟲術を仕込まれ、心を病んでしまいます。さらに物語が進むと幼少期の忌まわしい出来事や、ある意味蟲術よりも恐ろしい『邪恋』の果てに最愛の人に殺されそうになったり愛すべき子を殺しそうになったり……と、幸福そうな描写がほとんどないままこの世を去りました。それらの原因や結果すべてが、本人と関係ないところで起こり、ひたすらそれに呑み込まれていく……そんな女性です。

 次は、辰宮恵子さんですね。福島県の相馬俤神社の娘で、魔人加藤と渡り合えるくらいの強烈な霊力を持った人です。相馬俤神社は相馬市の氏神、つまり平将門を祀る神社で、神託によって将門の眠りを妨げる魔人加藤を討つべく辰宮家に嫁入りして戦いを挑みます。映画では原田美枝子さんが演じておられましたね。白装束に鉢巻を締め、白い神馬にまたがって悪鬼を踏み砕く姿は東洋のジャンヌ・ダルクか……というところですが、原作ではその後も何度となく登場します。加藤に立ち向かい、のちに結ばれ、別れた後は加藤やそれ以外の……破壊と混沌をもたらそうとする脅威に立ち向かい、最後の最後まで戦い抜いた女性でした。彼女にほれ込んだ人は「菩薩」だと言います。とても強くて、あらゆる人間を受け入れ癒してしまう優しさを持つ人でした。

 あとは、辰宮由佳理の娘『辰宮雪子』も中盤の重要なヒロインとして活躍……というのかな。強烈な霊能力はしっかりと母親から受け継いでいるので、本人の意思またはそれと関係ないところで力を発揮します(映画第2作『帝都大戦』に至っては、もはや荒俣さんの意志とも関係ないレベルで力を発揮していますが、あれはパラレルワールドみたいなものなので)。ただ、雪子嬢が人格ある女性として振る舞う時代は、その周りにいる人物の方が強力な異彩を放っているので、今一つ印象が薄いというのが正直な感想です。

 ここに続けて本来であれば昭和70年代の戦いにおけるヒロイン『鳴滝二美子』と『大沢美千代』について触れるべきなのでしょうが、昨晩ぶっ通しで『大東亜編』(愛蔵版の最終章)を読んだばかりなので、満州映画の女優『出島弘子』嬢について触れたいと思います。Wikipediaにも載ってないし!


(愛蔵版『帝都物語』第六番より)

 辰宮恵子さんを探し求めて大陸まで渡って来た黒田茂丸が見間違えるほど見目麗しい女優です。かつて、ある映画の主役を演じることが決まったものの国家総動員法によって幻となり、それ以来「二十七歳の誕生日に死ななければならなかった」と言いつつ大陸に渡って満州映画の端役女優として暮らしている出島嬢。そんなことを言いつつも、懇意にしている小さな女の子が病気で死にかけているところに出くわすと矢も楯もたまらず介抱したり、映画を満州最初の『文化』にしようとしているのなら、「女優だって!」と憤慨するなど、とても可愛らしいのです。

 ちなみに、何でこんなに出島嬢がプンプンしているのかと言うと、満州映画の理事長たる甘粕正彦(!)が、地底に巣食う化け物に襲われる映画を撮るための主役女優として声掛けしたことが原因です。映画といってもその化けものは作り物ではなく「青古」と呼ばれる本物で、それと黒田茂丸そして加藤保憲との戦いが、この『大東亜編』のクライマックスなのですが……。

 『帝都物語』の女性は色々と特殊能力がある人ばかりで、なかなか感情移入しづらい部分があるのですが、私は出島嬢が好きです。珍しく、何の特殊能力ももたない一般人だからです。それでも自分の宿命を精いっぱい生き、黒田茂丸らの助けを借りながら戦い抜いたからです。そういう一生懸命さが、物語を読み終えて数時間が経過した今になってじわじわと胸にあふれてきました。

 そして、このタイミングで先ほど置いといた現代篇の2人のヒロイン『鳴滝二美子』と『大沢美千代』の存在も大きくなってきました。養父で物語の初期から生き延びている鳴滝純一翁の狂気じみた実験(ただし、私はその実験によってつくられた世界をとても羨ましく思ってしまう!)に心を痛め、命がけで止めようとする二美子さん。とある人物が転生(昭和45年11月25日以降)し、辰宮恵子さんや団宗治さんのサポートを得て霊能力とコンピュータで魔人・式神と闘った美千代さん。……そうですね、徐々に……私自身の心も落ち着いてくれば、きっと、見えてくるものがあるのでしょう……。

 最近はどうも心が穏やかではありません。対面で話している時、緊張しすぎて声が震えるだけでなく、涙目になってすすり上げるような場面もありました。全く尋常の精神状態ではありません。そんな中で再読した『帝都物語』とは、私にとっての『帝都物語』とは何だったのか。そのあたりのことをまとめてみたいと思います。

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『帝都物語』全12篇、読了しました(10年ぶり2度目)。

 とても壮大で圧倒的な物語でした。具体的にこんな物語だったって総括するのがとても難しいのですが、そうしないと感情が収まらないので、可能な限り書きます。あらすじとかは他をあたってください。

  *

 1000年以上前の恨みを抱いて明治末期の帝都に降り立った魔人・加藤保憲は東京に眠る平将門の怨霊をよみがえらせ破滅をもたらそうとするので、その時代の人たちが対決を挑む……というのがおおよその流れですが、何せ加藤は魔人です。軍人なので剣術や基本的な身体能力も高いですが、東洋の魔術に精通しているので、十二神将をはじめとする式神を使役し、五芒星=ドーマンセーマンの染め抜かれた白手袋やハンカチなどを変化させて戦います。

 さらに物語の中盤では『屍解』という仙術を使い肉体が若返ります。そんなことできるの? と宇宙時代の皆様はお思いになると存じますが、そういう皆様に代わって問いかけた西洋人に加藤はこう言い放ちます。以下引用。

 「なぜ? なぜ、と問うのは西洋人の悪習だ。東洋の神秘に、理窟はない。原理はない。ただ現象だけが起こる。神秘とは、起こり得ざる現象がそれでもなお現実に発生することなのだ」
 ただ、いつの時代もそんな加藤に立ち向かい、時に手傷を負わせてひるませる人物がいます。たくさんいるのですが、私が特に印象に残っている人たちのことを羅列してみます。Wikipediaに書いていないようなことも書きます。だってここは自由な狂人解放治療場ですから!

 幸田成行(露伴):膨大な知識と熱い気迫で立ち向かう文豪剣士。実際に手傷を負わせて(しかも2回)一時退却させたり、関連人物の心の支えになったりと、前半部分の重要人物。

 寺田寅彦:物理学者として科学的な立場から加藤に立ち向かう。大阪から西村真琴博士を呼び出し「学天則」で地底の妖魔に立ち向かうシーンが印象的でした。

 黒田茂丸:風水師として、加藤に直接対決を挑んだ辰宮恵子さんのサポートを買って出た(映画第一作のクライマックス)。いったん完結した後に出版された「大東亜編」では主役級の扱いに。

 平岡公威:大蔵省の官吏だったが、物語中盤のヒロインと霊的な関わり合いを持ち、黄泉に下って将門の怨霊と対峙した。愛刀は関孫六。

 角川春樹:新興宗教の大宮司として加藤と切り結ぶ。超古代の宝剣の力によって関孫六を刃こぼれさせたため勝負はつかなかった。宝剣の力によって……ね。

 団宗治:コンピュータ時代の幸田先生。降霊プログラムや式神封じプログラムなどを使って十二神将を全滅させた。魔術と文学に埋もれて暮らしたい人らしい。


 ……と、こんな感じでしょうか。

 とりあえず原稿用紙3、4枚程度の文章を書いたので、いったん区切りとします。今回思いついた人物をあげたら不思議と男性ばかりだったので、今度は印象的な女性たちについてまとめてみたいと思います。

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