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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
甍平四郎という作家は毎日原稿を三枚書くことを日課としていた……ということを牟礼魔利という人の文章で読み、甍平四郎というひとの文章は読んだことがないけど私もこのブログを毎日書くことを日課にしようと思って今日も書きます。

 無論、牟礼魔利というひとはこの甍平四郎という作家のことをとても尊敬していて、しばしばエッセーの中に名前が出てくるくらいですから、とても立派な作家なのだと思います。私がこうしてあることないことをひねり出して何とか形にするのとはワケが違うと思うのですが、そういうのも素人の手すさびとして、甍平四郎も無視してくれるでしょう。牟礼魔利という人は自分が住んでいるアパートの人たちや銭湯に来る人たちや世の中の色々なことに怒っているような人なので、もし私がこんなことを言っているのを読んだら「素人が莫迦なことを言っている」と怒っちゃうかもしれませんが。まあ、お二方とも既にこの世の人ではないので、泉下で笑ってくれればいいなあと思うのですが。

 なんて少々硬直した書き出しですが、一時期は、毎日書いていました。まだTwitterとかやっていなかった(存在しなかった)頃です。そのあとどうして開店休業に近い状態が何年も続いたのか。転職してホテルで働くようになってからは朝6時出勤夜12時退社みたいな勤務体系になり、決まった時間にPCに向かうことができなくなったからです。また、実生活の方での付き合いが多くなり、ひとりで自分の心と向き合う時間が少なくなったからです。

 やがて心が本当に危うくなって心療内科に駆け込み、発達障がいと診断され、毎日飲んでいたお酒に加えて薬も加わり……あまり思い出したくないような日々が何年も続きました。わずかに更新していた当時の記事があるので、今更ここで繰り返すこともありますまい。

 そのあとTwitter上でのお付き合いが増え、すぐに反応があるのが楽しくて、いよいよブログの方はフェードアウトか……と思っていたのですが、再びこうして書いています。今じゃ「誰も読んでいないだろう」という気安さが、自分の心を解放してくれる場所として最良の条件となりました。誰も読んでくれなくてもいいけど、誰でも読める場所で文章を書く。それがいいんです。大切なのは「受信者」「認識者」としての私のセンサーを曇らせないようにすることですから。

 もう、私の意見を世の中に訴えてわかってもらおうとか、そんなことを言うべきではないのかもしれません。そういうのは、しかるべき人に任せておいて、私はしかるべき人の言葉を受けて行動することに徹した方がいいのかもしれません。半年くらいTwitterやっていて(途中で名称がXになりましたが)、そんな風に思いました。どれほど頑張っても私には無理だ! っていうところまで行っちゃったんです。もう飛び降りようかな、って。そう思うくらい。

 でも、私にはこの場所が残っていました。シェルターみたいなもんです。

 完全非公開、ローカルファイルに保存している日記も毎日つけているのですが、こうしてオープンな場所に自分の気持ちを書いておけば、もし私が本当にしんじゃったとしても……そのあと「ああ、こういうふうに考えていたんだなあ」ということが残り続けると思うので、とにかく何でもいいから書きつけてやろう! と思ってバリバリ書きました。

 そうして書いているうちに、また普通の文章が書けるようになってきました。これは良い兆しだと思います。

 読んで感じるだけでも、やはり一定のカリテは必要です。ちゃんと教養がないと理解できないですからね。また、そうやって教養をつけると自分でも何か書いてみたくなる……これも自然の法則でしょう。文章を真似してみたくなる。それでもいいかもしれません。元より私は読んだ本に影響されてパスティシュめいたことをするのが14歳中二の頃から趣味でしたから。

 その中でも牟礼魔利という人が書いたエッセーは、これまで読んで来た色んな文章の中でも一等noblesseな、一言で言えば「美文」だなと思うのです。美しい、という言葉がこれほどピタリと当てはまる文章はなかなかないだろう、と。それは読み終えてから日にちが経つにつれ、じわりじわりと実感しているところであります。いや、牟礼魔利というのは文章の中の一人称だから、それを書いているのは森茉莉さんですよね。はい、そうです。森茉莉さんです。そして甍平四郎こと室生犀星の文章は、ようやく『芥川の原稿』というのを読みました。これが私の初体験です。これで大体2000文字くらいですから、なるほど、一呼吸で書くにしても読むにしても、このくらいだとちょうどいいのかもしれませんね。

 なんて書いていたら、この無意味なようにも見える文章も2000文字くらいになりましたので、そろそろ区切りといたしましょう。意味があるとかないとか、どうでもいいよそんなこと、です。大体にして私は忘れん坊で自分の心のことでさえ自分でわからなくなってしまうような障害を抱えた人間なので、こうして書くことで心を作り上げているんです。そして私が陋巷に窮死、横死、変死? することがあったとしても、遺志が伝わるように書いているんです。いつ何があるかわからない、どうなるかわからないから、やれるうちにやっておこう。……

 ただ、今の私は幸せです。仕事も何とかなってるし、仙台と言う街も私にとっては最高に好きな場所です。それに私は「大好きな人には生きていてほしい!」と心から願う人間なので、私が先に(もうしにたいという理由で自分の行為により)しんじゃったら、これほど不誠実なことはありません。土方歳三さん大好きっ子としては、それは決して曲げられない……実際には何度か折れ曲がりそうになりましたが、それでもギリギリのところで守って来た柱です。「至誠」の二文字を心の中の旗に染め抜いて、再び相まみえる日まで、生き延びていきたいと思います。



 それでも、荷風散人も森茉莉さんも、ひとりきりで自分の部屋でこと切れになりました。そんな暗い影がいつも心の中にまとわりついているのも事実です。だから、何らかの理由でこのブログを書き続けられなくなったとしても、気持ちは遺るように……そんな思いを込めて今日の記事を締めくくります。

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