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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。


 「本書は、昨年5月29日に自死した矢川澄子の既刊単行本および『矢川澄子作品集成』(1998年、書肆山田)、『ユリイカ臨時増刊号 矢川澄子・不滅の少女』(2002年、青土社)に未収録のエッセイを対象として、彼女の71年にわたる試行を跡付けることを念願して編集したものである。」(郡淳一郎・編集付記)

先日、ユイスマンス『大伽藍』とユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』という、駆け出し文芸オタクの私にとってはなかなかの大物を読了し、図書館に返しに行った後……ずっと前から読みたいと思っていたエンマ・ユングの『内なる異性』を書庫から引っ張り出してもらっている間に開架エリアの本棚で見つけたものです。

 今年の4月にちくま文庫の『矢川澄子ベストエッセイ 妹たちへ』でざっくりと読み、そのあと『おにいちゃん 回想の澁澤龍彦』『ユリイカ臨時増刊 矢川澄子 不滅の少女』と来て、この『いづくへか』と至ります。その時にも一度、私なりの矢川澄子さん(の文章を読んで得たイメージ)をスケッチしたことがあります。下記リンクから開けます。
心象スケッチ・矢川澄子さんについて。 2023年11月11日
 さらにその前には森茉莉さんのこと書くとき、矢川澄子さんの文章を引き合いに出して「女性らしい文章の極地点」というふうに表現したこともありました。そして今回、読了後に書いたメモを読み返すと、
 「聖性」
 という言葉を使って感想を書いていました。これは先ほど書いたちくま文庫のエッセイ集を編纂した早川茉莉さんも感じておられたようなので、あながち私のばか妄想を入れ置きし鉄鉢袋から湧いて出たトンチンカンというわけではありますまい。

 やたら前置きが長くなってしまいましたが、そんなときめく気持ちと、その後に知ってしまった事実……2002年に自死という形でこの世をいきなり去ってしまったこと……をどうにかバランスさせながら読みました。
 そして……

……矢川澄子さんに対する妄執というか、自分でもコントロールできないような感情も、ようやく薄らいだ気がする。相変わらず矢川澄子さんの文章は精緻で透き通っている。でも、私が生きていた80年代や90年代を語る時の矢川澄子さんの文章は、どうしても受け入れられなかった。それは仕方がない。その時代には私の現実があるんだ。私にだって、私なりに素晴らしい80年代と90年代がある。それをアレコレ言われても素直に賛同できない。それは、私の権利だ。私という独立した人生を歩んできた私が持っている当然の権利だ。(12月4日 私のプライベート日記より)

 ……今回の文章の引用もとは私の日記なので、丸ごと私の感想です。批評とかではなく、感想。私は感情家なので、巧拙というよりも快不快を書きます。とりあえず「どう感じたか」をいったん書き出し、その上でゆっくり考えます。なので今回もそういう文章を――ほとんどそのままの形で公開することにします。多分これが、「カチャカチャかちゃかちゃ、狐憑きみたいな目をしてくいいるように画面をみつめて」ファミコンに夢中になり、矢川さんが自死した2002年頃は立派な「パソコン狂い」になってしまった1981年生まれの私の感情をもっとも正確に表した言葉だと思うので。
 ただし、日記のなかにも書いているように、今なお矢川澄子さんの文章は私にとって少しも魅力を減ずるものではありません。嫌いになるようなこともありません。むしろようやく無知を想像力で補う私の特性がねじ伏せられ、ようやく矢川澄子さんの文章をきちんと自分のものとして取り込める準備が整ったのかな、という気がします。この『いづくへか』だけでなく、他に読んだ色々な本や私自身の体験に基づくゆるやかな心の成長、軌道修正なんかも含めた複合的な要素によるものだとは思いますが。

  *

 私が幸せだったのは「澁澤龍彦夫人、だった人」以外のしがらみなく文章を読み、さらにちくま文庫のベストエッセイを読んで、それほど先入観なく矢川澄子さんを好きになれたことです。純な気持ちで矢川さんの文章を吸収した私たちの世代の人たちというのは、とても幸せなのだと思います。2023年に40代で読んだ私と、当時読んでいた人たちとの間では違った感情があるとは思いますが、それで良いと思います。
 これは私の基本理念なんですが、好き嫌いと巧拙は別な問題です。批評家とか研究家といった人たちから見れば巧拙の判断もあるでしょうが、それとは別に感情として好き嫌いで受け入れたり拒絶したりするのも良いでしょう。どんな人にもその人なりのパーソナルがあるのだし、その人だけの大好きがあるのですから。大切なのは、自分が好きじゃなくても他の誰かにとっては大好きでたまらないのだから、その点をわきまえることだと思います。
 もとより私は主観や感情を抜きにしてなにかを語ることはできないと思っております。そう考えると好き嫌いに平等公平というものはないのかもしれません。気に入らなければ読まなきゃいいというのは、実に明快な解決策であると思います。私たちは常に自分の大好きをかき集めて、心のなかを満たして生きる原動力にしているのですから。食べ物は好き嫌いせずバランス良く摂取するべきですが、趣味の世界は偏食上等です。好きなものをとことん突き詰めてこそファンというものです。
 その時代、その人なりの限界はあります。矢川澄子さんが澁澤龍彥さんと離婚した時、「矢川澄子もヒューマニズムに負けたか」と言った三島由紀夫さんは「それが彼の限界だった」と断罪されましたが、同様に矢川澄子さんの限界が先ほど書いたファミコン・パソコン世代に対する感想なのだと思います。そして今、40代の私は動画投稿で盛り上がる世の中に対して自分の限界を感じています。限界値の高い低いはありますが、それを認めることも必要であると思います。だって三島さんでさえ、そんな風に言われちゃうんだから、仕方がないですよ。

   *

 『いづくへか』の話に戻ります。だいぶん話が長くなったのでそろそろまとめます。
 これは1966年年に矢川澄子さんが翻訳したルネ・ホッケ『迷宮としての世界』に三島由紀夫さんが寄せた推薦文にからめて現代(といっても1986年のことですが)の世の中について触れた文章です。すでに少年少女の自殺が流行しそれを「救えなかった」と嘆く大人たちに対して……すみません、この辺のことに関しては私自身のパーソナルな部分も重なって、あまり話したくないので、とっとと引用文を持ってきます……自殺ということについて私自身、まだ冷静に語れるほど人間ができていないので……

一九六六年、三島由紀夫さんがこのように書いてくださった当時、人類はまだ月に上陸してもいなかった。世紀末という表現もまだここでは使われていない。しかしその「二十世紀後半」もこうしてここまで押しつまってみると、彼の予見の確かさが一層はっきりするような気がする。……
 それにしても「水爆とエロティシズム」とは。前者が原発事故に見合うのは当然としても、後者がまさかエイズ、いじめ、自殺といったもっとも陰惨なエロスの次元にまでエスカレートしようとは、自殺者となった彼自身どこまで予測していただろうか。……
(矢川澄子『いづくへか』 115ページ「使者としての少女」より)


 改めて書きますが、これは1986年に書かれた文章です。原発事故というのは福島第一原発ではなくチェルノブイリのことです。エイズを新型コロナウイルスと置き換えることもできなくはないと思いますが、いじめとか自殺とかって問題は30年以上経った今でも解決できていないんですよ。それでも私は生きてきたんですよ。そしてこの時三島さんのことを自殺者と呼んだ矢川澄子さんまで自殺者になってしまって、それから20年も経ってしまって……。

 やはり私は幻想と神秘の世界に生きることにします。『さかしま』の世界を心の中に築いて、時々生きるための糧を得るために出てきてはまた引きこもります。私はそれでいいです。私はいつだって、自分の大好きに囲まれて生きていたいんです。メタバースでもアート&ブンゲイでも結構だと思います。私はそうして暮らします。そして感情家として、人の迷惑顧みず大好きな人に大好きと伝えて果てたいと思います。

   *

 なんだか色々なことを書いて、すさまじい内容になってしまいましたね。
 「こんなにメチャクチャにしてどう思ってんだよ!」
 「……手ごたえあり!」
 ハイ! ブパパブパパブパパ~!
 現場からは以上で~す!

 メイプル超合金が大好きなのでこれでオチとします。

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