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こんばんは。

別にお酒を飲まなくても眠れます

「森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです(今日はビール・ワインを飲用済み)。


村山早紀先生の「その本の物語」を読んでいます。まだ上巻の半分ほどを読んだくらいですけどね。

これは物語の中の物語というか、我々と同じ世界にいる少女「南波」が親友に語って聞かせる「風の丘のルルー」という魔女の物語がどちらかというとメインなのかな、という感じです。ひとまず100ページほど読んだところでは、そちらが主な内容でした。

本当は十代の少年少女あるいはもう少し年少の…たとえば小学校高学年とか、それくらいの年齢の子が読むのが適切、なのかもしれません。少なくともあと1週間そこそこで35になろうかという野郎(ギリギリ既婚)が読むべきものではないと思います。

少女の難しい心象風景、魔女(御年110歳くらい:ただし魔女は歳をとるのが遅いので見た目は小学校高学年くらい)の心象風景。村山先生の描く、温かくも切ない心模様に私も感じるところがありますが、やはり30過ぎのオッサンゆえの気恥ずかしさ。お酒を飲んで酔っ払って、「まあまあ、いいじゃねえかそんなこと」と勢い任せに振り切ってしまいたくなる部分もあります。

この、「そぐわない雰囲気」がたまらなく好きです。と言ったら皆さま「はぁ?」と思うでしょう。ですが正直、率直な感想としては、そういう感じなんです。

いまだに十代の少年少女のようにちょっとした心の機微に敏感に感じられるセンスがあること。そして、それをどこか冷静に眺め、「いいことだ」と考えられる理性があること。

――要するに? あくまでも私の勝手な、自己満足的なことだとは思うんですが、大人と大人未満の若者と、両方の感動をひとつの頭の中で同時に共有できるのかなと。そういう気がするんです。いまだにティーンの感情を捨てきれていないというか。

あるいはずっと「隠し持っていた」のかもしれませんね。表向きはいち社会人、常識人として生きていくための方策を身に着け、それを実行に移していたものの、その中で隠し持っていたもの。すなわち感情。心に壁を作り、建前と本音を使い分けてきた35年間。



…いや、これ以上はよしましょう。話せば私の半生を振り返るような、とてもこの一日のブログに収まらないような回想録になってしまうので。

何が言いたいのか。一言で言えば「魔女上等」ってことです。たといルルーが魔女だろうと鬼女だろうと、心が優しくて、魔女ではない人々と仲良くなりたいというのなら、それを拒むことは何もないということです。そしてそれを、私はルルーではない魔女だったとしても、そうしたいなと思ったのです。

その本の物語の主人公であるルルーの心情は、私たち読み手は詳しく知ることができます。知っているから仲良くしてあげたいと思います。これは当然のことです(そうでなければ、本を読むことはしないでしょう)。問題は、私がそんなルルーの心情を知らず、普通の女の子だという認識しかなかったら? ということ。何の前触れもなく、それまで仲良くしていた子が「実は魔女だった」と分かった時、それを受け入れられるのか? ということ。

そんな時でも私は「受け入れたい」と思うのです。たとい私が受け入れた魔女が本当は悪魔の手先で、結局は取り込まれて非業の死を遂げるようなことになったとしても、後悔はしません。

「信じる心ってのは、人間、死ぬ間際でも持てるんだ」

昔、とある元暴力団会長(その後、児童養護施設経営者→タクシー運転手)が瀕死の重傷を負った時、そう言っていたから。私はその人の言葉がとても好きだから。
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これ、読んだのは2回目なんですよね。

実は最初、たぶん三笠文庫版の方だと思うんですが、それを東京に旅行した時上野駅の本屋で買ったんですよね。

読んで、温かい物語に感動して(村山先生の小説はいつもそうなんですが)。

それからしばらくして、今度は地元の本屋で「あっ、新作が出たんだ!」と思ってパッと買ったら、どうも既視感しかしない。よく調べてみると、どうやら私が読んだ第1作に加筆修正+番外編を加えた新装版だった、と。

決して嫌いな物語ではありませんが、やはり一度読んだ小説ですからね。おおよそのあらすじを知っているのに、もう一度読むのはね。…そう思って、途中までは読んだものの、しばらく放っておきました。


それから時が過ぎて。前回のエントリで書いたように「本を読め!」と自分で決めたので、だいぶん時間もたったし、そろそろ読んでみるか、と思い手に取りました。

何せ2016年現在、私はホテルでお客様をもてなす側に回っていますからね。その頃は想像だにしませんでしたが、そうなんです、時々忘れそうになりますが、私これでもホテルの従業員なんです(レストラン担当)。

今はあまり時間がないので簡単に感想をまとめて、後程改めて記事を書きたいと思いますが、不良ホテルマンの私に優しく――しかし重くのしかかる水守先生の言葉がありました。著作権法違反のそしりを受けることも覚悟で(そしりを受けたら即削除します)、引用させていただきます。


  『ホテルは、たくさんの人々の生きた時間を記憶し、そっと保存しておいてくれる場所なの
   かもしれないな、と思った。その建物の命ある限り、通り過ぎていった客たちの思い出も
   ともに抱いて、地上に存在し続ける場所なのかもしれない』


私がどうとかという話じゃありません。ホテルとはそういう場所なのです。だから、来てくれたお客さんにそう感じてもらえるような場所を作れるよう、私はもう少し頑張らなければいけないのかなと思いました。

これだから、本は面白い。新しい何かを気づかせてくれる。


こんばんは。

ふと、最近ずっと本を読んでなかった

「森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです


「本を読む暇がない」「読みたい本がない」様々ないいわけが思いつきます。

言い訳ですよね。

「本を読む暇がない」ご飯食べる時間と寝る時間を差し引いても、色々と余暇はあるはずです。「リングドリーム」をやるとかニュースサイトをつらつら眺めるとか、そんな時間があれば30ページくらい本を読めるはずです。暇はあるだろう。ハイ次!

「読みたい本がない」馬鹿野郎様! もうちょっとよく考えろ! 本当に読みたい本がないのか? そんなことはないだろう。ちょっと照れくさいとか今の自分には合わないとか、色々な壁を自分で作って避けてるけれど、かつての私は好き嫌いなく悪食といえるほど様々な本を読んだはず。

今でも、2013年のことは誇りに思っています。この年は2月にPCが故障したということも手伝いラノベから時代小説、あるいはユング心理学からエッセイ本まで、とにかくたくさん読みました。試しに数えたら100冊以上読んでいました。読もうと思えば読めるはずなんです。

なぜこんなことを急に書き出したのかというと、最近どうも心理的な余裕がない日々が続いているからです。心の余裕がない、すなわちネットばかり見て、頭が働かなくなってきたのです。

たとえば、昔私が学生だった頃のように、1日に15分くらいでいいから、毎日本を読む時間を確保する。1日のスケジュールの中に組み込み、それをずっと続けていく。そうすることでまた、本を読む習慣を付けていけばいいのかな。

今でも学生の諸君はやってるんですかね。登校して、朝礼の前に10分15分、1時限が始まるまでの間にみんなで読む。今にして思うと、あの時間、結構良かったような気がします。


さて、何を読もうかな。
こんばんは

サムライ・ハート・ウィル・ゴー・オン

「森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです(プラチナ)。


随分前に買った星亮一+遠藤由紀子『ラストサムライの群像』を読みました。

これはサムライと呼ばれた男たちが綺羅星のごとく輝き、その後超新星のごとく消えていった幕末時代の英傑たちを取り上げた本です。もちろん私は極・大好きな土方歳三さんが最初にフィーチャーされているので買いましたが、そのほかにも中村半次郎・スネル兄弟・乃木希典といった人たちも取り上げられています。乃木希典というと旅順攻略戦などの「乃木大将」のイメージであり、幕末の維新志士(長州)だということは、この本で初めて知りました。

そんなわけで、正直なところ土方さんと沖田君の項目を読んで以来しばらく続きをめくる気がせず(まあ、私生活で色々ありすぎて、ゆっくり本を読む余裕がなかった…というのが実情ですが)、随分と読了するのに時間がかかってしまいました。

とはいえ、やはり一通り目を通せば、それまで名前も知らない・あるいは良いイメージを持っていない人たちに関してもウムムとうならされたり、そうだったのか! と目を開かされたり。つくづく、幕末の時代というのは日本の歴史の中でも特異な、激動の時代であったと感じます。

以下、オムニバス形式で収録された本書の形にならい(?)私も断片的に感想を書きます。


・「唐芋半どん」中村半次郎

基本的に私は奥羽越列藩同盟側の人間(岩手県出身)なので薩長の人たちは…どんなに歴史上素晴らしい活躍をされたとはいっても…そのことを全く否定するわけではありませんが…素直に受け入れられない部分があります。この中村半次郎という人もそうでした。

何せ二つ名が「人斬り半次郎」ですからね。幕末四大人斬りとしてピックアップされていること、明治維新後に西郷隆盛をたきつけて西南戦争を引き起こさせた(というイメージ)など、超好戦的な人物だというイメージがあったんですが、どうもこの本によると、そうではなかったみたいですね。

元々貧乏な家の出身で、いつもサツマイモばかり食べていたため「唐芋武士」などとバカにされることもあった半どん。そういった生い立ちのためか人をいつくしみ、思いやる温かい心の持ち主であったと言います。もちろん人を斬ったことは事実であるものの、どうもその一度きりだったみたいで。そうなると、本当やむにやまれぬ理由で刀を抜いたのかな…と思ってしまいます。だから私もあえて「半どん」と薩摩風の愛称で呼ばせていただきます。西南戦争はある意味「半ちゃんのドンといってみよう」です。略して「半ドン!」(??)。

・「会津のロレンス」スネル兄弟

幕末の有名外国人と言えばやはり武器(死の)商人グラバーでしょうね。明治維新において旧幕府軍を圧倒する最新火器をガンガン輸入し、たぶん莫大な財産を築いた成功者。

スネル兄弟も同じように、会津藩に武器を提供した商人ではありますが、こちらは動機が違います。「戦争があれば武器が売れて、儲かるワイ」とそろばんをはじいたグラバーに対し(?)、スネル兄弟は会津そして奥羽越列藩同盟を思い、これを何とか助けようと商売人として以上の働きをしたのだと言います。

すなわちガトリング砲をはじめとする最新兵器の輸入、軍艦の購入手引き、兵隊の補充(傭兵をインドから雇って外人部隊を編成すればいいと進言した!?)などなど…二人は心から会津にほれ込み、これを救おうとしたわけです。そのことを著者は「アラビアのロレンスのようだ」と評しています。

ちなみにこの兄弟、羽織袴に大小を手挟みピストルをぶら下げて会津城下に居を構えていたのだと言います。まさに青い目のサムライ、異人侍です。本当に青い瞳かどうかは、白黒写真しか残っていないので不明ですが。

・会津人の見た「長州藩士・乃木」

この本の最後に取り上げられたのは会津藩の白虎隊出身で、東京帝国大学の総長にまで上り詰めた山川健次郎氏、そしてその山川氏が尊敬する五歳年上の長州藩士・乃木希典…要は乃木大将です。私は別に軍人として尊敬しているとか、そういうわけではないのですが、どうしても「乃木大将」と言わないと落ち着かないので、以降はそうさせていただきます。

乃木大将と言えば「旅順攻略戦」のイメージが強く、この本を読んで「えっ? 乃木大将は長州出身だったの!?」と気づいたぐらいなんですが、二人の間には特に会津長州の因縁はなかったようです。

そして山川氏は乃木大将が殉死された際、その死について、

「もちろん殉死という意味もあるだろうけど、本当は旅順攻略で死なせてしまった部下たちに心の中でした約束を果たすため、ということもあったのだろう」

と語っています。

旅順攻略戦についての乃木大将の采配に関しては、色々な見方があろうと思います。ここで詳しく語るのは控えますが(語るほどの見解を持っていないし)、難攻不落の要塞を目の前に総攻撃の指令を出すのは「死にに行け」と言っているようなものだ、と山川氏は考えます。ただし、「君らばかりは死なせん」今すぐというわけにはいかないが、いずれ私も後を追うから…という思いを胸にそういった指令を出したのだ、と亡き先輩の心中をおもんばかります。

それは自らのバックボーン――藩のために自刃した家老・萱野権兵衛や白虎隊の仲間たちのイメージと重なったのかもしれません。そう考えると、乃木大将のことをもう少しちゃんと理解しなければいけないな、と私も思いました。

それと同時に、これは一通り読み終えての感想なのですが、つくづく自分はサムライと呼ばれた人たちに強いあこがれを持っているのだな、と思います。今は生涯の伴侶を得た喜びに浮かれる一方、職場で色々と悩むことがあります。正直なところ、「もう、自分の力ではこれ以上、この仕事を続けられないんじゃないか」と泣きながら(?)思いつめることが、ここ数日、何度かありました。

でも、こうして歴史の激しい荒波にのまれ…いや、その荒波に真っ向から立ち向かい、逆方向に泳ぎ切ったりうまく波に乗ったりした男たちの話を読むと、あきらめるのはもう少し後にしようと思いました。だって、私ずっとそうして生きてきたから。誠心誠意。その想いがあったから、素敵なパートナーと巡り合うことができたんだし。

うん、こうして改めて書き出すことで、それを認識することができました。そういうわけで、今日はこの辺でお開きに…。



ちなみに、この本の共著者である遠藤由紀子さんは1979年生まれ…私の二つ年上です。いや、そのくらいしか離れていないんです。それなのに、こんなに切れ味鋭い文章でザクザクと斬り込んでくることに私は最後の最後(著者略歴を見た時)で衝撃を受けました。もう歴女とか、そんな甘っちょろい肩書じゃ足りませんよ。
こんばんは。

久しぶりに小説を一冊、通して読みました

「森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです。


今回は浅田次郎さんの自伝的小説「霞町物語」を読みました。

今から3年以上前にラジオ番組の朗読でちょっと聞いて、それから随分と時間が流れてしまいましたが、ようやっと原作を読み終えることができました(当時の記事はこちら)。

とりあえず感想を申し上げると、これは夢枕獏さんの小説を読んだ時と同じような心地よさがありますね。よそから来てうまく流行に溶け込んでいるのではなく、ナチュラルに故郷として「東京」という街の文化を身に着けている人じゃないと見えてこない景色や感覚が、肩の凝らない江戸言葉でずらずらと並べられているので、いわゆる爽快とか痛快とか、そういう読後感があるのです。

プラスして、「こち亀」よりも少しばかり古い東京の景色が感じられるのがいいですね。時代の移り変わりとともに失われる世界。そんな時期に多感な青春時代を送ったことが、ちょっとだけうらやましく感じられます。まあ、それは小説を読むことで仮想体験できるので、いいんですが。

主人公である「僕」が戦前から続く由緒ある写真館の息子ということで、やっぱりライカだペンタックスだという言葉がポンポン出るたびに心ときめくのですが、基本はやはり青春小説。仲間たちとの交流、それに女の子とのおつきあい。さらにちょっぴり切ないファンタジー? 的な要素もあります。上品ではないけれど下衆では無い「江戸っ子」のクールな流儀は私にはとてもまねできません。そういうのは仕方がないでしょうけどね。

浅田次郎さんの作品は「壬生義士伝」に続き2作目です。史実というか、事実を意地悪に突き詰めていくと「いやいや、それは違うだろう」という場所もないことはないのですが、「そんなもん、どうだっていいじゃねえか」と感情的に押し流してしまうような痛快な言い回しと物語の流れ。そういうところが好きですね。だから霞町物語、私は大好きです。


 *


なおカメラに関する痛烈な批判はすでにほかの方がされているので(参照)、私はそういったことについてクドクドと申し立てることはしませんが、少しだけ。

この作品で「僕」の祖父はライカを、父はペンタックスを使っている、とたびたび出てきます。ライカの方はどうやらバルナックライカのIII型らしいのですが(最後の作品「卒業写真」でそういう記載が出てくる)ペンタックスはペンタックスとしか出てきません。

…一応、私も調べてみたのですが、この時代にペンタックスと言えば…こないだ私が書いた通り普及機タイプしか出てきません。むろん素晴らしいカメラであることは言うまでもありませんが、ただ、いわゆるプロ的な人が使うカメラかというと「?」という気がするのですね。要するに「どこの家にもカメラがあるから、うちのような古臭い写真館はもう時代遅れなんだ」と主人公が嘆く、原因となったカメラ。大・ベストセラー機として売れまくったカメラ。

といって、「そんなのどうだっていいんだよバカ野郎」と浅田次郎さんが江戸弁でまくしたてるのなら、私はハイそうですかと引き下がる用意があります。実際、私自身、親子三代の人情物語にすっかり感動してしまったので、そういったカメラや写真に関する間違った記述が瑕疵になるとは言いませんが…一方でこういったカメラに関する描写が気に入ってこの物語を手に取り、なおかつ本当にペンタックスを所有するカメラ好きになってしまったことを踏まえると、違和感を感じるんですよね。
菊池幸見さんの小説『走れ、健次郎』を読みました。

本来IBC岩手放送のアナウンサーである菊池幸見さんですが、『泳げ、唐獅子牡丹』『翔けろ、唐獅子牡丹』などの小説もお書きになっています。この2タイトルは以前に私も読みましたが、とっても爽快で気持ちのいい物語です。

そういったことを知っていたので、新刊として八戸の本屋に平積みされているのを見て「おっ!」と買ってしまった私。ちなみに同時に買ったのが先日レビューを書いた『冬を待つ城』です。


いち地方都市に過ぎない盛岡市で突然開催された国際マラソン大会。先頭を走るのは各国のトップアスリートと、彼らを抑える日本のエース。ところがそんなトップ集団に、沿道を走りながらついていく一人の男がいた。果たして彼は一体何者なのか・・・!?


というのが、ある時は選手、ある時はそれを中継する実況アナウンサー、そしてある時はその中継をテレビで観戦する第三者・・・という風に、小気味よく視点を変えながら物語は進んでいきます。このあたりはヴァージニア・ウルフの得意とする『意識の流れ』の描写に通じるものがあります(?)。

最初から最後まで、常に空気が動いているような物語だった。――一言で表せば、そんな感じです。読んでいると、そこに風を感じられるような気がするのです。

あとは、私もまた岩手生まれの岩手育ち、三十数年来の岩手県人(今は津軽に出向中)だからというのもあるでしょうね。地形の説明とか風土・人柄の説明とかを読むと「ウン、ウン」と心から同意してしまうのです。これは他県、あるいは他地域の方にはない感情でしょうね。


そういった感情的なことを抜きにしても、先ほども申し上げたように、非常に爽快な文章です。果たしてこれが関東甲信越中部四国九州の書店で売っているのかどうかはわかりませんが、とりあえず名前だけでも覚えて帰ってください(ちょっと前のサンドウィッチマン風オチ)。
PCの不調はいきなりやってくるもの。大事なデータをハードディスクに保存しておいても、それが立ち上がらなければデータは永久に失われることになってしまいます。

私の旧ホームページ『FLATFEELING』も、2014年以降の更新データが失われてしまいました。それと同時に2013年、いつどんな本を読んだのかという記録もなくなってしまいました。

別にそんな目録を残しておかなくても、本の記憶を心の中にとどめておけばいい話なんですが、やはり100冊以上もあると「いつ、何を読んだんだっけ」というインデックスがないと整理がききません。記憶がゴチャゴチャになってしまいます。

まあ、ないものを悔いても仕方がありません。とりあえず覚えている限り、記憶をたどって定着させようと努力している今日このごろです。


昨晩ふと自室の本棚をパラパラと眺めてみると、失われていた記憶がいっせいに蘇って来ました。

『ダロウェイ夫人』『ユング心理学入門』『浜村渚の計算ノート』『期間限定の思想』『奇々怪界』『東北ずん子』……英文学の名作から現代ラノベへと推移するケイオス極まりない本棚で恐縮ですが、そうだったんですよね。『竜馬がゆく』から『魔女の宅急便』まで。好き嫌いは激しいですが、ノンジャンルで本を読みまくって、それで今の私の基本理念が出来上がっているのだから。

これからも私、本を読み続けます。やっぱり本を読むことで、自分を作ってきたっていう確認、できましたし。
勝海舟『氷川清話』を読みました。

勝海舟先生は何を隠そう小学生の頃から好きでした。坂本龍馬よりもずっと前から。

大好き大尊敬な偉人という位置づけは誰がなんと言おうが変わりません。ただ、好きの理由が小学生の頃に読んだ学習まんがによる、というのもちょっとあれなので、もっと大人向けの本を何か読もうと思ってみたものの……どうもピンとこない。確かに勝先生が言っていることは現代を生きる上でも役立つ話がたくさんありますが、だからといって現代用語を絡めながら解説されると興ざめです。

というわけで、「だったら本人の言葉をそのままダイレクトに受け止めればいいじゃねえか」とばかりに手に取ったのが、勝先生が各媒体(といっても、テレビもラジオもない時代ですが)で語った言葉を収録した『氷川清話』を読みました。


私が手に取った講談社学芸文庫版は、無学野郎たる私も寝っ転がって楽しみながら読める代物です。最初の編集者によるリライトの読みやすさは残しつつ、その編集者が勝手に削除したり追加したり(自分の意見を勝先生が語ったように仕立てたり、時の内閣を名指しで批判しているところを削除したり)といった部分を修正し、より原文に近い仕様にしたものです。

より本格的な学術研究をしたい方は全集版を読めばよろしい(文庫版が読みやすさを重視したのに対し、全集版は最初の編集者によるリライト箇所などを注釈で詳しく解説している)。私のようにお手軽に勝先生のべらんめえ口調を聞きたい方は、ぜひ読んでみてください。心の一冊です。
私は歴史小説が大好きです。

最近は山岡荘八先生の『徳川慶喜』を読みました。

その後NHK出版の、たぶん大河ドラマにあわせて発売されたムックだと思うんですが、徳川慶喜特集を読みました。

ムックの方の慶喜公は従来私がイメージしていた慶喜公(大政奉還後も日本のトップに居座ろうとした、そうかと思えば錦旗を前に戦意喪失して逃げ出した、後半生は趣味をエンジョイした)でした。

一方の山岡先生による慶喜公は勤王の志厚く、「この国の人間はナニナニ藩士である前に天皇の子なのだ」という思想を持っています。そのために内戦を極力回避しようとします。そして幕府自体もう政権を維持する力がないことをよく承知しており、ちゃんと日本をひとつにまとめられるような政府があるのなら、すべてを引き渡していいと考えています。


これを史実の観点からみれば、色々と批判やら糾弾やら嘲笑やら、あろうかと思います。

まあ、そういうのは、他の人に任せます。

やっぱり私は山岡先生の徳川家が大好きです。家康公も慶喜公も大好きです。狸ジジイとかディレッタントとか、悪いイメージを持っていたことを心から詫びたい気持ちです。両手をついて地面に頭をつけます。
「ハンサムウーマン新島八重」を読みました。

これはいわゆる『大河本』です。いわゆる、「○○年度の大河ドラマはコレです!」というのが発表されると、突然それをテーマに扱った雑誌・ムック・単行本が刊行され、本屋には専門コーナーが立ち上がり、それまで関心もなにもなかった人が流行に乗っかってたしなみとして読む本です。

まあ、かく言う私も新島八重という人の名前は大河ドラマが始まってから知ったクチなので、あまり悪く言えませんが、それでも私が読んだのは藤本ひとみ先生の『幕末銃姫伝』(2010年初版)ですから。いかにも「ブームに乗っかって出しました」っていう本はやめておこうと思ったのです。

とはいえ、藤本先生の山本八重は続編でメタルギアばりの潜入任務をするので(※)ちょっと史実を勉強しておかなくちゃね……と思い、大河本代表としてこれを読んだ次第です。


結論をズバリ申し上げると、かなり面白かったです。新島八重だけではなく山本覚馬、川崎尚之助のことなども取り上げられていて、

「やはり、いくら八重が特殊な気質を持っていたとしても、周りの人たちの協力なくては花開くことはなかったのだ」

ということが、よくわかりました。会津流山本家仕込みのの超・頑固気質をベースにアメリカ流新島襄仕込みの極・開明思想を盛り込んだ、まさに『ハンサムウーマン』なのです。



それと同時に、私の心もまた大きく開かれたような気がします。

昨年から同じ幕末時代でも佐幕側の人が主人公の小説を読みまくり、さらに山岡荘八先生の『小説徳川家康』『柳生宗矩』をも読み、極めて親徳川的な思想になっていたのですが、小学生の頃に好きだった人物は実は勝海舟でした。ええ、坂本竜馬よりも勝海舟だったんです。

ともすればホラふきだの何だのと批判されることも多いですが、「だからどうしたよ」と笑い飛ばせる度量を持った人ですからね。たぶん相手が刀を抜いてきても、

「粋じゃねえなあ。そんなもん引っ込めな」

とかって、江戸弁で一喝して追い返すことでしょう(岡田以蔵に危ういところを助けてもらったことはありましたが)。

そういう性格だからなのか、外国のことを偏見なく見て「新しい時代」が来ることをちゃんと理解し、それを佐幕倒幕問わず多くの人にどんどん広めていったのが、すごいですよね。

藩祖以来の恩義に報いるとか、徳川家のために頑張るとか、徳川も何も関係ないけど自分の『意地』を貫き通すために戦うとか、徳川も何も関係ないけどご近所さんがイジメられてるからそれを助けてあげようとしたとか、徳川も何(中略)せっかく正装でビシッと決めて京都まで遠路はるばる行ったのに結婚式の三次会ムードでフランクすぎる対応をされて激怒したとか……色々な理由があって幕府側に立ち、戊辰戦争で死んでいった人たちはたくさんいます。西郷頼母の家族のように集団自決した人たちもいます。

そういった人達を「時流が見えなかった愚かな人たち」というつもりはありません。昨年はそういう(従来の私が持っていた)考えを否定するために徹底的に本を読み、かなり佐幕側に偏っていました。

それが今回、大きく反対方向に引き戻されました。佐幕でも倒幕でもない。新しい時代を切り開くのは刀槍でもなく鉄砲でもなく人の心なのだ。ーーこんなことを私が言ったら「そんなに甘いもんじゃねえよ」と一笑に付されることでしょうが、勝海舟は江戸開城までこぎつけたし、坂本竜馬も志半ばで倒れたものの多くの人に影響を与えましたから、全くの夢物語というわけではないでしょう。

山本覚馬もそういった先進的な考え方の持ち主だったし、維新後は八重もどんどん変わりました。
つまり心のコアな部分にゆらぎがなければ、時代に合わせて「ならぬものはならぬ、良い物は良い」と受け入れていくのが、いいのかもしれません。

……まだちょっと上手にまとめられませんが、今後はもっとニュートラルな立ち位置で本を読んでいきたいと思います。


※ ある人物を救出するために愛用のスペンサー銃を手に取り収容所に潜入する。危うくこれが史実だと触れ回るところでした……
かつて、とある戦場カメラマンは「こんなのニュースになりっこない」と思いながら、ありふれた日常風景をフィルムに収めていたと言います。それは非日常的な世界を追いすぎるあまり糸の切れた凧のようになりかねない自分をつなぎとめ、取り戻す作業であったと言います。
           
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男性
誕生日:
1981/07/04
職業:
一応、給与取得者
趣味:
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自己紹介:
 岩手県に生まれ、岩手県に育ち、岩手県に住む、純粋いわてっ子です。これからも岩手に生き、岩手の人たちのために頑張っていきたいと思います。
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