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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
PCの不調はいきなりやってくるもの。大事なデータをハードディスクに保存しておいても、それが立ち上がらなければデータは永久に失われることになってしまいます。

私の旧ホームページ『FLATFEELING』も、2014年以降の更新データが失われてしまいました。それと同時に2013年、いつどんな本を読んだのかという記録もなくなってしまいました。

別にそんな目録を残しておかなくても、本の記憶を心の中にとどめておけばいい話なんですが、やはり100冊以上もあると「いつ、何を読んだんだっけ」というインデックスがないと整理がききません。記憶がゴチャゴチャになってしまいます。

まあ、ないものを悔いても仕方がありません。とりあえず覚えている限り、記憶をたどって定着させようと努力している今日このごろです。


昨晩ふと自室の本棚をパラパラと眺めてみると、失われていた記憶がいっせいに蘇って来ました。

『ダロウェイ夫人』『ユング心理学入門』『浜村渚の計算ノート』『期間限定の思想』『奇々怪界』『東北ずん子』……英文学の名作から現代ラノベへと推移するケイオス極まりない本棚で恐縮ですが、そうだったんですよね。『竜馬がゆく』から『魔女の宅急便』まで。好き嫌いは激しいですが、ノンジャンルで本を読みまくって、それで今の私の基本理念が出来上がっているのだから。

これからも私、本を読み続けます。やっぱり本を読むことで、自分を作ってきたっていう確認、できましたし。

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勝海舟『氷川清話』を読みました。

勝海舟先生は何を隠そう小学生の頃から好きでした。坂本龍馬よりもずっと前から。

大好き大尊敬な偉人という位置づけは誰がなんと言おうが変わりません。ただ、好きの理由が小学生の頃に読んだ学習まんがによる、というのもちょっとあれなので、もっと大人向けの本を何か読もうと思ってみたものの……どうもピンとこない。確かに勝先生が言っていることは現代を生きる上でも役立つ話がたくさんありますが、だからといって現代用語を絡めながら解説されると興ざめです。

というわけで、「だったら本人の言葉をそのままダイレクトに受け止めればいいじゃねえか」とばかりに手に取ったのが、勝先生が各媒体(といっても、テレビもラジオもない時代ですが)で語った言葉を収録した『氷川清話』を読みました。


私が手に取った講談社学芸文庫版は、無学野郎たる私も寝っ転がって楽しみながら読める代物です。最初の編集者によるリライトの読みやすさは残しつつ、その編集者が勝手に削除したり追加したり(自分の意見を勝先生が語ったように仕立てたり、時の内閣を名指しで批判しているところを削除したり)といった部分を修正し、より原文に近い仕様にしたものです。

より本格的な学術研究をしたい方は全集版を読めばよろしい(文庫版が読みやすさを重視したのに対し、全集版は最初の編集者によるリライト箇所などを注釈で詳しく解説している)。私のようにお手軽に勝先生のべらんめえ口調を聞きたい方は、ぜひ読んでみてください。心の一冊です。

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私は歴史小説が大好きです。

最近は山岡荘八先生の『徳川慶喜』を読みました。

その後NHK出版の、たぶん大河ドラマにあわせて発売されたムックだと思うんですが、徳川慶喜特集を読みました。

ムックの方の慶喜公は従来私がイメージしていた慶喜公(大政奉還後も日本のトップに居座ろうとした、そうかと思えば錦旗を前に戦意喪失して逃げ出した、後半生は趣味をエンジョイした)でした。

一方の山岡先生による慶喜公は勤王の志厚く、「この国の人間はナニナニ藩士である前に天皇の子なのだ」という思想を持っています。そのために内戦を極力回避しようとします。そして幕府自体もう政権を維持する力がないことをよく承知しており、ちゃんと日本をひとつにまとめられるような政府があるのなら、すべてを引き渡していいと考えています。


これを史実の観点からみれば、色々と批判やら糾弾やら嘲笑やら、あろうかと思います。

まあ、そういうのは、他の人に任せます。

やっぱり私は山岡先生の徳川家が大好きです。家康公も慶喜公も大好きです。狸ジジイとかディレッタントとか、悪いイメージを持っていたことを心から詫びたい気持ちです。両手をついて地面に頭をつけます。

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「ハンサムウーマン新島八重」を読みました。

これはいわゆる『大河本』です。いわゆる、「○○年度の大河ドラマはコレです!」というのが発表されると、突然それをテーマに扱った雑誌・ムック・単行本が刊行され、本屋には専門コーナーが立ち上がり、それまで関心もなにもなかった人が流行に乗っかってたしなみとして読む本です。

まあ、かく言う私も新島八重という人の名前は大河ドラマが始まってから知ったクチなので、あまり悪く言えませんが、それでも私が読んだのは藤本ひとみ先生の『幕末銃姫伝』(2010年初版)ですから。いかにも「ブームに乗っかって出しました」っていう本はやめておこうと思ったのです。

とはいえ、藤本先生の山本八重は続編でメタルギアばりの潜入任務をするので(※)ちょっと史実を勉強しておかなくちゃね……と思い、大河本代表としてこれを読んだ次第です。


結論をズバリ申し上げると、かなり面白かったです。新島八重だけではなく山本覚馬、川崎尚之助のことなども取り上げられていて、

「やはり、いくら八重が特殊な気質を持っていたとしても、周りの人たちの協力なくては花開くことはなかったのだ」

ということが、よくわかりました。会津流山本家仕込みのの超・頑固気質をベースにアメリカ流新島襄仕込みの極・開明思想を盛り込んだ、まさに『ハンサムウーマン』なのです。



それと同時に、私の心もまた大きく開かれたような気がします。

昨年から同じ幕末時代でも佐幕側の人が主人公の小説を読みまくり、さらに山岡荘八先生の『小説徳川家康』『柳生宗矩』をも読み、極めて親徳川的な思想になっていたのですが、小学生の頃に好きだった人物は実は勝海舟でした。ええ、坂本竜馬よりも勝海舟だったんです。

ともすればホラふきだの何だのと批判されることも多いですが、「だからどうしたよ」と笑い飛ばせる度量を持った人ですからね。たぶん相手が刀を抜いてきても、

「粋じゃねえなあ。そんなもん引っ込めな」

とかって、江戸弁で一喝して追い返すことでしょう(岡田以蔵に危ういところを助けてもらったことはありましたが)。

そういう性格だからなのか、外国のことを偏見なく見て「新しい時代」が来ることをちゃんと理解し、それを佐幕倒幕問わず多くの人にどんどん広めていったのが、すごいですよね。

藩祖以来の恩義に報いるとか、徳川家のために頑張るとか、徳川も何も関係ないけど自分の『意地』を貫き通すために戦うとか、徳川も何も関係ないけどご近所さんがイジメられてるからそれを助けてあげようとしたとか、徳川も何(中略)せっかく正装でビシッと決めて京都まで遠路はるばる行ったのに結婚式の三次会ムードでフランクすぎる対応をされて激怒したとか……色々な理由があって幕府側に立ち、戊辰戦争で死んでいった人たちはたくさんいます。西郷頼母の家族のように集団自決した人たちもいます。

そういった人達を「時流が見えなかった愚かな人たち」というつもりはありません。昨年はそういう(従来の私が持っていた)考えを否定するために徹底的に本を読み、かなり佐幕側に偏っていました。

それが今回、大きく反対方向に引き戻されました。佐幕でも倒幕でもない。新しい時代を切り開くのは刀槍でもなく鉄砲でもなく人の心なのだ。ーーこんなことを私が言ったら「そんなに甘いもんじゃねえよ」と一笑に付されることでしょうが、勝海舟は江戸開城までこぎつけたし、坂本竜馬も志半ばで倒れたものの多くの人に影響を与えましたから、全くの夢物語というわけではないでしょう。

山本覚馬もそういった先進的な考え方の持ち主だったし、維新後は八重もどんどん変わりました。
つまり心のコアな部分にゆらぎがなければ、時代に合わせて「ならぬものはならぬ、良い物は良い」と受け入れていくのが、いいのかもしれません。

……まだちょっと上手にまとめられませんが、今後はもっとニュートラルな立ち位置で本を読んでいきたいと思います。


※ ある人物を救出するために愛用のスペンサー銃を手に取り収容所に潜入する。危うくこれが史実だと触れ回るところでした……

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小林秀雄の文章はものすごく難しく、読むのは容易ではありません。ちょっとずつちょっとずつ読んでいます。

まあ、こちらは自分で買った本なので、じっくり読んでいけばいいと思っております。また、図書館の前を通るとついつい立ち寄ってしまう癖がついてしまったので、またもや数冊の本を借り、そちらを読み始めたところです。

その一冊が、伊奈かっぺいさんの「あれもうふふ、これもうふふ」というエッセイ集です。これは大変に読みやすいので、2時間弱で一気に読み終えてしまいました。

内容としては伊奈かっぺいさんがこれまで書きためたメモなどを再構成、収録したものです。一人暮らしをしている期間が長かった伊奈かっぺいさんは、日記を書いたり手紙を書いたりして「暇をつぶしていた」そうで、とにかく面白いことや楽しいことをたくさん書いていたそうです。

そんな伊奈かっぺいさんの文章はきわめて真面目……なんですが……内容は大変に面白おかしいものです。もう終始「うふふ、うふふ」と笑いっぱなしでした。やれやれ。

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久々に買った本を読んでいます。小林秀雄の『モオツァルト・無常という事』です。

先日もちょっと書きましたが、ひとえに『無常という事』を16年ぶりに読みたいと思って買いました。

あとは、「美しい花がある。花の美しさというものはない」といった趣旨のことを見て、どうやらそれがこの評論集に収録されている『当麻』に出てきた言葉らしい、というのを知ったので、「まあ一冊くらい、手元においておいてもいいよな」と思い買った次第です。ちなみに同時に買ったのは村山早紀先生の『ルリユール』でした。これもまた、同じような理由です。感情的には「ぜひ、手元に置いときたい!」という感じで、かなり強力な思いですが。


いやはや、正直なところ、超・難解な文章です。こんなことを言うと、まるで自分はアホーだと言っているような感じですが、嘘をついても仕方がないので正直に言います。ほんの数ページを読むのに、10分とか15分とか、そのくらいかかっています。

これまで確かに多くの本を読んできたから、少しはいいだろうと思っていたのですが、読んできたのは主に小説でしたからね(しかも小中学生向けの本も少なくないし)。こうした評論文はあまり読んでこなかったですから、結構、苦戦しています。こんなに読み進めるのがツライのは、アシモフの科学エッセイ以来です。

多分こういうのって、読み手にもある程度の知識がないとダメなんですよね。アシモフの科学エッセイもそうだと思うんですけど、『モォツアルト』ならモーツァルトの音楽はどういうものなのか? というのをある程度、読み手もわかっていなくちゃいけない。さらにゲーテとかニーチェとかスタンダールとかのことも知らなきゃいけない。モーツァルトと言われてキダ・タロー先生の方が先に浮かぶような奴は「帰れ!」というところです。門前払いどころか江戸十里四方所払いと言ったところです。

そういう知識、見解を持った人が読んで初めて、この人の言うことが「そうだったのか!」とわかるわけであって、極めて断片的な知識しかない私などはバラエティ番組に出てくるバカタレントのようなリアクションを取るしかないわけです。


ただ、実は、わからないならわからないなりに読み進めていけばいいかなとも思っています。最初からちゃんと理解してやろうというのが思い上がりというか、ケンシロウ風に「すでにそれが過ちだということに気づかないのか」と言われかねないことですから。はう!! あおおえへげえっ!!(例の断末魔)

それに、一応日本語の文章ですからね。フランス語とかアラビア語の文章じゃないですから、数パーセントくらいはわかります。「無常という事」を高校生の頃に(現代文の授業で)読んだ時も一部――思い出が美しいのは、過去の方で余計な思いをさせないためである、ということ――を、ずっと覚えていて、それを頼りに今回こうして本を手に入れたわけですし。

まあ、これをスタートとして、色々な知識を深めた頃に読みなおして、「そうだったのか……」と味わえればいいかなと思っています。そのために、わざわざ買い入れたのだし。

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1年前、『竜馬がゆく』をはじめとする幕末小説にハマり、関連する情報をアレコレと調べている中で、2004年に放送された『新選組!』のことも知りました。今でも香取慎吾くんがバラエティ番組で「御用改めである!」つってるアレですね。

あの中で山本耕史さん演じる土方歳三は「ロマンチ」という言葉を使っていました(正確には『ロマンチスト』ですけど、それを無理くり縮めた)。ドラマはろくすっぽ見ていませんでしたが、土方さんがロマンチだったという説は結構うなずけます。

それと同時に私も並々ならぬロマンチになってしまったなと思いました。

ええ、小説が好きなんです。戦国期なり幕末期なりに生きた男たちの純粋な生き様に触れ、それに憧れ、自分もできる範囲で頑張って生きていこう。そういう気持ちを養うために、私は本を読むんです。


童門冬二『柳生宗矩の人生訓――徳川三代を支えた剣豪、「抜群の智力」とは?』は、そういう意味では、私が手に取るべき本ではありませんでした。出版社がPHP研究所だし。実はこれは、柳生但馬様をダシにして現代社会で出世するためにはどうしたらいいのか? というのを延々と書き連ねた下世話なビジネス系ハウツー本だったのです(私にとってはね)。

先日書いた『宮本武蔵を哲学する』では、吉川英治先生も司馬遼太郎先生も江戸後期の儒教的思想のフィルターを取り払えなかった、といって断罪していましたが、これは江戸後期どころか現代社会のフィルターを通して家康公や柳生但馬様を見ています。そのフィルターを通せば家康公は野心まみれの狸オヤジであり、柳生宗矩はそこから出世の手管を学びスルスルと出世が移動をひた走る若きビジネスマンといった感じです。剣禅一如も活人剣も、みーんな自分の出世のための『道具』です。

正直、読んでいてハラが立って来ました。なんとか最後まで読みきりましたが、3ページごとに「それは違うんじゃないの」と言いたくなりました。


武士の生き方とかに興味はないけど、手っ取り早く社会で成功したい人にはオススメです。でも、歴史小説ファンとかには、おすすめできません。とりあえず、この記事を書いたあとは、さっさとこの本のことは忘れたいと思います。とにかく読んだ。その事実だけで十分です。

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村山早紀先生の『カフェかもめ亭』を読みました。私が手にとったのは2001年に刊行された単行本です。

内容としては、毎度おなじみ風早の街にある喫茶店『かもめ亭』にいるマスターの女性が、やってくるお客さんにお茶やコーヒーを振る舞いながらそれぞれの身の上話を聞く……という感じで、短い話しがいくつかオムニバス形式で収録されています。

たぶん小中学生とか、それくらいの対象年齢なので、本気で読めば1時間程度で読了できると思うのですが、なかなか、そういうわけにはいきませんでした。その、ひとつひとつの物語が、とても濃いというか……心の中にある弱さがムクムクと膨らんで、いたたまれない気持ちになってしまうのです。

あるいは、藤子・F・不二雄先生のSF短編を読んだ時と同じような感覚かもしれません。特に『みどりの守り神』を読んだ時に近いですね。

次々と理不尽な仕打ちを受け、悩み苦しむヒロインに対し、どうすることもできない自分のもどかしさ。あくまでもヒロインは漫画の中の人物で、私はそれを外の世界から眺めているに過ぎないから、それは仕方がないと思うんですが、でも……ね。切なくなったり悲しくなったりするんですよね。

だから、ちょっとずつ読みました。1日に2篇とか3篇とか、そのくらいがギリギリ。それも1回読んだらしばらく間をあけなければいけなかったので、2週間の期限の間に読みきれなくて、一回貸し出し延長をしてもらって。それでなんとか読み終えた次第です。


さて……これで、村山先生の主だったところは、全て読んだと言っていいでしょう。

『シェーラひめのぼうけん』とかは未読ですけど、この『カフェかもめ亭』『人魚亭夢通信』『海馬亭通信』と続く喫茶店もの(?)に『コンビニたそがれ堂』(2冊)、ちょっと大人向け? の『竜宮ホテル』に『ルリユール』、そしてすべての始まりとなった『はるかな空の東』。

「村山先生の小説って、だいたいこんな感じだよね」

そろそろそういうことを語る資格もあるんじゃないかな、と思い始めています。……ないかもしれませんが、書きます。そろそろ私も風早の街を出なければいけないような気がしているからです。

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図書館を積極的に利用するようになってから、なかなか本を買わなくなりました。読みたい本があったら、まず蔵書検索をする。新着図書コーナーの一覧を見て「これは!」と思い借りるのもありますが、AmazonやらBookoffやらで見かけたのを検索することもしばしばです。

実際に買い入れるのは、余程のことですね。多分これからも「図書館に入ることはないだろうな」と思われる本とか、どうしても手元においておきたいと思うくらい思い入れの強い本とか、あるいは旅先などでたまたま手に取り「これも何かの縁だ」つってレジに持っていく本とか。

そんなこんなで私は図書館が大好きなのですが、『新帝都物語』は私がひいきにしている図書館のいずれにもないみたいなので、何とかして買うしかないようです。結構高いんだよなあ……。


今、『図書館が大好き』と言いましたが、好きな図書館とそうでもない図書館があります。

私が一番好きなのは『盛岡市立図書館』。具体的に何年ぐらい前からあるのかはよくわかりませんが、館内には昭和59年に掲げられた非核都市宣言が掲げられているので、たぶん昭和の時代からあることは間違いありません。実際に建物の年季の入り具合は昭和の公共施設って感じです。

最初に利用したのは大学生の頃。レポートを書くために興味本位でホレス・ウォルポールの『オトラントの城』を選んだものの、大学の図書館には収蔵されておらず、どうしたものかと駆けずり回っていた時に見つけたのが、初めての利用でした。

次に利用したのは1年前。ずっと(25年くらい)前から気になっていた小説版『帝都物語』を読むべく赴いたところ、豪華愛蔵版で収蔵しておりました。小説というか図鑑のような重厚さで、これを4冊まとめて借りた時は結構腕がツライ状態になりました。

その後は村山早紀先生の『ルリユール』を借りたりなんだりと、今でもお気に入りの図書館です。

一方であまり好きではない図書館というのは、数年前にリニューアルオープンした岩手県立図書館。元々は市内中心部の公園内にあったのですが、今は盛岡駅裏の近代的ビルのワンフロアにあります。こないだ楢山佐渡様(盛岡藩家老)の企画展があったので初めて行ったのですが……すごく明るくて、綺麗で、みんなに親しみやすい雰囲気で……だからこそ、私のような薄暗い人間には、ちょっと居心地が悪かったのです。

というわけで、今日はなぜか図書館の話になってしまいましたが、そんな感じです。ただ、図書館が好きだと言っても、別に戦争に参加したいわけではありません。ましてや、戦闘を生業とする司書に会いたい気持ちは毛頭ありません。でも、晴れた日に図書館に行くのはいいと思いますよ。

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25年以上前にそういう名前のアーケードゲームに触れ、これを大変に気に入った経緯があり、それ以来「達人」という言葉がすごく好きな私。ちょっと前なら渋川剛気ですが、最近は時代小説の剣豪たちになるのかな。

今は山岡荘八先生の『千葉周作』を読んでいます。言うまでもなく『北辰一刀流』の創始者です。その特徴は実践的な技術を重視した合理的な体系でありますが、私が今読んでいるのはそういった流派を興す前の修行時代の話です。

15歳の時に地元でトラブルを起こし(とある道場の跡取り息子を谷に転落させ、その妹と男女の交わりをしてしまった)出奔した後、剣の道に励み精神的に大きく成長する。まあこの手の小説の王道ですが、私はそういうのが大好きなので楽しく読み進めております。

宮本武蔵にせよ柳生宗矩にせよ、剣の道を通ることによって人間的に大きく成長するという展開になるのは、つまりそういう厳しい修行でもしないと人間は本質的に荒れた心になってしまう生き物だ、っていうことなんでしょうね。そして、そうやって技術と精神を鍛えあげていくと、むやみやたらと斬りかかることをしなくなる、と。

たいてい達人と言われる人は、そういう感じですよね。それを強いとか弱いとか、色々と議論をするところがあるでしょうが、私はそういうの、もういいです。私は主に本を読むことでそういった精神を学んでいるところですが、それがすごく心地いいし、実際に正しいと考えているからです。

今、世の中では色々なことがあります。それに対して色々な意見を言う人がいます。数年前は私もそういうことに対して抗ったり斬りかかったりすることが正義だと思っていましたが、最近はできるだけ、受け流そうとしています。いったん受け流して、静かな状態で自分の考えを吟味し、行動する。そういうものに、私はなりたい(賢治先生風オチ)。

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小林秀雄の「無常という事」を読んだのは、高校の現代文の授業でした。

正直なところ当時はその魅力の30%も理解できなかったんじゃないかな。それなりに本を読んでいるつもりではあったものの、やっぱりね。基本的なレベルが低かったですから。10代だからそれも当然なんですが。

そんなわけで、本のタイトルも詳しい内容もすっかり忘れていたのですが、思い出に関する解釈については、ずっと心に残っていました。

「思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである」


あれは一体、誰の言葉だったろう。「思い出は美化される」という巷間の言葉に対する反撃の武器として、いつも心に留めていたものの、実はそのへんが非常に曖昧でした。それで何度も検索をかけて最近になってようやく「ああ、おそらくこういうことだったんだな」と納得した次第です。

そしてこの「無情という事」に関するネット上の様々な解説を読み、自分の体験にまぶしてコロコロと転がしているうちに、いきなりその言葉が腑に落ちたのです。おれもまた、そういうものに心惹かれているのだな、と(ここ1年くらいですが)。

まあ、まだオリジナルをちゃんと読んでいないので、これはあくまでも手前勝手な話です。時間が過去から現代にかけてずっとつながったものである、という考え方とあわせて、「現代における最大の妄想」というふうに思っていただければ結構です。後ほどきちんと読んで、その上で改めて文章を書きたいと思います。

でも、きっかけはつかめたと思うのです。あの時わからなかったことがわかるきっかけ。そして、過去・現在・未来をどう考え、生きていくかを考えるきっかけ。

やっぱり読書って、面白い。

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愚痴は好きではないのですが、認めざるを得ないので、一言だけ言います。

「どうすればわからないけど、どうすればいいのか考える――そして、どうにかする」

仕事って、そういうものだと思うんです。

「どうすればいいか聞いていないから、できない」

そんなことを平気でまくし立てる人間を見ると、赤木しげるのセリフを思い出します。言えば言うほどお前の恥になる・・‥オレはバカだと宣伝して回るのと一緒だ‥‥。


そんな最悪な精神状況で読んだ村山早紀先生の『黄金旋律―旅立ちの荒野』。ここからが今日の本題です。


主人公の少年・臨(14歳)は、あるきっかけで現代から数百年後の未来の病院で目覚めます。そこは見渡す限り廃墟が広がる、崩壊後の世界でした。しかも生物はその環境に適した進化を遂げており、ファンタジーさながらの世界でした。

そんな状況に戸惑いつつも、優しい看護師ロボットらと共に過ごす臨。しかしながら人との触れ合いを求めて外の世界に飛び出し、野性的な少年・ソウタや背中に翼の生えた猫・アルファと出会い・・・と、ここまでは表紙の折り返しに書いてあるあらすじです。

村山先生の本だから、つって手にとったものの、よくよく見ると私にとっては因縁深き『角川銀のさじシリーズ』。でもなあ、村山先生の本だからなあ・・・と思って、なんとか最後まで読みました。私があまり詳細なあらすじや解説を書いても仕方がないので、できるだけ感情的にざっくりと書きます。


なんというか、終始むずむずした気持ちで読み通しました。これは多分、14歳の男子らしい感情と、14歳らしからぬコンピュータなどの知識を併せ持った臨に対し、ちょっとしたコンプレックスを感じていたかもしれません。でも、『十方暮の町』を読んだ頃と比べれば格段に強力な哲学があるのでね。つまり、そのへんの感情的なせめぎあいがあったんでしょうね。

ただ、なんとか押し切りました。私の自我はゆるぎませんでした。その上で、

「まあ、君は君で頑張りたまえ」

そう言いながら本を閉じたのでした。ほんの少し、すさんだ気持ちが和らいだ気がします。


あとは、その・・・これは「何となくそう思った」というレベルなので、忘れてもらって構わないのですが・・・アレだ、私はどちらかというと、物語の世界に違和感なく溶け込めるような文章が好きだなと思いました。確かに臨も21世紀の遠野市(※)で暮らしていた人間なので、見たこともない世界に放り出された時は、もともと自分が持っていた世界観と照らしあわせて

「これはまるで映画みたいだ」
「確かこれは、○○って言うんだよな」

という感想を抱くのは、ごく自然な流れだと思うのですが、かえってそういうことを言われると、なんとなく興ざめしてしまいます。時代小説なんかを読んでいて「ここは現在では、こういう場所になっていて・・・」とかって言い方をされると、せっかくその時代の人間になりかけていたのに、急に21世紀に引き戻されてしまう。これまた興ざめです。

シバリョー先生よりも山岡荘八先生の方が好きになったのは、そういう事情もあるのかもしれません。

ま、そんな感じでした。ひとまず、これで一勝一敗。角川銀のさじシリーズとの戦い、引き分けということでいいでしょう。


※ 我が岩手県にも同名の街がありますが、隣に毎度おなじみ風早の街があるそうなので、きっと別な街でしょう)

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今年の1月に『宮本武蔵』(吉川英治版)を読み、さらに先週は『柳生宗矩』(山岡荘八)を読んだ私。小説そのものだけでなく、両先生の書かれたエッセーなんかも読みながら、その好き度合いをいっそう深める日々が続いておりました。

そんな私に冷水を浴びせかけたのが、今回読んだ『宮本武蔵を哲学する』(赤羽根龍夫、南窓社)。副題は『柳生の剣、武蔵の剣』とあります。

今、冷水を浴びせかけたと言いましたが、これは決して悪い意味ではありません。これを読んで、ようやく現実的な武蔵像が見えてきたからです。・・・ちなみにこの本が刊行されたのは2003年。ちょうど大河ドラマで武蔵が取り上げられ、武蔵関連の研究本が出まくった時代だったようです。

なお、これは私が読んだ感想なので、もしかしたら著者の意図とは違うかもしれません。もしそうだとしたら・・・もう1回読み直します。ゴメンナサイ。


いわく、これまでの武蔵研究はすべからく「江戸中期以降の儒教的発想」にとらわれ、そのフィルターを通して捉えようとするために、誤った見方をしてしまうのだと言います。そういった信念に基づいて振り回される刃で、吉川武蔵もそれをこき下ろしたシバリョー先生も次々と斬り伏せていきます。21世紀の哲学者先生の刃は実に鋭く、そして冷たいものがあります。

私もまた、それまで持っていた吉川武蔵のイメージをバッサリと斬られました。そして斬られたあと私が見せつけられたものは、「吉川武蔵は柳生十兵衛だった」という衝撃的な――そして、妙に腑に落ちる赤羽根先生の結論でした。

そこで、私の思想は柳生側にシフトしました。私は吉川武蔵の求道的なスタイルが非常に気に入っているのです。何が何でも勝つのが一番! という(実在の)宮本武蔵の思想はきわめて現実的で、しかも正しいことだと思うのですが、やはり私は『勝人剣』ではなく『活人剣』の思想が好きです。どちらの思想に学びたいかと言えば、柳生新陰流の思想に寄り添いたいと思います。

・・・なんてね。

柳生宗矩も宮本武蔵も、50代60代になってようやく兵法の何たるかがわかったって自著で言っていますからね。まだ32歳の私は、そんなに定まった思想なんか、持たなくていいのかもしれません。せめて「もうすぐ四十郎ですが」と照れくさそうに語れるくらいまでは、ああだこうだと悩みながら生きるのがいいかもしれません。

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村山早紀先生の本を、なんだかんだで結構、読んでいます。

「コンビニたそがれ堂」は2冊読んだし、今年に入ってから「竜宮ホテル」「人魚亭夢物語」「海馬亭通信」「ルリユール」と読みました。さらに今、手元には図書館から借りてきた「黄金旋律」と「カフェかもめ亭」があります。

これだけ読めば、「昔好きだった作家」というわけではなく「現在進行形で好きな作家」と言えるでしょう。ええ、私は村山先生の本が大好きです。


ただ、好き好き大好きでは終わらないところがあります。といっても別にケチをつけるつもりは毛頭ありません。私の至らなさを痛感し、恥じ入ってしまうようなことがあるのです。

それはゲームや、コンピュータに関する話です。

私も四半世紀以上にわたりコンピュータゲームに親しみ、好き度合いも知識もそこそこのものだと思っていたのですが、作品中に出てくるゲームの話を聞くと、「?」と首を傾げてしまう場面がいくつかあったんです。

いや趣味が違うというべきでしょうか。いぬがみは確かにゲームファンですが、ドラクエとかFF4とかで感動落涙したことはないんです(その頃、当家にはスーパーファミコンの代わりにメガドライブがあったから)。だからどれほど疲れた時でもホイミとかケアルとかゲンキとかが欲しいって思わないんです。ところでゲンキって、何に出てくる魔法でしたっけ。

パソコンに関しても、一応MS-DOS3.3時代から触れ、現在ではLinuxのカスタマイズに日々試行錯誤しているところですが、ワードとかエクセルとかは使えません。ましてやプログラミングなんて、中学の授業でBASICの打ち込みを少しやったくらいです。

でも、それぞれ違う物語とはいえ、風早の街にはワードやエクセルを使いこなす女の子(同時にオンラインゲームでは最強レベルまで自分のキャラを育てている)とか、独学でプログラミング技術を身につけた男子中学生とかが出てきます。

・・・ああ、昔「パソコンなんて全然わからん」と言っていた大人たちの気持ちとは、こういうものだったのか・・・と、今更ながら思いました。enchantMOONって何? とか。


最近は時代小説ばかり読んでいることもあって、ゲームやパソコンの話にこだわる気持ちもなくなりました。張り合おうとは思いません。ゲームが好き、パソコンが好き、何とかっていうガジェットが好き。OKOKわかりました。私はそういうのは持っていないので、まったくのドシロウトとして接することにしましょう。

でも、その代わり若い諸君が持っていないものを持ちたい。それは多分、『徳川家康』とか『柳生宗矩』とかを読んで得た武士として、人としてのモラル。400年前に生きていた人たちが育んできた哲学。

・・・なんてことを思ったり思わなかったりしながら、『黄金旋律』を読んでいます。

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西郷南州(隆盛)という人には、奥州南部藩の人間としては、非常に複雑な思いを持ってしまいます。

大人物であることは、間違い無いと思います。それに関しては私が敬愛してやまない勝海舟先生も手放しで褒めていましたし、他の人(大久保さんとか)と比べると政治的野心もなく、西南戦争なんかも半どん(中村半次郎。のちの桐野利秋)に担がれてやむなく出陣したのかな、という気がします。石田治部どのに付き合って戦うことにした島左近とか大谷刑部みたいなイメージ。

ただ、南部藩家老の楢山佐渡様が京都くんだり出かけた際に、車座になって鍋をつついていたという話があるんですよね。せっかく楢山様が正装でピリッと気合を入れていったのに、南州さんはもう二次会ムードで和気あいあい。フランクと言えばそうなのかもしれませんが、楢山様は藩の筆頭家老。もうちょっと、ちゃんとした接し方があるでしょう・・・と思ってしまいます。


そんな南州さんが語ったうんちくを、庄内藩の人たちがまとめた「南州翁遺訓」を読みました。本来だったら、そんなものを手に取ることさえNGだと思うんですが、あまりにも皆さんがいい、いいというのでね。とりあえず一読しておこうかと思って、読みました。現代人向けに超簡単現代語訳したものだったので、数十分で読み終えました。

・・・楢山様のことを棚上げすれば、いちいち頷くばかりです。人として、どう生きるべきなのか? ということを、極めてわかりやすく語っておられます。思想的な立ち位置が決定的に異なるので、素直にシンパになることはできませんが、正しいことは正しい。そのことはちゃんと認めて生きて行かなければいけないなと思いました。

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『のぼうの城』(和田竜、小学館)を読みました。


物語は太閤の小田原攻めのおり、いくつかある北条氏の支城の一つである「忍城」で繰り広げられた戦いの記録です。この時に攻め立てたのは石田治部どの。配下には大谷吉継などを従え総勢2万の大軍です。それに対して忍城の成田方は500人程度。数字上では圧倒的不利です。

しかもその時に総大将を務めていたのは、「のぼう様」と領民からもバカにされていたお方。武芸よりも野良仕事を好み、そのくせ不器用で手伝ってもらうとかえって仕事が増えるというのだから、役立たずもいいところです。

そんな「のぼう様」が治部どのの大軍を相手にどうするのか? それは誰もが唖然とするような、もはや策とも言えないような行動でした・・・という感じです。


実は、途中でちょっと脱落しそうになりました。残念ながら「のぼう様」にまったく魅力を感じられず、戦国無双でもお馴染みの甲斐姫にもときめかず、もうダメかな・・・つって本を閉じようと思ったのですが、

「何かあるはずだ、きっと何かあるはずだ」

そんな期待をしながら読み進めて行きました。私もまた、なんだかんだ言いながら、「のぼう様」のことを信じていたのかもしれません。

果たしてその期待はかないました。個人の武力だけでもなく、知略だけでもなく。人の心をつかむ『将器』を持つ者こそ、人の上に立つものにふさわしい。山岡荘八先生の『小説徳川家康』で感じたことを、まさか『のぼうの城』でも感じることになるとは。いやはや、まったくもって恐れ入りました。

もちろん、坂東武者の荒々しさを体現したような猛将も数名出てきます。勇ましい戦の描写に心が躍ったことも事実です。でも、戦って華々しく討ち死にするだけではなく、しっかりと家を存続させるためにはどうすればいいのか。そういうことをちゃんと考えていた『のぼう様』は、繰り返しになりますが、恐るべき人だなと思いました。

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岩手日報IBCニュースで、村上春樹先生の新刊が出たことが報じられたのを聞いて、思わず「えっ!?」と声を上げてしまいました。いや、午前中に書店に行った時にそのものを見ていましたから、新刊が出たことは知っていたのですが・・・何やらそれを求めて朝早くから書店の前に並んだとか、いつもよりも3時間も早く店を開けたとか、そういうことがあったらしいのでね。そのことに驚いたのです。

そこまでするかね。――そんな印象でした。

いや、好きな人からしてみれば、待ちに待った新刊なんだろうな、という事は想像できます。だからといって、わざわざ朝から頑張って買うほどのものかね。――そう思ったのです。仕事終わりに本屋によって、フツーに買えばいいじゃんって思ったんです。別に、早く買わなきゃ売り切れるってもんでもないでしょうに。

なんか、これはもう、信仰に近いものがあるんじゃないでしょうか。新刊が出たら、何をおいても早くそれを手にし、読まなければいけないという信仰がある人たち。そういう想像をしてしまいました。まあ、この国は信仰の自由が保証されているから、それもまたいいと思いますが。

ま、こんなことを言っている私も高校時代に「風の歌を聞け」を読み、将来は翻訳の仕事をしたいなと思って英文科に進学した事実があります(※)。今の私は受け入れられませんが、当節流行のたしなみとして村上春樹を読む。結構なことです。


それにしても、発売日に行列して何かを買う人をニュースで見ると、いつも思い出すのが、今から四半世紀くらい前のこと。当時ファミコンで「ドラゴンクエストIII」を求めてビックカメラやらヨドバシカメラやらに夜中から並んだことが、ニュースで大々的に取り上げられ、社会現象とまで言われたことです。

次が「ドラクエIV」の発売時もそうですし、スーパーファミコン発売の時もそうでした。まったくもって古い話ばかりで恐縮ですが、それが私にとっては非常に衝撃的だったのです。・・・そのことをよく考えてみると、まあ、いち早く手に入れたいという気持ちも、わからないわけではないのですが・・・。


そういうわけで、今日は「村上海賊の娘」の作者が書いた「のぼうの城」を図書館で借りてきました。映画にもなったし、その映画を地上波で放映したし、頃合いよしと判断したためです。・・・そして、もしもこれが面白かったら、その時は躊躇なく天正海賊娘に喧嘩をふっかけてやりたいと思います。

(※ 現在は英文科どころか、文学部そのものが存在しない)

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日経Linuxを探しにまちなかの書店に行ったところ、「村上海賊の娘」という本が店先でプッシュされているのを見ました。

世はまさに大海賊時代ですから、そこに「娘」というキーワードを加えて斬りこんできたんだろうな、つって返り討ちにしてやろうと思い、とりあえず手にとって見ました。・・・ふむ、どうやら、史実を元にした物語みたいですね。

ということは、それなりにしっかりとした物語という事でしょうか。・・・今、こうして記事を書くにあたり、ちょっと新潮社の公式ホームページで調べてみたところ、そうですね。いぬがみは徳川信奉が強く、その家康公を「三河の親類」と呼んでいた総見公(織田信長)寄りなのですが、何というか・・・花の慶次に似た空気を感じました。

「姫様はすべてを欲しておられるのですな」
「そうだ、悪いか」

これは公式ホームページ内にある本編内のセリフ(だと思うの)ですが、なるほど、いよいよもって面白そうです。私の歴史観は山岡荘八先生の「徳川家康」を大基準として置いているので、「切取り強盗は武士のならい」的な思想は受け入れられませんが、そこまで言うのなら、どれほどのものか見せてもらおうか。海賊の娘の野望とやらを――という気にはなりました。


・・・ただ、この海賊の娘が反主流・反体制な立ち位置だとすれば、私もまたそういう性格なんです。

つむじまがりのへそまがり、根性曲がりのつづら折り。十重二十重に折れてねじれた心は、たくさんの本を読むことにより大きく修正されたものの、一方で心の奥深いところには強〜力な筋金が入りました。

第35回吉川英治文学賞新人賞受賞。2014年本屋大賞受賞。OKOK素晴らしいことだと思います。そういう、評価されたもの・人気のあるものを積極的に追いかけて読みまくる。それは正しいことだと思います。

でも、いぬがみにとってはそのキラキラしたものが、逆に邪魔なんですよ。あまりにもみんなから読め読めと言われると、

「面白いかどうかはオレが決めるんだ」

つって、むしろ積極的に距離を置こうとするんです。そして決して近づこうとしない。妙に意固地になってしまうんです。まったくもって感情的、非論理的な話ですが、これはもう性分だから仕方がないんです。


もちろん、これは非常に面白いだろうだと思います。かなり興味をそそられています。もしも(変な話ですが)ここまで話題にならなければ、するりと買っていたかもしれません。だからこそ、こうしてちゃんと記事を書きました。

もう少し、ほとぼりがさめたら読もうと思います。「宮本武蔵」も「徳川家康」も「竜馬がゆく」も、みんなみんな一時代を築いた超ベストセラー作品ですが、私が読んだのは初版からウン十年も経った2010年代の話だし。そこまではいかなくても、当分はね。

あとは、ここしばらく読みまくった本の感想がある程度まとまったら、ですね。ブログの休止期間中に読んだ山岡荘八先生の「柳生宗矩」は、本ッ当に面白かったですから、ちゃんと気持ちを整理してから次に行きたいと思います。

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このところ、とにかく読んだ本の感想ばかり書いてきた我がブログですが、これについての弁明と反省をします。

こうも本を読みまくっていたのは、ひとえに日常生活における不安感から逃れるためでした。毎日の仕事のプレッシャー、未来(具体的には7月以降)への不安、などなど。

「おれは、あの仕事をきちんとやっただろうか」

一応キッチリと仕上げて出した自負はあるのですが、どうしても、どこかで手落ちがあったんじゃないかという思いが……いつも付きまとい、なかなか心が晴れる日がありません。

そういった心の弱さを内面から鍛えなおしたり、緊張を和らげたりするために、とにかく連続して本を読んだというしだいです。

……あとは、手にかけた『小説徳川家康』が世界最長レベルの作品なので、それを読み終わったあとも『何か読んでいないともやもやする』というニコチン中毒のような症状もあったかもしれません。

とはいても、やはり本を読むだけではいけません。ちゃんと自分のものにしなければ西郷南州翁に『書物の虫』といわれてしまうし、三浦梅園からは「衒学くさい野郎だな」と不愉快な顔をされてしまいます。もっとも、ということを新渡戸稲造先生の『武士道』を読んで気づかされたのだから「オイオイ」と言われるかもしれませんが、ともかくそういうことです。


本の知識がそのままでは役に立たないことは、10年前に痛感しました。ただでさえ学生時代にアルバイトというのをただの1秒もしたことがなく、知識は本やネットで仕入れたようなのばかり。その知識によって作り上げられた私という商品はどうにも買い手がなく、やっともぐりこんだ会社でも最低ラインを1年以上這いずり回り、抗不安薬なしでは生活できないほど追い込まれました。

そういうこともあって、ろくすっぽ本を読まずに過ごしていた頃もありましたが、去年PCが故障したことをきっかけに、また本を読むようになりました。今思うと、読んでレポートを書かなきゃいけないとか、そういうことがないので、大学時代よりシンプルに読書を楽しめているような気がします。だから冊数もそれなりに積みあがったのかな。って、数の問題じゃないですけどね。


ともかく、『小説徳川家康』の再開に始まった2014年の我が読書生活は、ここでちょっと小休止です。少し手綱を緩めて、ゆっくりゆっくりと溜め込んだ知識を活かす道を探っていきたいと思います。活人剣みたいなものです。そういうわけで私の手元には、先週申請した『柳生宗矩』が到着したから取りに来るようにというはがきがあります。結局また読書ってマジっすか先輩!?(紙兎ロペふうに)

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高校生~大学生の頃、『幻想文学』という言葉に、言いようのない甘美な想いを抱いていました。そういう文学を読み、そういう世界に親しむことが、何よりも楽しかったのです。

それは当時よく聴いていた筋肉少女帯の歌(そしてオーケンさんこと大槻ケンヂさんの言葉)に強く惹かれていたこともあるでしょうし、そういう年頃だったこともあるでしょうけど、まあとにかく私のパノラマ島にはそういった文学の雰囲気が満ち満ちていました。


あれからポンと10年が経ちました。いや本当に今年は大学を卒業してから10年目なんです。

去年あたりからものすごいペースで本を読みまくっているところですが、年齢が上がったせいなのか、それとも序盤に『龍馬がゆく』を読んだせいなのか、割と現実的な物語ばかり読むようになりました。戦国期とか幕末期とかを舞台にした小説のどこが現実的なんだ、という気もしないでもないですが。

今回、盛岡市立図書館で借りてきた『『夢÷幻視(13乗)=神秘――幻想・怪奇名作選』は、久々の本格的な幻想小説集でした。(13乗)のところは、本当は言葉の右上に小さく13と書かれています。

明治の元勲・枢密顧問官、子爵海江田信義のひ孫で東郷平八郎は義理の大伯父……という謎めいたプロフィールを持つ『ポチ』氏が古今の作家の幻想小説およびエッセーをかき集めて一冊の本にしたコレは、とにかく豪華なラインナップです。

倉橋由美子、村上春樹、連城三紀彦、津島佑子、夢枕獏、島尾敏雄、澁澤龍彦、芥川龍之介、三津木春影、梶井基次郎、富ノ沢麟太郎、郡虎彦、ネルヴァル。とりあえず書き出してみましたが、どうですかこのラインナップ。村上春樹と芥川龍之介が同居する本なんてめったにありませんよ。あ、ちなみに澁澤龍彦さんのはエッセーです。

村上春樹作品を読んだのは高校生の頃、医大に通っていた女子の先輩からもらった『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』以来でしたが、どうもなじまない感じでした。どこがどうダメなんだと全国3千万の村上春樹ファンから詰問糾弾を受けそうですが、どんな時でも何か取り澄ました雰囲気の『僕』がいけすかないというか、すわりが悪い感じがするのです。短編一本とはいえ、ちゃんと読んだから言います。私には、あまり村上春樹文学は合わない感じがします。

反対に芥川龍之介なんかは、やはりいいですね。これまでまともに読んだことがあるのは『蜘蛛の糸』くらいだったのですが、ウムム、さすが歴史に残る大作家だけあって面白いです。まあ、ようやく芥川龍之介が読めるくらいのレベルになったともいえますが。


ともあれ、久々に幻想小説のたぐいを読んだという話です。なお、コレに続いて読んだのは村山早紀先生の『人魚亭夢通信』。主人公は小学5年生の女の子ながら、怪盗とかライバルの盗賊団とかが出てくる、古きよき少年向け冒険小説(『怪人二十面相』とかそういうの)の空気をはらんだ小説です。ただ、それだけではなく過去と現在をつなぐ様々な伝説が絡み合った、とっても温かいファンタジー小説です。どう考えても小学生向けの本なんですが、たまにはこういうのもいいですよね。

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これまで、隆慶一郎という名前に対しては、作家というよりも『漫画原作者』のイメージが強かったです。いうまでもなく『花の慶次』であり『影武者徳川家康』ですね。

これまでは特に読もうとも思わなかったのですが、このたび山岡荘八先生の『徳川家康』を読了したのでね。そろそろいいだろうと思って、なぜか『影武者徳川家康』でもなく『一夢庵風流記』でもなく『かぶいて候』を図書館で借りてきた次第です。

どうしてコレなのかというと、漢漫画の紹介サイト『早池峰山』さんの中にある、「かぶいて候の秀忠が唯一世間一般の秀忠像に近い書き方をしている」という記載があったのをずっと前から気にかけていたからです。漫画のほうで秀忠公の極悪ぶりは十分にわかっていたので(無論、隆先生&原哲夫先生の書く、ですよ)そうじゃない秀忠公を見てみたい。そう思ったのです。


これまでは山岡先生の非常にまじめな世界観の中にいて、私自身もそれを心地よく思っていたところだったので、隆先生の書く『かぶき者』の世界には、脳震盪を起こしそうなくらいぶっ飛ばされてしまいました。

まず、主人公は鐘巻流の達人です。職業? は徳川家光の小姓なので、言ってみればSPのようなものです。そしてその実力は超人的なもので、突然家光を襲ってきた刺客を苦もなく返り討ちにします。やはり隆先生が書く漢たちは、みんなこんな感じなんでしょうか。

そんな男に惚れて付いて来るのも超人的な能力を持った連中なので、えりすぐりの暗殺部隊60名に襲われても傷一つ負わず、それどころか8割方をその場で返り討ちにしているという有様(残りは本拠地に戻った後すぐに自害して果てた)です。得物として愛用する剛槍も含めて、前田慶次レベルです。


そんな阿修羅のごとき強さを誇りながら飄々としている主人公に顔を赤くしたり青くしたりする将軍家や重臣たち。この物語での秀忠公は、なるほど、冷静沈着で賢い君主といった印象です(対して息子・家光は父親に「どうしようもない馬鹿だな」と言われる体たらく)。

その代わり、なんだか諸悪の権化みたいに描かれているのが秀忠公の奥さんである阿江与の方で、『異常に気位が高く、気性の烈しい女性である』と言われています。そして秀忠公が侍女にはらませた長男が二歳の時に灸をすえたせいで死んだことは『おそらく阿江与の方が殺したのだろう』といわれる有様。この件についてはあまり詳しくないので、肯定も否定も出来ませんが、さらりと恐ろしいことを書いています。

そして家光と将軍家ご指南役の柳生但馬守が衆道関係にあったという説もぶち上げています。さすがの私も、これには眉をしかめざるを得ません。これは、当時の風習として云々というよりも、柳生但馬守自身の人格を考えて、「そういうのはなかったんじゃないかな」と思うんです。あくまでも武人として、将軍家ご指南役として、家康・秀忠・家光と三代に渡って側にいたんだと考えています。


まあ、そういうことを差っぴいても、これはとても面白いです。惜しむらくは隆先生が急逝してしまったこともあり、主人公が武芸者からかぶき者にクラスチェンジし、さあこれからというところで終わってしまったことです。まあ、主人公のド派手なかぶき振りを無限に想像し続けるともいえますけどね。

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よくよく私は本を読むことが大好きな人間なのだ、と思いました。

図書館に行ったのが午前9時半くらいで、次にその場所を出てきたのが11時半。その間何をしていたのかといえば、とある本を一冊、最初から最後までまるまる読み通してしまったのです。

その本というのは、伊奈かっぺいさんのエッセイ集『落書き集苦楽符(スクラップ)』です。

この本は伊奈かっぺいさん(本人は同書の中で「これは芸名だから、伊奈さんとか、かっぺいさんではなく、伊奈かっぺいさんと呼んでもらいたい」と言っていたので、そういわせていただきます)が方々の雑誌に載せたエッセイや対談などを集めたもので、単行本にあたり書き下ろしたものは何もないそうです。せいぜい『あとがき』ぐらいかな。


伊奈かっぺいさんは弘前出身の津軽人。対して私いぬがみは盛岡出身の南部人。南部と津軽は400年以上前のいざこざから、どうも仲が悪いといわれております。私はそこまで青森県に敵愾心を持つわけではありませんが、『同じ東北人だから』というだけでは割り切れない何かはあります。

ただ、まあ、そういう思いもさほど気にならないくらい、この本は面白いです。書かれたのは今から30年かそれ以上前のことですが、まあ単純に面白いのです。少なくとも東京の人が読んだ時よりも、きっと、感じ入るところが多いと思います。

たぶん、そう言うことを、伊奈かっぺいさんも許してくれると思うんです。南部と津軽といえば、しっくりいかない感じがしますけど、本県にも弟子筋に当たる? 菊地幸見さん(※※)という人がいますから。年に1度は岩手で『コンサートーク』という名のイベントもやってくれるし、去年の秋にはIBC祭りでトークイベントもやってくれたし。

比較的軽めのエッセイ集とはいえ、ほとんど時計を見ることもなくず~っと本を読み続けることが出来る幸せ。こんな休日もいいかもしれません。


※ 津軽弁の会話としてもっともよく使われる文例。『どこに行くんですか』『銭湯に行きます』という意味合い。

※※ IBC岩手放送のアナウンサー。遠野出身。岩手弁の流暢さ・温かさはたぶん日本一

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山岡荘八先生の随筆集『随想徳川家康』と『史談 家康の周囲』を読みました。

これは山岡先生が様々な雑誌に書いた『小説徳川家康』関連の随筆を集めたもので、そのためか一部で重複するものがあります。そういうのを意識せずに2冊目を読み始めたのでデジャ・ヴュのような感覚を味わいました。

これらの随筆が書かれた年代というのは『小説徳川家康』の連載中~連載終了後と、結構まちまちです。中には後日談的なエピソードもあります。すなわち家康公が歿くなった直後の柳生宗矩の話とか、生涯面会を許されなかった上総守忠輝のその後とか、東照大権現となるまでの経緯とかです。なので、読むのであれば全巻読了後がおすすめです。


思いつくまま感想を書き出します。

基本的にこれらは随筆なので、山岡先生自身の気持ちがストレートに表現されています。それを読むとわかるのですが、山岡先生は私が考えていたほど絶対的な家康信奉者ではないということです。戦後の混乱期にあって、山岡先生をはじめとする多くの人々が望んだ「平和――」への思いを、実際に戦国乱世をおさめ200年以上にわたる泰平を作り上げた家康公をモチーフに小説を書いたということです。

そういうこともあって、必ずしも史実とは一致しない『小説徳川家康』なんですが、これを読んだところ……いっそうこの作品が好きになりました。私に平和の尊さ、平和のありがたみを骨の髄までわからせてくれた作品だったのですが、それが山岡先生自身の思いだということを知り、「やはりその考え方は間違っていないのだ」という自信を得たからです。

どこまでが史実で、どこまでが創作なのか? そういったことを特に考えません。ただ私にとっての家康公はもはや『狸ジジイ』ではありません。真に平和を求め、平和の礎となった大偉人です。めくらめっぽう信奉するわけではありませんが、影響を受けたどころではなく、基本理念のレベルから大きく変わりました。それがいっそう具体的なというか、原木を削りだして仏像に近づいたというか……これらの随筆を読むことで、ようやく『小説徳川家康』の世界が手の内になったのかな、という気がしました。



ちなみに『小説徳川家康』の世界では、総見公・織田信長も豊太閤・豊臣秀吉も『日本株式会社の初代社長と二代目社長』として重要な役割を果たしています。共通するのは、みんな戦国乱世を終わらせようとしていた、ということ。ただ、終わらせるためのプロセスが二代目までの時代と三代目――家康公の時代とでは異なっていたので、この順番が違っていたらきっと平和な時代は来なかっただろう……というのが山岡先生の意見です。よく総見公も破壊と殺戮を好む魔王のような扱いを受けていますが、そうではないのです。時代が求めるアプローチが異なるだけで、平和を求める気持ちは三人とも一緒だったのです。

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先日、「私はギャンブラーにはなれない」という話をしましたが、改めてそのことを少々書きます。

たとい勝てばお金(など)が儲かるとはいえ、コツコツ働いて得たお金が2分とか3分で消えてなくなるかもしれないプレッシャーには耐えられない……というのが、先日書いた言葉。

それは言い換えれば、私がどちらかというと堅実志向な性格ゆえということかもしれません。一攫千金にロマンを求め、それで破滅するのもまた良し……という生き方が、どうしても出来ない気がするのです。ドサ健あたりから軽蔑されるような、堅気でやっていきたいタイプなんです。


そういうことを踏まえると、この小池重明という人は、絶対に友人にはなりたくないタイプです。

将棋の腕はプロ棋士を負かすほどのレベルでありながら、それ以外は何をやってもダメ。職を転々とし、借金は増え続け、お世話になった人が経営する店の金庫から金を奪い逃亡することも数度(その場に借用証を残していくので『盗んだわけではない』とは本人の弁)。最期は不摂生から血を吐いて死んでいったような人です。まったくもって破滅的な人生です。

まだ人生経験の浅い10代の頃ならともかく、30代になった今では、まったくもって関わり合いになりたくない人間です。

でも、そういった理屈では割り切れない『何か』を感じさせるのも事実です。それはやはり、人間としては破綻者だけれど、将棋の腕だけは……という一芸があったからなのかな、と思います。


私が『面白いな』と思ったエピソードをひとつ。

小池氏が団鬼六先生に、「先生と将棋を打ちたがっている人がいる」と紹介したことがあったのですが、実際に会ってみても一向に将棋が始まらない。どうしたことかと思いつつ床につき、夜中にトイレに立った時、ふと別室で将棋を打っている小池氏を見つけました。ところがその様子があまりにも真剣で「オレには将棋を指させないくせに、自分だけ何をやってんだ」と問い詰めることもせず、さっさと用を足して再び寝入ってしまった団先生。

朝になると、目の前に札束を積み上げた小池氏。実は自分が真剣勝負(賭け将棋)をする際に、ちゃんと負けた時の支払いを保証してくれるスポンサーがいますよ、ということを相手に見せるために団先生をダマしてつれてきた……ということだったんです。それでいて律儀に分け前を渡すあたりが、ヘンなところでまじめな小池氏の性格を現したエピソードだな、と思いました。


強くなれば強くなるほど真剣勝負を受けてくれる相手がいなくなり、食い詰めていく――麻雀放浪記でも読んだ、裏プロとしての悲哀が、そこにもありました。そういった生き方を自分はすることが出来ないし、だれもすることはできないでしょう。

でも、そういう人がかつてこの世にいたのだな……という、戦国武将の話を読むにも似た気持ちで本を閉じたのでした。

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『徳川家康』本編を全巻読了し、関連? エッセイ『史談 家康の周囲』を読み、気持ちが少し固くなっていたところがあるので、今は『真剣師 小池重明』という本を読んでいます。団鬼六氏の本は高校生の頃『お柳情炎』を読み……かけて途中でほっぽり出して以来です。

内容についてはまた後日触れるとして、こういった賭博師の人が主人公の本を読むのは随分久しぶりだな、と思いました。それこそ高校生の頃以来かな。

その頃は文化的不良というか、澁澤龍彦とかマルキ・ド・サドとかを読んで、『人間の暗黒面を見尽くしてやろう』と思いダークサイドな世界に落ち込んでいました。具体的にどういうことを考えていたかは、異様に長くなるのでバッサリ割愛しますが。


阿佐田哲也の作品を読んでいたのもその頃でした。『麻雀放浪記』は真っ先に読み、その作品の中で主人公以上のインパクトを残した『ドサ健』を主人公とした長編『ドサ健ばくち地獄』などの小説系も読んだし、阿佐田氏自身のことを書いた『麻雀狂時代』『ギャンブル人生論』なども読みました。『真剣師 小池重明』も、その系統に連なるのかな。

それらの本を読むことで、まるで自分がそんな『ばくち打ち』の一人になったような気分になりました。それと同時に、

「自分は、ばくちに向いていない」

と思いました。ものの数分で給料数か月分のお金が増えたり減ったりするような世界のプレッシャーには耐えられないし、バカバカしくてやってられません。自分の懐が痛まない状況(何かのゲームのオマケとしてついてくるようなもの、など)であればともかく、現金をかける「ばくち」は嫌いです。

そういうこともあって、ギャンブル小説のたぐいも敬遠するようにしていたのですが、この『真剣師 小池重明』は当時からずっと気になっていた本でしたからね。賭け事がいいか悪いか好きか嫌いかではなく、この小池重明という人が何者なのか? どんな人間なのか?――それを知りたいと思い、今回手に取ったしだいです。

ちなみに真剣師というのは、段位や何やといった名誉をもって生計を立てていく『表プロ』に対し、直接現金のやり取りで生計を立てていく『裏プロ』のことです。この小池重明という人は将棋の真剣師だった人です(故人)。

将棋についての私のレベルは『駒の動かし方を知っている』という程度です。以前『龍が如く3』のミニゲームで遥(小学生の女の子)と対戦し完敗したレベルです。2手先のことすら見えてこないんです。これじゃあダメだろって。

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