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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。

 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズ第26弾では仙台・石巻が出てくるということで買って読んだ……のが、1年前のこと。最近『樅ノ木は残った』を読了し、ちょっと軽めの本が読みたいと思って再び手に取りました。
 正直に言うと1年前は「わが仙台に司馬さんが来たんだ」ということだけが嬉しくて、あんまり内容が入ってこなかった……というわけではないのですが……ちょっとミーハーな気分で読むだけ読んだって感じだったんですよね。
 この1年で私も仙台の街のことを肌感覚で知り、だいぶん馴染んできたところで読むと、壱段階深い面白さを感じました。私も私なりに「仙台観」が出来上がってきたところで、司馬さんの歴史観と旅情に触れると、私の心の中の仙台観もいっそう生き生きとしてくるのです。毎日のように見ているペデストリアンデッキのことも、それほどお馴染みでもないけど何度か行ったことのある松島や石巻のことも、そして一度くらいしか行ったことがないけど実際に雰囲気を知っている大崎八幡宮や塩竃神社のことも……。
 基本的に司馬さんの文章は好きです。今のように読書大好きで幕末大好きな人間になったのは『竜馬がゆく』と『燃えよ剣』それに同じ時代の短編をいくつも読んだからです。なのでこの「街道をゆく』も、とても楽しく読みました。本当は「この文章がいいんです」ということを引用魔・澁澤龍彦さんの如くビッシビシ引っ張って来たいところですが、それもどうかと思うので、ひとつだけ。
 神道に関する言葉で、司馬さんはこんなことを言っていました。
 「神道は気分であって、教義ではない」
 さらに山片蟠桃が言っていたとして、こう記しています。
 
蟠桃は、神道は人間のまごころだという。かれによれば、鬼神は存在しないが、われわれが服装をととのえ、精神の折り目をただし、うやうやしくへりくだって神や霊をまつるときには、神や霊は現前に在ますがごとくにある、という。つまりは神は人間のまごころのあらわれであり、確かめでもある、という意味のことをいうのである。
朝日文庫『街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻』256ページ
 
 付け加えて言えば、もともとそのように形のないものだから、何をまつろうがそれほどこだわりがないのだからいいんじゃないの、と言ったことを司馬さんの私見として言っています。明治以降のことではありますが、日本にはナニナニノミコトという神代の人たちだけじゃなくて、伊達政宗や九戸政実や伊東七十郎など個人をまつった神社もあるので、やはりそういうものかな、と個人的には思いました。そう、神社を建ててまつるのは、私たちが気持ちを正して真心でその対象を敬い愛するからなのです。きっと。

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