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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
今年の1月に『宮本武蔵』(吉川英治版)を読み、さらに先週は『柳生宗矩』(山岡荘八)を読んだ私。小説そのものだけでなく、両先生の書かれたエッセーなんかも読みながら、その好き度合いをいっそう深める日々が続いておりました。

そんな私に冷水を浴びせかけたのが、今回読んだ『宮本武蔵を哲学する』(赤羽根龍夫、南窓社)。副題は『柳生の剣、武蔵の剣』とあります。

今、冷水を浴びせかけたと言いましたが、これは決して悪い意味ではありません。これを読んで、ようやく現実的な武蔵像が見えてきたからです。・・・ちなみにこの本が刊行されたのは2003年。ちょうど大河ドラマで武蔵が取り上げられ、武蔵関連の研究本が出まくった時代だったようです。

なお、これは私が読んだ感想なので、もしかしたら著者の意図とは違うかもしれません。もしそうだとしたら・・・もう1回読み直します。ゴメンナサイ。


いわく、これまでの武蔵研究はすべからく「江戸中期以降の儒教的発想」にとらわれ、そのフィルターを通して捉えようとするために、誤った見方をしてしまうのだと言います。そういった信念に基づいて振り回される刃で、吉川武蔵もそれをこき下ろしたシバリョー先生も次々と斬り伏せていきます。21世紀の哲学者先生の刃は実に鋭く、そして冷たいものがあります。

私もまた、それまで持っていた吉川武蔵のイメージをバッサリと斬られました。そして斬られたあと私が見せつけられたものは、「吉川武蔵は柳生十兵衛だった」という衝撃的な――そして、妙に腑に落ちる赤羽根先生の結論でした。

そこで、私の思想は柳生側にシフトしました。私は吉川武蔵の求道的なスタイルが非常に気に入っているのです。何が何でも勝つのが一番! という(実在の)宮本武蔵の思想はきわめて現実的で、しかも正しいことだと思うのですが、やはり私は『勝人剣』ではなく『活人剣』の思想が好きです。どちらの思想に学びたいかと言えば、柳生新陰流の思想に寄り添いたいと思います。

・・・なんてね。

柳生宗矩も宮本武蔵も、50代60代になってようやく兵法の何たるかがわかったって自著で言っていますからね。まだ32歳の私は、そんなに定まった思想なんか、持たなくていいのかもしれません。せめて「もうすぐ四十郎ですが」と照れくさそうに語れるくらいまでは、ああだこうだと悩みながら生きるのがいいかもしれません。

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