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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
先日、「私はギャンブラーにはなれない」という話をしましたが、改めてそのことを少々書きます。

たとい勝てばお金(など)が儲かるとはいえ、コツコツ働いて得たお金が2分とか3分で消えてなくなるかもしれないプレッシャーには耐えられない……というのが、先日書いた言葉。

それは言い換えれば、私がどちらかというと堅実志向な性格ゆえということかもしれません。一攫千金にロマンを求め、それで破滅するのもまた良し……という生き方が、どうしても出来ない気がするのです。ドサ健あたりから軽蔑されるような、堅気でやっていきたいタイプなんです。


そういうことを踏まえると、この小池重明という人は、絶対に友人にはなりたくないタイプです。

将棋の腕はプロ棋士を負かすほどのレベルでありながら、それ以外は何をやってもダメ。職を転々とし、借金は増え続け、お世話になった人が経営する店の金庫から金を奪い逃亡することも数度(その場に借用証を残していくので『盗んだわけではない』とは本人の弁)。最期は不摂生から血を吐いて死んでいったような人です。まったくもって破滅的な人生です。

まだ人生経験の浅い10代の頃ならともかく、30代になった今では、まったくもって関わり合いになりたくない人間です。

でも、そういった理屈では割り切れない『何か』を感じさせるのも事実です。それはやはり、人間としては破綻者だけれど、将棋の腕だけは……という一芸があったからなのかな、と思います。


私が『面白いな』と思ったエピソードをひとつ。

小池氏が団鬼六先生に、「先生と将棋を打ちたがっている人がいる」と紹介したことがあったのですが、実際に会ってみても一向に将棋が始まらない。どうしたことかと思いつつ床につき、夜中にトイレに立った時、ふと別室で将棋を打っている小池氏を見つけました。ところがその様子があまりにも真剣で「オレには将棋を指させないくせに、自分だけ何をやってんだ」と問い詰めることもせず、さっさと用を足して再び寝入ってしまった団先生。

朝になると、目の前に札束を積み上げた小池氏。実は自分が真剣勝負(賭け将棋)をする際に、ちゃんと負けた時の支払いを保証してくれるスポンサーがいますよ、ということを相手に見せるために団先生をダマしてつれてきた……ということだったんです。それでいて律儀に分け前を渡すあたりが、ヘンなところでまじめな小池氏の性格を現したエピソードだな、と思いました。


強くなれば強くなるほど真剣勝負を受けてくれる相手がいなくなり、食い詰めていく――麻雀放浪記でも読んだ、裏プロとしての悲哀が、そこにもありました。そういった生き方を自分はすることが出来ないし、だれもすることはできないでしょう。

でも、そういう人がかつてこの世にいたのだな……という、戦国武将の話を読むにも似た気持ちで本を閉じたのでした。

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『徳川家康』本編を全巻読了し、関連? エッセイ『史談 家康の周囲』を読み、気持ちが少し固くなっていたところがあるので、今は『真剣師 小池重明』という本を読んでいます。団鬼六氏の本は高校生の頃『お柳情炎』を読み……かけて途中でほっぽり出して以来です。

内容についてはまた後日触れるとして、こういった賭博師の人が主人公の本を読むのは随分久しぶりだな、と思いました。それこそ高校生の頃以来かな。

その頃は文化的不良というか、澁澤龍彦とかマルキ・ド・サドとかを読んで、『人間の暗黒面を見尽くしてやろう』と思いダークサイドな世界に落ち込んでいました。具体的にどういうことを考えていたかは、異様に長くなるのでバッサリ割愛しますが。


阿佐田哲也の作品を読んでいたのもその頃でした。『麻雀放浪記』は真っ先に読み、その作品の中で主人公以上のインパクトを残した『ドサ健』を主人公とした長編『ドサ健ばくち地獄』などの小説系も読んだし、阿佐田氏自身のことを書いた『麻雀狂時代』『ギャンブル人生論』なども読みました。『真剣師 小池重明』も、その系統に連なるのかな。

それらの本を読むことで、まるで自分がそんな『ばくち打ち』の一人になったような気分になりました。それと同時に、

「自分は、ばくちに向いていない」

と思いました。ものの数分で給料数か月分のお金が増えたり減ったりするような世界のプレッシャーには耐えられないし、バカバカしくてやってられません。自分の懐が痛まない状況(何かのゲームのオマケとしてついてくるようなもの、など)であればともかく、現金をかける「ばくち」は嫌いです。

そういうこともあって、ギャンブル小説のたぐいも敬遠するようにしていたのですが、この『真剣師 小池重明』は当時からずっと気になっていた本でしたからね。賭け事がいいか悪いか好きか嫌いかではなく、この小池重明という人が何者なのか? どんな人間なのか?――それを知りたいと思い、今回手に取ったしだいです。

ちなみに真剣師というのは、段位や何やといった名誉をもって生計を立てていく『表プロ』に対し、直接現金のやり取りで生計を立てていく『裏プロ』のことです。この小池重明という人は将棋の真剣師だった人です(故人)。

将棋についての私のレベルは『駒の動かし方を知っている』という程度です。以前『龍が如く3』のミニゲームで遥(小学生の女の子)と対戦し完敗したレベルです。2手先のことすら見えてこないんです。これじゃあダメだろって。

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ついに、『徳川家康』全26巻、読了しました。

終盤、病床にあった大御所は『生命の樹』を見た、と側近に話しました。まあ本多正純なんかは「ハァ?」と内心思っていたようですが、とりあえず私は大真面目にそのことを書きます。

それは大地から太陽に向けてのびているもので、一人一本というわけではなく、あらゆる生命が現世を去り、この樹に戻っていくための宿り木なのだそうです。

枝の一番下にいたのは今川義元。次にいたのが総見公(織田信長)。豊太閤も武田信玄も柳生石舟斎もみーんなこの樹にいたんだそうです。この世を去るということは、みんなそこに帰るだけだから……という話なんです。

もう25冊以上読み続けて、もはや人生観すら大きく影響を受けている私ですからね。大御所の最後の言葉にまたもや落涙です。この世を去った後どこに行くのか? という話は古今東西色々とありますが、この『生命の樹』という考え方が非常に気に入りました。

さかのぼれば応仁の乱あたりからでしょうか。この国が乱れに乱れていた戦国乱世を終わらせた徳川家康という人物。ともすれば権謀術数の達人・狸ジジイとさげすまれ、真田幸村が主人公のゲームではラスボス扱いをされる大御所ですが、たといこれが山岡荘八先生の創りあげたキャラクタだとしても、考えを改めなければなりますまい。

宣言します。いぬがみは、徳川家康公が大好きです。


最終巻で、また山岡荘八先生自身の言葉に触れることが出来ました。「あとがき」です。

準備期間を合わせると山岡先生40歳の時から60歳の時まで足掛け20年の作業。四百字詰め原稿用紙17400枚。それだけの歳月と分量で切々と訴えかけたのは、あくまでも『平和』への願いだったといいます。

そしてそれを実現するためには、「所有欲」を抑えることが大事である、といいます。アレも欲しい、これも欲しい、もっと欲しいもっともっと欲しい・・・と、これはブルーハーツの歌ですが、そういうところから強盗や殺人や戦争が起きるのだ、と。

ただし、それは何もかもを捨てて裸になれという意味ではない、といいます。食べるものや着るものを手元においておくのはいいけれど、それらに対して『自分のもの』ではなく『自分が預かっているもの』という気持ちで生きろ、という意味だそうです。

まあ、その哲学を私の文章力で表現することは到底無理なので、この言葉を額面どおりには受け取らないでください。というよりも、多分こういう考え方って、今時はやらないですよね。だからいいです。忘れてもらっても結構です。

でも、私はその思想を頑張って突き詰めていきたいと思います。これまでのことを反省し、これからの人生に活かしていく。それが、私が家康公を敬愛することの証明になると思うから。


・・・では、さしあたって盛岡市立図書館からの預かり物である『徳川家康』を返してこようと思います。

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鹿児島県民の方には申し訳ありませんが「薩摩の国は修羅の国」というイメージがあります。戦国期から幕末期まで、島津氏をリーダーとする猛将・剛将ぞろいの、戦闘民族の国というイメージ。武力があるだけじゃなく時流を見極める眼もあるから、幕府側だろうと新政府側だろうと状況に応じて躊躇なくクルクルと立場を変える臨機応変さ。義理人情で壊滅的被害を受けた南部藩とは大違いです。まあ、それは200年以上あとの時代のことですが。

……そう思っていたのですが、わが東北にも修羅がいました。伊達陸奥守政宗です。

若い頃から野心むき出しで暴れまくり、何度か命を落としかけつつも東北最強の大名として君臨した政宗公。山岡荘八先生の世界では、とにかく常人離れしたスケールで物を考える謎の人物といった印象です。

目的のためなら誰彼ともなく手を組むし、切支丹に改宗(したフリ)だってする。そして太平洋を横断してヨーロッパに使者を遣わし、外国から大艦隊を呼びつけて大乱を引き起こそうとするフシもあります。正直なところ、こうして書き出してみたものの、果たしてこれでいいのかどうか? ちょっとわかりません。そのくらいの野心家なのです。


25巻では、その伊達家の基本理念みたいなものが少し語られていました。内容をザックリ私の言葉で書き出すと、

「政宗に敵味方の考え方はない。たとえ味方であっても、それが大軍を乱し敗北につながるようであれば忠節が立たないので、躊躇なく討ち取る」

ということなんです。徹底した実力主義というか、修羅の国もかくやと言わんばかりの武の掟があるのです。これほどまでに冷徹な思想は総見公(織田信長)以来か、はたまたそれ以上か……という印象です。

果たしてその政宗&忠輝(※)のコンビに大御所はどう立ち向かうのか? そして、どういう思いを遺して、この世を去るのか? 次回、最終巻!

(※ 大御所の、たくさんいる息子の一人。その才気煥発ぶりはかつての信康をホーフツとさせるが、それゆえ我が強く、大御所のことをオヤジ呼ばわりする無法者)

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『怒りは敵、堪忍は武運長久』という言葉を残した(ことになっている)大御所自身が、実は結構、短気な人物だった……というのは一般に知られるところです。ホトトギスが鳴くまで待っているかもしれませんが、待っている間もずっと色々な準備を怠らないし、家臣に手抜かりがあったらその下で容赦なく怒鳴り散らすような人だったのです。

といって、これを「言ってることが違うじゃん」つってコケにするつもりはありません。多分それは自戒の意味も込めて言ってるんだと思います。わしが短気でさんざんひどい目に遭ってきたんだから、お前らも気をつけなくちゃいけないよ、と。

そういうわけで、毎日、短気を戒めるよう努力しています。


『徳川家康』全26巻のうち、25巻も、もうすぐ終わろうとしています。

メインになる場面はもちろん大坂の役。冬の陣で濠を埋められ、籠城は不可能な状態にされてしまった大坂方。ならば打って出るしかない! というわけで後藤又兵衛、真田幸村といった猛将が大暴れします。無論関東方も名だたる名将がそろっているのですが、「この戦いで死ぬ」と決めてかかる人々と「死にたくないけど一応戦う」人々では士気が全然違います。ましてや自身の武力だけではなく指揮官としても当代随一のセンスを持った人ですからね。

「この世から戦のなくなることなどない。大御所、将軍家の命をもってそれを証明することが、自分を評価してくれた大御所への恩返しだ」

などという非常に物騒な信念を胸に戦うものですから、大御所・将軍家ともども討ち死にの危機に瀕しました。

特に将軍家は護衛部隊が別な戦場に行ってしまい、すぐそこまで敵が迫る大ピンチ状態に。戦国無双なら「本陣苦戦! 至急来援せよ!」とワーニングが出ています。

しかしながら、将軍家の側には柳生又右衛門宗矩がいました。襲いくる敵をその太刀筋で切り捨て、無事に自分も将軍家も逃げおおせたのですが、『活人剣』をモットーとする宗矩は(やむをえない状況だったとはいえ)それを恥とし、自ら語ることはなかったといいます。

それでも、ちょっとした「はずみ」で計算が狂うのが戦というもの。いくつもの「もし、こうなっていたら」を残しつつ、後藤・真田ともども壮絶に討ち死にしました。

この時点で大坂方はほぼ壊滅状態。家臣も次々と討ち死にまたは自害して果てます。そして淀の方&秀頼母子も籾蔵の中で御自害。すべてが終わってしまったのです。


このあたりの話は、たぶん山岡荘八先生の創作であろうとは思うのですが、非常に悲しい気持ちになりました。大御所はあくまでも秀頼母子を助命しようとしていたのですが、その気持ちは身内でさえ理解できていませんでした。将軍家しかり、その将軍家に近い世代しかり。

千姫だけは何とか助かったものの、秀頼母子を初めとする女たちが軒並み自害して果ててしまう……男たちはともかく、女子供がこうして死んでいく場面は、本当に胸が苦しくなります。一方でその引き金になった連中は、「大御所はそういうけれど、豊臣家は敵なんだし」「オレたちは勝ち組でアイツらは負け組。何でそんな連中に気を遣わなきゃいけないんスか」と言って胸を張っているものだから、なんだか腹も立ってきます。

だからといって私情をぶちまけては将軍家の権威失墜や身内の不和、瓦解にもつながります。そこでグッとこらえ、ひとり静かに涙を流す……。まったくもって、リーダーというのはつらいものです。


そんなわけで、最後に消しがたい汚点が残ってしまったものの、もうすぐ最終巻。今度こそ泰平の世はゆるぎないものとして、安心してこの世を去ることが出来るのかな……と思っていたら、最後の最後に波乱が起こりそうです。

そう、東北の龍・伊達政宗です。

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『徳川家康』23巻は、私のような泰平の時代を生きてきた人間にとっては非常に重い話でした。

時代的には大坂冬の陣の少し前。秀頼・淀君の思惑とは別に全国から行き場を失ったゴロツキ牢人どもが集う大坂城から何とか出てもらうべく、家康公は鐘に刻まれた文言が自分を呪う言葉だと言いがかりのような難癖をつけます。しかしそれは従来私が考えていた「戦を吹っかけるための口実」ではなく、大坂開城(=戦争回避・家名存続)を決断してもらうための「謎かけ」だったのです。

「わしは秀頼公を、ひとりの大人として接するぞ」

そう言って、あえていくつもの謎を吹っかけた家康公。それは秀頼公に器量があるかどうか? を計るための謎かけでした。

しかし、残念ながらいくつもの誤解や何やがあって、戦争は回避できない状況になってしまいます。

真田幸村が入城するのは、そんな秋の頃でした。


家康公いわく、真田幸村の父親である真田昌幸は『天下取り病』であったといいます。なおほかの病人は奥州の伊達政宗、そして今年何かと話題の黒田如水です。

「この世から戦がなくなることはない、人は戦をせずにはいられない生き物だ」

そういって生涯を戦いに捧げ、サイヤ人級の戦争屋として死んでいった(ように見えた)真田昌幸の思想を思い切り濃く受け継いでいる真田幸村。それゆえ兄・信之の説得にも応じず、大坂城に入っていきます。

万に一つも勝ち目のない戦にのぞみ、自分の信義を貫き通そうとする姿は非常にカッコイイ……というのが世間一般の評価であろうと思います。なればこそ戦国無双では主役中の主役として抜擢されているのでしょう。

ただ、今の私は、そういうのを好みません。そういう生き方を否定はしませんが、この状況であれば、やはり家康公の側に理があるというか、そうするべきだと思うのです。大坂方に加わらないようにする、と。

それはここまで23冊分触れ合ってきた家康公に、私も少なからず影響を受けているからだろうと思います。


この頃の日本国は関が原以来戦争がなく、それゆえ戦争の何たるかを知らずに育ってきた世代が出てきました。昔『戦争を知らずに僕らは育った』なんていう歌がありましたが、まさにそうなんです。そしてそういう若者に限って戦争を勇ましくカッコイイものとして捉え、ことさら戦争をしたがるのだ、と言うんですね。幼少期からその戦争の渦に巻き込まれ、親兄弟を早くに亡くし、何度も何度もつらい目に遭ってきた家康公は、それゆえ全身全霊をかけて戦争を回避するよう努力しているのに。

この言葉には、すごく共感しました。あまり多くは語りませんが、私はそんな家康公を心から尊敬します。そして、それゆえに見られなくなったアニメや出来なくなったゲームがいくつかあることを最後に記しておきます。

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去年の夏に仙台に行った時、仙台市はちょうど慶長遣欧使節出帆400年のメモリアルイヤーとして盛大に展示会をやっていました。私もそれを見て、陸伝いの西回り航路ではなく太平洋横断の東回り航路で船旅を成功させた支倉常長という人物、そしてそれを派遣した政宗公の偉業に感涙したものです。

現在読んでいる『徳川家康』22巻でも、ちょうどそのあたりの話が出ています。ただしこの本に出てくる陸奥守は底知れぬ野心を持った深謀遠慮の人として描かれているので、ただ南蛮文化を求めて独自に船を出した……わけではないように描かれています。ついでに言えば支倉常長も切支丹の教会を建てるため旧来の寺社仏閣を焼き払った張本人として描かれています。

関が原の戦いから十年余りが経ち、一応は平和な世の中であるものの、南蛮人と紅毛人(=旧教と新教)の対立や作中屈指のクセ者である『天下の総代官』大久保長安の死後に発覚した内紛など、なかなか磐石な平和は訪れません。そこに来て、取りようによって敵にも味方にも見える不気味な伊達陸奥守の影……。

ここに来て、さすがの大御所もちょっと弱気になったり涙を流したりしてしまいます。ここまで何十年もかけて平和を追い求めてきたのに、よりによって身内で乱の種が芽吹くとは……。


しかしながら、そんな大御所に代わり諜報活動やアドバイスをするのが将軍家お抱えの兵法指南役・柳生宗矩です。

漫画『影武者徳川家康』では秀忠の側近・懐刀として、どちらかというとダーティな立ち回りをしていた宗矩ですが、本作では秀忠だけでなく大御所にとっても重要な人物として活躍しています。まあ影武者かそうじゃないかという根本的な違いがあるので、比べようがありませんが、ともかく剣術家・兵法家として快刀乱麻、ズバズバと斬り込んでいきます。そして真なる平和のために、苦渋の決断を下していくことになる……んでしょうが、残念ながら23巻以降は手元にありません。

この後、徳川家と豊家の間で何が起こるのか。私は21世紀を生きる人間ですから、もちろんそれはわかります。

かつては

「家康は天下統一のため邪魔っけになった豊家に因縁をつけて、大坂の陣で壊滅させたのだ」

と思っていたのですが、天下泰平をライフワークとし秀頼公に自分の可愛い可愛い身内を嫁がせてまで両家の並立共存を果たそうとした大御所が、どういう思いで開戦に踏み切ったのか。そのことをちゃんと見極めたいと思います。必ずしも、秀頼憎しで決断したわけではないと、信じています……。

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以前にも書きましたが、小説って、やっぱり書いている人の気持ちがにじみ出てくると思うんですよね。だから徳川家康という実在の人物を取り上げても、権謀術数に長けた老獪な狸ジジイというイメージもあれば、山岡荘八先生が作り上げたようなイメージもある、と。

私は実際に家康公にお目にかかったことがないので、要するに「どのイメージを採用するか」ということだと思うんですが、実は元々家康寄りの人間なんです。数年前に日光東照宮に行き、そこで東照宮遺訓(「人の一生は重荷を背負って・・・」ってやつです)を読んだあたりから、やはり人生とはかくあらねばと思ったのです。それが本当に家康公が言ったとか言わなかったとか言う話は別にして。


そんな山岡先生の描き出す人物たちは、いずれも非常に魅力的というか・・・それまであまりいいイメージをもっていなかった人も、そのイメージを改めるきっかけとなるものばかりでした。

たとえば私は大坂方の母子(淀君&秀頼公)があまり好きではなかったのですが、こうして出生の頃からず~っと追いかけていくと、「これもまた仕方がないのかもしれない」と思うようになってきたのです。

淀君は幼少の頃に母(お市)と死に別れ、思いっきり年の離れた秀吉の愛妾となり、その秀吉があっという間に逝ってしまって。自信の欲求不満と息子可愛さと太閤の威光が色々と混ざって、あの超勝気なキャラクタになったのだろうと思うと、むげに嫌うことが出来ません。

それに秀頼公も、やはり正しく導く人がいなかったのが不幸だったと思います。この男は(史実ではどうだったかわかりませんが)強気なところがあるかと思えば妙にさびしがりで、そこらへんの中学二年生とあまり変わらないような感じです。その一方で嫁入りしてきた千姫の身の回りを世話している女性に手を出して子を作ったりしています。これだけ見ると、ただのハレンチ野郎ですが、どうしてそうなったかを考えると・・・ただ目を閉じてうなだれるしかありません。

そう、誰が悪いわけでもないのです。きっと、仕方がないことなのです。

そんな状況を何とか改善しようと必至で頑張る家康公。それを見て、400年ほど離れた時代を生きる私も、なぜか『頑張らなくちゃ』と思ってしまうのです。

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このところ余暇のほぼすべてを『徳川家康』を読むことに費やしているので、そういう話ばかりになってしまいます。あらかじめご了承願います。また、この記事は個人の見解によるもので、史実と異なる場合があります。


たとえば総見公(織田信長)がまだ現役バリバリでやっていた頃は、『西洋人=南蛮人』でした。ところが最近読んでいるあたり、すなわち1600年代には『紅毛人』という言葉が出てきました。どちらも西洋人をさす言葉なんですが、南蛮人は主にポルトガル・イスパニアの人たちをさし、紅毛人とはイギリスやオランダの人たちをさす言葉のようです。

これらの人たちの違いは見た目だけではなく、宗派の違いもあります。どちらも同じキリシタンなんですが、旧教と新教の違いがあるんですね。私のような典型的日本人からしてみれば「どっちも似たようなもんじゃないの」と思うんですが、当の人たちにしてみれば絶対に相容れることのない敵同士なんです。

そんな紅毛人ウイリアム・アダムスこと『三浦按針』が家康公のもとにやってきて、外国との付き合い方について真剣に考えをめぐらせる・・・というのが、20巻『江戸・大阪』編の重要なテーマです。


従来、時代小説における西洋人というのは、ある意味神に準じる存在のように受け止めていました。未知の技術や文化をもたらしてくれる人たち。トランプで言えばジョーカーみたいなもので、南蛮渡来のナントカといえば無敵状態になれる魔法のアイテムのようなものだと思っていたのです。

でも、そんな風にチヤホヤしているだけじゃ、ずるがしこい人間にそのまま食い物にされてしまうから、しっかり自分たちの利益を確保しつつ上手に付き合っていくにはどうしたらいいか? と、そのまま現代のビジネスマンの考え方にも通じるようなことを考えているんですよね。

そういうのって正直なところ、坂本竜馬あたりの世代になるまで誰も考えていなかったと思っていたんです。これはもはや、両手をついて涙を流しながら平伏するしかありません。

もちろん、それもこれも泰平のため。戦がないだけでなく、国全体が富み、人々がなんの心配もなく生きていける治世を行うためあらゆる思案・手段を講じる家康公の真摯な思いからくることなんです。私は東北人なので、どちらかというと伊達陸奥守様の方が好きですが、これからも読みすすめます。

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これまでの人生で、一番に本を読んだのは大学時代でした。‥‥2012年までは。

2013年は数えてみれば120冊以上の本を読みました。大学時代は確かに本を読んでレポートを書くのが本分でしたが、冊数や密度でいえば少々薄かったような気がします。

『竜馬がゆく』や『帝都物語』などの長編物も2013年になってからガンガン読みまくりましたが、つくづく思ったのは、

「作家という職業の人は、本当にすごい」

ということ。私が読んでいる物語は当然ながら作家の人が考え、書き出したものですが、そういうところに考えが及ばないほど入り込んでしまう。読んでいるうちに、その登場人物が現実にそこにいて語っているような錯覚に陥る。なればこそ、その人物の言葉に笑ったり泣いたりウムムとうなってしまったりと、素直に感情を揺さぶられてしまうのです。

特に『竜馬がゆく』『徳川家康』『宮本武蔵』なんかは、本当に教えられることばかりです。言ってみれば歴史小説BIG3って感じです。誰が明石家さんで北野さんで森田さんかは不明ですが。

ともあれ、こういった物語を書くことを専業とし、生きていくための武器にしている『作家』という職業は本当に大変なものだと32歳にしてようやくわかった気がします。中にはお手軽に書かれたようなスカスカの作品もありましたが、それはそれでよろしい。私は批評家ではないので何がいいとか悪いとか、そういう技術的なことはわかりませんが、とにかく今の私は本が大好きです。

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『徳川家康』を再び読み始めました。

今年は『宮本武蔵』を読むことから始め、その後はスポーツ小説や村山早紀先生のちょっとファンタジーな小説を読み、多少気持ちがふんわかしていたところだったのですが、図書館で次に読みたいと思っていた村山先生の小説が貸し出し中でなかなか戻ってこないのでね。それなら、中途半端になっていた『徳川家康』を最後まで読もう、と思ったしだいです。

19巻は泰平胎動の巻。関が原の戦いを終え、征夷大将軍に任命された家康公。内府殿から右府殿あるいは上様になったところです。

その一方で、初期の頃から出ていたメンバーもいよいよ幽明境を異にする場面が出てきました。家康公の生母である伝通院や、まだ織田信長が「うつけ」と呼ばれていた頃からフィクサーとして暗躍していた納屋蕉庵、などです。時代の移り変わり、世代の入れ替わりを感じます。

私は21世紀の日本からその様子をず~っと眺めているだけですが、やはりさびしいものがあります。でも、そういう人たちも最後まで泰平を願いながらこの世を去っていったのを読むと、なんだか胸が詰まります。今じゃ何かというと戦争だ戦争だと騒ぐ人もたくさんいますし、私自身もその手のアクション映画などに心躍った時期がありましたが、やはりこの本を読むたびに平和の尊さを感じます。

ともすれば権謀術数に長けた『狸ジジイ』と称される家康公ですが、豊家との安定のため可愛い孫娘を秀頼公に嫁がせたりするなど、その心はあくまでも戦のない世界を創ること。今時こういうのってはやらないのかもしれませんが、私はやっぱり、こういう平和の形が好きです。

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「おれはひとりの修羅なのだ」といえば宮沢賢治ですが、私もまた修羅というか、畜生というか、流行の言葉で言えば『下衆の極み』みたいなもんだなあ、と思いつつ日々を過ごしています。

 だからこそ多くの本を読み、心を少しでも綺麗に磨いてやりたいと日々努力しているところですが、村山早紀先生の『コンビニたそがれ堂』なんかは、そんな私には少々まぶしすぎる作品でした。心があらわれるというか。

 そこに余計な感情や思考を差し込んで台無しにしてはいけないと思い、慎重に――そして一気に読みきってしまいました。

 それは確かに、誰でもが体験できることではないでしょう。そのコンビニでは、探し物がある人は必ず見つけられるというものの、ほとんどの人はまずコンビニを見つけることができないわけですからね。

 でも、そうかといって「そんなこと、ありえない」って否定するわけにはいきません。その小説の中の人たちにとっては、実際にあったことなんですから。

 それを否定しようとする感情を強い力で抑え付け、目の前で起こる奇跡を素直に認める。そうすることで死に掛けていた感情がむくむくとよみがえる気がするのです。


 全然、ブックレビューでも何でもありませんが、とにかくそれを読んだということを書きたくて、今日は書きました。上手にいえませんが、とにかく最高によかったです。

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この本を手に取った理由は、ほんのちょっと前までその存在さえ知らなかった『女子スキージャンプ』という競技のことをきちんと知りたかったからです。

 言うまでもなくテレビでは連日? 高梨選手のことが取りざたされます。オリンピック直前までは、もう朝の情報番組(めざましテレビ)から夜の情報番組(スーパーニュース)まで、なんだかんだと報道されていましたよね。

 でも「そういうのって、なんか嫌だな」って思ったんです。天才少女とかメダル確実とか、そうやって持ち上げるのはいいんですけど、逆に言えば、「そういうのがなければ、価値はないのか?」と。順位のつくスポーツの選手だから、「そうだ」という人もいるかもしれませんが、私はそうは思いません。順位は後からついてくるもので、選手が「やりきった」と思えるかどうかが大事だと考えているからです。

 そういったことを理解するためには、できるだけ選手の側から見なければいけない。そう思っていたところなので、小説という形ではあるものの、これを読んだ次第です。一応ちょっと書店で立ち読みして、ラノベ的な、お手軽な展開ではなく、結構まじめな青春スポーツ小説って感じだなという手ごたえも得たことだし。


 完全アウェーの転校生、さつき。スキージャンプの天才美少女、理子との出会いが、孤独で憂鬱な日々を塗り変えていく―わくわく、ハラハラ、うるうる。全部が詰まった青春小説。



 一通り読み終えた感想としては、まあ、これまでに読んだ青春スポーツ小説(私が読んだ感想については特集ページでまとめています)ほどの熱さはありませんでしたが、十分に楽しめました。比べる対象が、日常生活に支障が出るくらいの異常燃焼だったんで、少しも見劣りするものではありません。すごくよかったです。

 それに、スキージャンプ競技の何たるかは少しわかった気がしました。踏み切りのタイミングとか、空中姿勢とか、そういった細かい技術的なこととかね。知識があれば実際の競技をテレビで見る時の気持ちも色々と変わってくるというものです。そのスゴさが具体的にわかるというか。

 あと、男と女は違うんだな、ということもわかりました。女の子には、ヤローには物理的に絶対に理解できない悩みがあるのだな、と。だからいいとか悪いとかではなく、まずはそういった『違いがあること』をちゃんとわかっていなければならない、と思ったのです。これは先ほどあげた青春スポーツ小説の中でも書かれていたことですけど。

 またひとつ、いい経験をしました。

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昨日、図書館で自動車のエンジンに関する解説書を借りてきました。といっても技術者向けの専門書とか、DIYで点検整備したい人向けのものではなく、一種の読み物として「エンジンってこういう感じで動いているんですよ」というのを、私のようなタイプの人間でもある程度理解できるよう図入りでわかりやすく説明した本です。

 一回で全部を理解できたわけではありませんが、かなり理解が深まりました。

 たとえばグランツーリスモとかのような、自分でチューニングできる系の車のゲームで「このパーツを交換するとこうなる」ということは知っていても、「じゃあ、どうしてそうなるのか」というのは、あまりわかっていない部分があったんですよね。それを図入りで解説してもらうことによって、「そういう理由で、こうなる」というのがわかる。これはとても面白いです。

 また、じつは最近、愛車を車検に出してきたのですが、整備後に渡された交換部品のこととかも色々と知ることができました。ガスケットとかオイルシールとかウォーターポンプとか。

 そういうことを知ると、工賃の意味とかもわかってきますね。誰でもが簡単にバラして交換できる部品じゃない。設備も技術もある程度以上のものが必要なんです。私のような素人がちょっと本を読んだからといってすぐにDIYできるようなものじゃないんです。

 まあ刊行年度はちょっと古い(2000年前後)ですが、私が乗っているファミリアファミ子も2000年の車だし、そのあたりはまったく問題ありません。むしろ、まだハイブリッドシステムが今ほど普及していなかった時代ですから、次世代の車はああなるこうなるという予測が立てられていたのが面白かったです。100万円台のコンパクトカーにまでハイブリッドシステムが搭載されるなんて、当時誰が予想できたでしょう。

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このところは吉川英治先生の『宮本武蔵』を読んでいました。

 1日1冊くらいのハイペースでした。少々荒っぽい読み方になってしまったかもしれませんが、元々新聞連載の小説と言うこともあってか、非常に読みやすかったのです。何よりも「先へ、先へ」と読み進めたくなる、そんなエネルギーをたぶんに含んでいたのです。

 いまさら私ごときがあらすじを書くまでもないと思いますが、スタートは関が原の戦が終わったところからです。この時まだ武蔵十七歳。字は武蔵ですが「むさし」ではなく「たけぞう」と自称しておりました。

 そこから様々な人と出会い、時に切り結び、旅を続けること十年余り。やがて訪れる離れ小島での決戦。そんな感じの物語を全8巻の大長編で描いた痛快時代小説です。


 極真空手創始者の大山倍達総裁、将棋の刈田升三・・・・は『月下の棋士』だ・・・・升田幸三名人、王貞治監督などなど、この小説に力をもらった著名人は少なくありません。また戦前の日本人の多くがその生き方に共感し、熱狂的な支持を集めたといいます。

 私もすごく勇気付けられました。また随分と宮本武蔵という人のことを誤解していた節があるようです。・・・・まあ、これが真実の宮本武蔵であるかどうかはわかりませんが(吉川英治先生も序文で「虚実織り交ぜて、小説として書いた」旨を述べておられますし)、ともかくイメージが変わりました。まあ激烈に強いのはもちろんですが、それが花の慶次でいう『虎は元々強いから強いんだよ』と言った強さではなく、人並みの悩みや苦しみと向き合い、それを乗り越えた先にある強さ――努力と修行と自己研鑽の果てに少しずつ積み重ねられたものなんですね。

 詳しい感想はまた後ほど書くかもしれませんが、とりあえず速報ベースで書きました。

 *

 それにしても、たとい小説と言えどもやはり書いた人の思想とか、そういうのが出てくるものだな・・・・と思いました。

 戦前の作家である吉川先生が書いた『宮本武蔵』。戦後に連載された山岡荘八先生の『徳川家康』。そしてもう少し時代が下った頃に書かれたシバリョーこと司馬遼太郎先生の『竜馬がゆく』。

 まあシバリョー先生は『司馬史観』なんていう言葉があるくらいクッキリハッキリ出ているので私が言うまでもありませんが、それを支持する人の意見にせよ批判する人の意見にせよ、そもそもそれがどういうことなのかわからなかったんですよね。結局、ほかに比べるものがないから。

 さしあたって、私はどれがいいとか悪いとか、言うつもりはありません。あえて言えば、それぞれを謙虚な気持ちで受け止め、その上でどういった生き方を志すのかを考えなければいけないだろう。そう思うのです。


 (ただ、たといベストセラーだろうと何だろうと、絶対に相容れないような思想を持った人の小説は、読みたいとは思いませんが)

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年末恒例企画『コトシノワタシ』。今年はあわや中止かと思われましたが、一応やります。

 今年はとにかくたくさん本を読んだ一年でありました。そしてユングに始まりユングに終わった一年でした。ついでに言えば、ユングとともにポプラ文庫ピュアフルがあった一年でした。

 2月にPCが故障し、することがなくなったので正月に買った『忍剣花百姫伝』を読んでウォームアップとし、そのあと結構前に買ってそのままにしておいた河合隼雄先生の『ユング心理学入門』を読んだところ、これがまた面白くて。私自身がこれまでぼんやりと考えていたことが理論でビシッと説明されて、急速に心が開かれたのです。

 その後も家にある未読の本を読みまくり、それがなくなると図書館に行って読みました。時代小説に児童小説、評論・エッセーなんでもござれ。面白そうと思ったらなんでも手を出し、笑ったり泣いたり熱くなったり涼しくなったりと様々な経験をしました。

 ある時から「今年は100冊くらい読めるかもしれないな」と思い、読んだ本をテキストファイルにまとめてみたのですが、今日時点で120冊くらいになりました。別にたくさん読んだからどうだというわけではありませんが、これはもしかしたら、人生の中でもっとも時間が有り余っていた――そして本を読むことに親しんでいたはずの大学時代よりも多いかもしれません。


 その結果どうなったかというと、まったくもって、不可思議な人間になりました。

 ろくすっぽ人の意見を聞かない割に、自分の意見も持たない。じゃあ何も考えず、流されるままに生きていくのかと言えば、心のコアな部分はしっかり固まっている。まったくもって、何がなんだかわかりません。

 ・・・ただ、これがすべてというわけではありませんが、「誰かが言っていたから」というのを、あまりやらないようにしようと思ったのです。もちろん完全にオリジナルな発想は、残念ながら私の頭の中からは出てきませんが、誰かがそう言っていたからそれが全面的に正しいんだ! ということをやめる。いったん受け止めて、頭の中で精査して、それからだろう、と。

 その時に物をいうのが経験だな、と思いました。私自身の人生として体験したことはもちろん、本を読むことで仮想的に体験した出来事。そういう体験の中で色々と考えたことも精査する時の材料として生きてきます。

 だから、うーん・・・いつだって心を閉ざさず、決め付けず、薄ぼんやりとした感覚で上手に生きていきたいな。そんなことを思いました。

 とりあえず、それが今の気分です。夜にはまた違う考えになっているかもしれませんが、とりあえず、思ったことを書き出しておきます。

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これは、買ってから3年以上ほったらかしにしていた本です。

 本の内容を想像しただけで感じる熱さを受け止める自信がなかったからです(同時に買ったのが「きみはジョッキー」だった)。

 でも、今なら何とかなる。西尾維新氏の本も読んだし、『きみはジョッキー』も読んだ。これを読めば、もう『読まないことに引け目を感じる』本は何もない。

 そして『レーシング少女』(郁子匠、ポプラ文庫ピュアフル)を読み始めたのでした。以下、速報ベースです。


 最初はガッチガチのバイク小説かと思っていたのですが、疑問符と感嘆符を合わせたものを全角一文字として表現したり、会話の中で長音符や波線を多用するような言い方をしているところにぶつかりました。個人的基準としては、そういう表現方法をしているものは『ライトノベル』判定をしているのですが……そんなことも気にならなくなるくらい熱くて気持ちのいい物語なので、細かいことは言わないようにしましょう。

 と思ってたら、フツーの女子高生らしく、誰かを好きになったりもするみたいじゃないですか。てっきりバイクのこと以外は何も考えていない子だと思っていたのに……いや、かえって親しみがわいたので、これはこれで大歓迎ですが。


 私は二輪の免許は持っていないし、オートバイの知識もあまりありません(さすがにマッハ涼よりはありますけど)。ただ、小学生のころからオートバイが大好きで、いずれは世界選手権に出たいと言う熱い思いは尊重します。それと同時に全力で応援します。そのくらいしかできないから。

 そういうわけで、第二章以降も読み進めたいと思います。

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そもそも競馬というものの何たるかを知ったのが『こち亀』であったため、競馬とはギャンブル要素の強いもの――というか、それ以外の何ものでもないというのが私の認識でした。それゆえギャンブルを好まない犬神は、岩手にも岩手競馬というものがありながら、まったく興味を持っていませんでした。

 それが変わったのは、以前スピリッツで連載していた『バロンドリロンド』という漫画がきっかけでした。元アイドルジョッキーで現在はかなり微妙な立場に立たされている女性騎手『佐倉真子』と才能はずば抜けているもののあまりにもプライドが高くて誰も乗りこなせない馬『バロンドリロンド』との物語なんですが、競技者サイドからの世界を見ることでグッと魅力的に映ったのですね。

 ……もっとも、それが『女性騎手が主人公だから』見たということは否定できません。今回読んだ『きみはジョッキー』も、準主人公の女性騎手がデビューしたての19歳だというのも、読む原動力のひとつでした。

 本当はそういうの、よくないのかもしれません。私自身、『女性だから興味がある』という思いがある一方、『女のくせに』『女ながら』という言葉には強い反発を覚えます。

 あるいは、矛盾するかもしれません。ただ、理論はともかく感情的な部分は、きっと私が男性だから女性に惹かれるという、すごく生理的な理由だと思うんですよね。だからこれはもう仕方がないと考えることにしました。ひとまず感情的なものは「そういうものだ」と割り切って、その上で応援する、と。


 さて、先ほども書いたように本編の準主人公である女性騎手は19歳です。でもって主人公の男性厩務員も19歳。ふたりともデビューしたての新人です。普通であればこれからいろいろな経験をして大きく成長していくというものなんですが、二人が所属するのは閉鎖寸前の地方競馬。そこにいるのは大半が、すでに色々な経験をしすぎて漂着したようなオッサンたちばかり。若い二人にとってはかなり厳しい環境です。

 でも、やはり熱さというか、現状をもっとよくしようという気持ちがあれば、変わるのです。少しずつでも。

 まあ、あまり、漫画的な展開はありませんが。名のでこないだ読んだライトノベルというわけではなく、『青春小説』と言われるジャンルのものなんだな、と思います。


 例によって感想は後ほど本館の方に書こうと思いますが、ひとまず速報まで。




 * 岩手競馬と言うのは全国的に見ても女性騎手を多く輩出しているところだと、先日IBCラジオで地元アナウンサーが言っていました(加藤アナだったかな。イブニングジャーナルです)。1970年代に日本初の平地女性騎手(とWikipedia:女性騎手の項目に書いていた)の高橋優子さんも岩手だし、昨年引退してしまいましたが皆川麻由美さんという人もいました。そして現在、新たな女性騎手がデビュー目指して岩手のどこかの厩舎で練習中である……というのを同じイブニングジャーナルで聞きました。どこのどなたさんなのかは調べても出てこないのでアレなんですが、ともかくデビューしたら犬神も応援します。

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『少女不十分』読了しました。

 具体的な感想は本館の方で書いたので、こちらではあまり多くを語りませんが、結構たぎりました。

 Amazonで100件以上のレビューがあり、しかも評価1~5まで満遍なくあるところからも、これがいかに衝撃的な作品であるかは、すぐにわかるかと思います。いちいちそのレビューを読むような趣味はありませんが、賛でも否でも反響があるのはいいことです。


 12年前(当時20歳)に作りたかった世界を、今こうして読める幸福。というか衝撃。あるいは戦慄。西尾維新氏は、12年前の私が思い描いていた理想の私なのかもしれません。……一応、新刊で本を買ったので、このくらいのジョークは許してください。

 今の私はその頃を否定……はしません。ただ、それをベースに刺激的で感情的な人間になりつつあるので、西尾維新氏の世界には心地よさよりも緊張感をもってしまいました。それによって今後私がどうするかについては、ここでは書きませんが。

 ともあれ、この『少女不十分』という本は、私の人生において非常に重要な位置づけになったことは断言します。いや、これは本当に、とてつもない物語です。

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それはもはや偏執的なまでの説明文でした。

 それを読んだ時、この人はきっと、すごく頭のいい人なんだなと思いました。同時に高潔な品性も持ち合わせている。だから自分が他人からどう見られているかをものすごく意識して、そのあたりのイメージを守ろうとしている。しかもまったくほころびがない。

 ちょくちょく「こんなことを言うと、○○と言われるかもしれないが」という文言で機先を制し、そこにさっきも言ったように、偏執的とも思えるくらいの説明をぶつける。中学時代に柔道の授業で寝技を仕掛けられた時のような、息が止まりそうな感覚でした。


 これほどまでに感じ入るのは、私もまた同じようなことを考え、試みていたからです。

 自分のことを誤解のないようみんなにわかってもらいたくて、知識を総動員する。およそ考えられる『見方』を想像し、どこからどう見ても私自身が納得するような『私』を表現するために言葉をつむぐ。そんなこんなで大量に盛り込むものだから、どうも小難しくてわかりにくい文章になってしまう。

 私の場合はどこまで行ってもアマチュアの領域を抜けることができなかったので、それで終わってしまいましたが、この人はそこをプロの領域まで持っていっている。さすが10年もキャリアを重ねたプロの作家だけある。……そのことには素直に感嘆し、恐れ入りましたとシャッポを脱ぎます。

 ……そして、この世界を超えた先を見てみたいと思ったのです。


 何の話かというと、西尾維新氏の『少女不十分』という長編の話です。

 「ま、ライトノベルだからね」と思って、軽い気持ちでページを開いたところ、程なくして本気になってしまいました。なんともいえない感動で頭がどうにかなりそうなので、整理するためにこの文章を書いています。


 この本を買ったのは大体2年くらい前です。厳密には2011年の11月なので2年以上経っています。

 西尾氏が30歳の時、10年前に体験したことを思い出しながら書いたものですが、30歳の時の私はこれを読めませんでした。西尾氏と私は同い年なので、本当は30歳の時に読めば一番よかったのかもしれませんが、当時の私は西尾氏の文章を受け止めるだけの器量がありませんでした。

 もしも読んでいたら、きっと、つぶれていたでしょう。圧倒的な分量の説明文に呑み込まれ、よくて失神。悪ければ後遺症が残るくらいの精神的なダメージを受けていたんじゃないかなと思います。


 今は真正面から渡り合うことができます。今のところ、かなり危ういですが、何とか呑み込まれることなく立ち合っています。

 それは私が理詰めで物事を考えるばかりでなく、爆発するような感情表現もしていくことを選択したからです。「イヤァオ!」で「たぎったぜー!」な生き方に切り替えたからです(何のことかよくわからない方は「新日本プロレス 中邑真輔」で検索)。

 そして感情のたぎるまま100冊以上の本を読み、自分なりの志を持ったからです。


 これはもしかすると、今年ずっと続けてきた「過去と向き合い、これを乗り越える」戦いの総仕上げなのかもしれません。

 これを読むことで自分と向き合う。そして自分を受け入れ、更なる高みを目指す。そのためには、本作はうってつけのテキストと言えるでしょう。この長編の中で西尾氏が書き出している20歳の頃が、私がもっとも自分を意識し、自分を表現しようと苦しんでいた時代でしたから(当時、大学の同人誌サークルに自分で書いた短編小説を掲載したりしていた)。



 ……とりあえず、こんなところでしょうか。

 さて、続きを読むとしようかな……。

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以前の私は、気に入らないものはとにかく排除したがる性質があったのだろうと思います。今はまったくないのかといえば、そういうわけではないのですが。

 ないわけではないのですが、何かをけなしたり糾弾したり排除しようとしたりすることを強く戒めようと思っているのです。

 毎日新聞のウエブサイトで、こんな記事がありました。いつ削除されるともわからないので記事を引用します。


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ボカロ小説 : 女子中高生に大人気 ヒットの理由は?(2013年12月01日 毎日新聞デジタル)

 シリーズ累計発行部数が200万部を突破した「カゲロウデイズ」(KCG文庫)など“ボカロ小説”と呼ばれるライトノベルが女子中高生を中心に人気を集めている。ボカロ小説とは、初音ミクなど音声合成ソフト「ボーカロイド(ボカロ)」で制作された“ボカロ曲”を小説化したもの。音楽を小説化する……という手法は一般的ではないため、イメージしづらいかもしれない。謎が多いボカロ小説の全容を解き明かすとともに、女子中高生から支持を集めている秘密に迫った。(毎日新聞デジタル)

 ◇ボカロ曲がアニメのOPならボカロ小説は本編

 ボカロ小説の基となるボカロ曲の多くは、“P(プロデューサー)”と呼ばれる音楽制作者がボカロで制作した楽曲を「ニコニコ動画」などの動画配信サービスにアップしたもので、2007年の初音ミクの発売以降、急増した。ボカロ曲は、ファンタジックな世界を舞台に、初音ミクなどボカロキャラが活躍する……というアニメやマンガのような世界観を持った歌詞の作品が多く、“絵師”と呼ばれるクリエーターが手がけたイラストやアニメが付けられている。

 5分程度のボカロ曲は、例えるならアニメのオープニングのようなもので、ボカロ小説は、楽曲の歌詞や映像の世界観をモチーフに、そのイメージをふくらませて制作された“本編”ともいえるだろう。

 ボカロ小説のルーツといわれているのが、悪ノP(mothy)さんの人気ボカロ曲から生まれ、10年に刊行された「悪ノ娘」(PHP研究所)だ。悪ノP(mothy)さん自身が小説を執筆しており、楽曲の制作者が小説も執筆するという独特の手法は、ボカロ小説のスタンダードとなった。「悪ノ娘」は発行部数が20万部を超えるヒットとなったこともあり、続々と各社が参入。現在は40冊以上が出版されており、シリーズ累計発行部数が200万部を突破したじん(自然の敵P)さんの「カゲロウデイズ」シリーズという大ヒット作も生まれた。出版不況が叫ばれる中、ボカロ小説は一大ジャンルになりつつある。

 ボカロ小説は、ライトノベルのようにさまざまなジャンルの作品が出版されている。例えば「悪ノ娘。」はファンタジーだが、「桜ノ雨」(PHP研究所)は青春小説、「初音ミクの消失」(一迅社)はSF、「吉原ラメント」(アルファポリス)は時代小説というように多岐にわたっている。さらに、ボカロキャラが一切登場せず、オリジナルキャラクターを主人公としている「カゲロウデイズ」のような作品が人気を集めるなど多様化。共通しているのは、ボカロ曲を原作としていることだけだ。

 ◇中二病的な世界観が人気!?

 ボカロ曲は10代女性の4割が「好きな音楽ジャンル」として挙げるデータ(13年、東京工芸大調べ)があるほど人気ジャンルとなっている。ボカロ小説も同じ層に支持されており、出版元によると、読者層は8割程度が女子中高生で、中には小学生の読者もいるという。ボカロ小説はライトノベルの一種だが、ファン層はライトノベルのメインターゲットである10~20代男性とは異なる。「悪ノ娘」の編集を担当したPHP研究所の伊丹祐喜さんが「企画当初はネット発の少しニッチで、ターゲットは男性だと考え、ラノベと同じような作り方をした」と話すように、女子中高生の人気は出版社も想定外だったという。

 ボカロ曲やボカロ小説が若い世代に支持を集めていることについて、伊丹さんは「思春期特有のもやもやした思いと、世界観がマッチしているからかもしれません。“闇の設定”や救われない内容も好まれる傾向があります」と分析する。例えば「悪ノ娘」は、ファンタジックな世界を舞台に、高慢な14歳の女王が民衆の反乱を受けて、処刑されるという悲劇で、続編「悪ノ大罪」はキリスト教の“七つの大罪”をテーマにしている。思春期にありがちな自意識過剰や妄想癖を指す“中二病”的な世界観が10代の心をつかんでいるのかもしれない。

 また、女子に受けていることについて伊丹さんは「読者層は『少年ジャンプ』など少年マンガ誌の作品を読んでいる女の子というイメージで、AKB48が好きな層とは少し違う。格好よかったり、可愛いキャラはいるけど、男性が喜ぶようなセクシャルな女性キャラがでてくるわけではないので、男子よりも女子に人気なのかもしれません」と分析する。

 ◇謎を読み解く楽しみも

 ボカロ小説は、ボカロ曲の歌詞に秘められた謎を読み解く楽しみもある。例えば「カゲロウデイズ」は、特殊な能力を持った少年少女の出会いや活躍を描いた作品で、楽曲の歌詞にはさまざまな謎がちりばめられている。同シリーズの編集を担当しているKADOKAWAの屋代健さんは「曲は謎があるから、楽しめるところがある。ボカロ小説は歌詞に込められた謎が種明かしされるのも面白いのでしょう」と説明する。ボカロ小説がボカロ曲の謎を補完し、謎が解き明かされることによってボカロ曲をさらに深く理解できる……という楽しみ方があるようだ。ボカロ曲とボカロ小説はセットで楽しむものということもあり、伊丹さんは「曲のファンが離れないようにしなければいけません。“これじゃない感”があるとダメなんですよね」と編集の苦労を語る。

 出版不況が叫ばれる中、人気ジャンルとなりつつあるボカロ小説。屋代さんは「今後、まだまだ増えると思います」と予想する。ボカロ小説がどのように進化していくのか、今後が注目される。


 ……なるほど、こういうことなんですね。理解しました。

 何でこんなことを思ったかというと、最近『東北ずん子』という小説を読んだからです(感想詳細は本館にて)。そして後になって、これがいわゆる『ボカロ小説』とか『ケータイ小説』とか、そういったものと同じコーナーに置かれる類の本だということを知り、関心があったからです(私が買った書店では郷土・復興支援本コーナーに置かれていた)。

 まあ、この記事で概要はわかったので、実際に読むことはないでしょう。そして今後も「なんだ、これは?」と心を動かされることもないでしょう。



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アオシマの「トヨタ・セリカXX」というプラモデルを作りました。

 もともと車が大好きだったので、車のプラモデルとかも昔は作っていたのですが、あいにく手先が不器用なタチだったのでね。あまり上手にキットを作ることができなかったのです。

 それでも、すでに200個くらいガンプラを作ってきた職人はだしの弟者の影響を受けたのか、はたまた『湾岸ミッドナイト』のゲームで同じ車を操縦し始めたからなのか。買ったはいいものの長いことほったらかしにしていた当キットを手がけ、2時間ほどで一気に作り上げた次第です。

 図工が『2』で美術が『2』だった私が、数年ぶりに作った代物ですから出来が良いも悪いもありません。ただ、「プラモを作るのって楽しい」そういうことを感じることができたので、十分に意義があったといえるでしょう。


 そんなプラモデル作りと平行して、今年の正月に買った「コンビニたそがれ堂」を読みました。

 いきなりあとがきの話からして恐縮なんですが、本作は元々子ども向けに書かれた物語だったそうですが、文庫化にあたりターゲットを大人にシフトさせ、文字数や漢字表記などを修正したのだそうです。つまり私のような三十代のオッサンが読んでいたく感動してもいいってことなんです(まあ私は本当に子ども向けの本だろうと何だろうと読めば感動しますが)。

 あるいは、むしろ私のような人間が読むべきなのかもしれません。本作はとにかく温かい物語ばかりです。このところは仕事が妙に忙しくて、その割にあまりはかどらなくて、さながらモニュメント・バレーの如く心がすさみきっていたのですが、それがほぐされ、癒される。そんな不思議な物語です。

 ポイントとしては、ここなのかもしれません。どちらかというと反発的で、通り一遍の癒し系ツールでは満足しない犬神。一言で言えば偏屈な性格なので、「何をこの」とか「そんなものに乗っかるおれではないぞ」とかといって、突っぱねてしまうのですが、これはそんな私も手が出せない。そんな雰囲気を持っています。

 そのまま物語を読み進めていくうちに、少しずつ少しずつ心がほどかれていくんですね。

 それでも中盤までは「本当に、このまま癒されていって大丈夫なの?」「何か、悲しい結末が待ち受けているんじゃないの?」と身構えていました。もしかしたら、そんな私の心をもコンビニの店員のお兄さんは見抜いていたのかもしれません。まあ、そういった結末がないわけではないのですが、それでも最後は心が温かくなる。生を肯定するような、そんな結末。そういうことなんです。


 99年に高校の図書館で「はるかな空の東」に出会って以来、もうすぐ15年になりますが、やはり村山早紀先生の本はいいなと思うのです。骨太な力強さを持った上橋菜穂子先生とはまた違った意味で、すごく重要なポジションをしめている気がします。

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これを直すべき欠点というべきなのか、誇るべき特技というべきなのか、自分ではジャッジできないのですが……どうも私は性格的に、物語に入り込んでしまう気質があるようです。

 『本を読む』とか『ビデオゲームをする』とかという段階を越えて、その物語の世界をフルに感じる。その過程で自然な流れとして、登場人物と自分を重ね合わせたり、ほぼ同等の目線でその世界を見るようになってしまうのです。

 最近これと同時進行で『メタルギアソリッド3』というゲームをやっていたのですが、これがとても強力な物語でした。ほかのタイトルと違って1960年代の戦いなので、頼れるものは自分の視覚・聴覚だけというシステムもあって、すっかりその世界に入り込んでしまいました。普段はこんなですが、コントローラを握れば『ネイキッド・スネーク』になりきっていたのです。

 そして、あまりにも深く入り込みすぎていたので、エンディングを迎えた時には激しく精神力を消耗。虚脱状態になってしまったのでした(これは物語の結末がそうだったから、というのもありますが)。


 そんな状況だったので、本作も極めて主観的に楽しみました。『魔女の宅急便』の時と同じように、私もまたハイティーンの小僧として感情を総動員していたのです。

 だから、評論めいたことは書けません。きわめて個人的な感想になってしまいますが、一応読んだという記録を残すために書きます。


 飯塚有里も3年生となり、当面の目標はインターハイで優勝すること、となりました。後輩も心身ともに成長著しく、先輩として色々なことを教えることもありますが、まずは自分がちゃんと成績を残すことが第一ですからね。日々の練習にも熱が入ります。

 ただ、熱が入りすぎて周りの人たちと温度差が生じ、イライラソワソワと落ち着かなくなってしまいます。

 「みんな、真剣さが足りないんじゃないの? もっと練習しなきゃ、インターハイで優勝できないよ」

 苛立ちと焦りをエネルギーにかえて、よりいっそう自主トレに熱が入る飯塚有里。そうすると、いっそう周りとの摩擦が大きくなって……と、まあ3年生になっても相変わらず色々と悩んだり苦しんだりするのです。すべてが順風満帆というわけではないのです。くわえて卒業後の進路のこともあるので、勉強もしなくちゃいけないし……と、ある意味では今までで一番難しい時期なのかもしれません。

 それでも、飯塚有里は乗り越えます。仲間、先輩、家族。ぶつかり合う中で少しずつもまれ、一回り二回りと大きくなっていくのです。そしてインターハイ……に出場するための県大会の日がやってきて……。

 はい、大体こんな感じの話です。


 教えられるなあ、と思いました。

 熱ささえあれば、やる気さえあれば、体力さえあればすべて乗り越えられる。そう思っていたのですが、そうでもないんですよね。頑張らなくちゃならないのは当然だけど、それだけじゃチームワークは成立しない。じゃあ、どうするのか? ということなんですが、それを読んでいるうちに教えられました。

 私自身が高校生のころは、できるだけ周りとぶつからないように、要領よく立ち回ることばかり考えていましたからね。衝突がなかった分、強力なエネルギーも発生しないような、ゆる~い高校生活でした。

 まあ、それが自分で選んだ生き方ですからね。いまさらやり直したいとは思いませんが、それでも本作のような、何事にも精一杯取り組む子を見ると、まぶしくて目がくらんでしまうのです。これが現実です。

 でも、何とか最後まで見届けることができました。今はまだ読み終えたばかりで、頭の中の整理ができていなくて……。とりあえず速報ベースで書きました。すごくよかったです。

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なんか連日投稿になってしまいましたが、2巻目を読み終わりました。

 今回は飯塚有里も2年生。後輩もできて、いよいよボート部の主力としてステップアップしていくところです。

 もっとも、それだけ越えなければいけないハードルも高くなったということで、色々と頭を悩ませることがたくさんあります。先輩として、そして飯塚有里自身として、色々と難しいことに直面するのですね。

 それでも、何とか乗り越える。厳しい言葉を投げかける先輩も、飯塚有里のことを思えばこその言葉。そのギリギリのところで立ち直り、より大きく成長していく物語は、すでに三十代となってしまった犬神の心をも激しく打ちました。

 「飯塚有里がこれだけがんばってるんだから、お前ががんばらなくてどうするんだよ!」

 そう思って、猛烈な勢いで仕事をこなしました。なぜか次から次へと新しい仕事が舞い込んできて、かなり忙しかったのですが、それでも切り抜けることができたのは、完全に彼女たちのおかげです。


 作中で、確か飯塚有里が後輩に言った言葉だと思うんですが……記憶違いだったらゴメンナサイ……

 「つまづきが人を強くする」

 という言葉がありました。

 けだし名言である、と思うのです。

 まあ、私がこのキーワードを抜き出して書いたからといって、即効性があるわけではありません。そういう言葉を投げかける前段階のストーリィがなければ、今ひとつピンと来ないところがあると思うので、そのあたりはぜひ物語を読んでもらいたいと思うのですが、大小あわせれば10万回以上つまづいてきた私にとっては、妙に胸に響く言葉でした。いまさらジョシコーセーの言葉に感動するのも、どうかと思いますが。思いますが、でも事実ですから。


 では、次はいよいよ3年生編です。インターハイ出場、そしてその先に待っているものは……?

 すでにある程度のところまで来てしまった犬神ですが、飯塚有里には、どこまでもデカい夢を追いかけてまい進してほしいと思いつつ、読みたいと思います。

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順序がちょっと入れ替わってしまいましたが、これが100冊目の本でした。

 YA!ENTERTAINMENT というレーベルの本です。公式ホームページで見たところ、言うまでもなく非常に若い人たち向けのようですね。実際私が借りた図書館でも、子供向けコーナーの中にありました。

 それにもかかわらず今回図書館で借りてしまったのは、恥ずかしながら『表紙の女の子がかわいかったから』。まったくもって外道な理由であると思います。実際、非常に気にはなったものの、一度はスルーして帰りました。

 しかしながら、どうも気になって仕方がありません。気になる、きになる、キニナル……。

 何をしてもいまいち身が入らないので、だったらこちらから踏み込み一刀両断にしてやろう! ということになり、閉館間際のところで滑り込み借りてきた次第です。なお、私が一目ぼれしたのは3巻目でした。そして3巻目は戻ってくると誰かに借りられていたので、ひとまず1巻と2巻を借りてきました。なお、これと一緒に借りてきたのがこないだレビューを書いた平岩西遊記でした。


 主人公の飯塚有里は、中学のころはバドミントンをやっていました。しかしながら「そんな暇があったら勉強しろ」という家族からのプレッシャーにより途中でやめてしまったという過去がありました。

 それだけでなく、姉からは「スポーツなんかやって何になるの。オリンピックに出るわけじゃあるまいし」と冷たい言葉を浴びせられてしまいます。それで、

 「だったら、なってやろうじゃないの。オリンピックの選手に」

 と発起。学力的にもスポーツ的にもトップクラスの学校に入り、勉強にスポーツに一生懸命打ち込む……と、まあ、そんな感じの物語です。ちなみに1巻は入学から進級するところまでだったので、2巻は2年生編、3巻は3年生編のようです。


 若い人向けの本だから、3時間ほどで読み終えるだろう。そう思っていました。

 実際、そのくらいで読み終えたと思います。……ですが、なかなか読み始めることができませんでした。およそこういった青春を送ってこなかった(むしろ積極的に否定してきた)犬神にはちょっとまぶしすぎたのです。

 それでも、何とか1巻は読み終えました。

 うん、いいじゃないですか、飯塚有里。……馴れ合いではなくオリンピアンを目指すという目標を持っているためか、同級生となかなか打ち解けられずにいる辺りはちょっとハラハラしてしまいましたが。

 ほら、ボートは個人競技じゃなく団体競技だから、個人の能力はもちろん大事ですが、チームワークも大事ですからね。

 「モチベーションが高いのはいいことだが、もうちょっと、その……何とか、うまくやれんもんかね」

 まったく縁もゆかりもないオッサンの私ですが、そんなことを考えながら読んでいました。その結果どうなったかは、もちろんここでは書きませんが、犬神もまた飯塚有里の熱さに打たれ、「やってやろうじゃねえか」という気持ちになった次第です(何をやってやるのかは不明)。

 そんなわけで、現在は2巻目を読んでいます。飯塚有里も2年生に進級し、後輩が入ってきて、いよいよ主力選手として動き出す……といったところでしょうか。まだ50ページくらいしか読んでいないのでアレですが。


 最後はこの男のセリフで締めくくることにしましょう。



 やはり、熱さを持っている人が魅力的だと思うのです。私自身もそうありたいと思うのです。

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