7月20日(初日)
7月27日(最終日)
たぶんそれは、
「観た人が自由に想像をする『感情の余地』がある」
ということなのかな? と思いました。
今回の個展は初期の作品から新作まで、作風の変化を感じてもらえるように……ということだったので、その風合いを確かめつつ、同時に私自身のなかにある感情とも向き合いながら楽しませていただきました。
「あ、これは〇〇で観た作品だ」
そういった作品と再会することで、私自身の気持ちも徐々に変化してきたな、ということが確認できました。
<「何かわかるもの」と「何かわからないもの」が混ざり合った世界で新しいものを見つけるたびに心が加速する>(『胎に刺さったリボン』)
<とてもプリミティブで感情を掻き立てられる>(卒展)
<可愛さの向こう側に熱さがある>(『辰展』)
ノートに書いた当時の私の感想とリアルタイムに私が感じたことを行ったり来たりしながら絵を眺めているうちに、どんどん心の深いところに入り込んでいき……会場の突き当りにある大きな絵と両側を挟む一対の作品たちに囲まれることで気持ちが満たされ、また明るいほうに向かいながら現在に戻って来る……そういうストーリーをもった観賞体験でした。
改めて書きますが、TOKIWAさんの作品を観ると心が躍ります。それと同時に私にとっては自分の中にある感情を正しく受け止め、「こういう自分を生きていていいんだ」ということを確信する切っ掛けでもありました。大げさではなく、私にとっては生き方が変わるような影響を受けています……。
このあともまた別な場所で作品にお目にかかることがあると思いますので、その時を楽しみにしています。最後になりましたが、TOKIWAさんのますますのご活躍をお祈りしています。応援します!
7月24日(中日)この投稿をInstagramで見る
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7月27日(最終日)
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たぶんそれは、
「観た人が自由に想像をする『感情の余地』がある」
ということなのかな? と思いました。
今回の個展は初期の作品から新作まで、作風の変化を感じてもらえるように……ということだったので、その風合いを確かめつつ、同時に私自身のなかにある感情とも向き合いながら楽しませていただきました。
「あ、これは〇〇で観た作品だ」
そういった作品と再会することで、私自身の気持ちも徐々に変化してきたな、ということが確認できました。
<「何かわかるもの」と「何かわからないもの」が混ざり合った世界で新しいものを見つけるたびに心が加速する>(『胎に刺さったリボン』)
<とてもプリミティブで感情を掻き立てられる>(卒展)
<可愛さの向こう側に熱さがある>(『辰展』)
ノートに書いた当時の私の感想とリアルタイムに私が感じたことを行ったり来たりしながら絵を眺めているうちに、どんどん心の深いところに入り込んでいき……会場の突き当りにある大きな絵と両側を挟む一対の作品たちに囲まれることで気持ちが満たされ、また明るいほうに向かいながら現在に戻って来る……そういうストーリーをもった観賞体験でした。
改めて書きますが、TOKIWAさんの作品を観ると心が躍ります。それと同時に私にとっては自分の中にある感情を正しく受け止め、「こういう自分を生きていていいんだ」ということを確信する切っ掛けでもありました。大げさではなく、私にとっては生き方が変わるような影響を受けています……。
このあともまた別な場所で作品にお目にかかることがあると思いますので、その時を楽しみにしています。最後になりましたが、TOKIWAさんのますますのご活躍をお祈りしています。応援します!
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TOKIWAさんの個展に行ってきました。
7月20日(初日)に1回、さらに24日にもう1回。
そして、たくさん色んなお話をすることができました。
もう、作家さんと話す時に緊張しなくてすむかもしれません。
そして……素敵な作品をお迎えすることになりました。
あえて何かを語る必要もありません。
素敵な、素敵な、素敵な時間だったのです。
7月20日(初日)に1回、さらに24日にもう1回。
そして、たくさん色んなお話をすることができました。
もう、作家さんと話す時に緊張しなくてすむかもしれません。
そして……素敵な作品をお迎えすることになりました。
あえて何かを語る必要もありません。
素敵な、素敵な、素敵な時間だったのです。
大手町のギャラリーTURNAROUNDでおおだいらまこさんの個展「∩頂天-ウチョウテン」を観ました。
主に作品は2種類の方法で作り分けがされていました。ひとつは自分の記憶の中にあるイメージを、特に写真とかを観ずにそのイメージのまま描き出した作品であり、もうひとつはスマホの画像をいったん印刷し、それに手を加えるという方法で行われたものです。
会場では縦方向にひとつながりの連続した絵がぐるりと……つまり壁から天井を這って反対側の壁に降りてきて更に床を這う……という方法で展示されていました。まったく不思議な感じですが、これはタナランの方によれば「スマホの写真をスワイプさせて見る感覚」を表現したものだそうです。
「正しく記憶する、つまり経験した通りに記録を残したい」
それは私自身もよくわかります。あいにくと私はそれを絵で表現する技術が未熟で実際に正しく記録することはできませんが、絵を描く代わりに写真を撮ります。そして私の場合は自分の感想を言葉で表現します。
「どういうところで、どう感じたか」
それをできる限り詳しく書き出すことで、きっと私なりの「正しく記憶する」ことができるんだと思います。
そういうわけで、アプローチは全く違うのですが、妙なところで気持ちが共鳴してしまいました。とても楽しい企画展でした。
主に作品は2種類の方法で作り分けがされていました。ひとつは自分の記憶の中にあるイメージを、特に写真とかを観ずにそのイメージのまま描き出した作品であり、もうひとつはスマホの画像をいったん印刷し、それに手を加えるという方法で行われたものです。
会場では縦方向にひとつながりの連続した絵がぐるりと……つまり壁から天井を這って反対側の壁に降りてきて更に床を這う……という方法で展示されていました。まったく不思議な感じですが、これはタナランの方によれば「スマホの写真をスワイプさせて見る感覚」を表現したものだそうです。
「正しく記憶する、つまり経験した通りに記録を残したい」
それは私自身もよくわかります。あいにくと私はそれを絵で表現する技術が未熟で実際に正しく記録することはできませんが、絵を描く代わりに写真を撮ります。そして私の場合は自分の感想を言葉で表現します。
「どういうところで、どう感じたか」
それをできる限り詳しく書き出すことで、きっと私なりの「正しく記憶する」ことができるんだと思います。
そういうわけで、アプローチは全く違うのですが、妙なところで気持ちが共鳴してしまいました。とても楽しい企画展でした。
今日はまず歯医者さんに行ってきました。こないだから見てもらっている歯の治療の予後検診です。……まだ磨きのこしはありましたが、それでも大分マシになってきたみたいです。出血量もだいぶん下がってきたし、まあ経過は順調と言ったところでしょう。
なお、こないだ「親知らずは抜くのが定番なんですよ」と言われたので今回そのことを相談したところ、改めてレントゲン写真を撮ってもらい、それを見て先生が言ったことには、
「抜きます……か?」
なんか、ものすごい大変みたいです。結構深く埋まっているので、これを抜くとすれば切ったり削ったりと大工事、いや大手術が必要になるみたいで……別に腫れてるとか痛いとか、そういうわけじゃないのにわざわざそんなことをしなくてもいい……ということで私も引っ込めました。
まあ、こないだお話をした先生とはまたちょっと違う方で……もしかしたら歯科ではなく口腔外科の先生だったのかもしれません。こないだお話をした先生も定番なんですよって言った後、歯科衛生士の人にレントゲン写真を見せてもらった後、
「すみませんさっき親知らず抜くの簡単だって言ったんですけど簡単じゃないみたいです~」
と訂正されたので、痛くならないよう全力で歯みがきをしていきたいと思います。
その後は、花京院のホテルにあるカフェでアキヤマナナミさんの作品展を眺め、せんだいメディアテークで東北大学学友会美術部/写真部の展示を見て、最後にタナランで写真展を観ました。この写真展には私も数枚写真を出展していて、自分の作品がタナランで多くの人の目に触れるという貴重な機会に恵まれたわけで……主催者の人もいらしたので一応感想を伝えたんですが……まあいいや。もうちょっと気持ちが落ち着いたら、ちゃんと受け止められるでしょ。
そういう一日でした。
なお、こないだ「親知らずは抜くのが定番なんですよ」と言われたので今回そのことを相談したところ、改めてレントゲン写真を撮ってもらい、それを見て先生が言ったことには、
「抜きます……か?」
なんか、ものすごい大変みたいです。結構深く埋まっているので、これを抜くとすれば切ったり削ったりと大工事、いや大手術が必要になるみたいで……別に腫れてるとか痛いとか、そういうわけじゃないのにわざわざそんなことをしなくてもいい……ということで私も引っ込めました。
まあ、こないだお話をした先生とはまたちょっと違う方で……もしかしたら歯科ではなく口腔外科の先生だったのかもしれません。こないだお話をした先生も定番なんですよって言った後、歯科衛生士の人にレントゲン写真を見せてもらった後、
「すみませんさっき親知らず抜くの簡単だって言ったんですけど簡単じゃないみたいです~」
と訂正されたので、痛くならないよう全力で歯みがきをしていきたいと思います。
その後は、花京院のホテルにあるカフェでアキヤマナナミさんの作品展を眺め、せんだいメディアテークで東北大学学友会美術部/写真部の展示を見て、最後にタナランで写真展を観ました。この写真展には私も数枚写真を出展していて、自分の作品がタナランで多くの人の目に触れるという貴重な機会に恵まれたわけで……主催者の人もいらしたので一応感想を伝えたんですが……まあいいや。もうちょっと気持ちが落ち着いたら、ちゃんと受け止められるでしょ。
そういう一日でした。
今日の気温は私が目視した時点で32度ありました(仙台市天文台前の温度計)。
そんな中、久々のオートバイ出動。下半身はレザーズボンとライダーブーツですから暑い暑い暑い……って、上半身はジャージ+ベンチレーション機能付きライダースジャケットなので、走っているうちに体温は下がるのですが。オートバイを止めたり外を歩いたりすると下半身の熱がこもって大変ではありますが、それでも……ね。去年、35度の山形県鶴岡市を爆走した時に比べたら、何てことないですよ。その時は汗で水たまりができるというマウント斗場状態でしたから。
そんな状況で「仙台市天文台」「秋保の杜佐々木美術館&人形館」へ行き……それから秋保大滝とか定義如来とかを見て、三角油揚げを食べて帰ってきました。具体的な感想とかは……会場でそれぞれノートに書いてきたから、改めて振り返ることもないかなあ。
とりあえず、そういうことがあった。本来の日記形式に立ち返り、今日はその事実だけを書いておきます。
そんな中、久々のオートバイ出動。下半身はレザーズボンとライダーブーツですから暑い暑い暑い……って、上半身はジャージ+ベンチレーション機能付きライダースジャケットなので、走っているうちに体温は下がるのですが。オートバイを止めたり外を歩いたりすると下半身の熱がこもって大変ではありますが、それでも……ね。去年、35度の山形県鶴岡市を爆走した時に比べたら、何てことないですよ。その時は汗で水たまりができるというマウント斗場状態でしたから。
そんな状況で「仙台市天文台」「秋保の杜佐々木美術館&人形館」へ行き……それから秋保大滝とか定義如来とかを見て、三角油揚げを食べて帰ってきました。具体的な感想とかは……会場でそれぞれノートに書いてきたから、改めて振り返ることもないかなあ。
とりあえず、そういうことがあった。本来の日記形式に立ち返り、今日はその事実だけを書いておきます。
先日行ったYAT展でTOKIWAさんとお会いしたことは書きましたが、もうひとつ大きな出会いがありました。それは先にTOKIWAさんの取材をしていた某新聞の記者さんでした。帰り際に私に対しても取材をしたいと言ってくれて……。
オタク気質なので、大好きな人のことを聞かれれば嬉々として答えます。TOKIWAさんとお話しした時はド緊張でひどい有様でしたが、今度はちょっと上手な振りをして……それでも結局感情しかない素人ですから、語る言葉は「自分がどう感じたか」ということばかりになってしまったんですが……でも、それこそ私の一番の武器なのかなと思いました。武器って、これで世界と戦う予定はないんですが、
「自分が好きなものを見てその感想を上手に伝える」
そういう技術が、世の中と関わるための私らしさなのかなって。そう思いました。そういうのを、取材を受けて答える中で自分なりに感じました。
今回は言葉だけじゃなくて、「さかいふうかさんの絵を見ている私」の写真もたくさん撮ってもらいました。果たして記事になるかどうか……日本最大級の新聞の地方欄は1ページしかなくて、しかもポケモンGOとか何とかっていう大きなイベントがあって……そんな中で無名の若手美術家のイベントなんか誰も興味ないだろうって記事の構成を決めるえらい人にボツにされて日の目を見ることがないのかもしれない……。
記者さんもまだ仙台宮城に来て間もない若手の方でした。若手の記者が若手の美術家のイベントを取材して、まあそんなに若くはないけど大好きな美術家の絵を見に来た私のことも取材して……心情的にはとても思い入れがあります。このまま忘れられてしまうのは余りにも切ない。だから私は私なりに、そういう出来事があったことを書いておきます。
某新聞の記者さん、私なんかに取材をしてくれてありがとうございました。TOKIWAさんと記者さんに会えて、大好きをたくさん伝えられて、私はとっても幸せです。今後のご活躍をお祈りしております。Salut !
若林区卸町にあるギャラリーA8Tで開催されている「ヤングアート展」に行ってきました。
今回の展示については明確な目的があります。3月に個展を見に行き、「私はこの道を歩いて行こう」と勇気をもらった『さかいふうか』さんから案内DMを頂いたからです。さかいふうかさんとTOKIWA(旧:トキワ)さんが出展している。だったら行かない理由はない。そう言って……開場が12時からだったのでタナランでやっている別な個展を見て、それから東西線で大町西公園から卸町へ直行。初めて歩く街だけに少々迷いましたが、ようやくたどりついたのでした。
このギャラリーA8Tというのはちょっと変わったところで……オフィスビルの一角を使ったギャラリーなんですね。だから入場する時にはインターホンをおして、係の人が呼びに来て、その上で入らなければならない。というか入り口には「予約が必要です」という看板が掲げられていて、まさかここまで来て門前払いか……ということは無いと思うんですが……ちょっとだけ心配になりました。結局そういうことはありませんでしたが。
久しぶりに見たさかいふうかさんの絵は、やはり素敵な絵でした。
個展で見た時の作品はパーソナルカラー? のピンクマゼンタの鮮やかさが印象に残っていますが、こちらは黄色がかった明るさがいいですね。ぽわんとした光に包み込まれるような印象です。また卒展や個展でも主役級の位置づけだった「かみさまのいないせかい」にも再会することができて……今日は在廊していない(Instagramで29日行きますとコメントしたらお仕事で在廊できないというお返事をいただきました)ですが、なに大丈夫です。しっかり私は感じ取りましたから。
あとは立体作品もありましたね。……写真は残っていないんですが、確かメディアテークで見たような気がする……ということはやはり東北生活文化大学の卒展だったかな……そうだとすると、少なくとも3人は同大学の卒業生ということになりますね。やはりあそこはスゴイところなんだなあ。
そして、私のもうひとりのお目当てがTOKIWAさんの絵です。
私が現場にいて、この場にいないさかいふうかさんにお礼状と感想を伝える手紙を書いている時、絵の前でインタビューを受けている人がいて……
「もしかして、TOKIWAさんかしら」
そう直感しました。TOKIWAさんの絵の前で色々と自分の描き方(理念的なものなど)を説明しているのだからTOKIWAさんでしょう。そうか、さかいふうかさんはいないけど、TOKIWAさんはいたのか……!
ただ、この時の私はちょっと自信喪失していました。ここに来る前の個展でも作家が在廊していたんですが、何となく話しかけそびれたというか……私が行く直前に来ていた人がいかにも美術作品見慣れてます的な人で、インプレッションを得意げに語ってそれに作家が受け答えしているのを見て、自分は同じように話が出来ない……また作家も私なんかに話し掛けてくれることもなく、そのまま静かに出てきてしまったという小さな失敗があったのですね。
さかいふうかさんの時は1対1だったから、まだ話し掛けるチャンスもありましたが、今回は……
「私なんかに、話し掛ける資格はない」
だからこっそり作品の写真を撮って、後で自分なりに感想をまとめればいいかなと思っていたら、なんとTOKIWAさんの方から話し掛けてくださったんですね。
やった! 嬉しい! これはもう行くしかない!
そう思って一気に感情を爆発させ、頑張ってお話をしました。
「あの!……私、胎に刺さったリボン展とか卒展とか全部見ていて!……もう、TOKIWAさんの名前があると見に行っていて!……それで、その……やっぱり感情が呼び起こされるというか! あの……」
まあ、ひどいものでした。でも、私の熱意はちゃんとTOKIWAさんに伝わったみたいです。元々TOKIWAさんも下書きをせず感情のままに表現するというスタイルで作品を手掛けているそうで、「観た人の感情を引き出すような絵を描いている」ということですから、私なんかはそのど真ん中、真正面にクリーンヒットしちゃった人間なのかな。ともかく「いえ、そういうことじゃないんですけど!!!」ということはなさそうです。
加えてお守りのように(または切り札のように)手にしていたさかいふうかさんのことや卒展の作品のことも話し、最後に一緒に写真を撮っていただきました。またInstagramの方もフォローバックしていただき……さかいふうかさんに続きTOKIWAさんともご縁ができました。望外の喜びです。これほどまでに素敵な出会いがあるとは思っていませんでした。
そして改めて、
「私はこれでいい」
そう思いました。アートを見て感じる心。何がどうとかって解説はできないけど、ただ心が飛び跳ねたり穏やかになったり赤くなったり青くなったりする。そういう心の動きをできるだけ詳しく説明する。そういう見方でずっとここまで来たので、今後もそういう「心の動き」をスタイルとしてアートに向き合っていきたいと思います。
TOKIWAさん、ありがとうございます! 今後も佐藤はTOKIWAさんのことを応援しております! さかいふうかさんも、今回はお会いできませんでしたが、また次の機会にお目にかかれれば幸いです。それまで私も生きていますから、どうぞお元気で! Salut !
5月26日にせんだいメディアテークで開催されていた『第28回宮城平和美術展』を観てきました。日曜日だからかな。結構人出が多くて、ゆっくり静かに眺める……という感じではありませんでした。でも、私にとっては思い入れのある方たちの絵をたくさん見られて良かったです。
具体的な内容はこちらのインスタグラムをご覧ください。この投稿をInstagramで見る
まず1枚目と2枚目は……今年3月に逝去した「秋保の杜・佐々木美術館&人形館」の創設者で実行委員長でもあった佐々木正芳氏の作品です。1枚目の写真は「平和を!Ⅲ」というタイトルで、2023年の作品(遺作)です。私ごときが解説を付け加える必要はありませんが、会場で見ていま見返して思うことは、タイトル通り平和を求めて見えない空をつかもうとする人々の叫びが聞こえてくるような……胸を締め付けられるような印象でした。今日この記事を書いている現在もラファに空爆が行われ多くの人たちが亡くなったと報道されています。私も先日門眞妙さんの「ガザ・モノローグ」のイベントに参加して以来、こういったニュースに対する受け止めもできるようになりました。
政治のことはわかりません。ただ私は感じたい。感じていたい。こういったニュースに痛みを感じる私の感情を大切なものとして守り続けたい。それだけです。
次に4枚目の絵について。これは先日東北大学学友会美術部の美術展で見た作品でした。絵の良さはすでに自分の中で定着していたので、この会場で見た時は「オヤ!」という感じでしたね。どうしてこの絵がここに?……それはこの美術展がアンデパンダンで平和を希求するというコンセプトだからですよ。そういう気持ちを込めて出展したのなら何でもいいです。とにかく再会できたこと――そういう体験を過去に自分から積極的にしておいたことが良かったです。あの時、東北大学学友会美術部の美術展に行っていなかったら、再会じゃないですからね。もしかしたら印象に残らず忘れてしまった可能性だってあるわけですし。全く個人的な話ではありますが、やはり積極的にアチコチ出掛けるのが良いんだと思います。
*
そうして帰ってきて、郵便受けをあける。夕刊、保険屋さんからの更新通知、それに無数のポスティング……やれやれ面倒くさいなあ……そう思っていると小さなはがきがコトンと床に落ちました。これも何かのDMだろうと思って手に取ってみると……
「ワ、ワ、ワーッ」
玄関先で声を上げてしまいました。それは私にとって最大級に大好きな美術家「さかいふうか」さんが手ずから差し出してくれた美術展の案内はがきだったのです! 確かに3月の個展でお会いした時次は5月くらいに展示に参加する予定なんですよ~とおっしゃっていたし、さかいふうかさんのInstagramで開催情報をいち早くキャッチして行く気満々ではあったのですが……そして最近いつもそうしているように美術展の芳名帳には律儀に住所を書いてDM大歓迎の態勢を整えていたのですが……まさか、まさか本当に、それも私なんかに手ずから案内状をくださるとは……!!!
あまりに嬉しすぎて玄関先で泣き崩れてしまいました。すぐにはがきは私の現下最も緊要な書類を綴じ込めるクリアファイル(澁谷かのんちゃん)に保管。今日の休みは何を置いてもいざ卸町ギャラリーA8Tに推参いたしまする! 1日違いでさかいふうかさんとお会いすることはかないませんでしたが、何、それでもかまいません。これから先、いつかお逢いする機会は必ず巡って来るでしょう。
そして今日は……逢えない代わりに、またお手紙を書いて渡してもらおうかと思っています。こないだ門眞妙さんには「手書きの文章を写真に撮ってメールで送る」というヘンテコな手段を取りましたが、今度は「ギャラリーの人に渡してもらうようお願いする」という少し古風な手段を試みます。まさか断られることは無いと思いますが、とにかく最善を尽くします。渡してもらえないなら仕方がありません。
今日渡せなければ、いつか渡せばいいのです。それまで大事にしまっておけばいいのです。私は私の信じる道を行く。鳴瀬桜華も自分が信じた道を行くんです。
以上、久々に朝活ブログをしました。やっぱり、朝書くのがいいですね。……でも本当、お酒は控えた方が良いかもなあ……夜なかなか寝付けないのって、たぶんお酒のせいだと思うから……飲みながら書くブログも楽しいんですけどね……。
●アスク半ドンを取ったものの明確に「これをやらなくちゃ」というタスクがないので、とりあえず地下鉄の勾当台公園駅を起点として仙台市民図書館(メディアテーク)に行き、西公園をぼんやり歩きながら大手町のギャラリー『ターンアラウンド』で個展を見る……という、いつものコースを取ることにしました。
いま 何を見ていますか
いま 行きたい場所はどこですか
いま 何が欲しいですか
聞かれた質問に、わたしは何と返すのだろう
「それぞれ自分のやり方で何かを知ろうとする
知らないことがあればそれも私たちを似たものどうしにする。」
●モノローグ
誰かのところに行くことで、
私もあなたも知らないことを知ることができる?
絵を描くことで遠くにいけることがある
遠くのことが絵になることがある
絵は、とてもゆっくりで
絵は、とてもはやい。
「あなたたちに何を言おうとも、モノローグにしかならない」
(鉤括弧内=ヴィスワヴァ・シンボルスカ『瞬間』沼野充義訳より)
今タナランでやっているのは小山維子さんの展示。まったく予備知識もなく……ああ、事前にフライヤーをもらって、いま引用した言葉くらいは知識として入れておきましたが、具体的にどのような作品を描いている方かというのはほとんど知らないままギャラリーに飛び込みました。
私は美術に関しては全くの素人です。観覧者としても技術的なこととか歴史的なこととか、いわゆる評論めいたことや解説めいたことを語ることはできません。ただ、最近は私がそうまでして評論家気取りの素人を目指す必要も無いだろうと思ったのです。『門外漢の気安さ』(by河合隼雄先生)で自分の主観を大切にして、まずは感じたことを率直にまとめる。それが私の役目であると思っているので、以下、自分の感想をまとめたいと思います。
抽象画というのはなかなか難しいものがあります。ともすれば、「何がいいのかわからない」ということになってしまいます。多くの方はここで脱落……賞味期限切れ……ゲームオーバー……ということになるでしょう。ただ私は感情家ですし、事前に読んだ小山維子さんの言葉には心打たれたし、せっかく会場まで来たのだから、
「何かを感じ取りたい」
そう思って一通り絵を眺めた後、もう一度最初から眺めてみたのです。フライヤーに書かれた言葉を何度も読み返しながら。
そうすると、「何かを感じ取る」ことができたんです。
多分これは私の特殊な気質によるものだと思います。相手の気持ちを感じとる……ありていな言い方でいえば「空気を読む」ことが苦手で、いつも自分のなかでかってに想像を膨らませてしまう内向的感情型の私だから、きっと小山維子さんの意図したものとは違った感じ方をしているのだと思います。何だったら、「抽象画って何が何なのか極端にあいまいなんだから、どんな風にも解釈されても仕方がないでしょ」と言い返してしまうかもしれません。言い返しませんが。それは暴論極論の類であり、そんな風に思うことはあるにせよ、それを誰かに伝えることはするべきではありませんが。
ただ、とにかく私は何かを感じたのです。
キャンバスに引かれた横一線の筋とか、重ね塗りされた色のグラデーションとかに、言いようのない感情を動かすものを受け止めたのです。そのわずかな心の動きをつかんで、更に想像を膨らませる。それはちょっとした努力と経験が必要なことですが、私はアートをたくさん見て、「こういうのが楽しいんだろうな」と思うところまでたどり着きました。
そういうわけで、素敵な個展でした。何がどう良かったかって、それは上手に言えませんが。作品が抽象画なので私の感情感想も抽象的にならざるを得ません。
ただよ、ただだ!(真壁刀義さんふうに)
私はアートを見るのが大好きです。1度でわからなければ2度も3度も繰り返し観ます。何かを感じ取り持ち帰れりたいので何度も何度も観ます。それでも何も感じられなければ、それはそれで仕方がありません。「私にはちょっとわからない」それも一つの感情感想であり、お持ち帰りできるものです。
わからないなら、わからないという感情をも大切にする。そういうのが、私自身の感情をはぐくむために必要なことなんじゃないかな。そう思いました。
良い個展でした。
天童市美術館にてミュシャ展を観てきました。
私も古今東西のあらゆる人たちと同じく、ポスター絵でミュシャが大好きになりました。今回14年ぶりに「ジスモンダ」それに「黄道十二宮」の絵を見て感動で込み上げるものがありました。全作品撮影OKということでしっかり写真を撮ってきました。中にはジスモンダの写真と一緒に自撮りしたものもあります。これはひとりで撮影しなければいけない制約のもとで撮ったので、あまり上等なものではないし、きわめてプライベートな写真なので別に公開するつもりはありませんが。
そのうえで、今回感じたことというのは、やっぱりちょっと違うんですよね。14年前とは。
というのは、今回の所蔵品は上記の通りチマル博士のコレクションによるものであり、14歳の頃に初恋の人を想って描いたイラストや20代の頃に生計を立てるため各雑誌に載せた挿絵、さらに素描やお菓子の箱など……「アール・ヌーヴォー時代のポスターだけじゃないんだよ」ということを教えてくれる内容でした。
それを私は5周して感じました。ノートに感じたことを一生懸命書きました。見ている時間よりも文字を書いている時間の方が長かったかもしれません。最後に美術展の概要を紹介する5分ほどのビデオを見て、
「どうやら、私が感じて考えたことは間違いがなさそうだ」
ということを確認しました。なので今回はあくまで私の感想ではありますが、X(旧Twitter)では長すぎて長すぎてまとめられないような長文を、この場を借りてドカンとかましてやろうと思います。
1.「ミュシャ様式」について
極めて単純な考え方で行くと、「アールヌーヴォー=ミュシャのポスター」だったんですよね。これではあまりにも乱暴すぎます。私だってそう思っていましたが、ただ具体的にどう深堀りして行けばいいのかわからない……そう考えながら絵を眺め、感じたことを大切にしつつ解説文もしっかり読みました。
そうすると、この「ミュシャ様式」という言葉が出てきたんですね。すなわち、植物と女性を組み合わせた構図。どちらが勝ちすぎているわけでもない。清楚さと瑞々しさが適度に溶け合った世界。そこでは草花に癒されつつさりげない女性の美しさに心がときめきます。決して扇情的なものではないのに、いつまでも眺めていたくなるポスター絵。これを会場で書き留めた私のノートでは「美しいという言葉以外のあらゆるものが無意味になり風の前のチリの如く消え去ってしまう」と表現していました。アールヌーヴォーっていうか平家物語ですね、どうもね。
2.「アールヌーヴォー=消費の時代の始まり」
今回の美術展で覚えた言葉として、「ベル・エポック」というのがあります。日本語にすれば「良き時代」ですね。アールヌーヴォーというのはあくまで芸術様式のひとつをさす言葉であって時代そのものをまとめて取り込むには「ベル・エポック」と言った方が適当なようです。
そんな時代に、「ジスモンダ」のポスターで一気に時の人となったミュシャ。その後も時代を代表する舞台女優サラ・ベルナールの主演舞台のポスターを何枚も描き、ポスターだけでなくお菓子の箱や大皿や時計など、実用品にも流用されます。私が大好きな「黄道十二宮」のデザインもちょっと改変されてお菓子の箱になりました。
そもそも何で私がミュシャ好きになったのかといえば、2003年に伊藤園から販売された缶コーヒー「サロンドカフェ」のラベルになっていたからだし、これは当然の流れなのでしょうね。会場の外にあるミュージアムショップではこの時代のイラストがあしらわれたお菓子やグッズが所狭しと並べられ、女性たちがこぞって買いあさっていました。確かに私も黄道十二宮のイラストがあしらわれた金属缶のクッキーには心がときめきました。ただ2500円はちょっと高いです……私の予算は、図録とそれを入れるためのオリジナルデザイントートバッグで精一杯なんです……。
これらの商品ポスターに関して一言で説明すると「商品を手に取ってもらうためのデザイン」ということなんですね。ベルエポック、アールヌーヴォーの時代とは消費の時代の始まりであり、あらゆるものを手に取って買って生活の中に取り入れる……物があふれて生活が豊かになる時代だったのです。だから商品そのものではなく「商品を手に取ってこれを楽しむ女性」を描いたミュシャのイラストは大いにもてはやされ、人気絶頂の大作家となったのでしょう。
この辺、何となくアンディ・ウォーホルのそれとも近いのかな、という気がしました。いやミュシャは消費されるためのデザインをした人でウォーホルはそれをひねって自分の美術作品にしてしまった人なので全然違うんでしょうが、私は「消費」という言葉にこだわる人間なので、そういう言葉で結びつけてしまいました。
そして、そう考えると少し自分の心の動きを冷静に俯瞰することができました。サラ・ベルナールのポスターがとっても綺麗で大好きなことは真実ですが、それだけじゃないよね、って。ミュシャはそれだけじゃない。その前(挿絵画家時代)のミュシャがあり、その後(祖国チェコに戻り「スラブ叙事詩」を仕上げた時代)のミュシャがある。その全体を通してみて、自分のなかのミュシャ像を完成させよう。そう考えたのでした。
3.マルチアーティスト・ミュシャー紙幣・切手・メダルー
1918年。それまで他国の支配を受けていたチェコはようやく独立し「チェコスロバキア共和国」なりました。その時に紙幣や切手のデザインを引き受けたミュシャ。この10コルナ紙幣にデザインされた少女は愛娘ヤロスラヴァでした。
ヤロスラヴァはチェコ帰国後のミュシャの代表作「スラブ叙事詩」のポスターにもモデルとして登場しています。絵だけではなく写真術にも通じていたので、先にポーズを決めて写真を撮り、それをもとに絵におこして大きなポスターにしたということで……パリ時代のそれと比べると陰影がより鮮明になっていて、目力もアップしていますね。精悍な感じ、という言葉を女の子に使っていいのかどうかわかりませんが、それはこの時代のミュシャの特徴というか……とにかく私はそう感じたってことですから、どうしようもありません。
そんなわけで紙幣や切手、それに所属していたフリーメーソンのメダルなど、デザインに関わる仕事を何でもこなしていたミュシャ。ポスターだけじゃないんだってことを深掘りする非常に良い機会となりました。私は別に美術評論家じゃないから、このくらいでいいんじゃないですかね。言葉による解説がたっぷり書かれた図録も買って来たし。後にそれを読んで、あとは少しずつ理解を深めていきたいと思います。以上、ミュシャ展の感想でした。Salut !
今日この日記を書いているのは8日のド早朝であって、これからお出かけしようかっていう状況なので特別なことは書けませんが、予定としては山形県天童市にミュシャ展を観に行きます。
前回見に行ったのは14年前なんですが、なんとその日も5月7日! 1日違いですが、ほぼ純粋に14年ぶりと言っていいでしょう。当時はギリギリ20代でした。
「本物の絵を見る機会なんて、もしかしたらこのあと一生ないかもしれない」
当時の日記によれば、そんなことを書きながら見に行ったみたいです。それから14年経って私のライフスタイルも大きく変わって……それほど美術に心を開いていなかった当時でさえアールヌーヴォーの美しさに魅了されていたのですから、今日は特別に楽しみです。
さらに、当時の記事としてこんなことも書いていました。
「とにかく見て感動するためのものでしょう、絵って? 私は美術評論家じゃないから、とにかく私は好きなんです」
もう20代の頃からそんなことを言っていたんですね私。やっぱり今とあんまり変わりないですね。
昨日はちょっと具合が悪くて、そのくせ今朝はメチャクチャ早起きしちゃって……楽しみすぎて眠れなかったんですが……どうしようかな。行きの電車で少し眠ってから行こうかな。ともかく、体調見合いで書けるかどうかは判断します。最悪、何日か休むことがあるかもしれませんが、そういうものだと思っていただければ幸いです。Salut!
仙台アーティストランプレイス(SARP)で「ウクライナはわたし」展を見ました。
SARPさんにはもう何度となく行っているので、お店の方にも顔を覚えてもらって、忙しくなさそうな時はちょっと感想を伝えさせていただくくらいの間柄なのですが、今回の展示は河北新報夕刊の「アートの杜」欄で知り、実際に足を運びました。
ここで政治向きのことを言うつもりはありません。政治も軍事もニュース番組の評論家やコメンテーターの人にお任せします。私がこうしてわざわざSARPに足を運び、ウクライナの子どもたちが描いた絵を見て何を感じたか。ここでは会場をグルグル回って、SARPの方とお話をして、さらに今、自室に帰ってきて撮りまくった写真を見返して感じたことを可能な限り言葉にします。私はジャーナリストでも評論家でもありません。ただの仙台のアート好きなんです。でも、そういう人間だからこそ感じられることがある。私はそう信じています。
まず一見して感じたことは、「祈る気持ち」でした。神様に祈る少女、教会とその周りを囲む天使たち、太陽や星々やきらめく光に彩られたウクライナの人たちと世界。国旗の色である青と黄色を基調としたものもあれば、それ以外の色も使ったとてもヴィヴィッドなものもあり……一方で現在のウクライナの実情をリアルに描写した絵もあり……。
こういう時代ですから、私だって実際のウクライナがどういう状況であるかは、わかります。だからこそ、これほどまでに鮮やかに美しい風土や天使や神様への祈りをモチーフとした絵が描かれたことに強い衝撃を覚えたのです。理想と現実。今のウクライナのことを思うほどに絵の鮮やかさは心にしみわたり、さらなる感情を湧き起こすのです。
一方で、そんな今のウクライナの状況を一番リアルに伝えてくれたのがこの絵でした。絵の中の言葉は翻訳アプリで確認してください。私は衝撃に打ちひしがれて、危なく倒れそうになりました。
そして私が最も気に入ったのがこの絵でした。アンデパンダン展の時にも書きましたが、やはり人間の瞳というのはある意味、強い力を持っています。このように瞳に見つめられ……しかし彼女の瞳に映っているものは……。気に入ったという言葉に語弊があるのなら、一番強い衝撃を受けたといいかえてもよろしい。私はあくまで美術展を見た感想を書いているのです。そういう意味で、とても強い衝撃を受けた……言葉をすべてむしり取られ、その場にひざまずいて涙を流しそうになった……それほどの衝撃を受けました……大げさですか? でも本当にそうだったんです……あえて正直に申し上げます……そのくらい印象的な作品でした……。
絵の感想はこれでようやく半分というところです。SARPという場所は元々スペースAとスペースBというふうに分れていて、それぞれの会場で全く別な作品展をすることもあれば、今回のように間仕切りを外してひとつの大きな展示スペースにして開催することもあり……ここまで私が語ったのはスペースAの方のことでした。
スペースBの方も、同じくウクライナの子どもたちが描いた絵が展示されていたのですが、そこはまたちょっと違った雰囲気だったのでね。いったんそれは稿を改めて書くことにしましょう。ひとまず今回はこの辺で。
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仙台まるごとデザインマーケット……通称「まるデザ」に行ってきました。
昨日申し上げた通り、決してのぼせ上がって時速100キロの勢いで突撃したとか、そういうわけではありません。ただ、有料のイベントだし、「新しいものに出会えるはず」という期待を込めて……自然体を装いながら行ってきました。
そうしたところ、予想通り次から次へと素敵なものに出会い、気が付けば2時間も会場に滞在していました。その間飽きもせず会場をグルグルと見て回り、欲しい衝動を何とか抑えつけて厳選したいくつかをチョイス。ポストカードとかをお迎えして帰ってきました。
ただ、今回得た大きな収穫としては、「逢いたい人に逢う」というテーマをしっかり踏まえ達成したことじゃないかな。
昨秋のアンデパンダン展で作品をお見掛けした「人首美鬼」さんのブースがありました。この写真はアンデパンダン展の時に撮影したものですが、これが昨日のまるデザのブースにあって「えっ!?」と声を上げそうになってしまいました。ブースの雰囲気はインスタの方をご覧いただければわかりますが、非常に「だだだだだだ、ダークネス!」な商品ばかりで、いきなり予算オーバーになりそうでした。まあ私もこれから先ずっと生きていかなければならないので無理やり衝動を抑えつけ……それでも心惹かれた(なおかつ実用的な)鏡をお迎えしました。ありがとうございます!
そのほか、何度かSNS上でやり取りをしたことがある「非日常のろうそく屋さん」や、初めてお目にかかった方などを経て、いよいよ今日のメイン……「はせがわじゅん」さんのブースに行ったのでした……。
去年とはまるっきり服装が異なるんですが、せっかくお会いしたので「実は去年、イラストパネルにサインをしていただいて……」というお話をしたところ「あ~非常口みたいなマークの方ですよね!?」と言われて驚愕。それまで冷静を装っていたのですが、そんな風に言ってくれたのがメチャクチャ嬉しくて、とうとう正体をさらしてしまいました……「はい! 佐藤非常口と言います!!!」……「まさか覚えてくださってるとは思わなくて……本当に嬉しいです!」と感情を爆発させてしまいました。
そうか、やっぱり……SNSのつながりも大事だけど、人の心は……ちゃんと気持ちを伝えれば、それを忘れずに、覚えていてくれるものなんだ……! もうね、もう泣きそうなくらい嬉しかったんです。はせがわじゅんサンにそんな風に言っていただけて。
そういうことがあったから、来年も必ず行こう。そうすることができるように、この街で生きていこう。そう思ったのでした。
青葉区大手町のギャラリーターンアラウンド(タナラン)でゆきみせとサンの個展『身の周りのものたちの、安住と不定形』を見てきました。この投稿をInstagramで見る
直接的に個展を知る(そして興味を持つ)切っ掛けとなったのは、タナランに行った時にこのDMをもらったからなんですが、ご覧の通りキャラクターがとても可愛いんですね。とにかく可愛いものが大好きな私ですから、それを手掛かりに行ってみたのですが、ゆきみせとサンの描く絵の魅力はそれだけではありませんでした。
その点はInstagramにまとめたのでご覧いただきたいのですが、自然とキャラクターの組み合わせがあるんですね。真っ先に目が行くのは人物なんですが、少し離れて全体を見渡してみると、その周りの草木などがあまりにも自然すぎて、本当にその場所にいるような気がして呼吸が楽になるのです。
このところアートを見て感じるのは極めて内面的で感情的なものでしたが……ゆきみせとサンの絵も最初はそういうつもりで見ていたし、実際まずキャラクターに心のフォーカスが合うので、その点は間違いないのですが……いったん離れてパンフォーカスで全体を眺めた時にそのキャラクターだけじゃなく、観ている私をも包み込む世界があることに気づくから安心するんです。
それはゆきみせとサンが手ずから切り出した木のイステーブル、それに熊や鹿のなめし革の助けもあったことでしょう。安く聞こえるので簡単に言いたくないのですが、その時の私の心象を申し上げるのなら「癒される」そう言うのが一等適切な気がします。
くしくも昨日、道の駅津山もくもくランドで「木のマウスパッド」を買いました。登米市津山の名産「津山杉」を圧縮加工した矢羽集成材(矢羽集成材って何? という方はこちらのサイトをご覧ください)を購入し今日から使い始めました。勿論このマウスパッドは私が手ずから作ったわけではありませんが、木のぬくもり……自然の風合い……そういったものに心が馴染んでいたから、今回のゆきみせとサンの世界観にもすぐ馴染めたのかもしれません。
あくまでこれは私の勝手なこじつけです。ゆきみせとサンは「いや別にそういうわけでは……」と仰るでしょうが、いいんです私は私の好きなようにアートを楽しみ受け入れていくんですから。自分の体験を自分がいいように組み合わせて、私だけのストーリーを作っていくんです。
感想はノートに思い切り書きつけて来たのですが、とりあえず今の感想としては、こんな感じです。画集も買ったので、これから何度か読み返しているうちに、少しずつ私の心の中で理解が深まって、また書きたくなることがあれば書きますが、今日は「行ってきました」という事実を書きます。良い個展でした。
こないだ秋保の杜佐々木美術館&人形館で開催された『辰展』について、このブログでもXでもInstagramでも発信したわけですが、やはりXとInstagramでは投稿する側の私の気持ちも少々違うんですよね。Xの方は男性時代からずっとやっている一般メディア的なものですから、確かに特定のひとの作品をピックアップして載せたりもしたのですが、感想は控えめにしてレポート的な内容でまとめました(大体140文字しか入力できないし)。
一方Instagramの方は、今回の主目的であるトキワさんも見てくれる可能性が(Xよりは)高いので、フォーカスをトキワさんに合わせて投稿しました。わざわざ感想を書いたノートと一緒に写したりして。……まあ随分と厚顔無恥な感じもしますが、それでいいんです。私はそうやって感情をまっすぐに発信する生き方をしようって決めたのですから。
そうしたところ、昨日とうとうトキワさんが、私の投稿に対していいねをしてくれました。さらに、さかいふうかさんに関する投稿にも……それにトキワさんだけではなく、東北生活文化大学の卒展を切っ掛けにフォローした(してもらった)方からも……。
この時の格好については、Xでも投稿しました。復帰戦の写真として。そして「最後のみすみんボード」仕様の私として……
ただInstagramでは、さかいふうかさんに「あの時会場でお会いした私です」ということを証明するために、そして確かに会場に見に行きましたよ~! ということを東北生活文化大学の卒展に出展されていた(さかいふうかさんと同級生の)方たちに向けて証明するために、あのように一緒に写り込んだ写真を投稿したのです。それを「胎に刺さったリボン展」でいっしょに出展されていたトキワさんに見ていただけたことは光栄の至りです。いぎなり嬉しいです。「とうとうやったか……」という感じです。
XもInstagramも、もう何度も言っていることですが、別に10万フォロワー目指しているとかその日のトレンドに取り上げられて毎日10万いいねをもらえるような人類になろうとしているとか、そういうわけではありません。ただ私がどういう人間であるのかを――時々私自身がわからなくなってしまうので――確認するためにやっています。その上で私に良くしてくれる方、私の投稿にいいねをしてくれる方、コメントのやり取りをさせていただける方がいらっしゃるなら、それを大切にしたい。そう思うのです。
とりあえず、トキワさんにもミナセさんにも「私がさかいふうかさんの個展に行ったことのあるアート好き」であることは伝わったと思います。それでまずは地盤固めは大体オーケーでしょう。あとはここから、どれだけ積み増すことができるか。美術系の学生さんには私のこういう格好も好意的に受け入れてもらえることが多そうだし、私は今後もこういう生き方をしていきます。
余談:
先日仙台駅東口ダテリウムで出張販売が開催され、ペロンミさんもXで「仙台で流行っているモナカ」として紹介していたシーラカンスモナカですが、私が初めてその名前を知ったのは去年のメディフェスで登壇されたトランスジェンダーの「つーさん」サンのお話によるものでした。記憶違いだったらごめんなさいと言って投稿したらつーさんサンから「わたしが言いました」と温かいリプライを頂いたので改めて書きますが、Xに復帰した後も何度かやり取りをさせていただいております。
つーさんサンについては前にも記事を書きましたが、本当に綺麗な方です。そして素敵な女性です。自分がそうありたいと思う性で生きることに邁進しておられます。そんなつーさんサンの言葉をXで読むうちに、
「果たして私が在りたい性とは何なんだろう?」
と疑問に思うことがあります。
私が生まれながらに神様から授かった肉体は男性のものですが、正直なところ常に男性として生きることは少々苦痛です。だから職場と実家以外では、極力、女性らしい生き方をしようとしています。ただ、そうしたところで私はどこまでも男性であることを捨てられない……トランスジェンダーとして踏み切るほど女性にはなり切れないけど、心から自分が男性であることを受け入れられない……。
そういう私だからヘルマフロディトス(アンドロギュノス、両性具有者)を理想の形に定めて生きてきたのですが、つーさんサンの生き方を見ていると、「私はこれでいいのかしらん……」と、少し立ち止まってしまいます。
でも、何度もそうやって考えていると「これでいい」と踏み切る勇気も湧いてきます。
女性になり切れないなら、それでいい。朝起きて、男性の肉体を持った私のある部分が生理的な反応を示すのも仕方がありません。神様が私に与えてくれた肉体が、私の意志とは別に動くのは、自然なことです。身体髪膚之を神様に受くです。この肉体で性を全うし、やがて帰天することとしましょう。
そのうえで、私は私の美的感覚に従い生きていきたいと思います。自分の意志ではどうにもならない肉体をなだめて受け入れつつ、私が心ときめくもの――可愛いもの、美しいもの――を身の回りに並べ、さらに身に着けて……さすがに(どれほど可愛くても)若い女の子向けファッションはできませんが、私にだってどうにか似合うスカートやブラウスもあります。ギリギリのところで私は自分が良いと思う服装をして生きていきます。それが私自身の心をときめかせ、生きる力の源泉となるのなら、私は喜んでそういう生き方をします。
何よりも、生きていくために。
まだまだ、生きていたいから。
おはようございます。
今日は東北大と東北学院大の入学式ですね。仙台市地下鉄の構内アナウンスで「この日は混雑すると思うので気を付けて」と流れていたのを聞いて知ったのですが、まさに「こりゃめでたい」ですね(仙台市博物館も再開館しました)。私は私で今年は社会人になって20周年。家庭も役職もないけど、私は今日も元気です。
今日の1枚は、先日BOOTHで注文した東北大学学友会美術部の作品集『307のドア』です。こないだ後期展で見た作品も収録されていました。……ということを書き出して、過去の記事を参照しようとして検索したら「改めて書く予定です」といって書いていないことに気づいたので、今日この機会に書きます。ちなみに今BOOTHを見たらダウンロード版しか販売していなかったので、すぐ検索してすぐ注文したのは良かったかな。でもダウンロード版なら全世界どこの人でも瞬時に作品を眺めることができるからいいですよね。個人的には紙媒体の方が好きなんですが。……
とにかく美術展と名がつけば何でも行ってみている最近の私ですが、これも随分と楽しませていただきました。その時のことを、観覧直後に書いたノートをもとにまとめてみます。
美術展といっても描き手の数だけ種類があり、写実的なものからアニメチックで可愛いものまで……そういうわけで結構気軽に入って、作品に親しむことができました。
特に素敵だなと思ったのがこちら「しろ」さんの作品でした。今年で卒業し県外にて新生活を始められるとのことで、仙台市内の風景を地図と一緒にたくさん展示していました。私の知っている場所もあり、知らない場所もありましたが、6年いたしろさんに対して私は2年ですからね。これを参考に、私なりにもっとこの街を好きになれたらいいなと思います。
本当はもっとたくさん写真を載せて紹介したいところですが、容量もきわどいところですからね。もしかしたら追記するかもしれませんが、とりあえず今日はこんなところで。
シモンドール(佐々木美術館&人形館蔵)
秋保の杜佐々木美術館&人形館で開催中の企画展『辰展』を見てきました。
辰展|秋保の杜 佐々木美術館&人形館 公式ホームページ
今は車を持っていないので気軽に行くことができないんですが、先日胎に刺さったリボン展で好きになったトキワさんが出展していることを知ったので、ぜひとも行くしかない! と発起。加えて、私が初めて佐々木美術館に行った時からずっと好きな画家『川村千紘』さんをはじめ、結構好きな方がいたので、繁忙期が始まる前に行っておこうと思い地下鉄と在来線とバスを駆使して行ってきた次第です。オートバイは昨日の雪が溶け残っている恐れがあるのと、私の女性性を覚醒させてくれた人だから特別に可愛い格好で行きたいので、もう少し延期します。
企画展「辰展」は人形館の2階で開催されていたのですが、最初は美術館の常設展を見ました。館長の佐々木正芳さんと奥様のあゆみさん(故人)の作品が展示されています。
そういった絵のひとつひとつに私が解説を加えるのは余りにもおこがましいので書きませんが、「おや!」と思ったのがこのブースですね。これは別に体験コーナーというわけではなくて、館長が冬の間に手掛けた作品がいまだ完成しないためこの場所で制作しているのだそうです。そういうわけなので決して見せるためにこのような場所を作っているわけではないのでしょうが、このような場所で私が大好きなアート作品は製作されるのだなあと興味深く眺めさせてもらいました。
冒頭に掲げた四谷シモン氏の人形や、今にも動き出しそうなビスクドールたちとの再会を楽しみつつ、やがて2階にある「辰展」の会場に移動。何人かの知っている名前を見て作品を確認しつつ、お目当てのトキワさんの作品を見ました。
トキワ 「火龍」
感想については自分のノートに書き、さらに会場にあるノートにも書いたので、改めてテキストに起こす気力がないのですが、簡単に書くと……やっぱり感情を揺さぶられるんですよね。可愛いとかきれいとかの内側にある激しい感情。それに加えて今回感じたのは「生々しさ」でした。ご覧の通り絵にある縫い目から、一度切り裂かれた傷口を縫合したあとの様子を想像して、そういう痛みを感じました。
とにかく今日はお昼ご飯も食べずにひたすら絵を眺め、感想をノートに書き、さらに先日買った門眞妙さんと滝沢市葉さんの画集を眺め、また感想をノートに書き……というのも、帰りのバスが来るまで3時間以上待たなければいけなかったので……そして帰ってきた次第です。だからブログの方であんまり詳しく書くことがないというか……すみません今、メチャクチャおなかがすいて気力が切れかけているんです(帰ってきた直後に書いています)。
でも、こういうのって、時間が経つと色々と気持ちが整理できて、書きたいことが湧き上がってくるものですからね。とりあえず今日は「こういうことがあった」という事実を書き連ねて締めくくりとしましょう。良い体験でした。
3/31 追記
2024年3月29日17時50分、秋保の杜佐々木美術館&人形館の創設者である画家・佐々木正芳氏が帰天されたと公式ホームページ等でお知らせがありました。ご冥福をお祈り申し上げます。
秋保の杜佐々木美術館&人形館で開催中の企画展『辰展』を見てきました。
辰展|秋保の杜 佐々木美術館&人形館 公式ホームページ
今は車を持っていないので気軽に行くことができないんですが、先日胎に刺さったリボン展で好きになったトキワさんが出展していることを知ったので、ぜひとも行くしかない! と発起。加えて、私が初めて佐々木美術館に行った時からずっと好きな画家『川村千紘』さんをはじめ、結構好きな方がいたので、繁忙期が始まる前に行っておこうと思い地下鉄と在来線とバスを駆使して行ってきた次第です。オートバイは昨日の雪が溶け残っている恐れがあるのと、私の女性性を覚醒させてくれた人だから特別に可愛い格好で行きたいので、もう少し延期します。
企画展「辰展」は人形館の2階で開催されていたのですが、最初は美術館の常設展を見ました。館長の佐々木正芳さんと奥様のあゆみさん(故人)の作品が展示されています。
そういった絵のひとつひとつに私が解説を加えるのは余りにもおこがましいので書きませんが、「おや!」と思ったのがこのブースですね。これは別に体験コーナーというわけではなくて、館長が冬の間に手掛けた作品がいまだ完成しないためこの場所で制作しているのだそうです。そういうわけなので決して見せるためにこのような場所を作っているわけではないのでしょうが、このような場所で私が大好きなアート作品は製作されるのだなあと興味深く眺めさせてもらいました。
冒頭に掲げた四谷シモン氏の人形や、今にも動き出しそうなビスクドールたちとの再会を楽しみつつ、やがて2階にある「辰展」の会場に移動。何人かの知っている名前を見て作品を確認しつつ、お目当てのトキワさんの作品を見ました。
トキワ 「火龍」
感想については自分のノートに書き、さらに会場にあるノートにも書いたので、改めてテキストに起こす気力がないのですが、簡単に書くと……やっぱり感情を揺さぶられるんですよね。可愛いとかきれいとかの内側にある激しい感情。それに加えて今回感じたのは「生々しさ」でした。ご覧の通り絵にある縫い目から、一度切り裂かれた傷口を縫合したあとの様子を想像して、そういう痛みを感じました。
とにかく今日はお昼ご飯も食べずにひたすら絵を眺め、感想をノートに書き、さらに先日買った門眞妙さんと滝沢市葉さんの画集を眺め、また感想をノートに書き……というのも、帰りのバスが来るまで3時間以上待たなければいけなかったので……そして帰ってきた次第です。だからブログの方であんまり詳しく書くことがないというか……すみません今、メチャクチャおなかがすいて気力が切れかけているんです(帰ってきた直後に書いています)。
でも、こういうのって、時間が経つと色々と気持ちが整理できて、書きたいことが湧き上がってくるものですからね。とりあえず今日は「こういうことがあった」という事実を書き連ねて締めくくりとしましょう。良い体験でした。
3/31 追記
2024年3月29日17時50分、秋保の杜佐々木美術館&人形館の創設者である画家・佐々木正芳氏が帰天されたと公式ホームページ等でお知らせがありました。ご冥福をお祈り申し上げます。
昨日のことですが、青葉区錦町にある仙台アーティストランプレイスで開催中の企画展『旅するオイルパステル展-Reflection-』に行ってきました。
主催者の公式ホームページ内におけるイベント概要
さらに会場にあるステートメントも全文を引用させていただきます(傍線筆者)。
せーの、ドン!
少しでも心が動けば「へぇー面白そうじゃないの」といって、門外漢の気安さでホイホイ首を突っ込んでしまう私ですが、これは私も興味をそそられました。「内省と反射」。私も含め元々美術で自己表現をするタイプではない人類がほとんどだと思うのですが、そういう人たちが真っ白い紙の上にオイルパステルで表現した自己の心象世界というのは、文字通り十人十色です。巧拙や評価の基準は初めから存在しない自由な世界。
旅するオイルパステル展
-Reflection-
心の深層に潜む感情と自己探究の旅
Reflection ” リフレクション”
一内省一
リフレクションは内省という意味を持ちます。
SOKOAGE CAMP では自己と向き合い、 内省する作業が多くあります。
それは自分の深くにあるまだ出会うことのない感情と出会うことを意味します。
Reflection ” リフレクション”
一反射一
リフレクションは反射という意味を持ちます。
SOKOAGE CAMP は一人では成立しません。必ず他者が必要となります。それは参加者同士が対話を繰り返し、
自己と向き合う中で相互が反射しあうことを意味します。
自己と向き合うとは一体どんなことなのでしょうか?
それは、過去のトラウマに向き合うことかもしれません。それは、見たくない自分を見ることかもしれません。それは、孤独なことかもしれません。
それでも自己と向き合うのは、
きっと意義ある人生を送りたいからなのだと思います。
この展示会では来場者の 「あなた」 が作品を制作し、 展示することで出来上がっていく展示会です。 是非、じっくり 「あなた」の内面を表現いただければ幸いです。
こんな風に言われれば「そうかな!」としか言えないでしょう。全ての作品について、「そういうものなんだな」という認識で見て回り、そのことを在廊していたスタッフのオノデラさんに伝えたところ、
「せっかくだから、描いていきます?」
とのお誘いが。自分から率先してサッサッと描き出すほど積極的ではありませんが、そういうふうに水を向けられればすぐにダイヴィングしてしまいます。そんなわけで3x年ぶりにオイルパステルを手に取り、私のReflection――内省と反射の試みが始まったのでした。
初めにマスキングテープで縁取りをし(オノデラさんいわく「額縁みたいになる」から)、とりあえず手にしたオイルパステルを走らせます。心に浮かんだ風景――それこそ小学校の図工の時間に、風景画を描く時のように、草むらがあって太陽があって空があって……という景色を描こうと思ったのですが、このオイルパステルそのものの特徴が面白くて、もう景色とかどうでもよくなっちゃったんですよね。
特徴というのは、結構、顔料が濃いので線を引いた後指でこするとボヤ~ッと色が広がったり、別な色で重ね塗りをすると全然違う色になったり……ということです。そんなわけで、心が求めるままにオイルパステルを手に取り、「ここにこの色を重ねたらどんな色になるんだろう」とかって、未就学児のような思いで描き上げたのがコレです。
タイトルの『分光 -spectrum-』というのは完全に後付けのタイトルです。ADHDでASDの当事者として……ASDというのは「自閉スペクトラム症」というもので、感情がグラデーション的でうまく切り分けができない性質があるのですが、そういう自分の心を反射して投影したものがこれかな、って気がしたのでそうしました。どちらかというと心理療法みたいな感じですが、そういうふうに解釈すれば今回の企画展の主旨にバッチリかなっているんじゃないかなって気がします。
そしてこれを展示に加えていただくことになりました。それが1枚目の写真です。
別アングルから。……自分で描いた作品だから一番気になるのは当然ですが、異彩を放っていますね。まさか、こうしてSARPさんの美術展に私の作品が展示される日が来るとは……夢のようです……。
しかも、それだけでは終わりませんでした。来場していた方と(まるで関係者のように)話していたところ、私の絵はどれなの? と聞かれ……自分の絵のことを自分で説明するという体験をすることになってしまいました。もっともらしい理屈をつけてしゃべるのは得意なので、その辺はスラスラ語ることができましたが、これはもう望外の喜びとしか言えません。オノデラさんありがとうございます!!!
*
そういうわけで、これまでは「アートとか、見るのは大好きなんですけど、自分では全然やったことなくて……」と少し負い目を感じていたのですが、今度からは堂々と「自分で絵を描いて、それを展示してもらったことがあります」と言えるようになりました。美術展とは少し違うかもしれませんが、何度も通って素敵なアートに感動したこの場所に私の作品が展示されること自体が重要なのです。その事実が、私の気持ちを強く後押ししてくれるのです。
「これは私以外の人類にとっては小さな一歩だが、
私にとっては偉大な一歩である。」
私がこんなことを言っても、泉下のアームストロング船長も「まあ気持ちはわかるけどね」と笑って許してくれるでしょう。
今回得た一番大きな収穫は、私は「絵が描けない」わけじゃなくて「自分の心を絵で表現することに臆病だった」「どこに道があるのかわからなくて、一歩を踏み出すことができなかった」という私の心に気づいたことです。その一歩を踏み出すことができたのなら、あとは気持ち次第で何とでもなるはずです。この1年、いえ、仙台に拠点を移し生きてきた2年の間に、実際そういうものであると私は知っています。
去年から名乗り始めた「佐藤非常口」名義での活動。第2シーズンは、もうちょっとだけ美術で自分を表現できるようになる! を目標に、頑張って行きたいと思います。 Salut !
改めて……さる3月16日、青葉区東勝山の住宅地にある中本誠司現代美術館で「さかいふうか個展 神様のいないせかい」を見てきました。ここに来るのは去年の10月以来ですね(前回はアンデパンダン展でした)。
さかのぼって2月に三人展『胎に刺さったリボン』を見て私の中の女性性が強く共鳴(加えて、初めて私の服装を可愛いと言ってくれる方に出会った)し、卒展ではインスタレーション作品で体験的に可愛いの雰囲気を感じ取り、それからにがつのいぬとねこ展を見て、あとブログでは書いていませんが3/14にSARPで見た森敏美さんの個展『とっ替ゑ、ひっ替ゑ、すり替ゑ展』でもソロ作品それにトキワさん、かんのさんとの共同作品(注)と……2月以降の美術展で展示されたものは全部見ているんじゃないかってくらいの勢いで見ています。
「9の心」(にがつのいぬとねこ展にて)
(とっ替ゑ、ひっ替ゑ、すり替ゑ展にて。右はアレンジ前のオリジナル版)
そして今回、満を持しての個展です。東勝山というのはそこそこ距離があるのでオートバイを出そうかとも思ったのですが、せっかく私の女性性を開花させてくれた方なので、私が持っているお洋服の中でも一番オシャレなものをチョイス。清楚系なのかロリータ系なのかわかりませんが、「とにかく可愛い鳴瀬」仕様で歩いて行ってきました。
とにかく可愛い鳴瀬
ではここから、作品についての感想を少しまとめてみます。
私だってさかいふうかさんの作品を見て大好きになった人類だから、このくらいのことは言ってもいいと思うのですが、さかいふうかさんの作品はやはりマゼンタがベースカラーなのだなと感じました。白でも黒でもなくマゼンタ(でいいのかな)。それが基調にあって、その上に描かれた可愛らしい女の子に私は「女性性」を感じました。
「夢幻クロニクル」
ただ、可愛いだけじゃなくて……その笑顔の陰に潜み、うっすらと滲み出てくるような悲しさとか辛さとか……そういう単純ではない心の疼きを感じました。温かいマゼンタベースの色合いと愛くるしいキャラクターに心を開いて打ち解けるんですが、ただそれだけでは終わらない感情……切なささえも、さかいふうかさんの作品には、感じ取ってしまうのです。
この写真の左側にある「魔法少女と呼ばないで」という作品は、2月の『胎に刺さったリボン』でも観ましたが、これを見た時にそう感じたんですよね。可愛いけれど、その可愛さに包み込まれた、隠された負の感情。でも、それは私でも誰でも持っている自然なものですから、かえってそういうところに安心したのかもしれません。
ちなみにこの作品については、2024年1月30日の河北新報夕刊で同展が取り上げられた時に写真が掲載されたので、ご覧になった方も多いかと存じます。記事によれば、
美醜や年齢を重ねる不安と戦う女性を戦士に見立てる。ハート形のキャンバス、明るいピンク、光るラインストーンで「かわいい世界観」を組み立てた。とのことで、やはりこの作品がさかいふうかさんの作品に対する第一印象であり基調となっています。もう一度この場所でお目にかかることができてうれしかったです。
「思考故、葦のように」
正誤の問題ではありません。とにかく私はそう感じました。そして、そのことを正直に発信することが私のするべきこと、大好きなさかいふうかさんの作品に対する至誠だと思うのでそうします。今回の個展で私の感性をフル稼働させて溢れかえった感情を言葉にすると、大体そういうことであると思います。
何でこれほどまでにそう思うかと言えば、やはり前回の「胎に刺さったリボン」と今回の個展それぞれに掲げられたステートメントを読んだからでしょうね。文芸オタクの美術好きはそう考えます。以下引用。
「神様はいなかった」『胎に刺さったリボン』から卒展、さらにいくつかの展示を経て個展にたどり着き、実際にさかいふうかさんにお会いして気持ちを伝え(さかいふうかさんは感想を書きつけた私の手書きのノートをも、写真を撮るくらい喜んでくれたのです!)、今こうして写真を振り返りながら気持ちをたどっていると……可愛らしさと悲しみ……そしてその向こう側にある優しさと強さにたどり着きました。
これは6年前の日記の一文。
6年前私は手を痛め絵が描けなくなった。
当時はこれが一生続くのだと思っていた。
今でこそ大きな不自由も無くまた絵を描くことが出来るようになったが、別に手が完治した訳でもなく当時感じた諦めの感覚はまだ確かに自分の中に残り続けている。
結局神様が本当にいるかどうかなんて分からない。
だがこの先どんな未来が待っていても、絶望することがあっても、自分の軸を持ち続けたいと願う。
もしここが神様のいない世界だったとしても、自分が自分の神様になるくらいの気持ちで生きていきたい。
『乙女信仰』
涙をたたえているようにも見えるけれど、その目力は決してか弱くなく、強い意志をもって……それも、さかいふうかさんの「気持ち」なのかな? と勝手に想像してしまうのはファンの深読みと笑って御容赦いただければ嬉しいのですが……神様のいないせかいを生きようとしているのだ、と。そういう結論にたどり着きました。
この作品も2月の『胎に刺さったリボン』展で初めて見たのですが、結構気に入っている作品です。その時にもユニコーンの角が雄々しさというか……弱さやはかなさに真正面から戦ってこれを乗り越えようとする強さが秘められているような気がして、印象に残っていたのかもしれません。今回の個展で改めて観て、それを思い出して……ステートメントに表現された、さかいふうかさんの強い意志が込められているように感じました。
「終わったはずのせかいで」
これは卒業制作のインスタレーション作品の中にも飾られていました。タイトルは、今ある画像を拡大してそう読み取ったので正しいかどうか少し心配ですが、河北新報の紹介記事を読んだらそれであっていることを確認しました。
卒展には2回行って、2回目の時に「作品の中に入り込む」という試みをしたのですが、不慣れだったり人目を気にして慌てていたりしてひどい代物だったので、今回改めて撮影しました。私が制作したわけじゃないんですけどね。でも大好きな作品と一緒に写るっていうのは、自然な気持ちですよね。
……今にして思うのは「何で絵の前に立つの!」ということですが……でもその時はこれが良いと思ったんでしょうね。仕方がありません。今回こうしてちゃんとした写真を撮ることができましたしね。うん、これはこれで良しとしましょう。
こちらは今回お迎えしたドローイングと、卒業制作「夢幻クロニクル」の記録写真集です。私も自分で一生懸命写真を撮りましたが、こうして公式のパンフレットがあるのはとても嬉しいです。私が見て感じた世界観がさらに充実して、世界が深まります。そしてドローイング……私が普段ご飯を食べたりこうしてパソコンに向き合ったりする場所から一番よく見える場所に置いています。ふっと見ると、いつでもそこにさかいふうかさんの手で描かれたものがあるという幸せを感じながら、私も生きていきます。
最後になりますが……今回は本当に素敵な時間を過ごさせていただきました。私が来館してから少し遅れて来られたさかいふうかさんは、ベージュのワンピースにヘッドドレスをつけて……いわゆるロリータファッション? なスタイルでした。
その恰好が作品の世界観同様とても可愛らしいのは言うまでもありませんが、私も私にできる限り頑張って考えた「とにかく可愛い鳴瀬」のコーデを「素敵なお召し物ですね」と褒めてくださったのです!!!
感想を聞いてくれて、待ち時間にまとめていたノートを「嬉しいです」と言って写真を撮ってくれて……私の方も気絶しそうなくらい嬉しくて、その勢いに任せて一緒に写真を撮ってもらいました。これは別にSNSに投稿するためとかじゃなく、本当に、この日の思い出を残すための記念写真です。
可愛い服を着て生きること。
美術展があれば積極的に行くこと。
感想をノートに手書きでまとめること。
これまで(特にSNS休止後)一生懸命に頑張ってきたことの全てが結実し、今回こうして素敵な体験ができました。先日書きましたが、私は自分の感性を信じます。自分が良いと思ったことを受け入れ、良いと思った方を向いて生きていきます。今回の、さかいふうかさんの個展で私が体験したことは「みきわめ」をもらったものと受け止めます。
卒業? そう言っていいのかもしれません。
メディフェスせんだいから1年。色々と悩んだり立ち止まったり飛び降りたりしながらも、こうしてひとつの作品――文章を書くことが得意な私にとって、手書きのノートに書いた感想文は「作品」のようなものです。それを、さかいふうかさんが受け入れてくれたのだから、私は堂々と「作品」であると宣言します!――を作り上げることができたのだから、新たなステージへ進みます。
さかいふうかさん、今回は素敵な時間を過ごさせていただきました。もう一度、別な機会にお会いできることを楽しみにしております。個展があれば絶対に行きます。
ありがとうございました!
(注:これは厳密に言うと東北生活文化大学の学生として本名で制作したものを森敏美さんがアレンジした作品なので、少し違うかもしれませんが、卒業制作も同じように学生として本名で出展していたのだし、いいですよね。この展示も素敵なものだったのでいずれ改めて書きます!)
3月15日、さかいふうかさんの個展「神様のいないせかい」を見てきました。
……これに関しては初めにノートに感情を書きつけ、そのあと非公開の日記に書きつけ、少しずつ心の温度を下げているのですが、まだブログで詳細を書けるような温度にはなっていません。感情がまだまだ激しく燃焼していて……むしろ噴火って言った方が良いのかな。心に閉じ込めていた感情がいっぺんにあふれ出して、その余韻がまだ消え去らないので……そういうのが冷えて固まったら書き出してみます。
かといって他のことを書く気がないので、ごく短く今日はまとめさせていただきます。
こういう格好をして街を歩きたいと思う自分の心を正当化するために「CVトランスジェンダー」とか「ノンバイナリー」とか一生懸命語ってきたのですが、今日、
「そういうの、私は何でもいいや」
と思うようになりました。
残念ながらどうあがいても私は男性であり、完全なる女性にはなれません。それでも私は私に出来ることをします。私は自分が可愛いとか美しいとかって感じたら、その感情を大切にします。その感性を信じて、大好きを身に付け、大好きと一緒に生きたいと思います。
前にも書きましたが、それは仙台じゃなければならないのです。この街で私の服装を可愛いと言ってくれる人に、また、素敵ですねと言ってくれる人に出会うことができたのですから。そういう強力な思い出が私の心の中にオベリスクの如く屹立した今となっては、これからもずっとこの街で生きていきたいと、心から思います。そして……
メディフェスせんだいから1年。どうやら私の生きる道は決まったみたいです。
私は自分の感性を信じます。自分が良いと思ったことを受け入れ、良いと思った方を向いて生きていきます。この街にはそういう生き方をする私のことを理解してくれる人がいるって、もう知ってますから。
この街で出会い私のことを助けてくれた全ての人たちに感謝を込めて。Salut !
仙台アーティストランプレイス(SARP)で開催された「持ち寄りこれくしょん宮城輝夫作品展」を見てきました。
私なんかが説明する必要も無いくらい超有名な美術家です。戦前から前衛美術家・超現実主義画家として活躍し、三島学園(現・東北生活文化大学)でも教鞭をとられるなど、後進の指導にも熱心だった……みたいです。こないだ私の女性性を極限まで引き出してくれた胎に刺さったリボン展の主催者である三名も同学校の生徒ですから、何となくつながりを感じます。
ただし今回の企画展はそこまで格式ばったものではなく、「教え子やファンが所蔵している作品をファンが持ち寄り」開催されたもので……絵画作品もたくさんありましたが、本とかパンフレットとか他の人の美術展の案内はがきとか個人に宛てられた手紙とか……とにかく宮城輝夫氏の言葉や雰囲気が伝わるものを集められるだけ集めてみました、という雰囲気の内容でした。
そういう雰囲気がとても温かくて、私も初めて見る絵画に「おおう……」と息を呑み、宮城県の他の美術家(中本誠司氏、佐々木正芳氏など)との写真を眺めて知識の幅を広げ、案内はがきなどに書かれた推薦文を丁寧に読み……長い時間をかけて味わった後、感想を残しました。こんな感じです。
せーの、ドン!
迷走気味の走り書きなのでずいぶんと文章がおかしいですが、逆に率直な感情は伝えられたかな。ちゃんと本名で住所を書いて会場内のポストに投稿してきました。ともかく私の正直な気持ちを受け取ってもらえれば……。
*
お隣の会場では全然違う催し物をやっていました。こちらは菅野光子さんの個展<『半分の庭 』Vol.4 ほしにうまれるさかなたち>です。
あたたかいこちらは人生で3回目のインスタレーション……でいいのかな。会場全体に張り巡らされた幕と光源によって床といい壁といい目に入る空間全てに映し出された光と影の世界を楽しんできました。
ちいさな 灯りを
ひと粒 抱いて
夜の波間を
越えていく
届かなくて
泡と溶けても
一応会場の雰囲気を伝えるために写真を掲載しますが、元よりこれは「作品を鑑賞するという行為を少し横に置いて」(入口のステートメントより)光と影の空間にたたずみ雰囲気を味わうものですから、いちいちこの写真を取り上げて何がどうとかって解説する必要はないと思います。私も可能な限りあれこれ考えることをやめ、ただキラキラと輝く光と影の海を泳いで……一通り泳いだら真ん中に据えられたベンチに腰掛け、周りを見回し休む……そういう体験をしてきました。
とりあえず、こんな感じでちょっとしたアート体験をしてきました。結構大きな美術展を見て、何千字もあるような感想文を書いて、疲れてしまったので……ちょうど良かったかな。この辺で少し気持ちを休めながら、次に向かうための準備をした。そんな日でした。このあとは中本誠司美術館で「さかいふうか」さんの個展もあるし、東北学院大学の卒展もあるし。それから他にも色々あるかもしれないし……たくさん案内はがきをもらってきたので、この中からどこにどう行くか考えてみたいと思います。3月も時速100キロで美術展行きまくりです!
この日(2月10日)は、元々東北生活文化大学の卒展を見に行ったんですよね。そうしたところ会場前に大きな看板があって、「まあせっかく来たんだから見てみようかしら」という感じで見てみた。そんな感じです。完全に美術モードで来た上に、どちらかというと理系の雰囲気のする卒展でしたから、「私なんか……場違いじゃないかしらん」という気持ちがあったのですが、十和田市とか泉中央とか宇都宮市(兄が20年来暮らしている)とか、割と身近な場所をテーマに展開された研究内容があって、
「なるほど、これなら私なんかでも十分に楽しめるな」
……後に東北工業大学の卒展(産業デザイン科/生活デザイン科)へとつながる大きな一歩となったのです。アームストロング船長が初めて月面に降り立ったくらい大きな出来事でした。
一方で、まだまだ私の心が出来上がっていなかったので、記事を書くための見方をして来ておらず……一応ある程度、写真は撮ってきたので、少々不足があるかもしれませんが……ちょっと振り返ってみたいと思います。
*
まず入り口の方にあったのは、こういう……街の活性化ということを課題に掲げ、それに対してどのようなアプローチで実現するかという研究ですね。せっかくなので十和田市について私が知っている時代のことを少し振り返ります。
神さんが書いている通り十和田市は街の中心に現代美術館があり、それを中心に図書館とか市役所とか、非常に先進的な街づくりを行おうとしているのですが、そのメインストリート(官庁街通り)を外れると昭和感爆発のアーケード商店街があります。私が来たばかりの頃(2015年ごろ)はまだポツポツと昔ながらの商店があり、雰囲気があったのですが、私が去る直前(2022年2月ごろ)にはシャッター商店街化が加速して何とも寂しい雰囲気になっていました。そのため「もう十和田市は私の好きな十和田市じゃない」と見切りをつけ、忘れよう忘れようとしていたところだったのですが……そうですね、アートを引き金に町全体が盛り上がれば、また好きになれるかもしれません。もう行くことはないと思いますが、もう少し街のことを気にしてもいいかしらん。
こんな感じで最近アリオが閉店して先行きが心配な泉中央エリアのことや、「中心市街地のウォーカブル化」に向けて動いているけどいまいち確立できていない栃木県宇都宮市など、私にもなじみのある街の問題を取り上げて研究するので、勢い興味を持ってさらに会場内を歩きました。ちなみにこの日は土曜日ということもあってか、意外と子供連れが多かったです。だからあんまり落ち着いて見ていられなかったとは言いませんよ。むしろ私みたいなのが混ざるには、このくらいごちゃごちゃしていた方がちょうどいいんじゃなかったでしょうか。
「私みたいなの」
その後、竹駒神社に関する研究を読んで「最近は境内にマンションを建てるような神社があるのか!?」などと驚愕しつつ足を止めたのがこちら。後藤香乃さんによる研究「吊り下げ装飾の可能性」についてです。こちらの研究に関しては後藤さん自ら内容について解説をしていただき……私も直接感想を伝えることができて嬉しかったので、ちょっと深く紹介します。後藤さんありがとうございました!
研究目的という目的のもと後藤さんが設計製作したこちらの装飾は「水の流れ」をイメージしているとのことです。こうした静止画でも十分にキラキラした雰囲気が伝わるかとは思いますが、実際の会場では適度な風が当たることにより飾りが揺らめき、まさに光に反射する水面のようにキラキラした輝きと流れる水のシルエットが浮かび上がるのです。
「上から吊るす」という行為は古くから様々な地域で伝わり、多くの文化や伝統で象徴的な価値を 提供してきた。例えば、フィンランドでは「ヒンメリ」 を上から吊るし、冬至祭の装飾品として穀 物の精霊が宿っていると信じられていた。日本でも、「風鈴」を平安・鎌倉時代の貴族は魔除けのた めに吊るしていたという記録がある。 このように上から吊るして動く装飾品は、人類にとっては昔から存在しており、多くの文化や伝統で象徴的な価値を提供してきた。1940年に米国の彫刻家であるアレクサンダー・カルダーのモビールをきっかけとして、宗教的な要素に加え芸術的な要素を持つようになった。そして徐々に、装飾的さらには創作活動による娯楽的な要素も持ち、現代では吊り下げ装飾が様々な場所や用途で用いられている。 そこで本研究では吊り下げ装飾の魅力に着目し、 吊り下げ装飾がもつ特徴を活かした制作物を提案することで、吊り下げ装飾の魅力を示すとともに豊かな空間を演出することを目指す。
文章にもありますが、私もこの吊り下げ装飾から連想したのは「風鈴」でした。そのことは実際に後藤さんにもお伝えしたのですが、目にもきらびやかでなおかつ涼しげなオブジェで……それだけでも十分だと思うんですが、それに対してしっかりとした研究に基づく理論を付け加えることで、今後同じような吊り下げ装飾を見た時に自分でも考えを深める切っ掛けになりそうです。実に良いと思います!
あとは花の配色デザインを分析し「花の色を美しいと感じるメカニズム」を突き止めようとする研究や、犬の散歩ルートに関するアルゴリズムを分析し「犬好きの人同士の交流機会を増やす」研究、さらに「印象評価に基づいて音を視覚表現に変換する手法の検討」など……そんなことどうすればいいの? と思うようなテーマに対して「確かに、できそうな気がする」ところまで導く理論(=研究成果)がいくつも掲げられ、理解が追い付かないながらも写真だけは撮ってきました。今こうして記事を書きながら落ち着いて読み返せば理解できますけれど、それでも正直「考えたこともない」ようなテーマばかりで……ちょっと私のキャパシティを超える内容ですが、ともかく面白い研究だと思います。まあ私は大学の先生じゃないのですべてを理解できなくてもいいと思うのですが、来年はもっと深く内容を理解できると思うので、今年はこのくらいで勘弁して下さい。
音を視覚表現に変換するとか、言葉を空間デザインに変換するとか……「音は音として、言葉は言葉として」理解しようとすることしかできない(少なくとも展示を見るまでそれ以外のことをしようとも思わなかった)私にとっては、「そういうものか」とうなずくことしかできませんが、これが理系なんでしょうね……恐れ入ります。
最後になりましたが、宮城大学事業構想学群価値創造デザイン学類卒業の皆さん、ご卒業おめでとうございます。いずれも私が想像だにしなかったテーマばかりで、見るたび「そういうものか……」と驚嘆しきりでした。すべてを理解するためには、私の心のキャパシティが狭すぎて難しいですが、新しい世界を切り開く第一歩となりました。皆様も社会人として、私が想像していなかった社会を創造してくれることを祈っております。félicitations !
* * *
これで、2月に行った美術展・卒展のことは大体書けたかな。亀井桃さんの個展については書いていませんが、前に特集を組んだので今回はご容赦いただきましょう。
とにかく集中的に色んなものを見て、それを書き出すことで、私も大きく成長した気がします。分量もメチャクチャ大盛りになってしまいましたが、「消費されない文化」をまずは私の心に積み上げていくための技術は確実に向上しました。これからもこうして、自分なりに……分量の多寡にはこだわらず、感じたことはすべて書き出し伝えたいです。いつか、誰かが見てくれることを信じて……。
2月27日――この日はいくつも美術展やら卒展を見て回り、さらに夜にはアベココアさんのライブに行ったりと大忙しの日でした。とりあえず時系列でまとめてみて後から一つずつ回想という形で振り返っているのですが、今回はこれ。
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元々は「宮城教育大学美術科卒業修了制作展」を見るために東京エレクトロンホールに行ったのですが、初日は少し遅い時間からの会場ということに現地に着いてから気づき、ちょっと図書館で時間調整しようかとメディアテークに行ったら何かやっているみたいだなあ、と……いつものようにふらりと立ち寄った次第です。
「新現美術協会」……今年で73回目です。受付の方によると戦後に始まった新現美術……いわゆる『日展』とか『二科展』のような主流とは違った方向性の作品を制作する美術家たちの展覧会ということで……久々に入場料のある美術展を見てきました。受付の人からして「かれこれ50年、美術の世界でやっています」といった年配の、そして物腰柔らかく丁寧な男性でしたから、これはどんなものかなと勇んで突撃しました。
なお、この美術展については、いつものように気軽に写真を撮って公開して……ということをしていいのかどうかわからないので、公式ホームページへのリンクを貼っておきます。こちらで作品についてはご覧いただけますので、とりあえずこの場は私のレポート(感想文)だけにとどめさせていただきます。
新現美術協会ホームページ
感想を率直に申し上げると、
「いぎなりスゴイ」
そんな感じでした。平面も立体も、写実的なものも抽象的なものも色々ありましたが、やっぱり長い間美術家として走り続けてきた人たちの組み上げた作品というのは言葉を失うほど素敵なものです。あまりにも技術がすごすぎて、私の感情も全く暴走することなく……しげしげと作品に見入り、「ああ、いいなあ」「素敵だなあ」と味わうことができました。
感情よりも理性が先行して、そのフィルターを通して作品の投げかける印象を受け止めるので、感情からのリプライも割と理性的です。つまり「写真と見まがうほど精緻な輪郭線があり、それを彩るヴィヴィッドな色遣いが素敵」だとか「ネガポジ、光と影の世界に配置されたオブジェがシンメトリー的だけど、よく見てみるとそれぞれの世界で微妙に表情が異なっている」だとか、「昔の香港みたいな怪しい日本語のネオンサインが乱立する夜景がいかにも現代的」だとか、そんな風に説明できちゃうんです。別に難しいことをひねり出そうとしているわけじゃなく、「絵のどの部分にどう感じたか」というのが説明できちゃう。そういう作品ばかりでした。
とはいえ、そういうのをパッと見て瞬時に言葉に変換できるかというと、そんなことはありません。いつだって私の単焦点マニュアルフォーカスな心は、ピント合わせが大変です。近づいてみたり離れてみたり、「う~ん……」と言いながらいったんその場を離れ、後になってまた絵の前に近づいていったり。あるいは自分が持っているフィルターを差し替えてみたり。新しい眼鏡を作る時のような調整を続けて、ある時カチリとピントが合った時、「とくん」と心が大きく脈打つんです。グラップラー刃牙で愚地独歩が菩薩の拳に気づいた時のような表情になるんです。
いずれも素敵な作品ばかりでした。もっと激しく感情を揺さぶられる(=もっと好きな)美術家さんは何人かいますが、今回はこうして美術展を見る側のスキル……「ピントの合わせ方」について大きな経験になりました。私なんかが別に美術プロパーになって解説や批評をする必要はないと思うのですが、アートに助けてもらっている身としては、こういう心のときめきを大切にしたいです。そのためにもこうやってピントを調節し、合焦範囲を広げていかなければ……。
なお、こないだの記事も書きましたが、すべての展示を見終わった後、受付の方に感想をお伝えし帰ろうかとした時に、
「お元気で!……ご活躍を!」
というふうにお声を掛けていただきました。冒頭に掲載した写真のような恰好をして行ったからか、どうも現代アートをやっている人に思われたようです。いや実は美術「2」でして……とは言いませんでした。だって嬉しかったんですもの。やはりこれからは、こういう方向性でオシャレをして美術展に行くのがいいかしらん。
*
さて、そんな感じで美術展の会場を後にし、1階下の別な会場で東北工業大学生活デザイン学科の卒展を大真面目に眺め、開場時間も過ぎたところで改めて東京エレクトロンホール(この建物も今回初めて入ります!)に突入しました。
果たして私のような人間をも受付の人は温かく迎え入れてくれました。そしてゆっくりと会場内を眺めまわしました。作品によって写真撮影/SNS投稿がOKだったりNGだったりするので、ここも安全のためにテキストだけで話を進めていきます(一部を除く)。
すでに色んな美術展やら卒展やらを見て回ったうえでの感想なのですが、とりあえず会場全てを見て回って感じたことは、東北生活文化大学の卒展と専門学校日本芸術デザイナー学院の卒展を合わせたような雰囲気だな、ということでした。どういうことかというと、美術系の大学らしく油彩とデジタル、平面と立体……製作者によって形は様々だったのですが、そのデジタルな作品というのがアニメだったりVtuberのキャラクターモデルだったりして、
「へえっ! こういうのもあるんだ」
と意表を突かれました。この辺がやっぱり今風ですよね~。良いと思います!
そのうえで、私の好みとしては、やはり油彩画に心惹かれます。特に大胆な色使いでヴィヴィッドに彩られた作品なんかは真っ先に感情が動きますね。その一方で、全体的に暗いトーンで塗り固められた暗黒的な雰囲気の作品も、心が落ち着くので好きです。写真撮影がNGだったので私の文章での解説となりますが、「白衣を着て椅子に座った人間――ただし赤い心臓がむき出しで、首から上は既に髑髏になっている」絵があって……これなんかは私の心の暗黒面に共鳴しました。ええ、可愛いだけじゃなく、こういうのも大好きなんです。
一通り会場を眺め、ここにも付箋で感想を貼り付けるコーナーがあったので、しっかり感想を書いてきました。……その中で気づいたのですが、
「裏に回って写真を撮れる発想が面白いと思いました」
という感想を誰かが貼っていたのですね。「あれ? そんなのあったかな?」と思って会場内をうろうろしていると……「もしかして、これかな」というのがあったので……受付の男の子にお願いして写真を撮ってもらいました。
「ポーズは、そんな感じでいいですか?」
「あ~そうですね、まあ、あんまり撮られ慣れてないからわかんないですけど……はい、お願いします!」
「はい、それじゃ撮りま~す!」
アレ!? なんか可愛くないですか!!!?
いや正直なところ、なかなかの大作だったので全体が収まるように撮影すれば私の姿も小さくなって……「ナンチャンを探せ!」みたいなつもりで写真を掲載しようと思ったのですが……正方形でトリミングしたらピッタリ収まるし、しかもちょうどこの日、白づくめのコーデでお出かけしたから、見事に溶け込んで……本当に白いドレスを着て写真撮ってもらったみたいになってる!!!
そうか、そういうことだったのか……! すべてはこうして横画面で撮影して、正方形に切り取ってInstagramに投稿する時に最大限見栄えが良くなるような計算のもとで……!
ゴメンナサイ、私、こうして加工しなかったら、それに気づかず……
たった今、そういう計算のもとで作られたことに気づいて……
なんかビックリしすぎて泣きそうです……!
素晴らしい……本当に素晴らしいです……!!!
会場で作品を眺めている途中で、出来上がったばかりのパンフレットもいただきました。今回の卒展で作品を発表した皆さんがどのような気持ちで制作したのかという言葉が書かれていて、改めて気持ちが温かくなりました。当日、見終わった直後にノートに書いた感想では「極端にエキセントリックなのはなくて、全体的に安定して見られた気がする」と書いていましたが、安定していたからこそ、こうして時間が経つにつれ、良さがじわじわと……あるいは急にパチン! とはじけるように胸を打ったのでしょう。
「天才もAIももう足りていてそれでも私は美術を学ぶ」これは今年の「現代学生百人一首」のうち、入選作品として宮城の大学4年生が書いた一句です。前にも書きましたが、やはり私は美術そのものの美しさもさることながら、それを創った人の気持ちに触れて心を動かされます。自分なりに美術作品と向き合い心をときめかせる……あえて自分の勝手気まま、心の向くままに自由な受け止め方をして感情を羽ばたかせるのも楽しいのですが、やはり英文科上がりの身としてはテキストがあると理解しやすいです。いっそう作品への愛着が湧くのです。後にまた別な作品に触れた時、それをよりよく理解するための助けになるのです。「心のピント合わせ」の技術が上がる……私なんかが言うのもおこがましいですが、「審美眼」が鍛えられるのです。
そして私も人間として生きていこうという希望につながるのです。私にこういう感動を与えてくれる人間がいるのなら、私もその感動を伝えられる人間になろう、って。
大げさですか? でもいいんです。
美術も文学も、いかに心が動くかが大事なんですから。私はどちらも素人ですけど、心を動かされた人間として、そのことはしっかり伝えたいと思います。
宮城教育大学美術科の皆さん、ご卒業/修了おめでとうございます。今回はたまたま『OH!バンデス』の伝言板デスを見ている時に開催を知り駆けつけた次第ですが、皆様の素敵な作品に触れられて、本当に幸せでした。これからの皆様のご活躍を心よりお待ち申し上げております。félicitations!
去る2/10、仙台フォーラスで【仙台藝術舎/creek成果発表展Vol.5「つくるところ」】を見ました。その中の一部分、赤瀬川沙耶さんによる東北大学日就寮に関する展示とそれに対する私の感想について、一度書きました。
2024年2月18日|それでも私は市民メディア
その時こう思ったのは事実なんですが、時間を置いて写真を見返したり手持ちの資料を眺めたりしていると、その時とは違った感情が湧き上がってきたんですね。あるいは、心の整理がついて、その時に感じたことをちゃんとまとめられるようになったからかな。
そんなわけで、改めて――今度は展覧会全体のことを含めて、振り返りたいと思います。また引用しまくり写真掲載しまくりですが(差支えがある場合は直ちに削除します)、これはこれで今の気持ちですから。手加減なしでしっかり書ききります。
◎テーマ 「つくるところ」について
現在、表現活動をめぐる状況は、高度に戦略的に見えます。
SNSやデザインツール、 AI をはじめとする様々なメディア環境によって、 作品を 授受することのグローバルな拡散性に満ちている一方、自身の表現を問い、 生み出す困難さやしがらみを感じることも多々あります。 翻って、私たちが暮らす 場所に立ち返ると、 地方都市 「仙台」で表現することにおける、どこか「むず痒い」 感覚も同時にあることでしょう。必要なのは、そのむず痒さを土着のクリティカルな感性の種とし、耕し育むことだと考えます。例えば、私たちが (仙台・・・etc.) で働き、学び、生活している理由を、一般的な現実や状況に求めるのではなく、極私的な好奇心や探究心、作品を制作する感性にまで開いてみること。これもまた、技術の習得と同等な「つくること」、そして「つくるところ」 へのプラクティスであるはずです。
キュレーター 丹治圭蔵 (5期生)
今回の美術展は前もって開催情報を知って出かけたわけではなく……メディアテークで東北生活文化大学美術表現学科の卒展を見終わった後、余勢を駆って仙台フォーラスの7階にあったギャラリー『TURN ANOTHER ROUND』で何かやってるかな~? と思って立ち寄ったらやっていた……そういう感じで見ました。そして、今こうして記事を書こうとした時になって、頂いたリーフレットを読み、そのコンセプトを知りました。
ただ、最近何かと繰り返し申し上げておりますが、切っ掛けはそれほど重要ではないと思っています。どういう切っ掛けであれ、実際にその展示内容を眺め、それが気に入ったということが緊要なのですから。
*
まず「おおっ!」と思ったのが、イトウモモカさんの作品「この街で生きるということは…」「明日はきっといい日になるよね」です。わざと1枚目の写真にもちょっと写り込むようにしたのですが、改めて全文を引用します。この文章も含めてすごく心打たれたからです。
せーの、ドン!
これまで地元から逃れたいという気持ちを抱えて生きてきた。この場所にいるとトラウマが蘇るからだ。だがどんな遠くへ逃げても、生まれも育ちも宮城である私にとって帰る場所はただ一つしかない。 逃れることの出来ない絶望感を抱えていたが「つくること」を通して素晴らしい人たちと出会い、生きる希望を見出すことができた。 憎しみに執着して見ようとしなかっただけで、私には居場所があるということに気づいた。今いる環境で自分ができることを考える。それこそが心のケアにも繋がっている。 地元に対する特別な思いを表現した。
……
最初に読んだ時もそうだったのですが、今こうして記事を書きながら読み返してみても、ちょっと込み上げてくるものがあります。岩手県盛岡市で生まれ育ち、トラウマが散々生成された十和田から逃れ、たどり着いた安息地が仙台である私にとって帰る場所はどこだろう……とか、逃れることの出来ない絶望感の代わりに、「ここが私の居場所だ」「この街なら私は私らしく生きていけるはず」と信じて日々を頑張る私は幸せなのかな……とか何とかって。
この辺が、やっぱり「宮城出身か、そうじゃないか」っていうことなんでしょうね。宮城県、特に仙台市がホームなのか、そうじゃないのか。それによって考え方は全然異なるでしょう。当然です。イトウモモカさんにとっての仙台は私にとっての盛岡です。その辺の、異なる部分と重なる部分を少しずつ調整しながらしみじみと感じ入りました。
ちなみに、イトウモモカさんの作品はタナランで開催された「にがつのねこといぬ」展さらに仙台フォーラス7Fのギャラリー『TURN ANOTHER ROUND』最後のイベント「アートバザール」でも拝見しました。良いと思います!
*
このイトウモモカさんの作品のほかに、しばらく手に取って見入ったのは写真集「帽子の女の子」でした。絵画などがメインだと思って見に来たら写真作品もあって、私自身も写真を好んでやる人類なので「ああ、こういうのもあるのか」と思って見ていて……作者の言葉を読まずいきなり作品を眺めたので、
「ああ、可愛いねえ」
「……あれ?」
「……ああ、そうか……そういうことなのかな……」
という順番で、自分なりにストーリィを作り上げ、後になってパンフレットを読み自分の推測が正しかったことを確認した。そういう次第でした。記事を書くつもりで眺めたわけではないので詳細なことは書けませんが、これは製作者の御母堂の生涯を追いかけた写真集であり――可愛いねえと言った幼少期のものは製作者の祖父が撮影した写真で、そういうことなのかなと推測したのは御母堂が帰天した1年後の世界を映したものだったのです。
恐らくひとつのコンセプトに沿って編まれたものだとは思いましたが、それがどういうことなのかをテキストで知り、改めて得心しました。こうして、写真集という形で編み最後まで読むことで伝える方法もあるのですね。ただ、それは私みたいにちゃんと最後まで手に取って眺める人類でなければ伝わらないと思いますが……まあ、他の人のことはいいか。
私はちゃんと受け止めました。それでいいですよね。
*
そして、改めて振り返ります。赤瀬川沙耶さんによる『日就寮の暮らし2023-2024』です。ステートメントに関しては、前回の記事を読み返すと一部省略していたので、改めて全文を引用させていただきます。
本展覧会のテーマ 「つくるところ」 を問いかけとすると、 私のアンサーは「仙台の中にある閉じられたモノ・コト」へ向ける興味関心なのだと思う。
自身が雑誌、ポータルサイトなどのメディアを用いた発信を飯の種としている一方で、無責任な手癖で運用されているメディアのあり方に疲労感を覚える。元・表現者としての目が残っているからなのか、マスメディアによる雑な報道は言うまでもなく、マスに属さないメディアが「適当でも速報性があれば良い」と持て囃される現代においては、編集を学ぶ意欲すら削がれる。
マスに属さないメディアとは、ニコニコ動画やYoutube、ブログ、SNSをはじめとした誰でも情報発信できるものを指す。せんだいメディアテーク(以下・smt)の言葉を借りれば「草野球」的なものだ。堅く言えば、市民メディア。その市民によるメディアも商業的な手垢がつきすぎた。
私はそんなものより、学生自治寮の壁の落書きや張り紙の方がよっぽど純粋な事実であり、本来の草野球的な市民メディアなのではないかと捉えた。クローズドではあるものの、形式にとらわれず学生生活を送る中での叫び、遊び、学びを残しておくことに純粋な美しさを感じる。その純粋さは大衆性、専門性の外側にある限界芸術のような趣がある。
今回は東北大学日就寮の近年の暮らしや建物について寮内の「壁メディア (と勝手に呼ばせていただく)」のアウトラインをなぞる形で見聞録を制作した。正統派の編集やジャーナリズムの梯子を外した上で、壁メディアの変化や寮の位置付け、近年の暮らしのありかたを感じていただければと思う。
このステートメントに対する最初の感想はすでに書いたのですが、展示内容を見て、さらに手元の写真を振り返りながら1か月後の現在どう感じたかといえば、
「こんな60年代的な世界が、令和の時代にも生き残っていたのか」
それが適切な言い方なのか、赤瀬川沙耶さんの伝えたいことと一致するのかどうかというと、まったく自信がないのですが、とにかく私はそう感じました。今からそのことについて、一生懸命自分が感じたことを説明します。
1981年生まれの私が想像する「60年代的」な概念は、その当時を生きていた人――澁澤龍彥、寺山修司、三島由紀夫、四谷シモン――が書いた本を通じて組み立てたリブレスクなものです。そういったものをベースにして、テレビや雑誌などで触れた映像イメージの世界……特に大学生が「自治」を求め体制と全面戦争を繰り広げていたイメージなんですが、それがまだ八木山に残っていたのか!……と。そんなシステムは精神的なものも含め安保闘争の終焉と共に滅び去ったのだと思っていたので、これは本当に驚きました。さすが帝国大学以来の歴史を誇る東北大学ですね。
そういう、閉じられた空間の中であふれかえる熱さが飾り立てられることなく壁に書きつけられたり貼り付けられたりした「落書き文化」と「張り紙文化」は、このところ積み上げてきた私の美的感覚を軽々と飛び越え感情に訴えかけてきます。これは私の「直観」なので、あまり上手に説明することができないのですが……。
「いや違うから!!!」と怒られるのを覚悟で申し上げると、私がこの20年あまりやってきたことと似てるからかな。バズるとかトレンドとかとは一切関係なく、自分の身の回りのことを一生懸命にストレートに伝えること。
確かに私もSNSをやっている時、思いがけず反響を呼んで嬉しくなったことはあります。一方で「今の時代、情報を発信するなら速報性や話題性をもった内容じゃなければならない」と思い、すっかり疲れ切ってしまったのも事実です。
そして原点に立ち返り、私が読んだ本とか見た景色とかのことを時速100キロの勢いで伝えること(このブログ)を再開しました。ここ半年で原稿用紙数百枚分も書きました。寺山修司は「モノローグ的」と批判するかもしれませんが、それでいいんです。私の記事を読んでくれる人がいたし、私が書いた小説を気に入ってくれた人もいたし、私の服装を「可愛い」と言ってくれる人もいました。
「時代の流れについて行けなくてもいい。取り残されてもいい。私は私が良いと思ったものを発信しよう」
そういう人間なので、強力に背中を押してもらったような気がしたのです。私もそんなにくよくよしないで、思い切り自分が良いと思ったことを、自分の方法で爆発させればいいじゃないかって。
既に私もそういうものを始めています。
あちこちのイベントに参加し、感想を書くノートがあれば必要以上に書き込みまくり……
今年の1月末で閉店したアリオ仙台泉とか2月で長期休業に入り恐らく休業明けにはオーパになるであろう仙台フォーラスとかにメッセージを貼り付け……
こんな感じで自分が良いと思った服を着て街を歩いているわけです。ああ、そうか、既にこういうことをやっていたから、共感しやすかったのかもしれませんね。
というわけで、赤瀬川沙耶さんのステートメントを読み、展示内容を見て感じたことを書いた後で、改めて20年以上「市民メディア」と呼ばれるものをやってきた人類としての率直な気持ちをまとめます。
安易に赤瀬川沙耶さんの言葉に乗っかるつもりはないのですが、私は私で「商業的な手垢がつきすぎた」市民メディアというものに対して疲れ切ってしまった……というのがあります。
動画の世界は言うまでもなく、私がやっているブログの世界も、私が書き始めた頃と比べると、やっぱり変わってきているな……というのは肌感覚で感じています。
初めから私は商業的なこととか考えて始めたわけじゃないんですよね。むしろそういったもの、大衆性とは真逆のサブカルチャー的なこと、マニアックなこと、「私だけが知っている」ことをあえて書き、みんなに知ってもらいたい! そういう気持ちでホームページを始め、ブログを18年も続けているので……そう思っていたところでした。
その一方で今回の仙台藝術舎/creek成果発表展も含め、昨年秋から色んなイベントに(観る側の人間として)参加しました。そしてローカルな世界で共有する作品や人との交流をたくさん体験し、少しずつ私がやりたいことを思い出し、再構成してきました。
私はADHDでASDで……定型発達者の皆さんと比べれば心の発達が緩やかな人間であると自認していますが、それとは別にユング心理学でいうところの「内向的感情型」タイプです。いつだって他の人と話している時「こういう時、なんて言ったらいいのかな」「こんなことを言ったら、相手が変に思うんじゃないかしらん」ということばかり考えて、上手に言葉が出て来なかったりトンチンカンなことを言ったりしてしまいますが、その分、感じることにかけては自信があります。
最近になって、感じたことを文章に翻訳する技術の方も、少しずつ身についてきた気がします。相手の言っていることを上手に理解することが苦手でも、とりあえず自分が感じたことを伝えたい。「そういうことじゃないんだけど!!!」と言われたら「ごめんなさい」ですけど、
「とにかく私はそう感じた、そう考えた」
それをすぐに引っ込めてゴミ箱に放り込むのではなく、それはそれとして大事にするのが、きっと心の成長に必要なことなんですよね。「あの時はこう思ったんだけど、それは実は、こういうことだったんだよね」って修正するために必要な材料としてね。そうやって少しずつ修正しながら、生きていければいいかな。
それに、こんな私の言葉を、ひょっとしたら誰かが「いいね」って言ってくれるかもしれないし。――なんて、そんな夢まで見ちゃいました。壁メディア、良いと思います!
思いつくままに長々と、私の心の一部を開陳してみました。美術展のレポートにかこつけて、心の整理をしているところをお見せするような文章になってしまいましたが……私という人間をわかってもらいたいので、最後までしっかり書ききります。
今回の美術展はそんなアートと文芸の両面で心が共鳴し、こうした形で昇華させることができた――とても良い機会に恵まれたと思います。赤瀬川沙耶さん、イトウモモカさん、そして今回の美術展に出展された皆様、ありがとうございました。好き勝手なことばかり申し上げましたが、どうか怒らないでくださいね。
恐らくアートと文芸は、これからもずっと大好きであり続けると思います。
アートは私の感情を解放し爆発させ心を生かすために。
文芸は爆発的な感情をうまく制御し心を活かすために。
さる2月27日、せんだいメディアテークで東北工業大学生活デザイン学科の卒展を見ました。
この日は元々宮城教育大学の卒展を見るために街に繰り出したのですが、初日は開場時間が遅いことを現地に着いてから知り、「ちょっと図書館にでも行ってみるか」と言って仙台市図書館も入っているメディアテークに行き……
「へえ、今こういうのやってるんだ」
「時間もあるからちょっと見てみようかしらん」
という感じで見てきた……まあそんな感じです。切っ掛けとしてはひどいものですが、ともかくこれが事実だから仕方がありません。前にも書いたような気がしますが、切っ掛けなんか何でもいいんです。内容を見て面白かったり為になったりプラス要素があればそれでいいんです。むしろ私は「来るべくして来たのだ」と受け止めます。シンクロニシティ!
東北工大の卒展は2回目ですね。こないだは産業デザイン学科の卒展でしたが、今回はライフデザイン学科……いずれにしても私が門外漢であることに変わりはありません。2回目ということで気安さにもターボがかかっているので、何らためらうことなく突撃しました。
そして、激動する世の中の一挙一動に反応することに疲れ「大問題を論ずる興味を急速に失っていった」(澁澤龍彥『黄金時代』河出文庫版あとがきより)私でさえ、身近な生活や私の本分である文学の世界にまで切り込み、理系ならではのアプローチで作り上げた学生の皆さんの理論に驚嘆し恐れ入ったのでした。
そういうことを私のポンスケブログで語ったところで、どうせ誰も見てくれないと思いますが、私は私なりに精いっぱい感じたことをまとめます。いつだって、そうしてきたんですから。どうせ誰も見てくれないと言いつつ、もしかしたら誰かひとりくらいは「ヘェー」って言ってくれるかもしれない……いつか、いつかきっと……そう信じていますから。
……
「生活デザイン」は、人間の心身や生活を起点として、地域社会の価値向上や課題解決についてデザイン探求する分野横断的な学術領域です。 地域社会や環境の変容と向き合い、具体的な解決・改善に貢献することを目標に、下図の10 研究室に分かれて探求してきました。 本企画は、これに関わる卒業研修・修士研修の成果を展示するもので、大別して、知識技術を統合してデザイン提案する 「制作」と、 価値向上や課題解決に関わる諸問題を明らかにする「研究」に分けられます。また会場内には、現1~3年生の一部作品も展示しています。
とりわけ、今回展示している卒業研修は、入学と同時にコロナ禍でのオンライン授業に突入した学生たちがとりまとめた成果です。 困難は多くありましたが、みなそれぞれの課題に向きあい、乗り越えました。視点や提案は大小さまざまですが、生活デザインの重要な課題に向きあい、一隅を照らしてくれました。 そうしたもろもろを想像しながら、ご高覧頂ければ幸いです。
一隅(いちぐう)を照らす。素敵な言葉です。私もそんな挨拶を受けて、門外漢の気安さで見てみました。見てみたというか、やっぱりテキストが多くて、それをじっくりと読んできました。何分にも強度の近眼で高いところにある細かい文字が読めない……ということもあり、写真もビッシビシ撮ってきました。ここだけで150枚近く撮ってましたからね。それを全部振り返って、その時に感じたことも合わせて……ただ、それを全部書き出そうとすると、さすがに私も大変だし読む方はもっともっと大変でしょうから、ほどほどにまとめてみようと思います。
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文学や芸術の世界は受け取り手次第で色んな解釈が生まれるものであると思っているのですが、科学の世界には物理法則というものが横たわっているので、「何に対してどう考えて、どんなアプローチをしたか」というのが極めて明快なんですよね。すなわち、
「自然科学者が書いた随筆を読むと、頭が涼しくなります。科学と文学、科学と芸術を行き来しておもしろがる感性が、そこにはあります。」ということなのです。文学や芸術の楽しみ方にも幾何学的精神が持ち込まれ、よりいっそうはっきりとした輪郭線を見出し親しむことができるのです。なんて、これは今記事を書きながら思いついたことなんですけどね。でも今回の展示では本当に、文学と科学の世界をクロスオーバーする卒業研究があって、すごく刺激を受けました。これからその内容について、自分の感想を中心に紹介したいと思います。
(STANDARD BOOKS刊行に際して)
すべての展示を眺めてみて、結構「こういうのが多いのかな」と思ったのは、やはり少子高齢化とか時代の流れとかによって過疎化が進むエリアの再開発に関するアイデアですね。私の大好きなウラロジ仙台さんでも取り上げられ実際にオートバイで行ったこともある丸森町筆甫とか、私の地元である盛岡市の中でも特にお気に入りの場所である盛岡市立図書館のある高松地域とか。中には仙台駅周辺のように「人が留まるスペースがないから結局郊外に人が流れていく=ドーナツ化現象」現状を改善するべくマイクロパブリックスペースを作ろう! という研究もあって……昔、仙台駅前でやった社会実験movemoveを思い出しました。あれで私も体験的に、「街中に人が留まれるスペースがある方が良い」と考えている人類なので、これは大いに共感しました。良いと思います! その気持ちを伝えたいので、写真を掲載していいのかどうかわかりませんが掲載しちゃいます!
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ここからは、私のなかにある「科学と芸術を行き来しておもしろがる感性」が強く刺激された展示を2点紹介します。
こちらも丸森町に関連したことですが、私が特に興味をひかれたのはアートを引き金に街の活性化を図ろうというアプローチをしていることです。超現実主義画家というと超時空要塞に似た力強さを感じますが、そうか丸森町にはそんなスゴい人の文化資源があったのか! というかそんな人がいたのか!……まだまだ私は素人ですねスミマセン。でもいいんです、これをきっかけに一歩ずつアートの海に入水するんですから。それと同時に街の活性化についても考えられるのなら、これほど面白いことはありません。
これは気仙沼の街の活性化を目的に新規作成された絵画ですね。アートを引き金にという点では先ほどの丸森町のそれと共通する部分がありますが、その内容としては超現実的なものではなくて、むしろ人々の現実、特に独自の文化が発展しにぎわっていた昭和30~40年代の気仙沼市の生活を盛り込んで制作されたもの……ということでいいのかな。今改めて、写真に撮ってきたパネルの記事を読んで私なりに解釈したところでは、そんな感じです。
たくさんのエピソードを一枚のキャンバスにまとめ上げる作業というのは非常にアート的なことだと思いますが、その工程をフローチャートで説明するところが出色ですね。絵画もやはり技術の積み重ねなんです。それを包み隠さず説明してくれたことは、私にとっては非常に大きな収穫でした。これまた、いぎなり良いと思います!
ただ、私が感情的に良いと思います! というだけでは消費されて終わってしまうので、そうならないよう最後にこちらの研究をした学生さんのまとめを引用します。
以上のことを踏まえて、アートという手法を使った調査おいて判明したことが2つあった。1つ目は、アートがきっかけで人々に研究への関心を持ってもらったことである。 聞き取り調査では、人々に「人々の気仙沼市への思い出から絵画制作をする」旨を伝えると、絵画制作について関心を持つ人々が多かったからである。 また、自分の思い出が絵画として表現されることに好奇心を持つ人が居たことである。2つ目は、多くの人に協力して貰う為には気仙沼市民を中心に気持ちに寄り添った研究をする必要があることである。特に、震災関連の研究によっては 「感動ポルノ」 や 「震災をネタとして扱っている」と捉える可能性があるからである。 その為、本研究では研究のきっかけや今まで行って来た研究を明示した。以上のことを踏まえて、本研究では人に取材する上で、本研究の説明が上手く伝わらないことがあったが、滞在取材やエピソード集計、フィー ドバックでは、人々から「気仙沼への想い」を聞き出せたと考える。
私は門外漢のいち市民メディアなので専門的な分析や批評はできませんが、「震災」という大きな(そして重い)テーマに対して複合的なアプローチをして、こうして科学と芸術を行ったり来たりしながら形にしたのが本当に面白いなと思いました。この気持ちを忘れたくない、こういうスタンスを私も真似してみたいと思ったので、特に詳しく感想を書きました。いぎなり良いと思います!
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今回の卒業展示はせんだいメディアテークの5階のフロア全体を使って行われたのですが、隣の会場に行くと、今度はいかにも理系の大学って感じの研究発表に出くわしました。さすがに全部は書ききれないので、特に印象に残ったものをいくつか紹介します。
まずは、これですね。「画像生成AIを用いた建築パース生成手法に関する基礎的研究」……いいですね、いかにも理系の卒論って感じのタイトルです。そして生成AIといえば、最近じゃほとんどの人が「聞いたことがある」程度の浸透度合いを見せている代物です。私も文芸オタクではありますが、一応ITパスポート試験に合格するくらいの知識はありますから、ちゃんと最後まで読んで「そういうものなのだな……」と得心することができました。
こうしてAIを育てることは、残念ながら私にはできないでしょうが、それでも『仮面ライダーゼロワン』みたいに、人間とAIが助け合って生活する世界は確実に近づいていると思いました。今のところ私は積極的にAIの助けを借りることはありませんが……いつか、ね。イズみたいなヒューマギアが私のもとにもいたらいいなあ、なんてくらいのことは思いますよ。そういう未来を夢見る権利くらいは、私なんかにだってあるはずです。
明るい洞窟
洞窟に入ると次第に前の人の姿が闇に消える瞬間がある
見えなくなってもその存在はわかる
明るい光と暗い闇という二つの関係性において
私は”明るい闇”というものが存在すると考える
光 と 闇
直進する光 と 屈折する光
見えること と 見えないこと
近づくこと と 遠ざかること
おもかげとうつろい
お日様の下で不確かな像が現れては消えていく
本制作は光から建築を見つめ直す試みである
このステートメントの雰囲気も極めて文学的アート的な印象があって気に入ったので、それも含めて写真を掲載します。最初に掲載した2枚の写真は、「ものが見える仕組み」……光源から出た光がものに当たり、反射した光を私たちが目で受け止めるという原理をふまえて、あえて光の方向を変えることにより、そこにあるものが見えなくなるという理論を誰でもわかるようにした実験装置です。どんなに目を凝らしても、このアクリル板を通すと見えなくなってしまうんですね。不思議といえば不思議ですが、神秘でも何でもないんです。すべては物理のうえに成り立っているのですから。
そんな私の認知・発見・気づきによる心のときめきを見越していたかのように、ステートメントの最後にはこんな文章がありました。これまた素敵な文章なので丸ごと引用させていただきます。
本設計ではものが見えるという現象について根源的な仕組みから掘り下げ、光の屈折という一つの テーマに終着した。制作を進めながら現象とは何かということをずっと考えていた。ある時それはみえていなかった”存在”を” 知覚” する瞬間なのではないかという結論に至った。既に目の前にある事象が、ある条件下で姿かたちを少し変えて私の前に現れた時に私はその存在をようやく知覚する。柱があればそこに影が落ちる 落ちた影が光の存在を私に知覚させる そのようにしてまだ知覚できていない目の前の事象をそっと掬い上げるような空間が出来た時、初めて建築と環境が調和したといえるのではないだろうか。 本修士設計では、レンチキュラーと呼ばれる光学レンズを用いて壁 のみでの思考に留まったが、建築と環境の知覚については自身の卒業設計から続く終わらないテー マである。 これからも引き続き考えていきたい。
改めてしっかり文章を読み直してみると、小林秀雄みたいな鋭く怜悧な言葉ですね。これをきちんと理解できたという自信はありませんが、それなら理解できるまで胸に秘めておいて、また何度でも振り返ればよろしい。楽しみが長く続くに越したことはないのですから……。
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「記憶をもとに設計し記憶を積み重ねながら暮らしていける家」「緑の侵食をうけながらも残り続けたいという建物の意志を汲んだデザインの在り方」「台湾の新竹市にある軍需工場の遺跡を再利用した『異空間並置設計論』」「現在の日本人の死生観を改めるための『葬儀~後に故人と向き合う場』の建築デザイン」……撮りまくった写真を振り返り、そこに書かれた記事をしっかり読み返すことで、どれもこれも面白いなあと思ったのですが、文芸オタクとして最も深いところに突き刺さった研究を取り上げます。
言語は感情を変化させる一つの手段であり、生活をする上で欠かせないものである。 小説から感情を読み取り、「私」自身がイメージする空間イメージを頼りに、言語表現から空間を形成し、感情の印象を埋め込む。 そこで本設計では自分自身の感情と向き合える「小説」という媒体を使い、小説の文章を修辞法の一つである隠喩を用いて、空間イメージと掛け合わせながら、言語化し、主人公の感情をこれまで自分が体験したイメージの中で空間を知覚し形成する。 言葉により紡ぎ出される主人公の感情を自分の体験したイメージから空間の設計を試みる。
小説の世界というのは文系の……盛岡大学文学部英米文学科を卒業した私にとっては本丸のようなものです。ここは決して理系の世界の人たちが立ち入れない領域であり、逆にこの文系の世界の人間だから理系の世界には入り込めないんだ……と思っていただけに、この研究発表は衝撃でした。あくまでも私は感情を言語で表現することが一等得意な人間なので、こうしてオブジェとして小説の世界を実直に表現する試みというのはまさに幾何学的精神に基づく真面目な研究成果であると思います。私に出来ないことをやってのけたことに、素直に感動してしまったのです。
感情を形にする作業ではありますが、そこに不純物が入り込む余地はありません。ひたすらまっすぐに空間イメージを作り上げ、出来上がったものがこれらのオブジェです。
建築家でも美術家でも、いや何だったら小説家でもなんでもそうですが、やはり形を作るためにはきちんとした体系だった技術が必要なのだなと痛感しました。たぶん20年前、私が足りなかったのはそういう技術なのでしょう。色んな本や解説書を読んで「そうかな!」と思って、それを引用しながらでっち上げた卒論は、いま思い返してもひどい出来だったと思います。
ただ、20年経った今なら「それが私の限界だったんだろう」と思います。今更「ああ、もっと勉強しておけばよかった」なんて思いません。ともかく私の大学時代は20年前に終わっているのです。そして今回も含めてたくさんの卒展を見て回り、改めて自分の限界を確認したうえで、「これが私なら仕方ないか」という一つの着地点を見出すことができました。
私なんかに出来ることはそれほど多くありませんが、一応社会人として生きているわけだし、全くないわけじゃないはずです。それなら出来ることを精いっぱいやって、出来ないことはできる人にやってもらえばいい、という未来への道筋もできました。そういう人を育て世に送り出すために教育機関というものがこの世に存在し、教える人と教わる人が存在するのだから、それでいいはずなのです。
(関連記事:20年目の卒業)
たくさん引用しながら書いたので、単純に文字数だけ数えればメチャクチャ長くなってしまいましたが、そろそろこの小文もまとめます。最後に、今回の東北工業大学生活デザイン学科の卒展および、先に見た同大学産業デザイン学科の卒展そして記事には起こしていませんが宮城大学事業構想学群価値創造デザイン学類卒業展示(公式ホームページ)も合わせた「理系の卒展」を見て回ったことをまとめた感想を書きます。
いずれも「メディアテークに行ったら何かやっていた」「入場無料だしとりあえず見てきた」的なきっかけで立ち寄ったのですが、実際に見てみると本当に面白くて、いっぱい楽しませてもらいました。イベントってたいてい身内とか友達とか学校関係者の人が主で、いくらこういうパブリックな場所で開催されているからと言って私みたいな純然たる門外漢が行くような場所ではないと思うのですが、それならそれで新しい発見、化学反応みたいなものがあるんです。
テーマにしても、私たちが住んでいる街のこととか身近なものを取り上げて、それを深く掘り下げて研究成果としているから入りやすいし。パネルとして掲げられているサマリーも、誰でも理解できるようわかりやすくまとめられているし。そうして色んなことを知って、新しい考え方――そこまで大上段に構えなくても、日々の生活の中でそれまでとは少し違ったものの見え方や気づきが生まれ心が動く瞬間が増えるようになれば、私はそれでいいと思うし、研究成果としても成功だと思うのです。
最初に見た宮城大学の卒展では、私も初めての「理系の卒展」だったのでドキドキしていたというか、「私なんか場違いじゃないかしらん……」という後ろめたさもあって、まだ心を閉じていた部分がありましたが、ひとつひとつの展示を丁寧に読み……中には展示ブースの前にいて自ら内容を説明してくれた子もいて(代わりに私も自分の感想を直接伝えることができて嬉しかったです!)……「なるほど、結構面白いものだな」ということで確かな手ごたえを感じました。
それをふまえて行った同じ東北工業大学産業デザイン学科の卒展は、まだそこまで深く掘り下げるには至りませんでした。これはひとえに私の心が「理系の卒展」というものの見方に慣れていなかったためであって、実際に見てみて面白かったのは事実です。それは感情として記憶しています。ただ、具体的に何がどう面白かったかということをまとめるためには、もう少し私の心のチューニングが必要だった。そういうことなのです。
そして今回、ひとつの集大成として……とにかく可能な限り書ききろう! と思って書ききったのが今回の記事です。他にも取り上げたい研究テーマはたくさんありましたが、それらを全部書ききることは私の手に余るのであえて絞りました。
書くためにその内容を読み返し、それをもとに自分で文章を書いてみると……美術展の感想と違って、初めからきちんと理論が出来上がっているものを書くので、ある程度伝えやすかったのかな、という気がします。いつも形の無いマグマみたいな感情を拙い語彙力で何とか形にして作り上げてきたのですが、幾何学的精神というか、より論理的で立体的な伝え方が出来るように頑張らなくちゃいけないな、という新しい目標が見えてきました。それをどこまで実現出来るかは未知数ですが、やはり文章で伝えるためには、そういった技術も身に付けなくてはいけませんよね。
とまれ、文系出身だろうと理系出身だろうと、色んなものに触れてみるのは大切です。臆せずどんどん、こういう機会があればアタックしてみたいと思います。
改めて……。
皆さん、ご卒業おめでとうございます。未来は皆さんのように一生懸命勉強しその成果をきちんと形にできた人たちによって創られるものと信じています。私は20年先に卒業した先輩として、皆さんが活躍するための世の中を作ってきたという自負があります。これからも生きている限り、私にできる範囲で世の中を作っていくので、皆さんが勉強してきたことを目いっぱい生かして活躍することを祈っております。
félicitations !