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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
新しい古本屋というと、何とも矛盾に満ちた不可思議な言葉を弄しているように思われるかもしれないので、説明が必要だろう。新しいというのは「初めて見つけた」という程度の意味であって、いわゆる全国展開している大型店舗のことではない。以降の文章は、その前提のもとで読んでいただきたい。

 先日、街を歩いていて、新しい古本屋を見つけた。わくわくする心を抑えられず、すぐに入った。

 何か恋い焦がれるように探し求めている本があるかといえば、ないこともないが、それよりも単純に古本屋というものが好きなのである。

 入り口付近に乱雑に積まれた特価本。その奥に整然と並ぶ色褪せた古書群。しめしめ、これは良い店を見つけたぞと心の中でにやにやしながらも、そんなことを気取られぬよう慎重な面持ちで眺めてみる。そのうち「せっかくだから、何か一冊、これは!というものを見つけて買ってやろう」という気分になる。無論それは帳場の奥に胡坐をかき、腕組みをしてじろりと私のことを睨みつける達磨のような古本屋の店主から無言の圧力をかけられ「とりあえず一冊買って行こうか」と思ったからとか、そういうわけではない。あくまで私の趣味なのである。

 そう、私は本が好きで、また古本屋というものが好きなのである。そもそもこちらだって、いくら店の雰囲気が気に入ったからと言って、そこまで義理立てをしてやる必要もない。一種の宝探しのような気分で店内をうろつきまわるのである。

 そうしているうちに、暗澹たる私の心もいくらか晴れやかになった。もしここに檸檬のひとつも持っていれば、バタバタと洋書を積み上げた後にそれを置き悪漢の気分で立ち去るのだが! と、くだらない空想をしてみるくらい、心の余裕が出てきた。もちろん私はそんな梶井基次郎の『檸檬』は好きだしその気持ちにも大いに賛同するが梶井の足元にも及ばないような平地人であるので、ひたすら「巡り合えた一冊」を追い求めて店内を右往左往するのである。

 歴史、思想、心理学、医学、思想。いずれも良い本ばかりである。その中で私は一冊の本を見つけ、危うく声を上げそうになった。その一冊を手に取り、序盤の数頁を眺めてみる。その本の著者は私が大好きな人なので中身など見ずとも面白いに違いないと確信し、買う気ではいるのだが、やはり先立つものが心細い。勇んで帳場に持っていき、さあ代金を払おうかという時に金子が足りず泣きながら店を出て行ったとあっては、私は一生涯この界隈を歩くことが出来ぬほど打ちひしがれるであろう。そこで前もって値札を見ることを、貧乏くさいと笑わないでほしい。あくまで慎重に行動したと褒めていただきたいくらいである。

 果たしてその値札に書かれていた金額は、決して安いものではなかったが、本の価値を想像すると妥当な気がした。あくまで素人の私が考える価値であるから、まったく世の中のそれと照らし合わせて妥当かどうかは知らぬが、早い話が物を買うというのは自分自身の天秤によるものであって、私が「ちょっと高いけど、まあ仕方がない」と言って帳場に持っていくのならそれでいいのである。

 かくして私は一冊の本を買い求め、大切に鞄にしまって帰宅した。今は図書館で借りてきた京極夏彦の『遠野物語REMIX』などを読まねばならぬから順番的には後回しになるのだが、なにこれはおれがお金を出して身請けしたのだ。どこへもやらぬぞと心やすい気分になり夕食および晩酌(クラフトスパイスソーダ)を痛飲。令和の時代の平地人として今夜も戦慄すべく書を開くものなり。

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読み終えた今、物語全体を通して感じることは、

 「これは鎮魂の物語だったのだな」

 ということです。

 詳しい解説とか書評とかはできません。これは個人の感想です。ただ10年前にもやられ、今回また読み終えた強大な感想をまとめることは私の目下緊要なことであると確信しているのでまとめます。


 最初は私も奇門遁甲とか式神とか、そういう超自然的な魔術妖術を駆使する魔人加藤とそれに立ち向かう人たちとの闘いに心躍らせました。それは今回読んだ時も同じです。また、魔人加藤やそれ以外の人たちの陰謀と情念に翻弄され精神を病みようやく解放されたと思ったらまた現世に呼び戻されまた殺された辰宮由佳理ら薄幸の女性たちに同情し、涙を流しました。

 今回読み直すと、読む方もまた地力がついたのか、それとも2回目だからなのか、あらすじ以外の詳しい話もだいぶん頭に入ってきました。うすぼんやりとしていた世界がよりクリアに見えたのです(だからこうして文章を書きたくなって現在に至ります)。

 およそ100年にわたる戦い。時代が移り変わり、何度も破壊され、そのたびにおびただしい血が流れた――怨霊がうめき、悪鬼がはびこり、魔人が暗躍する地となった東京でしたが、どうやら最後には、それも収まったようです。二度目の大震災、さらに大津波によって破壊され尽くした東京はもはや人の住める地ではなくなり、巨大な墳墓、鎮魂の地となったのです。

 10年前は、この結末を、上手に受け止められませんでした。

 「今までの戦いは何だったんだろう。誰のための、何のための戦いだったんだろう」

 魔人加藤の正体は、あるものが地上に遣わした自分の化身でした。それはわかったのですが、そのために多くの人々が犠牲になったのだとすると……それがどうも自分のなかで消化しきれませんでした。それでも物語は終わってしまったのだから仕方がありません。とりあえず私も生きていくことにしました。戦いの結末を見届け、穏やかな心を取り戻して「破滅教」と呼ばれる新興宗教に入信した彼女のことを思い浮かべながら……。

 10年経って私もたくさん経験を積み、色々と思うようになったところでたどり着いたのが、先述した「鎮魂」ということでした。

 私も地上の亡者のごとく、他人に怨恨を抱き呪詛の言葉を投げかけたことはあります。人を憎み遠ざけたいと思ったことは何度もあります。特に2014年8月~2022年2月の間は、そういう気持ちが高まって高まって高まりまくっていっそ自分がしんじゃえばいいのかなって思ったこともありました。また最近は怨恨と言うよりは、自分自身の感情から発せられる不安要素にさいなまれ、ひどく心を乱していました。

 ああ、そうか。そういう私の心の波長が、物語の波長とぴったり合ったのかもしれませんね。きっと、そう――。

 霊力に敏感に反応する辰宮由佳理の心情に共鳴した私の心。
 数十年にもわたる邪恋を成就するべく、地下に時空を隔てる『境界』を無くすミニチュアの銀座を作り上げる鳴滝翁の心情に共鳴した私の心。
 すべてを受け入れ、穏やかにしてしまう辰宮恵子さんの菩薩のような優しさ(を感じた人たちの心情)に共鳴した私の心。
 
 優しさも激しさも、良い感情も悪い感情も、すべてをさらけ出し、その上で鎮める。

 そう、たぶん一度、表に出さないと、鎮められないのです。一度目覚めてしまったら、ある程度爆発させないと、鎮まらないのです。

 もちろん、これは認識者たる私の視点から見た感想です。物語の中の人物、そして物語を追いかけている――物語の世界に完全に入り込んでいる――間の私には、そんなことはわかりません。ただただ目の前で繰り広げられる出来事に歓び、嘆き、涙し、怒り、戦い、そして――すべてが終わってもまだ自分が生きていることを確認し、ぼんやりしてしまうのです。「完」という文字と、そのあとにある空白に意識が遠のき、のろのろと本を閉じて、今度は自分が現実と呼ぶ世界にある肉体に戻ってきたことを認識するのです。

 まったくもって、壮大な物語でした! ただし10年前と違って、私の精神世界に『帝都物語』の世界はしっかりと溶かし込まれ、ひとつのアマルガムとなりました。それはさらに私自身の経験によって醸成され、きっとまた読み直す時に――高級なウイスキーを詰め込んだ樽の封印が解かれるように、芳醇な香りをふわっと漂わせることでしょう。

 それまで、今しばらく閉じ込めておくことにします。桜の木に抱かれながら……。

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前回の記事はこちら

 最初にヒロインとして名前をあげたいのは、やはり辰宮由佳理です。藤原カムイ氏が描いたユカさんはとても可愛かったです。兄の辰宮洋一郎を「お兄さま!」と慕う快活な女学生だったのですが、強大な霊力を持つため加藤の手によって将門降霊の依代にされ、蟲術を仕込まれ、心を病んでしまいます。さらに物語が進むと幼少期の忌まわしい出来事や、ある意味蟲術よりも恐ろしい『邪恋』の果てに最愛の人に殺されそうになったり愛すべき子を殺しそうになったり……と、幸福そうな描写がほとんどないままこの世を去りました。それらの原因や結果すべてが、本人と関係ないところで起こり、ひたすらそれに呑み込まれていく……そんな女性です。

 次は、辰宮恵子さんですね。福島県の相馬俤神社の娘で、魔人加藤と渡り合えるくらいの強烈な霊力を持った人です。相馬俤神社は相馬市の氏神、つまり平将門を祀る神社で、神託によって将門の眠りを妨げる魔人加藤を討つべく辰宮家に嫁入りして戦いを挑みます。映画では原田美枝子さんが演じておられましたね。白装束に鉢巻を締め、白い神馬にまたがって悪鬼を踏み砕く姿は東洋のジャンヌ・ダルクか……というところですが、原作ではその後も何度となく登場します。加藤に立ち向かい、のちに結ばれ、別れた後は加藤やそれ以外の……破壊と混沌をもたらそうとする脅威に立ち向かい、最後の最後まで戦い抜いた女性でした。彼女にほれ込んだ人は「菩薩」だと言います。とても強くて、あらゆる人間を受け入れ癒してしまう優しさを持つ人でした。

 あとは、辰宮由佳理の娘『辰宮雪子』も中盤の重要なヒロインとして活躍……というのかな。強烈な霊能力はしっかりと母親から受け継いでいるので、本人の意思またはそれと関係ないところで力を発揮します(映画第2作『帝都大戦』に至っては、もはや荒俣さんの意志とも関係ないレベルで力を発揮していますが、あれはパラレルワールドみたいなものなので)。ただ、雪子嬢が人格ある女性として振る舞う時代は、その周りにいる人物の方が強力な異彩を放っているので、今一つ印象が薄いというのが正直な感想です。

 ここに続けて本来であれば昭和70年代の戦いにおけるヒロイン『鳴滝二美子』と『大沢美千代』について触れるべきなのでしょうが、昨晩ぶっ通しで『大東亜編』(愛蔵版の最終章)を読んだばかりなので、満州映画の女優『出島弘子』嬢について触れたいと思います。Wikipediaにも載ってないし!


(愛蔵版『帝都物語』第六番より)

 辰宮恵子さんを探し求めて大陸まで渡って来た黒田茂丸が見間違えるほど見目麗しい女優です。かつて、ある映画の主役を演じることが決まったものの国家総動員法によって幻となり、それ以来「二十七歳の誕生日に死ななければならなかった」と言いつつ大陸に渡って満州映画の端役女優として暮らしている出島嬢。そんなことを言いつつも、懇意にしている小さな女の子が病気で死にかけているところに出くわすと矢も楯もたまらず介抱したり、映画を満州最初の『文化』にしようとしているのなら、「女優だって!」と憤慨するなど、とても可愛らしいのです。

 ちなみに、何でこんなに出島嬢がプンプンしているのかと言うと、満州映画の理事長たる甘粕正彦(!)が、地底に巣食う化け物に襲われる映画を撮るための主役女優として声掛けしたことが原因です。映画といってもその化けものは作り物ではなく「青古」と呼ばれる本物で、それと黒田茂丸そして加藤保憲との戦いが、この『大東亜編』のクライマックスなのですが……。

 『帝都物語』の女性は色々と特殊能力がある人ばかりで、なかなか感情移入しづらい部分があるのですが、私は出島嬢が好きです。珍しく、何の特殊能力ももたない一般人だからです。それでも自分の宿命を精いっぱい生き、黒田茂丸らの助けを借りながら戦い抜いたからです。そういう一生懸命さが、物語を読み終えて数時間が経過した今になってじわじわと胸にあふれてきました。

 そして、このタイミングで先ほど置いといた現代篇の2人のヒロイン『鳴滝二美子』と『大沢美千代』の存在も大きくなってきました。養父で物語の初期から生き延びている鳴滝純一翁の狂気じみた実験(ただし、私はその実験によってつくられた世界をとても羨ましく思ってしまう!)に心を痛め、命がけで止めようとする二美子さん。とある人物が転生(昭和45年11月25日以降)し、辰宮恵子さんや団宗治さんのサポートを得て霊能力とコンピュータで魔人・式神と闘った美千代さん。……そうですね、徐々に……私自身の心も落ち着いてくれば、きっと、見えてくるものがあるのでしょう……。

 最近はどうも心が穏やかではありません。対面で話している時、緊張しすぎて声が震えるだけでなく、涙目になってすすり上げるような場面もありました。全く尋常の精神状態ではありません。そんな中で再読した『帝都物語』とは、私にとっての『帝都物語』とは何だったのか。そのあたりのことをまとめてみたいと思います。

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『帝都物語』全12篇、読了しました(10年ぶり2度目)。

 とても壮大で圧倒的な物語でした。具体的にこんな物語だったって総括するのがとても難しいのですが、そうしないと感情が収まらないので、可能な限り書きます。あらすじとかは他をあたってください。

  *

 1000年以上前の恨みを抱いて明治末期の帝都に降り立った魔人・加藤保憲は東京に眠る平将門の怨霊をよみがえらせ破滅をもたらそうとするので、その時代の人たちが対決を挑む……というのがおおよその流れですが、何せ加藤は魔人です。軍人なので剣術や基本的な身体能力も高いですが、東洋の魔術に精通しているので、十二神将をはじめとする式神を使役し、五芒星=ドーマンセーマンの染め抜かれた白手袋やハンカチなどを変化させて戦います。

 さらに物語の中盤では『屍解』という仙術を使い肉体が若返ります。そんなことできるの? と宇宙時代の皆様はお思いになると存じますが、そういう皆様に代わって問いかけた西洋人に加藤はこう言い放ちます。以下引用。

 「なぜ? なぜ、と問うのは西洋人の悪習だ。東洋の神秘に、理窟はない。原理はない。ただ現象だけが起こる。神秘とは、起こり得ざる現象がそれでもなお現実に発生することなのだ」
 ただ、いつの時代もそんな加藤に立ち向かい、時に手傷を負わせてひるませる人物がいます。たくさんいるのですが、私が特に印象に残っている人たちのことを羅列してみます。Wikipediaに書いていないようなことも書きます。だってここは自由な狂人解放治療場ですから!

 幸田成行(露伴):膨大な知識と熱い気迫で立ち向かう文豪剣士。実際に手傷を負わせて(しかも2回)一時退却させたり、関連人物の心の支えになったりと、前半部分の重要人物。

 寺田寅彦:物理学者として科学的な立場から加藤に立ち向かう。大阪から西村真琴博士を呼び出し「学天則」で地底の妖魔に立ち向かうシーンが印象的でした。

 黒田茂丸:風水師として、加藤に直接対決を挑んだ辰宮恵子さんのサポートを買って出た(映画第一作のクライマックス)。いったん完結した後に出版された「大東亜編」では主役級の扱いに。

 平岡公威:大蔵省の官吏だったが、物語中盤のヒロインと霊的な関わり合いを持ち、黄泉に下って将門の怨霊と対峙した。愛刀は関孫六。

 角川春樹:新興宗教の大宮司として加藤と切り結ぶ。超古代の宝剣の力によって関孫六を刃こぼれさせたため勝負はつかなかった。宝剣の力によって……ね。

 団宗治:コンピュータ時代の幸田先生。降霊プログラムや式神封じプログラムなどを使って十二神将を全滅させた。魔術と文学に埋もれて暮らしたい人らしい。


 ……と、こんな感じでしょうか。

 とりあえず原稿用紙3、4枚程度の文章を書いたので、いったん区切りとします。今回思いついた人物をあげたら不思議と男性ばかりだったので、今度は印象的な女性たちについてまとめてみたいと思います。

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誰からかお金をもらってやっているわけではないし、必ず毎日何か書かなくちゃいけないわけじゃないんだ……と思いながらも、書かなくちゃいけない気がして……でも何を書こうかわからなくて読売新聞を読みました。話題探しを新聞でする。これがいいんですよ。

 そんな中で「ヘェー」と思ったのが、「あれから」という連載記事。今回は往年の大ベストセラー『世界の中心で、愛をさけぶ』の片山恭一さんの話でした。

 当時45歳の「売れない中年作家」だった片山さん。タイトルは小学館の編集者から提示され、さらに3年間「塩漬け」にされて2001年に出版された作品は書店員による手書きポップによって売り上げが伸び始めました。その後、映画にドラマと次々に仕掛けが打たれ、ついに300万部突破の大ベストセラーになりました。

 私は読んだことがないし、これからも読むことはないと思いますが、ベストセラーと言うのは作品の良さだけじゃなくて、編集者や書店員の売り方次第であるという気がしました。盛岡の書店でも、ある本が表紙をあえて隠し期待感を膨らませることで売れまくった、ということもありましたしね。良いものを書けば売れる。そういうものではないのでしょう。大体読む側たる私だって、そうして多くの人たちの手によって情報が届かないと、知らないまま通り過ぎてしまいますしね。

 結局多くの人に「いいね」をもらったりなんだり……そういう時流を敏感に感じ取って波に乗る人は、それはそれでいいと思うんですが、私はそうじゃない側の人間みたいです。SNSで時々ものすごい数の「いいね」がついて、粋がっちゃったこともありましたが、そういうのもういいです。私は私がいいと思ったものだけを集めます。もしかしたら、ベストセラーとか流行のものもあるかもしれませんが、それならそれでいいでしょう。

 良いものが、良いのです。

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前々回の記事で「早川茉莉さんの『森茉莉かぶれ』を借りてきた」「それを『帝都物語』と並行して読みます」と言う話をしたところですが、休日を利用していっぺんに読了してしまいました。



 なんだってそんなに読み急ぐの? と言われるかもしれませんが、決してそうではありません。今日は良い天気だし、借りてきた『帝都物語』第参番と第四番を返し手続きを借りて来なければいけないので、ちょっと雰囲気のいいところで読んでみようかと思って行ったのです。……確かに、ここで読み終えてしまえば返却の手間が省けるなと言う思いはありましたが……。

 

 今回はこちら。定禅寺通りにある「甘座洋菓子店」……の前にあるフリースペース(LIVING STREET PROJECT―西側の歩道を楽しむプロジェクト―によるもの)で読みました。なおこちらのお店は1968年創業で、路上駐車してお菓子を買いに来る人たちがたくさんいました。そんな雰囲気の場所であれば、なおさら本の愉しみも増すというものです。

 大体にして森茉莉さんも著者の早川茉莉さんも無類のカフェ好き(カフェなしでは1日もいられないとか、そういうレベル)ですからね。そんなお二方の世界に入り込むためには、これほどうってつけの場所もないわけですよ。風月堂か邪宗門か。いやいやここは仙台だ。森茉莉さんは仙台について「三越もないし何もないし」と、あまりお気に召さなかったらしいですが、私は仙台が好きなんです。
東京じゃなくていい。東京みたいにならなくていい。私はそんな仙台のストリートでふたりの茉莉さんの世界にしばし浸りました。

 

 こうしてきちんと、早川茉莉さんの文章を読むのは初めてですが(こないだのムック本でおすすめリストを少々読んだことはある)、すごくしっかりしていて良いですね。ご自身では「ふん、キザですね」と謙遜しておられますが、いえいえそんなことはありません。私も最近『私の美の世界』『贅沢貧乏』それにいくつかの短編とエッセーを読み、『森茉莉好き』のサロンの端っこでおずおずとしている身ですから、先輩のお話をたくさん読めて、すごく楽しかったです。

 何よりも、大好きを伝える方法として手紙ほど便利なものはない、と思いました。便利というか適切と言うか……気持ちがストレートに伝わるな、と。もっと言えば、手紙そのものの効用について、改めて気づかされたというか。「これはいいなあ!」と。ええ、本当に本当に、この本そのものが気に入ってしまったのです。

 でも、繰り返しますが急いで読んだわけではありません。早川茉莉さんの文章はとても素敵で、森茉莉さんへの愛情がたっぷり伝わりました。そして、私もまた森茉莉好きの端くれとして、そのあたりの感情を共感できて良かったです。比べるべきではないかもしれませんが、こないだの群ようこさんの本よりもずっと共感できました。群さんの方は「まあ、確かにそうかもしれないけど……」と若干距離を置いて冷静な振りをし、なおかつ少し我慢しつつ読了しましたが、これは本当に最初から最後まで「そうだ!」「そうかな!」と共感しながら読めました。

 ちなみに早川茉莉さんは、「ベストセラー本であっても、筆力のないエッセイや小説が好きではありません」とのこと。いや、まあ私はただの一般人だから、どれほどめちゃめちゃな文章でもいいとは思うのですが、やっぱり一定のカリテに達していないといけないとは思うんですよね。せめて、書けなくてもいいから良い本をたくさん読みたいです。そしてそれを真似してみたいです。



 仙台も、もう秋の雰囲気が本格化しています。明日の最高気温は16度とか。今夜も温かくして眠ることにします。……眠れればいいなあ。

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本当に神経衰弱で12時過ぎに寝て4時前に起きてそれっきり全然眠れない感じです。

 そんな不眠を紛らわし不安を紛らわし精神的な活力を得るために、これまでにない集中力で本を読みました。水曜日に借りてきた『帝都物語』も3日で読み終えてしまいました。というか第四番を昨日一晩で一気に読んでしまいました。3時間くらいで。



 第四番は『百鬼夜行編』と『未来宮編』。一般的に『帝都物語と言えばコレ』みたいな時代(明治末~大正大震災の頃)はすでに遠い昔のこととなり、この頃は1960年代……そして昭和69年とか、そういう時代になっています。最初の頃は電気もまだ珍しかったのに、この時代にはコンピュータで降霊を行ったりしています。いよいよ女神転生です。デジタル・デビル物語です。

 そんな感じで思い切り物語の世界に没入して帰って来たばかりなので、今日はそういう心理状態で書きたいと思います。


 一度、読んではいるんですけどね。帝都物語。

 2013年6月9日 「破壊と鎮魂」

 この時は10日くらいかけて、ようやく12冊分の6冊(豪華愛蔵版なので2篇が1冊に収められている)を読んだのかな。当時のことは、私がプライベートで書いていた半小説(その頃思ったことや体験したことを自分で作ったキャラクタに語らせた文章のこと)に書いていて今でも振り返ることができるのですが、やはり圧倒的なスケールに呑み込まれ、命からがら冥界から帰って来た……という感じだったみたいです。

 その時の体験を踏まえて今回は読んだのですが、やはり面白かったです。むしろ他の本や体験を10年分積み上げてきたので、それらを総動員して互角に渡り合えるようになった感じがします。ようやく私のレベルが、物語の世界観に追いついたのです。

 むしろ、以前よりもより深く物語を楽しむことができました。年齢的にも志向的にも団宗治に近づいたからかな。小説家だけど銀行員としてコンピュータを扱う仕事をしている団さん。辰宮(目方)恵子さんいわく「魔術と文学に埋もれて暮らしたい」団さん。今現在私がそういう生活をしているわけではありませんが、そういう生き方に憧れます。

 一方で「昭和70年」の東京の地下に85年前の銀座を再現する実験には、強烈な憧れを感じます。それは物語全体(おおよそ100年)を通して暗躍する魔人・加藤保憲を対抗するためにとある人物が作り上げたミニチュアなのですが、地下に理想世界を建築する……そしてその世界が時空の壁を越えて、幽冥の境界さえも無くしてしまう……。

 単純に「いいなあ」と思うのです。本を読み、本の世界に没入してユートピアを追い求め、心の中に作り上げることを生きがいとしつつある私にとっては、とても素敵な世界に見えます。

 とにかくすごい勢いで読んできましたが、もうすぐおしまいです。物語が大きすぎて全体を総括することは難しいですが、別に私がまとめなきゃいけないわけじゃないですよね。私はただの認識者でいいです。その代わり、とてつもなく深く受け止めます。気に入ったものは骨髄まで舐めます。そして自分の持っているイメージと結びつけて、無限に広げます。それが私の特技です。そして私の大好きです。

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今日は午前2時くらいに目が覚めて、そこからなかなか寝付けなくて……そのまま7時前に出勤。ひどい寝不足でした。そのためにこのブログも、

 「今日は筆者急病のためお休みします」

 と一行だけ書いて終わらせようと思ったのですが、病をおして図書館に行ったところ、精神的に少し元気になったので書きます。

 別に読んだ冊数を数えたところで何の自慢にもならないのですが、一応、「今年読んだ本」ということで年始から記録をつけています。村山早紀先生の『コンビニたそがれ堂異聞』から始まって、今じゃ『ドグラ・マグラ』だの『帝都物語』だのと暗黒みたいな物語ばかり読んでいます。これに三島由紀夫さんと森茉莉さんも加わるので、今秋の読書まつりは史上最大に密度が濃いです。あ、三島さんは『帝都物語』にも出ます(!)。

 本を読んでいる間は心が元気になります。最近じゃ、家からほとんど外に出ず一日中本を読んでいる……なんていうこともざらです。何をするでもないけどとにかく外出しないと気が済まなかった20代の頃とは大違いです。

 そして、どうやら本好きが高じて、書店や図書館と言った場所に来ると元気になり、さらに時間を忘れて30分でも1時間でも眺めていられるような気質になったみたいです。確かに高校生~大学生の頃は、本棚に並んだタイトルを端から端までずっと眺め、ピンと来たタイトルの本を手に取ってみる……ということをやっていましたが、20年ぶりにその頃の感覚がよみがえって来たみたいです。むしろ、20年のキャリアがあるから深まったのかも。

 たぶん今年は10年に1度の「大・読書イヤー」なのでしょう。10年前(2013年)にも読んだ本の記録をつけていて(その時が『帝都物語』の初読でした)、冊数でいえば120冊ほど年間で読んだのですが、『海底二万里』も『魔女の宅急便』も同じ一冊と数えていますからね。今年は今年で『幻想文学』『ユリイカ』などムック本を加えているので、まあ冊数に意味はないですね。ただ、どんな本を読んで……元気な時はいちいち読後感をメモしたりしていたので、個人的にはとても重要な記録となっています。

 今日も早川茉莉さんの『森茉莉かぶれ』という本を借りてきました。序文で、とっても素敵な文章があったので、引用させて頂きます。



 憧れながらも手の届かない存在。出会って、好きになって、もうどうしようもなく恋い焦がれる位に好きになってしまって、もう彼女から離れることはできない。なのに、好きになればなるほど遠くなっていく。憧れながら、恋い焦がれながらも、遠いはるかな存在。そして、永遠に出会うことはかなわない。それが私にとっての森茉莉なのである。
 そこで私は、彼女と喋りたいたくさんのことを手紙という形式を借りて果たすことにした。好きな人に宛てて手紙を書くように。森茉莉に宛てて。……(中略)……誰に遠慮がいるものか。森茉莉という作家を愛するすべての人たちがそうであるように、私には私なりの「私だけの森茉莉」があるのだ。私はそう心に決めた。
(筑摩書房 『森茉莉かぶれ』9ページ16行目-10ページ5行目)


 「そうかな!」と澁澤龍彦さんのマネをして、私も得心しました。早川茉莉さんの気持ちに、とってもとっても共感できたからです。なのでこの本を借りてきました。早川茉莉さんにとっての森茉莉さんは、私にとっての誰なのか。それをあえてこの場で言うことは致しませんが、そういう気持ちはよくわかります。……そして、「遠いはるかな存在」という言葉は私が想像していなかった境地ですが、それだけに、いっそう強く胸を打たれました。

 そうか……それでいいんだ……
 好きになればなるほど遠くなっていく……永遠にかなわない恋……
 でも、こうして気持ちを伝えることはできるんだ……
 じゃあ……私も……

 今はまだ『帝都物語』を読んでいる途中なので、並行して読む形になると思いますが、良いきっかけを見つけました。そうですよね。みんなそれぞれ『私だけの』があるだろうし、そういうのがあるって、認めちゃっていいんですよね。……なんか、それだけで、もう心が元気になっちゃって……。

 そんな感じで、これから『帝都物語』の続きを読みます。明日は休みだし。いくらでも本を読んでいられる幸せ。……これもひとりぼっちだからだと思うと、悲しくもあるけど、でも嬉しいです。私は空想の世界に生きることを、決して悪いことだとは思っていませんから。

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私の兄は重度の読書家であり、オカルトマニアだった……ような気がします。随分と前の記憶なので少々曖昧ではありますが、『帝都物語』『ラヴクラフト全集』はよしとして、『高等魔術の教理と祭儀』とか『地獄の辞典』とかがある環境はなかなかないのではないでしょうか。不肖の弟はそういった本のタイトルをぼんやり見ながら手に取ることなく生きてきたのですが、蒔かれた種は10年後20年後になって芽を出しました。



 今年の1月にこれを読みました。

 そして今はこれを読んでいます。



 これは一度、10年前にも読了しているんですが、その時は加藤保憲の圧倒的な霊力に私もやられてしまって、心が正常化するまで1週間くらいかかりました。

 昨日は夢中で第壱番を一気読みしてしまいました。4時間くらいかかりましたが、ある程度知っているので、何とかなりました。

 それにしても、仙台の図書館にもこの愛蔵版が収蔵されていたのは、私にとっては非常にうれしかったです。当家にあったのは当然ながら文庫版でしたが、ところどころ散逸していて……それで10年前に盛岡市立図書館で借りて読んだ時もこの愛蔵版でした。


 だいぶん、心が物語の世界に入りびたりになっています。なんかもう、世の中のことがどんどん、どうでもよくなってしまいます。私は自分が好きなものだけを並べた部屋で自分の心を守ります。守りつつ、力をつけて、いつかまた世に出るために……。

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甍平四郎という作家は毎日原稿を三枚書くことを日課としていた……ということを牟礼魔利という人の文章で読み、甍平四郎というひとの文章は読んだことがないけど私もこのブログを毎日書くことを日課にしようと思って今日も書きます。

 無論、牟礼魔利というひとはこの甍平四郎という作家のことをとても尊敬していて、しばしばエッセーの中に名前が出てくるくらいですから、とても立派な作家なのだと思います。私がこうしてあることないことをひねり出して何とか形にするのとはワケが違うと思うのですが、そういうのも素人の手すさびとして、甍平四郎も無視してくれるでしょう。牟礼魔利という人は自分が住んでいるアパートの人たちや銭湯に来る人たちや世の中の色々なことに怒っているような人なので、もし私がこんなことを言っているのを読んだら「素人が莫迦なことを言っている」と怒っちゃうかもしれませんが。まあ、お二方とも既にこの世の人ではないので、泉下で笑ってくれればいいなあと思うのですが。

 なんて少々硬直した書き出しですが、一時期は、毎日書いていました。まだTwitterとかやっていなかった(存在しなかった)頃です。そのあとどうして開店休業に近い状態が何年も続いたのか。転職してホテルで働くようになってからは朝6時出勤夜12時退社みたいな勤務体系になり、決まった時間にPCに向かうことができなくなったからです。また、実生活の方での付き合いが多くなり、ひとりで自分の心と向き合う時間が少なくなったからです。

 やがて心が本当に危うくなって心療内科に駆け込み、発達障がいと診断され、毎日飲んでいたお酒に加えて薬も加わり……あまり思い出したくないような日々が何年も続きました。わずかに更新していた当時の記事があるので、今更ここで繰り返すこともありますまい。

 そのあとTwitter上でのお付き合いが増え、すぐに反応があるのが楽しくて、いよいよブログの方はフェードアウトか……と思っていたのですが、再びこうして書いています。今じゃ「誰も読んでいないだろう」という気安さが、自分の心を解放してくれる場所として最良の条件となりました。誰も読んでくれなくてもいいけど、誰でも読める場所で文章を書く。それがいいんです。大切なのは「受信者」「認識者」としての私のセンサーを曇らせないようにすることですから。

 もう、私の意見を世の中に訴えてわかってもらおうとか、そんなことを言うべきではないのかもしれません。そういうのは、しかるべき人に任せておいて、私はしかるべき人の言葉を受けて行動することに徹した方がいいのかもしれません。半年くらいTwitterやっていて(途中で名称がXになりましたが)、そんな風に思いました。どれほど頑張っても私には無理だ! っていうところまで行っちゃったんです。もう飛び降りようかな、って。そう思うくらい。

 でも、私にはこの場所が残っていました。シェルターみたいなもんです。

 完全非公開、ローカルファイルに保存している日記も毎日つけているのですが、こうしてオープンな場所に自分の気持ちを書いておけば、もし私が本当にしんじゃったとしても……そのあと「ああ、こういうふうに考えていたんだなあ」ということが残り続けると思うので、とにかく何でもいいから書きつけてやろう! と思ってバリバリ書きました。

 そうして書いているうちに、また普通の文章が書けるようになってきました。これは良い兆しだと思います。

 読んで感じるだけでも、やはり一定のカリテは必要です。ちゃんと教養がないと理解できないですからね。また、そうやって教養をつけると自分でも何か書いてみたくなる……これも自然の法則でしょう。文章を真似してみたくなる。それでもいいかもしれません。元より私は読んだ本に影響されてパスティシュめいたことをするのが14歳中二の頃から趣味でしたから。

 その中でも牟礼魔利という人が書いたエッセーは、これまで読んで来た色んな文章の中でも一等noblesseな、一言で言えば「美文」だなと思うのです。美しい、という言葉がこれほどピタリと当てはまる文章はなかなかないだろう、と。それは読み終えてから日にちが経つにつれ、じわりじわりと実感しているところであります。いや、牟礼魔利というのは文章の中の一人称だから、それを書いているのは森茉莉さんですよね。はい、そうです。森茉莉さんです。そして甍平四郎こと室生犀星の文章は、ようやく『芥川の原稿』というのを読みました。これが私の初体験です。これで大体2000文字くらいですから、なるほど、一呼吸で書くにしても読むにしても、このくらいだとちょうどいいのかもしれませんね。

 なんて書いていたら、この無意味なようにも見える文章も2000文字くらいになりましたので、そろそろ区切りといたしましょう。意味があるとかないとか、どうでもいいよそんなこと、です。大体にして私は忘れん坊で自分の心のことでさえ自分でわからなくなってしまうような障害を抱えた人間なので、こうして書くことで心を作り上げているんです。そして私が陋巷に窮死、横死、変死? することがあったとしても、遺志が伝わるように書いているんです。いつ何があるかわからない、どうなるかわからないから、やれるうちにやっておこう。……

 ただ、今の私は幸せです。仕事も何とかなってるし、仙台と言う街も私にとっては最高に好きな場所です。それに私は「大好きな人には生きていてほしい!」と心から願う人間なので、私が先に(もうしにたいという理由で自分の行為により)しんじゃったら、これほど不誠実なことはありません。土方歳三さん大好きっ子としては、それは決して曲げられない……実際には何度か折れ曲がりそうになりましたが、それでもギリギリのところで守って来た柱です。「至誠」の二文字を心の中の旗に染め抜いて、再び相まみえる日まで、生き延びていきたいと思います。



 それでも、荷風散人も森茉莉さんも、ひとりきりで自分の部屋でこと切れになりました。そんな暗い影がいつも心の中にまとわりついているのも事実です。だから、何らかの理由でこのブログを書き続けられなくなったとしても、気持ちは遺るように……そんな思いを込めて今日の記事を締めくくります。

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軽めの本を読もうと思って、これを読んでいました。



 イオンのバーゲンブックフェアで新刊で買いました。「ゼロからわかる幻想生物事典」です(かみゆ歴史編集部・文庫ぎんが堂)。

 幻想動物と言えばプリニウスの博物誌ですが、この本も「はじめに」のところで触れていました。それによって、お手軽に生み出された現代サブカル的な内容だけではなく、ある程度歴史的なものに拠った本なのだなと思って買いました。

 内容的には、とても波長が合いました。プリニウスがどうとか言っても、私だっていわゆる幻想動物の半分以上はファミコンの『女神転生』をはじめファンタジー物のゲームで覚えたクチですからね。それこそ『ファイナルファンタジー』とか。だから神話から始まってゲームに行きついてひとつの章立てが終わるのは、とても軽くて楽しかったのです。

 やはり私は幻想動物好きというか、そういう世界が大好きなんでしょうね。というか、現実世界を見るのが嫌なんです。嫌だけど見ないと生きていけないから何とか暮らしています。……と言うほどではないけれど、せめて精神的には、そうじゃない世界で生きてみたいと思います。

 それがメタバースだというのなら、私はそれを喜んで受け入れます。肉体に拠らず精神が形を作り『在りたい私』でいられる世界なのであれば、私もそんな世界に飛び込みたいと思います。

 そのためにも、この世界から飛び降りる準備をしなくては。

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今秋になって『豊饒の海』⇒『ドグラ・マグラ』⇒『恋人たちの森』と結構濃い目の文章をたくさん読み、その感想をドカンと打ち出してきたわけですが(ドグラ・マグラのことを書こうとすると狂気が悪化するのでもう少し落ち着いてから)、ところどころ真似したくなるんですよね。言葉遣いとか。

 実はフランス語とかドイツ語は大学時代になかなか単位が取れなくて、そのせいで卒業できるかどうかの瀬戸際まで追い込まれたので、あまり好きではないのですが、ほら澁澤龍彦さんは生粋のフランス文学者だし、森茉莉さんもそうだし。そうすればカタカナとはいえフランス語が嫌でも目に入ってくるわけですよ。tableau(タブロー)ってのは、澁澤さんのエッセーで覚えました。

 一方で三島由紀夫さんの文章は、漢字が多い。それにルビを振っているので何とか読めますが、今の文章だったら全部ひらがなで書いていそうなものも漢字で書いているから、随分と難しく感じられました。そのまま教養がないってことをひけらかすことになりますが、事実なんだから仕方がありません。とにかく読んで覚えたんです。「馘首」(かくしゅ)とかね。


 そういう私が特に気に入っていて、今の私の心を一言で説明するのに便利だなと思ったのが「アマルガム」という言葉です。合金とか、もっと一般的に言えば「混合物」とか、そういう意味合いになるのでしょうが、これはとても便利です。今の自分の心を作り上げている要素も、個別に言えば色々ありますが、それひとつで私の心のすべてを説明することはできません。少しずつ少しずつ色んなものが組み合わさってできています。

 それが整然とジグソーパズルのように組み合わさっているというのは、おそらく思考がちゃんとできる人でしょう。自分の考えをきちんと言葉にして論理にして説明ができる人でしょう。私もそうだと思っていました。そう思って心の中でキチキチッと整理をしていたつもりなんですが、悲しいかな、すぐに(現実の私の部屋と同じように)ごちゃごちゃしてどこに何があるのかわからなくなって、ぼんやりしてしまったり、うっかりしてしまったりするのです。多分こういうのが発達障がいなんでしょうね。

 だから整然と整えることをあきらめて、自分の身体の中心に容器があって、そこに水銀と他の色々なものを溶かし込んだドロドロのものが詰め込まれ満たされている……それが私の心なんだと思うようになりました。アマルガムです。

 もっとも、そのアマルガムは時々無くなってしまいます。他の人とうまくやるために、相手の言うことをよく聞いて「こうしなさい」と言われたらそうするためには、心なんて邪魔なだけだからです。そうして見えないところに押し込んでドアを閉めて鍵をかけて生きてきました。それでもドロドロの水銀ですから、ドアの隙間からしみだして来て、容器そのものを侵し始めました。

 それが私です。


 そんな私も半年くらい前、『在りたい私』という概念があることを知りました。

 そういうのがあってもいいんだ。何だ、それでよかったんだ。

 すごく嬉しくなって、私もこの半年、『在りたい私』を守るべく全力で頑張りました。色々真似してみました。

 今はその『在りたい私』を守る容器、大切にする部屋を作るための大リフォーム中です。

 心のリフォームが終わったら、また逢いに行きます。

 どうかそれまで、お元気で。大好きです。

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すでにこのブログが解放治療場になってから何度か書いていますが、『森茉莉』さんの本を、読んでいます。

 元々ちょっと格好つけて古本市で『私の美の世界』の単行本を買い、しばらく置いていたのですが、『豊饒の海』から『ドグラ・マグラ』へと連続読書し、加えてXでのちょっとしたこともあって……

 まあ、くるってしまったのですね。

 で、茉莉さんの文章を読んで解毒しようと思って読んだら結構面白くて。

 

 本来は『贅沢貧乏』が読めればそれでよかったのですが、あいにく仙台市図書館に単行本がなく、それが収録されている全集を借りてきました。さらにそれ一冊では物足りないんじゃないかと思って関連書籍(群ようこさんの本を関連と言っていいのかどうかと思いましたが、一番上の森茉莉特集にも関連書籍として早川茉莉さんが挙げていたので関連書籍なのです)を数冊積み重ねてきました。

 とりあえず、一番緊要な『贅沢貧乏』と、全集に収録されている『恋人たちの森』『枯葉の寝床』『曇った硝子』などの小編をいくつか読みました。『父の帽子』とか『甘い蜜の部屋』とかは未読ですが、私は別に森茉莉研究家でもドはまりしているわけでもないので、いったんこれで区切りとしましょう。

 そして、私なんかが何を言ったところで「素人が何を言っていやがる」「おれ(私)の方がお前なんかより10倍も100倍も森茉莉のことはわかっているんだ」と貶められるのを承知で、私の感想を書きたいと思います。だってここは解放治療場だからです。


 明治の大文豪『森鴎外』の娘というのは事実としてありますが、茉莉さんの文章は茉莉さんにしか書けない、三島由紀夫さんの言葉を借りれば「日本中で森茉莉商店でしか売つてゐない言葉」を使って書かれている文章です。「…ので、あった。」とかって読点の区切り方はこれまで読んだことがありません。なので最初はどうも引っかかって躓きそうになったのですが、読みなれてくるとそれがいかにも特徴的でいとおしく感じられてしまうのです。私という人間もよくよく影響されやすい人間のようです。

 文体としては女性らしい(というのが昨今の時節柄よろしくないというのであれば、単純に「やわらかい」と言い換えても結構。ただし私が硬めの文章を男性的と言い優しげな文章を女性的と言うのは実際に男性が書いた文章や女性が書いた文章を読んで経験的に「そういうものだ」と認識しているからである。特に矢川澄子さんの文章は『女性らしい文章』の極地点だと思う)のですが、やはり昔の作家だからでしょうか、漢字が多用されています。それが適度なスパイス、文章全体の格調高さ、noblesseな感じがしみだして来て心地よいのです。

 私なんかが普段の文章でパンのことを『麵麭』って言ったり、『独逸』ならまだしも『伯林』とか『倫敦』とか『伊太利の空は希臘のように』とかって書いていたら、失笑どころか息が詰まってすぐに読むのをやめてしまうでしょう。大体にして私自身が恐らく息が詰まって書くのをうっちゃらかすと思います。そんな文章、誰よりも私が読みたくありませんから。


 群ようこさんは『贅沢貧乏のマリア』の中で、茉莉さんの性格や生活スタイルについて賞賛とも批判ともあきれ返るともうんざりするともしれないような感想をご自身のことと照らし合わせつつ書いておりましたが(そして、それを私も面白く読ませていただいたわけですが)、私が特に興味を持って読んだのは、当時の『文壇紳士』たちとのお付き合いでした。

 三島由紀夫さんが茉莉さんの文章をとても良く言っていたのは存じていますが、澁澤龍彦さんの名前も出てきたことには驚きました。特に『降誕祭パアティー』というエッセーでは、名前こそ全部捩られていますが、文壇紳士のみならず芸能界芸術界のメンバーがいたことがわかります。

 安東杏作、喜多守緒、矢沢聖司、そして島澤武比古と真島与志之……。喜多守緒なんかは、もう、そのまま読めちゃいますね。たぶんお医者さんをしながら執筆していたんでしょうね。


 一方で、小説の方はどうか。私はそもそも『贅沢貧乏』を読めばこの全集の役目は果たしたようなものなんですが、ただせっかく収録されているのに読まずに返して後で読みたくなって買いなおすというのもばからしいというか勿体ないと思ったので読みました。

 全集の巻末の解説で「美少年もの」という言葉を使っていたので私もそれに倣いますが、若くて色気があって純粋な「美少年」に成人男性が恋をして云々……というものが立て続けに何本か収録されています。このうち『恋人たちの森』が三島さんに注目され『新潮』に評論文が載ったわけですが、その後、実際に収録されている通りの順番で立て続けに美少年ものを書いたそうです。

 これに関しては、急いで茉莉さん自身の気持ちを書いておかなければなりますまい。すなわち、茉莉さんは男色を書こうと思って書いたわけではなく、「優婉」な恋愛の世界を描いたのだ、と仰っています。


 フランスの爛熟した映画の時代を背後に、亡霊のように背負っている二人の役者は天を恐れぬ不敵さで、自分たちの間の恋愛の情緒を公衆に見せる写真の上に現している……熱い表情と……どんな女よりもなまめかしい姿態とは全く私を恍惚とさせ、私はその写真をもとにして四つもの小説を書いた」(「『性』を書こうとは思わない」「読売新聞」昭和三十九年四月一日夕刊)
【ここまで、「森茉莉全集2」筑摩書房 590ページより引用】



 とにかく変な安っぽさが無いんですよね。ジャン=クロード・ブリアリとアラン・ドロンの組み合わせですから色気はあるけど下品ではない。社会通念とか男性女性という肉体的な概念は存在せず、ただただ心を燃やす愛情と心を蕩かす欲情があるだけなのです。


 そういうわけで、あることないことをごちゃ混ぜにして長文を書いてしまったので、そろそろ切り上げます。

 茉莉さんが色々あって始めた独り暮らしについては、室生犀星が部屋を訪ねた夜「かなしみでよく寝られなかった」と言い、富岡多恵子さんは「自分ならとてもこういう風には住めない」と言ってしまうような内容だったわけですが、どんな状況であっても自分の中のnoblesseは一切妥協せず、(他人から見れば惨憺たる有様であったとしても)自分が良いと思った世界観を作り上げ、最後までその世界観を通じて世の中と関わっていたのだろうなと思いました。

 私なんかはどうしようもないズボラ気質で、何よりも心が貧乏くさいので、茉莉さんや「我こそは森茉莉信者なり」という人からしてみれば蛇蝎のごとく忌み嫌われるとは思うのですが、それでも! 部屋の一角を大好きなもので飾り立てたり、自分の中に(自分だけの)水準器をもってそれで少しでも良く生きられるのなら……そういうことをしていた人がいたのなら……私のこういう生活も、いいんじゃないかな、と思いました。

 これを図書館に返したらいったん森茉莉さんは区切りとしますが、大好きな作家が一人増えました。『甘い蜜の部屋』も『父の帽子』も次の機会に読みたいと思います。今はほかに、読みたい本が順番待ちをしているので後回しにしますが……。



(この2冊は私が自分で買った本です)


追記。

この記事を書いた後『マドゥモァゼル・ルウルウ』も読んだのですが、う~んこれはちょっと、私には引っかからなかったですね。「三島由紀夫も、与謝野晶子も大変面白がった」と森茉莉さんがあとがきで書き、新装版の解説を書いていた中野翠さんも絶賛していましたが、私にはちょっと……最後まで読みましたが、どうしても、物語をきちんと心に取り込むことができませんでした。

ま、これに関してはいずれリベンジしたいと思います。もう一度読んでみて、それでも同じような感想だったら仕方がありません。私の好みとは合わなかった。ただ、それだけです。私なんかが何を言ったところで、これが素晴らしい物語であることに違いはないのです。

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私なんかがわざわざ言うまでもないことですが、今日は「文体」について書くので、当たり前のことを書きます。

 私は「世情に疎く、時勢に昏く」を信条として生きようと模索している身なので、別に〇〇賞を取ったからとか今度映画化されるからとか、そんな理由で本を読むようなことはしません。あくまで面白そうと思ったら読む。当然のことです(逆に言えば、「〇〇賞を取るような本なんか絶対に読むもんか!」と依怙地になるわけでもありません)。

 そして、中には「同じ作者が書いているから」という理由で2冊3冊と立て続けに読み、「この作家が好き」と言ってしまうような作家が生まれます。もちろん個々の作品によって読後感は「大好き!」 だったり「うん…読んだぞ!」だったりするわけですが、そこが偏食家たるゆえんです。


 今年は三島由紀夫さんの本を多く読みました。『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『美徳のよろめき』『鏡子の家』そして『豊饒の海』あとはちくま文庫の短編集。それから『美しい星』『命売ります』も読みました。有名どころは大体読みました。なので私も「三島さんの作品が好き」と胸を張って言えると思うのですが、どんなところが好きかと言えば、やっぱりとても整然としてがっしりした骨格のある文体ですね。質実剛健なお人柄がそのまま屹立しているような文体が心地いいのです。
 
 寝っ転がって読めるような文章ではありません。居住まいを正して直立不動もしくは正座で……とは言わないまでも、テレビを見ながら読むとか、そういうことはできません。ちゃんと向き合い、しっかり物語の世界観を想像しながら読まないといけない。そんな感じの文章です。そういう文体だからこそ、これもまた三島さんの武器だと思うのですが、美しいレトリック、高級なメタファーで彩られた『殺し文句』が際立つのです。澁澤龍彦さんも出口裕弘さんもやられた『殺し文句』ですから、私なんかは一ころです。

 そういう文体は小説だけでなく随筆や、親しい人に宛てられた手紙なんかにも見出すことができます。手紙なんかはよりパーソナルなものですから、お人柄が現れていてさらに良いですね。

 三島さんが激賞していた森茉莉さんから服装についてアレコレ言われた(サドのようだとかイノサンだとか言われたらしい)ことに関しては「何事です」と激怒。さらに「金輪際貴女には小生の服装顧問になつていただきたくありません」「どうか、これからも、小生の服装については、御放念下さるやうにお願ひいたしておきます」とぴしゃり。時空を超えて覗き見した私も、さぞかし腹に据えかねたのだろうな…とハラハラしながら読みました。一方の茉莉さんは、三島さんに服装のことを言うと雑誌に公開して怒るし手紙で怒ってくるからやめよう、なんて、けろりとしたものですが。

 大体にして茉莉さんは、三島邸で催された降誕祭パアティーに三十分も「早く」到着してしまって、準備で忙しい三島さんを慌てさせたというエピソードがあるくらいですから、三島さんがどれほど怒って見せたところで微動だにしない気がします。むしろ三島さんの方が気の毒に見えてしまいます。

 でも、一番好きなのは次のエピソードです。もう丸ごと引用しちゃいます。



 三島が自衛隊に体験入隊したり、やたらに行動とか英雄とか言うことをいい出して、そのために無理に日本主義を奉じるような硬直したポーズを見せはじめたりしたとき、私は三島に手紙を書いて、「いつの間にか貴兄もずいぶん遠いところへ行ってしまわれたような気がします」と、自分の気持を伝えたことがあった。それに対する三島の返事のなかに、次のような一節がある。この手紙は昭和四十三年一月二十日付である。
「いろいろ近作にお目とほしいだたいてゐて恐縮ですが、その御感想によりますと、澁澤塾から破門された感あり、寂寥なきをえません。小生がこのごろ一心に『鋼鉄のやさしさ』とでもいふべきtendernessを追及してゐるのがわかつていただけないかなあ?」
 そういわれても、本当のところ、私にはよく分らなかったとしかいいようがない。三島が死んではじめて、その意味がおぼろげに分ったにすぎないのである。それにしても、この手紙の三島の口調には、なにかほろりとさせるものがある。
澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』中公文庫、24-25ページ)



 私が三島さんを想像する時はこんな人物を描きます。澁澤さんが見た三島さん。それで私はいいです。

 そして今の私は、別な人に、「ずいぶん遠いところへ行ってしまわれたような気がします」と言いたい気持ちです。SNS上でのやり取りだけだし、半年ほどのお付き合いではありますが、それでも……気持ちがついて行けなくて……Xも休止せざるを得ないくらい心が押しつぶされてしまったのです。

 でも、私はちゃんと見ています。そして、またXでご挨拶をさせて頂き、アレコレ感情をぶつけて受け止めてもらえるよう、しっかり心を治したいと思います。ですからどうか、それまでお元気でいてください。ずっと応援しています。私も心を治します。がんばりましょう。大好きです。

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こんにちは

 休みの日は家でゴロゴロ

 高杉です(外は快晴ですが)。


 快晴を生かして洗濯をして、ひと段落したところで二度寝。起きて三度寝するにも、さすがにそこまで眠くないし、かといってどこかに出かけるには少々体調が思わしくない。どうする。それじゃあ本を読もう。ということで手に取ったのは、村山早紀先生の大人気シリーズ『コンビニたそがれ堂』シリーズの一冊です。

 

 私も二冊以上読んだはずですが、どれを読んだのか自信がありません。ただ、この本の全編に出てくる『ねここ』が出てきた話は読んだはずだな、という記憶があります。


 感想。……そうですね。

 たぶんこれは、すぐにはやってこないのでしょうね。感動が。あとから何度も何度も思い出して、少しずつしみ込んでくるような、そんなタイプの味わいだと思います。

 だから今は、あんまり取り立てて書くことがありません。

 それでも、あえて今の気持ちをまとめるとすれば、

 「これは現代の、我々と同じ世界を舞台にしたファンタジーなのだろうな」

 そういうことです。

 たぶん私が考えるファンタジーって、異世界転生云々じゃありませんが、私たちの世界とは何もかもが異なる場所にポンと飛び込んで……っていうのだったんでしょうね。やっぱり、元アリス組ですから。ウサギの穴とか鏡とか、そういうのを経由して異世界に入り込んでしまったストーリィこそ、私の大好きなファンタジーですから。

 そういうものだと思って本を開いたから、最初、「うん?」と首をかしげるようなことがあったのでしょう。登場人物は私と同じ世界を生きている人の考え方だし、その人が生きている世界も(大体)同じ世界だし。それでこそ、その登場人物に自分を重ね合わせて物語の世界に入っていけばいいのでしょうが、それが上手に行かなかったんですよね。

 私の心はより直接的でより強いファンタジーを求めていたのです。それだけ心が乾いていたのかもしれません。

 だからなのかな。この本も、きっと、結構前に買ったはずなのですが、ずっと読んでいませんでした。さらに言えば、いつからだったのかわかりませんが、最初の章の半分くらいでしおりを挟んで読むのをやめていました。そして今回も、途中で少し自分を奮い立たせながら、とにかく最後まで読み進めよう、つって読み終えました。


 それでよかったと思います。ちょうどこの本が刊行された2015年から今年まで7年間、青森で仕事をして、そこから都会に出てきた――そんな今だからこそ、とある登場人物が語る津軽弁が生き生きと響いてくるのです。結果論ではありますが、7年寝かせてよかったのです。


 さて、何とか書ききりました。物語の感想は、湧いてきたらまた書くことにしましょう。とりあえず、今日、これを読みました。以上です。

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こんにちは

 ついに、この日がやってきました

 高杉です(記事は25日に書いています)。


 実家を離れて一人暮らしするのも、生まれ育った岩手県の外で仕事をするのも初めてではないのですが、今回については、ちょっと気持ちが違います。戸籍も何もかも仙台に移すので、感覚的には、故郷を捨てて新天地に行きます、みたいなところがあります。

 そういうわけで一冊、本を買おうと思ったのです。何が読みたいというわけではなく、「この日に盛岡で買った本」という記憶を定着させるために。


 こういうの、何回か、やってるんですよね。メモリアルな時に本を買うって。

最初は1998年、鳥取県米子市に行った時のことでした。帰りの電車が来るまでのわずかな自由時間で商店街の古本屋に行き、本棚の上の方にあった筑摩書房のルイス・キャロル詩集です。



 次は――いつ買ったかは忘れましたが、村山早紀先生の『竜宮ホテル』。これはブックカバーもあるので確実ですが、上野の明正堂書店で買ったものです。のちにサブタイトルがついた徳間文庫版を買ってしまったのですが、ちょっとすさんだ生活を送っているうちに続編がいくつか出ていたのですね。今回はうちにあるものを持っていきますが、もう一度読んで、さらに続きを買おうと思います。

 あとは、広島に旅行に行った時は駅で『AQUA』の1巻を買いました。天野こずえ先生の『ARIA』の前作に当たるものですね。これほど心が清らかで穏やかになる漫画は読んだことがありません。本当に大好きな作品です。


 そんな私が生まれ育った岩手県を離れるにあたって買ったのは、やはり村山早紀先生の人気シリーズ『コンビニたそがれ堂』シリーズの最新作です。

 


 どんなに心がすさんでも、不安になってもつらくても、風早の街に来ると元気になれるんです。そして、かつてはちゃんと向き合えなかった物語についても、時間が経った今なら和解できるような気がしてきました。2013年は130冊くらい読みましたが、それに近づければいいなあ。


おまけ



本日うかがった東山堂三ツ割店にあったクレーンゲームです。元々ゲームソフトを売っていた場所が、ちょっとしたプライズゲームのコーナーになっていたのですが…なんとスクールアイドル界のレジェンド「μ's」のぬいぐるみがありました!

しかもアームの力も、ちゃんとつかんで持ち上げられるレベルの強さ! 一般の人でも少し頑張ればなんとかなる、とても良心的な設定です。いや本来クレーンゲームって、こういうもんですよね。

というわけで最後の盛岡みやげとして、本と一緒に高坂穂乃果・小泉花陽両名のぬいぐるみを獲得。最高の思い出と景品を獲得することができたとさ。どんとはれ。

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こんにちは

 少々厳しい自然の流れのなかから

 高杉です。


 去る3月16日に発生した地震には、久々に怖い思いをしました。3月のこの時期ということもあって、やはり思い出すところがあります。18日にも、ほぼ同じくらいの時間帯にまた大きな地震が来ましたし。

 また、今日は寒気の影響で、完全に真冬モード。激しい吹雪で道路も駐車中の私の車も真っ白に染まり、気温も上がらず、まさに「春の坂道」はまだまだ道半ばという感じがします。これは山岡荘八先生が書かれた、柳生宗矩(と、その息子『十兵衛』三厳)を主人公にすえた小説のタイトルです。私も以前読みました。少々読みづらいですが、これがその時の記事です。

 ※ ここからは2013年に書いてHPでも公開している記事ですが、最近ちゃんと表示されないので、改めてこちらのブログで掲載させていただきます。

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これまで柳生宗矩という人には、あまり関心がありませんでした。

一応、柳生新陰流という言葉は知っていました。ただ、その流派を使う剣客と言えば『サムライスピリッツ』などでもおなじみの『柳生十兵衛』でした。

また、「最強の剣客は誰か」という、古の時代から何度も何十度も何百度も繰り返されてきた問の中でも、候補として挙げられるのは開祖の柳生宗厳(のち石舟斎)。その間に挟まれたムネリンは、「剣術家じゃなくて政治家」として、なんだか随分と低い扱いを受けていたような印象です(特に『影武者徳川家康』では、悪の参謀みたいな感じだった)。

でも、宗矩が作り上げた「活人剣」という思想には、大変に興味がありました。本来剣術とは相手を斬り殺すための技術なのに、それを持って「人を活かす」とは、どういうことだ? と思い、色々とそれらしい本を読んだりしました。

そんな中、山岡荘八先生の大名作(クオリティ的にも分量的にも)『徳川家康』を読み終え、その平和思想に基本理念レベルから影響を受けた私。その考え方から行くと『活人剣』とは、やたらと殺し合いをすることのない平和な社会を作りつつ、武士の心である剣術を残していくための、すごく優れた思想に見えてきたんですね。

というわけで、そんな山岡先生の書いた『柳生宗矩――春の坂道』を読んだのでした。


ヤングライオン柳生宗矩


物語は宗矩24歳の時、近所に来ていた家康公に召し抱えられるところから始まります。正確には、無刀取りの秘技を見た家康公が宗矩の父である石舟斎を召抱えようとした時、「自分はもう年寄りだから、若い者を連れて行ってください」と言って召し抱えられたんですけどね。

この頃の宗矩は先程も書いたように、まだ24歳。剣術レベルだけで言えばほぼ最強レベルですが、宮本武蔵と違ってモテモテです。いや武蔵もお通さんからずっと慕われていたわけですが、この男は自分から積極的に女性に手を出していたようです。なにせ武者修行といってプイッと放浪している間も、実家に何人もの女性が訪れるものですからたまりません。柳生と言うよりも橘右京みたいな感じです。

そうかと思えば、先祖の墓前で父親の石舟斎から腕試しを仕掛けられ、隙があれば容赦なく打ち殺すと言われた時には「な、なんと、そのように酷薄な・・・」と本気で狼狽。ちょっと微笑ましいというか、人間くさいところがあるのです。

まあ、だからこそ家康公のもとに行って色々なことを学べという親心だったんですよね。決して自分の出世のためとか、柳生家の繁栄のためとか、そういうことではないんです。石舟斎が編み出した「無刀取り」の意義と、家康公が創りだそうとしている世界のイメージが重なったから、それを成し遂げるために若き宗矩を遣わした。そういうことなんです。


「糞坊主!」「どうした棒振り」


一応、すでに「徳川家康」を読んでいるので、この時代にどういう事件が起こったか? というのはもちろんわかります。具体的には「殺生関白」の汚名を着せられた秀次が自害し、一族郎党残らず惨殺されるあたりなんですが、この非常事態にあって家康公は江戸に帰ってしまいます。

罪もない女子供が惨殺されるのを止められる立場にありながら、素知らぬ顔をして帰ってしまった家康公。なんて非人情な奴なんだ! と若き宗矩は激怒します。

そこに通りかかった? のが、普段から『クソ坊主』『大和の棒振り』と、気安いんだかバカにしてるんだかわからないようなあだ名で呼びあう僧侶・沢庵和尚です。

吉川英治先生の『宮本武蔵』でも手の付けられないあらくれ野郎だった10代の頃の武蔵をやり込めて更生させるなど、その傑物ぶりは有名ですが、本作ではその傑物ぶりにターボがかかって、怪物・怪僧といった言葉が似合う感じです。

何せこの坊主、生魚をムシャムシャ食べておいて、
「―なに魚……これが魚というものかよ。おれはまた、これは海の野菜じゃと思うていたに」

などとすっとぼけて宗矩を呆れさせるものですから、たまりません。

そんな十人前の胆力を持った坊さんだけに、怒りゲージMAXの宗矩に「生臭坊主!」と激しい剣突を食らわされても、涼しい顔でその怒りを諫めます。

この展開は、こういってはアレなんですが、吉川武蔵とよく似た展開です。ただ、武蔵はほとんどの場合、自分自身の経験に基づいて成長していくのに対し、宗矩は家康公という不世出の英雄を師匠として成長していく違いはありますが。

ともあれ、若い頃は悪友として。後には家康公亡き後は二代将軍秀忠の相談役として、さらに三代将軍家光の教育係兼相談役となる宗矩自身の相談役として沢庵との付き合いは続くのです。


乱心比べ


同じ山岡荘八先生の小説でも『徳川家康』が重厚な大河小説だとすれば、『柳生宗矩』は少々エンタメ的な感じがします。もちろん真ん中にドスンと太い柱が通っているのですが、政治の話が多かった『家康』に比べ、アクションシーンが結構多いんですよね。

特に印象に残っているのは、三代将軍家光の教育係として日々奮闘する時代のこと。この頃、とある理由があってヤング家光(竹千代)は側小姓を伴い夜な夜な無断外出するようになります。その理由というのが、なんと辻斬りのためだというのだから大変です。まさに家光の乱心です(昔そういう映画があったんです)。

そこに出てきたのが、この頃竹千代の稽古相手として出仕させていた息子の三厳(いわゆる「柳生十兵衛」の人ですね)。こいつがまた100年に1度の強情者で、石舟斎の生まれ変わりでは? と言われていたのですが、非常に荒っぽい方法で竹千代の辻斬り遊びをやめさせます。それは辻斬りにやってきた竹千代軍団を待ち構え、一人残らず川に放り投げてしまったのです。

服はずぶ濡れになるし、野次馬連中に笑われるしと、10代の少年にはこれ以上ないくらい恥ずかしい目にあった竹千代。さすがに懲りて辻斬り遊びはやめたものの、

「あれはきっと三厳のしわざに違いない!」

つって、反対にやっつけてしまおうとします。そこで宗矩が機転を利かせ、三厳は発狂してしまったので出仕をやめさせました・・・ということにしてしまったのです。今度は十兵衛乱心です。

次に召し上げられるのは10年以上後のこと。この間に『実は日本中を飛び回って情報収集していた』という噂が元になり様々な創作物語が生まれたのですが、それはまた別な話。


活人剣って、素晴らしい


と、まだまだほんの一部ですが、すでに結構な長さになってしまったので、そろそろまとめます。

「活人剣」とか「剣禅一如」とかという言葉で剣術から実戦性をなくした柳生宗矩という人は、『剣豪』とか『剣聖』とか、そういう肩書きは似合わない人だと思います。やっぱり『政治家』というイメージが強いんだろうなと思います。そういうのとは無縁のまま己の道を突き進んだ武蔵の方に強さや親しさを感じる・・・それは否定しません。

でも、私はそんな柳生但馬様が好きです。世渡り上手だからじゃありません。活人剣の思想が平和な世界を作る重要な骨格となったからです。なんだかんだと批判する人もいますが、私はその思想は素晴らしいと思います。それを、結構エキサイティングな場面も盛り込みつつ全4巻(文庫で。全集では2冊)でまとめあげた本作は、ある意味では『徳川家康』より好きかもしれません。


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おはようございます

 上巳の節句は、皆様いかがお過ごしでしたか

 高杉です。


 私は男性ですし、兄弟も文字通り「兄と弟」なので、小学校のころに学校のイベントとして食べさせてもらった菱餅がすごくおいしかった……というくらいの思い出しかないのですが、今回読んだ梨木香歩先生の『りかさん』は、2つ以上の意味でタイムリーな感じなので、その話をします。

 なお、これは青森県十和田市の未来屋書店で特価本コーナーに打ち捨てられていたものを拾い上げたものです。別に時節的なことを意識したわけではなく、『西の魔女が死んだ』とか『裏庭』といった、梨木香歩先生の作品が好きだったから、「ちょっと読んでみよう」と今年の1月かそこらに買ったものです。のちになって自分の中で勝手にリンクさせて気持ちが盛り上がるから、やっぱり物語ってすばらしいですね。

 では、本題に入ります。


 平成11年に初版が世に出た『りかさん』は、小学生の女の子「ようこ」が主人公です。この子が誕生日プレゼントに『リカちゃん』の人形が欲しいと言ったら、おばあちゃんから、確かに「りか」という名前の女性の人形が送られてきました。ただ、それは黒髪の市松人形であって、しかも、人と心を通わせる術を持っていたんですね。その風格ゆえに、小学生のようこは「りかさん」と呼び、身の回りにある古い人形たちの――そして、人形に残された、かつての持ち主たちの思い出――に触れて、様々な時代を生きる……そんなファンタスティックな物語です。


 ここまで、新潮文庫版の背表紙にある解説文をもとに書きました。ここから先は、一通り読んだあとの、私の感想です。

 
 『りかさん』の物語は、さらにふたつの章に分かれます。最初は「養子冠の巻」――これが、ひな祭りの話です。ひな祭りの話というか、ひな人形の話ね。ようこの友達・登美子ちゃんの家に飾っていたひな人形たちと、イギリスから海を渡ってやってきたビスクドールの物語。そして次が「アビゲイルの巻」――



 いや、そうじゃなくて。Wikipediaでいうところの青い目の人形ですね。その人形に込められた悲しい物語です。

 なお新潮文庫版には、それら2つの物語の数年後――大人になった蓉子(ようこ)の物語『ミゲルの庭』が収録されています。


 詳しい内容を含めた解説文は、ほかの方がたくさん書いていらっしゃるので、私は簡単に感想をまとめるだけにします。……そうじゃないと、話が無限に広がって収拾がつかなくなりそうな気がするからです。あと、ロシアとウクライナの戦争が始まってしまって、上手な感想を書けなくなってしまったからです。今もこうして次の文章を書こうと思うものの、色々な感情が渦を巻いて吞み込もうとするので、本当に端的に書きます。

 どのような理由があれ、戦争は嫌です。実際に血を流し斃れる人たちの痛みもあるし、ともすれば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、その国のものや文化、そしてその国の人たちすべてが嫌いになり、それに憎しみをぶつけてしまいたくなるからです。

 じっさいに、「ロシアの人だから」という理由で誹謗中傷を浴びせられ悲しんでいるロシアの人がいる、と『めざましテレビ』で見ました。そうじゃないですよね。ロシアだって中国だって韓国だって、政治レベルでは日本にとって不利益なことをしてくるかもしれませんが、私たち民間人レベルでは、まったく違うわけですから。

 「話せばわかる」それはまったくもって甘い幻想だとか平和ボケだとか、ご批判もあろうかと思いますが、私はそれでいいです。平和と友好の思いを胸に、海を渡ってやってきた人形の遺した思いに触れてしまった私は、もはや二度と戦争を肯定することができない人間になってしまったのです。いつでもどこでも誰も戦争はするべきではありません。私はそう言い続けます。

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こんばんは

 ユング『自我と無意識の関係』を再読しています

 いぬがみです(2年前の、ちょうど同じ日に読んでいました)。


 もともとユング心理学というのは非常に難解で、人によっては「オカルトめいている」といわれる有様ですから、どれほど「入門書」と言われても、難しいものは難しいです。フロイト先生とかアドラー先生みたいに「これはこういうことだから」とストンストン整理整頓するような文章の方が一般受けはいいでしょう。アドラー先生は特に、少し前にえらくブームになったみたいだし。

 でも私はユングなんです。前に河合隼雄先生の『ユング心理学入門』を読んで、自分の心の深いところにザックリと斬りこまれて腑に落ちたから、それをふまえてユング本人が書いた本を読もうと手に取ってみたんです。何とか、これをやっつけなくちゃいけないんです。


 二度目のチャレンジですが、相変わらず文章が難しくて、スラスラと読み解いていくことはできません。3行か4行くらい前に戻ったり進んだりして、ちょっとずつ読んでいます。

 そうすると、以前よりも少し、わかるような気がしてきました。それは知識が深まったというよりも、2年分の「自分の経験」を実例として確かめつつ、「これが、こういうことなのかな」という風に受け止めていく……。

 私は専門医に分析を受けることはできません。もちろん私が専門医であるはずもありません。だから自分の心を自分で分析できるなんて、つゆほども思ってはおりません。でも私は私のことしか知らないので、とりあえず、手元にあるもので何とかするしかないんです。そして、私自身がこれからの人生を、よく生きられるようになりたいんです。

 そのためだったら、私は何でもします。特に、ちょっと難しいことにチャレンジしてみます。そうすることで、きっとまた、無意識の海から新しい誰かが助けてくれるでしょうから。

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おはようございます。

 まだ書いていなかったので書きます

 いぬがみです。


 2~3年前から八戸の古本屋で目をつけていた荒俣宏先生の『新帝都物語 維新国生み編』を買い求め、読みました。先月の話ですが、まだ書いていなかったので少しだけ書きます。というか今回は土方さんの話だけで終わります。思いのほか長くなってしまったので。


 歴史に残る大長編『帝都物語』は明治から昭和73年までの、ざっと100年にも及ぶ物語であり、帝国軍人から自衛官になった魔人・加藤保憲と人類との戦いが繰り広げられます。幸田露伴氏から平岡公威氏さらに出版元の社長まで実在の人物も物語に深く絡んでくるのも特徴です。

 その物語が完結したあと、時代がぐんとさかのぼったのが『帝都幻談』で、これは江戸時代、加藤保憲のルーツとなった魔人が平田篤胤・遠山金四郎らと戦う物語だそうです(未読)。そして私が今回読んだのはその帝都幻談の直接の続編です。平田篤胤門下の人々と魔人との戦いに喧嘩師仕様の土方歳三さんが参戦。青森県の千曳というところから始まり五稜郭へと転戦していく……そういう話です。


 とにかく土方さんが出ているといえば手を付けてしまう「追っかけ」のごとき犬神でありますが、ある程度、物語によって決まったイメージがあるような気がするんですよね。

 たとえば、おそらくシバリョーこと司馬遼太郎『燃えよ剣』の喧嘩師のイメージなんでしょう。生まれながらの喧嘩好き、戦闘民族、殴り合いも斬り合いも戦争も喧嘩でありいかにして喧嘩に勝つかが人生――そういうイメージ。悪鬼羅刹のイメージ。

 『新帝都物語』の土方さんは、そのイメージです。洋服もライフル銃も、使えるものだと思えば何でも取り入れる土方さんが今回は霊的なアレコレと出会い、「なんだぃ、そいつぁ」と多摩の地言葉で嘲笑したり驚愕したりしつつ魑魅魍魎が跳梁跋扈する怪異な世界で戦います。多分この後は廃棄物となって時空をさまよった挙句、薩摩の「妖怪首おいてけ」と殴り合いの喧嘩をするものと思われます。


 ただ私が函館で作り上げた土方さんは、もっとさわやかで穏やかな人なのです。もちろん戦闘となれば的確かつ激烈な采配を振るうのですが、平時はそういうわけでもない、と。

 実際に、新撰組時代からの生き残りであった中島登さんが、

 「時間がたつにつれて温和になっちゃって、まるで赤ん坊が母親を慕うように、みんな土方さんのことを大好きだって言ってたよ」

 てな意味合いのことを言っているので、たぶん実際にそうだったんでしょう。

 新撰組副長の時代は組織を守るためにあえて本来の自分を覆い隠し、鬼の面をかぶって、いっさいの汚れ役を自分が買って出た……そういった呪縛から解き放たれたことで、本来の自分を取り戻しつつ、自分が追いかけ続けた理想の生き方を全うした……そういうことだと思うのです。

 これは土方さん寄りの作家が書いた物語のイメージですね。村瀬彰吾先生の『人間土方歳三』とか萩尾農先生の『散華 土方歳三』とか。特に『散華 土方歳三』は、私が知る限り最も優しい「芹沢鴨」さんが描かれています。こんな鴨さん見たことない。自分がもはや生きてはいられないことを悟り、自分を殺しに来た土方さんに「すまねえな……歳……」と言い残して絶命する鴨さん。冒頭のわずか数ページで号泣です。



 ……というわけで、この「新帝都物語」の土方さんは、そういう方です。これだけで話が随分と長くなってしまったので、いったん筆をおきます。続きは未定です。

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こんばんは。

 今日は久々に出社しました

 いぬがみです(ホテルは休館中ですけどね)。


 遠藤周作『笑うべからず』を読みました。

 これは狐狸庵先生こと遠藤周作氏の短編集ですね。遠藤周作氏の小説と言えば『沈黙』とか『海と毒薬』といった大傑作ばかりが有名なのですが、不肖いぬがみ、それらを読んだことはありません。読んだことのある長編小説と言えば『スキャンダル』くらいでしょうか。あとはもっぱら狐狸庵先生の要素と言うか、大真面目にちょっぴりユーモラスな物語ばかりを読んでいるような気がします。

 この『笑うべからず』もそうでした。ユーモラスであり、時に下品と言われそうな物語がいくつも盛り込まれていて、大変読みやすく、いっぺんに読了してしまいました。

 これは実家の本棚を探していて、たまたま目に入ったので青森に持ってきたものです。正直なところ私が買った記憶はなく、そうすれば兄者か誰かが買ったのだろうと思います。久々に読んだ狐狸庵先生の本は、やっぱりとても面白かったです。改めて、ちゃんと読まなきゃ……じゃなくて、読みたい! と思ったのでした。

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おはようございます。

 改めて読み、深まった感動

 いぬがみです(読書期間中)。


 先日実家の本棚をひっくり返して、村山早紀先生の『ルリユール』を見つけ出し、これを再読しました。実際、この本を見つけるために2日間かけて本棚を整理したといってもいいでしょう。

 ルリユールというのは本の修復や装丁を手掛ける職人のことです。村山早紀先生の物語では毎度おなじみ風早の街を舞台に、中学生の女の子『瑠璃』と紅毛人……いや赤毛のルリユール美女『クラウディア』が繰り広げる、といった内容なんですが、あるいは今まで読んだ村山早紀先生の作品のなかでも一番好きかもしれません。

 こうしてパソコンもインターネットもそれなりに使いますが、電子書籍というのはどうもなじめません。やっぱり手に取ってページをめくる作業が必要な紙の本が好きなのです。そして、もしも自分が大好きな本をそうやって唯一無二の本にしてくれる人がいるのなら、それはとても素晴らしいことだと思うのです。


 もう一度読みたいと思って、読んだところ、6年も経てば忘れていることがいっぱいあります。だからある意味では新鮮な気持ちで読むことができました。しかも、6年のあいだに私も歳を取り、色々なことを経験し、昔は持っていなかったものを持っていたりします。

 要するに、より細かいところまで自分の体験も駆使して想像を巡らせることができるようになったから、よりいっそう深く感じ入ることができたと思うのです。

 レモンとバターでサッと作ったスパゲッティだって、まあ私もそのもの自体を作ったことはありませんが、自分でパスタをゆでたことくらいはあります。あくまで自分が食べるためなので、そんなに手の込んだものはできませんが、料理の真似事くらいはします。だから瑠璃とか瑠璃のお姉ちゃんが料理を作って食べるくだりを読んで、「うむ、うまそうだな」そして「おれは今日なにを食べようかな」と思ったりするのです。

 そしてもうひとつ。瑠璃のお姉ちゃんは高校生で、喫茶店でウエイトレスのアルバイトをしているそうなのですが、同時に単車乗りなのだそうです。そして愛車は真っ赤な大きなバイク――固有名詞が出てきたので書きますが、CB400Fなのだそうです。2013年の女子高生がヨンフォアに乗ってるって……バイク部の女の子たちもビックリするんじゃないかしら。私は小型限定だから乗れませんけど、それでも単車乗りっていう部分では共感できることがありますから。まあ6年前は、まさか自分がバイクの免許を取れるなんて考えたこともなかったからなあ。忘れていたというか、そもそも……。


 そういうわけで、本を読んだらとりあえずブログに書きます。3年後5年後に「最後にこれを読んだのはいつだっけ」ということを検索して見られるようにするためです。この記事を読んで『ルリユール』に興味を持つ方がいるとは思いませんが、とりあえずAmazonのリンクを貼っておきますね。

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こんばんは。

別にお酒を飲まなくても眠れます

「森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです(今日はビール・ワインを飲用済み)。


村山早紀先生の「その本の物語」を読んでいます。まだ上巻の半分ほどを読んだくらいですけどね。

これは物語の中の物語というか、我々と同じ世界にいる少女「南波」が親友に語って聞かせる「風の丘のルルー」という魔女の物語がどちらかというとメインなのかな、という感じです。ひとまず100ページほど読んだところでは、そちらが主な内容でした。

本当は十代の少年少女あるいはもう少し年少の…たとえば小学校高学年とか、それくらいの年齢の子が読むのが適切、なのかもしれません。少なくともあと1週間そこそこで35になろうかという野郎(ギリギリ既婚)が読むべきものではないと思います。

少女の難しい心象風景、魔女(御年110歳くらい:ただし魔女は歳をとるのが遅いので見た目は小学校高学年くらい)の心象風景。村山先生の描く、温かくも切ない心模様に私も感じるところがありますが、やはり30過ぎのオッサンゆえの気恥ずかしさ。お酒を飲んで酔っ払って、「まあまあ、いいじゃねえかそんなこと」と勢い任せに振り切ってしまいたくなる部分もあります。

この、「そぐわない雰囲気」がたまらなく好きです。と言ったら皆さま「はぁ?」と思うでしょう。ですが正直、率直な感想としては、そういう感じなんです。

いまだに十代の少年少女のようにちょっとした心の機微に敏感に感じられるセンスがあること。そして、それをどこか冷静に眺め、「いいことだ」と考えられる理性があること。

――要するに? あくまでも私の勝手な、自己満足的なことだとは思うんですが、大人と大人未満の若者と、両方の感動をひとつの頭の中で同時に共有できるのかなと。そういう気がするんです。いまだにティーンの感情を捨てきれていないというか。

あるいはずっと「隠し持っていた」のかもしれませんね。表向きはいち社会人、常識人として生きていくための方策を身に着け、それを実行に移していたものの、その中で隠し持っていたもの。すなわち感情。心に壁を作り、建前と本音を使い分けてきた35年間。



…いや、これ以上はよしましょう。話せば私の半生を振り返るような、とてもこの一日のブログに収まらないような回想録になってしまうので。

何が言いたいのか。一言で言えば「魔女上等」ってことです。たといルルーが魔女だろうと鬼女だろうと、心が優しくて、魔女ではない人々と仲良くなりたいというのなら、それを拒むことは何もないということです。そしてそれを、私はルルーではない魔女だったとしても、そうしたいなと思ったのです。

その本の物語の主人公であるルルーの心情は、私たち読み手は詳しく知ることができます。知っているから仲良くしてあげたいと思います。これは当然のことです(そうでなければ、本を読むことはしないでしょう)。問題は、私がそんなルルーの心情を知らず、普通の女の子だという認識しかなかったら? ということ。何の前触れもなく、それまで仲良くしていた子が「実は魔女だった」と分かった時、それを受け入れられるのか? ということ。

そんな時でも私は「受け入れたい」と思うのです。たとい私が受け入れた魔女が本当は悪魔の手先で、結局は取り込まれて非業の死を遂げるようなことになったとしても、後悔はしません。

「信じる心ってのは、人間、死ぬ間際でも持てるんだ」

昔、とある元暴力団会長(その後、児童養護施設経営者→タクシー運転手)が瀕死の重傷を負った時、そう言っていたから。私はその人の言葉がとても好きだから。

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これ、読んだのは2回目なんですよね。

実は最初、たぶん三笠文庫版の方だと思うんですが、それを東京に旅行した時上野駅の本屋で買ったんですよね。

読んで、温かい物語に感動して(村山先生の小説はいつもそうなんですが)。

それからしばらくして、今度は地元の本屋で「あっ、新作が出たんだ!」と思ってパッと買ったら、どうも既視感しかしない。よく調べてみると、どうやら私が読んだ第1作に加筆修正+番外編を加えた新装版だった、と。

決して嫌いな物語ではありませんが、やはり一度読んだ小説ですからね。おおよそのあらすじを知っているのに、もう一度読むのはね。…そう思って、途中までは読んだものの、しばらく放っておきました。


それから時が過ぎて。前回のエントリで書いたように「本を読め!」と自分で決めたので、だいぶん時間もたったし、そろそろ読んでみるか、と思い手に取りました。

何せ2016年現在、私はホテルでお客様をもてなす側に回っていますからね。その頃は想像だにしませんでしたが、そうなんです、時々忘れそうになりますが、私これでもホテルの従業員なんです(レストラン担当)。

今はあまり時間がないので簡単に感想をまとめて、後程改めて記事を書きたいと思いますが、不良ホテルマンの私に優しく――しかし重くのしかかる水守先生の言葉がありました。著作権法違反のそしりを受けることも覚悟で(そしりを受けたら即削除します)、引用させていただきます。


  『ホテルは、たくさんの人々の生きた時間を記憶し、そっと保存しておいてくれる場所なの
   かもしれないな、と思った。その建物の命ある限り、通り過ぎていった客たちの思い出も
   ともに抱いて、地上に存在し続ける場所なのかもしれない』


私がどうとかという話じゃありません。ホテルとはそういう場所なのです。だから、来てくれたお客さんにそう感じてもらえるような場所を作れるよう、私はもう少し頑張らなければいけないのかなと思いました。

これだから、本は面白い。新しい何かを気づかせてくれる。


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こんばんは。

ふと、最近ずっと本を読んでなかった

「森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです


「本を読む暇がない」「読みたい本がない」様々ないいわけが思いつきます。

言い訳ですよね。

「本を読む暇がない」ご飯食べる時間と寝る時間を差し引いても、色々と余暇はあるはずです。「リングドリーム」をやるとかニュースサイトをつらつら眺めるとか、そんな時間があれば30ページくらい本を読めるはずです。暇はあるだろう。ハイ次!

「読みたい本がない」馬鹿野郎様! もうちょっとよく考えろ! 本当に読みたい本がないのか? そんなことはないだろう。ちょっと照れくさいとか今の自分には合わないとか、色々な壁を自分で作って避けてるけれど、かつての私は好き嫌いなく悪食といえるほど様々な本を読んだはず。

今でも、2013年のことは誇りに思っています。この年は2月にPCが故障したということも手伝いラノベから時代小説、あるいはユング心理学からエッセイ本まで、とにかくたくさん読みました。試しに数えたら100冊以上読んでいました。読もうと思えば読めるはずなんです。

なぜこんなことを急に書き出したのかというと、最近どうも心理的な余裕がない日々が続いているからです。心の余裕がない、すなわちネットばかり見て、頭が働かなくなってきたのです。

たとえば、昔私が学生だった頃のように、1日に15分くらいでいいから、毎日本を読む時間を確保する。1日のスケジュールの中に組み込み、それをずっと続けていく。そうすることでまた、本を読む習慣を付けていけばいいのかな。

今でも学生の諸君はやってるんですかね。登校して、朝礼の前に10分15分、1時限が始まるまでの間にみんなで読む。今にして思うと、あの時間、結構良かったような気がします。


さて、何を読もうかな。

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