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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
すでにこのブログが解放治療場になってから何度か書いていますが、『森茉莉』さんの本を、読んでいます。

 元々ちょっと格好つけて古本市で『私の美の世界』の単行本を買い、しばらく置いていたのですが、『豊饒の海』から『ドグラ・マグラ』へと連続読書し、加えてXでのちょっとしたこともあって……

 まあ、くるってしまったのですね。

 で、茉莉さんの文章を読んで解毒しようと思って読んだら結構面白くて。

 

 本来は『贅沢貧乏』が読めればそれでよかったのですが、あいにく仙台市図書館に単行本がなく、それが収録されている全集を借りてきました。さらにそれ一冊では物足りないんじゃないかと思って関連書籍(群ようこさんの本を関連と言っていいのかどうかと思いましたが、一番上の森茉莉特集にも関連書籍として早川茉莉さんが挙げていたので関連書籍なのです)を数冊積み重ねてきました。

 とりあえず、一番緊要な『贅沢貧乏』と、全集に収録されている『恋人たちの森』『枯葉の寝床』『曇った硝子』などの小編をいくつか読みました。『父の帽子』とか『甘い蜜の部屋』とかは未読ですが、私は別に森茉莉研究家でもドはまりしているわけでもないので、いったんこれで区切りとしましょう。

 そして、私なんかが何を言ったところで「素人が何を言っていやがる」「おれ(私)の方がお前なんかより10倍も100倍も森茉莉のことはわかっているんだ」と貶められるのを承知で、私の感想を書きたいと思います。だってここは解放治療場だからです。


 明治の大文豪『森鴎外』の娘というのは事実としてありますが、茉莉さんの文章は茉莉さんにしか書けない、三島由紀夫さんの言葉を借りれば「日本中で森茉莉商店でしか売つてゐない言葉」を使って書かれている文章です。「…ので、あった。」とかって読点の区切り方はこれまで読んだことがありません。なので最初はどうも引っかかって躓きそうになったのですが、読みなれてくるとそれがいかにも特徴的でいとおしく感じられてしまうのです。私という人間もよくよく影響されやすい人間のようです。

 文体としては女性らしい(というのが昨今の時節柄よろしくないというのであれば、単純に「やわらかい」と言い換えても結構。ただし私が硬めの文章を男性的と言い優しげな文章を女性的と言うのは実際に男性が書いた文章や女性が書いた文章を読んで経験的に「そういうものだ」と認識しているからである。特に矢川澄子さんの文章は『女性らしい文章』の極地点だと思う)のですが、やはり昔の作家だからでしょうか、漢字が多用されています。それが適度なスパイス、文章全体の格調高さ、noblesseな感じがしみだして来て心地よいのです。

 私なんかが普段の文章でパンのことを『麵麭』って言ったり、『独逸』ならまだしも『伯林』とか『倫敦』とか『伊太利の空は希臘のように』とかって書いていたら、失笑どころか息が詰まってすぐに読むのをやめてしまうでしょう。大体にして私自身が恐らく息が詰まって書くのをうっちゃらかすと思います。そんな文章、誰よりも私が読みたくありませんから。


 群ようこさんは『贅沢貧乏のマリア』の中で、茉莉さんの性格や生活スタイルについて賞賛とも批判ともあきれ返るともうんざりするともしれないような感想をご自身のことと照らし合わせつつ書いておりましたが(そして、それを私も面白く読ませていただいたわけですが)、私が特に興味を持って読んだのは、当時の『文壇紳士』たちとのお付き合いでした。

 三島由紀夫さんが茉莉さんの文章をとても良く言っていたのは存じていますが、澁澤龍彦さんの名前も出てきたことには驚きました。特に『降誕祭パアティー』というエッセーでは、名前こそ全部捩られていますが、文壇紳士のみならず芸能界芸術界のメンバーがいたことがわかります。

 安東杏作、喜多守緒、矢沢聖司、そして島澤武比古と真島与志之……。喜多守緒なんかは、もう、そのまま読めちゃいますね。たぶんお医者さんをしながら執筆していたんでしょうね。


 一方で、小説の方はどうか。私はそもそも『贅沢貧乏』を読めばこの全集の役目は果たしたようなものなんですが、ただせっかく収録されているのに読まずに返して後で読みたくなって買いなおすというのもばからしいというか勿体ないと思ったので読みました。

 全集の巻末の解説で「美少年もの」という言葉を使っていたので私もそれに倣いますが、若くて色気があって純粋な「美少年」に成人男性が恋をして云々……というものが立て続けに何本か収録されています。このうち『恋人たちの森』が三島さんに注目され『新潮』に評論文が載ったわけですが、その後、実際に収録されている通りの順番で立て続けに美少年ものを書いたそうです。

 これに関しては、急いで茉莉さん自身の気持ちを書いておかなければなりますまい。すなわち、茉莉さんは男色を書こうと思って書いたわけではなく、「優婉」な恋愛の世界を描いたのだ、と仰っています。


 フランスの爛熟した映画の時代を背後に、亡霊のように背負っている二人の役者は天を恐れぬ不敵さで、自分たちの間の恋愛の情緒を公衆に見せる写真の上に現している……熱い表情と……どんな女よりもなまめかしい姿態とは全く私を恍惚とさせ、私はその写真をもとにして四つもの小説を書いた」(「『性』を書こうとは思わない」「読売新聞」昭和三十九年四月一日夕刊)
【ここまで、「森茉莉全集2」筑摩書房 590ページより引用】



 とにかく変な安っぽさが無いんですよね。ジャン=クロード・ブリアリとアラン・ドロンの組み合わせですから色気はあるけど下品ではない。社会通念とか男性女性という肉体的な概念は存在せず、ただただ心を燃やす愛情と心を蕩かす欲情があるだけなのです。


 そういうわけで、あることないことをごちゃ混ぜにして長文を書いてしまったので、そろそろ切り上げます。

 茉莉さんが色々あって始めた独り暮らしについては、室生犀星が部屋を訪ねた夜「かなしみでよく寝られなかった」と言い、富岡多恵子さんは「自分ならとてもこういう風には住めない」と言ってしまうような内容だったわけですが、どんな状況であっても自分の中のnoblesseは一切妥協せず、(他人から見れば惨憺たる有様であったとしても)自分が良いと思った世界観を作り上げ、最後までその世界観を通じて世の中と関わっていたのだろうなと思いました。

 私なんかはどうしようもないズボラ気質で、何よりも心が貧乏くさいので、茉莉さんや「我こそは森茉莉信者なり」という人からしてみれば蛇蝎のごとく忌み嫌われるとは思うのですが、それでも! 部屋の一角を大好きなもので飾り立てたり、自分の中に(自分だけの)水準器をもってそれで少しでも良く生きられるのなら……そういうことをしていた人がいたのなら……私のこういう生活も、いいんじゃないかな、と思いました。

 これを図書館に返したらいったん森茉莉さんは区切りとしますが、大好きな作家が一人増えました。『甘い蜜の部屋』も『父の帽子』も次の機会に読みたいと思います。今はほかに、読みたい本が順番待ちをしているので後回しにしますが……。



(この2冊は私が自分で買った本です)


追記。

この記事を書いた後『マドゥモァゼル・ルウルウ』も読んだのですが、う~んこれはちょっと、私には引っかからなかったですね。「三島由紀夫も、与謝野晶子も大変面白がった」と森茉莉さんがあとがきで書き、新装版の解説を書いていた中野翠さんも絶賛していましたが、私にはちょっと……最後まで読みましたが、どうしても、物語をきちんと心に取り込むことができませんでした。

ま、これに関してはいずれリベンジしたいと思います。もう一度読んでみて、それでも同じような感想だったら仕方がありません。私の好みとは合わなかった。ただ、それだけです。私なんかが何を言ったところで、これが素晴らしい物語であることに違いはないのです。

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