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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
こんにちは

 少々厳しい自然の流れのなかから

 高杉です。


 去る3月16日に発生した地震には、久々に怖い思いをしました。3月のこの時期ということもあって、やはり思い出すところがあります。18日にも、ほぼ同じくらいの時間帯にまた大きな地震が来ましたし。

 また、今日は寒気の影響で、完全に真冬モード。激しい吹雪で道路も駐車中の私の車も真っ白に染まり、気温も上がらず、まさに「春の坂道」はまだまだ道半ばという感じがします。これは山岡荘八先生が書かれた、柳生宗矩(と、その息子『十兵衛』三厳)を主人公にすえた小説のタイトルです。私も以前読みました。少々読みづらいですが、これがその時の記事です。

 ※ ここからは2013年に書いてHPでも公開している記事ですが、最近ちゃんと表示されないので、改めてこちらのブログで掲載させていただきます。



これまで柳生宗矩という人には、あまり関心がありませんでした。

一応、柳生新陰流という言葉は知っていました。ただ、その流派を使う剣客と言えば『サムライスピリッツ』などでもおなじみの『柳生十兵衛』でした。

また、「最強の剣客は誰か」という、古の時代から何度も何十度も何百度も繰り返されてきた問の中でも、候補として挙げられるのは開祖の柳生宗厳(のち石舟斎)。その間に挟まれたムネリンは、「剣術家じゃなくて政治家」として、なんだか随分と低い扱いを受けていたような印象です(特に『影武者徳川家康』では、悪の参謀みたいな感じだった)。

でも、宗矩が作り上げた「活人剣」という思想には、大変に興味がありました。本来剣術とは相手を斬り殺すための技術なのに、それを持って「人を活かす」とは、どういうことだ? と思い、色々とそれらしい本を読んだりしました。

そんな中、山岡荘八先生の大名作(クオリティ的にも分量的にも)『徳川家康』を読み終え、その平和思想に基本理念レベルから影響を受けた私。その考え方から行くと『活人剣』とは、やたらと殺し合いをすることのない平和な社会を作りつつ、武士の心である剣術を残していくための、すごく優れた思想に見えてきたんですね。

というわけで、そんな山岡先生の書いた『柳生宗矩――春の坂道』を読んだのでした。


ヤングライオン柳生宗矩


物語は宗矩24歳の時、近所に来ていた家康公に召し抱えられるところから始まります。正確には、無刀取りの秘技を見た家康公が宗矩の父である石舟斎を召抱えようとした時、「自分はもう年寄りだから、若い者を連れて行ってください」と言って召し抱えられたんですけどね。

この頃の宗矩は先程も書いたように、まだ24歳。剣術レベルだけで言えばほぼ最強レベルですが、宮本武蔵と違ってモテモテです。いや武蔵もお通さんからずっと慕われていたわけですが、この男は自分から積極的に女性に手を出していたようです。なにせ武者修行といってプイッと放浪している間も、実家に何人もの女性が訪れるものですからたまりません。柳生と言うよりも橘右京みたいな感じです。

そうかと思えば、先祖の墓前で父親の石舟斎から腕試しを仕掛けられ、隙があれば容赦なく打ち殺すと言われた時には「な、なんと、そのように酷薄な・・・」と本気で狼狽。ちょっと微笑ましいというか、人間くさいところがあるのです。

まあ、だからこそ家康公のもとに行って色々なことを学べという親心だったんですよね。決して自分の出世のためとか、柳生家の繁栄のためとか、そういうことではないんです。石舟斎が編み出した「無刀取り」の意義と、家康公が創りだそうとしている世界のイメージが重なったから、それを成し遂げるために若き宗矩を遣わした。そういうことなんです。


「糞坊主!」「どうした棒振り」


一応、すでに「徳川家康」を読んでいるので、この時代にどういう事件が起こったか? というのはもちろんわかります。具体的には「殺生関白」の汚名を着せられた秀次が自害し、一族郎党残らず惨殺されるあたりなんですが、この非常事態にあって家康公は江戸に帰ってしまいます。

罪もない女子供が惨殺されるのを止められる立場にありながら、素知らぬ顔をして帰ってしまった家康公。なんて非人情な奴なんだ! と若き宗矩は激怒します。

そこに通りかかった? のが、普段から『クソ坊主』『大和の棒振り』と、気安いんだかバカにしてるんだかわからないようなあだ名で呼びあう僧侶・沢庵和尚です。

吉川英治先生の『宮本武蔵』でも手の付けられないあらくれ野郎だった10代の頃の武蔵をやり込めて更生させるなど、その傑物ぶりは有名ですが、本作ではその傑物ぶりにターボがかかって、怪物・怪僧といった言葉が似合う感じです。

何せこの坊主、生魚をムシャムシャ食べておいて、
「―なに魚……これが魚というものかよ。おれはまた、これは海の野菜じゃと思うていたに」

などとすっとぼけて宗矩を呆れさせるものですから、たまりません。

そんな十人前の胆力を持った坊さんだけに、怒りゲージMAXの宗矩に「生臭坊主!」と激しい剣突を食らわされても、涼しい顔でその怒りを諫めます。

この展開は、こういってはアレなんですが、吉川武蔵とよく似た展開です。ただ、武蔵はほとんどの場合、自分自身の経験に基づいて成長していくのに対し、宗矩は家康公という不世出の英雄を師匠として成長していく違いはありますが。

ともあれ、若い頃は悪友として。後には家康公亡き後は二代将軍秀忠の相談役として、さらに三代将軍家光の教育係兼相談役となる宗矩自身の相談役として沢庵との付き合いは続くのです。


乱心比べ


同じ山岡荘八先生の小説でも『徳川家康』が重厚な大河小説だとすれば、『柳生宗矩』は少々エンタメ的な感じがします。もちろん真ん中にドスンと太い柱が通っているのですが、政治の話が多かった『家康』に比べ、アクションシーンが結構多いんですよね。

特に印象に残っているのは、三代将軍家光の教育係として日々奮闘する時代のこと。この頃、とある理由があってヤング家光(竹千代)は側小姓を伴い夜な夜な無断外出するようになります。その理由というのが、なんと辻斬りのためだというのだから大変です。まさに家光の乱心です(昔そういう映画があったんです)。

そこに出てきたのが、この頃竹千代の稽古相手として出仕させていた息子の三厳(いわゆる「柳生十兵衛」の人ですね)。こいつがまた100年に1度の強情者で、石舟斎の生まれ変わりでは? と言われていたのですが、非常に荒っぽい方法で竹千代の辻斬り遊びをやめさせます。それは辻斬りにやってきた竹千代軍団を待ち構え、一人残らず川に放り投げてしまったのです。

服はずぶ濡れになるし、野次馬連中に笑われるしと、10代の少年にはこれ以上ないくらい恥ずかしい目にあった竹千代。さすがに懲りて辻斬り遊びはやめたものの、

「あれはきっと三厳のしわざに違いない!」

つって、反対にやっつけてしまおうとします。そこで宗矩が機転を利かせ、三厳は発狂してしまったので出仕をやめさせました・・・ということにしてしまったのです。今度は十兵衛乱心です。

次に召し上げられるのは10年以上後のこと。この間に『実は日本中を飛び回って情報収集していた』という噂が元になり様々な創作物語が生まれたのですが、それはまた別な話。


活人剣って、素晴らしい


と、まだまだほんの一部ですが、すでに結構な長さになってしまったので、そろそろまとめます。

「活人剣」とか「剣禅一如」とかという言葉で剣術から実戦性をなくした柳生宗矩という人は、『剣豪』とか『剣聖』とか、そういう肩書きは似合わない人だと思います。やっぱり『政治家』というイメージが強いんだろうなと思います。そういうのとは無縁のまま己の道を突き進んだ武蔵の方に強さや親しさを感じる・・・それは否定しません。

でも、私はそんな柳生但馬様が好きです。世渡り上手だからじゃありません。活人剣の思想が平和な世界を作る重要な骨格となったからです。なんだかんだと批判する人もいますが、私はその思想は素晴らしいと思います。それを、結構エキサイティングな場面も盛り込みつつ全4巻(文庫で。全集では2冊)でまとめあげた本作は、ある意味では『徳川家康』より好きかもしれません。

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これまで柳生宗矩という人には、あまり関心がありませんでした。

一応、柳生新陰流という言葉は知っていました。ただ、その流派を使う剣客と言えば『サムライスピリッツ』などでもおなじみの『柳生十兵衛』でした。

また、「最強の剣客は誰か」という、古の時代から何度も何十度も何百度も繰り返されてきた問の中でも、候補として挙げられるのは開祖の柳生宗厳(のち石舟斎)。その間に挟まれたムネリンは、「剣術家じゃなくて政治家」として、なんだか随分と低い扱いを受けていたような印象です(特に『影武者徳川家康』では、悪の参謀みたいな感じだった)。

でも、宗矩が作り上げた「活人剣」という思想には、大変に興味がありました。本来剣術とは相手を斬り殺すための技術なのに、それを持って「人を活かす」とは、どういうことだ? と思い、色々とそれらしい本を読んだりしました。

そんな中、山岡荘八先生の大名作(クオリティ的にも分量的にも)『徳川家康』を読み終え、その平和思想に基本理念レベルから影響を受けた私。その考え方から行くと『活人剣』とは、やたらと殺し合いをすることのない平和な社会を作りつつ、武士の心である剣術を残していくための、すごく優れた思想に見えてきたんですね。

というわけで、そんな山岡先生の書いた『柳生宗矩――春の坂道』を読んだのでした。


ヤングライオン柳生宗矩


物語は宗矩24歳の時、近所に来ていた家康公に召し抱えられるところから始まります。正確には、無刀取りの秘技を見た家康公が宗矩の父である石舟斎を召抱えようとした時、「自分はもう年寄りだから、若い者を連れて行ってください」と言って召し抱えられたんですけどね。

この頃の宗矩は先程も書いたように、まだ24歳。剣術レベルだけで言えばほぼ最強レベルですが、宮本武蔵と違ってモテモテです。いや武蔵もお通さんからずっと慕われていたわけですが、この男は自分から積極的に女性に手を出していたようです。なにせ武者修行といってプイッと放浪している間も、実家に何人もの女性が訪れるものですからたまりません。柳生と言うよりも橘右京みたいな感じです。

そうかと思えば、先祖の墓前で父親の石舟斎から腕試しを仕掛けられ、隙があれば容赦なく打ち殺すと言われた時には「な、なんと、そのように酷薄な・・・」と本気で狼狽。ちょっと微笑ましいというか、人間くさいところがあるのです。

まあ、だからこそ家康公のもとに行って色々なことを学べという親心だったんですよね。決して自分の出世のためとか、柳生家の繁栄のためとか、そういうことではないんです。石舟斎が編み出した「無刀取り」の意義と、家康公が創りだそうとしている世界のイメージが重なったから、それを成し遂げるために若き宗矩を遣わした。そういうことなんです。


「糞坊主!」「どうした棒振り」


一応、すでに「徳川家康」を読んでいるので、この時代にどういう事件が起こったか? というのはもちろんわかります。具体的には「殺生関白」の汚名を着せられた秀次が自害し、一族郎党残らず惨殺されるあたりなんですが、この非常事態にあって家康公は江戸に帰ってしまいます。

罪もない女子供が惨殺されるのを止められる立場にありながら、素知らぬ顔をして帰ってしまった家康公。なんて非人情な奴なんだ! と若き宗矩は激怒します。

そこに通りかかった? のが、普段から『クソ坊主』『大和の棒振り』と、気安いんだかバカにしてるんだかわからないようなあだ名で呼びあう僧侶・沢庵和尚です。

吉川英治先生の『宮本武蔵』でも手の付けられないあらくれ野郎だった10代の頃の武蔵をやり込めて更生させるなど、その傑物ぶりは有名ですが、本作ではその傑物ぶりにターボがかかって、怪物・怪僧といった言葉が似合う感じです。

何せこの坊主、生魚をムシャムシャ食べておいて、
「―なに魚……これが魚というものかよ。おれはまた、これは海の野菜じゃと思うていたに」

などとすっとぼけて宗矩を呆れさせるものですから、たまりません。

そんな十人前の胆力を持った坊さんだけに、怒りゲージMAXの宗矩に「生臭坊主!」と激しい剣突を食らわされても、涼しい顔でその怒りを諫めます。

この展開は、こういってはアレなんですが、吉川武蔵とよく似た展開です。ただ、武蔵はほとんどの場合、自分自身の経験に基づいて成長していくのに対し、宗矩は家康公という不世出の英雄を師匠として成長していく違いはありますが。

ともあれ、若い頃は悪友として。後には家康公亡き後は二代将軍秀忠の相談役として、さらに三代将軍家光の教育係兼相談役となる宗矩自身の相談役として沢庵との付き合いは続くのです。


乱心比べ


同じ山岡荘八先生の小説でも『徳川家康』が重厚な大河小説だとすれば、『柳生宗矩』は少々エンタメ的な感じがします。もちろん真ん中にドスンと太い柱が通っているのですが、政治の話が多かった『家康』に比べ、アクションシーンが結構多いんですよね。

特に印象に残っているのは、三代将軍家光の教育係として日々奮闘する時代のこと。この頃、とある理由があってヤング家光(竹千代)は側小姓を伴い夜な夜な無断外出するようになります。その理由というのが、なんと辻斬りのためだというのだから大変です。まさに家光の乱心です(昔そういう映画があったんです)。

そこに出てきたのが、この頃竹千代の稽古相手として出仕させていた息子の三厳(いわゆる「柳生十兵衛」の人ですね)。こいつがまた100年に1度の強情者で、石舟斎の生まれ変わりでは? と言われていたのですが、非常に荒っぽい方法で竹千代の辻斬り遊びをやめさせます。それは辻斬りにやってきた竹千代軍団を待ち構え、一人残らず川に放り投げてしまったのです。

服はずぶ濡れになるし、野次馬連中に笑われるしと、10代の少年にはこれ以上ないくらい恥ずかしい目にあった竹千代。さすがに懲りて辻斬り遊びはやめたものの、

「あれはきっと三厳のしわざに違いない!」

つって、反対にやっつけてしまおうとします。そこで宗矩が機転を利かせ、三厳は発狂してしまったので出仕をやめさせました・・・ということにしてしまったのです。今度は十兵衛乱心です。

次に召し上げられるのは10年以上後のこと。この間に『実は日本中を飛び回って情報収集していた』という噂が元になり様々な創作物語が生まれたのですが、それはまた別な話。


活人剣って、素晴らしい


と、まだまだほんの一部ですが、すでに結構な長さになってしまったので、そろそろまとめます。

「活人剣」とか「剣禅一如」とかという言葉で剣術から実戦性をなくした柳生宗矩という人は、『剣豪』とか『剣聖』とか、そういう肩書きは似合わない人だと思います。やっぱり『政治家』というイメージが強いんだろうなと思います。そういうのとは無縁のまま己の道を突き進んだ武蔵の方に強さや親しさを感じる・・・それは否定しません。

でも、私はそんな柳生但馬様が好きです。世渡り上手だからじゃありません。活人剣の思想が平和な世界を作る重要な骨格となったからです。なんだかんだと批判する人もいますが、私はその思想は素晴らしいと思います。それを、結構エキサイティングな場面も盛り込みつつ全4巻(文庫で。全集では2冊)でまとめあげた本作は、ある意味では『徳川家康』より好きかもしれません。

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