胎に刺さったリボン
私が自分らしく生きるために、私の中に強く存在する「女性性」を肯定したい。
第二次性徴が訪れ、思春期には身体に様々な変化が起き、自分の身体ながら嫌悪し、戸惑いを感じたのを覚えている。気が付くと私の意志に反して肉体は女性になっていた。同年代との会話の内容も、恋愛や外見に関する話題になり、次第に自分に存在する女性性は強くなっていった。
女性性という言葉は、グロテスクで呪いの言葉の様でもある。美醜に囚われたり、月経で苦しんだり、差別の対象になる事も。それでもそういった地獄を憎む一方で、美しさを感じ、愛着が湧いてくる。多様性が求められる中で女性的な表現は時代錯誤かもしれない。しかし、その表現は本来、他者を決めつけ、傷つける様な言葉ではない。誰もがそれぞれの自分らしさを追求する今だからこそ「女性らしさ」が個性を表現する一つの言葉として生き続けていく事を願う。
今回の展示では三人の作家が各々の視点から、自身に存在する女性性を見出し、絵画として「女性らしさ」に対するアンビバレントな感情を表現している。それぞれの作品から可愛さと残酷さが共存した世界観を感じてもらいたい。
2月2日と3日に仙台アーティストランプレイス(SARP)で見た「かんの」さん「トキワ」さん「さかいふうか」さんによる三人展『胎に刺さったリボン』は、私にとっては非常に重大な出会いでした。2022年11月に同じ場所で見た「わたし、にしかみえない星」展に次ぐ衝撃を受けました。
ステートメントにある『私が自分らしく生きるために、私の中に強く存在する「女性性」を肯定したい。』というのは、丸ごと現在の私が求めるテーマです。ちょうどこの日は隣のスペースで「足跡」展を見て、人生で初めて「可愛い」と言ってもらっていよいよ自分の中にある女性性を肯定しつつ生きようと踏み出したところだったので、余計に強く共感共鳴したのかもしれません。この会場でSARPの人からも「可愛い服装ですね」と言ってもらえたから、もう後戻りはできません。私はこのまま自分の中の「女性性」を肯定し、心の生きづらさを軽減して、私らしく生きていきたいと思います。
と言いつつ、次の日は仕事帰りに男性の格好をして見てきました。そしてお店の人に改めて感想を伝え、「昨日来たことに気づいていないのかな」すなわち「昨日の私と今日の私は別な人間だと思っているのかも」と感じるに至りました。それならいよいよ「佐藤非常口」と「鳴瀬桜華」でそれぞれ別人格として振る舞うのも面白いかもしれません。
……でもこれって、冗談ではなく、結構、本気なんですよね。こうして「男性として『女性性』に触れる」のと「女性として『女性性』に触れる」のでは、やっぱり感じ方が異なるんです。もちろん私の中にある女性性というのはアニマの女性性であって、生理の苦しみなど「女性の肉体をもって生まれ育った女性」じゃなければわからない感覚というのは絶対にあります。そのあたりは矢川澄子さんの本をたくさん読んだのでわかります。恐らく私がどれほど女性に近づいたとしても「あなたは男性だから、わからないでしょうね」と袖にされることは覚悟の上です。
それでも! 私は自分の中の女性性を肯定します! それが私の心を護り、健やかに生きていくために必要なことだから!……
だから、そういう一歩を踏み出す手助けとなった今回の『胎に刺さったリボン』展は、私にとっては人生で2番目に重大なイベントだったのです。まったく素晴らしい三人展でした……このあとSARPの方から卒展の案内ポストカードを頂き、実際に行ってみて感動したのは先に書いた通りです。
一度目に見て、二度見て、卒業制作を見た後三度目に撮りためた写真を見て暴れまわる私の感情をノートに活け造りにしたのですが、ここらできちんとまとめておきたいと思います。これはちゃんとオープンにしないといけないと思ったからです。
今回は三人展ということで、ステートメントにもある通り、それぞれの描き手が「各々の視点」から制作した作品がありました。なので私の感想も見た順番に書き出していきたいと思います。その説明をするためにも、皆さんの作品の写真も掲載させていただきます(会場で「撮影可、SNSなどで公開可」と書いてあったので)。
『幻想』の女性性:さかいふうか
さかいふうかさんの作品から感じたのは「幻想」から入る女性性でした。ピンクやマゼンタという色合いには、なぜか女性のイメージが連想されます。それがベースの温かい……たぶん、その色合いに加えて人物の中心や周囲に光があるからなのかな……光の中に浮かぶ女性のヴィジョンは、率直に言ってとても可愛らしいと思うのです。それと同時に、その切ない表情から「内包している悲しみ」があるように感じました。ただただ可愛いだけならそれでおしまいですが、それだけでない生々しさ(=感情、人間らしさ)があるので、どんどん心の中に「可愛さ」という肯定的感情があふれてきます。そして心が「可愛さ」で満たされた時、ようやく私は絵の前から離れることができたのでした。
『感情』の女性性:トキワ
トキワさんの作品を見た感想をまとめると「感情」の女性性であり、逆巻く波の中にダイヴィングするような体験でした。ご覧の通り表面的にはとてもアニメ的で可愛い女の子がいるのですが、それに近づこうとするとたちまち表面的なものが崩れ、激しい感情の濁流にのみ込まれるのです。しかし、それは息苦しくてすぐに逃れたくなるようなものではなく、むしろ私の中の女性性と呼応し、しだいに流れに乗って心が解放されていくのを感じました。
ここからは、先ほどの活け造りノートをそのまま引用してみます。
<それは大きなキャンバス地に描かれた少女の幻影や図形やひとすじの曲線……それが「何かわかるもの」と「何かわからないもの」が自在に入り乱れた世界に新しいものを見つけるたび少しずつ加速し、私の意識のキャパシティが限界に到達するまで続き……これ以上「心のままの世界」に意識が耐えられなくなったところでキャンバスから視線をそらし、かろうじて現実に戻ってくることができたのだった。……この三人展で最も激しく感情を動かされた。それがトキワさん。>そういうことなのです。読み返してみるとスゴイこと書いてるなあ、と思いましたが、まあ実際にそうだったんだから仕方がありません。ええ、そういうことなのです。
『原始』の女性性:かんの
ノートには、「胎に刺さったリボン」というタイトルを一番象徴的に表していたのが実はかんのさんなんじゃないかと思った、と書いています。これは卒展でお三方の卒業制作を見た後の感想ですが、パッと見て、「可愛い」とは少し違う感想を抱きました。もっと肉感的な温かさ、暗黒的な……それゆえ心安らぐ感じがしたのでした。
その感覚をたどって行けば、胎(内)……まだ意識や人格のない、形の定まっていない人間の原初の記憶までさかのぼるのではないか、と。
ユングかぶれの私はこれを『原始心像』の世界だ! というふうに解釈しました。あまりにもプリミティブで、普段は意識の俎上に載らない……でも心の奥深いところで共感する温かさ。普段の私を動かしている自我からはうんと離れたところにあるから、深い共鳴が起こるんでしょう。
たとえがあまり適当ではないかもしれませんが、それはまるで地震のようなものです。地下数十キロという深い場所で激しい動きが起こると、それが地表の全てをなぎ倒すような強大なエネルギーとなるように……さかいふうかさん、トキワさん、かんのさんの作品をぐるりと見て回っているうちに共鳴強振した私の女性性は自我を突き破り、あらゆる感情を、感覚を、意識を、理性を飲み込み……
あえて断言します。信じてもらえなくて結構ですが、私は全く正直に感じたことを言います。
私は服装だけでなく心的に女性として三人の世界を眺め、共感、共有しました。これほどまでに私のアニマが強い力をもって心を支配した体験はありません。それくらい特別な体験だったのです。
それは翌日、男性として同じように絵を眺めた時、「可愛いとかきれいとかだけじゃない、ちょっとドロドロしたところが良かったです」としか感想を伝えられなかったことで確信しました。具体的にどう感じたのかを正確に伝えると、これほどの言葉が必要になります。
そして、マンガで書くとこういうことになります。
ノートに書き、それをさらに修正して言葉にすることで、少しずつ感情を御することができるのかな。これが私の『胎に刺さったリボン』展の感想です。
*
さかいふうかさん、トキワさん、かんのさんについてのファーストインプレッションを書ききったところで、もう一度、東北生活文化大学美術表現学科の皆さんの卒展について触れます。
卒展全体に対する記事はこちら
個々の作品の感想については、既に書ききってしまったので、「その感動がキャンバスの面積に比例して大きく感じた」という程度にとどめておくことにしましょう。なお、さかいふうかさんは小さな部屋の形を作り、その中に展示するというインスタレーションという形式で作品を制作されていました。昨年見たRimoさんの個展に続き人生で2度目のインスタレーション体験です。素晴らしい。
こちらも2回行ったのですが、2回目に行った時は「作品と一緒に私自身を撮影する」という試みを実践してきました。VRでやっているようなことをアナログ的に再現する。いったん自分を二次元の世界に閉じ込め、それを見ることで復元する。そういう試みです。それによって世界を外側から見るのではなく、ちゃんと同じ世界に実在することを再確認することができました。私が良ければそれで良いんです。
以上で、『胎に刺さったリボン』展にまつわる私のお話はおしまいです。すでに3週間くらいが経過しましたが、その間に卒展などもあって……やはり醸成する時間が必要でした。また、「女性性」がテーマだけに、私の心の準備も必要でした。今日はこうして自分の部屋にて、女性らしさを十分に高めて書きましたが……やはり自分が女性であると思うことで、とても心安い気持ちになれるのです。
改めて性自認というのは、必ずしも肉体の性別に従うものではないと思いました。肉体的にどうであれ、自分が一番自分らしく思える形で生きることが基本的人権として尊重されるべきことだと思うので、私も自分の女性性を隠さずに記事を書きました。私なんかがこんなことを書いたところで、決して多くの人に受け入れられることはないと思いますが、そういう人間が仙台にいるということを知ってもらえたら、私みたいな人類でも生きる価値があるのかなって……そう信じたいです……。
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2月22日、仙台アーティストランプレイス(SARP)で開催された専門学校日本デザイナー芸術学院写真映像科の皆さんによる写真展を見てきました。
会場は2ブロックに分かれていて、ひとつは1/2年生の合同展 ”reminiscence”で、もうひとつは1年生による『それぞれの「あい」が集う写真展』という内容でした。私が行った時には雰囲気のある若きアーティスト然とした青年が熱心に写真に見入っていたので、私も静かに眺め、真摯に感想をアンケート用紙に書いてきました。なおこの時は仕事帰りだったので男性の格好で行ったことを念のため書いておきます。
日本デザイナー芸術学院写真映像科といえば、こないだせんだいメディアテークで開催された卒展を見て「これはスゴイ!」と感動した経緯があったので、割と積極的な気持ちで行きました。
そして(高校時代は写真部にいたとはいえ)専門的な勉強をしたことがなく、一眼レフも持っていない私なんか足元にも及ばない素晴らしい写真に打ちのめされ「もう写真が趣味だなんて言うのやめます」と泣きながら会場を後にしたのでした……かというと、そんなことはありませんでした。
素晴らしい作品ばかりだったことは間違いありません。ただ卒展の時に見たような、私が想像できる範囲を超えた衝撃的な作品というよりは、とても共感しやすい作品だったのです。作品を見て、そのあとキャプションの説明……作り手のイメージを文字で補完したうえで、
「私もこういう写真、好きだなあ」
そう思ったのです。
もちろん、私に同じような写真がすぐに撮れるかといえば、そんなことはないでしょう。まず、イメージを実現するための機材が必要ですし、物理的に実現できる限度が低ければ、作り手の技術向上にも制約があるでしょう。たくさん経験を積んでレベルアップするためには、コンピュータゲームでいうところの「レベルキャップ」を外す必要があります。スマホカメラでデジタル一眼レフと同じような写真を撮ることは物理的に不可能です。別物なのです。
ただ、「どういう写真を撮るか」という題材探しとか……体系的な技術ではなく感覚的な部分であれば、私でもなんとか追いつけ追い越せで近づく余地があるような気がするのです。
そういう気持ちで共感しながら自分の感覚を広げていくことが楽しいのかな。たといSNSで10万いいねがつくようなフォトジェニックな写真じゃなくてもいいんです。私の撮影した写真だって「よさはあるはずだし、好いてくれる人もいる」そう信じて、少しでも良い写真が撮れるよう、撮り続けます。
私はまずは私のために写真を撮るんです。
その先に、誰かが共感してくれることを信じて。
……うん、これでいい。
上手な写真じゃなくてもいいんです。そういうのは他の人に任せます。私は私が良いと思える写真を撮れればいいです。同じように良いと思ってくれる人がいる(かもしれない)写真。
これからは、そんな自分の気持ちを大切にしながら、たくさん他の人の写真も見ます。素敵な写真をたくさん見て、自分の心を磨いていきたいと思います。
という流れで書いてしまうのは少々申し訳ないのですが、2/20にタナランで「にがつのねこといぬ」展を見て、さらにその後東北工業大学の卒展を見た後、同じせんだいメディアテークで開催されていた東北大・東北学院大・東北工業大の写真部有志による三大学合同写真展を見てきました。
結果的に短いスパンで若い人たちの写真展を見たわけですが、心の中で比べてみると……同じくらいの世代の人たちが撮った写真でも雰囲気が異なるんですよね。
あくまでこれはセンスだけで写真を撮る門外漢の気安さで、主観を大切にして語る言葉です。その上で「この印象の違いは何だろう?」と思った時、こんな言葉が浮かびました。すなわち、
「技術が先行するのか、感性が先行するのか」
ということでした。
どちらも素晴らしい写真なんですが、大学写真部の皆さんの作品は「プロっぽい」んですよね。この言い方がいかにも素人っぽいので嫌だから言い換えると「技術が感性を追い越していない」というか……つまり「安定感がある」んですね。ヴィヴィッドな紅葉の写真にしても、微笑みながら手にした飲み物の缶を掲げる(「乾杯!」のポーズ)写真にしても、パネルの端から端までピシッと定着化され、見ている私も心の揺らぎが起こらないんです。安心して「ああ、綺麗な写真だなあ」「こういう写真が撮れればいいなあ」と眺め、感じ入ることができる写真なんです。
それに対して専門学校で写真を勉強した人たちの写真は、「感性が技術を飛び越えて私に訴えかけてくる」印象でした。直接私の感情に訴えかけてくる写真。撮る人も割と自分の感情を表現しようとして結構センシティブな感じに仕上げてきている(とキャプションから読み取れた)から、私もより感情が動くのです。感情家ですから、そういうのはすぐ反応しちゃうんです。
*
どちらかだけじゃ足りなかったのです。両方合わせて、私のなかで結実しました。それらを合わせて、私は私の写真を撮る。これでも社会人になってから、観光写真コンテストで表彰されたこともあるし、スマホカメラだって捨てたもんじゃないはず……上手な写真は撮れなくても良い写真が撮れればいいんです……だからやっぱり、写真は一生続けると思います。
専門学校日本デザイナー芸術学院写真映像科の皆さん、各大学写真部の皆さん、ありがとうございました。私が写真部だったのはもう25年も前のことになりますが、写真好きとして皆さんのこれからの活動を応援しております。また写真展があればお伺いしたいと思いますので、頑張ってください。終わりで~す!
2月20日、せんだいメディアテークで東北工業大学産業デザイン学科の卒業制作展を見ました。
東北工業大学というのは私の兄の母校です。今から25年ほど前の話になるのですが、センター試験経由で東北工大に入学した兄は優秀な成績で同大学を卒業、IT系の企業に就職し現在に至るまで自動車の制御システムとかカメラの制御システムとか、最先端のテクノロジーに関わる人類として活躍しています。
当時中学生~高校生だった不肖の弟はそんな兄のいる仙台に何度か遊びに来たことはありますが、私自身は特に関係性がないんですよね。まったくの門外漢です。文学部上がりだから文系理系の段階で異なるし。
しかも私がエレベーターを降りた時は学生のプレゼンテーションが行われているところで、とっても厳粛アカデミックな雰囲気であり、私なんかが来るところじゃなかったんだ! って言って逃げ出そうかと思いました。
しかしながらエレベーターを降りた時点でこの格好でしたから、この卒展しかやっていないフロアに来て何もせず引き返したのではいよいよ不審がられると思い、
「こうして誰でも見られる場所だから来ましたが何か?」
という『門外漢の気安さ』(河合隼雄先生)で冷静を装い受付を済ませ突入しました。
およそ社会活動の役に立つ見込みがなさそうな文学と違って、産業デザインというのは直接世の中の仕組みを作る学問であると思いました。
「科学は人の生活を助ける」
これは90年代の名作ゲーム『メタルギアソリッド』の登場人物の台詞ですが、きっとこういう学問をしている人たちは、そんな思いでやっているんだろうなと思いました。実際、皆さんの研究成果は私たちが生活しているなかで苦慮する問題を解決するために「こうすれば何とかなると思います」といって編み出したようなシステムばかりで……
「やはり私が生きている世界というのは、こういうことを一生懸命に創ろうとする人たちによって創られているんだな」
そう思いました。
そういった人たちの真摯な研究成果がたまたま2024年現在の最新心的外傷(キーワード『VRChat』)にクリティカルヒットし一瞬死にたくなってしまったとしても、それは全く私の個人的な問題であって、良いんですよこれからの時代はVRChatなんです。人類みんな肉体廃止してメタバースの世界で在りたい私を生きればいいんです。私なんかはずっと憧れながらいまだに踏み切ることができなくて……だからもう、みすみんサンと交わる資格なんかないのかもしれないって思っていて……このまま肉体が朽ち果てるまで生きながらえるしかないんですが……私はそれでいいと思います。元々交わることができなかったのだから、なにも悲しむことは無いんです……これでいい、これで……。
*
先日、河北新報で「現代学生百人一首」というものが紹介されましたが、その入選作品として宮城の大学4年生が書いた一句が紹介されていました。
「天才もAIももう足りていてそれでも私は美術を学ぶ」
そういう若い人がいるのなら、私は応援します。綺麗な美術作品を生成AIが描いたとしても、美術作品を見て私が感動するのは技術的な巧拙だけではなく「それをどんな人が、どんな思いで描いたか」であって、そういう意味で人間の「美術家」というのは永遠になくなることはないと信じているからです。
一方で「科学は人の生活を助ける」ということも私は信じています。だから今回の卒業制作展で見た学生の皆さんが、これから先の世界をもっと良くしてくれることを信じています。多くの「生きづらさ」を抱えている人たちがその「生きづらさ」を軽減し、より幸せになれるように……若い皆さんが自分の一等得意な方法でアプローチして、これからの世の中を作ってくれることを祈っています。私もそのために、いま自分ができることをします。
東北工業大学の皆さん、ご卒業おめでとうございます。私は私で自分ができることを頑張りますから、みなさんも頑張ってください。終わりで~す!(三四郎小宮さん風祝辞オチ)
大手町にあるGallery TURNAROUNDで「にがつのねこといぬ」展を見てきました。
これは2月のはじめ、「私の推し展」を見た時に開催のことを知りました。当然の如くポストカードもいただいてきたのですが、今になって見てみると、私が色んなイベントで出会い好きになった人が何人もいらっしゃるんですよね。
昨年10月のアンデパンダン展で初めて作品を拝見し、12月のブックハンターセンダイではご本人に感想をお伝えすることができた「かくらこう」さん、仙台藝術舎/creekの成果発表展で見て作品とその制作主旨に共感し手書きの感想を残してきた「イトウモモカ」さん、そして『胎に刺さったリボン』展~東北生活文化大学の卒展と続けざまに見て「女性性」に共鳴した「さかいふうか」さん……いずれも私が大好きな人たちです。
何でしょうね、こう、「道中で出会った仲間が最終決戦前に再集結してクライマックスになだれ込む」みたいな……ここ半年くらいの美術遍路旅の、ひとつのマイルストーンになりそうだと思って……開催期間ギリギリになりましたが、何とか馳せ参じました。
*
実際に行ってみてどうだったか。「イトウモモカ」さんと「さかいふうか」さんの作品はパッと見て「ああ、これだ」とすぐにわかりました。眺めていて幸せな気持ちになりました。その一方でこのようなテキストも読みました。
保護猫の問題というのはテレビCMなどで見て「そういうのがあるんだなあ」という知識を入れ込む程度に過ぎなかったのですが、実際の地域住民にとっては非常に難しい問題であることを知りました。私なんかは猫好きだから、ニャアニャア鳴いているのを見るとつい餌付けのひとつもしてやりたくなるものですが、そうすることによって「望まれない命」が増えるのであれば、これは厳に慎むべきでしょう。だからと言って片っ端から駆除すればいいのかというと、十和田にいた頃に殺処分される動物たちの話を見た私としては「そんなわけないだろう」と全力で反対します。
ではどうすればいいのかというと、「猫好きにも猫嫌いにも『気にならない』存在」として生活してもらう……望まれない命が殖えることないよう去勢する……つまりこの保護猫活動というのが、人類/猫類の共存の道であると私も考えます。そういう思いに賛同したので、今回も「かくらこう」さんの本を買って賛同の意志を示しました。会場の写真も撮ったつもりだったのですが、良い感じの写真がなかったので文章で説明させていただきます。
今日は猫の日(にゃんにゃんにゃん)。私が行ったのは会期最終日(20日)でしたが、アートとブンゲイ、両面から大好きを楽しむことができて良かったです。Instagramにも「会場に行った証拠」として写真を上げましたが、それが上記のテキストを2枚に分けたものだからたまりません。「さかいふうか」さんの絵の写真でも共有すれば「いいね」がつくのかもしれませんが……もとよりとってもパーソナルな楽しみですからね。知らない誰かと気持ちを共有したいと思わないこともないのですが……だから「ああ、会場に行ったんだな」ということがわかればいいかな、という程度の投稿はしてみたものの……もう、私なんかがそれをSNSで伝えたって誰にも伝わらないと思うんです……描き手に感想を伝えたいなら会場に行って直接(アンケートを書くなどして)伝えれば済む話だし。「さかいふうか」さんは3月に個展があるから、またその時に感想を伝えられればいいかな。
おまけ【本日のコーデ】
今日は久々にパンツルックでお出かけました。正直暑いのか寒いのかよくわからなかったので薄手のバックボタンブラウスと、使い道が今一つよくわからなかった「ビスチェ」というのを着用……これに例のダウンジャケットを合わせてみました。出先で写真を撮影するのを忘れたので、家に帰ってきてから撮影しました。
ちょっとビスチェの使い方が分かった気がします。これから春夏コーデも考えていかなければなりませんからね。まずは色々試してみます。
これは『胎に刺さったリボン』展を見に行った時、「隣で何かやってるし、せっかくだから見ていこうか」という……そもそも、こういう企画展が行われていることも知らなかったので、本当にそんな感じでした。ただ、切っ掛けがどうであったかというのはあまり意味がない話ですよね。
「来た、見た、良かった」
いま私がそう感じている。それが現下最も緊要なことですから。
なぜグループ展「足跡」を開いたのか
この「足跡」というグループ展は授業作品を展示するために開いたもので す。
開くきっかけとしては、授業で描い た作品は大抵講評を受けたらそこで作品が終わってしまうことに虚しさを覚えたからです。授業の作品はほぼ特定の先生方に見せ、ある程度の基準と無意識に作用する好みで評価されます。 先生方から高評価を受けることは簡単ではありません。しかし、だからと言って自分が制作した作品が1から10までダメだったのか魅力がないのかというと決してそうではないと考えています。必ず私の制作した絵によさはあるはずだし、好いてくれる人もいると思 います。そんな人と私の作品を結ぶ機会をつくるために企画しました。ありがたいことに今回、この気持ちに賛同してくれてる人が13人集まりました。 特に一緒に企画を進めてくれた佐藤みのりさんには感謝しています。
この企画を通して誰かに頼ることの 大変さと心強さを知ることが出来たよ うに思います。
今後、改善していきながらもこの 「足跡」を続けていけるように、より一層邁進していきますのでどうぞよろしくお願いします!
東北生活文化大学
美術表現学科2年 木俣佑実子
良いと思います。特に私みたいな「自分で絵は描けないけど、こうして絵を見て回るのが大好き」な人種にとっては、とてもありがたい企画だと思います。なまじ美術の素養がないからこそ、門外漢の気安さで好きなように絵を眺め、思い切りその内容を好きになって……そんな感じで片っ端から写真を撮りまくり、今こうして振り返りながら記事を書いています。
作品のモチーフは本当、描き手によってさまざまで……植物・動物・人物・風景また油絵に漫画イラストそれからレリーフなどなど、とってもバラエティに富んでいました。また一部の作品にはこうして内容に関するステートメントがあって、作品の理解と想像力の強化に役立ちました。アートとブンゲイ、どちらも大好きなので、こういう言葉による解説はありがたいです。
なお、こちらの絵についての感想としては、このようなものでした。
「全体に暖色系の色合いが血の温かさを感じる。血が通っている人間の息遣い」
大体、描き手の松山さんも同じようなことを言っているので、全く的外れな見解ではないでしょう。良かった。ただし絵の中で何人もの人間がいることに気づいたのは後日写真を眺めなおした時でした。絵って、あまり近すぎても理解できないものなんですね……失礼しました。
もう一枚ピックアップしたいのがこちらの絵です。……この絵を見た時、いわゆるデジャヴュ(既視感)を感じたんですよね。
思い出せないけど見たことがある気がする。何でだろう。……
その答えは、絵の隣に描き手の大沼新季さんが添えてくれたステートメントにありました。
!!!
……そういうことだったのです……まさか仙台で、このタイミングで開運橋を見ることになるとは……なお、この絵に関しては以下のような感想を持ちました。
「見覚えのある景色にデジャヴュを感じた。そうこれは開運橋だ。でもそれを信じることはできなかった。薄暗くて不確かな世界に若干の不安感があったからかな。眼鏡とサンゴ、死のイメージとタイトル。(描き手が)自分で『説明しなきゃわからない』って言ってるんだから、わからなくても仕方がないけど……」
仕方がないけど、これでいいんです。テキストを読んで対話して、絵の内容に対して理解を深める。文芸オタクにとっては非常に嬉しいです。
こんな感じで、特に求められていないのにわざわざ記名して感想を書き込んだほか、会場にいらっしゃった女の子にも直接感想を伝えました。そうしたところその子から「可愛い服装ですね」と言われて……人生で初めてファッションを褒めてもらえた(しかも女性に)のがメチャクチャ嬉しかったのです……!
その子が言うには、前日にはメイド服姿の男子学生がいたみたいで……何やら、そういう服装が好きな人がいるみたいです。ということはやはりセクシュアルな問題ではなく、ファッショナブルな観点から可愛い服装を身に着けるのはいいことであり、私の服装もある程度の水準をクリアしていたんだ! ということを知りました。これは私にとって最も難しい……私自身が可愛いと思って着るのは自由ですが、客観的に見て可愛いと言ってもらうのは私の意志ではどうにもならないことなので……ことでしたが、その一番難しい実績を達成したことで、自信をもって可愛い服装で出かけることができるようになりました。
そんな感じで、私にとっては人生で最も嬉しい体験をした一日でした。
木俣さん、私にとっても今回の「足跡」展は非常に素晴らしい機会でした。またこのような機会があれば伺いますので、ぜひともよろしくお願いします! ありがとうございましたあ!
追記:
2/2に行った時は先に挙げたように可愛い服装で出かけたのですが、その時に大沼さんの作品に関する感想を書き忘れたことに気づき、仕事帰りに男性の格好で行ってきました。その際にメイド服の男の子がいれば良かったんですが誰もおらず……その代わり会場(SARP)の方が来て、ご挨拶をさせていただきました。実は前日、可愛い服装で隣の会場(「胎に刺さったリボン」展)でお会いし「可愛い服装ですね」とお褒め頂いていたのですが、もしかすると別人物だと思われていたのかもしれません。そのため改めて「胎に刺さったリボン」展を見て感想を伝え、同展の描き手(トキワさん、かんのさん、さかいふうかさん)も出展している東北生活文化大学の卒展に関する案内を頂いたのでした。そうなるとギャラリーには男性の格好で行った方がいいのかな……せっかく顔を覚えてもらったのだから……ただ、可愛い格好をして行ったから1日に2人もの女性から服装を褒めてもらえたのだし……いやはやどうしたものか。
さる2月10日、仙台フォーラスで開催された仙台藝術舎/creekの成果発表展を見てきました。
絵画、写真など色々素敵なものがありましたが、その中であえてこれを取り上げてみます。というのは、このステートメントを見て、かなり色々考えこんじゃったからです。その考えこんだ結果を私なりにまとめて形にしてみたいと思ったからです。私だって文章で自分の考えを表現することを20年以上やってきた人間だからです。
全文をきちんと掲載したうえで、私が特に気になった部分を引用します。
……無責任な手癖で運用されているメディアのあり方に疲労感を覚える。……マスメディアによる雑な報道は言うまでもなく、マスに属さないメディアが「適当でも速報性があれば良い」と持て囃される現代においては、編集を学ぶ意欲すら削がれる。
マスに属さないメディアとは、ニコニコ動画やYoutube、ブログ、SNSをはじめとした誰でも情報発信できるものを指す。せんだいメディアテーク(以下・smt)の言葉を借りれば「草野球」的なものだ。堅く言えば、市民メディア。その市民によるメディアも商業的な手垢がつきすぎた。
私はそんなものより、学生自治寮の壁の落書きや張り紙の方がよっぽど純粋な事実であり、本来の草野球的な市民メディアなのではないかと捉えた。クローズドではあるものの、形式にとらわれず学生生活を送る中での叫び、遊び、学びを残しておくことに純粋な美しさを感じる。その純粋さは大衆性、専門性の外側にある限界芸術のような趣がある。
反発というと少々語弊がありますが、一応ブログをやっている人間として「そんな言い方しなくたっていいじゃない!」と言いたくなる気持ちが起こったのは事実です。でも、そんな脊髄反射みたいな言葉は直ちに叩き伏せて、何度も文章を読み返し、「本当は、私はどう思っているのかな」ということを丁寧に問いかけました。
……なのでこれはあくまで私の感想です。正しく文章を理解できたか自信がないのですが、とにかく私はそう思った。私は感情家なのでそう思ったことを書きます。
まず『無責任な手癖で運用されているメディアのあり方に疲労感を覚える』というのは、私も共感できます。何かあれば視聴者からの投稿動画を垂れ流す『マスメディアによる雑な報道』を見ていると、わざわざテレビでニュースを見る必要がないんじゃないか……という気がします。
また『マスに属さないメディアが「適当でも速報性があれば良い」と持て囃され』ているな、というのも、そうだよねと思います。そういうのがあまりにも嫌すぎて、最近は動画サイトもSNSもほとんど見なくなりました。Instagramに関しては、最近アート系の人たちをポツポツフォローすると同時に「ちゃんと実体のある人間ですよ」ということをアピールするため一日一枚ずつ全然フォトジェニックでも何でもない写真をアップロードしていますが、その程度のものです。
SNSで世の中の動きをキャッチしようとか、そういうことを考えていた時期もありましたが(ブログの記事が極端に少ない時期があるのはそのため)、そういうのに疲れ切ってしまったので現在はやめています。
『市民によるメディアも商業的な手垢がつきすぎた』というのも、「そうかもしれない」と思います。『そんなものより、学生自治寮の壁の落書きや張り紙の方がよっぽど純粋な事実であり、本来の草野球的な市民メディアなのではないか』と言われて、ただちに「そうだ!」というには、私はあまりにも素人すぎるのですが……強く感情が揺さぶられたのは事実です。SNSの百万言よりも、よほど心に響くんです。
個人的な体験のアーカイブから一番近いものを探ってみると、限られたコミュニティの中で秘密を共有する愉しみでしょうかね。大衆受けするわけでもなく、極端にわかりづらいわけでもなく……そうか! それが『大衆性、専門性の外側にある限界芸術のような趣がある』『純粋な美しさ』ということなのかな!
今、ようやく自分の中でカチリとかみ合った気がします。ステートメントを読んだだけではなく、実際の展示内容を見ただけではなく……理論だけじゃなく、感情だけでもなく……それらが和合してようやく腑に落ちました。「そういうことじゃないんだけど!!!」と出展者の赤瀬川沙耶さんに怒られてしまうかもしれませんが、とにかく私がそう感じてたどり着いたのがそういうことだったので、大目に見ていただければと存じます。
最後になりますが、私だって20年以上ホームページとかブログとかで自己表現をしてきた『市民メディア』の人間ですから、やっぱり文章による市民メディア活動は続けていきます。速報性よりも自分の感性を大切にし、バズるとかエモいとかバエるとかって流行の言葉とは最も縁遠い文章。
一言でまとめると、私も「消費されない文化」を求め、これを作りたいのです。
特別企画:消費されない文化
この言葉、何度かブログの中で書いているんですが、そうやって繰り返しているうちに自分の中でも重要なテーマになってきました。大量生産大量消費の時代であり、そういう大きな流れは止められなくても、そんな中に竿を差して旗を立ててみたい。流されて溺れそうになってもまた浮き上がって旗を立ててみたい。
それが私の自己表現です。絵を描くように、歌を歌うように、私は文章を書きます。
*
いっぺんに考えをまとめて書き出すことは難しいです。だから私はこうして少しずつ書いていきます。こうして積み上げながら、自分の『在りたい私』を組み立てていければいいかな。スプリントじゃなくてエンデュランス。ひとつ同じ場所で18年も続けてきたんですから、20年25年30年……NISA並みのロングディスタンスで書いていこうと思います。こうして日々を大切に生きていければ。
今月は亀井桃さんの個展を皮切りに、東北生活文化大学の皆さんのものを中心に多くの美術展を見ていますが、その感想をまずはノートに手書きでまとめてから、こうして記事にしています。出先で急いで気持ちをメモするためだったり、【ユ、六萠】さんと【ペロンミ】さんのノートを見て「私も真似してみたい」と思ったからだったり、切っ掛けは色々ありますが、今回こうして書き出してみると、意外なことに気づきました。
文字を書くだけでも、手を動かして書くとそこに感情が乗るんですよね。最終的にはこうしてゴシック体でまとめられるんですが、そこに感情が乗るということは、自分が感じたことが少しだけ精緻に表れるということです。私は感情家であり感じたことを可能な限り文章で書き出すことを目的にこうして文章を書いているので、これはとても大切なことです。それによって、後で清書する時も振り返りが容易だったのです。
同じようなことを、昨年帰天した伊集院静さんがおっしゃっていました。河北新報夕刊のコラム「河北抄」です。
河北抄(2024/1/20)|河北新報オンライン
いわく「筆記用具の感触や筆圧も創作に影響する」とのことで、手書きで原稿を書くことにこだわっておられたそうです。そういえば、矢川澄子さんも手書き派の方だったように記憶しています。
記事の中で、特に私が心を打たれたのは下記の言葉です。記者が字の拙さを恥じたところに言われたところ、こんな風に言われたそうです。
“字が下手でも構わないんだ。とにかく丁寧に書くことだ。何事も誠実さが肝要なんだよ”
この言葉を読んだ時、文字を書くことに限らず日々を生きることそのものに対して実直であろうという気持ちがわいてきました。特別なことがなくても、現在をしっかり生きていく。手書きのノートとこのブログを基礎にして、SNSとか何とかも少しずつやりながら……反応がなくても何でも毎日続けていれば、いつかいいことがあるさ……そんな感じでやって行こうと思います。
(会場内のステートメントより)
グループ展 テーマ「自分の推し」
現代では「推し」という言葉、文化が流行っています。この言葉は2000年代初頭から使われており、最初は日本のアイドル文化が始めであるとされています。今回はその「推し」にフォーカスを置いてみました。
今回の展覧会では推しをただ描くのではなく、「推し」から連想(マインドマップ)をして、推しそのものを書かないようにしています。そうすることで、作品を見た人たちにこれは何だろう、誰だろうという謎解きのようにすることで作品をじっくり見てもらい、推しているモノを知っていたときに、共感や関心を得れて、自分とは違う視点を知ることができると考えました。
これの開催を知ったのは、たぶんフォーラスの7階にあるギャラリーで告知ポストカードを見た時だったと思います。その日は亀井桃さんの個展を見るのがメインで、これを一通り楽しんだ後に、「どんなものかね」「今年に入ってからまだタナラン(GALLERY TURNAROUND) に行っていないし、ちょっと見てみようかな」という……結構軽い気持ちで見に行きました。
こちらのグループ展ではみんなが同じサイズのキャンバスに描き手の「推し」を表現したものがずらりと並べられていました。わざわざこうしてステートメントの内容を書き出したのは、会場で一度読んだだけではちゃんと理解できていなかったからです。タイピングとはいえ、こうして自分で言葉をしっかりなぞってみることで、「そうだったのか……」ということが理解できました。とりあえず全作品を写真に撮ってきたので、記憶と合わせて改めて振り返ってみたいと思います。せっかくなので皆様も一緒にお付き合いください。
先ほどのステートメントにあったように「推し」を直接書かずに連想イメージを表現した作品は、シンプルだったり緻密だったり可愛かったり格好良かったり明るかったり暗かったり……数が多いのでそのすべてを紹介することはできませんが、ひとりひとりの「推し」に対する表現の違いを眺めるのはとても楽しいものでした。描き手が推しているモティーフが何なのか? そのものを当てることは難しくても、それが何であるのかを想像することが、このグループ展の愉しみですよね。
一通り眺めてみて、自分の好きなものをいくつかピックアップしてみると、私の心が浮かび上がってくるようでした。動物とダークファンタジー的なもの、それに可愛いもの、優しい雰囲気のもの……私の自我と影が、これによって映しだされたようです。
鏡みたいなものなんでしょうね。でも肉体に覆われた心は、三島由紀夫さんが言うところの「林檎の芯」であり、鏡に映しても見えてこないから、それを表現するためには自分で書くか、服を着て表現するかないと思っていましたが……こうして誰かに描いてもらったものに共感するという形でも浮かび上がってくるのかな……なんて、振り返りながら思いました。せっかくアートを見たんだから、私だってそのくらいのこと思ったっていいですよね。
またこうして、作品を見る機会があれば行ってみたいと思います。良いと思います!
*
これは「私の推し展」とは少し離れますが、この日タナランに行ってみると、一昨年の11月に開催された門眞妙さんの個展『まあたらしい庭』の図録がありました。前日(2/1)にお披露目になったばかりとのことで、亀井桃さんの図録に続き問答無用で即買いしました。私が仙台に来て初めて見たアートなイベントで、現在に至るまでのアート好きの原点なので、とても嬉しいです。門眞妙さんについてはこのブログでも何度か触れていますが、2度もお会いすることができて本当に幸せです……その時はまだ女の子の格好をしていなかったので、やはりギャラリーには男性として行った方が良いかな……今の私を見てもらいたいという気持ちよりも、ちゃんと気づいてもらいたいという気持ちの方が強いので……。
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多分2/2は私の服装を可愛いと言ってくれたことが嬉しすぎたのでしょう。撮りためた写真を振り返っていると、せんだいメディアテークで開催されていた「日本デザイナー芸術学院」の卒展の写真がありました。完全に記憶が抜け落ちていました。
大学と専門学校、アートとデザイン。いずれにしても私は門外漢なのでどちらがどうとか言えるような身分ではありませんが、よりポップで万人受けしやすいというのは事実ですよね。多分専門学校というのはそういうものだと思うので、深い感動を受けた作品というのは少なかったのですが、それでも「ヘェー、こういうものなんだ」というのを一通り眺めてみて楽しみました。せっかく写真を撮ったので、その一部を紹介し今日の記事としたいと思います。
イラストレーション科・加藤心奈さんの作品でタイトルは「Flyby Girl」。宇宙が大好きで、宇宙に夢見る少女をモチーフに制作された作品です。様々な夢が浮かんで憧れの空に広がっていくような雰囲気が素敵です。良いと思います!
あとは……そうですねえ……あんまり写真を撮っていなかったんですよね。そういうものを勉強するための学校だから当然なのですが、ポップで受け入れやすい代わりに心にも残りづらかった……「ああ綺麗だねえ」「可愛いねえ」と思うものの、すぐに消えて次のものに移ってしまう……そんな感じです。pixivとかで可愛いイラストを眺めるのとあまり変わらないかな、と。
そんな中で私が立ち止まり「おおっ!」と思ったのは、写真映像科の皆さんの作品です。私も素人なりに写真が好きな人類なので、やはり感じるところがあります。
特に気に入ったのが小形真央さんの『私たちは』という作品です。他の人のところを見ると仕様ソフトにphotoshopとか何とかって書いていて、「やはりデジタル的な加工をするのが今時だよねえ」なんて思っていたのですが、こちらの作品の使用ソフト欄には「Nikon F3」とだけ書いてありました。
これは良い! と思います。私もフィルムカメラ上がりですから、この時代にあってニコンF3で写真を撮って作品に仕立てるとは! とすごく嬉しくなってしまいました。残念ながら写真撮影不可の作品だったのでそれを紹介することはできませんが、代わりに私が書いた感想を(誰も求めてないとは思いますが)。
最近はXを休止している代わりにあちこちのイベントに参加し、特に名前を求められていないのに名前をばらまいています。本名と(佐藤非常口@仙台)と併記したり、佐藤非常口だけで名前を残していったり。別に名前を売りたいわけではなく、しっかり自分の言葉に責任をもって感想を伝えたいという真摯な思いからそのようにしています。
日本デザイナー芸術学院の皆様、ご卒業おめでとうございます。社会で直接役に立つ技術を習得するのが専門学校だと思うので、これからのますますのご活躍を祈念いたします。以上で甚だ簡単ではありますが、お祝いの言葉とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。
(今年2度目の祝辞風シメ)
せんだいメディアテークで「東北生活文化大学美術表現学科 卒業制作展」を見てきました。……ということで最近見た美術展についてピックアップしてみます。
1.「私の推し活展」4期生によるグループ展 Gallary TURNAROUND
2.「足跡」美術表現学科2年 木俣佑実子さんと有志13名 SARP
3.『胎に刺さったリボン』 三人展 SARP
4.「東北生活文化大学美術表現学科 卒業制作展」せんだいメディアテーク
3.の三人展『胎に刺さったリボン』の出展者であるトキワさん/かんのさん/さかいふうかさんも4.に出展していましたから、これらはみんな、東北生活文化大学美術表現学科の皆様によるものだった……ということになりますね。
それを盛岡大学文学部英米文学科(平成17年に英語文化学科に名称変更)出身で美術の勉強は中学で辞めてしまった(最終成績「2」)私が見る……これはアンデパンダン展以来の、仙台市内の各ギャラリーを舞台とした全面戦争……じゃなくて異文化交流みたいなものかもしれませんね。「自分で絵筆をとることはないけど見るのは大好き」っていうのは、やはり私が大学をギリッギリの成績で「とりあえず卒業させてもらった」というコンプレックスがあるのかもしれません。
自分にはできないもの、できないこと、でもやってみたいということを代わりに表現してくれる……それは今回に限らず、すべての私が大好きな美術家の人たちに対しての気持ちではありますが……そういうものをたくさん感じることができました。
自分が好きなものを自分の技術で表現する。色使いも筆使いも自由自在で真っ白なキャンバスに描かれたそれぞれの作品は、見るたび私に新鮮な刺激を与えてくれました。それが抽象画であれマンガ・イラストであれ人形であれ(※)、いずれも素晴らしい作品です。そのたびに心が元気になりました。
そして、ちょうど20年前に私が体験した「学生からの卒業」というものを、ようやく自分のものとして受け入れることができた気がしました。
当時の私はとにかく現実から目をそむけたくて……就職先も決まらないし卒業できるかどうかもギリギリだし……本来であれば自分が打ち込んできた勉強の集大成たる卒業論文も、「とりあえず出さなきゃ卒業させてもらえないから出しました」という、ひどく出来の悪い代物だという自覚があります(といっても、それが私の精一杯ではありましたが)。
それに対してこの卒展に作品を出している方々は、全部でどれほどの学生がいるのかわかりませんが、そういった人たちの中でも選りすぐりの方々なのでしょう。
これで終わりにするのか、まだ続けるのか。もちろん私にそんな決定権はありませんが、「学生からの卒業」というものは意外と重たいものなんだな……と、20年経ってようやく腑に落ちました。
……そうか、私が卒業したのは2004年だから、ちょうど20年前だったんだ!
いまこの文章を書きながら、そのあたりのピントが合いました。
中途半端な気持ちで卒業してしまった私の心を救ってくれたというと大げさかもしれませんが、でもいいです。私は発達がちょっと緩やかで片寄っている人間なので、心を前に動かさなければいけません。
住む場所を変えるとか仕事を変えるとか、そういうことだけじゃない心の成長。この2年間少しずつ動かしてきて、ようやく20年前のモヤモヤしたところまで手が届くようになったのかな。これも私が心を開いてたくさん栄養をつけたからであり、そういうチャンスを与えてくれた皆様のおかげです。
色々と感動が大きすぎて、上手に言葉にするには時間がかかりそうです。とりあえず今日は甚だ簡単ではありますが、卒業される皆様にお祝いの言葉を申し上げます。卒展に出展された方もそれ以外の方も、新たなステージで生きていくことになろうかと思いますが、また別な機会にお目にかかれれば嬉しいです。東北生活文化大学美術表現学科の皆様、ご卒業おめでとうございます!
(「仙台市、佐藤非常口@仙台さまより祝電を頂戴いたしました」)
※ アンデパンダン展で見てひどく心を奪われた「鵜坂紅葉」さんの作品も実は美術表現学科の学生だということを今回の卒展で知りました。見つけた時は「あっ!」と声を上げそうになりました。まさか、もう一度お目にかかれるとは思っていなかったので……本当に嬉しかったです……。
2月2日は私にとって久々の「アートまつり」な一日でした。アートとはちょっと違うところも含めて、同じ日に行きたいところを思いきり回ってきたので、まずは大まかな流れを書きます。
1.宮城野区榴岡のパン屋さん「あさひるぱん」
2.榴岡天満宮でレース模様が可愛いお守りを購入。鯛と記念撮影。
3.仙台FORUSで亀井桃さんの個展「ぷりずむ」を見た。古本屋で本を買ったら特別なクリアファイル(ノベルティ)をもらった
4.TURN AROUNDで「私の推し活」展を見た、前日におひろめになったばかりの門眞妙さんの図録を購入
5.仙台緑彩館で昼食。フォレッピがまだ生きていた!
6.SARPで展覧会2連発。この会場で美大の学生の女の子から「お洋服が可愛いですね」と言ってもらってキャー! と嬉しい悲鳴。昨日はメイド服を着た「男の娘」がいたらしい。隣の三人展でもお店の人から「可愛いですね」と言ってもらえた。
7.帰宅。写真を整理したら今日は180枚くらい撮影していた。
この日の総歩数は20147歩、歩いた距離は16キロくらいといえば、どれだけ私が歩きまくったかお分かりいただけるかと存じます。いずれも素晴らしいイベントで、特にも……ね。私のコーデを「可愛い」と女性に言っていただけたのは、とても嬉しいです。
それぞれのイベントについて個別に書くかどうかはまだ未定ですが、今回改めてアートに触れて思ったことは、
「私にできないことだからこそ、純粋にこれを受け入れられる」
ということです。美術に関しては中学を卒業した後全くご無沙汰なので、余計な理屈がわいてこない。技術的なことがわからない代わりに、私が「どう感じたか」を言語化する……それが私のアーティストに対するアンサーです。美術をやっている人が絵画や彫刻で自分の感情を表現するように、私は文章でこれを表現するんです。門外漢の気安さで、感じたことをそのまま書く。河合隼雄さんのマネですが、これがなかなか楽しいのです。
アートを見て感情を揺さぶられることは、私にとって「生きること」と同じ意味のことです。だから私はアートに心が救われたといいます。そしてこれからもアートをたくさん食べて、心を健やかに保ちたいです。
「アート・ブンゲイ・アナログハート」を旗印に掲げてブログをやっている手前、やはりアート系のイベントには積極的に首を突っ込みたいと思い日々を生きているのですが、この「MACHIYART-エニナルモリオカ-」というイベントについては、たまたまコンビニで買った地元紙「盛岡タイムス」の小さな記事により知りました。「盛岡を表現した絵画、版画、写真の小作品を展示……」という短い紹介文に興味を持ち、「どんなものかね」と思って行ってみた。そんな感じです。
最初に数点の絵画を見て、「ほう、これか」と思ってみていたのですが、どうやらそれは勘違いであることに気づきました。私が目当てにして行ったものとは別に開催されている「盛岡市所蔵美術品展」だったのです。通りに面した正面玄関から堂々と突入すればよかったのですが、わざわざ裏口から潜入したものだから、こういうポンスケをしてしまったのでしょう。粗忽、粗忽。
裏口のギャラリーからカフェと売店へ。全体的にレトロ感あふれる雰囲気のなかをうろうろしていると、ひときわ目を引く可愛らしい女の子のイラストが飛び込んできました。
具体的にどんな感じで飛び込んで来たのかを記録したものがこちらです。……そう、岩手で活躍するイラストレーター「滝沢市葉」さんのイラスト集でした。他にもクリアファイルなんかもありましたが……滝沢市葉さんは私が大好きなイラストレーターなので即座に購入を決めました。今月は服を爆買いしたり新年会で散財したり2度の来盛に伴う交通費を支払ったりときわめて厳しい財政状況なんですが、門眞妙さんや亀井桃さんと同じくらい大好きな作家なので買わない手はありません。すべてに優先するのです。大好きな気持ちが強すぎるので滝沢市葉さんに関しては後ほど改めて書きます。そういうわけで話題を進めます。
*
「ああ、こっちが会場だったのね」と別棟の方に移動し、本格的に「MACHIYART-エニナルモリオカ-」を見ました。作家によってデジタルイラストあり鉛筆や水彩画があり写真やコラージュ作品あり……本当にバラエティに富んでいました。滝沢市葉さんのイラストが2点もありキャー! と快哉を叫んだり、昨年10月に仙台のアンデパンダン展で見て腰を抜かした村井康文さんの作品があるのを見てまたもや度肝を抜かれ、さらにさらに……色んな良さを大盛り特盛りメガ盛りで感じ取り……本当に盛岡という街って素晴らしいなあ……と。大変な満足感を胸に会場を後にしました。
やっぱり盛岡って、誰にでもわかりやすい、これ見よがしの観光名所らしい観光名所がないのが魅力なんですよ。だから、それを目指して一直線に突撃し、記念写真を撮って、また一目散に立ち去る……という観光には向かない。街並みとか、実際に歩いて眺めまわして「気づかない」と、たぶん盛岡の良さってわからないのかも……って思うのです。
皆さん、盛岡に来たら、ひたすら歩いてください。ガイドマップとか街の案内板とかを見て、面白そうと思ったら、そこまでのんびり歩いてください。その道程、その途中の景色が盛岡のいいところなんです。ハッキリ形はないけれど、確かにある「雰囲気」が盛岡のいいところなんです。
ううん……今の私は仙台が大好きですが、盛岡も改めて大好きになりました……このくらいの距離感だから、ピントが合うのかなあ……。

最初に数点の絵画を見て、「ほう、これか」と思ってみていたのですが、どうやらそれは勘違いであることに気づきました。私が目当てにして行ったものとは別に開催されている「盛岡市所蔵美術品展」だったのです。通りに面した正面玄関から堂々と突入すればよかったのですが、わざわざ裏口から潜入したものだから、こういうポンスケをしてしまったのでしょう。粗忽、粗忽。
裏口のギャラリーからカフェと売店へ。全体的にレトロ感あふれる雰囲気のなかをうろうろしていると、ひときわ目を引く可愛らしい女の子のイラストが飛び込んできました。
具体的にどんな感じで飛び込んで来たのかを記録したものがこちらです。……そう、岩手で活躍するイラストレーター「滝沢市葉」さんのイラスト集でした。他にもクリアファイルなんかもありましたが……滝沢市葉さんは私が大好きなイラストレーターなので即座に購入を決めました。今月は服を爆買いしたり新年会で散財したり2度の来盛に伴う交通費を支払ったりときわめて厳しい財政状況なんですが、門眞妙さんや亀井桃さんと同じくらい大好きな作家なので買わない手はありません。すべてに優先するのです。大好きな気持ちが強すぎるので滝沢市葉さんに関しては後ほど改めて書きます。そういうわけで話題を進めます。
*
「ああ、こっちが会場だったのね」と別棟の方に移動し、本格的に「MACHIYART-エニナルモリオカ-」を見ました。作家によってデジタルイラストあり鉛筆や水彩画があり写真やコラージュ作品あり……本当にバラエティに富んでいました。滝沢市葉さんのイラストが2点もありキャー! と快哉を叫んだり、昨年10月に仙台のアンデパンダン展で見て腰を抜かした村井康文さんの作品があるのを見てまたもや度肝を抜かれ、さらにさらに……色んな良さを大盛り特盛りメガ盛りで感じ取り……本当に盛岡という街って素晴らしいなあ……と。大変な満足感を胸に会場を後にしました。
やっぱり盛岡って、誰にでもわかりやすい、これ見よがしの観光名所らしい観光名所がないのが魅力なんですよ。だから、それを目指して一直線に突撃し、記念写真を撮って、また一目散に立ち去る……という観光には向かない。街並みとか、実際に歩いて眺めまわして「気づかない」と、たぶん盛岡の良さってわからないのかも……って思うのです。
皆さん、盛岡に来たら、ひたすら歩いてください。ガイドマップとか街の案内板とかを見て、面白そうと思ったら、そこまでのんびり歩いてください。その道程、その途中の景色が盛岡のいいところなんです。ハッキリ形はないけれど、確かにある「雰囲気」が盛岡のいいところなんです。
ううん……今の私は仙台が大好きですが、盛岡も改めて大好きになりました……このくらいの距離感だから、ピントが合うのかなあ……。
これも11月15日に佐々木美術館&人形館を訪れた時の話なのですが、2階ではまた違った展示がありました。具体的な告知がなかったので、ぼんやり眺めて「ああ、よかったなあ」と言って帰ってきてしまいましたが、今調べてみるとコレだったのかな。
夜の美術館 2023/
うん、そんな気がします。ひとつは映像作家・菊池士英さんとサウンドプロデューサー Ikuko
Morozumiさんとのコラボレーション作品で、佐々木正芳さんの作品が音楽とともに動き出すという一風変わった作品です。実に心地いい作品でした。
そしてもうひとつも、ちゃんと書いていましたね。「東北生活文化大学高等学校映像研究部」の皆さんが制作したショートフィルムが数篇、リピート再生されていました。今日はこのうち、タイトルにもあるようにショートフィルムについての話をします。
*
高校時代は既に前世紀のことであり、むしろ自分の息子や娘がいてもおかしくない年齢でありながら独身者(離婚者)ですからね。それこそこういう機会でもないと見られない作品だし、私の弟者も学生の頃同じようなことをやっていたし。
「さて、どんなもんだろうね」
といって、すべての作品をしっかり見ました。そうしたところストーリィも作り込みも素晴らしくて、ただただ素直に楽しかったのです。その感想についてメモしていたので、それと会場でもらったテキストをベースに、この場でお伝えしたいと思います。瓶詰にして海に流すか風船につけて飛ばした方がまだ伝わる可能性が高い気もしますが(こないだの鉄腕DASHみたいに)、とにかく書きます。
【消しゴムの回想】
あらすじ:消しゴムとして生まれた主人公が自我を持ち、ある女の子に恋をする。友達の虎の消しゴムから、どうやらそれが自分の持ち主だということを知り、拾ってもらう日を待つが、最終的にたどり着いた真実は……。
ちょうどこれが流れている途中で見始めたので1.5回分くらい見たのですが、最初からなかなか面白かったんですよね。主人公は消しゴムなので、別に立って歩いたりするわけじゃないのですが、自我があるから同じ消しゴム同士で会話をするし、誰かを好きになったりもするんです。ファンタジー、とは少し違うかもしれませんが、そういうところから出発するのが面白いなと思いました。エンドロールのNG集もなかなかシャレていますね。こういうの、あんまり最近は見なくなったなあ……。
【かみひこうき】
あらすじ:高校1年生の女の子「翼」は、紙に日時を書いて飛行機にして飛ばすと、その日にまた受け取ることができるという不思議なスキルを持っていた。親友の凛から英語のテストがあることを知らされ、その能力を生かしてテストを乗り切ろうとする……。
ということは配布されたプリントに書いている概要なんですが、それを読まずにいきなり映画を見始めたものだから、いちいち感情を動かされました。そもそも翼は提出しなくちゃいけないプリントをいきなり紙飛行機にして窓から彼方に飛ばしちゃうような女の子なので、とりあえず何が起こってもすべてを受け入れよう! と思って……何か起こるたびに「さて、どうする?」とニュートラルな気持ちで見守っていました。たとい英語のテストでその特殊能力を使おうとしている翼を見て、「そんなことしていいの……?」と心配しながらも、「翼がどんな決断をしようと、どんな道を進もうと、私は見届けよう」と覚悟を決めて見ていたら……最後は未来に希望をつなぐ、何だかホッとするような、明るいエンディングでした。とても気持ちの良い物語だと思います。
【ななし】
あらすじ:ななし様が何なのか知りたいの? それじゃあ教えてあげる。ななし様っていうのは、人々が何とかって願い事をかなえてもらうためにささげたいけにえに取り付くの。いけにえに選ばれた人に取り付くと自由に動けるんだけど、いけにえの身体がもうもたないって時には、ななし様がそのいけにえを食べ尽くして、新しい身体を探し求めるんだって。それがいつ、どこで選ばれるのかは……ねえ?
奇妙な都市伝説を語る親友。そして主人公の女の子に襲い掛かる恐怖。こんなふうに、映像作品を見て怖いと思ったのは、すごく久しぶりな気がします。やっぱり私が「怖い」って思うのは東洋的な……要するに正体のつかめない、何だかわからないものにドンドン追い詰められていく過程なんでしょうね。あんまり残虐描写にこだわったものよりは、こういう薄気味悪い展開の方が怖いです。なお、この映画に関しては、私の言葉であらすじを書いてみました。
【ライアードリンク】
あらすじ:「オレ昨日100万円拾ったんだ」とかって、いつも嘘ばっかりついて面白がっているウソノは謎の男性から「ライアードリンク」っていうヘンな薬を渡される。それを飲むと、自分がついた嘘が全部本当になるっていう触れ込みだが、果たして……
話した嘘が全部本当になるというとドラえもんみたいな話だけど、実際にそうなると結構怖いなと思いました。言葉通り「どんなことでも本当になる」とすれば、嘘をつきたくてもつけなくなっちゃうし、結果的に望まないことになっちゃうかもしれない。だから私は……もし、そういうのがあったとしても、いらないかなあ……って思いました。なんていうふうに、「もしも自分がウソノの立場だったら?」って目線でドキドキしながら最後まで持続できたのが良かったです。その終わり方もまた上手な……本当、世にも奇妙な物語みたいな終わり方で。これは良かったです!
なお、この話は会場でもらったプリントに載っていませんでした。もしかしたら、そんな映画があったって話も、嘘だったのかもしれません。なんてね。
【紙飛行機の少女】
あらすじ:ある日、登校中に紙飛行機を拾ったユウタ。彼はそれが、友達の神木がいつも飛ばしていることを知っていて、尋ねてみる。「お前どうして、いつも紙飛行機飛ばしているの?」それに対する神木の答えは……。
これは本当に真っ当な、さわやかな青春物語って感じですね。夢はあるけど実現のための一歩が踏み出せない神木と、そもそも自分の夢さえ見えず悶々としているユウタ。ただ、そんな友達同士の会話の中で歯車が動き出し、二人が新たなステージに向けて動き出す……うん、本当にまっすぐで素敵な物語です。あと、ユウタは美術部なんですが、白い画布に自分の思いをすべて描きつけるひとは良いなあ、って思いました。どんなものでも、自分の気持ち次第でどのようにでも表現できるんですからね。そう、どのような夢でも自分の気持ち次第なんです……。
……そんな感じでしょうか。最後に、総合的な感想を書きます。
年齢的には本来であれば映画の中の彼ら彼女ら自身ではなくそれを見守る親目線だったり先生目線だったりするべきなのでしょうが、発達が一般の人たちよりもゆるやかな私は限りなく高校生の目線、高校生になった気分で見ていました。いわば、私の高校時代をもう一度やり直すような体験を、東北生活文化大学高等学校映像研究部の皆さんのおかげで、することができました。当時はこんなにさわやかで真っ当な青春を送ることができなかったので、それを取り戻すことができて本当に楽しかったです。
それにしても、どれも本当に素晴らしい作品でした。私は写真の人間なので、映像作品がどのような工程を経て作られるのか全くピンと来ないのですが、少なくともひとりで作れるものではないですよね。俳優も撮影も監督もその他スタッフも……多くの人たちが力を合わせて出来上がったのでしょう。つくづく私に出来ないことをやってしまう皆様には「スゲーなあ」と感嘆するばかりです。
その気持ちをずっと忘れたくないので、今回はこのような形で感想をまとめさせていただきました。とっても良いと思います!
2023年11月15日
佐藤非常口@仙台
(会場内に掲示されていたステートメントより)
個展「砂漠の贈り物」
絵を描くことは手紙のやり取りに似ている。対面の会話に比べて速度は劣るけど、その分、重く、深く、より多面的な気持ちを伝えることができる。私は話す事が得意じゃない。とても苦手。だから絵を描く能力を発達させてきたのかもしれない。そう感じる。
観察がとにかく好きだ。道に生えている植物、街、動き、人、表情、空気、音など、あらゆる物事を観察することが好き。見て、興味を持ったら、そのことについてずっと考えてしまう。「どんな構造なんだろう」「アレとアレに似ている」「以前に観たアレと繋げたらどうなるかな」とか、連想が止まらない。
自分の心を描いている。自画像のようなもの。好きな人の事を想いながらも書く。頭のなかの空想を描いたりもする。これらが描きたい物事の全てという訳では無い。言語化が難しいもの、あるいは出来ないものを絵にするので、こればかりはしょうがない。
あらゆる物事は複雑だなと感じる。複雑な問題を考える事、受け入れる事は、脳にとって負荷が大きい。その分、世の中をフラットに捉える力が養われる。可能な限り、複雑な問題から目をそむけない様にしたい。世の中をフラットに捉えたい。その為に、肉体と精神の健康に気を遣い続けたい。
観に来てくれてありがとう。
みひろ
RAPPIT/みひろさんの個展が開催されることは、例によって告知ポストカードで知りました。一体いつ、どの会場だったか……たぶん仙台写真月間の頃、SARPでもらったんじゃないかなって気がしますが……すみませんよく覚えていません。ただポストカードを見て、その絵柄にひかれて行ってみたというのは事実です。
最初に行ったのが11月15日で、次に行ったのが12月8日。それぞれ異なる企画展を見るために来たのですが、2回ともしっかり、みひろさんの展示も見ました。
会場の様子です。
とりあえず、今こうして振り返ってみると、いわゆるSNS的な個展なのかなと思いました。とにかく分量が多く、画一化されたフォーマット。スマートフォンの画面で一枚ずつ画面をフリックさせるように、膨大な量の絵を眺めていく……そういう個展です。
正直なところ、一度目は……あまりにも量が多すぎて、私のキャパシティでは受容できませんでした。1枚ごとに感じるところはあるのですが、あまりに短時間でこれほどの量の情報を処理することはできず、全体的にどんなイラストがあるかは全部(動画で)撮影したからいいか! といって、消化不良のまま一度目は帰ってきてしまいました。うまく言語化できなかったのも、そういうことかもしれません。
それで今回リベンジというか、ちゃんと向き合って自分のものにしたい! と思って、
「自分が良いと思ったものを10枚だけピックアップしてみよう」
と決めて、2~3度会場をグルグル回って写真を撮りました(結局11枚撮っちゃいましたが)。
アデニウムの花言葉は、ひとめぼれ、純粋な心。
サボテンの花言葉は、枯れない愛、燃える心、暖かな心、偉大。
燕は幸運の象徴。
presentの意味は、現在、在る、贈り物。
(会場内で展示されていたテキスト)
これはと思った11枚の中で、それぞれ特徴的なものを1枚ずつ公開してみました。
みひろさんが「言語化が難しいもの、あるいは出来ないもの」をせっかく絵にしてくれたのに、今度は私がそれを言語化するという試みをしてみようと思ったのですが、いやこれは非常に難しいですね。とりあえず会場でメモした、もっとも生々しい感想を引用してみます。
印象としてはポップで可愛いんだけど優しくはない。爪を立てて心をガリガリガリガリ引っかかれて、皮膚が裂けて血が噴き出してもまだ足りないと言って、今度は鉛筆を突きたてて力任せに引き回されたような感覚を覚えた。……毒がある。その毒はとってもおいしくて刺激的で心にたまってしまうけど、だから忘れられないし、忘れられないのにまた見てみたくなる。相変わらず楽しい。……
神経症というか、もはや精神分裂病のような……かなり狂気めいたことを書いていますが、たぶん本当に「一時的な狂気」に陥っていたんじゃないかな。こないだ亀井桃さんの個展について書いた時、主催者の言葉として「毒気のさじ加減」という言葉があったのですが、みひろさんの絵にはその毒気がふんだんに盛り込まれているような気がします。そして十代の頃から毒薬や劇薬みたいなものを過剰投与して生きて来たから、個人的無意識の方で勝手に反応しちゃうんです。
これが今の私にできる精いっぱいの言語化です。私はみひろさんとは反対に絵を描くことが絶望的に苦手で、何でも言語化しようとする人間なのですが、そんな小賢しい考えを破壊して感情を爆発させてくれる……良い意味で私のことを狂気に導いてくれる……危険なほど波長が合うイラストであったと思います。
あと、「SNS的な個展」と先に書きましたが、さっき気づかなかったこととして……「伝えると伝わる」の距離感がとても近いのかな、って気がしました。描き手の人が表現したいことと、それを見る私の距離感。より近い距離からより刺激的なものをぶつけられたので、私もその分強く反応してしまったのかもしれません。
ひょっとしたらカワイイとかエモいとかバエルとか、そういう、ある意味では分かりやすい感想で言い表すのが適切な種類のアートなのかな。それをこうして無理やり言語化しようとするから、破綻が来て、狂気に至るのかもしれません。
でも、やっぱり私には言葉しかないんですよ。自分の気持ちを可能な限り言語化する。自分でアートは上手にできないから、ブンゲイで自分の気持ちを表現していくしかないんです。だからこういう試みは、これからも続けていきます。そうすることで、私の心にしっかりと刻み込まれて……無意識の闇に放り込まれて手が届かなくなることを防ぐことができるのですから。すなわち、消費されない文化。
ともあれ、とっても素敵な個展でした。一応芳名帳には本名と佐藤非常口の名前を書いたし、インスタグラムにもコメントを出しました。そして今回こうして記事を書きました。これがどれほどの人に伝わるかわかりませんが……ひとりでも多くの人に読んでもらえたらいいなあ……。
あゆみさんの作品の中には「祭草」という大変魅力的な人のような不思議な一本足の草花が佇んでいる作品があり、まるでこちらの世界を静かに見守っているかの様です。
(越後しの個展『祭草の歩み』フライヤー裏面より)
前回の続きです。
美術館の2階で開催されていた佐々木あゆみ展『悠遠の地』は、佐々木正芳氏との二人展を再現した……というのがコンセプトとなります。その文章を読んでから階段を上って2階へ上がると……
……いつもは人形館の2階にいるこの子が出迎えてくれました。こちらも佐々木一葉ことあゆみさんの作品です。70歳を過ぎてから有名な人形作家のもとで勉強して、この人形を作ったのだそうです。残念ながら夢見ていた美術館の開館を見届けることなく帰天してしまいましたが、それでも完成した建物はちゃんと見てくれたそうです(佐々木正芳さんのコメント)。
2階に上がって最初に目に飛び込んできたのは、佐々木正芳さんの作品「老いたアダムとイブ」でした。これはあゆみさんから「これがいい」と言われて作品として仕上げたものの、実はあまり気が進まなかった……ところが実際に世に出してみると雑誌に掲載され、買い手も付き……今では「芸術的に私の一番上の作品ではないか」と考えるようになったそうです。
そんな素敵な絵に対して私のような美術2風情が感想を書くなんて……という気もしますが、ちゃんとした美術的な批評は専門家がするでしょうからね。ここはスキル『門外漢の気安さ』を発動して、正直に感じたこと思ったことを一気に書いちゃいます。すなわち、
「溶けあうようにお互いの肉体を抱擁する姿は、このところ私がとらわれている元型への回帰……2つに分かたれたものが再び1つになろうと求める集団的無意識に強く働きかけて来るのではないか」
という気がしました。すぐに言語化できないような、心の深いところをグイグイと刺激されました。そして感じるところがありました。
*
こちらが『祭草』シリーズです。ここでも冒頭に引用した越後しのさんの言葉以外に拠るところがないので、私の主観による感想を書きます。
よく絵を見て「音が聞こえる」想像をするのですが、この祭草の1枚目、街角にたたずむ姿を見て私が聴こえたのは、耳を澄ますとかすかに聞こえてくる「静かで賑やかな」音でした。日本語として破綻しているような気がするのでさらに説明しますが、要するに遠いところで盛り上がっている祭囃子を想像していただければよろしいかと存じます。賑やかさと静けさのコントラスト。それが同時にひとつのキャンバスの中に存在する不思議な世界。……いまこの記事を書きながら心の中にイメージしてみると、そういうことなのかなって気がしてきました。
そのコントラストという意味では、2枚目3枚目になると、いっそう際立ちますね。なお、これに関しては直接、あゆみさんが語っている言葉が同時に掲載されていたので引用します。
一昨年春頃より<祭草月面に咲く>のテーマで描いてみる。乾ききった月の世界と最も人間の臭いのする祭りとの組合わせを試みる。まんまるの青く美しく光る地球を、月面から眺めてもみたかった。
百年前には、兎のすむお月様を、こちらから眺めている丈だった。そこには水があり草も生えていた。
息子が、絵を描いている私のそばへ寄り「宇宙空間と月面は、あくまで無機的にね。」と云って呉れる。
無限なる大宇宙のほんの一角のちっぽけな青い星 だがすばらしい星、
地球 何時までも美しい星であってほしい。
佐々木あゆみ (総合藝術情報誌「場」1981年3月号より)
……こうしてあゆみさん自らの言葉を聞くと、私が感じたこともあながち的外れでもないのかなという気がしました。そういう、静けさと賑やかさのコントラスト。すぐに自分が感じたことを説明できなくても、こうして時間をかけて言語化することで自分のものにできるならいいですよね。
*
そして再び1階に戻り、越後しのさんの作品『歩歩』を見ます。
こちらは先日の個展でも観ましたが、今日は前回よりも一段階深く自分のなかで感じ入り、自分なりにアレコレと解釈をしたうえで見たので、印象がまた違ってきました。人物もさることながら、その人物を飾り付ける花草の魅力も合わせて感じられたのですね。
これは率直に言って、私の感受性が鋭くなって、そういった部分にも反応するようになったものだと思います。そうすると今度は、ふうわっと「何とも云えない好い匂」が漂ってくるような気がします。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』でお釈迦様がぶらぶら歩く極楽に咲く蓮の花の匂いを想像するように、越後しのさんの絵に咲く花の匂いを想像するのです。
するとかしないとかどんな匂いだとかっていう低次元の話ではありません。私の想像力は無限なのです。また、それが正しいとか正しくないとかってことにも興味はありません。私は私がいいように感じます。そしてここでは、どう感じたかということを可能な限り精緻に記録します。それが感情家の私の表現です。アートでもブンゲイでも、素晴らしい作品を創った製作者の方への返礼なんです。
いくら撮影OKでSNS共有OKとはいえあんまりビッシビシ写真を貼り付けるのも気が引けるので(そろそろこのブログの容量も心配になって来たし)、写真を見返して特に「これはいいなあ」と思ったのを3枚ほどあげさせていただきます。
やはり、こういう絵が好きなんでしょうね。しんと静まり返った感じ。あるいはこちらに何も語らないキャラクター。何でも明確に言語化したり解釈したり答えを持ち出したりしなくちゃ気が済まないような気質の人なら「わからない」と言って立ち去ってしまうというような子たち。
私はその絵の中にいるキャラクターが何かを訴えかけているような気がして、あえてその前に立ち、探ってみる。何を伝えようとしているのか想像を働かせ一生懸命に探ってみる。見つけられなくて、あきらめかけた時にようやく自分の心と波長が合う。
……結局、私の意識、私の自我が認知できる範囲なんて、ごくごく狭いってことなんでしょうね。大事なことを感じ取り大事なことを決めるのはたいていの場合無意識の領域であって、アートは私の意識を素通りして直接、無意識の方に働きかけてくれるのでしょう。そして無意識の方では私の自我なんて置いてけぼりにして、私の自己、私の「たましい」に働きかけ、感情を動かしてしまう。それを意識できないから私は多動性とか衝動性とかって言葉を押し付けられてしまう。そういうことなのかもしれません。
って、これは私の無意識についての話じゃなくて、越後しのさんの個展に関する話だったはずなのに……あわわ、ゴメンナサイ。話を元に戻します。
*
越後しのさんのアトリエ『ギャラリー越後』には2度ほどお伺いしたことがあります。1度目はアンデパンダン展の時で、2度目がRimoさんの個展を見に行った時ですね。確かRimoさんも、越後しのさんの作品が大好きで……とおっしゃっていましたが、今回こうして本格的な個展を通じ、作品に触れることができたのは、とても良かったです。
ちなみに神秘タロット・不思議イラスト展を見に行った一番町の雑貨屋「coco-chi」さんには、越後しのさんの絵柄が入ったグッズがあり、「アレ!? 見たことある!」とひそかに驚愕してしまいました。他にも、前回の企画展で知ったアーティストの人の作品があったりして……何だかすごいところで繋がっちゃったぞ、と。そういうわけで越後しのさんも私の「一目でわかっちゃうアーティスト」に加わりました。私の感受性と知識が着実に増えているような気がして、大変嬉しいです。
*
……毎回そうなんですが、ブログは自由記述というか、半分自動記述みたいな感じで書いているんですよね。最初に「このことについて書こう!」というテーマは決めてかかるんですが、書いている途中で思ったことや気づいたことをどんどん盛り込んでいくから、最終的な着地点がどうなるのかわからない。書くことがなくなればそれでおしまいになるんですが、心がおかしくなって以来神経症的に細かく細かく自分の感じたことを言語化するようになったので、もうメチャクチャになってしまって……。
この日は私の大好きなアーティストのひとりである『ペロンミ』さんの個展を見に行き、そこで私のアート好きの原点である『門眞妙』さんに邂逅し、また映像研究部の高校生諸君が制作した自主製作ショートフィルムの感想のこととか何とかって、もう1万字でも足りないくらい、書きたいことがたくさんあったんです。それに、今回で2回目だったんですが、Rappit/みひろさんの絵のことも書きたいし。まだまだ私は生きていかなくちゃいけない……書きたいことがありすぎる……。
でも、越後しのさんのことに関してはひと段落つけることができたので、今日のブログはこの辺にしたいと思います。またいつか、ギャラリーの方にお邪魔したいと思いますので、その節はよろしくお願いいたします! そして、その時には個展を見た感想などもお伝えできれば幸いです!
仙台市太白区秋保にある『秋保の杜佐々木美術館&人形館』で開催された企画展『ドールという変移する記号3』を見てきました。去年に引き続き2回目です。

去年は「書くと気持ちが薄れるから」とかってバカなことを言ってTwitter(当時)で感想をわめくにとどまっていましたが……今年は逆に書かないと気持ちが薄れるので思い切り書きます。去年のこともいずれ改めて、四谷シモン氏のことなどに絡めて書いていきたいと思いますが、いっぺんに書くとごちゃごちゃになっちゃうので、とりあえず今年の展示について書きたいと思います。
結局まるごと引用してしまいましたが、どういう展示なのかと言えばこういう内容となります。冒頭の告知ポスターに名を連ねたそうそうたるメンバーによる、ひとりひとり全く違った個性的な絵画であり人形であり……。
何度かこのブログでも人形について書いたことがありますが、ルーツはこの企画展なんですよね。元々四谷シモン氏の人形は大好きだったのですが、1年前、シモンドールの実物がここ秋保の杜佐々木美術館&人形館にあるとTwitterで恐山Rさん(ウラロジ仙台編集長)から教えていただき……その時にやっていたこの企画展を見てシモンドールに限らず人形全般に対する感情が芽生えました。以来しばらく活動を抑えていたものの、アンデパンダン展で人首美鬼さんの創作人形を見て再燃。そして翌日、鵜坂紅葉さんの作品を見ていよいよ「私は人形が大好きだ」ということを明確に認知したところで今回の企画ですからね。もうね、明確にここに照準を合わせて飛んできたわけですよ。カメラ付き誘導ミサイルのごとく全速力(ただし法定速度内)で飛んできたわけですよ。そして狂気のごとく感情を爆発させ、こんなふうにバリバリとメモを残してきたわけです。
一応、撮影OKと受付のところにあったので、いくつか撮影した写真を紹介していきたいと思います。
*
まずは清水だいきちさんの作品「たからばこ」です。
清水さんは兎をモチーフにしたぬいぐるみや少女の人形、更に球体関節人形など、いきなり私の心をときめかせる素材の人形を製作されていたのですが、あえてその中から一枚を選ぶとすると、これですね。宝箱だから大切なものをしまっておくんです。
アンティークな箱のなかに安置された少女たち。果たしてここに来るまでに、どれほどの時間が経っているのでしょう。もしかしたら「実は中世から続くヨーロッパの名家で作られ、19世紀のデカダン蒐集家によって引き取られた後、ここ秋保に流れ着いた」というストーリーがあるのかもしれません。ええ、私はユイスマンスの『さかしま』が大好きなんです。自分の愛好するものを集めた人工楽園を築いたデ・ゼッサントに憧れているので、以降もそんな感じのフィルターを通した感想となります。「人形は他者からの付加価値よりも対峙者個人の精神の重さによる価値が高」いのでね。私が(特にここ数か月で)仕入れた重さで人形と向き合い、無限の想像力をためらいなく爆発させたいと思ったのです。それはこうして文章で書く行為も含まれます。
次は筥筐(こうよう)さんの作品『冬虫夏草』です。3つある中でこれが一番ワイドな形をしていて、16:9のレイアウトに最適だったのでセレクトしました。これまたデ・ゼッサントが美術品のひとつとしてコレクションしていそうな作品です。なお冬虫夏草というのはゲーム『大航海時代II』でも冒険家の発見物として登場します。十分に希少価値のあるものなんです。それがこうして人の形をしていたとなれば、もはやプリニウスの博物誌を読むようなときめきを感じます。
柊ノ夜さんの『白鳩』です。これもなかなか私の心に強く訴えかけました。鋭い刃物でグサーッ……と突き刺されたような、「死の匂い」を感じました。ひどくやせ衰え死にかけた少女。手足や膝の赤みからは、通常私たち健康な人間や生物に感じられるような血のぬくもりが感じられません。程なく彼女の肉体は腐りはじめ、そして骨になって、土に還るのでしょう。そんな遠くない未来を予想しました。あと個人的には宇野亜喜良氏のイラストを見た時と同じような感覚を覚えました。60年代アングラ文化の象徴ですよね。天井桟敷とか……おっと、それは余談でした。
ここで、冷たく暗い暗黒美少女の世界に引きこもっていた私をさんさんと降り注ぐ陽光のもとに引っ張り出してくれるような作品に出会いました。これはしょうじこずえさんの作品『チャームツリー』です。まあこれは、あんまり難しいことは言わなくてもいいですよね。単純にこの極彩色、あるかないか不安になるような細い体に対し「そんなことないよ!」と強く主張する眼。そういった印象を楽しめばいいんじゃないでしょうか。私はそうでした。ここまで神経症めいた空想ばかり広がっていて、さらに直前で柊ノ夜さんの『白鳩』を見て、すっかり死の幻想にとり憑かれていたので、いっそう印象が強まりました。夢から覚める直前、モノクロームの世界から私の自我が認知するところの「現実」というやつに戻ってくる直前の、パーッと光に包まれたような感覚。
こちらはご覧の通り絵画です。そして、正直なところこの絵がどういうことなのか、今一つ私にはピンと来ませんでした。それは今でも同じです。この絵に対して、これまでのような爆発的な感情がわいてこず、写真を見ていても「う~む……」とうなるのが精一杯です。ただこの絵につけられタイトル、
『何を以て正常と、何を以て異常と』
というのは私がず~っとず~っと悩み続け、答えを探しているテーマであって、この絵も私と同じことを訴えかけているんだ! ということだけは認知しました。その問いに対する答えを示してくれたわけではないですが(そして、そもそもそんなものがあるかどうかはきわめて疑わしいものですが……何でもかんでも検索して答えを求められるほど世の中は浅くも薄くもつまらなくもないと信じているので)、自分と同じようなことを考えている人がいるんだということが嬉しかったです。こちらは「せん」さんの作品でした。
*
というわけで、ここでいったん文章を区切ります。すでに十分神経症めいた文章になったと思いますし。
今回の企画展に合わせて、当美術館のオーナーである佐々木正芳氏の奥様・佐々木あゆみさん(故人)の企画展も「後援企画」として開催されておりました。元々あゆみさんは、佐々木正芳氏の作品だけでは物足りないだろうから人形館も併設しようと言い、自ら人形制作を学んで人形に対する理解を深めていたと言います。こうして人形に関する企画展をこの場所で開催できるのもそういう縁があってのこと……とは、今回の企画展の主催団体である「秋保ひとがた文化研究室」からの言葉です。
また、個人的な話となってしまいますが、先日観た越後しのさんの個展も、あゆみさんの代表的な作品群『祭草』シリーズへの関連がありました。私はその辺のことを知らず、ただ越後しのさんの作品を見たい! という気持ちで来て……もちろん、それなりに感じるところはあったのですが……今回私も「祭草」シリーズの絵を見て、さらに越後しのさんの絵も会場で見て、感情がよりいっそう込み上げてくるものがあったので……2階の展示を見た感想と先日の個展のことを言ったり来たりしながら、次の文章を書きたいと思います。「書くべき時が来るまで待たなければいけないことがある」とは、こないだ読んだ『ハドリアヌス帝の回想』に関するユルスナールの言葉ですが、どうやらこれもそんな感じみたいです。何でもSNSで速報みたいにポンポン出せばいいわけじゃないんです。じっくり温めて、一気に書くのが大事なんです。
消費してはいけない。
消費されない心を大切にしたい。
※追記。越後しのさんの個展を見に行った日の写真を見返すと、ちゃんと祭草シリーズは見ていました。写真も撮っていました。ただ、その時は今回ほど強く意識せず……というか、感じたことがあまりにも多すぎて、忘れていたみたいです。また、個展のタイトルが『祭草の歩み』というものですが、関連というとちょっと違う気がします。いずれにしても、越後しのさんの個展については次回の記事でまとめます。そのうえで、今回書いたものは訂正せず追記という形で言い訳をさせていただきますスミマセンでした。
去年は「書くと気持ちが薄れるから」とかってバカなことを言ってTwitter(当時)で感想をわめくにとどまっていましたが……今年は逆に書かないと気持ちが薄れるので思い切り書きます。去年のこともいずれ改めて、四谷シモン氏のことなどに絡めて書いていきたいと思いますが、いっぺんに書くとごちゃごちゃになっちゃうので、とりあえず今年の展示について書きたいと思います。
明治時代のはじめ、西洋からの彫刻(アート)が日本に伝わり、仏師や人形師などにも大きな影響を与えました。しかし後に、帝展などの場で人形は、彫刻ではなく工芸というジャンルのほうへ振り分けされています。そのことから、あくまで「日常の中で使い、生産され消えていくもの」というイメージが強かったのだと思われます。そして現在、日本の創作人形は、さまざまな影響をうけ、いくつもの文脈をまたいだグラデーションで構成されています。柳宗悦が「民藝」という言葉で語った営みの中の美、西洋から入ってきた彫刻や立体アートといった類のものたち…。さらに、日本のマンガやアニメ文化のフィギュア・ジオラマなどの類も加わり、より複雑に自由なかたちに変化してきました。
人形は他者からの付加価値よりも対峙者個人の精神の重さによる価値が高く、時にその価値は人々の想像を超えることがあります。よって、広義な意味で「人形」は、人が人間と認知する機能を持つものであり、人間の形を保つ必要性すらないともいえるでしょう。人形と対峙する行為は、まだ見ぬ人間の本質を知って行くための入り口なのかもしれません。
今回、会場に並ぶ作品は技法も素材もさまざまです。しかし一貫して、それぞれ人形の役割を連想させる力があります。それらを鑑賞しながら、人形と人間が築くであろう関係性について、改めて探っていければと考えています。(会場に掲示されていた展示概要)
結局まるごと引用してしまいましたが、どういう展示なのかと言えばこういう内容となります。冒頭の告知ポスターに名を連ねたそうそうたるメンバーによる、ひとりひとり全く違った個性的な絵画であり人形であり……。
何度かこのブログでも人形について書いたことがありますが、ルーツはこの企画展なんですよね。元々四谷シモン氏の人形は大好きだったのですが、1年前、シモンドールの実物がここ秋保の杜佐々木美術館&人形館にあるとTwitterで恐山Rさん(ウラロジ仙台編集長)から教えていただき……その時にやっていたこの企画展を見てシモンドールに限らず人形全般に対する感情が芽生えました。以来しばらく活動を抑えていたものの、アンデパンダン展で人首美鬼さんの創作人形を見て再燃。そして翌日、鵜坂紅葉さんの作品を見ていよいよ「私は人形が大好きだ」ということを明確に認知したところで今回の企画ですからね。もうね、明確にここに照準を合わせて飛んできたわけですよ。カメラ付き誘導ミサイルのごとく全速力(ただし法定速度内)で飛んできたわけですよ。そして狂気のごとく感情を爆発させ、こんなふうにバリバリとメモを残してきたわけです。
一応、撮影OKと受付のところにあったので、いくつか撮影した写真を紹介していきたいと思います。
*
まずは清水だいきちさんの作品「たからばこ」です。
清水さんは兎をモチーフにしたぬいぐるみや少女の人形、更に球体関節人形など、いきなり私の心をときめかせる素材の人形を製作されていたのですが、あえてその中から一枚を選ぶとすると、これですね。宝箱だから大切なものをしまっておくんです。
アンティークな箱のなかに安置された少女たち。果たしてここに来るまでに、どれほどの時間が経っているのでしょう。もしかしたら「実は中世から続くヨーロッパの名家で作られ、19世紀のデカダン蒐集家によって引き取られた後、ここ秋保に流れ着いた」というストーリーがあるのかもしれません。ええ、私はユイスマンスの『さかしま』が大好きなんです。自分の愛好するものを集めた人工楽園を築いたデ・ゼッサントに憧れているので、以降もそんな感じのフィルターを通した感想となります。「人形は他者からの付加価値よりも対峙者個人の精神の重さによる価値が高」いのでね。私が(特にここ数か月で)仕入れた重さで人形と向き合い、無限の想像力をためらいなく爆発させたいと思ったのです。それはこうして文章で書く行為も含まれます。
次は筥筐(こうよう)さんの作品『冬虫夏草』です。3つある中でこれが一番ワイドな形をしていて、16:9のレイアウトに最適だったのでセレクトしました。これまたデ・ゼッサントが美術品のひとつとしてコレクションしていそうな作品です。なお冬虫夏草というのはゲーム『大航海時代II』でも冒険家の発見物として登場します。十分に希少価値のあるものなんです。それがこうして人の形をしていたとなれば、もはやプリニウスの博物誌を読むようなときめきを感じます。
柊ノ夜さんの『白鳩』です。これもなかなか私の心に強く訴えかけました。鋭い刃物でグサーッ……と突き刺されたような、「死の匂い」を感じました。ひどくやせ衰え死にかけた少女。手足や膝の赤みからは、通常私たち健康な人間や生物に感じられるような血のぬくもりが感じられません。程なく彼女の肉体は腐りはじめ、そして骨になって、土に還るのでしょう。そんな遠くない未来を予想しました。あと個人的には宇野亜喜良氏のイラストを見た時と同じような感覚を覚えました。60年代アングラ文化の象徴ですよね。天井桟敷とか……おっと、それは余談でした。
ここで、冷たく暗い暗黒美少女の世界に引きこもっていた私をさんさんと降り注ぐ陽光のもとに引っ張り出してくれるような作品に出会いました。これはしょうじこずえさんの作品『チャームツリー』です。まあこれは、あんまり難しいことは言わなくてもいいですよね。単純にこの極彩色、あるかないか不安になるような細い体に対し「そんなことないよ!」と強く主張する眼。そういった印象を楽しめばいいんじゃないでしょうか。私はそうでした。ここまで神経症めいた空想ばかり広がっていて、さらに直前で柊ノ夜さんの『白鳩』を見て、すっかり死の幻想にとり憑かれていたので、いっそう印象が強まりました。夢から覚める直前、モノクロームの世界から私の自我が認知するところの「現実」というやつに戻ってくる直前の、パーッと光に包まれたような感覚。
こちらはご覧の通り絵画です。そして、正直なところこの絵がどういうことなのか、今一つ私にはピンと来ませんでした。それは今でも同じです。この絵に対して、これまでのような爆発的な感情がわいてこず、写真を見ていても「う~む……」とうなるのが精一杯です。ただこの絵につけられタイトル、
『何を以て正常と、何を以て異常と』
というのは私がず~っとず~っと悩み続け、答えを探しているテーマであって、この絵も私と同じことを訴えかけているんだ! ということだけは認知しました。その問いに対する答えを示してくれたわけではないですが(そして、そもそもそんなものがあるかどうかはきわめて疑わしいものですが……何でもかんでも検索して答えを求められるほど世の中は浅くも薄くもつまらなくもないと信じているので)、自分と同じようなことを考えている人がいるんだということが嬉しかったです。こちらは「せん」さんの作品でした。
*
というわけで、ここでいったん文章を区切ります。すでに十分神経症めいた文章になったと思いますし。
今回の企画展に合わせて、当美術館のオーナーである佐々木正芳氏の奥様・佐々木あゆみさん(故人)の企画展も「後援企画」として開催されておりました。元々あゆみさんは、佐々木正芳氏の作品だけでは物足りないだろうから人形館も併設しようと言い、自ら人形制作を学んで人形に対する理解を深めていたと言います。こうして人形に関する企画展をこの場所で開催できるのもそういう縁があってのこと……とは、今回の企画展の主催団体である「秋保ひとがた文化研究室」からの言葉です。
また、個人的な話となってしまいますが、先日観た越後しのさんの個展も、あゆみさんの代表的な作品群『祭草』シリーズへの関連がありました。私はその辺のことを知らず、ただ越後しのさんの作品を見たい! という気持ちで来て……もちろん、それなりに感じるところはあったのですが……今回私も「祭草」シリーズの絵を見て、さらに越後しのさんの絵も会場で見て、感情がよりいっそう込み上げてくるものがあったので……2階の展示を見た感想と先日の個展のことを言ったり来たりしながら、次の文章を書きたいと思います。「書くべき時が来るまで待たなければいけないことがある」とは、こないだ読んだ『ハドリアヌス帝の回想』に関するユルスナールの言葉ですが、どうやらこれもそんな感じみたいです。何でもSNSで速報みたいにポンポン出せばいいわけじゃないんです。じっくり温めて、一気に書くのが大事なんです。
消費してはいけない。
消費されない心を大切にしたい。
※追記。越後しのさんの個展を見に行った日の写真を見返すと、ちゃんと祭草シリーズは見ていました。写真も撮っていました。ただ、その時は今回ほど強く意識せず……というか、感じたことがあまりにも多すぎて、忘れていたみたいです。また、個展のタイトルが『祭草の歩み』というものですが、関連というとちょっと違う気がします。いずれにしても、越後しのさんの個展については次回の記事でまとめます。そのうえで、今回書いたものは訂正せず追記という形で言い訳をさせていただきますスミマセンでした。
12月2日――
この日はブックハンターセンダイというイベントに行って来たのですが、そこから3kmほど歩いた先にある一番町の雑貨屋「coco-chi」さんで開催されたイラスト二人展「Destiny」も、見てきました。ブックハンターの話題が重たかったので後回しになっていましたが、作家の方とお話しをしたり素敵な作品をたくさんお迎えしたりと、素敵な体験をしたので、その点について書いていきたいと思います。少し時間が空いてしまいましたが、一生懸命思い出しながら書きます。
「元々こういう幻想的なもの、神秘的なものが大好き」というのは会場にいらっしゃった作者の『秋草おと』さんにうかがったお話しです。自分たちは本格的な占いはできないけれど、こうしてタロットカードをモチーフにしたイラストを描いた……というのが今回の展示概要。この点においては私も強く共鳴するところです。私はイラストも描けないので、その分こうして足を運び写真を撮りポストカードなどをお迎えします。せーの、ドン!

何とも下手な写真の撮り方をしてしまったなと今更ながら後悔していますが、何とか全体的な雰囲気は伝わるのではないでしょうか。どうですか! 良いでしょう! 私は良いと思います! 作風は全く異なるのですが、お二方とも非常に可愛らしくて幻想的なイラストで……ここに来る前にブックハンターセンダイでも爆買いしていたのですが、ここでもポストカードを3枚ずつ計6枚購入。元よりポストカードを買い集めるのが趣味なのですが、これによっていっそう華やかになりました。
そして、これらポストカードとは別に購入したワンドロ作品がこちらです。はい、ドン!
やはり手書きの一点物は格別です。パッと見たイラストの可愛らしさは言うまでもありません。何よりこのメッセージが、今の私にとって非常に強烈な……それこそタロット占いで示されたような、動き始めた私の背中をギューッと強く後押ししてくれるメッセージであると受け取りました。
「どっちでもよくない」
「私は私」
*
……今回の展示も、フォーラスの7FにあるTURN ANOTHER ROUNDにある告知はがきを見てきました。亀井桃さんもペロンミさんも、最近参加したイベントは大体、紙媒体で開催を知り実際に足を運んで見ています。SNSによらないアナログハート生活は、地道に楽しいです。今日からは秋保の杜佐々木美術館&人形館で新しいイベントが始まるし。これを見に行った感想を書く勢いで、先日の「越後しの」さんの個展のこと、みひろさんのこと、さらに同じ会場で見た高校生の皆さんの映像作品のことに四谷シモン氏の人形のことなど……。
こないだ借りてきた矢川澄子さんの本とかエンマ・ユングの本とかを読んでひと段落したのでね。ブックハンターセンダイで買い求めた本を読みつつ、たくさん書くべきことを書いていきたいと思います! そのためにも今日はお仕事頑張ります! 川島明さん年間テレビ出演数1位おめでとうございます! ラヴィット!
この日はブックハンターセンダイというイベントに行って来たのですが、そこから3kmほど歩いた先にある一番町の雑貨屋「coco-chi」さんで開催されたイラスト二人展「Destiny」も、見てきました。ブックハンターの話題が重たかったので後回しになっていましたが、作家の方とお話しをしたり素敵な作品をたくさんお迎えしたりと、素敵な体験をしたので、その点について書いていきたいと思います。少し時間が空いてしまいましたが、一生懸命思い出しながら書きます。
「元々こういう幻想的なもの、神秘的なものが大好き」というのは会場にいらっしゃった作者の『秋草おと』さんにうかがったお話しです。自分たちは本格的な占いはできないけれど、こうしてタロットカードをモチーフにしたイラストを描いた……というのが今回の展示概要。この点においては私も強く共鳴するところです。私はイラストも描けないので、その分こうして足を運び写真を撮りポストカードなどをお迎えします。せーの、ドン!
何とも下手な写真の撮り方をしてしまったなと今更ながら後悔していますが、何とか全体的な雰囲気は伝わるのではないでしょうか。どうですか! 良いでしょう! 私は良いと思います! 作風は全く異なるのですが、お二方とも非常に可愛らしくて幻想的なイラストで……ここに来る前にブックハンターセンダイでも爆買いしていたのですが、ここでもポストカードを3枚ずつ計6枚購入。元よりポストカードを買い集めるのが趣味なのですが、これによっていっそう華やかになりました。
そして、これらポストカードとは別に購入したワンドロ作品がこちらです。はい、ドン!
やはり手書きの一点物は格別です。パッと見たイラストの可愛らしさは言うまでもありません。何よりこのメッセージが、今の私にとって非常に強烈な……それこそタロット占いで示されたような、動き始めた私の背中をギューッと強く後押ししてくれるメッセージであると受け取りました。
「どっちでもよくない」
「私は私」
*
……今回の展示も、フォーラスの7FにあるTURN ANOTHER ROUNDにある告知はがきを見てきました。亀井桃さんもペロンミさんも、最近参加したイベントは大体、紙媒体で開催を知り実際に足を運んで見ています。SNSによらないアナログハート生活は、地道に楽しいです。今日からは秋保の杜佐々木美術館&人形館で新しいイベントが始まるし。これを見に行った感想を書く勢いで、先日の「越後しの」さんの個展のこと、みひろさんのこと、さらに同じ会場で見た高校生の皆さんの映像作品のことに四谷シモン氏の人形のことなど……。
こないだ借りてきた矢川澄子さんの本とかエンマ・ユングの本とかを読んでひと段落したのでね。ブックハンターセンダイで買い求めた本を読みつつ、たくさん書くべきことを書いていきたいと思います! そのためにも今日はお仕事頑張ります! 川島明さん年間テレビ出演数1位おめでとうございます! ラヴィット!
先日、仙台や東京で活躍するイラストレーター『亀井桃』さん(公式HP)の「FULLSWING展」を見てきました。会場は古着屋さんで、あまりそういう場所には行かないので少々緊張しましたが、とにかく亀井桃さんのイラストが大好きなので行ってきました。
今回はこれまでに撮りためた写真を一挙公開。私が初めて見た絵から現在に至るまでの亀井桃さん大好き特集をやってみたいと思います。ほとんど私の言葉はありません。でも写真はいっぱいあります。
*
初めて亀井桃さんのイラストを見たのは昨年10月に青葉通地下道で開催された少数派のためのマーケットイベント『地下道-3150』です。私も大好きなウラロジ仙台さんの主催によるもので、これ以来、私も自分の生き方に大きく自信を持つことができました。それはSNSを休止している現在でも同じです。
その後、去年の暮れにフォーラスの「TURN ANOTHER ROUND」で開催された個展も見に行きました。ここで初めて「ああ、亀井桃さんの絵って、こんな感じなんだなあ」ということを認識しました。
実際のイラストはご覧の通り、非常にポップで可愛らしい絵柄です。ただ、それだけにとどまらず、何か目に見えづらい魅力があるんですよね。ただ可愛らしいだけならフワーッと感じて通り過ぎてしまいますし、強すぎる刺激もいずれ慣れて何も感じなくなってしまうでしょう。そうならず何度見てもそのたび気持ちがときめき心惹かれてしまうのは何か。残念ながら美術が2の私には語る言葉がないので、当時ギャラリーにあった紹介文を丸ごと引用させて頂きます。せーの、ドン!
……そういうことです。LOVE&DESTROYがテーマなんです。今回のFULLSWING展でも同じ文字がペイントされたバットがありました。個人的には非常に素敵な逸品だと思いました。
素晴らしい。
一方で、今回のFULLSWING展を開催した古着屋の店員さんと少しお話しさせて頂いたのですが、最近は「大きな仕事」もドンドンするようになってきたとのことで、こんなポスターも描いていました。宮城県名取市にある日本三稲荷のひとつ竹駒神社の「夏詣」のポスターです。こちらです、はいドン!
自慢じゃないですがこの絵柄を見て、「あれ? これって亀井桃さんの絵じゃない!?」と気づくことができました(一応ご本人のインスタグラムを見て同じデザインがあることを確認しました)。門眞妙さん、ペロンミさん、亀井桃さんあたりはもう、そのくらい大好きのレベルが上がりました。イエイ。
なお、亀井桃さんはアンデパンダン展にも出展していました。その時の記事のなかではテキストでしか書いていませんでしたが、素敵なイラストでした。
そして同日、去年に引き続き開催された青葉通地下道のイベント『地下道-3150』のポスターも描いていました。アンデパンダン展を見に行った後、その足で行ってみたのですが……せっかくなので、去年のものとあえて並べてみます。
相変わらず可愛いです。なお今年のイベントは小さいお友達がたくさんいて、来年の3月までSNSを休止しようと思っていた私も強行復帰してしまいました(その後、治りきらなかった心が叔母の帰天に伴い悪化し再び休止)。
*
そして時は現在この記事を書いている11月29日に戻ります。
竹駒神社のポスターを見た時、何とかこれを譲ってもらえないか社務所にかけあおうと思ったのですが(未遂)、今回こうして亀井桃さんのイラストを自分の部屋にお迎えすることができて、本当に嬉しく思っています。それを記念して、自分なりにまとめてみましたが……まあ、こんな私ですからね。上手に文章でまとめられないけど、大好きな気持ちはまとめられたかな。また何か、この気持ちを言葉にする機会があればそうしたいと思いますが、個展の主催者側の言葉がすべてではないでしょうか。LOVE & DESTROY !
今回はこれまでに撮りためた写真を一挙公開。私が初めて見た絵から現在に至るまでの亀井桃さん大好き特集をやってみたいと思います。ほとんど私の言葉はありません。でも写真はいっぱいあります。
*
初めて亀井桃さんのイラストを見たのは昨年10月に青葉通地下道で開催された少数派のためのマーケットイベント『地下道-3150』です。私も大好きなウラロジ仙台さんの主催によるもので、これ以来、私も自分の生き方に大きく自信を持つことができました。それはSNSを休止している現在でも同じです。
その後、去年の暮れにフォーラスの「TURN ANOTHER ROUND」で開催された個展も見に行きました。ここで初めて「ああ、亀井桃さんの絵って、こんな感じなんだなあ」ということを認識しました。
実際のイラストはご覧の通り、非常にポップで可愛らしい絵柄です。ただ、それだけにとどまらず、何か目に見えづらい魅力があるんですよね。ただ可愛らしいだけならフワーッと感じて通り過ぎてしまいますし、強すぎる刺激もいずれ慣れて何も感じなくなってしまうでしょう。そうならず何度見てもそのたび気持ちがときめき心惹かれてしまうのは何か。残念ながら美術が2の私には語る言葉がないので、当時ギャラリーにあった紹介文を丸ごと引用させて頂きます。せーの、ドン!
亀井桃は、器用なバランス感覚に優れている作家です。それは幼少期から続く創作行為によって培われた資質なのかもしれません。ポップさとキュートさの中で展開する自在な毒気のさじ加減が、観るものを惹きつけてやまない要因となっています。そして、日常の一瞬一瞬のきらめきをとらえた人物や事物さえも、躍動感のある表情をたたえ、まるでこの不毛で陰鬱な時代を軽やかに、逞しく生きることを謳歌しているかのようです。
……そういうことです。LOVE&DESTROYがテーマなんです。今回のFULLSWING展でも同じ文字がペイントされたバットがありました。個人的には非常に素敵な逸品だと思いました。
素晴らしい。
一方で、今回のFULLSWING展を開催した古着屋の店員さんと少しお話しさせて頂いたのですが、最近は「大きな仕事」もドンドンするようになってきたとのことで、こんなポスターも描いていました。宮城県名取市にある日本三稲荷のひとつ竹駒神社の「夏詣」のポスターです。こちらです、はいドン!
自慢じゃないですがこの絵柄を見て、「あれ? これって亀井桃さんの絵じゃない!?」と気づくことができました(一応ご本人のインスタグラムを見て同じデザインがあることを確認しました)。門眞妙さん、ペロンミさん、亀井桃さんあたりはもう、そのくらい大好きのレベルが上がりました。イエイ。
なお、亀井桃さんはアンデパンダン展にも出展していました。その時の記事のなかではテキストでしか書いていませんでしたが、素敵なイラストでした。
そして同日、去年に引き続き開催された青葉通地下道のイベント『地下道-3150』のポスターも描いていました。アンデパンダン展を見に行った後、その足で行ってみたのですが……せっかくなので、去年のものとあえて並べてみます。
相変わらず可愛いです。なお今年のイベントは小さいお友達がたくさんいて、来年の3月までSNSを休止しようと思っていた私も強行復帰してしまいました(その後、治りきらなかった心が叔母の帰天に伴い悪化し再び休止)。
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そして時は現在この記事を書いている11月29日に戻ります。
竹駒神社のポスターを見た時、何とかこれを譲ってもらえないか社務所にかけあおうと思ったのですが(未遂)、今回こうして亀井桃さんのイラストを自分の部屋にお迎えすることができて、本当に嬉しく思っています。それを記念して、自分なりにまとめてみましたが……まあ、こんな私ですからね。上手に文章でまとめられないけど、大好きな気持ちはまとめられたかな。また何か、この気持ちを言葉にする機会があればそうしたいと思いますが、個展の主催者側の言葉がすべてではないでしょうか。LOVE & DESTROY !
最近はギャラリーにいった時、必ず芳名帖に名前を残すようにしています。いや最近って訳でもないのかな。前から何となく、そういうのはやっていた気がしますが、最近とくにそれを意識するようになりました。
多分それはSNSでの発信を休止し、こんな誰も見ていないような場所で書いていても伝わらないだろう、と思うからです。別に不特定多数のひとに「この展示会に行きましたよ~!」なんてアピールしてたくさんいいねをもらいたいわけではないので。私のことなんかどうだっていいので。
でも当事者のひとには、私という人間がことによっては二度も三度も来てみましたよ、ということが伝わってほしいので、特に意識して書いているような気がします。大好きになったらその気持ちを一番伝えたいのは、いつだって大好きになったそのお相手ですから。
ということを、仙台フォーラスの中にあるTURN ANOTHER ROUNDさんで23日まで開催している「植物のある風景展」を見た直後に書きました。
どうやらパッと見た時の感想が熟成され言葉になるまで、時間がかかるみたいです。落ち着いて思い出して、少しずつ言葉にしていく。その作業には時間がかかるようなので、2度見てさらに時間をおいて、ようやく浮き上がってきた感想を少しまとめてみたいと思います。
「実際の風景や、架空の世界を問わず、”植物と日常が混ざり合った世界”を自由に表現しています。会場全体がさまざまな植物で溢れ、ご来場のお客様に癒しをお届けできるような展示」とは、会場側のホームページにある展示概要ですが、こちらに出店しているのは東北イラストレーターズクラブ所属の皆様です。つまりプロのイラストレーターの人たちによる展覧会なんですね。
このところはもっと美術寄りの展覧会ばかり見ていたので、ちょっと心のチューニングを合わせるのに少し手間取りましたが、
「可愛い、ポップなキャラクタをそのまま楽しめばいいんだ」
というふうに考えて、最終的には物販コーナーでお土産も買って帰りました。そして2回も会場に行きました。1回目はチューニングを合わせるために、そして2回目は全力で楽しむために……。
ひときわ私が「あら、可愛い」と気に入ったのがコチラ、三日月ここな先生の「光と水と」という作品です。私の暗黒みたいな心もキラキラなメイドさんによって明るくなりました。そうだ、可愛いを可愛いって、素直に楽しめばいいんだ! って思いました。
その流れで、気に入った絵をビッシビシ撮影しつつ楽しませて頂きました。物販コーナーでは、このメイドさんのコースターがあったので買ってきました。記帳も2回分やってきました。手書きで感想を残すコーナーでは2回分書きました。また名刺とかポストカードも片っ端からかき集めてきました。これを機会に名前を覚えて、もっともっと好きになりたいと思います。

多分それはSNSでの発信を休止し、こんな誰も見ていないような場所で書いていても伝わらないだろう、と思うからです。別に不特定多数のひとに「この展示会に行きましたよ~!」なんてアピールしてたくさんいいねをもらいたいわけではないので。私のことなんかどうだっていいので。
でも当事者のひとには、私という人間がことによっては二度も三度も来てみましたよ、ということが伝わってほしいので、特に意識して書いているような気がします。大好きになったらその気持ちを一番伝えたいのは、いつだって大好きになったそのお相手ですから。
ということを、仙台フォーラスの中にあるTURN ANOTHER ROUNDさんで23日まで開催している「植物のある風景展」を見た直後に書きました。
どうやらパッと見た時の感想が熟成され言葉になるまで、時間がかかるみたいです。落ち着いて思い出して、少しずつ言葉にしていく。その作業には時間がかかるようなので、2度見てさらに時間をおいて、ようやく浮き上がってきた感想を少しまとめてみたいと思います。
「実際の風景や、架空の世界を問わず、”植物と日常が混ざり合った世界”を自由に表現しています。会場全体がさまざまな植物で溢れ、ご来場のお客様に癒しをお届けできるような展示」とは、会場側のホームページにある展示概要ですが、こちらに出店しているのは東北イラストレーターズクラブ所属の皆様です。つまりプロのイラストレーターの人たちによる展覧会なんですね。
このところはもっと美術寄りの展覧会ばかり見ていたので、ちょっと心のチューニングを合わせるのに少し手間取りましたが、
「可愛い、ポップなキャラクタをそのまま楽しめばいいんだ」
というふうに考えて、最終的には物販コーナーでお土産も買って帰りました。そして2回も会場に行きました。1回目はチューニングを合わせるために、そして2回目は全力で楽しむために……。
ひときわ私が「あら、可愛い」と気に入ったのがコチラ、三日月ここな先生の「光と水と」という作品です。私の暗黒みたいな心もキラキラなメイドさんによって明るくなりました。そうだ、可愛いを可愛いって、素直に楽しめばいいんだ! って思いました。
その流れで、気に入った絵をビッシビシ撮影しつつ楽しませて頂きました。物販コーナーでは、このメイドさんのコースターがあったので買ってきました。記帳も2回分やってきました。手書きで感想を残すコーナーでは2回分書きました。また名刺とかポストカードも片っ端からかき集めてきました。これを機会に名前を覚えて、もっともっと好きになりたいと思います。
さる11月8日、本を返しに行ったついでに、同じ建物(せんだいメディアテーク)で開催されていた美術展やら写真展やらを見てきました。このうち「現在(いま)展」について書きます。画像を削除してその分文字をたくさん書きます。
手元の資料によると、「仙台美術研究所、美術専門カルチャーsenbiくらぶ受講生と講師による作品展です。現在(いま)の自分を製作の原点とし、技術や表現などの実力を越えて<現在(いま)の自分の表現>を目指し制作した作品の展示です。」との内容でした。
アマチュアが主役となって大きな場所で展示をする……というのはアンデパンダン展のような感じですが、こちらはそれぞれの教室に通う人たちがしっかり技術を身につけたうえで出展しているので、安定感というか、油彩・水彩・デッサンなど皆さん同じ向きの作品が並びます。私は門外漢なので技術的な巧拙はわかりませんが、そういう人間だからこそ感じることがありました。
絵のテーマとして仙台市の一風景を切り取って描いておられる方がいました。橋の上から見た景色とか、地下鉄駅の入り口とか、通りに面したお店とか。私にとってもごくごく見慣れた景色です。あえてスマホで写真を撮るようなこともせず、なんとな~く通り過ぎている景色です。改めてこうして見てみたところで新たな魅力に気が付いたとか、そう言うこともありません。
気が付いたのは、そういった景色を「自分で描く」ことが良いんだなあ、ということでした。真っ白い画布に絵具で塗り付けていく行程を想像してみると……見たものや想像したものを自由に表現するのはどんなに楽しいんだろう、と。私が見ている「外の世界」にはない、心に思い描く「内の世界」を「外の世界」で表現するのはどんなに楽しいんだろう、と。
絵が上手なのは才能なのか。それとも近づける努力をすれば少しは何とかなるのか。ただちに絵の修行に取り組むとか、そういうことではありませんが、また一歩野望に近づいた気がします。違います野望とかないです。ただ「自分は一生、上手な絵なんか描けっこない」と閉ざしていた扉が、天岩戸のごとく、ちょっぴりだけ開いた。そういうことです。
手元の資料によると、「仙台美術研究所、美術専門カルチャーsenbiくらぶ受講生と講師による作品展です。現在(いま)の自分を製作の原点とし、技術や表現などの実力を越えて<現在(いま)の自分の表現>を目指し制作した作品の展示です。」との内容でした。
アマチュアが主役となって大きな場所で展示をする……というのはアンデパンダン展のような感じですが、こちらはそれぞれの教室に通う人たちがしっかり技術を身につけたうえで出展しているので、安定感というか、油彩・水彩・デッサンなど皆さん同じ向きの作品が並びます。私は門外漢なので技術的な巧拙はわかりませんが、そういう人間だからこそ感じることがありました。
絵のテーマとして仙台市の一風景を切り取って描いておられる方がいました。橋の上から見た景色とか、地下鉄駅の入り口とか、通りに面したお店とか。私にとってもごくごく見慣れた景色です。あえてスマホで写真を撮るようなこともせず、なんとな~く通り過ぎている景色です。改めてこうして見てみたところで新たな魅力に気が付いたとか、そう言うこともありません。
気が付いたのは、そういった景色を「自分で描く」ことが良いんだなあ、ということでした。真っ白い画布に絵具で塗り付けていく行程を想像してみると……見たものや想像したものを自由に表現するのはどんなに楽しいんだろう、と。私が見ている「外の世界」にはない、心に思い描く「内の世界」を「外の世界」で表現するのはどんなに楽しいんだろう、と。
絵が上手なのは才能なのか。それとも近づける努力をすれば少しは何とかなるのか。ただちに絵の修行に取り組むとか、そういうことではありませんが、また一歩野望に近づいた気がします。違います野望とかないです。ただ「自分は一生、上手な絵なんか描けっこない」と閉ざしていた扉が、天岩戸のごとく、ちょっぴりだけ開いた。そういうことです。
ここまであっちこっちまわってきたアンデパンダン展。その回想録についても思いのほか長くなってしまいましたが、これで終わりです。最後は私が初めて訪れた仙台市のギャラリー『ターンアラウンド』です(通称タナラン)。
実は、前もってどこの会場で誰の作品が展示されるのかというのをリサーチしたうえで来ていた私。このタナランでは、ウラロジ仙台さんの『地下道3150』や竹駒神社の『夏詣』のイラストを描いている『亀井桃』さんが作品を展示しているということで、非常に楽しみにしておりました。
……前回の記事でも書きましたが、作品そのものは無審査で通るものの、どのギャラリーに配置するかは主催者側で選定し決めることですからね。やはり一定の安定感はあるように感じました。ちょっと変わった作品だとしても、ある程度の枠のなかでの「変わった」であって、文字通りのバーリトゥードな感じではないんです。
ある一定の枠――または一定の方向性の上での「変わった」作品。本当に何が飛び出すかわからないっていう雰囲気は、タナランとかSARPとかといった仙台市中心部のギャラリーでは感じられませんでした。そういうものだから、そのうえで私も楽しむのだから、全く問題ないわけですが。むしろ、中本美術館で見たような、「ウムム……こ、これは……!?」と若干不安になるようなものがあってもアレだと思うので。あったらあったで面白がると思うんですが。
平面の作品としては、このあたりが私の波長に合う作品でした。やっぱり前回のアンポンタンズ展で少し気持ちが前向きになったとはいえ、まだまだ暗い部分が残っていたので、そういう私の心にダークな(でも、綺麗な)雰囲気が共鳴したのでしょう。それは理性でわかっている範囲だったので、安心して楽しむことができました。
ちょっとドキリとしたのは、一通りの展示を眺めた後でまたこの人形のところに戻ってきた時でした。一度目にサ……と眺めた後に戻ってくると、妙にこの人形が愛おしくなってしまったのです。得も言われぬ魅力を感じて、「いわゆる世間でストーカーと呼ばれる者たちの心境とは、このようなものではなかっただろうか」とギリギリのところで自分の感情を俯瞰するような視線を送ってしまったのです。
他のお客の視線を気にしつつ、色んな方向から写真を撮ってみる。どうやったら、私が感じている彼女の魅力を一番引き出せる写真が撮れるのだろう。どこから撮ればいいんだろう。そうやっているうちに、ある一点を見つけ、ベスト写真を撮ることができました。
「ここだったか!」
電光に打たれたような衝撃を感じました。ちょうど彼女の視線と私の視線がぶつかり合い、彼女が放つエネルギーを真正面から受け止められるアングルとは、ここだったのです。かくしてこのアンデパンダン展最大のクライマックス、自分の被造物に恋してしまう名工ピュグマリオンのごとき人形への愛情が爆発してしまったのです。
まあ、爆発したとはいえ、これはあくまで「鵜坂紅葉」さんの作品です。私がどうこうできるものではありませんし、そうすることでこの感動を自ら破壊してしまう勇気もありません。ただ満足できる一枚が撮影できた。私はそれでよいのです。この写真を大切にすることで、私のピュグマリオン・コンプレックス(by澁澤龍彦さん)は満たされるのですから……。
その後、改めて亀井桃さんのイラストを見ました。そしてカウンターの方を眺めていて特に何という札もなくちょこんと置かれている女の子のイラストを見て「あ、門眞妙さんの絵がある」と思いつつ、まだ気持ちが復調していないために「これって門眞妙さんの絵ですよね?」と確信をもって問いかけることもできず無言でその場を後にしたのですが、これで私のアンデパンダン展は終わりです。このあとは青葉通を仙台駅方面にまっすぐ歩き、ウラロジ仙台さんの最大イベント「地下道3150」に突撃したわけですが……それはまた別なお話です。
*
最後に結論めいた話をするべきなのかもしれませんが、それは以前の記事で書いちゃったんですよね……。でも、いきなりこの記事にたどり着いた人もいるかもしれないので、自分で書いた記事を引用するという、インチキくさいことをしてしまいます。私が私の記事を引用して何が悪い! なんてねテヘッ!
自由と独立の精神。誰にでも開かれた場。自分がいいと思ったものを自分の一等得意な方法で精いっぱい表現する。ジャンルも形式も違ったアレコレをいっぺんに見て私が感じたことをまとめているうちに、何かがはじけた気がします。
私だって、思い切り大好きを表現してもいいはずなんです。誰に遠慮がいるものか。公序良俗に反するのはダメですけど、そうでないなら……ね。今の時代はコミュニケーションツールが発達して、バズるとか、たくさん「いいね」がつくような表現じゃないといけないような風潮がありますが、そんなことはないんです。むしろ流行るものは廃れるものでもあります。それよりも「消費されない」ものを……誰にも気づかれず褒められもしないけど、無くなりもしない、ずっと心に残り続けるものを……そういうものを食べて生きていきたいし、自分でも形にしていきたいなと思いました。
まったく面白いイベントでありました。またアートに心を救われました。来年は私も何かしら出展してみようかしらん。そんな気持ちにさえなってしまう……そう、何よりも自由と独立の精神、どんな表現だって良いも悪いもないんだっていうことを体験的に教えられたというのが、一番大きな収穫でした。
良いと思います!
(完)
実は、前もってどこの会場で誰の作品が展示されるのかというのをリサーチしたうえで来ていた私。このタナランでは、ウラロジ仙台さんの『地下道3150』や竹駒神社の『夏詣』のイラストを描いている『亀井桃』さんが作品を展示しているということで、非常に楽しみにしておりました。
……前回の記事でも書きましたが、作品そのものは無審査で通るものの、どのギャラリーに配置するかは主催者側で選定し決めることですからね。やはり一定の安定感はあるように感じました。ちょっと変わった作品だとしても、ある程度の枠のなかでの「変わった」であって、文字通りのバーリトゥードな感じではないんです。
ある一定の枠――または一定の方向性の上での「変わった」作品。本当に何が飛び出すかわからないっていう雰囲気は、タナランとかSARPとかといった仙台市中心部のギャラリーでは感じられませんでした。そういうものだから、そのうえで私も楽しむのだから、全く問題ないわけですが。むしろ、中本美術館で見たような、「ウムム……こ、これは……!?」と若干不安になるようなものがあってもアレだと思うので。あったらあったで面白がると思うんですが。
平面の作品としては、このあたりが私の波長に合う作品でした。やっぱり前回のアンポンタンズ展で少し気持ちが前向きになったとはいえ、まだまだ暗い部分が残っていたので、そういう私の心にダークな(でも、綺麗な)雰囲気が共鳴したのでしょう。それは理性でわかっている範囲だったので、安心して楽しむことができました。
ちょっとドキリとしたのは、一通りの展示を眺めた後でまたこの人形のところに戻ってきた時でした。一度目にサ……と眺めた後に戻ってくると、妙にこの人形が愛おしくなってしまったのです。得も言われぬ魅力を感じて、「いわゆる世間でストーカーと呼ばれる者たちの心境とは、このようなものではなかっただろうか」とギリギリのところで自分の感情を俯瞰するような視線を送ってしまったのです。
他のお客の視線を気にしつつ、色んな方向から写真を撮ってみる。どうやったら、私が感じている彼女の魅力を一番引き出せる写真が撮れるのだろう。どこから撮ればいいんだろう。そうやっているうちに、ある一点を見つけ、ベスト写真を撮ることができました。
「ここだったか!」
電光に打たれたような衝撃を感じました。ちょうど彼女の視線と私の視線がぶつかり合い、彼女が放つエネルギーを真正面から受け止められるアングルとは、ここだったのです。かくしてこのアンデパンダン展最大のクライマックス、自分の被造物に恋してしまう名工ピュグマリオンのごとき人形への愛情が爆発してしまったのです。
まあ、爆発したとはいえ、これはあくまで「鵜坂紅葉」さんの作品です。私がどうこうできるものではありませんし、そうすることでこの感動を自ら破壊してしまう勇気もありません。ただ満足できる一枚が撮影できた。私はそれでよいのです。この写真を大切にすることで、私のピュグマリオン・コンプレックス(by澁澤龍彦さん)は満たされるのですから……。
その後、改めて亀井桃さんのイラストを見ました。そしてカウンターの方を眺めていて特に何という札もなくちょこんと置かれている女の子のイラストを見て「あ、門眞妙さんの絵がある」と思いつつ、まだ気持ちが復調していないために「これって門眞妙さんの絵ですよね?」と確信をもって問いかけることもできず無言でその場を後にしたのですが、これで私のアンデパンダン展は終わりです。このあとは青葉通を仙台駅方面にまっすぐ歩き、ウラロジ仙台さんの最大イベント「地下道3150」に突撃したわけですが……それはまた別なお話です。
*
最後に結論めいた話をするべきなのかもしれませんが、それは以前の記事で書いちゃったんですよね……。でも、いきなりこの記事にたどり着いた人もいるかもしれないので、自分で書いた記事を引用するという、インチキくさいことをしてしまいます。私が私の記事を引用して何が悪い! なんてねテヘッ!
自由と独立の精神。誰にでも開かれた場。自分がいいと思ったものを自分の一等得意な方法で精いっぱい表現する。ジャンルも形式も違ったアレコレをいっぺんに見て私が感じたことをまとめているうちに、何かがはじけた気がします。
私だって、思い切り大好きを表現してもいいはずなんです。誰に遠慮がいるものか。公序良俗に反するのはダメですけど、そうでないなら……ね。今の時代はコミュニケーションツールが発達して、バズるとか、たくさん「いいね」がつくような表現じゃないといけないような風潮がありますが、そんなことはないんです。むしろ流行るものは廃れるものでもあります。それよりも「消費されない」ものを……誰にも気づかれず褒められもしないけど、無くなりもしない、ずっと心に残り続けるものを……そういうものを食べて生きていきたいし、自分でも形にしていきたいなと思いました。
まったく面白いイベントでありました。またアートに心を救われました。来年は私も何かしら出展してみようかしらん。そんな気持ちにさえなってしまう……そう、何よりも自由と独立の精神、どんな表現だって良いも悪いもないんだっていうことを体験的に教えられたというのが、一番大きな収穫でした。
良いと思います!
(完)
「せんだい21アンデパンダン展2023」仙台市中心部における会場は屋内が3か所と屋外が1か所。このうち2か所は11時オープンで1か所(商業ビル「仙台FORUS」の中にある)は10時オープンなので、とりあえず早い時間にオープンする仙台FORUS内「TURN ANOTHER ROUND」に行きました。
『展示会場については実行委員会が決定し、後日「会場決定通知書」で連絡いたします。』
公式ホームページの応募要項にそんな風に書いてありました。だからどれほど無審査で自由な展示会とはいっても「ある程度は」ギャラリーによって雰囲気のカラーリングがあったのでしょうね。というのは、この商業ビルの7階にある場所を見て思いました。
結構、ちゃんとしてるんです。……というと語弊がありそうな気もしますが、1日目にまわったバーリトゥード感が薄くて。回を重ねるごとにルールが決まって選手の戦い方も洗練されていった総合格闘技の世界みたいに、うん、いわゆる美術展の形に収まっているんです。みんな綺麗なんですよ。――そう、とっても綺麗で清潔で、ちょっと高級な感じがするんです。チフリグリさんとか中本美術館で見たような手作り感がなくて、洗練されているんです。
ロングで2枚ほど、会場の雰囲気を撮ってみましたが、こんな写真を撮りたくなるくらい整然としているんです。ちょっとエッジの利いた作品もありましたが、それさえこの「FORUSというオシャレな商業ビルの中にあるオシャレなギャラリー」の雰囲気を壊すものではありません。そういう雰囲気を一通り味わい、「よし、見たぞ!」と言って、次の会場に移動します。今度は仙台アーティストランプレイス(SARP)です。
SARPのアンデパンダン展は、こちらは先ほどの「TURN ANOTHER ROUND」よりは幅が広い印象でしたね。抽象画あり、マンガっぽい可愛いキャラクタがあり、私の心の奥深いところまで突き刺さってくるような……要するに「波長が合う」作品が多くて、とても楽しかったです。先日書いたRimoさんの作品もこの会場にありましたしね。
これはいいですね。説明文も合わせて読まないとわかってもらえないと思うので一緒に掲載しました。ハレとかケとか、いかにも日本的な光と闇の概念を可愛らしい絵柄で覆い隠しているものの、包帯ににじむ血のように染み出している雰囲気が、私の無意識に眠っている感情を突き動かします。
これもまた強烈な印象を受けました。ただでさえ目というのは時によって相手を射すくめるような力があり、最近読了した『帝都物語』には目の力で超常現象を引き起こし相手を殺害する『邪視』の持ち主がいました。そのようなエネルギーが青い針金で顕在化していて、まさに「その場の空間を支配するかのような独特なプレッシャーを放つ」のです。
これはちょっと変わった展示ですね。鑑賞者参加型と言いますか。かたわらには手のひらに収まるくらいのサイズにカットされた水流の写真がいくつもあって、私が好きなものを選んで好きな場所に貼り付ける……というものだそうです。そういうものかね、といって私も素直に写真を選び、貼り付けてみました。こう、製作者側から積極的に私の感情をコントロールされるのも面白いですね。おかげで、ざわざわしていた気持ちがだいぶん落ち着きました。
本来の順番としては、先にこちらを見てアンポンタンズ展を見ました。そしてここで気持ちが前向きにスイッチしたところで、大手町にあるギャラリー ターンアラウンドに向かったのでした。
なお、アンデパンダン展ではこのような屋外会場でも展示がありました。ここは……ねえ。もうバーリトゥードというか、ストリートファイトみたいな感じですよね。私も正直、「一応、やっているっていうから見てみるか」って感じで来たので、それほど強い印象はありません。この屋外会場とタナランが比較的近いので、ちょっと寄り道をしてからタナランに行きました。そして久々に「ドール」に入れ込んでしまったのでした。
(つづく)
『展示会場については実行委員会が決定し、後日「会場決定通知書」で連絡いたします。』
公式ホームページの応募要項にそんな風に書いてありました。だからどれほど無審査で自由な展示会とはいっても「ある程度は」ギャラリーによって雰囲気のカラーリングがあったのでしょうね。というのは、この商業ビルの7階にある場所を見て思いました。
結構、ちゃんとしてるんです。……というと語弊がありそうな気もしますが、1日目にまわったバーリトゥード感が薄くて。回を重ねるごとにルールが決まって選手の戦い方も洗練されていった総合格闘技の世界みたいに、うん、いわゆる美術展の形に収まっているんです。みんな綺麗なんですよ。――そう、とっても綺麗で清潔で、ちょっと高級な感じがするんです。チフリグリさんとか中本美術館で見たような手作り感がなくて、洗練されているんです。
ロングで2枚ほど、会場の雰囲気を撮ってみましたが、こんな写真を撮りたくなるくらい整然としているんです。ちょっとエッジの利いた作品もありましたが、それさえこの「FORUSというオシャレな商業ビルの中にあるオシャレなギャラリー」の雰囲気を壊すものではありません。そういう雰囲気を一通り味わい、「よし、見たぞ!」と言って、次の会場に移動します。今度は仙台アーティストランプレイス(SARP)です。
SARPのアンデパンダン展は、こちらは先ほどの「TURN ANOTHER ROUND」よりは幅が広い印象でしたね。抽象画あり、マンガっぽい可愛いキャラクタがあり、私の心の奥深いところまで突き刺さってくるような……要するに「波長が合う」作品が多くて、とても楽しかったです。先日書いたRimoさんの作品もこの会場にありましたしね。
これはいいですね。説明文も合わせて読まないとわかってもらえないと思うので一緒に掲載しました。ハレとかケとか、いかにも日本的な光と闇の概念を可愛らしい絵柄で覆い隠しているものの、包帯ににじむ血のように染み出している雰囲気が、私の無意識に眠っている感情を突き動かします。
これもまた強烈な印象を受けました。ただでさえ目というのは時によって相手を射すくめるような力があり、最近読了した『帝都物語』には目の力で超常現象を引き起こし相手を殺害する『邪視』の持ち主がいました。そのようなエネルギーが青い針金で顕在化していて、まさに「その場の空間を支配するかのような独特なプレッシャーを放つ」のです。
これはちょっと変わった展示ですね。鑑賞者参加型と言いますか。かたわらには手のひらに収まるくらいのサイズにカットされた水流の写真がいくつもあって、私が好きなものを選んで好きな場所に貼り付ける……というものだそうです。そういうものかね、といって私も素直に写真を選び、貼り付けてみました。こう、製作者側から積極的に私の感情をコントロールされるのも面白いですね。おかげで、ざわざわしていた気持ちがだいぶん落ち着きました。
本来の順番としては、先にこちらを見てアンポンタンズ展を見ました。そしてここで気持ちが前向きにスイッチしたところで、大手町にあるギャラリー ターンアラウンドに向かったのでした。
なお、アンデパンダン展ではこのような屋外会場でも展示がありました。ここは……ねえ。もうバーリトゥードというか、ストリートファイトみたいな感じですよね。私も正直、「一応、やっているっていうから見てみるか」って感じで来たので、それほど強い印象はありません。この屋外会場とタナランが比較的近いので、ちょっと寄り道をしてからタナランに行きました。そして久々に「ドール」に入れ込んでしまったのでした。
(つづく)
アンデパンダン展、2日目(仙台市中心部編)の話の前に、同時開催された別な展覧会について触れたいと思います。
その集団の名前は「アンポンタンズ」……なんか本気なのか冗談なのか、名前を聞いた段階ではわかりませんでした。ちなみに世田谷で活動しているバンドとは関係ありません多分。
いわく「本展は仙台で同時期に開催されるアンデパンダン展2023の勝手に応援(便乗)企画です。」とのこと。でも会場は仙台市内の、それこそ昨日書いた「わたし、にしかみえない星」展も開催された仙台アーティストランプレイス(SARP)ですからね。片方でアンデパンダン展、もう片方でアンポンタンズ展……これはなかなか高度なレベルで混沌としている感じがします。
ま、一応アンデパンダン展の方を見てから、シームレスに隣の展示会場に移動しました。たまたまギャラリーの方がいらっしゃったので、その人に少し声を掛けて、いざ見てみましょう……企画展の名前は「それって、意味あるんですか。展」とのことで……むむ……。
何かにつけて意味があるから価値があり意味がないから価値がないと判断される昨今の情勢を鑑みてのテーマなのでしょうか。私はこの言葉が、あらゆる情熱を冷まし虚無に追いやる「トカトントン」と同じような意味合いの言葉だと思っていて、ひどく嫌いなんですが(私にそういうことを言ってくる人とは一生付き合いたくないレベル)、果たしてどんな「意味」を持ちだしてくるのか。ちょっと構えて見てみました。
大体一周する前に、構えは解けました。別に私に意味(=絶対的な価値)を求めていじめるような人たちはなく、皆それぞれが自由に意味があるとかないとかあってもなくてもいいんじゃないとか、そういう感じで絵と一緒にコメントしていたので、すっかり安心しました。そして今度はそれぞれの作者のコメントがA4の紙に印刷されたものを手に、もう一周しました。
特に尾勝健太さんのコメントが私にはすごく響きました。以下引用です。因みに作品のタイトルは「答えないといけないですか?」……これは今回のテーマに対するアンサーなのでしょうか。もう、この時点で結構喧嘩腰というか、企画そのものにも反発している感じですね。
絵を描くことって、意味があるんですか?
今の時代にあっては、本当に恐ろしい問いかけです。でも、それに対して皆さんそれぞれあるとかないとか分りませんとか、自分の言葉でまっすぐに答えていらっしゃいました。そもそも絵を日常的に描いていない私まで何とか答えを引き出して書いて貼り付けてきました。その時にちょうどギャラリーの方とお話しする機会があったので、このアンポンタンズって何なんですか? ということを聞いてみました。
それによると、毎年このアンデパンダン展に合わせてテーマを決めて作品を描くのだけれど、それに合わせたものを作る人がいれば全然関係なく自分の好きなものを作ってくる人もいるとか……全くもって自由な世界です。そもそもアンデパンダン展って言うのが、無審査で自由に出展できる催し物でありますが、こちらはさらに自由というか……でもみんな一定のカリテがあるからこそ、それが成立するんでしょうね。ノンセンスの物語は、実は卓越したセンスがないと書けないように。ルイス・キャロルとかね。
*
という感じで、アンポンタンズ2023「それって、意味あるんですか。展」は、ひょっとしたら本家アンデパンダン展よりもメッセージ的に強く響いたかもしれません。実際にテーマとそれに対する言葉があったからかもしれませんが。アンデパンダン展の方はあくまでも私の感情世界なので。……でも、事実として弱った心が元気になったきっかけは、アンポンタンズの皆さんのおかげです。ここで気持ちが切り替わって、徐々に動き出して、最終的にウラロジ仙台さんの「地下道3150」に参加することができたのですから。
逆に言うと、この企画展を見なければ、1年間ずっと楽しみにしてきた地下道3150にも行けなかったかもしれません。「今の私なんか、行かない方がいいんだ」って泣きべその気持ちで立ち去っていた可能性があります。実際そのくらい心が不安定だったのです。
この先もずっと、忘れません。すごく感謝してます。また来年、見に行きます!
その集団の名前は「アンポンタンズ」……なんか本気なのか冗談なのか、名前を聞いた段階ではわかりませんでした。ちなみに世田谷で活動しているバンドとは関係ありません多分。
いわく「本展は仙台で同時期に開催されるアンデパンダン展2023の勝手に応援(便乗)企画です。」とのこと。でも会場は仙台市内の、それこそ昨日書いた「わたし、にしかみえない星」展も開催された仙台アーティストランプレイス(SARP)ですからね。片方でアンデパンダン展、もう片方でアンポンタンズ展……これはなかなか高度なレベルで混沌としている感じがします。
ま、一応アンデパンダン展の方を見てから、シームレスに隣の展示会場に移動しました。たまたまギャラリーの方がいらっしゃったので、その人に少し声を掛けて、いざ見てみましょう……企画展の名前は「それって、意味あるんですか。展」とのことで……むむ……。
何かにつけて意味があるから価値があり意味がないから価値がないと判断される昨今の情勢を鑑みてのテーマなのでしょうか。私はこの言葉が、あらゆる情熱を冷まし虚無に追いやる「トカトントン」と同じような意味合いの言葉だと思っていて、ひどく嫌いなんですが(私にそういうことを言ってくる人とは一生付き合いたくないレベル)、果たしてどんな「意味」を持ちだしてくるのか。ちょっと構えて見てみました。
大体一周する前に、構えは解けました。別に私に意味(=絶対的な価値)を求めていじめるような人たちはなく、皆それぞれが自由に意味があるとかないとかあってもなくてもいいんじゃないとか、そういう感じで絵と一緒にコメントしていたので、すっかり安心しました。そして今度はそれぞれの作者のコメントがA4の紙に印刷されたものを手に、もう一周しました。
特に尾勝健太さんのコメントが私にはすごく響きました。以下引用です。因みに作品のタイトルは「答えないといけないですか?」……これは今回のテーマに対するアンサーなのでしょうか。もう、この時点で結構喧嘩腰というか、企画そのものにも反発している感じですね。
あと、いま読み返していて「そうかな!」と思ったのが、キヨさんのコメントです。また引用します。
正直昨今流行ったテーマの煽り文句が嫌いです。いや、、、簡単に乱用する人が嫌いなのかもしれません。
本質を問うための鋭い指摘ともとらえることはできますが、誰彼構わずその言葉を使うことで、無形の経験値を削ぐ怖ろしい言葉でもあると感じるからです。
おおらかな心で、細かいことを抜きにした経験値が余裕を生むと思いたいです。
そして最後に鑑賞者に向けて問いかけられた言葉と、それに対する皆様のアンサー。
意味と無意味は複雑で、主観と客観によっても違うし、時が経つにつれ変化することもありますね。なので、あまり意味に囚われず「直感と偶然」を重視して生きていきたいです。
絵を描くことって、意味があるんですか?
今の時代にあっては、本当に恐ろしい問いかけです。でも、それに対して皆さんそれぞれあるとかないとか分りませんとか、自分の言葉でまっすぐに答えていらっしゃいました。そもそも絵を日常的に描いていない私まで何とか答えを引き出して書いて貼り付けてきました。その時にちょうどギャラリーの方とお話しする機会があったので、このアンポンタンズって何なんですか? ということを聞いてみました。
それによると、毎年このアンデパンダン展に合わせてテーマを決めて作品を描くのだけれど、それに合わせたものを作る人がいれば全然関係なく自分の好きなものを作ってくる人もいるとか……全くもって自由な世界です。そもそもアンデパンダン展って言うのが、無審査で自由に出展できる催し物でありますが、こちらはさらに自由というか……でもみんな一定のカリテがあるからこそ、それが成立するんでしょうね。ノンセンスの物語は、実は卓越したセンスがないと書けないように。ルイス・キャロルとかね。
*
という感じで、アンポンタンズ2023「それって、意味あるんですか。展」は、ひょっとしたら本家アンデパンダン展よりもメッセージ的に強く響いたかもしれません。実際にテーマとそれに対する言葉があったからかもしれませんが。アンデパンダン展の方はあくまでも私の感情世界なので。……でも、事実として弱った心が元気になったきっかけは、アンポンタンズの皆さんのおかげです。ここで気持ちが切り替わって、徐々に動き出して、最終的にウラロジ仙台さんの「地下道3150」に参加することができたのですから。
逆に言うと、この企画展を見なければ、1年間ずっと楽しみにしてきた地下道3150にも行けなかったかもしれません。「今の私なんか、行かない方がいいんだ」って泣きべその気持ちで立ち去っていた可能性があります。実際そのくらい心が不安定だったのです。
この先もずっと、忘れません。すごく感謝してます。また来年、見に行きます!
それは「わたし、にしかみえない星」という名前の企画展でした。これは『門眞妙』さんと『ペロンミ』さん、『ユ、六萠』さんらのグループ展ということでした。
まず場所を探すところから始めて、大手町からどこをどう歩いたか……たぶん定禅寺通りまで来て、それから錦町に向かって歩いたのだと思いますが……ともかく1時間くらい歩いたのかな。途中でふらふらと寄り道しながら歩いたので、そのくらい時間が経っていました。
これは1年前の記憶だけなので少々不確かですが、外側から「わたし、にしかみえない星」という企画展の大きな看板と一緒に何か絵を見た気がします。その時の印象を限りなくリアルに再現するとこんな感じです。
「ほう……
……?……
うん……まあ、見てみようかな」
正直に申し上げると、この展示を見るまで『ドローイング』というものを見たことがなく、その存在さえ知らずに生きてきたので、ちょっと理解するのに時間がかかったのです。こう、展覧会に飾る絵って、鮮やかな彩色があるものばかりだと思っていたので。まあ、生まれて初めてドローイングというものを見た非美術畑の人はこういうふうに思うんだって、そのくらいの軽さで受け止めてください。
中に入ります。

いまならもっと積極的に写真を撮りまくっていたのですが、この時はまだちょっと遠慮があって、それほど写真を撮っていませんでした。それでも、ちゃんと象徴的な絵はおさえていたので、何とか格好はつくかな。
これは一緒に会場にあった『ユ、六萠』さんの創作ノート(というのかな?)です。そっと中身を見させていただきましたが、その時に、私といま自分が見ている美術の世界をさえぎっていた透明な壁がパリンッ! と音を立てて崩れ落ち――見ている私もようやく門眞さんとペロンミさんとユ、六萠さんの世界に入り込めたような気がします。
むしろ、見終わってから1日経ち、2日経ち……その時に感じたことを思い出し定着させようとするほどに、「ああ、あれは良かったなあ」という感情が押し寄せてきて、少しずつ波高が上昇していくようでした。今だったらもっと写真を撮ったのに! とか、もっとじっくり見てたくさんテキストに書き起こしたのに! とかという後悔が起こりました。まあ、これがその時の私のキャパシティ的な限界だったのでしょう。仕方がありません。よく頑張ったよ……。
これはお知らせのはがきと、会場にあった『ユ、六萠』さんのテキストです。活字を食べて生きてきた人間なので、こういうのはしっかり読みます。門眞さんの、開催にあたってのテキストもじっくり読みました。ペロンミさんは……いいんですよ。逆にSNSで何のコメントもなくパン! と画像を見せられて、ウムム!? とうなるのがいいんです。ペロンミさんは問答無用なんです。なんかすごいこと言っちゃった。いや本当に皆さんの作品がとっても好きです。
そして、今年の8月にお披露目された回顧本(?)『「わたし、にしかみえない星」の本』が発売され、それを購入して振り返ることができるようになったのは、私にとっては望外の喜びでした。一度は見えなくなってしまった星がまたきらめきだした! といって飛び上がるくらい嬉しかったのです。
この時は春日町の古書店『マゼラン』さんでお披露目会と称して小さな展示会があったので、開催期間中に4度も通い、ここぞとばかりに写真を撮りまくりました。そしてコーヒーを頂き、森茉莉さんの『贅沢貧乏』を購入し、そしてそして! 新作を持ってきた門眞妙さんにご挨拶をさせて頂いたのでした!!! もうね、もう嬉しすぎて膝が震えるし声が震えるし号泣寸前だったんです。
このように、本にサインもしていただきました。催し物としてのサイン会に並んだことはありますが、こうしてだしぬけにサインをお願いしたのはほかに一度しかありません。ただ、その時よりも心が近しく感じていたので、緊張の度合いは格段に上でした。私の宝物です。
そしてこれは、マゼランさんで行われた「おひろめ会」に展示されていたユ、六萠さんの『天界へようこそ』という作品です。マゼランの店主の高熊さんにお願いしてユ、六萠さんに連絡を取ってもらい、譲ってもらって現在は私の部屋に飾ってあります。その上には門眞妙さんの新作があります。さらにその周りも、ここ1年でお迎えしたキャンバスがあるので、とてつもなく賑やかになってきました。
*
かくして現在に至ります。ずっと考えてきた「消費されないキャラクタ」とは何か。何かって、明確な形に残るようなものではないかもしれませんが、少なくともこの日に見た作品のキャラクタたちは1年近く経った現在でも生き続けています。
その時に見たキャラクタ、読んだテキスト、小さなテレビの中に映し出された景色。
(2022年11月16日、タナラン『まあたらしい庭』にて)
私にとってそれは、ただパッと見て「可愛い!」だけじゃ成立しないような気がします。もちろんアニメも漫画も大好きなので、「可愛い!」キャラクタは大好きです。広告の看板だろうと何だろうと写真を撮ったり右クリックで保存したりします。でもその印象以上の何かがないと、すぐに気持ちが薄れて、忘れてしまう――「消費」されてしまうような気がします。
次から次へ矢継ぎ早に大量生産され世に出回り、ちょっとかじってすぐ捨てて次の新しいものに食いつくのが今の流行なのかもしれませんが……そしてそれは良いも悪いもない、「時流」とか「時勢」とかいう、私なんかが竿をさしてもすぐに流されてしまうようなものであると思うのですが……私はそういうの、ちょっとついていけないです。時流についていこうとしたら飲み込まれておぼれかけてギリギリのところで岸に流れ着いて、しばらくそこで動けなくなって、ようやく呼吸が少し楽になった。そういう感じの人類なので、消費されないキャラクタというのは私にとって必要不可欠というか、私が求めているものである気がします。
ここで「わたし、にしかみえない星」展の会場にあった門眞さんのステートメントを引用させて頂きます。
これを自分の中に落とし込むためには1年近い時間が必要だったのかなと思います。言葉の上で理解したものの心の深いところまでしみ込むには、ある程度の時間と経験が必要でした。
つまり、私はキャラクタが物凄い勢いで生産され、消費されていることを、知らなかったのです! あるいはそれを感じ取りつつも、まだ個人的無意識の闇にあって、そこから意識の此岸(しがん)に引っ張り出すことができなかったのです! だから激流にもまれ、足のつかない真っ暗な水の中で足をバタバタさせながら流され、溺れたのでしょう……。
でも、この時の言葉をずっと大切に持ち続けていたから、何とか水面に顔をだし、岸にたどり着き、息を吹き返すことができたのでしょう。消費されないキャラクタ、誰にでも見えるものではないけど私には見える星があることを知っていて、それを追い求めていたから……。
*
仙台に来て、新生活を始めて、生き方レベルで変わったことはたくさんあります。色んな場所に行って、イベントにも行って、SNSで知り合って……それを何度か文章にしたことはあります。
ただ、これまで門眞妙さんやペロンミさんやユ、六萠さんのことについては、まとまった形で話したり書いたりしたことがなかったので、この機会とばかりにまとめてみました。あれもこれもと盛り込んでいたら、なんだか分量ばかり多くて不格好で胃もたれしそうな爆盛り料理みたいになってしまいましたが、大好きを語る時はどうしたって一生懸命になっちゃうのでお許しください。
曇っていたり、太陽がまぶしすぎたりして、しばしば見えなくなるけれど、そこに星があると信じられるから、私は生きていけそうです。たまにくじけそうになるけど、そんな時は時間をかけて元気になるまで待つことにします。

また、こういう機会があることを信じています。
まず場所を探すところから始めて、大手町からどこをどう歩いたか……たぶん定禅寺通りまで来て、それから錦町に向かって歩いたのだと思いますが……ともかく1時間くらい歩いたのかな。途中でふらふらと寄り道しながら歩いたので、そのくらい時間が経っていました。
これは1年前の記憶だけなので少々不確かですが、外側から「わたし、にしかみえない星」という企画展の大きな看板と一緒に何か絵を見た気がします。その時の印象を限りなくリアルに再現するとこんな感じです。
「ほう……
……?……
うん……まあ、見てみようかな」
正直に申し上げると、この展示を見るまで『ドローイング』というものを見たことがなく、その存在さえ知らずに生きてきたので、ちょっと理解するのに時間がかかったのです。こう、展覧会に飾る絵って、鮮やかな彩色があるものばかりだと思っていたので。まあ、生まれて初めてドローイングというものを見た非美術畑の人はこういうふうに思うんだって、そのくらいの軽さで受け止めてください。
中に入ります。
いまならもっと積極的に写真を撮りまくっていたのですが、この時はまだちょっと遠慮があって、それほど写真を撮っていませんでした。それでも、ちゃんと象徴的な絵はおさえていたので、何とか格好はつくかな。
これは一緒に会場にあった『ユ、六萠』さんの創作ノート(というのかな?)です。そっと中身を見させていただきましたが、その時に、私といま自分が見ている美術の世界をさえぎっていた透明な壁がパリンッ! と音を立てて崩れ落ち――見ている私もようやく門眞さんとペロンミさんとユ、六萠さんの世界に入り込めたような気がします。
むしろ、見終わってから1日経ち、2日経ち……その時に感じたことを思い出し定着させようとするほどに、「ああ、あれは良かったなあ」という感情が押し寄せてきて、少しずつ波高が上昇していくようでした。今だったらもっと写真を撮ったのに! とか、もっとじっくり見てたくさんテキストに書き起こしたのに! とかという後悔が起こりました。まあ、これがその時の私のキャパシティ的な限界だったのでしょう。仕方がありません。よく頑張ったよ……。
これはお知らせのはがきと、会場にあった『ユ、六萠』さんのテキストです。活字を食べて生きてきた人間なので、こういうのはしっかり読みます。門眞さんの、開催にあたってのテキストもじっくり読みました。ペロンミさんは……いいんですよ。逆にSNSで何のコメントもなくパン! と画像を見せられて、ウムム!? とうなるのがいいんです。ペロンミさんは問答無用なんです。なんかすごいこと言っちゃった。いや本当に皆さんの作品がとっても好きです。
そして、今年の8月にお披露目された回顧本(?)『「わたし、にしかみえない星」の本』が発売され、それを購入して振り返ることができるようになったのは、私にとっては望外の喜びでした。一度は見えなくなってしまった星がまたきらめきだした! といって飛び上がるくらい嬉しかったのです。
この時は春日町の古書店『マゼラン』さんでお披露目会と称して小さな展示会があったので、開催期間中に4度も通い、ここぞとばかりに写真を撮りまくりました。そしてコーヒーを頂き、森茉莉さんの『贅沢貧乏』を購入し、そしてそして! 新作を持ってきた門眞妙さんにご挨拶をさせて頂いたのでした!!! もうね、もう嬉しすぎて膝が震えるし声が震えるし号泣寸前だったんです。
このように、本にサインもしていただきました。催し物としてのサイン会に並んだことはありますが、こうしてだしぬけにサインをお願いしたのはほかに一度しかありません。ただ、その時よりも心が近しく感じていたので、緊張の度合いは格段に上でした。私の宝物です。
そしてこれは、マゼランさんで行われた「おひろめ会」に展示されていたユ、六萠さんの『天界へようこそ』という作品です。マゼランの店主の高熊さんにお願いしてユ、六萠さんに連絡を取ってもらい、譲ってもらって現在は私の部屋に飾ってあります。その上には門眞妙さんの新作があります。さらにその周りも、ここ1年でお迎えしたキャンバスがあるので、とてつもなく賑やかになってきました。
*
かくして現在に至ります。ずっと考えてきた「消費されないキャラクタ」とは何か。何かって、明確な形に残るようなものではないかもしれませんが、少なくともこの日に見た作品のキャラクタたちは1年近く経った現在でも生き続けています。
その時に見たキャラクタ、読んだテキスト、小さなテレビの中に映し出された景色。
(2022年11月16日、タナラン『まあたらしい庭』にて)
私にとってそれは、ただパッと見て「可愛い!」だけじゃ成立しないような気がします。もちろんアニメも漫画も大好きなので、「可愛い!」キャラクタは大好きです。広告の看板だろうと何だろうと写真を撮ったり右クリックで保存したりします。でもその印象以上の何かがないと、すぐに気持ちが薄れて、忘れてしまう――「消費」されてしまうような気がします。
次から次へ矢継ぎ早に大量生産され世に出回り、ちょっとかじってすぐ捨てて次の新しいものに食いつくのが今の流行なのかもしれませんが……そしてそれは良いも悪いもない、「時流」とか「時勢」とかいう、私なんかが竿をさしてもすぐに流されてしまうようなものであると思うのですが……私はそういうの、ちょっとついていけないです。時流についていこうとしたら飲み込まれておぼれかけてギリギリのところで岸に流れ着いて、しばらくそこで動けなくなって、ようやく呼吸が少し楽になった。そういう感じの人類なので、消費されないキャラクタというのは私にとって必要不可欠というか、私が求めているものである気がします。
ここで「わたし、にしかみえない星」展の会場にあった門眞さんのステートメントを引用させて頂きます。
現代において私たちは消費せずには生きてゆけない。各方面でその速度は早まっているように思う。”キャラクター”も同様に欲望を喚起し消費されることを宿命づけられている表象だが、一方で私たちに安心を与えてくれる、お守りのような存在でもある。ここにいる三名は、まずは自身のために制作を始める。その過程を踏まなければ、”キャラクター”へも、作ることそのものへも、そして鑑賞者へもアクセスできないことを知っているからだ。
わたしにしか見えない星が、あなたにも見えるかもしれない。
その事に希望を託して。
門眞妙
これを自分の中に落とし込むためには1年近い時間が必要だったのかなと思います。言葉の上で理解したものの心の深いところまでしみ込むには、ある程度の時間と経験が必要でした。
つまり、私はキャラクタが物凄い勢いで生産され、消費されていることを、知らなかったのです! あるいはそれを感じ取りつつも、まだ個人的無意識の闇にあって、そこから意識の此岸(しがん)に引っ張り出すことができなかったのです! だから激流にもまれ、足のつかない真っ暗な水の中で足をバタバタさせながら流され、溺れたのでしょう……。
でも、この時の言葉をずっと大切に持ち続けていたから、何とか水面に顔をだし、岸にたどり着き、息を吹き返すことができたのでしょう。消費されないキャラクタ、誰にでも見えるものではないけど私には見える星があることを知っていて、それを追い求めていたから……。
*
仙台に来て、新生活を始めて、生き方レベルで変わったことはたくさんあります。色んな場所に行って、イベントにも行って、SNSで知り合って……それを何度か文章にしたことはあります。
ただ、これまで門眞妙さんやペロンミさんやユ、六萠さんのことについては、まとまった形で話したり書いたりしたことがなかったので、この機会とばかりにまとめてみました。あれもこれもと盛り込んでいたら、なんだか分量ばかり多くて不格好で胃もたれしそうな爆盛り料理みたいになってしまいましたが、大好きを語る時はどうしたって一生懸命になっちゃうのでお許しください。
曇っていたり、太陽がまぶしすぎたりして、しばしば見えなくなるけれど、そこに星があると信じられるから、私は生きていけそうです。たまにくじけそうになるけど、そんな時は時間をかけて元気になるまで待つことにします。
また、こういう機会があることを信じています。
この記事が公開されるのは11月3日……「文化の日」です。
積みあがった記事が押されて押されてついに11月3日まで押し出されたわけですが、せっかくなので、この1年近く温め続けてきた(と同時に、なんだか形が見えなくて少々モヤモヤしていた)ものについて、まとめてみようかと思った次第です。
何せ去年のこの時期というのは、ちょうどTwitterが面白くなってきた頃だったので、ブログの方はほとんど開店休業でした。そのため、結構いろんな体験をしているにもかかわらず、あんまり深い文章が無いんですよね。
というわけで一生懸命思い出しながらの内容とはなりますが、できる限りのことをします。
それは去年の11月に行った、ふたつの美術展のことです――。
もう1年前の記事だし許していただきたいと思うのですが、去年の河北新報の夕刊でこの記事を見た時、
「アニメっぽい」
そう思いました。アニメっぽいというのはひどく漠然としているのですが、それは私が好きなアニメのキャラクタの要素がいくつも混在しているからです。ただ、それでも一番強く連想したのは、「ラブライブ 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」というアニメのキャラクタですね。その中のキャラクターー特に私が好きな、いわゆる「推しの子」――の髪の毛がピンク色だったので、何かそれっぽいな、と思ったのです。
別にそれまでは好んでギャラリー通いなどするようなことはなかった……正直に言うと、私なんかが急にギャラリーに行ったら、ディレッタントな感じに思われるんじゃないかという、意味の分からない不安があって……そもそもこうして新聞にでも載らない限り、その開催のことも知らないまま生きていくことになったと思うのですが……ともかく心惹かれたのなら行ってみればいいか、ということで足を運びました。
この時は一応「ハッシュタグ:タナランとつける」という条件の下で写真を撮ってSNSに公開してもいいという掲示があったので、遠慮がちに数枚の写真を撮りましたが、後ろ姿の女の子の絵が中心でしたね。
おや、随分と可愛らしいテレビがあるぞ……と思って写真を撮りました。映像と音声による表現作品もありました。1年前のことですし、そもそも見る側の私も感覚が今ほど敏感ではなかったので、具体的にどのようなものだったかというと甚だ曖昧なんですが……じーっと見つめて耳を澄ませていると、徐々に今いる自分の景色がぼんやりしてきて、心地いい想像の世界に浸ることができたような感覚があります。
「消費されない少女を表現したい。(直接的でなく)キャラクターを挟むことで被災地と向き合うことができると感じる」
河北新報の記事でこのようにおっしゃっていた門眞さんの意図を念頭に置きながら見ました。正面を向いた女の子の絵もあり、それはとても可愛らしい絵柄で、割とわかりやすく心を打ったのですが、それでも強く印象に残ったのは後ろ向きの女の子たちでした。それはあまり見慣れない構図だったからだとは思います。例によってここでその意図とか効果とかを説明する知識がない私のきわめて感情的な――しかもそれは、ほぼ1年前に見た記憶とその時に撮影した写真をいま見直しての印象が入り混じった、非常に不確かで頼りない――印象となってしまいますが、ともかく言葉にして言います。
後ろ向きの女の子の絵を見た時、なんか、安心感があるんですよね。一体感というか。それは視線を意識しなくてもいい(私の個人的な)心安さなのか、同じ景色を見ているという一体感なのか。その両方という気もしますが、ともかく事実として、視線も意識も彼女が見ている向こう側――海であるとか、防波堤であるとか、はたまた造成中の住宅地であるとか――に向けることができるんですよね。
それが門眞さんの意図しているところなのか、そうでないのか――何分にも中学時代の美術の成績が「2」だったという強烈なコンプレックスが四半世紀が経過した今なお残り続ける身なので、まったく自信がないのですが、私はそのように感じました。いまデータが残っている作品の写真を見直していると、そう思いました。
そしてそれ以来、門眞さんの絵が大好きになりました。
これは後に、2017年に塩竃で開催された「あなたと海のあいま、通り過ぎてゆくすべて」の本も買って読んだ(見た)記憶も加味して、2023年10月現在の私が思うことなのですが、門眞さんの絵が好きな理由は、限りなく澄み切っている印象があるからです。言い換えれば、何かと感じやすくまた余計なことを考えやすい私に対して、そういう余計な思いをさせない心地よさ――それは先述した、視線を意識しなくてもいい心安さということに由来するのでしょうか――。
だから私も自分なりに「消費されないキャラクタ」というものは何だろう? と考えながら生きてきた次第です。それに関しては、このあと行った門眞さんも参加しているグループ展の場でも突きつけられ、1年くらいずっと大切に心の中で温め続けたものでした。その結果どうなったのかというのは、次回の記事で書きます。仙台アーティストランプレイス(SARP)で開催されたグループ展「わたし、にしかみえない星」展について……そして、先月開催された関連イベントその他もろもろのお話です。
*
こちらの絵は今年の10月にタナランで開催されたアンデパンダン展に行った時、カフェスペースのカウンターの上にあるのを見つけて写真を撮ったものです。特に説明書きとかはなかったのですが、パッと見て「あ、門眞妙さんの絵だ」と思ったものの、万が一間違っていたら一生ファンと名乗る資格がないくらいの失態となるので、それを恐れて言い出せませんでした。
後日お店の人に「これって誰の作品ですか?」という聞き方で問うたところ門眞さんの名前が出てきたので「そうだと思っていたんですが……」と後だしじゃんけんみたいな確認をしたので、堂々と掲載させて頂きます。別にクイズ番組とか当てっことかしているわけじゃないんだから、後出しも何もないとは思うんですけどね。
ただ、何のヒントもなく絵だけを見て『門眞妙さんの絵』とわかるくらい、私の感性も生きてきているのだということが確認できました。そういうこともあって、このようなテキストを書かせて頂きました。
積みあがった記事が押されて押されてついに11月3日まで押し出されたわけですが、せっかくなので、この1年近く温め続けてきた(と同時に、なんだか形が見えなくて少々モヤモヤしていた)ものについて、まとめてみようかと思った次第です。
何せ去年のこの時期というのは、ちょうどTwitterが面白くなってきた頃だったので、ブログの方はほとんど開店休業でした。そのため、結構いろんな体験をしているにもかかわらず、あんまり深い文章が無いんですよね。
というわけで一生懸命思い出しながらの内容とはなりますが、できる限りのことをします。
それは去年の11月に行った、ふたつの美術展のことです――。
もう1年前の記事だし許していただきたいと思うのですが、去年の河北新報の夕刊でこの記事を見た時、
「アニメっぽい」
そう思いました。アニメっぽいというのはひどく漠然としているのですが、それは私が好きなアニメのキャラクタの要素がいくつも混在しているからです。ただ、それでも一番強く連想したのは、「ラブライブ 虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会」というアニメのキャラクタですね。その中のキャラクターー特に私が好きな、いわゆる「推しの子」――の髪の毛がピンク色だったので、何かそれっぽいな、と思ったのです。
別にそれまでは好んでギャラリー通いなどするようなことはなかった……正直に言うと、私なんかが急にギャラリーに行ったら、ディレッタントな感じに思われるんじゃないかという、意味の分からない不安があって……そもそもこうして新聞にでも載らない限り、その開催のことも知らないまま生きていくことになったと思うのですが……ともかく心惹かれたのなら行ってみればいいか、ということで足を運びました。
この時は一応「ハッシュタグ:タナランとつける」という条件の下で写真を撮ってSNSに公開してもいいという掲示があったので、遠慮がちに数枚の写真を撮りましたが、後ろ姿の女の子の絵が中心でしたね。
おや、随分と可愛らしいテレビがあるぞ……と思って写真を撮りました。映像と音声による表現作品もありました。1年前のことですし、そもそも見る側の私も感覚が今ほど敏感ではなかったので、具体的にどのようなものだったかというと甚だ曖昧なんですが……じーっと見つめて耳を澄ませていると、徐々に今いる自分の景色がぼんやりしてきて、心地いい想像の世界に浸ることができたような感覚があります。
「消費されない少女を表現したい。(直接的でなく)キャラクターを挟むことで被災地と向き合うことができると感じる」
河北新報の記事でこのようにおっしゃっていた門眞さんの意図を念頭に置きながら見ました。正面を向いた女の子の絵もあり、それはとても可愛らしい絵柄で、割とわかりやすく心を打ったのですが、それでも強く印象に残ったのは後ろ向きの女の子たちでした。それはあまり見慣れない構図だったからだとは思います。例によってここでその意図とか効果とかを説明する知識がない私のきわめて感情的な――しかもそれは、ほぼ1年前に見た記憶とその時に撮影した写真をいま見直しての印象が入り混じった、非常に不確かで頼りない――印象となってしまいますが、ともかく言葉にして言います。
後ろ向きの女の子の絵を見た時、なんか、安心感があるんですよね。一体感というか。それは視線を意識しなくてもいい(私の個人的な)心安さなのか、同じ景色を見ているという一体感なのか。その両方という気もしますが、ともかく事実として、視線も意識も彼女が見ている向こう側――海であるとか、防波堤であるとか、はたまた造成中の住宅地であるとか――に向けることができるんですよね。
それが門眞さんの意図しているところなのか、そうでないのか――何分にも中学時代の美術の成績が「2」だったという強烈なコンプレックスが四半世紀が経過した今なお残り続ける身なので、まったく自信がないのですが、私はそのように感じました。いまデータが残っている作品の写真を見直していると、そう思いました。
そしてそれ以来、門眞さんの絵が大好きになりました。
これは後に、2017年に塩竃で開催された「あなたと海のあいま、通り過ぎてゆくすべて」の本も買って読んだ(見た)記憶も加味して、2023年10月現在の私が思うことなのですが、門眞さんの絵が好きな理由は、限りなく澄み切っている印象があるからです。言い換えれば、何かと感じやすくまた余計なことを考えやすい私に対して、そういう余計な思いをさせない心地よさ――それは先述した、視線を意識しなくてもいい心安さということに由来するのでしょうか――。
だから私も自分なりに「消費されないキャラクタ」というものは何だろう? と考えながら生きてきた次第です。それに関しては、このあと行った門眞さんも参加しているグループ展の場でも突きつけられ、1年くらいずっと大切に心の中で温め続けたものでした。その結果どうなったのかというのは、次回の記事で書きます。仙台アーティストランプレイス(SARP)で開催されたグループ展「わたし、にしかみえない星」展について……そして、先月開催された関連イベントその他もろもろのお話です。
*
こちらの絵は今年の10月にタナランで開催されたアンデパンダン展に行った時、カフェスペースのカウンターの上にあるのを見つけて写真を撮ったものです。特に説明書きとかはなかったのですが、パッと見て「あ、門眞妙さんの絵だ」と思ったものの、万が一間違っていたら一生ファンと名乗る資格がないくらいの失態となるので、それを恐れて言い出せませんでした。
後日お店の人に「これって誰の作品ですか?」という聞き方で問うたところ門眞さんの名前が出てきたので「そうだと思っていたんですが……」と後だしじゃんけんみたいな確認をしたので、堂々と掲載させて頂きます。別にクイズ番組とか当てっことかしているわけじゃないんだから、後出しも何もないとは思うんですけどね。
ただ、何のヒントもなく絵だけを見て『門眞妙さんの絵』とわかるくらい、私の感性も生きてきているのだということが確認できました。そういうこともあって、このようなテキストを書かせて頂きました。