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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
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皆様ご存知の通り、私の現住所である岩手県滝沢市で天地を揺るがす大事件が起こりました。

私は特別にAKB支持者ではありませんが、アイドルの女の子とファンが触れ合う大事な機会をぶち壊しにするだけでなく、女の子に怪我をさせるという外道ぶりは、もはや万死に値すると思うのですが、この場所ではこれ以上触れません。

というのは私自身、AKB握手会に匹敵する? ときめきイベントを体験してきたのでね。その体験のおかげでAKBファンの人の気持ちも少しは理解できるのですが、まずは私自身の気持ちをまとめるのが先だという話です。

詳細は後ほどホームページの方で公開する予定ですが、ダイジェストで。

1.一関市花泉町の「花と泉の公園」に行った
2.そこで開催されている「ぼたん・しゃくやく祭り」に参加した
3.併設の「ベゴニア館」で鉢植えを2つと「関連グッズ」を少々買った
4.「萌え萌えキュン(はぁと)」な場所に行った

特に4.については、なんというか、これはもはやペレストロイカあるいは故・山本小鉄さんがTwitterをやったことに匹敵する大事です。

小鉄「もうこれは…あれだね、異次元の世界だね」

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「ハンサムウーマン新島八重」を読みました。

これはいわゆる『大河本』です。いわゆる、「○○年度の大河ドラマはコレです!」というのが発表されると、突然それをテーマに扱った雑誌・ムック・単行本が刊行され、本屋には専門コーナーが立ち上がり、それまで関心もなにもなかった人が流行に乗っかってたしなみとして読む本です。

まあ、かく言う私も新島八重という人の名前は大河ドラマが始まってから知ったクチなので、あまり悪く言えませんが、それでも私が読んだのは藤本ひとみ先生の『幕末銃姫伝』(2010年初版)ですから。いかにも「ブームに乗っかって出しました」っていう本はやめておこうと思ったのです。

とはいえ、藤本先生の山本八重は続編でメタルギアばりの潜入任務をするので(※)ちょっと史実を勉強しておかなくちゃね……と思い、大河本代表としてこれを読んだ次第です。


結論をズバリ申し上げると、かなり面白かったです。新島八重だけではなく山本覚馬、川崎尚之助のことなども取り上げられていて、

「やはり、いくら八重が特殊な気質を持っていたとしても、周りの人たちの協力なくては花開くことはなかったのだ」

ということが、よくわかりました。会津流山本家仕込みのの超・頑固気質をベースにアメリカ流新島襄仕込みの極・開明思想を盛り込んだ、まさに『ハンサムウーマン』なのです。



それと同時に、私の心もまた大きく開かれたような気がします。

昨年から同じ幕末時代でも佐幕側の人が主人公の小説を読みまくり、さらに山岡荘八先生の『小説徳川家康』『柳生宗矩』をも読み、極めて親徳川的な思想になっていたのですが、小学生の頃に好きだった人物は実は勝海舟でした。ええ、坂本竜馬よりも勝海舟だったんです。

ともすればホラふきだの何だのと批判されることも多いですが、「だからどうしたよ」と笑い飛ばせる度量を持った人ですからね。たぶん相手が刀を抜いてきても、

「粋じゃねえなあ。そんなもん引っ込めな」

とかって、江戸弁で一喝して追い返すことでしょう(岡田以蔵に危ういところを助けてもらったことはありましたが)。

そういう性格だからなのか、外国のことを偏見なく見て「新しい時代」が来ることをちゃんと理解し、それを佐幕倒幕問わず多くの人にどんどん広めていったのが、すごいですよね。

藩祖以来の恩義に報いるとか、徳川家のために頑張るとか、徳川も何も関係ないけど自分の『意地』を貫き通すために戦うとか、徳川も何も関係ないけどご近所さんがイジメられてるからそれを助けてあげようとしたとか、徳川も何(中略)せっかく正装でビシッと決めて京都まで遠路はるばる行ったのに結婚式の三次会ムードでフランクすぎる対応をされて激怒したとか……色々な理由があって幕府側に立ち、戊辰戦争で死んでいった人たちはたくさんいます。西郷頼母の家族のように集団自決した人たちもいます。

そういった人達を「時流が見えなかった愚かな人たち」というつもりはありません。昨年はそういう(従来の私が持っていた)考えを否定するために徹底的に本を読み、かなり佐幕側に偏っていました。

それが今回、大きく反対方向に引き戻されました。佐幕でも倒幕でもない。新しい時代を切り開くのは刀槍でもなく鉄砲でもなく人の心なのだ。ーーこんなことを私が言ったら「そんなに甘いもんじゃねえよ」と一笑に付されることでしょうが、勝海舟は江戸開城までこぎつけたし、坂本竜馬も志半ばで倒れたものの多くの人に影響を与えましたから、全くの夢物語というわけではないでしょう。

山本覚馬もそういった先進的な考え方の持ち主だったし、維新後は八重もどんどん変わりました。
つまり心のコアな部分にゆらぎがなければ、時代に合わせて「ならぬものはならぬ、良い物は良い」と受け入れていくのが、いいのかもしれません。

……まだちょっと上手にまとめられませんが、今後はもっとニュートラルな立ち位置で本を読んでいきたいと思います。


※ ある人物を救出するために愛用のスペンサー銃を手に取り収容所に潜入する。危うくこれが史実だと触れ回るところでした……

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東スポWebにて井原慶子さんの記事が出ていたので、それに関連する話をします。昨日の記事とも、ちょっと関係あるかもしれません。

井原慶子「ル・マン」に女性一人だけ参戦

まあ女性レーサーというと、モデルなのか何なのかよくわからない人もたまにいますが、井原慶子さんは世界に通用するレーサーです。フェラーリF355のワンメイクレースから始まり、国際F3選手権にも出場した経歴を持ち、ル・マンにも去年、おととしと参戦しています。残念ながらマシントラブルで完走はできませんでしたが、今年も参加するということなので、いぬがみはまたもや全力応援します! 何せ99年ごろからかれこれ10年以上追っかけてますから!


あとは、最近はやはりトヨタが頑張っているのでね。しかも、ただ参加するだけじゃなく、ちゃんと優勝できるスペックの車で頑張っているので、応援にもつい熱が入ってしまいます。

正直なところ21世紀に入ってからはアウディが強すぎて、あまり興味がありませんでした。日本のチームが優勝したこともありましたが、それだってアウディのワークスカーを走らせての結果だし。

二輪のレースが「乗り手8割、マシンが2割」であるのに対し、四輪のレースはその逆であると言いますから、ことル・マンについては「日本人が優勝」とか「日本のチームが優勝」というよりも「日本の車が優勝」ということに価値があると思います。だから、1991年のマツダの優勝は、本当に素晴らしいと思うのです。

98年には日産が3位に、99年にはトヨタが2位になったものの、なかなか優勝まではたどり着けない日本のメーカー。以来すっかりご無沙汰でしたが、2012年シーズンに出てきたレーシングカー「TS030」は、アウディを向こうに回しても互角以上に張り合える高性能マシン。レースによってはアウディを抑えて優勝したこともありました。

そして今年からは新型マシン「TS040」で開幕2連勝! アウディも、これまた久々に参戦した名門ポルシェも抑えて優勝してしまうのだから、期待せずにはいられません。まあ24時間走り続けるという特殊な環境だけに、一発の速さだけでなく最後まで走りきれる信頼性・耐久性も大事です。果たしてどうなるのか? 6月のレースが実に楽しみであります。

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思うところをすべて書こうとするとなかなかまとまらないので、シンプルにまとめていきます。これがすべてではないし、そもそもこの記事をもって何かを訴えたいわけではない、というのはいつもの通りです。


現在『ハンサムウーマン新島八重』という本を読んでいます。

新島八重関連の本と言えば藤本ひとみ先生の『幕末銃姫伝』と『維新銃姫伝』ですが、これは史実を追いかけた本です。一冊くらいはこういう真面目な本を読まないとね、と思い湖山図書館から借りてきました。

まだ読んでいる途中なので詳しい感想は後にしますが、実はちょっと「恐いな……」と思っていました。どうしてかといえば、この本が女性によって書かれた本だからです。

以前、漫画やアニメの……いわゆる『紅一点』というものについて書かれた本を読んだことがありました。私もまた少年時代からそういうヒロインに心ときめいた男のひとりなのですが、そういった概念を女性の側から見れば、もっとニュートラルな観点からみられるんじゃないのか? と思って読んだのですが……。

……その……なんか、ちょっとビビってしまったんですよね。少年漫画、少女漫画の『紅一点』のパターンを上げてくれるのは結構なんですが、それが『男性から見た勝手な女性のイメージ』という批判になり、やがて『男性的な考え方』というか男性自体への批判に流れていって。なんとか頑張って最後まで読みましたが、男性そのものである私自身がヒステリックな批判の矢面に立たされたような気がしました。以来「女性が女性をテーマにした」本に対して、少々警戒するようになったのです。


「女にはできない」「女のくせに」という考えは否定されるべきだと思っています。でも、「男だけじゃなく女でもできる」ということに必要以上にこだわるのも、また違うのかなという風に考えています。というか、こないだ「龍が如く5」をプレイしていて気付かされました。

割合として男性のほうが多い世界(競馬、モータースポーツ、海賊、戦場など)にあって活躍する女性に感情が動くのは、私が男性である以上、仕方がないことだと思います。ただ、それが女性だからと批判するのも、反対にもてはやすことも、私が求める理想とは違うようです。

あいにくと私はまだ心の修行が足りず、その境地まではいつになったらたどりつけるのかわかりませんが、常にそういうことに気をつけて行かなければ。

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昨日FMのラジオ番組で、70年代の音楽を特集していたのを聞きました。最初はかぐや姫、NSPなどのフォークソングから始まり、そのあとサディスティック・ミカ・バンドに。ちょうどそこで車を降りたので、「タイムマシーンにお願い」が終わるか終わらないかというところまでだったのですが、大分堪能しました。

昔はフォークソングって、好きじゃなかったんですよね。何せ私は81年生まれなので、ロックだテクノだアニソンだという楽曲が好きだったんです。……でも、ここ1年くらいでAM局(IBC岩手放送)を聞くようになり、その影響でフォークソングを聞く機会が多くなり、その言葉の威力というか……昨今の流行曲と比べて「言葉を大事にしているな」という感じがしてからは、徐々に受け入れられるようになりました。

もともとこのラジオ番組は時の流行曲(洋楽)をピックアップするようなものだったので、なんかFMっぽくないとか、前の方が良かったとか、そう思わないわけでもありませんが……ま、こうして色々と堪能しているのだし、これでいいのかな。


私が最後に聞いた「サディスティック・ミカ・バンド」は、音楽ジャンルとしては「ファンク」になるんでしょうか。あまりそういうカテゴリ分けは自信がないんですが、昔オーケンさんこと大槻ケンヂさんのエッセイで、ファンク音楽の例として名前が出ていたような気がするんです。

名前じたいは高校生の頃から知っていました。高校生当時(今も?)Q盤という、古い歌手の曲をCDに復刻して発売しているレーベルがあって、そこにヤプーズとかと一緒に並んでいたのを見ていたのです。そして個人的理由から「ミカ」という名前に尋常じゃない思い入れがあるので、ずっと覚えていました。

こうして、ちゃんと聞いたのは初めてかな。ミカという名前云々を抜きにしても、「もっと聞いてみたい」と思いました。


そしてミカというとミカ・スレイトンいやそれもあるんですけど、先に思いついたのは舞踏家の伊藤ミカさんでした(故人)。今こうして調べてみると、伊藤ミカさんが活躍されていたのは60年代で、1970年1月には事故で亡くなっているため、「タイムマシーンにお願い」が発表された時代とは少しズレるんですが、そのあたりのイメージが混同しました。

60年代のミカ。70年代のミカ。80年代、そして90年代のミカ。どうしてもこの名前の女性には、特別な感情を持って見てしまいます。70年代のミカはバンド名ですけどね。

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小林秀雄の文章はものすごく難しく、読むのは容易ではありません。ちょっとずつちょっとずつ読んでいます。

まあ、こちらは自分で買った本なので、じっくり読んでいけばいいと思っております。また、図書館の前を通るとついつい立ち寄ってしまう癖がついてしまったので、またもや数冊の本を借り、そちらを読み始めたところです。

その一冊が、伊奈かっぺいさんの「あれもうふふ、これもうふふ」というエッセイ集です。これは大変に読みやすいので、2時間弱で一気に読み終えてしまいました。

内容としては伊奈かっぺいさんがこれまで書きためたメモなどを再構成、収録したものです。一人暮らしをしている期間が長かった伊奈かっぺいさんは、日記を書いたり手紙を書いたりして「暇をつぶしていた」そうで、とにかく面白いことや楽しいことをたくさん書いていたそうです。

そんな伊奈かっぺいさんの文章はきわめて真面目……なんですが……内容は大変に面白おかしいものです。もう終始「うふふ、うふふ」と笑いっぱなしでした。やれやれ。

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今日は岩手日報で読んだ紫波町出身のシンガーソングライター「fuwara」さんのセカンドシングル「1234しわちょー!」を買いに、オガールプラザという場所に行って来ました。

オガールプラザというのは、公式ホームページによれば、紫波中央駅前都市整備事業というプロジェクトにもとづき建てられたもので、民間施設と公共施設が混ざったような建物です。運営は「オガールプラザ株式会社」というもので、テナントもいくつか入っているんですが、中央棟には図書館と地域交流センターとかいうのがありました。

そのfuwaraさんのCDは自主制作のため一般のショップには流通せず、この地域交流センターで販売している……という話を聞いて、公式ホームページを見て場所を確認して、実際に行ってみたのですが、なんと月曜日は休館日でした。どうして公式ホームページを見た時に定休日についても確認しなかったのか。いつもの慌て者ぶりを発揮した次第です。

ただ、そのまま帰ってしまったのでは、せっかく20キロ以上も離れた紫波町に来た意味がありません。そこで、以前から予定していたこと(買い物とか散髪とか)を紫波町で済ませ、さらに国道沿いの大きなショッピングセンターのゲームコーナーにある、たぶんそこにしかないようなちょっと昔のゲームをやりました。

とにかくそうやって、「紫波町じゃないとできないこと」をして帰ってきた次第です。

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久々に買った本を読んでいます。小林秀雄の『モオツァルト・無常という事』です。

先日もちょっと書きましたが、ひとえに『無常という事』を16年ぶりに読みたいと思って買いました。

あとは、「美しい花がある。花の美しさというものはない」といった趣旨のことを見て、どうやらそれがこの評論集に収録されている『当麻』に出てきた言葉らしい、というのを知ったので、「まあ一冊くらい、手元においておいてもいいよな」と思い買った次第です。ちなみに同時に買ったのは村山早紀先生の『ルリユール』でした。これもまた、同じような理由です。感情的には「ぜひ、手元に置いときたい!」という感じで、かなり強力な思いですが。


いやはや、正直なところ、超・難解な文章です。こんなことを言うと、まるで自分はアホーだと言っているような感じですが、嘘をついても仕方がないので正直に言います。ほんの数ページを読むのに、10分とか15分とか、そのくらいかかっています。

これまで確かに多くの本を読んできたから、少しはいいだろうと思っていたのですが、読んできたのは主に小説でしたからね(しかも小中学生向けの本も少なくないし)。こうした評論文はあまり読んでこなかったですから、結構、苦戦しています。こんなに読み進めるのがツライのは、アシモフの科学エッセイ以来です。

多分こういうのって、読み手にもある程度の知識がないとダメなんですよね。アシモフの科学エッセイもそうだと思うんですけど、『モォツアルト』ならモーツァルトの音楽はどういうものなのか? というのをある程度、読み手もわかっていなくちゃいけない。さらにゲーテとかニーチェとかスタンダールとかのことも知らなきゃいけない。モーツァルトと言われてキダ・タロー先生の方が先に浮かぶような奴は「帰れ!」というところです。門前払いどころか江戸十里四方所払いと言ったところです。

そういう知識、見解を持った人が読んで初めて、この人の言うことが「そうだったのか!」とわかるわけであって、極めて断片的な知識しかない私などはバラエティ番組に出てくるバカタレントのようなリアクションを取るしかないわけです。


ただ、実は、わからないならわからないなりに読み進めていけばいいかなとも思っています。最初からちゃんと理解してやろうというのが思い上がりというか、ケンシロウ風に「すでにそれが過ちだということに気づかないのか」と言われかねないことですから。はう!! あおおえへげえっ!!(例の断末魔)

それに、一応日本語の文章ですからね。フランス語とかアラビア語の文章じゃないですから、数パーセントくらいはわかります。「無常という事」を高校生の頃に(現代文の授業で)読んだ時も一部――思い出が美しいのは、過去の方で余計な思いをさせないためである、ということ――を、ずっと覚えていて、それを頼りに今回こうして本を手に入れたわけですし。

まあ、これをスタートとして、色々な知識を深めた頃に読みなおして、「そうだったのか……」と味わえればいいかなと思っています。そのために、わざわざ買い入れたのだし。

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本当はしばらく経ってからプレイするつもりだったのですが、「まあ、やらなきゃ収まらないことだし、早いところ手をつけておこう」と思い、『龍が如く5』を始めました。

しかしながら『クロヒョウ2』の時のように、「もうちょっと、もうちょっと」と言ってプレイすると、またプレイヤーの方が参ってしまいます。実際、クロヒョウ2クリア直前に「ちょっとお試し」つってプレイしてみたのですが、私が知っている桐生さんと違う! というショック(※)も相まって、1時間ほどでフラフラになってしまいました。

というわけで今回は「次のイベントを見たらセーブしてやめよう」というのではなく、私自身の世界における時間経過により中断することにしました。まあイベントとかで厳密に時間が守れない時は、最短のタイミングでセーブすることにしてね。

当初は高橋名人の金言にならい「1日1時間!」としようかと思ったのですが、先述した通り1時間でフラフラになってしまったので、半分の30分にしようと思いました。いわゆるウォーズマン方式です(?)。

そして実際にプレイを開始したのですが、丁度いいタイミングでセーブした時は、まだ15分しか経っていませんでしたが、やめました。このくらい慎重に進めて行かなければならないと思ったからです。

というわけで、多分クリアするのは随分と先の話になると思いますが、まあすこ〜しずつ、進めていきたいと思います。


(※ 本作では、どういうわけか永州街でタクシー運転手をしているところから始まる)

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本当はこの「リアル」という言葉もあまり好きではないんですが、なんとなく響きがいいのでこういう言い方をしました。あと、これは私が今考えていることをまとめた手記なので、これをもって何かを訴えかけるものではありません。共感も批判も自由ですが、そこだけはご了承願います。

「クロヒョウ2阿修羅編」をクリアして一夜明けた今日。ゲームの内容について色々と回想しているうちに、どうも頭がおかしくなりそうになりました。

理由は、たぶんコレに限らず最近のゲーム全般に対して思っていたことだと思うのですが、ゲームと現実の区別がつかなくなってきたからだと思います。

……ちょっと前の時代であれば、現実の世界においてゲームと同じような感覚で生きることが問題となりましたが(今もそうなのかな)、私の場合、ゲームの世界においても現実と同じような感覚でしか捉えられなくなってしまったのです。たぶん、適当なところでセーブしてやめることがなかなかできなかったのも、そういうことなんでしょう。

「これはゲームなんだから」とクールに割り切ればいいんでしょうが、そうすると「これはゲームじゃないんだ」と真剣な表情で言うゲームの中の登場人物に失礼な感じがするんですよね。物語にも感情移入できないし、だったら初めからプレイしなければいい。そういうことになってしまいます。

そういう意味では、私は、昔のゲームの方が好きです。ヴィジュアルの至らなさは想像で補えるし、場合によっては何十倍にも膨らませられるからです。それに、明らかに私たちの現実とは異なるので、余計なことを考えず素直に楽しめるからです。「これはゲームなんだから」と言って思い切り物語の世界にも入り込めるし。

これが真理だとは思っていません。たぶん時間が経てば、また新しい何かに気づき、考え方が変わるでしょう。というか、そういうのに出会いたいといつも思っています。こんな私の横っ面を張り飛ばすような強烈な刺激を与えてくれる何かを。

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『クロヒョウ2阿修羅編』を攻略しました。……ゲーム系ブログでも同じような内容を書いていますが、こちらはゲーム性云々と言うよりも、もっと全般的な話を。

レトロゲーム/アーケードゲーム畑のいぬがみは、前にも書いたように、あまり長くプレイすることに慣れていません。どんなに粘っても40〜50分でエンディングになって終わってしまうようなゲームに慣れているので、今回のように40〜50時間以上かかってもまだ終わらないゲームは、正直なところ疲れてしまいます。

適当なところでセーブしてやめればいいんでしょうけど、「キリのいいところ」がわかりづらい。「あのアイテムをとってから」「あの人物にあってから」そんな風に思っていると、次・次・次と気になる何かが出てきて、激しい眼精疲労になってしまいます。

目が痛い、他にしたいこともある、もうやめたい。でも、やめられない。

ゲーム内で誰かと戦うのではなく、ゲーム自体と私が戦うような状況になってしまうのです。


といっても、無論、ゲームが悪いとは言いません。ひとえに「キリのいいところ」を自分で決められない私自身が悪いのです。そういうわけで、この手のゲームはあまりプレイしないようにしていたのですが、兄者からずっとプッシュされていたので断りきれずプレイしました。

そしてこの度、ようやっとエンディングまでたどり着いた次第です。

この間、図書館から借りた本もなかなか読めませんでした。村山早紀先生の『カフェかもめ亭』も、2週間の貸し出し延長を申し出て、ようやく読み終えました。それにしても村山先生のふわふわふわりとした世界観と、名越監督のガツガツガツンとした世界観。激辛マーボードーフと激甘マンゴープリンを交互に食べるような日々でした。好きな人は好きなのかも知れませんが、私はちゃんと、それぞれの味を楽しみたかったなあ。

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トーベ・ヤンソン生誕100周年記念・ムーミン展に行って来ました。

これは全国10箇所をキャラバンして原画等々200点を展示していくイベントなんですが、どういうわけか東京・大坂・札幌といった大都市に混じって盛岡市が入っているので、いかに貴重なことなのかというのを今更理解しました。

正直なところ私はムーミンというものに対して、そこまで熱い思いを抱いていなかったからです。一応、兄者が大好きだったので、その代理で行ってみるか……といった程度のものだったのです。

ただ、せっかくお金を払って見るのですから、何かしら持って帰ろうという思いはありました。基礎知識がないということは、逆にとてもフレッシュな状態で触れることができるだろうから、つってね。


果たして私もまた……まあ、突然大好きになったとか、そういうわけではないのですが、原作の方は意外とシリアスな話なんだな、ということはわかりました。たぶんアニメ『楽しいムーミン一家』とか、そういうイメージしかなかったからでしょうね。原画の繊細なタッチと、物語の鋭さに胸を突かれました。

今も強く印象に残っているのは、彗星が落ちてくる話。原作を知っている方ならすぐにわかると思うのですが、哲学者のジャコウネズミの存在は、私にムーミンの何たるかを強く印象づけました。ああ、そうか、ムーミン物語というのは、かくも真剣かつ緩やかに描かれたものだったんだな……と。

物販コーナーでは、一応、図録を買いました。私のためと言うよりは兄者のために。

それにしても平日の午後という時間の割には、人がたくさん来ていました。一般人だけじゃなく制服姿の女子高生なんかもいたし。学校が終わってすぐに駆けつけたのかな。

そんな人々と同じ絵を眺めながら、「ここにいる他の人たちは、きっとおれよりもず〜っとムーミンが好きだから、ここにいるんだろうな」などという気後れを感じた水曜日の午後でした。

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1年前、『竜馬がゆく』をはじめとする幕末小説にハマり、関連する情報をアレコレと調べている中で、2004年に放送された『新選組!』のことも知りました。今でも香取慎吾くんがバラエティ番組で「御用改めである!」つってるアレですね。

あの中で山本耕史さん演じる土方歳三は「ロマンチ」という言葉を使っていました(正確には『ロマンチスト』ですけど、それを無理くり縮めた)。ドラマはろくすっぽ見ていませんでしたが、土方さんがロマンチだったという説は結構うなずけます。

それと同時に私も並々ならぬロマンチになってしまったなと思いました。

ええ、小説が好きなんです。戦国期なり幕末期なりに生きた男たちの純粋な生き様に触れ、それに憧れ、自分もできる範囲で頑張って生きていこう。そういう気持ちを養うために、私は本を読むんです。


童門冬二『柳生宗矩の人生訓――徳川三代を支えた剣豪、「抜群の智力」とは?』は、そういう意味では、私が手に取るべき本ではありませんでした。出版社がPHP研究所だし。実はこれは、柳生但馬様をダシにして現代社会で出世するためにはどうしたらいいのか? というのを延々と書き連ねた下世話なビジネス系ハウツー本だったのです(私にとってはね)。

先日書いた『宮本武蔵を哲学する』では、吉川英治先生も司馬遼太郎先生も江戸後期の儒教的思想のフィルターを取り払えなかった、といって断罪していましたが、これは江戸後期どころか現代社会のフィルターを通して家康公や柳生但馬様を見ています。そのフィルターを通せば家康公は野心まみれの狸オヤジであり、柳生宗矩はそこから出世の手管を学びスルスルと出世が移動をひた走る若きビジネスマンといった感じです。剣禅一如も活人剣も、みーんな自分の出世のための『道具』です。

正直、読んでいてハラが立って来ました。なんとか最後まで読みきりましたが、3ページごとに「それは違うんじゃないの」と言いたくなりました。


武士の生き方とかに興味はないけど、手っ取り早く社会で成功したい人にはオススメです。でも、歴史小説ファンとかには、おすすめできません。とりあえず、この記事を書いたあとは、さっさとこの本のことは忘れたいと思います。とにかく読んだ。その事実だけで十分です。

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村山早紀先生の『カフェかもめ亭』を読みました。私が手にとったのは2001年に刊行された単行本です。

内容としては、毎度おなじみ風早の街にある喫茶店『かもめ亭』にいるマスターの女性が、やってくるお客さんにお茶やコーヒーを振る舞いながらそれぞれの身の上話を聞く……という感じで、短い話しがいくつかオムニバス形式で収録されています。

たぶん小中学生とか、それくらいの対象年齢なので、本気で読めば1時間程度で読了できると思うのですが、なかなか、そういうわけにはいきませんでした。その、ひとつひとつの物語が、とても濃いというか……心の中にある弱さがムクムクと膨らんで、いたたまれない気持ちになってしまうのです。

あるいは、藤子・F・不二雄先生のSF短編を読んだ時と同じような感覚かもしれません。特に『みどりの守り神』を読んだ時に近いですね。

次々と理不尽な仕打ちを受け、悩み苦しむヒロインに対し、どうすることもできない自分のもどかしさ。あくまでもヒロインは漫画の中の人物で、私はそれを外の世界から眺めているに過ぎないから、それは仕方がないと思うんですが、でも……ね。切なくなったり悲しくなったりするんですよね。

だから、ちょっとずつ読みました。1日に2篇とか3篇とか、そのくらいがギリギリ。それも1回読んだらしばらく間をあけなければいけなかったので、2週間の期限の間に読みきれなくて、一回貸し出し延長をしてもらって。それでなんとか読み終えた次第です。


さて……これで、村山先生の主だったところは、全て読んだと言っていいでしょう。

『シェーラひめのぼうけん』とかは未読ですけど、この『カフェかもめ亭』『人魚亭夢通信』『海馬亭通信』と続く喫茶店もの(?)に『コンビニたそがれ堂』(2冊)、ちょっと大人向け? の『竜宮ホテル』に『ルリユール』、そしてすべての始まりとなった『はるかな空の東』。

「村山先生の小説って、だいたいこんな感じだよね」

そろそろそういうことを語る資格もあるんじゃないかな、と思い始めています。……ないかもしれませんが、書きます。そろそろ私も風早の街を出なければいけないような気がしているからです。

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いぬがみが理想としている男の姿というのは、武士のような男です。つまり鬼面仏心……とはいかなくても、あまり多くを語らないということです。

もっとも、そういう生き方は現代にはそぐわないでしょう。現代は以心伝心の関係が成立するほど深い人間の信頼関係がありませんからね。「言わなきゃ、伝わらない」残念ながらそういうものです。

なのでいぬがみも、目に見える形で気持ちを伝えました。……たまたま味噌と醤油を買いに行ったスーパーで、手頃な値段の贈答用セットがあっただけです。それをポンと手渡しただけです。

5月11日はMother's dayです。私はカーネーションの鉢植えを送りました。


こんな私のことを、『こち亀』の両さんだったらものすごい剣幕で批判するでしょう。こんな感じで。

「バカ野郎ここは日本だ!
 花をやるのはお彼岸だけだ
 女に花なんぞ持ってきやがっててめえアメリカ人か!?
 とっとと帰りやがれ!!」
(コミックス53−1 『麗子の秘密』より)

でも、今の両さんなら、そんなことは言ってくれないかな。もう随分と連載の方は読んでいませんが。

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図書館を積極的に利用するようになってから、なかなか本を買わなくなりました。読みたい本があったら、まず蔵書検索をする。新着図書コーナーの一覧を見て「これは!」と思い借りるのもありますが、AmazonやらBookoffやらで見かけたのを検索することもしばしばです。

実際に買い入れるのは、余程のことですね。多分これからも「図書館に入ることはないだろうな」と思われる本とか、どうしても手元においておきたいと思うくらい思い入れの強い本とか、あるいは旅先などでたまたま手に取り「これも何かの縁だ」つってレジに持っていく本とか。

そんなこんなで私は図書館が大好きなのですが、『新帝都物語』は私がひいきにしている図書館のいずれにもないみたいなので、何とかして買うしかないようです。結構高いんだよなあ……。


今、『図書館が大好き』と言いましたが、好きな図書館とそうでもない図書館があります。

私が一番好きなのは『盛岡市立図書館』。具体的に何年ぐらい前からあるのかはよくわかりませんが、館内には昭和59年に掲げられた非核都市宣言が掲げられているので、たぶん昭和の時代からあることは間違いありません。実際に建物の年季の入り具合は昭和の公共施設って感じです。

最初に利用したのは大学生の頃。レポートを書くために興味本位でホレス・ウォルポールの『オトラントの城』を選んだものの、大学の図書館には収蔵されておらず、どうしたものかと駆けずり回っていた時に見つけたのが、初めての利用でした。

次に利用したのは1年前。ずっと(25年くらい)前から気になっていた小説版『帝都物語』を読むべく赴いたところ、豪華愛蔵版で収蔵しておりました。小説というか図鑑のような重厚さで、これを4冊まとめて借りた時は結構腕がツライ状態になりました。

その後は村山早紀先生の『ルリユール』を借りたりなんだりと、今でもお気に入りの図書館です。

一方であまり好きではない図書館というのは、数年前にリニューアルオープンした岩手県立図書館。元々は市内中心部の公園内にあったのですが、今は盛岡駅裏の近代的ビルのワンフロアにあります。こないだ楢山佐渡様(盛岡藩家老)の企画展があったので初めて行ったのですが……すごく明るくて、綺麗で、みんなに親しみやすい雰囲気で……だからこそ、私のような薄暗い人間には、ちょっと居心地が悪かったのです。

というわけで、今日はなぜか図書館の話になってしまいましたが、そんな感じです。ただ、図書館が好きだと言っても、別に戦争に参加したいわけではありません。ましてや、戦闘を生業とする司書に会いたい気持ちは毛頭ありません。でも、晴れた日に図書館に行くのはいいと思いますよ。

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25年以上前にそういう名前のアーケードゲームに触れ、これを大変に気に入った経緯があり、それ以来「達人」という言葉がすごく好きな私。ちょっと前なら渋川剛気ですが、最近は時代小説の剣豪たちになるのかな。

今は山岡荘八先生の『千葉周作』を読んでいます。言うまでもなく『北辰一刀流』の創始者です。その特徴は実践的な技術を重視した合理的な体系でありますが、私が今読んでいるのはそういった流派を興す前の修行時代の話です。

15歳の時に地元でトラブルを起こし(とある道場の跡取り息子を谷に転落させ、その妹と男女の交わりをしてしまった)出奔した後、剣の道に励み精神的に大きく成長する。まあこの手の小説の王道ですが、私はそういうのが大好きなので楽しく読み進めております。

宮本武蔵にせよ柳生宗矩にせよ、剣の道を通ることによって人間的に大きく成長するという展開になるのは、つまりそういう厳しい修行でもしないと人間は本質的に荒れた心になってしまう生き物だ、っていうことなんでしょうね。そして、そうやって技術と精神を鍛えあげていくと、むやみやたらと斬りかかることをしなくなる、と。

たいてい達人と言われる人は、そういう感じですよね。それを強いとか弱いとか、色々と議論をするところがあるでしょうが、私はそういうの、もういいです。私は主に本を読むことでそういった精神を学んでいるところですが、それがすごく心地いいし、実際に正しいと考えているからです。

今、世の中では色々なことがあります。それに対して色々な意見を言う人がいます。数年前は私もそういうことに対して抗ったり斬りかかったりすることが正義だと思っていましたが、最近はできるだけ、受け流そうとしています。いったん受け流して、静かな状態で自分の考えを吟味し、行動する。そういうものに、私はなりたい(賢治先生風オチ)。

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私がかつて熱中し、今はもう溜息しか出ないSUPER GTという四輪のレースカテゴリについて色々書こうと思ったのですが、やめました。どんなに言葉を選んでも、オールドファンの愚痴になってしまうと思ったからです。でも、ちょっとだけ書きます。

まあ興行ですからね。レースの雰囲気を盛り上げるための規定で、どこのメーカーの車を見ても同じような形になるのも仕方ないのでしょう。コストを下げるためにヨーロッパ自動車レースの規定を取り入れ、DTM(ドイツの自動車レース)と規定を共通化させ、「日本の自動車レース」というイメージが(初音ミクなどのアニメなキャラクタが大々的にフィーチャーされた車が走るということ以外に)雲散霧消するのも仕方ないのでしょう。

これから先、日本の四輪レース業界がどうなろうと、私は知りません。今のレースには今のファンがついているんでしょうからね。私はもう、そういうのはいいです。


その代わり、今後は二輪のモータースポーツの世界に注目していきたいなと思っています。

すでにホームページで書いているとおりですが、私にとって最も熱くなった小説はポプラ文庫ピュアフルの『レーシング少女』でした。タイトルはちょっと恥ずかしいですが、内容は激アツ青春小説なんです。決して小説の紹介部分で「R15」とか「百合」というキーワードとかがつく代物ではございません。むしろそんな世界観でウヒラウヒラ(のび太風ばか笑い)している人たちをモンキーレンチで思い切り殴りつけるようなパワーを持った、ガッチガチのバイクレース小説なんです。

四輪の世界と反対に、乗り手の技量が8割を占めるという二輪のレース。今までは全然興味がなかったのですが、俄然、興味がわきました。ライブで見に行ければ一番いいんですが、近いところでも菅生ですからね。テレビとかでもなかなかやらないし……でも、小説に出てきた彼女らの熱さを共有したいし、なんとか少しずつ勉強していきたいと思います。バイクの免許は持っていないし、バイクに関してはちょっと後ろめたい過去があるので、これからも取りに行く予定はないのですが。

おまけ

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小林秀雄の「無常という事」を読んだのは、高校の現代文の授業でした。

正直なところ当時はその魅力の30%も理解できなかったんじゃないかな。それなりに本を読んでいるつもりではあったものの、やっぱりね。基本的なレベルが低かったですから。10代だからそれも当然なんですが。

そんなわけで、本のタイトルも詳しい内容もすっかり忘れていたのですが、思い出に関する解釈については、ずっと心に残っていました。

「思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである」


あれは一体、誰の言葉だったろう。「思い出は美化される」という巷間の言葉に対する反撃の武器として、いつも心に留めていたものの、実はそのへんが非常に曖昧でした。それで何度も検索をかけて最近になってようやく「ああ、おそらくこういうことだったんだな」と納得した次第です。

そしてこの「無情という事」に関するネット上の様々な解説を読み、自分の体験にまぶしてコロコロと転がしているうちに、いきなりその言葉が腑に落ちたのです。おれもまた、そういうものに心惹かれているのだな、と(ここ1年くらいですが)。

まあ、まだオリジナルをちゃんと読んでいないので、これはあくまでも手前勝手な話です。時間が過去から現代にかけてずっとつながったものである、という考え方とあわせて、「現代における最大の妄想」というふうに思っていただければ結構です。後ほどきちんと読んで、その上で改めて文章を書きたいと思います。

でも、きっかけはつかめたと思うのです。あの時わからなかったことがわかるきっかけ。そして、過去・現在・未来をどう考え、生きていくかを考えるきっかけ。

やっぱり読書って、面白い。

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「クロヒョウ2」というゲームを、かれこれ30時間以上プレイしてます。おかげでせっかく借りてきた本もほとんど読めません。というか、読まないでゲームばっかりしています。

もちろん楽しいからプレイしているのですが、4割ぐらいは「やらなきゃ、やらなきゃ」の気持ちでやっています。

「レベルがあと1つ上がったらやめよう」
「ストーリィを、もうちょっと進めたらやめよう」

逆に言えば、そこまではなんとか色々なものを削ってプレイしなきゃいけない。そういう気持ちになっているところは、正直、あります。途中で中断するのが、なんとも気持ち悪いんです。

私はかれこれ25年以上のキャリアを持つ生粋のゲーム好きなのですが、正直なところ長いゲームは苦手です。それはこうやって、上手にゲームを切り上げることができないからなんです。

昔のゲームやアーケードゲームであれば、ある程度のところでゲームオーバーになったり、エンディングになったりして、いずれにせよゲームの方で終わらせてくれます。10分だったり15分だったり、1時間くらいだったりにせよ、ゲームの方で「ハイ、これまでよ」と言ってくれるので、悔しがろうとなんだろうと元の世界に帰って来られるわけです。

でも、「クロヒョウ2」……に限らず、ロープレとかシミュレーションゲームとか、とにかくそういうのは、思いっきり時間がかかるものですよね。何時間も、何日もかけて、ゆっくりとその世界観を味わいストーリィを進めていくのですから、それは当然なんですが、結構……私にとっては大変です。


昔、ゲームをやり過ぎると脳がおかしくなると言って一世を風靡した学者先生がいましたが、こういうことなのかなと思いました。もちろんその後、科学的根拠がないとか何とかで今では古紙リサイクルの対象程度の価値しかないわけですが、体験的にそう思いました。

私は、ゲームは大好きです。昔から大好きですし、今でもそうです。……でも、今の私はゲームをメインにして生きることは、良くない気がするのです。別に読書がゲームの上にあるとは言いませんが、やはり読書が主でゲームはその次。しっかりと自分の哲学を持ち、一所懸命に生きて、その上でプレイしないとゲームも楽しくありません。右京ちゃんこと右京龍也も、自分の哲学をもって戦っているのだし、プレイヤーもしっかりしなくちゃダメですよね。

そういうわけで、まあ今の時点でのサブストーリィは全部クリアしたし、いわゆるレベル上げの作業をしなくちゃいけないわけでもないし。読書や、こういったブログ・ホームページ作成の方をメインにしていきたいと思います。

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ゴールデンウイーク最終日、皆様はどのように過ごされましたか。私は昨日から仕事です。もうね、祝日も何もあったもんじゃないですよ。

 ……と言ってみましたが、実はそうでもないんですよね。土日祝日も関係ないシフト勤務の身とはいえ、関係部署や取引先はカレンダー通りに休むところもあるので、平日よりは多少ヒマがあるんです。なんとなく会社も静かだし、この雰囲気は嫌いではありません。

 まあ、夢のような時間は終わり、また明日からは完全平常モード。皆様、今夜はゆっくりと休み、明日からのお仕事に備えてください。


※ 最近PSPのゲーム「クロヒョウ2」にハマっています。ソッチのほうが忙しくて、もしかしたらブログの更新が滞ってしまう可能性がありますが、ご了承ください。一応、あらかじめ予測できるようなことがある時は、申し上げておくことにします。

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ゴールデンウイーク2日目、皆様はどのように過ごされましたか。

小岩井農場に行こうとしたところ、そのず〜っと手前から大渋滞状態なので諦めた私たち。その代わりに行ったのは雫石町のメインストリートで開催された「軽トラ市」というのに行って来ました。

皆様、軽トラ市って知っていますか?

といっても、私は別に軽トラ市に詳しい事情通ではないので、あくまでも見たままの感想なのですが、要するに普段は車が行ったり来たりする道を全面封鎖し、そこに売り手の人たちが軽トラに乗り付け、その荷台を利用して商売をするというものです。

つまり一種のフリーマーケットのようなものなので、売り物は食料品だけではなく、工芸品だったり、ゲームだったり、初音ミクのレザーウォレットだったりと様々です。通常版、レーシングミク版、そして千年桜版の三種類があり、通常価格5千円のところを4千円で販売していました。・・・いや、別に買ったわけじゃありませんよ。せいぜい2千円までですから。

さらにさらに、これは月に1度のお祭りなので、色々なイベントがあります。歌手の人が来て持ち歌を歌ったり、北上市からわざわざやってきた人たちによる相去鬼剣舞という伝統芸能が披露されたり。正直なところ普段は営業しているのかしていないのかわからないような商店街が、老若男女が出張ってすごく賑やかになっているんです。

もともと雫石町というのは、私にとっても不思議な魅力を感じる街です。弟者にとっても、高校生時代に一緒に色々と活動した生徒会長をやっていた女の子の故郷なので、さぞかし思い入れもあることでしょう。ちなみに二人の帰りが遅くなった時、私が車で学校まで迎えに行き、乗せて帰ったことがあるのですが、その時に女子高生らしからぬ聡明さを感じました。めだか会長にも引けを取りません。その後の行方はようとして知れませんが、ってその子の話はいいんです。

ともあれ、とても楽しい時間を過ごしました。まるで夢のようです。もっともっと色々なことをしたかったとか、食べたかったとか飲みたかったとか、思わないわけではありません。

でも、明日からはまた日常が始まります。退屈な日常。めんどくさいこともたくさんある日常。嫌な感じです。


・・・と言ってみましたが、まあ、夢は夢としてね。楽しかった記憶はちゃんと覚えておいて、時々思い出してやればいいんだろうなと思います。ええ、これも先日にわかに思い出した小林秀雄流(という名の、ほとんど自分勝手な妄想)です。まあ、このあたりはこれから、色々と考えを深めていこうと思っているのですが、とりあえず今日はこんなところです。

夢は夢。現実は現実。夢のなかでずっと生きていくことはできないから、せめて夢の記憶だけでも頭の中にとどめながら、今日も生きて行きます。

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ゴールデンウイークも後半戦に突入。皆様いかがお過ごしでしょうか。私もまたシフトの都合でちょうどこの土曜日曜が休みになったので、人並みにイベント観覧に参加してきました。やはり、こういうのは楽しいものですね。

午前中は「5きげんグルメまつり」に行きました。これは「はるな愛」「スギちゃん」といったタレントのステージを主目的として行ったのですが、楽しかったです。「テレビと同じ人がそこにいる」そういうことでした。6日まで、開催しております。

その後、私たちが向かったのは一戸町にある「御所野縄文公園」。ここは今、北海道・青森も巻き込んで「縄文時代の遺跡」という名目で世界遺産登録をしようとがんばっているんですが(それはイコモスもちょっと勧告しづらいんじゃないかな)、さる4月26日に展示室部分をリニューアルしたと言うので、行ってきました。

展示室の最大のウリは、広い空間をフルに使った3D映像の「縄文人の暮らし」。詳しい説明は抜きにしてファンタジー方向にシフトした雰囲気の、非常にすばらしい空気に私も大感動。もしも一人で来ていたら、30分でも1時間でもそこにいたくなるような、そんな感じでした。

ちなみにリニューアル前は、「小学校の社会科見学で遺跡に来た女の子が、遺跡に宿る精霊の導きで縄文時代にタイムスリップし、そこでの生活を体験する」というシチュエーションの映像が流れていました。これはこれで面白かったですが、今回のは来訪者自身が縄文時代の空気を仮体験できるような感じなのでね。すごくよかったです。


展示室の外では、特別イベントが開催されていました。考えてみると2年前にUnderpath!というアーティストを知るきっかけになったのも、この縄文公園で開催されたイベントでした。今回は何だろう? と思っていると、地元および沿岸の街に伝わる伝統芸能の発表会でした。

私はともかく兄者がそれに対して予想以上の興味しんしん丸だったので、一応隣に座ってそれを観覧。そうしたところ、思いのほか・・・なんというか、小林秀雄が鎌倉時代を「思い出した」時の感動は、もしかしたらこういうものだったのかな? という何かが心を震わせました。

初めて見た踊り。始まりは江戸時代だから、もちろんその頃の記憶なんてあるはずはないし、私は地元の人間ではないので受け継がれてきた空気みたいなのも知りません。でも、どういうわけか、非常に感動しました。あるいは時代小説を読みまくり、十数年ぶりに小林秀雄の「無常と言うこと」を読んだ(高校の現代文の授業以来)ことも、トリガーになったかもしれません。

それと同時に、我が身を振り返って少々寂しい気がしました。それを舞っていた踊り手の3分の1は小中学生の諸君だったのですが、彼ら彼女らがああして伝統を受け継ぎ、それを後世に伝えていく役割をになっているのに対し、私は何を受け継ぎ、残していくのだろう? と考えると、何もないんですよね。


「花は 花は 花は咲く
私は何を残しただろう」

震災後、何度となくテレビやラジオで流れてきた震災復興ソング『花は咲く』ですが、きちんと歌詞を聞いたのは、ほんの数ヵ月前でした。そしてこのフレーズに愕然としてしまったのです。ああ、おれはいつも新しい刺激ばかり求め、何も残せていないじゃないか、と。

「人間なんて、死んでしまえばそれまでだ」そんな唯物論的な思想を気取り、生きていた時期もありましたが、それじゃあ今は何のためにあるのか。私は、何のために生きているのか。・・・って、そんな哲学的なところまで行かなくてもいいんですが、ともあれ伝統芸能を受け継ぎ、そのまた次の世代へと引き継ぐ彼ら彼女らのことを、犬神はひそかに応援しています。

それと同時に、私もまた彼ら彼女らのように、何かを残したい。伝えたい。こんなブログやホームページではなく、もっと形に残るものを残したい。それができなくても、誰かが残そうとする作業のお手伝いをしたい。そんなことを考えながら、今日を生きています。あと、これからも。

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愚痴は好きではないのですが、認めざるを得ないので、一言だけ言います。

「どうすればわからないけど、どうすればいいのか考える――そして、どうにかする」

仕事って、そういうものだと思うんです。

「どうすればいいか聞いていないから、できない」

そんなことを平気でまくし立てる人間を見ると、赤木しげるのセリフを思い出します。言えば言うほどお前の恥になる・・‥オレはバカだと宣伝して回るのと一緒だ‥‥。


そんな最悪な精神状況で読んだ村山早紀先生の『黄金旋律―旅立ちの荒野』。ここからが今日の本題です。


主人公の少年・臨(14歳)は、あるきっかけで現代から数百年後の未来の病院で目覚めます。そこは見渡す限り廃墟が広がる、崩壊後の世界でした。しかも生物はその環境に適した進化を遂げており、ファンタジーさながらの世界でした。

そんな状況に戸惑いつつも、優しい看護師ロボットらと共に過ごす臨。しかしながら人との触れ合いを求めて外の世界に飛び出し、野性的な少年・ソウタや背中に翼の生えた猫・アルファと出会い・・・と、ここまでは表紙の折り返しに書いてあるあらすじです。

村山先生の本だから、つって手にとったものの、よくよく見ると私にとっては因縁深き『角川銀のさじシリーズ』。でもなあ、村山先生の本だからなあ・・・と思って、なんとか最後まで読みました。私があまり詳細なあらすじや解説を書いても仕方がないので、できるだけ感情的にざっくりと書きます。


なんというか、終始むずむずした気持ちで読み通しました。これは多分、14歳の男子らしい感情と、14歳らしからぬコンピュータなどの知識を併せ持った臨に対し、ちょっとしたコンプレックスを感じていたかもしれません。でも、『十方暮の町』を読んだ頃と比べれば格段に強力な哲学があるのでね。つまり、そのへんの感情的なせめぎあいがあったんでしょうね。

ただ、なんとか押し切りました。私の自我はゆるぎませんでした。その上で、

「まあ、君は君で頑張りたまえ」

そう言いながら本を閉じたのでした。ほんの少し、すさんだ気持ちが和らいだ気がします。


あとは、その・・・これは「何となくそう思った」というレベルなので、忘れてもらって構わないのですが・・・アレだ、私はどちらかというと、物語の世界に違和感なく溶け込めるような文章が好きだなと思いました。確かに臨も21世紀の遠野市(※)で暮らしていた人間なので、見たこともない世界に放り出された時は、もともと自分が持っていた世界観と照らしあわせて

「これはまるで映画みたいだ」
「確かこれは、○○って言うんだよな」

という感想を抱くのは、ごく自然な流れだと思うのですが、かえってそういうことを言われると、なんとなく興ざめしてしまいます。時代小説なんかを読んでいて「ここは現在では、こういう場所になっていて・・・」とかって言い方をされると、せっかくその時代の人間になりかけていたのに、急に21世紀に引き戻されてしまう。これまた興ざめです。

シバリョー先生よりも山岡荘八先生の方が好きになったのは、そういう事情もあるのかもしれません。

ま、そんな感じでした。ひとまず、これで一勝一敗。角川銀のさじシリーズとの戦い、引き分けということでいいでしょう。


※ 我が岩手県にも同名の街がありますが、隣に毎度おなじみ風早の街があるそうなので、きっと別な街でしょう)

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今年の1月に『宮本武蔵』(吉川英治版)を読み、さらに先週は『柳生宗矩』(山岡荘八)を読んだ私。小説そのものだけでなく、両先生の書かれたエッセーなんかも読みながら、その好き度合いをいっそう深める日々が続いておりました。

そんな私に冷水を浴びせかけたのが、今回読んだ『宮本武蔵を哲学する』(赤羽根龍夫、南窓社)。副題は『柳生の剣、武蔵の剣』とあります。

今、冷水を浴びせかけたと言いましたが、これは決して悪い意味ではありません。これを読んで、ようやく現実的な武蔵像が見えてきたからです。・・・ちなみにこの本が刊行されたのは2003年。ちょうど大河ドラマで武蔵が取り上げられ、武蔵関連の研究本が出まくった時代だったようです。

なお、これは私が読んだ感想なので、もしかしたら著者の意図とは違うかもしれません。もしそうだとしたら・・・もう1回読み直します。ゴメンナサイ。


いわく、これまでの武蔵研究はすべからく「江戸中期以降の儒教的発想」にとらわれ、そのフィルターを通して捉えようとするために、誤った見方をしてしまうのだと言います。そういった信念に基づいて振り回される刃で、吉川武蔵もそれをこき下ろしたシバリョー先生も次々と斬り伏せていきます。21世紀の哲学者先生の刃は実に鋭く、そして冷たいものがあります。

私もまた、それまで持っていた吉川武蔵のイメージをバッサリと斬られました。そして斬られたあと私が見せつけられたものは、「吉川武蔵は柳生十兵衛だった」という衝撃的な――そして、妙に腑に落ちる赤羽根先生の結論でした。

そこで、私の思想は柳生側にシフトしました。私は吉川武蔵の求道的なスタイルが非常に気に入っているのです。何が何でも勝つのが一番! という(実在の)宮本武蔵の思想はきわめて現実的で、しかも正しいことだと思うのですが、やはり私は『勝人剣』ではなく『活人剣』の思想が好きです。どちらの思想に学びたいかと言えば、柳生新陰流の思想に寄り添いたいと思います。

・・・なんてね。

柳生宗矩も宮本武蔵も、50代60代になってようやく兵法の何たるかがわかったって自著で言っていますからね。まだ32歳の私は、そんなに定まった思想なんか、持たなくていいのかもしれません。せめて「もうすぐ四十郎ですが」と照れくさそうに語れるくらいまでは、ああだこうだと悩みながら生きるのがいいかもしれません。

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