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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
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こんにちは

 今日はちょっと歴史のお話を

 高杉です。


 私の曽祖父は古銭集めが趣味だったそうで、今でも家には若干の古銭があります。

 もっとも、一度うちの弟者が金に困って、価値のあるものはすべて売り払ってしまったので、今うちにあるのは価値のないものばかり。……ではあるものの、やっぱり古銭というものは、何となく歴史的なロマンを感じます。たいして希少価値がなくたって、いまではない時代――明治時代とか、その前の時代とかの人たちが使っていたお金が、いま手元にあるっていうのは、なんとも素敵なことだと思うのです。

 で、今日はその一部を紹介したいと思います。重ね重ね申し上げますが、希少価値は一切ありません。ただ、私なりに歴史ロマンを感じたということを共有したいので書きます。


 

 まず、こちらは「一分銀」です。歴史をさかのぼると天保年間に鋳造が始まったもので、それまで重量をもって価値が決まるお金だったのに対し、これは記載されている「一分」という額面がそのまま価値が決まる、計数銀貨の完成形と言われています。その後幕末から明治初期まで流通しました。



 こちらは「二分金」ですね。初めて見た時は、果たしてこれがなんて書いているのか理解できませんでした。だからお金じゃなくて、なんかの紋章が刻まれたマジックアイテムじゃないかと思いましたが、古銭のサイトをいくつも見ているうちに、これと同じようなものが出てきたので判明しました。確かに言われてみると、「二分」と書いてありますね。

 なお実際にこれが(当時の世の中で)いくらくらいの価値があったのかという話ですが。どうやら一分銀は1/4両、二分金は1/2両という扱いだったようです。それじゃあよく時代劇でいう1両って、今でいうといくらくらいなの?……それは日本銀行の方が答えてくださっていますので、こちらをご参照ください。

 ちなみに当時、飾り職人や三味線の先生をしながら暗殺を行う仕事をしていた人たちがいましたが、その人たちへの依頼料も大体1両です。なので私の中では、人ひとりの命と同じくらいの価値があると思っています(ただし悪徳商人や上級役人の場合は、その1000倍以上のお金が菓子折りと同じ程度の価値しかないわけですが)。

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こんにちは

 今年もいよいよ、走り出します

 高杉です。

 

 (写真は2021年3月に撮影したものです)

 2022年の初走りは、家からほど近い湖の周りをぐるりと一周して、それから小岩井農場を経由し、この景色の見える場所へ。天気が良かったので岩手山がハッキリ見えました。少々寒かったですが、最近見たドラマ版の『ゆるキャン』を地で行くようで、すごく気持ちよかったです。

 ちなみに小岩井農場のあたりでは、もうすぐ春だからなのか、いわゆる有機肥料のにおいを感じました。これは四輪車に乗ってエアコンをつけているような状態では感じられません。

 風と
 寒さと
 においと
 危険 を感じる

 それがバイクなんだよ(by大泉さん ’99)。


 とはいえ、久々のツーリングは、まずカワサキプラザ盛岡さんに行くところから始めました。実は右後ろのウインカーが接触不良でつかなくて、何よりもこれを修理しなければいけない! ということで。自宅からお店まで、極力右折をしなくてもいいルートを選択し、ようやくたどり着いたのでした。

 事前に電話で用件は伝えていたので、簡単な現状確認の上、整備モードへ。その間私はラウンジで待っていたのですが……待っている間は、もうドキドキしっぱなしでした。緊張して、姿勢を正して椅子に腰かけ、じっと待っていました。いただいたコーヒーはしっかり飲み干しましたが。

 その間訪れるライダーの方々。皆様とても社交的というか、店員さんと気さくにお話しされているのを見て、ますます私は小さくなってしまいました。私のオートバイだって、ちょっと古いし排気量は小さいけど、制限速度60キロで走れるし、その気になれば巡航速度70キロで延々と走れるし……なんて、こういうことを意識すること自体、小さいんですよね気持ちがね。

 でも、今日はちょっと、違う気持ちが――というか、感情的には同じなんですが、それを少し違った形に捻じ曲げて、受け入れようと。そう思いました。

 具体的には「引け目を感じる」のではなく「あこがれを感じる」ということです。自分が持っているものよりも良いものであれば、その気持ちを大切にしながら、「自分の手元にあるものも、いいよね」って。だって実際にいいものですから。


 ……と、まあ、そんなどうでもいい心の中の暗闘を経て、とにかく私もカワサキプラザ盛岡さんのお世話になることができました。青森県六戸町の江戸屋モーターサイクルさんには、私が事故を起こして困り果てた時に助けてもらいましたが、今回は盛岡で。あんまりお金にはならないと思いますが、感謝の気持ちはいっぱいです。本当にお世話になりました。

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おはようございます

 話すことなくなっちゃった

 高杉です(上記は館林美晴さんのモノマネです)。


 と、いきなり初代『ときめきメモリアル』の隠しキャラのモノマネという、きわめてニッチな書き出しをしてしまいました。一方的に留守電にメッセージを吹き込み続けておいて、わざわざそんなことを言われても、という感じですが。

 3月に入ってから色々なことを書いていますが、今日は少し肩の力を抜いて、ありふれた話をしてみたいと思います。本来そういうところだったはずですからね、このブログもね。


 え~と、最近はスマートフォンで何となくネットニュースを眺めたり、たいして興味がないような言葉を検索してみたり……といった現代風の時間の浪費を極力抑えるようにしています。私も2022年の人間ですし、来月からの仕事はスマホアプリに深くかかわる内容なので、完全にスマホなし生活というのは不可能でありますが、別にネットニュースとかに逐一神経をとがらせる必要はないようです。

 最新の情報、真実な情報を手に入れられなくても、私はそれでいいです。情報弱者と笑いたければ笑えばいいさです。ですが、てめえらみたいに魂までは薄汚れちゃいねえんだです。はい今度は初代麻宮サキです。斉藤由貴です。80年代アイドルも大好きなんです。


 じつに私は独りよがり、人の話を聞かずに自分の話ばかりする人間であると思います。ですが、これも処世術なのです。私のようなバカがこの情報化社会で生きていくためには、ある程度入ってくる情報をセーブして、ある程度他人の意見に耳を貸さず、ある程度わがままにふるまわなければいけないのです。そうじゃないと無意識の圧倒的な力にちっぽけな自我が押しつぶされて、廃人のごとくになってしまうのです。

 そんな感じで、しばらく頑張ってみます。ようやく、自分の生き方ができるようになってきた気がする今日この頃なのでした。

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こんにちは

 ユング『無意識の心理』を再読しました

 高杉です。


 これは今からなんと100年以上前、1916年に書かれた本です。それが最初に翻訳されたのだって、昭和31年(1956年)でありますから、まあ半世紀以上前の話です。私の手元にあるのは、その1956年版をベースに若干の字句訂正をして1977年に出た『復刻版』を、2017年にリニューアルした『新装版』ですが、文章そのものは基本的に100年前のチューリッヒでユング博士が見た世界です。

 「この小著をして著者自身の諸見解の一般的入門書たらしめようとした」

 確かに序文でユング博士自身がそうおっしゃっています。ただ、最近はサブカルチャー的な場面でもよく聞く『影』とか『ペルソナ』とか『アニマ』とかが一体何なのか? ということを「手っ取り早く」知りたいのなら、お手持ちのスマホで検索すればよろしい。「わかりやすく解説してほしい」というのなら、岩波現代文庫の『ユング心理学入門』がおすすめです。河合隼雄先生の文章はとても易しく、また日本人が書いた文章なので割と受け入れやすいと思います。私も最初はこれを読みました。

 なんでわざわざこんなことを言うのかといえば、これはユング博士が41歳のころに書かれた本だからです。さらに言えば、この本のベースになっているのは1912年に発表された論文『心理学の新しい軌道』……そう、フロイト博士と決別して自分の道を歩み始めたころに書かれた本だってことです。

 そもそも著者たるユング博士自身が序文で「読者に対してかなりの忍耐と注意とを要求するものである」と言い、結語では「これほど多くの難解な新奇な事柄を敢えて盛り込もうと企てたことに対して読者のお赦しを願わねばならぬ」とお詫びの言葉を述べておられます。

 だから、帯に書いている言葉を信じて「ゲームで言ってるペルソナってユング心理学の言葉なんだよね? 面白そ~私も興味あるしぃ~でもどれから読めばいいかわかんないし~あっこれユングが書いてるじゃん入門書って書いているしこれにしよ~っと♪」と喜び勇んで本を開くと、こんな感じになると思います。



 でも、1回で理解できなくたって、いいんです。1回でわからなければ3回も5回も読めばいいんです。そのタイミングだって、3年後5年後だっていいんです。そうすれば色々な意味でパワーアップして、前よりも(たとい1%でも)深く理解できるはずだからです。


 で、今日いちばん言いたかったこと。

 ことに心理学というやつは、いつの時代も新発見があり新理論があり新見解が生まれるものですよね。私も新しい言葉に飛びついて、アスペルガー症候群を自閉スペクトラム症と言い換えたり、「自分は発達障害と診断されたけど、これは愛着障害じゃないか」と考えてみたり。まあ色々とありますが、今回『無意識の心理』を読んでいると、

 「なんだ、別に新しいものに飛びつかなくても、ユング博士が言ってるじゃないか」

 と「腑に落ちる」ことが何度もありました。少なくとも10回以上。


 私は学者でも医者でもなくて良かったなと思います。そもそも医者にすら見放された人間ですが。

 なぜなら、自分が納得するものを自由に探して、自由に取り入れて、自由に生きることができるからです。

 少しでも楽しく生きるために、私は全力で生きていきます。いつも無意識と対決し、自我に取り込みながら――時に周りの人たちとの衝突とか和解とかを経験しながら――生きていきます。

 そのなかで、いつでも何でも読み返すことができるように、ユング本3冊(『無意識の心理』『自我と無意識』『分析心理学』)は、いつも手元に置いておきたいと思った春の日でした。

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おはようございます

 11年目の、3月11日です

 高杉です。


 11年前の東日本大震災のことは、一日として忘れたことはありません。私は内陸・盛岡のオフィスで地震に遭遇したので、実際的な被害はなかったのですが、あの時のことは今でもよく覚えています。

 その後、2012年、2013年と沿岸の街に観光に行った私。写真は残っていませんが、私なりに大好きな「海の見える街」に行き、しっかりと見てきました。

 2016年には、今までなかなか行けずにいた県南の地域にも行きました。陸前高田市なんかは、20年でも足りないくらい久しぶりに行ってみました。

 さらにさらに、久慈から陸前高田まで『オートバイで駆け抜ける』という冒険を成し遂げることもできました。

 何せオートバイですからね。雨が降ろうと風が吹こうと、頑張って走らなくちゃいけません。濡れるし寒いし道路も滑るし、心身ともに消耗が激しくなってしまいます。

 でも、それにもめげずに走り続ければ、必ず雨は上がるんです。それを何度か繰り返しているうちに、生き方レベルで気持ちが大きくなりました。オートバイに乗っていない時でも、天候の多少の悪さに一喜一憂することがなくなりました。雨が降ろうと雪が降ろうと、

 「ま、それなりに何とかするしかないな」

 と言って。昨日のケンミンSHOWで青森の人が、「(どれほど大雪が降って雪かきが大変だからって言って)お天道様に文句言えるか?」とおっしゃっていましたが、そんな感じです。まあ青森でずっと頑張ってきたから、そういう強さも合わさっているのかもしれません。

 そんなわけで、私はやっぱり海が好きで、海のそばにある街が大好きです。来月からは宮城に引っ越すので、岩手の沿岸の街に行くことは――いや、今度は北三陸中心のシフトから、南三陸にフォーカスして、大好きを広げていきたいと思います。大船渡、陸前高田、さらに気仙沼から石巻。そして、いずれは未知のエリアである福島の海も行ってみたいと思います。




 これは沿岸ではなく盛岡市肴町です。かつて街の賑わいの中心だったデパート『中三』に設置された「からくり時計」で、1時間ごとにアーケード街の雰囲気を盛り上げてくれたのですが、今はデパートが閉店してしまったので、メンテナンスされることもなく眠り続けています。

 ……と、それだけだったら当然なのですが、針が止まった場所を見て、「これは、もしや」と思って写真を撮ってきました。

 もしかしたら、11年前の3月11日に、壊れてしまったのかもしれません。止まった時計の針は14時46分のところにありますし。


 一日だって忘れたことはありませんが。記憶がより深く、色濃くなった今日でした。鎮魂と平和への祈りを込めて。

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こんにちは

 くやしいけれど、これが現実

 高杉です。


 満を持して単三電池を4本セット、いよいよ30年越しの思いを込めて、そして2008年のリベンジをかけて、戦いが始まります。

 

 あんまりオセロは強いわけではないのですが、今回はなぜか早い段階でコーナーを一つ獲得、割合順調に進めていました。「これはもしかしたら、勝てるんじゃないか」そう思いながら進めていくと、いよいよ局面は終盤へ。そうなると画面上に”THINKING NOW”の表示が出て、コンピュータが長考を始めました。

 これこそコンピューターオセロ最大の大技『完全読み』が発動している証拠です。

 

 打てる手をすべて解析し、最善手を探る――果たして人間対コンピューターの対決の行方はどうなるのか!?

 ……10分後……

 ……30分後……

 ……2時間後……

 ……

 ……

 ………………対局開始から9時間後…………………




 いくら昔のコンピュータだからって、思考時間が長すぎます。これはもうコンピュータが故障しているといっても差し支えないでしょう。まあ40年前のコンピュータですから、ちょっと壊れていても不思議ではありません。リサイクルショップの『動作確認済み』は嘘偽りではありませんが、しかし……だが、しかし……!

 非常にくやしいですが、このまま待ち続けても、電池が切れるまで次の一手は出なさそうなので、泣く泣く電源を切りました。勝ちでも負けでもいいから、ちゃんと決着をつけたかった。こんな終わり方は想像していなかったし、望んでもいなかった。そんな感じです。

 ただ、だからといってこれをまたリサイクルの海に流すのは、いささか忍びない感じがします。こんな結果であっても、やっぱり私が30年以上、ずっと夢見続けてきたゲームですから。この現実を受け入れつつ、私自身の気持ちも尊重したい。そんな大人のオッサンになった私ですから、

 「久しぶりに電源を入れたから、ちょっとボケちゃったんだよね」
 「でも、ひょっとしたら、いつか電気がちゃんと通って……」
 「次の一手が進んで、ちゃんとゲームを終わらせられるかもしれないね」

 と、人間らしい不確かな希望を抱きつつ、”THINKING NOW”が出るまでプレイします。もしかしたらノーサイド、途中終了がないオセロゲームでありながら勝ち負けをつけないようにコンピュータが調整されたのかもしれません。

 

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こんにちは

 14年ぶりの復活です

 高杉です。


 単純に『コンピューターオセロ』といえば、それはパソコンだったりスマートフォンだったり、あるいはキーホルダーサイズの非常にマイクロな電子ゲームだったり……と、多岐にわたると思うのですが、私にとっては、

 「1980年代にツクダオリジナル社から発売された携帯型オセロ専用機」

 となります(据置機としてオセロマルチビジョンというのもあるので)。


 1981年生まれの私は、たぶん「最後の電子ゲーム世代」だと思っているのですが、当時のコンピューターオセロというのは『高嶺の花』でした。一般的な電子ゲームが6000円くらいだった時代に、このコンピューターオセロというのは、その2倍以上のプライスタグがつけられました。とんでもない金額です。おねだりするにも少々ハードルが高すぎます。大体、子どもだったらドラえもんの電子ゲームの方がず~っとず~っと魅力的に見えます。

 というわけで、コンピューターオセロというのは、電子ゲームでありながら、それよりも上位の――いわゆる『パソコン』とかと同じカテゴリの、高級電子機器(広い意味での『コンピュータ』)というイメージでした。


 そんな私が2008年ころ手に入れた『オセロtiny』は、だいぶんコンパクトになって、見た目的にはかなり電子ゲーム寄りになりました。初めてプレイしたときの戦果は「8対56」という大差で敗北。その後何度もトライしましたが、結局、勝てたのは1回くらいかなあ。電池の接触不良があって、動作があやしくなってしまったので、今は静態保存中ですが――

 ここに来て、より理想に近い形で、リベンジを果たす機会が巡ってきました。某リサイクルショップで、tinyじゃない本格的な機種である『コンピューターオセロM-2』を手に入れたのです。
ちなみに電池は、tinyがボタン電池2個なのに対し、単3電池を4本使用します。初期型ゲームボーイ並です。そのせいかACアダプタをつける端子があります。

 果たして26歳のころの私のリベンジを、40歳(今年の7月で41歳)になった私は果たせるのか? そもそもちゃんと動作するのか?? 続きは次回!

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こんにちは

 先日の続きを書きます

 高杉です。


 花巻市大迫町ではこの時期、街の商店などで代々守り続けてきた伝統の人形たちが展示されます。町全体で「ひな祭り」ムードを出すのです。まあここ数年は時節柄、展示しているのは本当にごくわずかなんですが、それでも300年来の歴史を生き続けてきた「享保雛」から現代にいたるまでの、人形のデザインの移り変わりを見ることができました。

 

 5人囃子のほうは、大戦後に作られた人形だそうです。特徴としては着ているものですね。色々なものが足りなくて、もう衣装を作る生地もなくなって、ビロードで作った服を着せてあげたっていうんです。洋装ですね。

 

 これは花巻市大迫交流活性化センター敷地内にある「早池峰と賢治の展示館」です。もともとは稗貫郡役場として明治時代に作られた建物で、宮沢賢治の『猫の事務所』のモデルになったところです。



 そして街は、どういうわけか万国旗がはためき、お祭りムードを最高潮に高めていました。昭和生まれの私は万国旗と旭光旗(赤白青の半円の旗)が大好きで、これが飾られていると、妙に明るくて華やかな気持ちになってしまうんです。

 様々な国の旗が横一列に並んで風になびくのを見ながら、世界平和を願う私なのでした。

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こんにちは

 もうすぐ11年目の3月11日が来ます

 高杉です。


 女優「のん」が三陸鉄道久慈駅からず~っと南下していくテレビ番組「のんが行く!東北ふれあい旅」を見ました。これはもともとCSとかで放送されたものだったんですが、それを岩手めんこいテレビで放映してくれたんですね。

のんが行く!東北ふれあい旅|旅チャンネル

 かつて『あまちゃん』で一世を風靡し、その後は映画や舞台などで大活躍。岩手県内ではCMでもしょっちゅう見るなど、岩手県民にとっては非常に身近な存在である『のん』が、三陸鉄道に乗って旅をする番組。すごく、ほっこりしました。

 一方で、結構リアルな映像も流れました。

 「今から津波の映像が流れます。
  ストレスを感じる方は視聴を控えてください」

 そうテロップが流れるような、映像です。実際に避難した人たちが、避難した場所から撮影した動画だったので、これ以上ないくらいリアルなものでした。

 その時、私は内陸・盛岡で仕事をしていて、直後にあたり一帯停電になってしまったので、実際に何が起こっているのかを知ったのは後日のことでした。さらにしばらく経ってから何度か現地に足を運び、津波の破壊力がいかほどのものかということを知りましたが、今回このテレビ番組を見て、それにいっそうリアルさが加味されました。

 体験はしていないけれど、実際に体験した人たちの話を聞き、映像でさらに……。


 11年経って、「もう11年」というのか「まだ11年」というのか。その人によって感じ方は違うでしょうけれど、何度か現地に行って私が感じたことを率直に言います。

 「確実に、復興は進んでいる」

 ここ7年くらいは岩手を離れていましたし、この4月からは住民票も含めて完全に岩手を離れてしまいますが、心にはいつも岩手の沿岸の景色があります。

 久慈から宮古、大槌から釜石、そして陸前高田へ。いっぺんに、というわけではありませんが、とにかく一通り走った私だから、そのくらい言ってもいいと思うんです。

 今度は仙台を拠点にして、北は気仙沼や石巻、南は……まだ知らないので、なんという街があるのか。これから知っていけたらいいかなと思っています。



2021年3月11日、大槌町にて、うち捨てられたSRXとともに。

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おはようございます

 とにかく思いついたことをどんどん書きます

 高杉です。


 夢の話と病気の話はあまりするべきではない、と唐沢俊一さんが昔おっしゃっておりましたが、病気の話も何度かやってるし、今更そんな気を遣ってもしょうがねえなと思ったので、今日見た夢の話をします。

 端的に言うと、「かつて苦楽を共にした職場の仲間4人で車に乗って出かけた」これが第一の夢。それから、

 「知らない街で、知らない人たちに囲まれて、電車とバスでどこかに向かった→途中で財布を見たらお金が入ってなくて、どうしようと思って探っていたら、小さく折りたたまれた千円札が見つかった→それをきっかけに小銭がパラパラと出てきて、何とか間に合いそうなので安心した」

 そんな感じの夢です。ユング心理学的には夢という要素は無意識のコンプレックスを解決するための重要な手がかりなのですが、もちろん私にはわかりません。だからこれは、あくまで私の勝手な解釈です。解釈というか、自分でいいなと思ったことがあったので、書きます。これが書きたくて今日は記事を書きます。


 要するに、無意識が私の心をむやみに不安にさせる――それがいつもの私だったのですが、今日はちょっと違ったってことです。パンドラの箱もありとあらゆる災厄が世界中に散らばったけど、最後に残っていたものがあったというし。私の財布もそんな感じで、ぐっと踏みとどまって逆に前に飛び出すきっかけを与えてくれたのです。

 パンドラの箱に、最後に残っていたもの?

 「希望」

 らしいですよ。

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こんにちは

 色々カスタマイズ中です

 高杉です。


 何度かブログの見た目を、用意していただいたテンプレートをとっかえひっかえしながら更新していたのですが、今回はCSSそのものに手を加えてアレコレやってみました。

 もちろん、CSSというものが何なのか? さっぱりわからなかった私ですから。

 

 ……てな感じで、思わず気絶しそうになるところを、富樫源次のド根性を見習って何とか踏みとどまり、ひとつひとつのキーワードを検索しては自分なりにカスタマイズして。「ある程度、やってみたいことをやってみた」というところです。

 
 なお、今回アレコレやってみるにあたって、「スマートフォンで見たときに最適になる」ようにやってみました。だからPCで見ると、ちょっと理想とは違うんですが、ひとまずこれで妥協しましょう。まずは今日覚えたことをまとめて、それから次に進まなきゃですよ。大体、今時パソコンでブログを読む人よりも、スマホで見る人の方が圧倒的に多いでしょうからね。まだまだこれからチューニングは続きます。これからもよろしくお願いします。

 それから、一番やってみたかった『萌え萌え女の子をドーンといってみよう』という件なんですが、これはナツメ社から2010年に発売された『萌えキャラフリーイラスト集』のなかのキャラクタを使用しています。とにかく様々なシチュエーションの女の子のイラストが詰め込まれているのですが、ヤンデレって何ですか? ちょっと何言ってるのかわかんないです……。

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おはようございます

 皆さん文化してますか

 高杉です。


 昨日は花巻市大迫町~東和町と、アートな旅をしてきました。何回かに分けて書きたいと思います。

 実際に回った順番としては後になるんですが、先に書きたいのは東和町の「萬鉄五郎記念美術館」について。


 近代美術の先駆者として岩手出身の人物<美術部門>では真っ先に上がる萬鉄五郎の出身地である東和町土沢にあるこの美術館で、いま開催されているのが『モンタン展』。これは盛岡市にある喫茶店『モンタン』……が1960年代、画廊スナックとして多くの前衛アーティストたちを招き入れ、作品発表の場を提供してきたころのアレコレを取り上げた企画展です。

 すごく衝撃的でした。

 昔のSTUDIO VOICEで1960年代の新宿を特集したときに見たような光景が、盛岡にあったんだ、と。1981年生まれの高杉は、もちろん想像以上のことはできませんが、風月堂とかグリニッジ・ヴィレッジにも負けないくらいのものが岩手県にあったってことは、すさまじく文化している街なんだという気持ちになって、ちょっと嬉しかったです。


 しかしながら、私といえばそういう文化的なものに触れて感動感激することはできても、それをして評論することはできません。展示されている作品(=当時のモンタンで開催されていた美術コンクールの入賞作品など)の一つ一つには審査員のコメントが付け加えられていましたが、たいていあれがダメこれがダメと厳しい批判が加えられています。

 何がダメなのか、わかりません。……な~んて、実をいうと「何がいいのか」もわからないんですけどね。

 ただ、現在進行形で最先端アートの発信地である「十和田現代美術館」のある青森県十和田市に住み、何度も通ってきた私から言わせれば、それでいいと思うんです。現代アートっていうのは、とにかく「ビックリしたもの勝ち」っていうか。

 「うわっ何だこりゃ!」と、ひっくり返って驚いて、そのあとで「ああ、これは、こういうことなのね」と解説をゆっくり読んで味わえばいい。最初っから難しい顔して「作品のコンセプトは……作者の意図は……」なんて考える必要はないと思うし、それをズバリ見破れないからと言って、アートを見る機会を閉ざすのはもったいないと思うのです。

 バカはバカなりに。私も色々と精神障害者らしいのですが、「キレーだな」とか「スゲーな」とか「あーこりゃなんだかわかんないよ(嬉野Dふうに)」とかって、何かしらの感想・感慨を得られれば、それでいいんですよ。難しいことは、それを職業にしている人に任せればいいんですよ。……そのうえで、もっと詳しく知りたい! と思ったら、少しずつ知識を深めていけばいいんですよ。

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おはようございます

 上巳の節句は、皆様いかがお過ごしでしたか

 高杉です。


 私は男性ですし、兄弟も文字通り「兄と弟」なので、小学校のころに学校のイベントとして食べさせてもらった菱餅がすごくおいしかった……というくらいの思い出しかないのですが、今回読んだ梨木香歩先生の『りかさん』は、2つ以上の意味でタイムリーな感じなので、その話をします。

 なお、これは青森県十和田市の未来屋書店で特価本コーナーに打ち捨てられていたものを拾い上げたものです。別に時節的なことを意識したわけではなく、『西の魔女が死んだ』とか『裏庭』といった、梨木香歩先生の作品が好きだったから、「ちょっと読んでみよう」と今年の1月かそこらに買ったものです。のちになって自分の中で勝手にリンクさせて気持ちが盛り上がるから、やっぱり物語ってすばらしいですね。

 では、本題に入ります。


 平成11年に初版が世に出た『りかさん』は、小学生の女の子「ようこ」が主人公です。この子が誕生日プレゼントに『リカちゃん』の人形が欲しいと言ったら、おばあちゃんから、確かに「りか」という名前の女性の人形が送られてきました。ただ、それは黒髪の市松人形であって、しかも、人と心を通わせる術を持っていたんですね。その風格ゆえに、小学生のようこは「りかさん」と呼び、身の回りにある古い人形たちの――そして、人形に残された、かつての持ち主たちの思い出――に触れて、様々な時代を生きる……そんなファンタスティックな物語です。


 ここまで、新潮文庫版の背表紙にある解説文をもとに書きました。ここから先は、一通り読んだあとの、私の感想です。

 
 『りかさん』の物語は、さらにふたつの章に分かれます。最初は「養子冠の巻」――これが、ひな祭りの話です。ひな祭りの話というか、ひな人形の話ね。ようこの友達・登美子ちゃんの家に飾っていたひな人形たちと、イギリスから海を渡ってやってきたビスクドールの物語。そして次が「アビゲイルの巻」――



 いや、そうじゃなくて。Wikipediaでいうところの青い目の人形ですね。その人形に込められた悲しい物語です。

 なお新潮文庫版には、それら2つの物語の数年後――大人になった蓉子(ようこ)の物語『ミゲルの庭』が収録されています。


 詳しい内容を含めた解説文は、ほかの方がたくさん書いていらっしゃるので、私は簡単に感想をまとめるだけにします。……そうじゃないと、話が無限に広がって収拾がつかなくなりそうな気がするからです。あと、ロシアとウクライナの戦争が始まってしまって、上手な感想を書けなくなってしまったからです。今もこうして次の文章を書こうと思うものの、色々な感情が渦を巻いて吞み込もうとするので、本当に端的に書きます。

 どのような理由があれ、戦争は嫌です。実際に血を流し斃れる人たちの痛みもあるし、ともすれば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、その国のものや文化、そしてその国の人たちすべてが嫌いになり、それに憎しみをぶつけてしまいたくなるからです。

 じっさいに、「ロシアの人だから」という理由で誹謗中傷を浴びせられ悲しんでいるロシアの人がいる、と『めざましテレビ』で見ました。そうじゃないですよね。ロシアだって中国だって韓国だって、政治レベルでは日本にとって不利益なことをしてくるかもしれませんが、私たち民間人レベルでは、まったく違うわけですから。

 「話せばわかる」それはまったくもって甘い幻想だとか平和ボケだとか、ご批判もあろうかと思いますが、私はそれでいいです。平和と友好の思いを胸に、海を渡ってやってきた人形の遺した思いに触れてしまった私は、もはや二度と戦争を肯定することができない人間になってしまったのです。いつでもどこでも誰も戦争はするべきではありません。私はそう言い続けます。

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おはようございます

 やられても起き上がるのがプロレスラー

 高杉です。


 NHKで放送された『燃える闘魂 ラストスタンド』を見ました。

 番組プロデューサーの鈴木健三さん……あれKENSOさんじゃないの? 「僕には明るい未来が見えません!」「見つけろテメェで!」とリング上でやり取りをした鈴木健想さんは、今はこういう仕事をされてるんですね。

 でも、これはきっと鈴木健三さんにしか、できないテレビ番組でしょうね。プロレスもテレビも、どっちもやれるKENSOさんだから。……やっぱり、こっちのほうがしっくりくるなあ。


 とりあえずビックリしたのは、やはり『燃える闘魂』アントニオ猪木の弱りっぷりですね。確かに私もあんまり好きじゃない時期がありましたが、こういう姿を見るとね……まあ聞いたことがないような難病にかかってしまったから、生きているだけ良いなあって。そうも思います。

 それよりも、(テレビでしか見たことがない人ですから)いつも第一声が「元気ですか!」であり「元気があればなんでもできる」と言っていた人が、「もう、いいんじゃねえか」「楽になりたい」と言っていたことがショックでした。かつて神と呼ばれたアントニオ猪木は、もう役目を終えてしまったのか……そう思いました。

 でも、最後まで見ると、「やっぱりアントニオ猪木だな」と思いました。確かに体は衰えてしまってるけど、まだ生きているわけですから。そして謎めいたダジャレも健在ですから。それがあるうちは元気な証拠らしいので、ちょっと嬉しくなりました。


 先だった奥さんが周囲に語っていたところによれば、「たくさん人前に出れば元気になる」のがプロレスラー。『グラップラー刃牙』の最大トーナメント篇でも、そんな感じの描写がありましたよね。観客がいれば絶対に負けないのがプロレスラーですから。ずっと見られて見せ続けてきて、古舘伊知郎さんも言っていたように「全身アントニオ猪木」だから、病気で弱っているところも何もかも隠せないんです。というか、私的にはそういうところをさらけ出してしまうのも、ある意味では強さだと感じました。

 「おれはこんなになっちゃったけど、まだ生きてるよ」

 そんな風に言っているような気がして。

 KENSOさんと同期の棚橋弘至選手が「プロレスラーとして」真面目に語ったところ。Uインター時代の映像でしか見たことがなかった宮戸優光さんが「猪木信者として」何度も引っ張り出しているところ。そして30代、プロレスラーとしての全盛期に躍動していた「キラー猪木」時代の映像。

 昭和から令和へ。やっぱり元気にさせてくれるのがプロレスラーなんです。日本のプロレスの元祖は力道山ですが、いまの日本のプロレスをけん引している「新日本プロレス」の元祖はアントニオ猪木。時代に合わせてスタイルは変わるべきだと思いますが(私は現代プロレスも大好きです)、

 「やられてもやられても、また立ち上がる」
 「相手の力を9受けて、そのあと自分が10の力を出して勝つ(風車の理論)」

 そんな熱さの源泉、地球の内部コアのようなものは、やっぱりアントニオ猪木が作ったんです。リングに上がらなくても一人で立って歩けなくても、その圧倒的な存在感で「誰も世代交代させていない」(by棚橋選手)アントニオ猪木というのは絶対的な存在なのです。


 ポルシェとサグラダファミリアを語るときに「ゴシックとイコン」という表現を使った福野礼一郎さんの文章を思い出しました(『幻のスーパーカー』を参照)。より良いものがあればドンドン取り入れるプロレスをゴシックとするのなら、どれほど時間が経っても変わらず人々を引き付けるアントニオ猪木はイコンになるのかな。なんて妄想めいたトキメキの余韻を味わいつつ、今日の文章をしめます。

 以上~!(10年前のKENSOさん風に)


 追記:

 公式ホームページを見て「アレッ?」と思ったので書きます。私は昨日19時半から20時15分まで放送されたのを見ました。でもこれ、本来は去年の11月にBSで放送されたもの、だったんですね? だから馳浩さんとか青木真也選手とかは出なかったのかな。藤波さんとか藤原組長は出ていらっしゃったんですけどね。

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こんばんは

 急いで書きます

 高杉です。


 今朝のラジオでこんなことがありました。大体のまとめです。

  男性キャスターが「プーチンは狂ってますね」と発言。

  女性キャスター(解説者?)が「プーチンは2008年にアメリカの情報機関からアスペルガー症候群だと言われた」「アスペルガー症候群のひとは、えてして極端な行動に走りやすい」と指摘。

  男性キャスターが「私も以前、アスペルガー症候群を自称する実業家の人と会ったが、前日の約束を次の日には完全に忘れていたりしてびっくりした」と発言。

 この時点で私はラジオを消しました。

 私もまた自閉スペクトラム症(=ラジオのパーソナリティの人たちが言うアスペルガー症候群)と診断され毎日向精神薬を飲んでいる身ですから、このラジオの向こう側にいる人たちが、こんな風に言っていると自動思考システムが働いてしまったのです。すなわち、

 「アスペルガー症候群の人は狂っている、だからこういう行動に出る」

 そのことに腹を立ててラジオを消したのは、これ以上、自動思考に苦しめられたくないからです。何を言っても「ホラ、これだからアスペルガー症候群の人は……」「そうそう、そんな風に極端な言動に行っちゃうんだよ」「狂ってるんだよ」と言われる(ような気になる)んですから。


 思い出そうとすれば思い出すほど、嫌な気持ちでつぶれそうになります。だから最後に、急いで、言いたいことを書きます。

 私も含めた多くの人は、そうなりたくて、そうなったわけではありません。それがために社会的にすごくつらい思いをしていて、何とかしたい何とかなりたいって思っている人がたくさんいます。

 とはいえ私が通っている精神科の医師も、薬を処方するだけして「あとは自分で何とかして」と放り出すような有様です。自分でも医師でも治せないから、周りの人たちがそれを個性として上手にコミュニケーションするしかないんです。

 私も当事者ではあるものの、逆に自分が同じような自閉スペクトラム症の人と接するさいにも、うまく一緒にやれるよう努力しています。

 それなのに、「アスペルガーだから狂ってる」という口調でゴミクズ同然に打ち捨てるような言い方をされたのでは、全人格を否定されたような気持ちになってしまいます。それを朝6時にやられたのでは、たまったものではありません。


 はい、そういうわけで、この話題は切り上げます。「嫌なら聞かなければいい」ええそうです。だから私は朝6時には、「三宅民夫のマイあさ」を聞くようにします。「生島ヒロシのおはよう一直線」は絶対に聞きません。以上!

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こんにちは

 はじめまして

 高杉です。


 ブログを始めて16年くらい経ちます。始めたころは20代だった私も今は40代になりました。

 その頃はブログというやつがブームというか、芸能人とかプロレスラーとかがみんなやっていて、それをいくつもハシゴしていたんですよね。それで私も「ちょっとやってみよう」と思って、気が付いたら16年。その間に情報発信のメインストリームは、より速報性の高いTwitterというやつに移行し、今じゃブログさえ古めかしい感じになった気がします。実際はそうじゃないのかもしれませんが。

 果たして何の役に立つブログなのか。誰が見ているのか。そんなことを考えて、一時期は休止していたこともありますが、それでもやっぱり何か書きたくなって、また始めちゃうんですよね。

 それで、最近思ったこと。この際「書いて公開することじたいに意義がある」ということにして、とにかく何でも書いていこう、と。だって、こんな私のブログでも10年前15年前の「空気」を伝えること、それを残すことはできると思うんです。もしかしたら私だけしか読まないかもしれませんが、いつでも誰でも見られるようにしておけば、3年後5年後に何かしら検索した人が見るかもしれないし。

 
 ……ああ、すみません。この記事は、そうやって来てくださった方のために書くんだった。

 まぁ、そんなわけで特別なテーマがあるわけではありません。その時の空気を記事にしてまとめている。そんな場所なので、特定の調べ物をするには向いていませんが、雰囲気を楽しんでもらえればいいですね。

 それでは、よろしくお願いします。

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こんばんは

 ユング『自我と無意識の関係』を再読しています

 いぬがみです(2年前の、ちょうど同じ日に読んでいました)。


 もともとユング心理学というのは非常に難解で、人によっては「オカルトめいている」といわれる有様ですから、どれほど「入門書」と言われても、難しいものは難しいです。フロイト先生とかアドラー先生みたいに「これはこういうことだから」とストンストン整理整頓するような文章の方が一般受けはいいでしょう。アドラー先生は特に、少し前にえらくブームになったみたいだし。

 でも私はユングなんです。前に河合隼雄先生の『ユング心理学入門』を読んで、自分の心の深いところにザックリと斬りこまれて腑に落ちたから、それをふまえてユング本人が書いた本を読もうと手に取ってみたんです。何とか、これをやっつけなくちゃいけないんです。


 二度目のチャレンジですが、相変わらず文章が難しくて、スラスラと読み解いていくことはできません。3行か4行くらい前に戻ったり進んだりして、ちょっとずつ読んでいます。

 そうすると、以前よりも少し、わかるような気がしてきました。それは知識が深まったというよりも、2年分の「自分の経験」を実例として確かめつつ、「これが、こういうことなのかな」という風に受け止めていく……。

 私は専門医に分析を受けることはできません。もちろん私が専門医であるはずもありません。だから自分の心を自分で分析できるなんて、つゆほども思ってはおりません。でも私は私のことしか知らないので、とりあえず、手元にあるもので何とかするしかないんです。そして、私自身がこれからの人生を、よく生きられるようになりたいんです。

 そのためだったら、私は何でもします。特に、ちょっと難しいことにチャレンジしてみます。そうすることで、きっとまた、無意識の海から新しい誰かが助けてくれるでしょうから。

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おはようございます

 何はなくとも書きます

 いぬがみです。


 戦争とか病気とか、世間的なレベルで深刻な問題がたくさんあります。それでも私の身の回りの人たちは食料品の値上げとか毎月のカード払いの返済額が足りないとか何とかっていう、すごくパーソナルな問題にばかり心を砕いています。

 そんなことでいいのでしょうか。ウクライナの情勢がこれからどうなるかを考え、行動しなくちゃいけないんじゃないでしょうか。新型コロナウイルスの感染が一日も早く収まるよう、何かをするべきじゃないでしょうか。

 ……な~んてね。それは非常に難しい問題です。関心がないわけではありませんが、私の心は一部がすでに壊れてしまっているので、テレビのニュースなどを見ていると、なんかすご~く意地悪な気持ちになってしまうのです。

 たとえば、外国の人へのインタビュー画像などを報道する時に、わざわざ吹き替え音声なんかを入れられると、「過度に見ている人の感情をあおろうとしてるんじゃないか」と思ったり、いわゆる専門家と呼ばれる人のコメントに「そんなもんなのかね」って思ったり。そうかといってSNSで情報を追い求めたりはしませんが。

 基本的に情報はNHKのラジオニュースくらいの量で充分です。あとは新聞とかもいいですね。思想的な左右上下はあるでしょうけど、少なくとも文章としてカチリとしているから。最近はネットニュースも以前よりもずっと見ないようになりました。速報性はあるかもしれませんが、それが本当かどうか怪しいですからね。


 そう、このブログも含めて、誰でもいつでも発信できる情報というのは、すごくあやふやなのです。私の語っていることだって、そもそも誰も見ないと思いますが、たいして役に立つものでもありません。

 でも、いいんです。不完全な人間たる私には、こういうことしか、できませんから。

 何ができるのか。できるとしたら、それがいつなのか。それがわからない以上、私は私の日々を生きていくしかありません。そのためにこのブログを書きます。昨日、今日、明日を生きるために。

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こんばんは

 青森からの引っ越し、完了しました

 いぬがみです。


 じつに7年近く、青森にいました。

 色々なことがありました。

 気持ちが乱れて、本当につらい時期もありましたが、大きく人生を変えるきっかけをいくつもつかむことができました。

 次の仕事は4月1日から。今度は宮城県仙台市です。プロフィールのところも変更しなければなりません。岩手生まれの岩手育ちってところは変わりありませんが、もう岩手で暮らしているわけではありませんからね。

 
 まだギリギリ2月ですが、3月は自分にとって次のステージに進むための準備期間です。1か月も丸ごとフリー(有休消化中)なので、身の回りの物を整理したりして、40年目のニューデイズを準備していきたいと思います。

 さしあたって、ブログのテンプレートを変えました。タイトルも変える予定です。

 本来であればブログそのものを引っ越して新しい場所で始めればいいのでしょうが、何せ15年以上、やってきましたからね。やっぱりこのURLを変えたくないので、それ以外のあれこれを変えていきます。


 岩手から青森に行った時は、同じグループの違う職場に移ったので、ある意味では地続きのような感じだったんですよね。歴史的にも岩手と青森は割と近しい関係ですし、青森・岩手・秋田で「北東北」というカテゴリに分類されることもあるのでね。

 一方で、宮城。しかも、仙台。東北を2分すれば「南東北」のカテゴリになりますし、6県合わせて「東北地方」とすれば、まず間違いなくリーダー格です。都市レベルが違います。何せ東北唯一の政令指定都市ですからね。たとい北東北3県が力を合わせたとしても仙台さんにはかないません。

 それゆえに、ずっと憧れてはいたものの、なかなか踏み出せませんでした。


 でも、今回、踏み出すことができました。

 そんな日々に向けて、今日から色々と書いていきたいと思います。

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前回の続き


 若干のブランクはあったけれども、ここで17年間ブログを書き続けたことも、力になっているとは思いますが、この接客サービスの仕事で、さらに磨きがかかったと思います。


 ひとつは、私から「お客さま」に対して伝える力。

 私が提供するのはメニューに印刷された料理と飲み物でありますが、お客さまの方は一期一会。もちろん中には4度も5度も来てくれるリピーターの方もおり、非常にありがたいし嬉しいところではありますが、基本的には一度きりだと思って接しています。

 世界的にも有名な観光地・奥入瀬渓流の近くにあるので、関東関西近畿九州さらには(緊急事態宣言前には)外国からもお客さまが来ることがありました。また地域だけでなく、視覚や聴覚に障害があるお客さまもおりました。

 そういう状況にあって、いかにお客さまにこちらの気持ちを伝えるか? そういう時、私の気持ちはほかの人よりもず~っとず~っと強くなります。ほかの人は、結局のところ「健常者で日本人の」お客さまと同じような接客しかしないからです。そして、こういう時に頑張るのが、私がここにいる理由なのだと思っていたからです。

 まあ、そうはいっても付け焼刃ですからね。なかなか格好よく決まったことはありません。相手もある程度「日本人が話す英語」に慣れていれば、何とかなるのですが、本当にネイティブな英語じゃないと伝わらない場合は大変です。一度ベルギーから来たお客さま(英語とドイツ語しかわからない)をお迎えしたことがあったのですが、その時のことは忘れません。

 どうだったか? 最終的には、

 「言葉が伝わったかどうかはわからないけど、伝えようとする気持ちは伝わった」

 そう確信しました。ここで書いた「自分のスタイル=熱血不器用タイプ」が出来上がったというか、「これでいこう」と思った瞬間でした。

 そして、一番うれしかったのは、聴覚障害のあるお客さまに対して「手話で」気持ちを伝えることができた時です。始まる直前にyoutubeで二つ三つ見て、何とか伝わりそうなもの、絶対に伝えたいものをひとつ選んで、それをやってみました。

 

 で、リアクションが、これ。



 私のような人間でも、ほんの一瞬でも、誰かを喜ばせることができる。――この日のことは、一生忘れません。だって、そういう一瞬がいつ来るかわからないですからね。その時のために、私は生きられるだけ生きなければならないのです。


 ドコかの街で元気ですか、私がお迎えし、お送りしたお客さま。

 私は元気です。

 だって、とっても心が温かくなるから。あの日の朝のことがあったから。……

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こんにちは

 

いぬがみです(今日もこのテーマソングで行きます)。


 この7年間を振り返って、「すごく楽しかったです」とかって一言でまとめると噓になります。2回目の心療内科通いは今も続いていますから。そうなってしまうくらいの精神的ダメージを受けて、「もう死んでしまいたい」と思ったことは何度もあります。

 でも、ギリギリのところで踏みとどまって、どうにか生きてきたので、色々なことがわかりました。自分のいいところとか、悪いところとか。……いや、いい悪いじゃないですよね。いい悪いじゃなくて、得意なことと苦手なこと。向いていることと向いていないこと。好きなことと嫌いなこと。

 これを「個性」というんでしょうかね。私の場合それが極端すぎてASDとかADHDとか愛着障害とかって診断を受けているわけですが、それをいいとか悪いとか言っても仕方ないですよね。不便なことはありますが、私だって神様から与えられたミッションがあってこの世を生きているわけですから。

 それで昨年、新たにITパスポート試験を受けてコレに合格し、さらに新しい仕事を見つけて、4月からリスタート! ということになった次第ですが。まぁこれも自分の「個性」をギリギリのところまで受け入れることができたからですよね。そのうえで、

 「さあ、どうする」( " What do you do ? " )

 と昔の映画『スピード』でキアヌ・リーブスがデニス・ホッパーに言ったみたいに問いかけて。

 「得意なことを突き詰める」
 「1点ミスしても、ほかで3点か5点プラスして帳尻を合わせる」
 「自分で何ともできないことは、誰かにパスを出す」

 そうやって、ここまで来ました。

 そして、

 「今の自分ができる仕事をする」

 という基本理念を

 「自分がやりたい仕事をする」

 と置き換えることができるようになりました。それは同時に、

「今はできるかどうかわからないけど、やってみたいから。
 できるように、なりたいから。
 そこまでの道のりが、何とか見えているから」

 という、割と現実的な裏付けがあっての話ですけどね。Javaを使った企業向けシステムのエンジニアとかになりたい! とか言っても、そこまでの道のりが見えない以上、不可能と言わざるを得ません。まぁこれは少々極端なたとえ話でありますが。

 そういうわけでレストランの話じゃなくて私のパーソナルな話になってしまいましたが、今宵はここまでにいたしとうござりまする(今日は懐かしの大井夫人オチ)。

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こんばんは

 

 いぬがみです(私の職場もフレンチなレストランなので)。


 このドラマが放送されていた1995年は、私はまだ中学2年生だったので、20年後に洋食レストランで仕事をしていることになるとは想像さえしませんでした。

 いや、もっといえば、30過ぎてから宿泊サービス業に転職しようと思った時でさえ(レストランに配属になる8か月前)、洋食のホールスタッフになるとは、想像していませんでした。ええ、最初はフロント志望で入社して、フロントで仕事をさせてもらっていましたから。(これもドラマの影響。姉さん、事件です!


 それで、私が配属になったレストランですが……まあ、これが本当に、ドラマのような感じでした。まず全体を統括するマネージャーが不在で、一応ホテル創立当初から働いている人(パート待遇)が若い社員を取りまとめているような感じだったのですが、取りまとめているといっても彼以外に正社員がいなかったんですよね。みんな辞めちゃって。

 そこに、私のような海千山千……というか「海のものとも山のものとも」的な人間が入ったあたりから、少しずつ形になってきたんじゃないかな。私が入社した後、ドラマで言えば千石武のような凄腕マネージャーが入ってきて、その人の紹介で今度は「旅館で女将をやっていた」人が入ってきて、さらに翌年には非常に鋭いセンスを持った新卒の青年が入ってきて……と。ちょっとスパンは長いですが、本当にドラマのような展開でした。

 十和田湖、奥入瀬渓流の近くにある自然豊かなリゾートホテル。そこにいらっしゃったお客様に提供する、青森の食材を使ったフレンチのコース料理……それが私が7年勤めたウチのホテルのセールスポイントです。

 果たして私は残念ながらドラマのような華麗で崇高、あるいは無双にして最強これが無限流なり……と言えるようなスタッフにはなれませんでしたが、最後のほうになって、ようやく「自分のスタイル」というものを確立できた気がします。確立というか「自分は、こんな感じでやってくしかねえよな」というのが、何となく見えてきたというか。


 一言でいえば、「熱血不器用サービススタッフ」。

 常識も話術も器用さもないけど、誰に何を言われようとも自分が正しいと思ったことを無理やり押し通す!

 気持ちが迷ったりためらわれたりしたら、とりあえず無理やり踏み出してみる!

 飛び出した先でどうなろうが、後は野となれ山となれ、とにかく自分のすべてを出し切る!


 かっこよくない、美しくない、上手じゃないけど――「熱い」サービススタッフでありたい。そう思って、かなり、いいところまで近づけた。そんな気がします。

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おはようございます

 このタイトルを書くために20分、フランス語を調べました

 いぬがみです(部分冠詞って何)。


 わざわざフランス語なんて使わなくてもよっさそうなものですが、一応うちのレストランの名前が "la breeze"といいまして。これでもフレンチベースの料理を出しているんですよね。そして、こんな人間ではありますが、なんだかんだで7年くらい勤めたので、それをまとめておこうかと思ったので、あえてこんなタイトルにしてみました。

 このたび、そんなホテル勤めの日々を終え、新しいステージに立つことが決まりました(早い話が転職です)。そこで、自分がやってきたことをきちんと振り返って、取りまとめて整理することが、新しいステージでの糧になると思うので、この記事を書きたいと思います。振り返り力ってやつですよ。いいことも悪いことも、すべて背負ってこその私ですから。


 初めて今の職場に来た時のことは、よく覚えています。2015年4月20日のことでした。

 その日は確か、ホテルそのものは休館だったと思います。私が配属されるレストランのスタッフは誰もおらず、フロントの人に出迎えられ、支配人にご挨拶をし……ううん、とにかく緊張して、相当カッチリした挨拶をしたような気がします。

 それで、次の日になって、本格的に仕事がスタート。まずは日帰り団体の対応でした。改めてホールスタッフ、それに調理場のスタッフに挨拶をし、2015年当時で20歳の「先輩」の背中について仕事を始めました。

 1まわり以上年下とはいえ、先輩ですからね。とにかく何でも吸収して、早いところ一人前に近づかなくちゃいけないと思って、相当頑張りました。まぁ青森に来る前に、半年ほどではありますが、系列会社のホテルで仕事をしていたのでね。多少「接客心得」みたいなものは持っていましたが、やはり和食と洋食の違いは大きいものがあります。

 しかも、私がついた先輩というのが……洋食の仕事は素人の私ではありますが、社会人としては14年先輩の私から見て、

 「なんか違うんじゃねえの」

 と思うようなことが多々あって、その先輩の言うとおりにやっていたらほかの人(上司とか)から怒られた、なんていうこともありました。おかげで3日後には、「(年下だけど一応先輩だから)さん付け」だったのが「くん付け」になりました。とはいえ彼が辞めるまで、友人として楽しく過ごさせてもらったのでね。今は建設屋さんで頑張ってるそうですが、元気かなナリタくん! あっ言っちゃった!


 ということで、ちょうど分量もそこそこ、話も一区切りしたので今日はこのくらいにしておきましょう。以ッ上!(今日は厚切りジェイソンさん風シメ)。

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こんばんは

 グレートでした、岩渕麗楽選手

 いぬがみです(心からねぎらいの言葉を)。


 女子ビッグエア、本日、決勝でした。

 村瀬心椛選手、銅メダル獲得、おめでとうございます。

 鬼塚雅選手、お疲れさまでした。

 そして岩渕麗楽選手、一番スゲーのを見させていただきました。

【スノボビッグエア】岩渕麗楽4位 着地失敗も女子初トリプルコーク、前日に左手甲を骨折も挑戦

 フィギュア男子の羽生結弦選手もそうですが、前人未到の大技にチャレンジして、これを成功させて見せた……というのは、本当にグレートなことだと思います。岩渕選手自身は悔し涙でしたし、ほかの人がどう思うかはほかの人次第ですが、私はある意味、金メダルを獲得することよりもスゲーことだと思います。

 だって、オリンピックが開催されるたびにメダリストは生まれるけど、「世界初」ができるのは世界で一人だけですから。それをやり切って、全部出し切って……。この感動は一生忘れたくない。そう思って、今この記事を急ぎ書くことにしました。

 ジャンプ団体は5位入賞。これも立派なものです。競技場の内外で色んなゴタゴタがあって、もちろんそれは、ちゃんと正さなくちゃいけない問題ではあると思うのですが――やっぱり、オリンピックって、スポーツのお祭りですから。競技として、採点して順位をつけて表彰されるのは当然だし、そこでの成果も大事だとは思うんですが、

 「記録じゃなく記憶に残る」
 「心から、感動する」
 「グレートですよこいつはァ……と言いたくなる」
 「一番スゲーのは、この選手なんだよ! と言いたくなる」

 そんな、胸が熱くなることが度々あった……そしてカーリングなど、現在進行形でまだまだ起こる、そんなオリンピックであると思います。

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おはようございます

 堀島選手、メダル獲得おめでとうございます

 いぬがみです。


 漫画『ジョジョの奇妙な冒険』が好きで真似をしているうちに、割とナチュラルに『グレート』という言葉を使うようになった私ですが(理由の一つに『やばい』という言葉が嫌いなこともあります)、堀島選手の活躍を見たときは、「グレートですよこいつはァ」とうなってしまいました。本当にスゲーものを見せてもらいました。

 一方で女子スキージャンプの方は、まあメダル獲得とはいきませんでしたが、それでもやっぱり一人一人の競技はすごくよかったです。競技だから順位がつくのは当然ですが、精いっぱい出し切ったのなら、それでいいじゃないですか。これも、本当に心からの言葉です。


 そして今日は岩手県勢が続々と出てきます。男子スキージャンプの小林陵侑選手と兄の潤志郎選手、それに女子スノーボードの岩渕麗楽選手です。特に小林陵侑選手は、1998年の長野オリンピックで大活躍した「レジェンド」葛西紀明選手の指導を受け、新たなるエースとなってワールドカップでも大活躍中ですからね。

 今日は岩手県勢の活躍を期待します。

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