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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。


 昨日で東日本大震災から13年。宮城は良いお天気で、こちらの新聞にもあるように……たぶん、天の国にいる人たちにも祈りが届いたんじゃないかなと思います。その代わり今日は降水確率100%の雨模様です。せっかくの休みなのに雨降りだなんて……という思いもありますが、まあ、この写真を見ると「まあ、いいか」という気になってきました。
 13年前のあの日は、ひどく寒かった記憶があります。私は内陸(盛岡)にいたので津波の被害はなかったですが、数日間は停電が続きました。
 そういう時に不便を感じるのは自然なことだから、別にどうこういうつもりはありません。それよりも私が心を砕いたのは、「こういう状況だからこそ、娯楽を大事にしたい」ということでした。いつもと違う深刻な状況で思い詰めて張り詰めてビンビンに緊張するのは自然なことですが、ずっとそういう状態だと疲れちゃうし。だから今できる範囲で気持ちを緩められることを探そう。そう言って弟者といっしょに電気を使わないおもちゃで遊んだことが、一番印象に残っています。

 「こんな時だけど元気を出して頑張ろう」というのも「そんなに頑張ることなんてできない」というのも、どっちもわかります。私自身の体験でいえば、「とにかく頑張ろう」と言って毎日動き回ることができたのは自分の疲れや心の痛みを無意識の方に押しやっていたからであり、そのツケが30代後半に押し寄せてきました。どれほど酒を飲んでもタバコを吸っても辛さから逃れることができなくて、自死を考えるところまで追い込まれました。
 それでも私はギリギリのところで、「頑張ることができない」のは正直な身体からのサインだぞ! と考えるようにしたから、生きる方にシフトしました。動けないなら動けるまで待てばいい……阿佐田哲也ふうに言えば「頭を低くして、エラーをしないようにしてツキが巡ってくるのを待つ」って……今ならそういうふうに、自分の感情を(ある程度)コントロールすることができます。ある程度ね、ある程度……。
 
 わたしにはできないことが、あなたにはできます。
 あなたにはできないことが、わたしにはできます。
 いっしょになれば、すばらしいことができるでしょう。
 (マザー・テレサ)
 一致を願う-片柳弘史神父|心のともしびより
 優越感も劣等感も自然な感情であり、それによって強い行動を起こすエネルギーになることはありますが(私もそうですし)、そうやって周りと衝突し追い込まれ疲れ切ってしまった時、このマザーの言葉に出会ったのでした。この言葉を心の中に収めて、私は日々を生きています。そう思えば、自然と色んなものを受け入れて心が元気になるからです。コンプレックスを起爆剤にしなくても、生きていくことができるからです。

 今日はちょっと簡単ですが、こんな感じで。天気は良くないけど、良い一日でありますように。

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 今日で東日本大震災から13年。
 

 このブログも、もう書く意味がないのかな……なんて思ったり、実際に休止期間が長くあったりするのですが、当時の記事を見て改めて思いました。

 私がブログを書き、それを見てくれる人がいる。そうすることで私が無事であることを確認してくれた人がいる。そう考えると、やっぱり灯を消してはならない。少なくとも、書ける環境があるうちは、書き続けなければならない。そんな気がしました。

 ……でも今の時点では明確に「もうやめます」と言うつもりはありません。マイペースでもブログは残していきたいと思っています。(2022年3月11日の記事より)
 そういうことなんですよね。だからやっぱりSNSも復帰した方が良いのかな、って気がしました。私の消息を教えるもの、安否確認みたいなものでもいいから、ちゃんと発信し続けることが大事なのかなって。こんなこと、何回も何回も繰り返しているんですけどね。「もうやめよう」「でも続けよう」って。まあこんな感じで、ずっと続けていければいいか。
 ブログも18年やってれば、長期休業が何度かあってもそうなります。こうしてずっと残り続けるのだから、それを見て思い出せばまた踏み出せる。誰も見ていないとしても私自身が自分の道を踏み出すために……年齢を重ねた今となっては、そういう意味でブログはやめられなくなってきました。
 私が被災した時のことも、ちゃんと書き残していたから――一日として忘れたことはありませんが、しっかり向き合うことができます。あえて向き合わなくても、忘れたことがないから読み返す必要はないですけど、ちゃんと自分なりに「その時の気持ち」を残すことができたのは意義があると思っています。
 1週間。1か月。3か月。1年。……
 だんだんとこのカテゴリの記事に追加される頻度は減ってきましたが、被災地のことを忘れたことはありません。むしろ岩手から宮城に移り住み、さらに福島にも何度か行って、実際にその場所に足を運んだから、テレビや新聞でそれぞれの復興に関するニュースを聞いた時も「ああ、あの時に行った場所が……」というふうに、よりいっそう身近なものとして想像できるようになりました。


 陸前高田市も、2017年頃はまだこういう感じでしたが、今は新しい街も道の駅もできました。一番アナログ的に……ひとつの連続的な復興の流れとして見て感じた場所です。地元っていうわけじゃないし、何か所縁があるってわけじゃないんですが、思い入れがあります。あの頃、高校生だった子たちも今はそれを伝える側になり、復興を手掛ける側になったんだろうから……時間の流れを感じます(私の弟者も今年で三十歳になります。ちょうど私が被災した当時の年齢です)。

 
 福島県も何度か行きましたが、特に心に残ったのが双葉町ですね。文字通り、時間が止まったままの世界で……でも町役場を中心に新しい世界が徐々に出来上がりつつあるし、このたび郵便局も再開して……本当に良いことだと思います。

 インフラなどハード面での復興とメンタル的な「ハート面」での復興。何年経ったって癒えない気持ちはあると思いますが、それならそれで感情家である私は、そんな気持ちに寄り添いたいと思います。これまでもそうだったし、これからもそうです。私だって何か月か休んでもまた戻ってきて、何度だってやり直して現在に至るんですから。
 いつだって、自分のペースでいいんです。今日という特別な日だけじゃなくて、何でもない日も折につけ、行くだろうと思います。海の見える街が大好きなので……オートバイの季節が始まるし……。

 今を生きる私たちにしか
 未来はわからない
 だから生きていたい
 つらくても

 楽しいこともいっぱいあるから

 令和6年3月11日 佐藤非常口/鳴瀬桜華

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おはようございます

今年の干支は『癸卯』

高杉です。


東日本大震災から12年が経過しました。

自分自身の人生としては、12年ずっと変わらず、「行ってみて、食べて遊んで持ち帰り」という方法で私なりに沿岸の街を訪れています。気負っていくのではなく、何度でも観光に行く。そこで変わりゆく街を見て、おいしいものを食べて、おみやげを持ち帰る。それが私なりの支援です。

このブログも、もう書く意味がないのかな……なんて思ったり、実際に休止期間が長くあったりするのですが、当時の記事を見て改めて思いました。

私がブログを書き、それを見てくれる人がいる。そうすることで私が無事であることを確認してくれた人がいる。そう考えると、やっぱり灯を消してはならない。少なくとも、書ける環境があるうちは、書き続けなければならない。そんな気がしました。

「……しなければならない」というのは私の昔からの常套句でありまして。変に強迫神経症めいたところが昔からあるので、わざとそう言って自分を追い立ててしまうのです。それで動き出すかどうかは、わかりません。Twitterがあればいいやと思うところがある一方、こうして「そうでもない」と思えば書きます。

でも今の時点では明確に「もうやめます」と言うつもりはありません。マイペースでもブログは残していきたいと思っています。

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こんにちは

 今日からWi-Fiルーターを導入しました

 高杉です。


 スマートフォンの上限データ容量を最低限まで引き下げて、料金も引き下げることでWi-Fiルーターの月額使用料とトントンになるか、むしろ安くなる……と言われ、実際に安くなると思って契約してきたのですが、私の場合、まだ払い終えていない端末の代金があるので、若干負担増となってしまうことが判明しました。

 ギリギリまで、オプションを削っても、そんな感じになってしまいますからね。10日以内なら返品可能と言いますが……ただ、ねえ。いくらか毎月の支払いが増えたとしても、スマホもパソコンもゲーム機もすべて実質使い放題(上限100GB)の生活を体験してみたいと思うのです。まさに欲望の令和です。

 って、これは多賀城市の東北歴史博物館で開催されている特別展『欲望の昭和』に引っ掛けてみただけなのですが。でも、端末の料金(今回のWi-Fiルーターの分も含めて)は永遠に払い続けるわけではありませんし。まあ、それを承知の上で3年間、使ってみようかと思っています。


 さて、ここからが今日の話題です。

 ここ数日、河北新報の夕刊では福島県双葉町のニュースが大きく取り上げられています。

 そう、8月30日、ようやく避難指示が解除されたのです。震災から11年以上が経ちましたが、ようやく最後の『人が住めない町』が無くなったのです。

 駅が、庁舎が、駐在所が次々とオープンし、人々が安心できる生活の基盤が整い始めました。そんなニュースを新聞で読みました。私も一度だけ行ったことがあるので(国道6号線を駆け抜けただけですが)、この一報は本当に心が明るくなりました。

 もちろん、こうして基盤が出来上がったとしても、実際にそこに住む人がどれほど戻ってくるかどうかはわかりません。11年は長いです。でも、私も行こうと思えば行けるような場所に住んでいるわけですから。今までずっと行ったことがなかった分、知らないことばかりである分、足を運びたいと思うのです。行ってみて、色々なことを知りたいのです。

 扉は開かれました。あとは行ってみるだけです。

 みんなで行きましょう。もっと福島へ。

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おはようございます

 回らないお寿司屋さんに行ってきました

 高杉です。


 昨日は記事に書いた通り、女川町・南三陸町~気仙沼市を経由して岩手県・陸前高田市まで行ってきました。

 今や宮城県民仙台市民となってしまい、「陸前高田市に行くことも、もうあるまい」と思っていたのですが、いつもの勢いまかせで走っていたら突然県境の看板が出てきて、水曜どうでしょうの大泉さんばりにテンションが上がってしまいました。

 しかも私が訪れたのはちょうどお昼時。朝食を食べずに朝の5時半から(!)走り続けていたので、さすがに何か食事をしたいなと思い、真っ先に新・陸前高田市の中心商業施設『アバッセたかた』に向かいました。

 最初は中華食堂(という名前のお店)に行こうと思ったのですが、店の前で人が待つくらい込み合っている模様だと知り、何かないかとうろついていると……「あっ!」と小さく声を上げてしまいました。見覚えのある看板が! って。



 テレビ岩手のドキュメンタリー番組が制作され、サンドのぼんやり~ぬTVにも出てきた陸前高田市の名物すし店『鶴亀鮨』さんです。私も6年前からずっと気にかけてはいたのですが、たまたま陸前高田市に来た時が早朝だったりお店の休業日だったりして、なかなかお伺いすることができませんでした。そもそも「一人で回らないお寿司屋さんに行くなんて……」とビビっていた、というのもありますが。

 しかしながら、店先に掲げられていたランチメニューを見ると、一番安いのは1100円くらい。大体600円~800円くらいで済ませようと思っていた私にとっては少々迷う金額でしたが、隣の中華食堂は混み合ってるし、「これが、タイミングが合うということなんだろう」と思って参戦しました。

 で、これですよ、これ。



 海鮮がおいしい。卵焼きがおいしい。そしてわさびがおいしい。そんじょそこらのわさびと同じように、ひとつまみネタの上にのせてパクッとやったところ、鼻の奥に超絶刺激がやってきて、息を殺してお茶を飲みました。『美味しんぼ』で、わさびもすり下ろし方によって味というか刺激が全然違ってくると読んだ記憶がありますが、まさにそれです。


 このブログでも何度か書いていますが、私にとって陸前高田市というのは、ほかの沿岸市町村と比べてもチョッピリ特別な気持ちがわいてきます。『奇跡の一本松』にいたるまでの周辺エリアもピカピカの建物と広場が整備され、この日も多くの人々で賑わっていました。

 「これで陸前高田は、もう大丈夫」

 食堂や物販コーナーの賑わいとは反対に、私以外誰もいない『旧道の駅陸前高田タピック45』の近くから眺めながら、そんな風に思いました。

 この場所も6年前は、小さな慰霊施設(東屋みたいなもの)があるだけでした。そのあと仮設の伝承施設ができました。そして今はきれいに公園として整備されました。11年前に高校生だった諸君も大人になり、ひょっとしたら次の世代に語り継ぐようになっているかもしれません。

 今度こそ、もう来ることはないかもしれない。私のような人間が気にかけなくても、陸前高田は大丈夫かもしれない。……そう思おうとしても、やはり気持ちが切れません。どうしても、この街のことを思うと、感情がグーっとこみあげてくるのです。

 
 仙台からもそこそこ遠いですが、こうして行こうと思えば行くことができる距離ですからね。また何度も行くことになるでしょう。それではまたよろしく。

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こんばんは

 これで太平洋側は制覇しました

 高杉です(お祝いに今日はウイスキーを飲んでいます)。


 何の話かといえば、ツイッターでまとめるのが難しいのでここで書きますが、今日南三陸町に行ったことで、いくつか達成したことがあるんです。

 いくつかって言っても、重複する項目もあるので一言でまとめれれば、こんな感じになるでしょうか。

 「北は青森県大間町から南は福島県いわき市まで、東北の太平洋側の市町村に全部行った」

 そんな感じでしょうか。ちなみに全部オートバイで回った、というオプション付きです。

 そして、これがすなわち、

 「被災地のある市町村すべてを見て回ることができた」

 そういうことになると思ったのです。「全部の被災地を見て回った」わけではありませんが、その土地ごとに震災伝承館に行き、この街がかつてどんな賑わいを見せていたのか――とか、それがあの日の津波でどうなってしまったのか――とか、それからどのように復興していったのか――とか。そういうのを見て知ることができた。そういう感じになります。

 見て知ったからには、次は何をするのか。

 やっぱり、伝えることだと思うのです。

 いや、こんなブログ誰も読んでくれないというのなら、それでもかまいません。少なくとも私自身は読みます。こないだの記事のように10年後15年後に、「ああ、こういうことがあったんだ」ということを確認することができるから。

 というわけで、これから何回かに分けて記事を書いていきたいと思います。いっぱい書きたいことがあって、なかなか上手にまとめることができないので。

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こんばんは

 今日はお酒なし

 高杉です(経済的というよりも健康上の理由から)。


 このところ毎日毎日何かとお酒を飲んでいたので、「たまには休まないとまずいかな」と思って休みます。いわゆる休肝日というやつです。飲んで飲んで飲まれて飲んでを地で行く私ではありましたが、数え年42歳厄年ですから、少し健康に気を遣ってもいいと思うのです。

 そんな今日は、昨日東松島市の震災伝承施設で見たことを書きます。


 もともとここは「野蒜駅」(のびるえき)だったのですが、あの震災で甚大な被害を受け、今は「東松島市震災復興伝承館」として震災の被害、そして復興の足取りを私のような市外から来た人々に伝えています。建物の裏手には当時の野蒜駅のホームがそのまま残されています。

 ここでリピート上映されているビデオを見て、心底震える思いをしました。

 これまで自分なりに色々と被災地を回ってきました。「震災直後の写真」を何度も見て、そのうえで復興した今の街を見て……ということを何度も見てきました。
 
 実際に津波が押し寄せてくる映像も、何度も見てきたはずでした。それでもここで見たビデオがひどく恐ろしかったのは、これまでで一番「津波の威力」を見せつけられたかもしれません。

 車が押し流されるだけでなく、家も建物の形を保ったまま流され、やがて押しつぶされ、呑み込まれていく光景……私はあくまで椅子に座ってビデオを見ているだけだったのですが、本当に怖いと思いました。果たしてその時現場にいて避難していた人たちの心境たるや。

 ……

 これ以上うまく語れないので、話題を変えます。


 ちょうど私が行った時は、仙台市在住の漫画家・井上きみどり先生の「伝承作品展」が開催されていました。そこで知ったのが「おさとうやま」物語でした。

 これは地元のタクシー会社を経営していた佐藤善文さんという方が、チリ地震津波の被害にショックを受けて「いざという時のための避難所を作らなきゃならん!」と立ち上がり、独力で山を切り開いて避難所を作ったという話です。当初は「わけのわからないことをやって……」と周りの人たちに笑われたそうですが、あの震災の時にはここに70人以上の人々が逃げ、生き延びたといいます。

 これって、ほとんど「ノアの箱舟」そのものですよね。

 そしてもともと、佐藤さんが色々やっている山だから「佐藤山」と呼ばれていたのが、敬意を込めて「おさとうやま」になった……そういう話です。

 『ポツンと一軒家』どころじゃないですよ。たった一人で道を切り開いて、結果的には大勢の人の命を救う避難所を作っちゃったんですから。私には真似できません。というか、真似できる人が果たしているかどうか……。

 でも、こうして知る機会があったのでね。それを、誰が読んでるともしれないブログではありますが、情報を発信することはできます。願わくば、東松島市の「おさとうやま」伝説が1000年先まで語り継がれますように。

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こんばんは

 今日もけっこー遊びました

 高杉です(一日オートバイ三昧でした)。


 最初は「(仙台から)近くて素敵な街・七ヶ浜町」に行ってみよう! と思い、飛び出しました。例によって「〇〇に行ってこんなことをしよう!」というわけではなく、目的地だけ決めてしゅっぱーつ! という……普通の人からすれば理解できないかもしれない旅ですから。

 走りながら、あるいは「うわーきれいだな」と思ったところで足を止め写真を撮りながら、「じゃあ次はどこに行こうか」ってのを決めて旅をする。そんな感じなんです。

 そんなときに参考にするのはGoogleマップのクチコミ? いえいえ。おととし岩手県宮古市の商業施設「マリンコープDORA」にある本屋さんで、「いつかオートバイで旅をするときに、役に立つはずだから」と言って買った「ツーリングマップル2020」です。これがもう、すっごく面白くて役に立つんです。

 なぜならこれは、ただの道路地図ではないからです。「みちのくライダー・カソリ」さんが実走し、「この道路はこんな感じだったよ」「この景色はこんな感じだったよ」「この宿はこ(ry」って一つ一つ注釈を入れてくれているので、それを見て「うわあ、これってどんなところなんだろう」「ここに行ってみたいなあ。よし行ってみよう」てな感じで行ってしまう。行きたくなる。そんな道路地図だからです。

 そんなわけでアレコレ回って、最長到達地点は『東松島町』でした。ええ、航空自衛隊松島基地があるところです。

もっと言えば、『ブルーインパルス』がいるところです。実際、今回の旅でも――ちょうど今月末に松島基地でイベントがあるからだと思うのですが――4機で編隊を組んだジェット機が爆音を響かせつつ飛び去って行くところを見ました。

ええ写真はありません。だから信じてもらえなくてもいいです。でも確かに私は見たんです。今日のメインである旧野蒜駅の東日本大震災伝承施設にたどり着いた時今までに聞いたことがない超絶爆音に心底ビックリして360度グルグル見回した時、そこそこの雲がある東松島市の空に4機のピタリとまとまった編隊を組んだ戦闘機が飛び去って行くところを!

というところで、今日はなかなか文章が長くなってしまったので、いったん区切ります。次回は、東松島市の震災伝承施設で見た「津波で家が流されていく動画」を見た感想と、野蒜のノアが救った人々の命「おさとうやま伝説」について。

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こんにちは

 今日は2018年4月の陸前高田市の写真です

 高杉です。


 

 まず、こちらの写真ですが、これは『仮設商店街』の入り口ですね。プレハブで建てた飲食店や書店など、いくつかのお店が再起を目指して頑張っていました。この中の『鶴亀鮨』さんは、何度かテレビ番組に出たりして、私的にはとても興味のあるお店でした。私が行った時は営業していなかったのですが。

 なお、このころすでに一部の店舗は「今度、新しい場所で営業することが決まったので、ここは閉店します」という看板が張り出されていました。そしてこの年の9月30日をもって解散、それぞれ新たな場所で新たなスタートを切ったのでした。




 これは私が来る1年前(2017年)にオープンした商業施設『アバッセたかた』です。先ほどの仮設商店街でやっていた本屋さんもこの建物に入りました。そのほかにも図書館とか何とかといった、まさに新しい陸前高田市の商業の中心となる場所です。2021年に行った際は、周辺を含めてさらににぎやかになっていて驚きました。陸前高田も、やはり復興が着実に進んでいるという感じがしました。

 

 これは今の、新しい方の道の駅がある付近に当時建てられていた仮設カフェです。なんとなく撮影したのですが、去年行ったら周辺を含めて丸ごと変わっていたので、「昔はこんなのがあったんですよ」というのを紹介するために、写真を掲載します。




 震災から7年が経ち、ようやく新しい街ができてきた感じはしましたが、このあたりに来ると、やはりまだまだ復興は道半ばという感じでした。しかし、去年ひさしぶりに行ってみると、色々なものがきれいになっていて、「ここまで来たか」と驚き、そして感激しました。

 盛岡に住まう私にとって、沿岸の中でも一番南にある陸前高田市というのは、なかなか気軽に来ることができません。だからこそ、時々来た時の体験はすごく鮮烈で、すごく思い入れが強くなるのです。

 3回目は、かねてよりの夢だった、オートバイでの来訪を果たすことができました。その時の写真はまた改めて。

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こんにちは

 今日は陸前高田市編

 高杉です。


 震災後に『奇跡の一本松』というのが有名になりました。もともと高田松原というのは、その名の通り7万本の松が2kmにわたって並ぶ名所でありましたが、それがほとんどすべて流されてしまったんですね。それでも耐えて残ったのが、それでして。

 

 私が初めてやってきたのは2016年4月のこと。このころは復興工事の真っ最中であって、大量の土砂を運ぶベルトコンベアがありました。これはかさ上げ用の土砂を効率よく運搬するために設置されたもので、公募で『希望のかけ橋』の愛称がつけられました。今はその役目を終えて存在しませんが、まさに復興の象徴としてフル稼働していました。



 その頃の工事現場に飾られていたものです。地元の高校生の諸君が思いを込めて描いたイラストは、今も私の心に残っています。もっと言えば、私生活の中でつらいとか苦しいとか生きるのが嫌になった時とかに、「幸せって未来を信じて生きること」という言葉に助けられました。それが果たして何度あったことか。



 そして、これが旧・道の駅陸前高田『タピック45』です。このころは結構近くまで歩いていくことができました。そして、壊されて遺された建物の内部を(この規制線の向こう側から)覗き込んで、津波の威力の恐ろしさを想像したのでした。

 

 現在はこのあたりもすっかり整備されたので景色がだいぶん変わりましたが、国道45号線を挟んだ反対側には、ちょっとした休憩所(トイレとかおみやげ屋とか)があり、さらにその一角にはこんな看板がありました。これは何かの漫画のキャラクタなんでしょうか。私もなかなかの幕末好きではありますが、この坂本龍馬はトップクラスのイケメンですね。


 第二回は、この2年後、2018年に来た時の写真を掲載します。

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今年で東日本大震災から11年が過ぎました。
 実際に被災地に行ったのは2012年(久慈市)でしたが、デジタルな形で写真が残っているのは2016年4月。たぶんこのころスマートフォンを買って、気になった景色を気軽にビシバシ撮影できるようになったからでしょうね。さらにgoogle photoに、いつの間にかバックアップが保存されていたから。時間とか場所とかで検索すると(ある程度)まとめてくれるから、こうして何年も経った今、記事を書くことができるわけですね。
 
 写真がたくさんあるので、何回かに分けて書きます。第一回は「大槌町」。

 
 
 2016年4月17日、震災後初めて大槌町に行った時の写真です。これは中心地から少し離れたところにある、浪板海岸のあたりですね。ちょうどこの数日後に『大槌アムウェイハウス』がオープンするということでしたが、それと知らずに最初の写真を撮影した私。ここからもう少し行ったところにあるのが市街地中心部です。
 

 
 津波で市街地はめちゃめちゃに壊され、町長さんをはじめ多くの人が犠牲になったというのは、映像で知っていましたが、いざ行ってみて本当にショックを受けました。ガソリンスタンドや商店など、ポツリポツリと建物があったものの、ほとんどは「建物があった場所」ばかりで、がれきを片付けるとこんな風になっちゃったんだなと思いました。
 これは、今はもう解体されましたが、旧大槌町役場です。手前にある小さな新しいあずまやは祈りをささげるために作られた場所です。
 


 これは2018年に撮影したものです。このころ行政としては建物を解体する方向で動いていましたが、震災遺構として残すようにという住民の意見もある……とか、そういう時期であったと思います。一方で街中は徐々に家や道路が建ち始め、少し歩いただけでも「復興は進んでいるな」と感じられるような、そんな気がしました。とにかく目に見えるところ、ハード面では、ね。
 

 
 そして10年目の3月11日。このころにはすっかり「新・大槌町」ができあがっていて、「とにかく10年経ったんだな」ということを実感しました。この時は日帰り前提で、しかもオートバイで来ていて、とにかく日のあるうちに帰らなくちゃいけない(夜の山道は凍結する恐れがあったから)ので、旧大槌町役場がどうなったのかは見てきませんでしたが……ともかく大槌町、確実に復興は進んでいます。
 
 もちろん、「どのくらい復興したか」という尺度は人それぞれです。なかなか前に進んでいる実感が持てなくて、穏やかでない心の人もいらっしゃると思います。でも私は、これからも沿岸の街の人たちへの思いを忘れることはありません。これからはなかなか実際に行くことはできないと思いますが、ともに生きていきたいと思っています。

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おはようございます

 11年目の、3月11日です

 高杉です。


 11年前の東日本大震災のことは、一日として忘れたことはありません。私は内陸・盛岡のオフィスで地震に遭遇したので、実際的な被害はなかったのですが、あの時のことは今でもよく覚えています。

 その後、2012年、2013年と沿岸の街に観光に行った私。写真は残っていませんが、私なりに大好きな「海の見える街」に行き、しっかりと見てきました。

 2016年には、今までなかなか行けずにいた県南の地域にも行きました。陸前高田市なんかは、20年でも足りないくらい久しぶりに行ってみました。

 さらにさらに、久慈から陸前高田まで『オートバイで駆け抜ける』という冒険を成し遂げることもできました。

 何せオートバイですからね。雨が降ろうと風が吹こうと、頑張って走らなくちゃいけません。濡れるし寒いし道路も滑るし、心身ともに消耗が激しくなってしまいます。

 でも、それにもめげずに走り続ければ、必ず雨は上がるんです。それを何度か繰り返しているうちに、生き方レベルで気持ちが大きくなりました。オートバイに乗っていない時でも、天候の多少の悪さに一喜一憂することがなくなりました。雨が降ろうと雪が降ろうと、

 「ま、それなりに何とかするしかないな」

 と言って。昨日のケンミンSHOWで青森の人が、「(どれほど大雪が降って雪かきが大変だからって言って)お天道様に文句言えるか?」とおっしゃっていましたが、そんな感じです。まあ青森でずっと頑張ってきたから、そういう強さも合わさっているのかもしれません。

 そんなわけで、私はやっぱり海が好きで、海のそばにある街が大好きです。来月からは宮城に引っ越すので、岩手の沿岸の街に行くことは――いや、今度は北三陸中心のシフトから、南三陸にフォーカスして、大好きを広げていきたいと思います。大船渡、陸前高田、さらに気仙沼から石巻。そして、いずれは未知のエリアである福島の海も行ってみたいと思います。




 これは沿岸ではなく盛岡市肴町です。かつて街の賑わいの中心だったデパート『中三』に設置された「からくり時計」で、1時間ごとにアーケード街の雰囲気を盛り上げてくれたのですが、今はデパートが閉店してしまったので、メンテナンスされることもなく眠り続けています。

 ……と、それだけだったら当然なのですが、針が止まった場所を見て、「これは、もしや」と思って写真を撮ってきました。

 もしかしたら、11年前の3月11日に、壊れてしまったのかもしれません。止まった時計の針は14時46分のところにありますし。


 一日だって忘れたことはありませんが。記憶がより深く、色濃くなった今日でした。鎮魂と平和への祈りを込めて。

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こんにちは

 もうすぐ11年目の3月11日が来ます

 高杉です。


 女優「のん」が三陸鉄道久慈駅からず~っと南下していくテレビ番組「のんが行く!東北ふれあい旅」を見ました。これはもともとCSとかで放送されたものだったんですが、それを岩手めんこいテレビで放映してくれたんですね。

のんが行く!東北ふれあい旅|旅チャンネル

 かつて『あまちゃん』で一世を風靡し、その後は映画や舞台などで大活躍。岩手県内ではCMでもしょっちゅう見るなど、岩手県民にとっては非常に身近な存在である『のん』が、三陸鉄道に乗って旅をする番組。すごく、ほっこりしました。

 一方で、結構リアルな映像も流れました。

 「今から津波の映像が流れます。
  ストレスを感じる方は視聴を控えてください」

 そうテロップが流れるような、映像です。実際に避難した人たちが、避難した場所から撮影した動画だったので、これ以上ないくらいリアルなものでした。

 その時、私は内陸・盛岡で仕事をしていて、直後にあたり一帯停電になってしまったので、実際に何が起こっているのかを知ったのは後日のことでした。さらにしばらく経ってから何度か現地に足を運び、津波の破壊力がいかほどのものかということを知りましたが、今回このテレビ番組を見て、それにいっそうリアルさが加味されました。

 体験はしていないけれど、実際に体験した人たちの話を聞き、映像でさらに……。


 11年経って、「もう11年」というのか「まだ11年」というのか。その人によって感じ方は違うでしょうけれど、何度か現地に行って私が感じたことを率直に言います。

 「確実に、復興は進んでいる」

 ここ7年くらいは岩手を離れていましたし、この4月からは住民票も含めて完全に岩手を離れてしまいますが、心にはいつも岩手の沿岸の景色があります。

 久慈から宮古、大槌から釜石、そして陸前高田へ。いっぺんに、というわけではありませんが、とにかく一通り走った私だから、そのくらい言ってもいいと思うんです。

 今度は仙台を拠点にして、北は気仙沼や石巻、南は……まだ知らないので、なんという街があるのか。これから知っていけたらいいかなと思っています。



2021年3月11日、大槌町にて、うち捨てられたSRXとともに。

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こんばんは

 

 いぬがみです(宮古市金浜地区)。


 震災の記憶を「つらいから忘れたい」という人と「忘れてはいけない」という人がいます。

 私自身の気持ちとしては、直接何かしらの被害を受けたわけではないのですが、何とか大好きな海の街とそこに住む人たちが元気になってほしいので、常に何かしら発信もしてきましたし、行動もしてきました。

 そして今日はオートバイで、宮古市~大槌町にかけて走ってきました。もうとにかく走りまくっていたので、あんまり写真は撮っていませんが、とにかく沿岸の街で名物「磯ラーメン」を食べ、塩ウニおにぎりを買い、分厚くて巨大な防潮堤やチリ地震津波と並んで建つ東日本大震災の記念碑などを見てきました。

 「忘れたい」という人に「忘れてはいけない」と言うつもりはありません。10年とか15年とか、それより長い時間がたって、自分が受け入れられるようになったらフッと受け入れてあげればいいんです。私だってそんな記憶、いっぱいあります。

 嫌で嫌でたまらなくて、忘れたくて忘れようとして実際に忘れて、10年15年20年経って、自分のなかでタイミングがカチッと合って――受け入れられた。それでいいじゃないですか。起こった出来事は変えられませんが、その受け止め方、向き合い方は、「絶対●●でなければダメ」っていうものはないと思うのです。


 震災から10年が経ちました。

 亡くなった方にご冥福を。すべての人たちに、平安を。

 これまでも、これからも。ずっと、

 ……ずっと。

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こんばんは

少しく酔っぱらってしまって、申し訳ありません

いぬがみです(あの日からもうすぐ10年ですので)。


2011年3月11日。……私はド内陸・岩手県盛岡市のオフィスで仕事をしていましたが、あの時のことは忘れません。

その、ほんの少し前まで、沿岸の都市の方と電話で言葉を交わしていて。いったん商談が成立して、やれやれと一息。そのあとの行程を進めるための書類作成をやろうかなと思っていた時に、突如、地震が起こりました。


私の特性として、何かトンデモナイことが起こった時、あえてそれを自分自身と切り離して他人事のように考える「回避型愛着障害」……ま、それだって最近知った言葉ですが、そういうことだったのでしょうね。あくまで冷静なふりをしようと試みました。私のデスクの上にあったデスクトップPCがガッタンガッタン揺れて、オフィスビルが停電して非常灯のぼんやりしたあかりの下で一時帰宅を命じられ、家族にケータイで安否確認を試みても返事が返ってこなくても。

それでも誰かがワンセグで映し出したテレビの中の映像を見て、帰りの車の中でラジオを聞いて、いま何が起こっているのかを知りました。そして、泣きました。

 「どうして、こんなことに」
 
 自分が何かしたわけでは無く、自分が何とかできることでもない。それだけに、いっせいに、恐怖とか無力感とか何とかってーー自分が見ないふり、気づかないふりをしていたものに一斉攻撃すなわち袋叩きに遭い、やられてしまったのです。
 
 
 あれから10年が経ちますが、私にとっては「長かった」とも「短かった」とも言えません。
 
 10年は10年。それ以上でもそれ以下でもありません。
 
 もちろん私だって自分の人生を生きてきました。それでも、この東日本大震災のことを忘れたことはありません。だから、10年が経ったという「事実」……それを素直に受け止めています。
 
 
 とりあえず、今日はこのくらいにしておきます。
 
 ほかのことは、またほかのタイミングで書きます。
 
 ともかく、ひとつ言えることは。……新型コロナウイルスとか何とかって、世界中でいっぱい大変なことがあり、ツラい目にあっている人があり、マスコミなどがそれをクローズアップするのは世の自然な流れですが、だからといって「みんな震災のことは忘れてしまった」「風化してしまう」ということはありません。
 
 少なくとも私は忘れていませんから。そしてこれからもずっと、忘れませんから。
 
 とりあえず、誰が見るか見ないかわかりませんが、ここも世界中に開かれている場所ですからーー何か私の想像しえないキッカケによって、私の言葉を見る人がいるかもしれない――そう信じて、発信します。そう、これからも。

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おはようございます

 久しぶりに沿岸の町へ行ってきました

 いぬがみです


 私の不注意からカメラ(オリンパスOM-1)を壊してしまい、その衝撃でフィルムが全部感光して。初めてズイコーレンズで撮影した写真の出来栄えは永遠に確認できなくなってしまったので、とりあえず私の心の中にあるイメージを、できるだけ言葉で伝えたいと思います。

 時間的制約があったので盛岡から宮古に行き、そこから自動車専用道路を通って大槌、そして釜石へ。結局ゆっくりと歩いてみたのは浄土ヶ浜くらいでしょうか。何よりも、カメラを壊して応急処置を試みたことで余計な時間を使ってしまった(しかも、結局その場では直らず)ことが大きかったですね。って、本州の真ん中から海の見えるところまで移動するのが一番大変だったんですけどね。

 もともと山に囲まれた盆地の街・盛岡に生まれ育ったため、海のそばの街に行くのはとても好きでした。だから震災前も、時々ですが、出かけていました。今でもそうです。

 アラフォーになってからは、ただザザーッと寄せては返している波の音とか広い光景とか、そんなのを見ているだけで気持ちが癒されましたね。「ラブライブ! サンシャイン!!」の登場人物である松浦果南ちゃん、渡辺曜ちゃんの気持ちもわかります。ええ、海が好きで、船も好きなんです。今年の1月で運行終了になりましたが、遊覧船があったんです。
 
 いっぱい書きたいことがあるのですが、それをあえて、できるだけシンプルに書きます。新鮮な、一番強く思っていることから。


 今年はあの震災から10年目です。

 この10年、ずっと震災のことは心の中にありました。

 時々実際に足を運んで、復興の流れを見てきました。ここ1~2年はなかなかいけませんでしたが。


 それをふまえて申し上げると、特に「大槌町」と「陸前高田市」に関しては、

 「本当に、これほどまでに復興が進んだのだなあ」

 そういう思いがあります。陸前高田市のほうは、こないだとりためていたサンドウィッチマンの東北ローカル番組『ぼんやり~ぬTV』で見たのですが。

 ハードディスクにある写真を整理して、いずれまとめて書きたいと思いますが、とにかくそう思いました。陸前高田市の未来商店街(仮設商店街)には何度も行きましたが、そこで頑張っていた「鶴亀鮨」さんが、ちゃんと本店舗を構えていたのをテレビで見た時は、わがことのように嬉しかったです。この回はもうずっと保護します。


 とりあえず、まとめます。

 「もう」でも「まだ」でも10年経ちました。

 スピード感とか、そういうのは人それぞれ違うかもしれませんが、でも、大丈夫です。

 私はいつも、気持ち、ありますから。

 頑張っています、岩手。みんな、とっても。

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こんばんは。

 7年

 いぬがみです。


 あれから7年が経ち、少しずつですが確実に復興の道のりを歩む岩手県の沿岸にある街たち。私も毎年この時期には、普段なかなか行けない沿岸南部の街を訪れ、復興支援とか何とか言って好きなものを食べほしいものを買うのですね。

 今日は花巻から直接陸前高田市へ。そのあと釜石に行き、さらに大槌町へ。

 大槌町は津波によって壊滅し廃墟と化した「旧・大槌町役場」があります。当時の町長さんも津波の犠牲となり、私もあれ以降何度か現場に足を運び、祈りをささげてきました。

 最近、その建物を解体するか遺構として残すかの投票が行われました。結果は僅差で「解体」が決定したわけですが、本当にギリギリの差だったのでね。要するに壊そうとする人も遺そうとする人も正しいんだと思います。

 私自身はどちらかというと「遺した方がいいんじゃないのかな」というスタンスだったのですが、今日行ってみて、少し考え方が変わりました。

 「記録として残し、伝えていく必要はあるけれど、建物それ自体は解体してもいいんじゃないか」


 どうしてそう思ったのかというと、やはり大槌町の現実的な復興度合いがね。私の想像、すなわち1年前に見た時と比べて、ずっとずっと進んでいたから。

 正直に言うと、私の記憶の中にある大槌町は、

 「とにかくフラットな土地になってしまったなあ」

 という印象。どこに行くにしても手掛かりがなく、googleマップで検索して行ってみると、いきなり目的地がポンと取り残されていると。

 この旧・大槌町役場にしても、そうでした。周りは更地。仮設コンビニエンスストアと仮設ガソリンスタンド。それだけ。


 でも、今は道路もきちんと整備され(県道280号)、かさ上げ工事もバッチリ、当時仮設コンビニだったヤマザキYショップは別な場所にピカピカの建物を建てて好評営業中(その代りセブンイレブンができていた)。さらに交流施設やら図書館やら郵便局やらが周りに全力建設中とあって、この旧・大槌町役場だけがポツンと取り残されたような、浮いた印象だったのです。

 「これであれば、建物を完全に取り壊して、新しい大槌町を作り上げた方がいい」

 もちろん私は大槌町の人ではありませんが、それが復興、未来へのステップになるんじゃないかなと思ったのです。

 といって、目に見える建物がなくなったとしても、記憶を風化させることはいけません。私も感じたことを感じたままに写真を撮り、記憶を強化するようにします。

 1000年に一度の大災害を、1000年後の未来に伝えるために。

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おはようございます。

 花巻より祈りを込めて
 
 いぬがみです。


 本来であれば今日は休日ですので、ここ花巻市から東に向かった先にある釜石市に行き、その日のその時間に祈りを捧げたかったのですが、あいにくと明日明後日ふたたび青森県十和田市に行かなければならなくなったので、今日は移動の準備日として用事を足さなくてはいけません。

 そのため今日は、このホームから祈りをささげることにします。

 2011.3.11

 あれから7年。

 
 去年釜石市に行った時は、まるっきり新しい街になっていました。イオンを中心に大小さまざまなオフィスビル・商業施設などが立ち並び昼も夜も活況をしめす一方、ちょっと入ったところにはいまだ仮設商店街がある現状。

 実際にここに住み日々を過ごす人々にとっては、たぶん復興の歩みは…。どうなんだろう。

 同じように壊滅的な被害を受けた1995年の阪神大震災の時は、やはり大都市だけあって復興のスピードも速かったような気がします。

 7年も経ったのに、まだこんなものなの? そう言えるかもしれません。

 まあ私にできることと言えば、地元の募金箱にわずかばかりの金銭を投じること、そして年に数回くらい沿岸の街に行き、復興支援の名目で暴飲暴食およびモエモエした何物かを買い入れるくらいでありますが。

 でも、何度も書いていますが、私は海と海のそばの街が大好きなのでね。

 宮古、釜石、陸前高田。それから。……

 
 そう、復興支援の名目を掲げているものの、本当は私自身が元気になれるから行くんです。

 一日たりとも忘れたことはありません。

 まだまだ行きますよ。

 誰に言われなくても、当たり前のように心にある。

 そんな感じ。

 それが私の「復興ハート」。テレビ岩手。


 

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こんにちは。

 23年

 いぬがみです。


 朝、めざましテレビを見ていましたが、特に震災関係のニュースはありませんでした。7時台から見たからかな。

 今日で23年。

 おそらく傷跡はもう、目に見えるものは何もないでしょう。

 記憶から消えることはないでしょうが。

 いまだに復興の道半ばである東北に住む私からすれば……。


 まあ、でも「これでいい」ってことはないでしょうね。

 すべての、半ばでこの世を去った人たちに鎮魂の思いを込めて。

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おはようございます。

 マヂカルラブリーは結構好きなんですけどね

 いぬがみです(いや本当に)。


 昨日は「電車でOK, let's go(よしいくぞ)」という企画のもと、花巻から釜石→そして釜石から盛(大船渡市)まで行きました。

 目的は「駅メモ!」の新駅チェックインと、あこがれの「電車酒」を楽しむため。朝だろうが昼だろうが夕方だろうが関係ありません。とにかく飲みまくりです。…というほどではないんですけどね。1回につきビール2本(350ml)とか、コップ酒1本とか、そのくらいですから。インターバルも十分に置いてるし(電車が来るのが1時間ないし2時間に1本というペースなので)。


 逆にいうとそれ以外の目的というのが特に見当たらず、仕方がないので街をふらつく私。やはり気になるのは震災の影響です。

 もとよりそれほど被害がなかった(と思われる)ところもあるし、被害を受けた後に新しく復興したところもあるし。釜石市役所の近くを歩くと、立派な公営住宅が建っていましたが、その陰にはまだ仮設商店街があったりするし。震災から6年以上が経過し、もちろん時間ともに復興は進んでいますが、いまだ道半ばなのだなということを痛感しました。

 そんな中、これは大船渡市ですが、「東海新報」という新聞を買いました。いわゆる地方紙です。

 結構、こういう地方紙が好きなんですよね。「函館新聞」とか。

 正直なところ全国紙とかは、あんまり興味がありません。それはインターネットで同じ記事が配信されるから、それを読めばいい話だし。

 でも、こういう地方紙っていうのは、やはり地元の超・ローカル的なニュースが載るから面白いんです。その土地の雰囲気を、味わうことができるから。

 『あまちゃん』を見てから、そういう地方意識というか土着精神というか…そういう志向が一層強くなってきた私。そのうち、地方紙コレクターになるかもしれません。「この地方紙で連載されている小説が面白いですよ」とかって記事を書き始めたり、そのくせ1か月もしないうちに「小説が面白くなくなりました」って書いたり(松本清張的オチ)。

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おはようございます。



岩手生まれの岩手育ち、いぬがみです。


今日は函館の立待岬に来ています。

天気は快晴。風も穏やかで、波が静かにささやいています。

……

私は、海が好きです。

6年前の今日のことを、思っても。

だって、海は海ですから。

立ち並ぶ仮設住宅。思うように進まない復興。いわれなき差別や迫害。

被災地のこと、そこで生活する人々のこと。一日たりとも、思わなかったことはありません。

再建のペース、復興のスピード。個人差があるでしょう。報道された情報くらいですが、そういうのもわかります。


それはそれとして、改めて私は自分の気持ちを言います。

私は、海が好きです。

そして、海のそばにあって海と共に生きる街が大好きです。

私は私で職場があるし、家庭も内陸の街に持っちゃったから、沿岸の街の住人にはなれません。

だからこそ、私はそこに住み生活している人たちの力になりたいと思うのです。微力ですが。

夢を託すというか。

私ができないことをやっている人たちに、私の気持ちを乗せたい。その人たちが生活することで、私の気持ちを満たしたい。そういうことです。


あまり大きなことはできません。

ただ、時々その街に行き、町の様子を見る。ジュースを飲んだり昼ご飯を食べたりする。せいぜいその程度です。

それが私の、大好きな沿岸の街に対して、できることなのかな。

そう思いました。


頑張ってますよ、岩手。福島も、宮城も。 

これまでも、これからも。

心はいつも、海の見える街と、そこに生きる人々と共に。

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こんばんは。

今日は阪神大震災から22年目

『森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです。


 私は岩手の人間ですので、真っ先に頭に浮かぶのは2011年3月11日の「東日本大震災」。もちろんこれは一日たりとも忘れたことはありません。風化が進むという報道が流れるたび、「どうして、いまだにこんなに苦労している人がいるのに、みんな忘れてしまうんだ」と思うことがありましたが、そんな私も阪神大震災のことを忘れていました。今日の夕方、ご飯を食べに食堂に行って、そこで新聞を読むまで。今テレビで「報道STATION」を見るまで。

 あの時、私は中学1年生でした。甚大な被害を受けた関西地方から遠く遠く離れた岩手県の私にとってあの日は、半ば非現実的な世界の出来事でした。私の現実は、いつもと変わらずに朝起きて、テレビをつけただけだったから。そのテレビの中で、崩れ落ち、燃え上がる神戸の街並みが映し出されているだけだったから(これはのちのアメリカ同時多発テロの時もそうでした)。

 実際に家族や愛する人を亡くした人は、それこそ一生涯、絶対に忘れることはないでしょう。それは私もそうです。誰も喪うことなく、何も壊れることがなかった私ではありますが、私が生まれ育った岩手県と宮城県、そして福島県の人たちと街に対する思いは、これからもずっとずっと変わりありません。

 でも。ね。

 ……あの時のことを今の今まで忘れていた自分のことを思うと、なんというか、その……

 東日本大震災のことを忘れないで、という気持ちに変わりはありません。でも、阪神大震災のことも忘れてはいけない。そのことを、改めて心に誓いました。


 *


 ただ、阪神大震災と東日本大震災で、ちょっと違うところはあると思うんですよね。今の神戸はかつて震災で壊滅したことを忘れてしまうくらい繁栄しているものの、東日本大震災で被災した岩手県の沿岸の街は、いまだに多くの人が仮設住宅に入り、復興途上なんです。私も実際に被災地に足を運んだので言いますが、もう5年以上も経つのに、こんな感じなんです。事実として、私の脳裏にはこの曲が流れました。



 これは物語のとある展開により崩壊した街を歩くときに流れるBGMなのですが、本当そんな感じです。

 身内や愛する人を喪った悲しみを、第三者が忘れさせることは絶対に無理でしょう。でも……。


 すべての、震災の犠牲になった人たちに冥福を。そして、今も震災で苦しんでいる人たちに寄り添う気持ちを。いぬがみは、これからもずっと、そういう気持ちで生き続けます。そして、少しでも力になれるよう、努力していきます。

 がんばれ、がんばれ、がんばれ、みんな(さまださし『関白失脚』的オチ)。

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こんにちは

前回は随分と酔っ払っていたのかな

「森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです(書いた時の記憶があまりない)。


どうしていきなり今日「3.11」のカテゴリの記事を書こうと思ったのかというと、今「ヒルナンデス」を見ているとき、うすみさこと臼澤みさきちゃんの出演するCMが流れたから。内容としては今度の参議院選挙、投票年齢が引き下げられて18歳以上ということになったので、投票を促すものでした。ちょうど、うすみさが18歳だから、同年代の人たちに向けたメッセージなんでしょうね。

そうか、もう5年も経ったのか。そんな感じがします。

実は今年の4月、八戸からず~っと国道45号線を南下して陸前高田市に行ってきました。北三陸の方は何度か行ったものの、南三陸の方は全然行っていなかったからです(私の実家があるのが県北の方にあるので、日帰りとかだと結構厳しい)。

午前11時くらいに青森県十和田市を出発して、流れ流れて陸前高田。着いた時にはもう夜でした。

そこでふと思い車中泊。翌朝、あいにくの天気ではあるものの、徐々に明るくなっていく空と「奇跡の一本松」そして震災遺構となった旧陸前高田道の駅を眺め、かえってきました。

いずれこのことはまとめてホームページで書き出しますが、5年経っても復興は道半ばなのだなということ。でも、確実に流れはあるということ。


今まで被災地のことは、一日たりとも忘れたことがありません。そしてこれからも、私はずっと被災地のことを想い続け、力になりたいと思っています。

ただし、今回のツアーの主目的である「うすみさの新CDを沿岸の街で買う」というのは、果たせませんでした。そもそもCDショップが見つけられなくて・・・土地勘がなくて、見つけられなかったのでしょうが。

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こんにちは。

5年間、一日も忘れたことはありません。

「森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです。


復興が何も進んでいない。そう言う被災者の人がいる現実。

地権者とのやり取り、かさ上げに必要な土砂や資材が足りない。そう言う行政がある現実。

でも、

みんな気持ちは一緒だと思います。


私にはこの状況をいっぺんに解決することはできません。

大したこと、できません。

でも、

微力ながら、できることはあります。


岩手、宮城、福島。

復興とその先の未来に向かって。

私はこれからも、生きていきます。

祈りを込めて。

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詳しい経緯はまた改めて書きますが、今日は久慈市から大槌町まで、沿岸の道路をず〜っと南下したあと宮古まで戻り、それから盛岡へ帰る……という超ロングディスタンスな移動をしてきました。

どうして大槌町まで行こうかと思ったのか? といえば、うすみさこと臼澤みさきちゃんの3rdアルバムの購入特典があるのが大槌町のショップだったから。って、べつに大槌町に限ったことではないんですが、「どうせならうすみさの出身地で買おう」と思い車を走らせた次第です。

当初は海を眺めながら延々と走ろうと思っていたのですが、ところどころ自動車専用道路ができていたのでそれを最大限に活用。風景はあまり楽しめませんでしたが、所要時間は大幅に短縮させることができました。


震災後初めて訪れた大槌町は……色々と変わっていました。

とりあえず「もみ子ナビ」(MAPLUS3ポータブルのARIAきせかえパック仕様)で大槌町の代表地点に向かったところ、そこにあったのは津波の被害を受けて壊滅した旧大槌町役場でした。もちろん、映像では何度も見ていましたが……実際にこうして現場に立ってみると茫然自失。その場にしばし、立ちすくんでしまいました。

こみ上げる思いを、建物の前に設置された慰霊碑の前に手を合わせることで何とか静め、目的のCDを手に入れた私。そのあとは「お前ガソリン、おれカレー」とクロマニヨンズの歌のようにそれぞれのエネルギーを補給。平均時速80キロで帰ってきたわけですが、ようやく大槌町の人たちに直接的な支援をすることができたのかな、と思いました。

いや、別にこれが支援じゃないというのならそれでいいです。ただ大槌の人間じゃない私が大槌のコンビニでコーヒーを買ったり大槌の書店でCDを買ったり大槌のガソリンスタンドを利用したりすることは、外貨獲得という意味では絶対にプラスになったと思うのです。


私は大きな金額を義援金として手渡したり、ボランティアとして何かしらの作業をすることはできません。ただ観光に来て、コンビニやスーパーを利用して、帰るだけです。そして、せいぜいこうして被災地のことをブログで書くぐらいしかできません。

それでも、また行きたいと思います。今度はもっと早い時間に、商店街とかも色々と眺めてみたりして。さらにいえば大槌町だけじゃなく、隣の山田町や田老町の方も。

だって私は岩手県民だから。そして内陸の人間だから。――特別な時間を過ごした思い出が山のようにある沿岸の街が大好きだから。

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