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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
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兄者が高校入学と同時にPCを買ってもらった(PC9801DX)という前例があったので、かなり無理を言って買ってもらったのが、昨日も書いたSatellite Pro 430です。東芝のブランド「Dynabook」というやつです。

CPUは初代Pentium(120MHz)で、メモリは16MBで、液晶はTFTではなくDSTN(輝度調整ダイヤルがついている)。確かに1997年当時でも「そこそこ」のスペックですが、私にとってはとにかくWindows95がそこにある! というだけで十分だったんです。

真っ先にインストールしたのは・・・『魔法騎士レイアース』のスクリーンセーバー。まだPCを持っていないのに買い入れ、中学のPCにかってにインストールしてニヤニヤしていたものです。

次にインストールしたのが『パワードール』というゲームでした。98版の記事を『コンプティーク』や『ログイン』などで読み、思春期まっただ中のコゾーはその女性たちに惚れ込んでしまったのです(ゲーム自体は超硬派な戦術SLGなので、ろくすっぽ先に進めないまま今日に至る)。

そして3番目にインストールしたのが『殻の中の小鳥』・・・なんですが・・・その話は別な機会に譲るとして、今回は『デスクトップのメイドさん』について。


それは近所にあるパソコンショップで見初めたのですが、恋愛感情が激しくたぎっていた16歳のいぬがみにとっては、脳がとろけてしまうような可愛さ美しさでした。長い黒髪、ぱっちりと大きな瞳、優しい微笑み。エプロンドレス。『旦那様』。

売れないように売れないようにと祈る日々が続き、やっとのことで買い求めた私。内容は「CDプレーヤー」「時計」「ランチャー」「電卓」といったアクセサリと、つるまめぐみ先生ほか数名の方が描いた壁紙集でした。

今でこそ人面獣心、鬼畜外道のごとき輩の私ですが、そんな私が見ても心がスーッと洗われるような感じがします。そして極度の恥ずかしがりで泣き虫なところがあり、ちょっとしたことで涙目になっちゃうので、こちらも襟を正して真摯な気持ちで接しなければいけないな・・・と思ってしまうのです。ちなみに声優は中川亜紀子さんです。


この1年後には激しいたぎりが変な方に向かい、レイアースもメイファン(メイドの名前)も削除して、地獄の鬼さえヘド吐くPCになってしまったのですが、メインのPCが別なものに移った後はいったんリカバリし、最初から入っていたソフトをそのままにしつつ、またレイアースのスクリーンセーバーとメイファンの壁紙にしました。そしてそのまま数年来休眠状態にしたまま2014年になった・・・というところです。

ソフトウェアがWindows95だとしても、やはり動作は重いです。でも、動作が軽いPCはいくらでもあるけど、あの頃一緒に過ごしたPCはこれしかありませんから。

「思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物である事から救うのだ」(小林秀雄 『無常といふ事』)

あの頃、高校の現代文の授業でさんざん苦しんだこの言葉にもう一度チャレンジする気持ちも込めて、私はダイナブックと向き合います。って、この思い出の話が小林秀雄の文章だったことも、何十回と検索してようやくたどり着いたんですけどね。

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インターネットやメールのやり取りなど、最先端のソフトが必要な端末についてはDebianを利用するようになったので、Windowsのバージョンにこだわらなくてもよくなりました。サポート終了? セキュリティ対策? So what? ってね。

ソフトに合わせてハードを選ぶのではなく、ハードに合わせてソフトを選ぶ。古いPCだとしても、ソフトの組み合わせ次第で現役の端末になるのだということをDebian GNU/Linuxは教えてくれました。

そこで、これまで私の財政面をサポートしてくれていた『うきうき家計簿』を動作させるために、ここ数年ず〜っとホコリをかぶっていた初代PC『Satellite Pro 430CDS』を活かす方法があるんじゃないだろうか? と考えてみました。

懐古趣味でなんとなく動かそうっていう話ではありません。それでは子供の玩具同然、飽きたらまた廃棄処分待ちになってしまうでしょうからね。でも、そういう、必要があって動かすのならね。本当の本当に壊れてどうしようもなくなるまで、またサポートPCをとして役に立ってくれると。そう思っているのです。


昨日、数年ぶりに起動してみました。液晶は線が入って少々故障気味ですが、ハードディスクは異常なしです。壁紙は97年当時に熱烈愛好していた「メイドさん」(画:つるまめぐみ)でスクリーンセーバーは『魔法騎士レイアース』。標準添付のソフトウェアもほとんどそのままの状態で入っています。そこには1997年の空気がそのまま残っていました。

この話、明日も続くかも。

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近頃はめっきりと内臓が弱くなってしまった私。お酒は嫌いなわけではないのですが、以前のように前後不覚になるくらい酔っ払うことができなくなりました。そこまで行く前に胃が食べ物・飲み物を消化できなくなってダメだこりゃ状態になってしまうのです。

その上、胃のムカムカした状態が数日にわたって続くため、飲酒は1か月に1回程度が適量、という感じです。

にもかかわらず、今週は昨日一昨日と2日連続で飲み会に出席した私。1日目はともかく2日目はほとんど酒が飲めませんでした。

これは前もって想像できたことなので、あらかじめ参加を断っておいてもよかったかな・・・という気もしますが、ちょっと特別なイベントだったのでね。無理を押して参加した次第です。


というのは、昨日開催されたイベントは、毎年恒例となっている職場の花見会だったのです。そして、おそらく6月いっぱいで今の職場を離れることになるので、これが最後だからという思いがあったのです。

イメージとしては、豊太閤(豊臣秀吉)が晩年に開催した大イベント『醍醐の花見』ですね。
ああいう感じで、最後にひとつ派手なことをして、みんなの記憶に残ればいいなあと思って、今回は事前の準備にも深く関わりました。具体的には料理の買い出しや下ごしらえ、それを開催場所まで運ぶことなどです。

結果的には、かなり盛り上がったので、良かったかなと思います。酒もギリギリまで控えたので、今は若干の胃のムカつきがあるかな? というくらいですし。・・・また、今日からは自分のために生きていきたいと思います。

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村山早紀先生の本を、なんだかんだで結構、読んでいます。

「コンビニたそがれ堂」は2冊読んだし、今年に入ってから「竜宮ホテル」「人魚亭夢物語」「海馬亭通信」「ルリユール」と読みました。さらに今、手元には図書館から借りてきた「黄金旋律」と「カフェかもめ亭」があります。

これだけ読めば、「昔好きだった作家」というわけではなく「現在進行形で好きな作家」と言えるでしょう。ええ、私は村山先生の本が大好きです。


ただ、好き好き大好きでは終わらないところがあります。といっても別にケチをつけるつもりは毛頭ありません。私の至らなさを痛感し、恥じ入ってしまうようなことがあるのです。

それはゲームや、コンピュータに関する話です。

私も四半世紀以上にわたりコンピュータゲームに親しみ、好き度合いも知識もそこそこのものだと思っていたのですが、作品中に出てくるゲームの話を聞くと、「?」と首を傾げてしまう場面がいくつかあったんです。

いや趣味が違うというべきでしょうか。いぬがみは確かにゲームファンですが、ドラクエとかFF4とかで感動落涙したことはないんです(その頃、当家にはスーパーファミコンの代わりにメガドライブがあったから)。だからどれほど疲れた時でもホイミとかケアルとかゲンキとかが欲しいって思わないんです。ところでゲンキって、何に出てくる魔法でしたっけ。

パソコンに関しても、一応MS-DOS3.3時代から触れ、現在ではLinuxのカスタマイズに日々試行錯誤しているところですが、ワードとかエクセルとかは使えません。ましてやプログラミングなんて、中学の授業でBASICの打ち込みを少しやったくらいです。

でも、それぞれ違う物語とはいえ、風早の街にはワードやエクセルを使いこなす女の子(同時にオンラインゲームでは最強レベルまで自分のキャラを育てている)とか、独学でプログラミング技術を身につけた男子中学生とかが出てきます。

・・・ああ、昔「パソコンなんて全然わからん」と言っていた大人たちの気持ちとは、こういうものだったのか・・・と、今更ながら思いました。enchantMOONって何? とか。


最近は時代小説ばかり読んでいることもあって、ゲームやパソコンの話にこだわる気持ちもなくなりました。張り合おうとは思いません。ゲームが好き、パソコンが好き、何とかっていうガジェットが好き。OKOKわかりました。私はそういうのは持っていないので、まったくのドシロウトとして接することにしましょう。

でも、その代わり若い諸君が持っていないものを持ちたい。それは多分、『徳川家康』とか『柳生宗矩』とかを読んで得た武士として、人としてのモラル。400年前に生きていた人たちが育んできた哲学。

・・・なんてことを思ったり思わなかったりしながら、『黄金旋律』を読んでいます。

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昨日あたりから早い人はゴールデンウイークの連休モードに突入されたんじゃないかと思いますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。私はあいにくカレンダーの日付が赤くても黒くても出る日は出て、休む日は休む。そういう職場なので、連休というのはありません。

しかしながら、それでも関連部署が休みだったりするので、やはり多少は特別な雰囲気があります。それに実は取引先などが休暇に入るので、出社するとはいえ、多少は仕事量が減ります。ある意味では私もゴールデンウイークです。

それでも完全な休日が少ないので、せっかく宇都宮から帰郷している兄者と一緒にどこかに行ったりすることができないのが残念です。ま、せめて夜の街に繰り出し、そこで盛大に飲み食いをすることにしましょう。こういうイベント時にしか、私はお酒を飲みませんから。


そうそう。こんな中でも読書は欠かせません。昨日は山岡荘八先生の短篇集「柳生の金魚」を読みました。そして今度は村山早紀先生の「黄金旋律」を読む予定です。因縁浅からぬ角川銀のさじシリーズですが、知らない作家じゃありませんからね。その点においては大丈夫だろうと思っています。

その一方で、随分と前から貸してもらっている「クロヒョウ2阿修羅編」とかもプレイしているのですが、こちらはあまり長続きしません。昔のアクションゲームが上手になった代わりに、今の時代のアクションゲームが相当下手になってしまったからです。まだ第2章なのに10回以上ゲームオーバーになっちゃってます。

「やはり、本ばかり読んでいるから、戦いの心を失ってしまったのだろうか」

そう思い、再び熱さを取り戻すために日々取り組んでいます。・・・となればいいんですが、残念ながら、そうでもありません。決して読書という行為がゲームの上にあるとは言いませんが、ゲームは1日30分〜1時間程度にとどめたいなと思っています。いや、別にやらない日があってもいいかな、と思っています。


以上、このところの私の日常を見回してアレコレ書いてみました。こういう、どーでもいいようなことを書いてこそブログですよね。

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西郷南州(隆盛)という人には、奥州南部藩の人間としては、非常に複雑な思いを持ってしまいます。

大人物であることは、間違い無いと思います。それに関しては私が敬愛してやまない勝海舟先生も手放しで褒めていましたし、他の人(大久保さんとか)と比べると政治的野心もなく、西南戦争なんかも半どん(中村半次郎。のちの桐野利秋)に担がれてやむなく出陣したのかな、という気がします。石田治部どのに付き合って戦うことにした島左近とか大谷刑部みたいなイメージ。

ただ、南部藩家老の楢山佐渡様が京都くんだり出かけた際に、車座になって鍋をつついていたという話があるんですよね。せっかく楢山様が正装でピリッと気合を入れていったのに、南州さんはもう二次会ムードで和気あいあい。フランクと言えばそうなのかもしれませんが、楢山様は藩の筆頭家老。もうちょっと、ちゃんとした接し方があるでしょう・・・と思ってしまいます。


そんな南州さんが語ったうんちくを、庄内藩の人たちがまとめた「南州翁遺訓」を読みました。本来だったら、そんなものを手に取ることさえNGだと思うんですが、あまりにも皆さんがいい、いいというのでね。とりあえず一読しておこうかと思って、読みました。現代人向けに超簡単現代語訳したものだったので、数十分で読み終えました。

・・・楢山様のことを棚上げすれば、いちいち頷くばかりです。人として、どう生きるべきなのか? ということを、極めてわかりやすく語っておられます。思想的な立ち位置が決定的に異なるので、素直にシンパになることはできませんが、正しいことは正しい。そのことはちゃんと認めて生きて行かなければいけないなと思いました。

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今からだいたい6年くらい前に、学校の周りを走るジャージ姿の中学生諸君を見て、それまでなんとなく送っていた社会人生活を改め、積もり積もったコンプレックスを解消するべく奮闘努力を続けてきました。その甲斐あって、決して誰に誇れるわけでもありませんが、少なくとも「自分はダメだから、何もしない」という思いは抱かなくなりました。

「ダメだけど、やれるだけやってみる」

そう思えるようになりました。これは今でもそうです。

そんな私に、新しい目標ができました。昨日、まったく思いがけない形で。


盛岡市と雫石町にまたがる形で広がるダム湖『御所湖』の周りを、普段は車で通っているけれど、試しに歩いてみよう。――これは別にトレーニング目的ではなく、なんとなく・・・あえて言えば散歩感覚で歩いていた時のことです。

どういうわけか、警察学校の生徒さんたちと合流しました。今ホームページとかで見てみましたが、もしかするとこれが男塾名物岩手県警察学校名物・10キロメートル持久走ってやつかもしれません。

一応10キロという距離がどれほどのものかというのは、私も体感で知っています。今回も同じコースを(9割以上徒歩ですが)踏破したので、その上で言いますが、かなりハードです。ましてや陸上競技場のようなフラットな道ではなく、山をひとつ越えるようなコースなので、ちょっとした箱根駅伝状態です。

そこをひたすらに走りまくる皆様。その熱気に当てられて、私も気持ちだけはトレーニング気分です。それまでフラフラ歩いていたのに急に走りだすというのも妙な感じなので、端っこに寄って邪魔にならないように歩いていましたが。

ただ、そんな私にも「こんにちは」と声をかけてくれる人もいました。正直なところ、それどころじゃないだろうと思うのですが、そんな中でも私のような通りすがりの人間に声をかけてくれる心に感動。いぬがみも走り去っていく後ろ姿に心の中でエールを送りました(挨拶は返しましたよ。もちろん)。


さて、生徒さんたちのスタート地点と私のスタート地点は異なるので、先に一周し終わった私はコースから離脱し、その様子を脇から眺めていました。

速い人もいれば、そうでもない人もいます。てっきりファミコンウォーズのCMみたいに(古くてすいません)整然と隊列を組んで走るものだと思っていましたが、まあ高校のロードレース大会とあまり変わりません。つまり、みんながみんな自分のペースで走っていたのです。

そんな中で最後の生徒さんが来たのは、休憩も終えて帰ろうかなと思った頃。他の人たちと比べると大きく遅れており、逆・一人旅状態でした。

どうも、その姿を見ていると、かつての自分を思い出します。中学高校と持久走が大苦手で、いつも他の人たちと比べると思いっきり遅れて、あんな感じで一人旅状態。寂しいというか恥ずかしいというか・・・とにかく嫌な思い出です。

でも、それでも走っている。コースを間違えないようにする先生の姿もなく、「合ってますよねえ?」と誰にともなく問いかけながら(声に出ていたのでよくわかった)走り続けている。その姿に、いぬがみは強く感動しました。

「合ってます合ってます、そのまま頑張って!」

こっちもそんな風に声を掛けたくなりましたが、これは駅伝大会ではなく警察学校の訓練の一つですからね。私が声をかけていいようなものではないと判断したので、これまた心の中で声援を送りつつ、見守り続けました。そして彼女が正しいコースを走っていく後ろ姿を見送ったあと、今度は愛車ファミリアファミ子に乗って帰ってきた次第です。


「……羨ましいな
 以前、オレは…警官になりたいと思っていた…
 子供のころから……ずっと、りっぱな警官に……なりたかったんだ……」
(ジョジョの奇妙な冒険 59巻 115頁)

これはアバッキオのセリフですが、私も本当にそう思っていたことがありました。でも、「おれはそういうの向いてないから」とか何とかって、賢いふりをして、色々なことをあきらめてきました。なんだって途中で終わってたんです。くだらない男です(?)。

でも、今こうして警察学校の生徒として頑張っている皆さんは、強い『意志』を持ち、目標を実現させるために頑張っている。それも、今でも心のどこかで憧れ、尊敬している警察官という――自分が叶えられなかった夢を。

妙に、心が熱くなりました。ここ最近は今ひとつ仕事に対するモチベーションが上がらず、小説を読みまくることで何とかある程度の水準を保っていたところですが、一所懸命に頑張っている生徒さんたちを見て、

「お前も、しっかりしなきゃいけないぞ」

と活を入れられました。かぁーつっ!(アレは『喝』ですけど)


そういうわけで、私も同じコースを走りきれるようがんばります。でも本も読み続けます。そして仕事の方も、7月以降どんなところに飛ばされようと、一所懸命にがんばります。

だから、あの時に走っていたみなさんも、頑張ってください。あの時アシックスのウインドブレーカーを着ていた男は、いつもみなさんのことを応援しています!

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村山早紀先生の小説で『ルリユール』という言葉を知りました。本の修復職人とか、そういったことに携わる職人のことをいうようです。

それをテーマに扱った小説を読むことで、私の「本そのものが好き」という感情にターボがかかり、その勢いのまま本を粗末にする人間たちへの呪詛の言葉をブログに書こうと思いましたが、やめました(下書きはしましたけど)。その代わり、昨日まちなかで見かけて思ったことを書きます。


昨日、諸用を済ませて自宅に帰る途中、下校中の小学生を見かけました。・・・一年生ではないようです。また、体つきもそれほど大きくないので、中学年くらいでしょうか。まあ、それはどうでもいいのですが、とりあえず女の子二人、連れ立って歩いていました。

その時に「おや?」と思ったのは、背負っているランドセルの色。ひとりは赤いランドセルだったんですが、もうひとりは「黒い」ランドセルだったんです。

無論ここで男女同権論とかそれに対する反論とか、そういうことを試みるつもりはありません。ただ、1981年生まれの私は『黒いランドセルは男子が、赤いランドセルは女子が背負うもの」ということを誰も疑わない社会で生きてきたので、女の子が黒いランドセルを背負っているのを見て「おや?」と思った。そういうことなんです。

今日びは赤黒どころか、非常に多くのカラーバリエーションがありますからね。黄色だろうと水色だろうと宇治金時色だろうと、自分が好きなカラーを選べばいい。そういう時代だから、別に珍しいことではないんでしょうね。


・・・と、ここまで書いてきて、「そういえば、おれの周りにも赤黒じゃないランドセルを背負った女の子がいたな」ということを思い出しました。別に友達だったとか、友達より大切な人だったとか、そういうわけではないのですが、その子が背負っていた薄いピンク色のランドセルが珍しかったから、印象に残っていたのです。

参考:2014年のランドセル人気色について

・・・まあ、いいでしょう。何も言いませんよ、何も・・・。

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昨日に引き続き、もう少しPCの話をします。

このたび私が買い入れたのは、富士通のFMVです。サブタイトル(?)は「LIFEBOOK」。型番は718NU4というものです。

プロセッサはCeleronの1.8GHzでメモリは512メガに増設済み、ハードディスクは20ギガというところです。・・・ええ、決して現行バリバリのハードではありません。一昔前のスタンダードです。2003年型です。LIFEBOOKという名前が、まだ法人向けハードにつけられていた時代のものなんです(個人向けノートPCは「BIBLO」と言っていた時代)。


無線LANとか何とかといった、今風のものはついていませんが、LANポートはあるしUSB2.0ポートが4つも標準でついているし、使い道があるのかないのかわかりませんがFDDもついています。ついでにいえばPCの後ろにはアナログ的な端子がいくつもついております。レガシーインターフェースというそうです。

さすがの私もフロッピーディスクはここ数年利用していないのですが、大学生の頃までは自宅と学校の間のデータ持ち運びをフロッピーディスクで行なっていましたから、どこか懐かしい感じはします。今ではメディアもなかなか手に入りませんが、せっかくあるのだから、無理やりにでも利用したい感じがします。

そんなこんなで、10年選手ということを差っ引いてもアナログな装置満載のLIFEBOOKさん。それでもDebianなら利用にまったくストレスを感じません。もっと軽いOSやデスクトップ環境もあるようですが、私はこのGNOMEというやつが結構気に入っているので、まずはこれでよしとしましょう。


・・・ただ、ソフト的には軽いんですが、ハード的には結構分厚くて、重いです。公式ページのスペックを見るとわかりますが、3キロ以上あります。この重量感は私が初めて買ってもらったPC(Dynabook Satellite Pro 430)とほぼ同等のレベルです。

いやいや、そこは私ですから。PCを利用しての主たる作業はこういうブログ記事やホームページの記事を作成すること。別にど派手なグラフィック性能とかDVD作成能力があるとか、そういうのは必要ありません。その代わり100万文字打とうが200万文字打とうがビクともしないキーボードとか、そういうタフネスさを求めます。そんな私にとっては、この法人向け仕様はいかにもうってつけといった感じです。

ま、そんなこんなで、毎日アレコレといじっています。

Debian GNU/Linuxというソフトは、なかなか難しいものがあります。ただ、知れば知るほど色々なことができるみたいなので、じっくり時間をかけていじり倒していきたいと思います。

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OSがないPCを買ってきて、そこにDebian GNU/Linuxというのを放り込み、それでもってこの記事を書いています。

調べてみると一口にLinuxといっても色々なものがあるんですよね。GUIが充実しているものもあれば動作がとにかく軽いものもあるし。自分で「こんな感じにしたい」というのをOS選択の段階から自由に選べるというのは、本当に面白いなと思います。

私がインストールしたGNOMEデスクトップ環境なんかだと、標準でブラウザもメーラーもテキストエディタもついてくるし、日常的に使うには全く不自由しません。・・・と、ここまでは先日も書いた話。あれから一週間くらい経ちますが、動作も結構快適です。


さてDebianというOSは、とにかくフリーソフトが充実しているというのが特徴だそうです。データベースに登録されているソフトは2万以上というからたまりません。WordもExcelもろくすっぽ使いこなせない代わりに、あれやこれやとフリーソフトをかき集めて環境を整えてきた私にはうってつけのOSです。

それを入手するためにはちょっとしたコマンドを入力しなければいけないので、Windows方式のやり方しか知らない私は少々苦戦しましたが、逆に言うと、コマンドを一行カタカタと打ち込めばダウンロードからインストールまでやってくれるので、直感的であるともいえます。

いいですね、Debian。といっても本当はWindowsとの並立制で行こうと思っていたのでね。ネットにはつながなくても、Windowsマシンでしかできないこともあるし。いずれもともと利用していたPCの方も修復して、それぞれに使って行きたいと思います。

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このところは、とにかく本の感想ばかり書きまくっておりますが、今日はちょっと時事的なことを書きたいと思います。たまにはこういうのを書かないと、せっかく読んだ本の内容もちゃんと消化しきれませんからね。


関東の方には信じられないかもしれませんが、盛岡城址公園において桜が満開になった、と盛岡地方気象台が発表したそうです。ええ、今日、4月21日に満開になったんです。

この『満開宣言』というのは、盛岡城址公園の中にあるいくつかの観測用ソメイヨシノの『花が、だいたい8割方咲いた頃』にするのだそうです。まあそういう厳然とした基準があるので、満開になったと言えば満開になったのですが、我々一般人がイメージする『満開』とはすこ〜しズレがあります。

とはいえ、今週末くらいにはきっと見頃を迎えることでしょう。毎年恒例となっている職場での花見会も、おそらく今年がラストとなるでしょうから(理由:一身上の都合)、めいっぱい楽しみたいなと思っております。


それにしても我が町・盛岡は気候的な都合により、梅も桜も同時に咲いてしまいます。さらに牡丹も咲いてしまうし、派手と言えば派手なんですが、なんだかなぁ〜という気もします。そのくせ急に散っちゃって、仕方がないから「葉桜見物も粋なものだ」とかってワケのわからない空元気を装ったり。それが盛岡の春です。

ただ、それでも何でも、私は春が好きです。それまでギリギリと歯を噛み締めて震えながら寒さに耐えていた時期も終わり、ようやく活動的になってくる季節ですからね。

春の夜は値千金か‥

春は花が咲き
月もおぼろ

だが
雨も多く
霧も出る‥

春宵一刻値千金

それはあまりに少なく
千金にも値する日々‥

次はいつあるのかわからない

これが最後かもしれない‥


 この文章を探すために「春宵一刻値千金 湾岸ミッドナイト」で検索したらこのブログが出てきちゃいました。ギャフン。

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『のぼうの城』(和田竜、小学館)を読みました。


物語は太閤の小田原攻めのおり、いくつかある北条氏の支城の一つである「忍城」で繰り広げられた戦いの記録です。この時に攻め立てたのは石田治部どの。配下には大谷吉継などを従え総勢2万の大軍です。それに対して忍城の成田方は500人程度。数字上では圧倒的不利です。

しかもその時に総大将を務めていたのは、「のぼう様」と領民からもバカにされていたお方。武芸よりも野良仕事を好み、そのくせ不器用で手伝ってもらうとかえって仕事が増えるというのだから、役立たずもいいところです。

そんな「のぼう様」が治部どのの大軍を相手にどうするのか? それは誰もが唖然とするような、もはや策とも言えないような行動でした・・・という感じです。


実は、途中でちょっと脱落しそうになりました。残念ながら「のぼう様」にまったく魅力を感じられず、戦国無双でもお馴染みの甲斐姫にもときめかず、もうダメかな・・・つって本を閉じようと思ったのですが、

「何かあるはずだ、きっと何かあるはずだ」

そんな期待をしながら読み進めて行きました。私もまた、なんだかんだ言いながら、「のぼう様」のことを信じていたのかもしれません。

果たしてその期待はかないました。個人の武力だけでもなく、知略だけでもなく。人の心をつかむ『将器』を持つ者こそ、人の上に立つものにふさわしい。山岡荘八先生の『小説徳川家康』で感じたことを、まさか『のぼうの城』でも感じることになるとは。いやはや、まったくもって恐れ入りました。

もちろん、坂東武者の荒々しさを体現したような猛将も数名出てきます。勇ましい戦の描写に心が躍ったことも事実です。でも、戦って華々しく討ち死にするだけではなく、しっかりと家を存続させるためにはどうすればいいのか。そういうことをちゃんと考えていた『のぼう様』は、繰り返しになりますが、恐るべき人だなと思いました。

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岩手日報IBCニュースで、村上春樹先生の新刊が出たことが報じられたのを聞いて、思わず「えっ!?」と声を上げてしまいました。いや、午前中に書店に行った時にそのものを見ていましたから、新刊が出たことは知っていたのですが・・・何やらそれを求めて朝早くから書店の前に並んだとか、いつもよりも3時間も早く店を開けたとか、そういうことがあったらしいのでね。そのことに驚いたのです。

そこまでするかね。――そんな印象でした。

いや、好きな人からしてみれば、待ちに待った新刊なんだろうな、という事は想像できます。だからといって、わざわざ朝から頑張って買うほどのものかね。――そう思ったのです。仕事終わりに本屋によって、フツーに買えばいいじゃんって思ったんです。別に、早く買わなきゃ売り切れるってもんでもないでしょうに。

なんか、これはもう、信仰に近いものがあるんじゃないでしょうか。新刊が出たら、何をおいても早くそれを手にし、読まなければいけないという信仰がある人たち。そういう想像をしてしまいました。まあ、この国は信仰の自由が保証されているから、それもまたいいと思いますが。

ま、こんなことを言っている私も高校時代に「風の歌を聞け」を読み、将来は翻訳の仕事をしたいなと思って英文科に進学した事実があります(※)。今の私は受け入れられませんが、当節流行のたしなみとして村上春樹を読む。結構なことです。


それにしても、発売日に行列して何かを買う人をニュースで見ると、いつも思い出すのが、今から四半世紀くらい前のこと。当時ファミコンで「ドラゴンクエストIII」を求めてビックカメラやらヨドバシカメラやらに夜中から並んだことが、ニュースで大々的に取り上げられ、社会現象とまで言われたことです。

次が「ドラクエIV」の発売時もそうですし、スーパーファミコン発売の時もそうでした。まったくもって古い話ばかりで恐縮ですが、それが私にとっては非常に衝撃的だったのです。・・・そのことをよく考えてみると、まあ、いち早く手に入れたいという気持ちも、わからないわけではないのですが・・・。


そういうわけで、今日は「村上海賊の娘」の作者が書いた「のぼうの城」を図書館で借りてきました。映画にもなったし、その映画を地上波で放映したし、頃合いよしと判断したためです。・・・そして、もしもこれが面白かったら、その時は躊躇なく天正海賊娘に喧嘩をふっかけてやりたいと思います。

(※ 現在は英文科どころか、文学部そのものが存在しない)

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日経Linuxを探しにまちなかの書店に行ったところ、「村上海賊の娘」という本が店先でプッシュされているのを見ました。

世はまさに大海賊時代ですから、そこに「娘」というキーワードを加えて斬りこんできたんだろうな、つって返り討ちにしてやろうと思い、とりあえず手にとって見ました。・・・ふむ、どうやら、史実を元にした物語みたいですね。

ということは、それなりにしっかりとした物語という事でしょうか。・・・今、こうして記事を書くにあたり、ちょっと新潮社の公式ホームページで調べてみたところ、そうですね。いぬがみは徳川信奉が強く、その家康公を「三河の親類」と呼んでいた総見公(織田信長)寄りなのですが、何というか・・・花の慶次に似た空気を感じました。

「姫様はすべてを欲しておられるのですな」
「そうだ、悪いか」

これは公式ホームページ内にある本編内のセリフ(だと思うの)ですが、なるほど、いよいよもって面白そうです。私の歴史観は山岡荘八先生の「徳川家康」を大基準として置いているので、「切取り強盗は武士のならい」的な思想は受け入れられませんが、そこまで言うのなら、どれほどのものか見せてもらおうか。海賊の娘の野望とやらを――という気にはなりました。


・・・ただ、この海賊の娘が反主流・反体制な立ち位置だとすれば、私もまたそういう性格なんです。

つむじまがりのへそまがり、根性曲がりのつづら折り。十重二十重に折れてねじれた心は、たくさんの本を読むことにより大きく修正されたものの、一方で心の奥深いところには強〜力な筋金が入りました。

第35回吉川英治文学賞新人賞受賞。2014年本屋大賞受賞。OKOK素晴らしいことだと思います。そういう、評価されたもの・人気のあるものを積極的に追いかけて読みまくる。それは正しいことだと思います。

でも、いぬがみにとってはそのキラキラしたものが、逆に邪魔なんですよ。あまりにもみんなから読め読めと言われると、

「面白いかどうかはオレが決めるんだ」

つって、むしろ積極的に距離を置こうとするんです。そして決して近づこうとしない。妙に意固地になってしまうんです。まったくもって感情的、非論理的な話ですが、これはもう性分だから仕方がないんです。


もちろん、これは非常に面白いだろうだと思います。かなり興味をそそられています。もしも(変な話ですが)ここまで話題にならなければ、するりと買っていたかもしれません。だからこそ、こうしてちゃんと記事を書きました。

もう少し、ほとぼりがさめたら読もうと思います。「宮本武蔵」も「徳川家康」も「竜馬がゆく」も、みんなみんな一時代を築いた超ベストセラー作品ですが、私が読んだのは初版からウン十年も経った2010年代の話だし。そこまではいかなくても、当分はね。

あとは、ここしばらく読みまくった本の感想がある程度まとまったら、ですね。ブログの休止期間中に読んだ山岡荘八先生の「柳生宗矩」は、本ッ当に面白かったですから、ちゃんと気持ちを整理してから次に行きたいと思います。

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思いの外早く、戻ることができました。

 こうして記事を書いているという事は、もちろん、xpではありません。

 このたびDebianというOSを入れたんです。ついにLinuxを導入したんです。

 従来利用していた(12年もの)デスクトップPCに、小生意気にデュアルブート仕様で設定しようとしたらファイルシステムエラーか何かで動きがとれなくなり、結局、新しいPCを買ってきた私。新しいと言ってもDesigned for XPというシールがはられた中古の端末です。そしてOSなしモデルです。そういうこともあって、スペックの割に非常に安く手に入りました。


 WindowsでもMacでもない、LinuxというOSは、長らく「マニアの人が趣味的に使うもの」というイメージでした。私の用途(テキストを書く、音楽を聞く、動画を見る)であれば、Windowsがあるのに積極的にLinuxを選択する理由もないだろう、ってね。

 ところが今回のXPサポート終了の一報を聞いて、その考えを改めることにしました。新しいOSが出たら、どんどんそれに乗り換えるのが当然だと思うのですが、それがなんとなく悔しいんですよね。「ホラホラ、もうサポート終了しますよ。新しいOS買ってくださいよ。そうじゃないと大変なことになりますよ」と煽られるような感じがして。

 そこで、有志が集まってみんなで作り上げる無償のOSであるLinuxを入れることにしました。その中でDebianを選んだのは、各ディストリビューションの紹介記事を読む中で、「思想的にも技術的にも、これぞLinux」という言葉があったからです。その割に、とりあえずインストールしただけでも、ブラウザ・メーラー・テキストエディタにメディアプレーヤーが標準搭載されているという親切さ。とりあえず不自由はしません。

 その上で、なんだかんだと知らないことは調べて知識を深めていく。やはり、実際にやらないとわからないですからね。これから少しずつ、知識を深めていきたいと思います。

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多くの企業や何やでいまだに重用されているOS『WindowsXP』がサポートを終了することに伴い、個人情報流出やウイルス感染などへのリスクが増大するというニュースが巷間をにぎわせているところですが、そんな記事を書いている私のPCもXPなんです。

まあ「ウイルス対策ソフトは入れてるし、大丈夫でしょ」とどこ吹く風だったんですが、今朝めざましテレビでトレンドマイクロ社の人が、

「ウイルス対策ソフトは窓にかける鍵のようなもの。OSのサポート終了後は、その窓がぶち破られている状態だから、防ぎようがない」

ということを言っていたので、考えを改めることにしました。

新しいOSが入ったPCを買うか、XPでもセキュリティの安全性を確保できる何かを見つけるか、今のPCを丸ごとフォーマットして個人情報の一切を削除し「取るものは何もないから、どうぞお入りください」とオープン生活をするか。私なりにこの危機的状況を打破する妙案が浮かぶまで、ちょっとブログの更新を一時的に停止します。

こういうのはちょっとツライですね。本人のやる気は十分なのに、ハード面の理由から停止せざるを得ないというのは。

ま、でもね。ホームページを開設してから14年ほどが経ちましたが、こういう中断期間は何度かありました。それでも、何度も復活しました。なので今度も、ちょっと時期はわかりませんが、きっと戻ってきます。

どうかそれまで、皆様お元気で。

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このところ、とにかく読んだ本の感想ばかり書いてきた我がブログですが、これについての弁明と反省をします。

こうも本を読みまくっていたのは、ひとえに日常生活における不安感から逃れるためでした。毎日の仕事のプレッシャー、未来(具体的には7月以降)への不安、などなど。

「おれは、あの仕事をきちんとやっただろうか」

一応キッチリと仕上げて出した自負はあるのですが、どうしても、どこかで手落ちがあったんじゃないかという思いが……いつも付きまとい、なかなか心が晴れる日がありません。

そういった心の弱さを内面から鍛えなおしたり、緊張を和らげたりするために、とにかく連続して本を読んだというしだいです。

……あとは、手にかけた『小説徳川家康』が世界最長レベルの作品なので、それを読み終わったあとも『何か読んでいないともやもやする』というニコチン中毒のような症状もあったかもしれません。

とはいても、やはり本を読むだけではいけません。ちゃんと自分のものにしなければ西郷南州翁に『書物の虫』といわれてしまうし、三浦梅園からは「衒学くさい野郎だな」と不愉快な顔をされてしまいます。もっとも、ということを新渡戸稲造先生の『武士道』を読んで気づかされたのだから「オイオイ」と言われるかもしれませんが、ともかくそういうことです。


本の知識がそのままでは役に立たないことは、10年前に痛感しました。ただでさえ学生時代にアルバイトというのをただの1秒もしたことがなく、知識は本やネットで仕入れたようなのばかり。その知識によって作り上げられた私という商品はどうにも買い手がなく、やっともぐりこんだ会社でも最低ラインを1年以上這いずり回り、抗不安薬なしでは生活できないほど追い込まれました。

そういうこともあって、ろくすっぽ本を読まずに過ごしていた頃もありましたが、去年PCが故障したことをきっかけに、また本を読むようになりました。今思うと、読んでレポートを書かなきゃいけないとか、そういうことがないので、大学時代よりシンプルに読書を楽しめているような気がします。だから冊数もそれなりに積みあがったのかな。って、数の問題じゃないですけどね。


ともかく、『小説徳川家康』の再開に始まった2014年の我が読書生活は、ここでちょっと小休止です。少し手綱を緩めて、ゆっくりゆっくりと溜め込んだ知識を活かす道を探っていきたいと思います。活人剣みたいなものです。そういうわけで私の手元には、先週申請した『柳生宗矩』が到着したから取りに来るようにというはがきがあります。結局また読書ってマジっすか先輩!?(紙兎ロペふうに)

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高校生~大学生の頃、『幻想文学』という言葉に、言いようのない甘美な想いを抱いていました。そういう文学を読み、そういう世界に親しむことが、何よりも楽しかったのです。

それは当時よく聴いていた筋肉少女帯の歌(そしてオーケンさんこと大槻ケンヂさんの言葉)に強く惹かれていたこともあるでしょうし、そういう年頃だったこともあるでしょうけど、まあとにかく私のパノラマ島にはそういった文学の雰囲気が満ち満ちていました。


あれからポンと10年が経ちました。いや本当に今年は大学を卒業してから10年目なんです。

去年あたりからものすごいペースで本を読みまくっているところですが、年齢が上がったせいなのか、それとも序盤に『龍馬がゆく』を読んだせいなのか、割と現実的な物語ばかり読むようになりました。戦国期とか幕末期とかを舞台にした小説のどこが現実的なんだ、という気もしないでもないですが。

今回、盛岡市立図書館で借りてきた『『夢÷幻視(13乗)=神秘――幻想・怪奇名作選』は、久々の本格的な幻想小説集でした。(13乗)のところは、本当は言葉の右上に小さく13と書かれています。

明治の元勲・枢密顧問官、子爵海江田信義のひ孫で東郷平八郎は義理の大伯父……という謎めいたプロフィールを持つ『ポチ』氏が古今の作家の幻想小説およびエッセーをかき集めて一冊の本にしたコレは、とにかく豪華なラインナップです。

倉橋由美子、村上春樹、連城三紀彦、津島佑子、夢枕獏、島尾敏雄、澁澤龍彦、芥川龍之介、三津木春影、梶井基次郎、富ノ沢麟太郎、郡虎彦、ネルヴァル。とりあえず書き出してみましたが、どうですかこのラインナップ。村上春樹と芥川龍之介が同居する本なんてめったにありませんよ。あ、ちなみに澁澤龍彦さんのはエッセーです。

村上春樹作品を読んだのは高校生の頃、医大に通っていた女子の先輩からもらった『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』以来でしたが、どうもなじまない感じでした。どこがどうダメなんだと全国3千万の村上春樹ファンから詰問糾弾を受けそうですが、どんな時でも何か取り澄ました雰囲気の『僕』がいけすかないというか、すわりが悪い感じがするのです。短編一本とはいえ、ちゃんと読んだから言います。私には、あまり村上春樹文学は合わない感じがします。

反対に芥川龍之介なんかは、やはりいいですね。これまでまともに読んだことがあるのは『蜘蛛の糸』くらいだったのですが、ウムム、さすが歴史に残る大作家だけあって面白いです。まあ、ようやく芥川龍之介が読めるくらいのレベルになったともいえますが。


ともあれ、久々に幻想小説のたぐいを読んだという話です。なお、コレに続いて読んだのは村山早紀先生の『人魚亭夢通信』。主人公は小学5年生の女の子ながら、怪盗とかライバルの盗賊団とかが出てくる、古きよき少年向け冒険小説(『怪人二十面相』とかそういうの)の空気をはらんだ小説です。ただ、それだけではなく過去と現在をつなぐ様々な伝説が絡み合った、とっても温かいファンタジー小説です。どう考えても小学生向けの本なんですが、たまにはこういうのもいいですよね。

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これまで、隆慶一郎という名前に対しては、作家というよりも『漫画原作者』のイメージが強かったです。いうまでもなく『花の慶次』であり『影武者徳川家康』ですね。

これまでは特に読もうとも思わなかったのですが、このたび山岡荘八先生の『徳川家康』を読了したのでね。そろそろいいだろうと思って、なぜか『影武者徳川家康』でもなく『一夢庵風流記』でもなく『かぶいて候』を図書館で借りてきた次第です。

どうしてコレなのかというと、漢漫画の紹介サイト『早池峰山』さんの中にある、「かぶいて候の秀忠が唯一世間一般の秀忠像に近い書き方をしている」という記載があったのをずっと前から気にかけていたからです。漫画のほうで秀忠公の極悪ぶりは十分にわかっていたので(無論、隆先生&原哲夫先生の書く、ですよ)そうじゃない秀忠公を見てみたい。そう思ったのです。


これまでは山岡先生の非常にまじめな世界観の中にいて、私自身もそれを心地よく思っていたところだったので、隆先生の書く『かぶき者』の世界には、脳震盪を起こしそうなくらいぶっ飛ばされてしまいました。

まず、主人公は鐘巻流の達人です。職業? は徳川家光の小姓なので、言ってみればSPのようなものです。そしてその実力は超人的なもので、突然家光を襲ってきた刺客を苦もなく返り討ちにします。やはり隆先生が書く漢たちは、みんなこんな感じなんでしょうか。

そんな男に惚れて付いて来るのも超人的な能力を持った連中なので、えりすぐりの暗殺部隊60名に襲われても傷一つ負わず、それどころか8割方をその場で返り討ちにしているという有様(残りは本拠地に戻った後すぐに自害して果てた)です。得物として愛用する剛槍も含めて、前田慶次レベルです。


そんな阿修羅のごとき強さを誇りながら飄々としている主人公に顔を赤くしたり青くしたりする将軍家や重臣たち。この物語での秀忠公は、なるほど、冷静沈着で賢い君主といった印象です(対して息子・家光は父親に「どうしようもない馬鹿だな」と言われる体たらく)。

その代わり、なんだか諸悪の権化みたいに描かれているのが秀忠公の奥さんである阿江与の方で、『異常に気位が高く、気性の烈しい女性である』と言われています。そして秀忠公が侍女にはらませた長男が二歳の時に灸をすえたせいで死んだことは『おそらく阿江与の方が殺したのだろう』といわれる有様。この件についてはあまり詳しくないので、肯定も否定も出来ませんが、さらりと恐ろしいことを書いています。

そして家光と将軍家ご指南役の柳生但馬守が衆道関係にあったという説もぶち上げています。さすがの私も、これには眉をしかめざるを得ません。これは、当時の風習として云々というよりも、柳生但馬守自身の人格を考えて、「そういうのはなかったんじゃないかな」と思うんです。あくまでも武人として、将軍家ご指南役として、家康・秀忠・家光と三代に渡って側にいたんだと考えています。


まあ、そういうことを差っぴいても、これはとても面白いです。惜しむらくは隆先生が急逝してしまったこともあり、主人公が武芸者からかぶき者にクラスチェンジし、さあこれからというところで終わってしまったことです。まあ、主人公のド派手なかぶき振りを無限に想像し続けるともいえますけどね。

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よくよく私は本を読むことが大好きな人間なのだ、と思いました。

図書館に行ったのが午前9時半くらいで、次にその場所を出てきたのが11時半。その間何をしていたのかといえば、とある本を一冊、最初から最後までまるまる読み通してしまったのです。

その本というのは、伊奈かっぺいさんのエッセイ集『落書き集苦楽符(スクラップ)』です。

この本は伊奈かっぺいさん(本人は同書の中で「これは芸名だから、伊奈さんとか、かっぺいさんではなく、伊奈かっぺいさんと呼んでもらいたい」と言っていたので、そういわせていただきます)が方々の雑誌に載せたエッセイや対談などを集めたもので、単行本にあたり書き下ろしたものは何もないそうです。せいぜい『あとがき』ぐらいかな。


伊奈かっぺいさんは弘前出身の津軽人。対して私いぬがみは盛岡出身の南部人。南部と津軽は400年以上前のいざこざから、どうも仲が悪いといわれております。私はそこまで青森県に敵愾心を持つわけではありませんが、『同じ東北人だから』というだけでは割り切れない何かはあります。

ただ、まあ、そういう思いもさほど気にならないくらい、この本は面白いです。書かれたのは今から30年かそれ以上前のことですが、まあ単純に面白いのです。少なくとも東京の人が読んだ時よりも、きっと、感じ入るところが多いと思います。

たぶん、そう言うことを、伊奈かっぺいさんも許してくれると思うんです。南部と津軽といえば、しっくりいかない感じがしますけど、本県にも弟子筋に当たる? 菊地幸見さん(※※)という人がいますから。年に1度は岩手で『コンサートーク』という名のイベントもやってくれるし、去年の秋にはIBC祭りでトークイベントもやってくれたし。

比較的軽めのエッセイ集とはいえ、ほとんど時計を見ることもなくず~っと本を読み続けることが出来る幸せ。こんな休日もいいかもしれません。


※ 津軽弁の会話としてもっともよく使われる文例。『どこに行くんですか』『銭湯に行きます』という意味合い。

※※ IBC岩手放送のアナウンサー。遠野出身。岩手弁の流暢さ・温かさはたぶん日本一

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山岡荘八先生の随筆集『随想徳川家康』と『史談 家康の周囲』を読みました。

これは山岡先生が様々な雑誌に書いた『小説徳川家康』関連の随筆を集めたもので、そのためか一部で重複するものがあります。そういうのを意識せずに2冊目を読み始めたのでデジャ・ヴュのような感覚を味わいました。

これらの随筆が書かれた年代というのは『小説徳川家康』の連載中~連載終了後と、結構まちまちです。中には後日談的なエピソードもあります。すなわち家康公が歿くなった直後の柳生宗矩の話とか、生涯面会を許されなかった上総守忠輝のその後とか、東照大権現となるまでの経緯とかです。なので、読むのであれば全巻読了後がおすすめです。


思いつくまま感想を書き出します。

基本的にこれらは随筆なので、山岡先生自身の気持ちがストレートに表現されています。それを読むとわかるのですが、山岡先生は私が考えていたほど絶対的な家康信奉者ではないということです。戦後の混乱期にあって、山岡先生をはじめとする多くの人々が望んだ「平和――」への思いを、実際に戦国乱世をおさめ200年以上にわたる泰平を作り上げた家康公をモチーフに小説を書いたということです。

そういうこともあって、必ずしも史実とは一致しない『小説徳川家康』なんですが、これを読んだところ……いっそうこの作品が好きになりました。私に平和の尊さ、平和のありがたみを骨の髄までわからせてくれた作品だったのですが、それが山岡先生自身の思いだということを知り、「やはりその考え方は間違っていないのだ」という自信を得たからです。

どこまでが史実で、どこまでが創作なのか? そういったことを特に考えません。ただ私にとっての家康公はもはや『狸ジジイ』ではありません。真に平和を求め、平和の礎となった大偉人です。めくらめっぽう信奉するわけではありませんが、影響を受けたどころではなく、基本理念のレベルから大きく変わりました。それがいっそう具体的なというか、原木を削りだして仏像に近づいたというか……これらの随筆を読むことで、ようやく『小説徳川家康』の世界が手の内になったのかな、という気がしました。



ちなみに『小説徳川家康』の世界では、総見公・織田信長も豊太閤・豊臣秀吉も『日本株式会社の初代社長と二代目社長』として重要な役割を果たしています。共通するのは、みんな戦国乱世を終わらせようとしていた、ということ。ただ、終わらせるためのプロセスが二代目までの時代と三代目――家康公の時代とでは異なっていたので、この順番が違っていたらきっと平和な時代は来なかっただろう……というのが山岡先生の意見です。よく総見公も破壊と殺戮を好む魔王のような扱いを受けていますが、そうではないのです。時代が求めるアプローチが異なるだけで、平和を求める気持ちは三人とも一緒だったのです。

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先日、「私はギャンブラーにはなれない」という話をしましたが、改めてそのことを少々書きます。

たとい勝てばお金(など)が儲かるとはいえ、コツコツ働いて得たお金が2分とか3分で消えてなくなるかもしれないプレッシャーには耐えられない……というのが、先日書いた言葉。

それは言い換えれば、私がどちらかというと堅実志向な性格ゆえということかもしれません。一攫千金にロマンを求め、それで破滅するのもまた良し……という生き方が、どうしても出来ない気がするのです。ドサ健あたりから軽蔑されるような、堅気でやっていきたいタイプなんです。


そういうことを踏まえると、この小池重明という人は、絶対に友人にはなりたくないタイプです。

将棋の腕はプロ棋士を負かすほどのレベルでありながら、それ以外は何をやってもダメ。職を転々とし、借金は増え続け、お世話になった人が経営する店の金庫から金を奪い逃亡することも数度(その場に借用証を残していくので『盗んだわけではない』とは本人の弁)。最期は不摂生から血を吐いて死んでいったような人です。まったくもって破滅的な人生です。

まだ人生経験の浅い10代の頃ならともかく、30代になった今では、まったくもって関わり合いになりたくない人間です。

でも、そういった理屈では割り切れない『何か』を感じさせるのも事実です。それはやはり、人間としては破綻者だけれど、将棋の腕だけは……という一芸があったからなのかな、と思います。


私が『面白いな』と思ったエピソードをひとつ。

小池氏が団鬼六先生に、「先生と将棋を打ちたがっている人がいる」と紹介したことがあったのですが、実際に会ってみても一向に将棋が始まらない。どうしたことかと思いつつ床につき、夜中にトイレに立った時、ふと別室で将棋を打っている小池氏を見つけました。ところがその様子があまりにも真剣で「オレには将棋を指させないくせに、自分だけ何をやってんだ」と問い詰めることもせず、さっさと用を足して再び寝入ってしまった団先生。

朝になると、目の前に札束を積み上げた小池氏。実は自分が真剣勝負(賭け将棋)をする際に、ちゃんと負けた時の支払いを保証してくれるスポンサーがいますよ、ということを相手に見せるために団先生をダマしてつれてきた……ということだったんです。それでいて律儀に分け前を渡すあたりが、ヘンなところでまじめな小池氏の性格を現したエピソードだな、と思いました。


強くなれば強くなるほど真剣勝負を受けてくれる相手がいなくなり、食い詰めていく――麻雀放浪記でも読んだ、裏プロとしての悲哀が、そこにもありました。そういった生き方を自分はすることが出来ないし、だれもすることはできないでしょう。

でも、そういう人がかつてこの世にいたのだな……という、戦国武将の話を読むにも似た気持ちで本を閉じたのでした。

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考えてみると、地球の裏側で起こった地震の影響で日本まで津波が来るというのは、すごいことだなと思います。どのくらいの高さで来るのか? いつごろ来るのか? そういうのを予想するのはきわめて困難なことだろうとは思うのですが、予想時刻を越えた6時30分現在でもまだ来ないというのは不安です。


津波が怖いというのは、もちろん2011年の震災のこともありますが、その前にも何度か大きな被害を受けた歴史があるからです。『三陸海岸大津波』(吉村昭)という本が詳しいですが、明治29年と昭和8年にも壊滅的な被害を受けたことがありますし、1960年には今回と同じくチリで起きた地震の津波で多くの犠牲者が出ました。

と、ここまでは歴史上の出来事ですが、2010年に起こったチリ地震津波は今も記憶にあります。あの時には1960年の津波を教訓に作った山田町の防波堤が威力を発揮し、大きな被害はなかったと思います。


ともあれ、地震とか津波とか、本当に恐いです。私が直接的に被害を受けるわけではありませんが、同じ県の、大好きな「海のそばの街」にまた何かあるんじゃないかと思うと本当に心配です。これは地球レベルの話なので、もちろん私の意志でどうこうできるわけではありませんが、早いところ津波注意報が全面解除になることを祈っております。

今日は本当は『真剣師小池重明』の感想を書く予定でしたが、内容を一部変更してお送りいたしました。時刻はまもなく7時11分になります。エヌ・エイチ・ケイ。(?)

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『徳川家康』本編を全巻読了し、関連? エッセイ『史談 家康の周囲』を読み、気持ちが少し固くなっていたところがあるので、今は『真剣師 小池重明』という本を読んでいます。団鬼六氏の本は高校生の頃『お柳情炎』を読み……かけて途中でほっぽり出して以来です。

内容についてはまた後日触れるとして、こういった賭博師の人が主人公の本を読むのは随分久しぶりだな、と思いました。それこそ高校生の頃以来かな。

その頃は文化的不良というか、澁澤龍彦とかマルキ・ド・サドとかを読んで、『人間の暗黒面を見尽くしてやろう』と思いダークサイドな世界に落ち込んでいました。具体的にどういうことを考えていたかは、異様に長くなるのでバッサリ割愛しますが。


阿佐田哲也の作品を読んでいたのもその頃でした。『麻雀放浪記』は真っ先に読み、その作品の中で主人公以上のインパクトを残した『ドサ健』を主人公とした長編『ドサ健ばくち地獄』などの小説系も読んだし、阿佐田氏自身のことを書いた『麻雀狂時代』『ギャンブル人生論』なども読みました。『真剣師 小池重明』も、その系統に連なるのかな。

それらの本を読むことで、まるで自分がそんな『ばくち打ち』の一人になったような気分になりました。それと同時に、

「自分は、ばくちに向いていない」

と思いました。ものの数分で給料数か月分のお金が増えたり減ったりするような世界のプレッシャーには耐えられないし、バカバカしくてやってられません。自分の懐が痛まない状況(何かのゲームのオマケとしてついてくるようなもの、など)であればともかく、現金をかける「ばくち」は嫌いです。

そういうこともあって、ギャンブル小説のたぐいも敬遠するようにしていたのですが、この『真剣師 小池重明』は当時からずっと気になっていた本でしたからね。賭け事がいいか悪いか好きか嫌いかではなく、この小池重明という人が何者なのか? どんな人間なのか?――それを知りたいと思い、今回手に取ったしだいです。

ちなみに真剣師というのは、段位や何やといった名誉をもって生計を立てていく『表プロ』に対し、直接現金のやり取りで生計を立てていく『裏プロ』のことです。この小池重明という人は将棋の真剣師だった人です(故人)。

将棋についての私のレベルは『駒の動かし方を知っている』という程度です。以前『龍が如く3』のミニゲームで遥(小学生の女の子)と対戦し完敗したレベルです。2手先のことすら見えてこないんです。これじゃあダメだろって。

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今日から平成26年度の始まりです。増税だとかテレビ・ラジオの新番組だとかで色々と大きく変化があるかと思いますが、まあ、何とかやっていきましょう。

そういう意味では、3月いっぱいで『徳川家康』を読了できたのはいいタイミングだと思います。この大著からは私の考え方の根深いところから影響を受けていますからね。色々と困難なことはありますが、そこはどうにか乗り越えていくことにしましょう。今時、こんな考え方ははやらないでしょうけど。


一方で、なんだか難しいことばかり考えるようになったな、という気がします。別に一言居士を気取るつもりはないのですが、色々なものに対して、難しく考えるようになった感はあります。

もっと素直に、もっと柔軟に。重厚な考え方は心のコアな部分にしっかりとしまいこんで、一日一日をしっかりと生きていこうと思います。今の日常も、ずっと続くものではないでしょうから。

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