村山早紀先生の『百貨の魔法』ではありませんが、帰天した叔母は生涯を百貨店の店員としてささげたような人物でした。昭和29年生まれの数え年70歳だったのですが、最後まで若々しく、肌つやの良い人でした。さすがに帰天直後は身体中に内出血だらけで無惨な状況だったらしいですが、それを綺麗に化粧してくれたのが「おくりびと」なんでしょうね。感謝です。
盛岡に住んでいた頃は街の中心にある老舗百貨店「川徳」でず~っと働いていて……婦人服とか、そっちの方面だったので私が働いているところを見たことはないのですが、とにかく川徳一筋で主任クラスまで上り詰めたそうです。上り詰めたっていうか、自然とそうなったのかな。不肖の甥っ子は職を転々としてようやく落ち着いたというのに……素晴らしいです。
その後、高齢(御年101歳!)の祖母とともに仙台に来てから、何をしているのか……って、もう働かなくてもいい歳なのに、どうやら仙台三越! で仕事をしていたようです。これは帰天した後に知った話だったのですが、せ、仙台三越!? と驚愕しました。仙台の老舗百貨店と言えば藤崎ですが、三越って言ったら、これまた一流デパートです。そんなところで仕事をしていたのか! と、接客業で心身がめちゃくちゃになった発達障がいの甥っ子は驚き、「やっぱりスゲーなあ」としみじみしちゃったのでした。
そんな叔母ですが、実は……それほどたくさん話をした思い出はありません。生涯現役で一流百貨店の花形接客スタッフみたいな生き方をしていた叔母は非常に……今風に言えば「サバサバした」女性で、引っ込み思案で劣等感のカタマリみたいな私はあまり積極的に話すことができませんでした。むしろ仲が良かったのは伯母の娘……要するに私の従姉(8つ上と5つ上)みたいで、ずっと「お姉ちゃん」と呼んで親しんでいたみたいです。
それでも私が仙台に引っ越して、こうして会える距離にいるのも縁だと思い、LINEでのやり取りなどをたくさんしました。実際に花見や、祖母のマイナンバーカードの写真を撮るという名目で住居に行きご飯を食べさせてもらったりもしました。そしてなかなか会わない代わりに、あちこち行って撮って来たゆるキャラとの自撮り写真を送り付けていたので、きっと最期に思い出したのは仙台弁こけしとかまかプゥ(東北電力のゆるキャラ)と一緒に写っている私の姿だったでしょう。
弔辞の時もこれをネタにして話しました。というか、このブログで書いている内容は、ほぼ弔辞で読んだ内容です。当日の朝にいきなり指名されたから……ということもあるのですが、ろくに原稿なんて用意する時間もなく、ひたすら思いついたことをしゃべったという感じです。最後の方はこんな感じで締めくくりました。
「……そんな写真が最後の思い出だろうから、あの世に行くまでの修行の間に思い出したら、まったくおかしなことをやってるなあ、って笑ってほしい。そして成仏して、時々こっちの世界を見たら、「相変わらずだな」って笑ってもらえるように、これからもそういう写真を撮るから」
それが私の供養です。いよいよ葬儀屋のCMみたいになっちゃいますが、それでいいんじゃないですかね。個人のことを思い出して明るく笑う。それが一番いいと思います。私が帰天する時は、遺された人たちが悲しむのを見たくないし。
うん……そうですね。改めて、こうして書いていると、思いました。
つらいこと、たくさんありました。「もうヤダしにたい」と思ったことも、100回くらいあります(それ以上かも)。それでも色々なきっかけがあって、何とか引き戻されているんですが、改めてそう思いました。帰天でも成仏でもいいですが、幽明境を異にするというのは今肉体をもって生きている全人類に例外なく訪れるものであって……故人がこんなふうに思っているだろうな、といって笑うのは遺された人たちの権利であると思います。そこが天国なのか極楽浄土なのかわかりませんが、穏やかな気持ちで我々を見下ろし、時に「頑張ってるね」とか何とかって言ってくれればいいかなと思います。ま、天国の方が楽しすぎて私たちのことを忘れてくれてもいいのですが。
こっちにいた頃は、最期は心筋梗塞で……心臓の外まで血が漏れ出して、循環器科の先生も外科の先生も打つ手がないって言っちゃうくらい無理して……そのまま天に召されちゃったけれど……いいよね。ずっと第一線で活躍してきたんだから……ようやく、長期休暇が取れたんだよ。もう、働かなくてもいいんだよ。だから、まあ……私はもうしばらく、こっちの世界で暮らしてるから、そっちで楽しくやっててね。
また逢おうね。そのうち。
盛岡に住んでいた頃は街の中心にある老舗百貨店「川徳」でず~っと働いていて……婦人服とか、そっちの方面だったので私が働いているところを見たことはないのですが、とにかく川徳一筋で主任クラスまで上り詰めたそうです。上り詰めたっていうか、自然とそうなったのかな。不肖の甥っ子は職を転々としてようやく落ち着いたというのに……素晴らしいです。
その後、高齢(御年101歳!)の祖母とともに仙台に来てから、何をしているのか……って、もう働かなくてもいい歳なのに、どうやら仙台三越! で仕事をしていたようです。これは帰天した後に知った話だったのですが、せ、仙台三越!? と驚愕しました。仙台の老舗百貨店と言えば藤崎ですが、三越って言ったら、これまた一流デパートです。そんなところで仕事をしていたのか! と、接客業で心身がめちゃくちゃになった発達障がいの甥っ子は驚き、「やっぱりスゲーなあ」としみじみしちゃったのでした。
そんな叔母ですが、実は……それほどたくさん話をした思い出はありません。生涯現役で一流百貨店の花形接客スタッフみたいな生き方をしていた叔母は非常に……今風に言えば「サバサバした」女性で、引っ込み思案で劣等感のカタマリみたいな私はあまり積極的に話すことができませんでした。むしろ仲が良かったのは伯母の娘……要するに私の従姉(8つ上と5つ上)みたいで、ずっと「お姉ちゃん」と呼んで親しんでいたみたいです。
それでも私が仙台に引っ越して、こうして会える距離にいるのも縁だと思い、LINEでのやり取りなどをたくさんしました。実際に花見や、祖母のマイナンバーカードの写真を撮るという名目で住居に行きご飯を食べさせてもらったりもしました。そしてなかなか会わない代わりに、あちこち行って撮って来たゆるキャラとの自撮り写真を送り付けていたので、きっと最期に思い出したのは仙台弁こけしとかまかプゥ(東北電力のゆるキャラ)と一緒に写っている私の姿だったでしょう。
弔辞の時もこれをネタにして話しました。というか、このブログで書いている内容は、ほぼ弔辞で読んだ内容です。当日の朝にいきなり指名されたから……ということもあるのですが、ろくに原稿なんて用意する時間もなく、ひたすら思いついたことをしゃべったという感じです。最後の方はこんな感じで締めくくりました。
「……そんな写真が最後の思い出だろうから、あの世に行くまでの修行の間に思い出したら、まったくおかしなことをやってるなあ、って笑ってほしい。そして成仏して、時々こっちの世界を見たら、「相変わらずだな」って笑ってもらえるように、これからもそういう写真を撮るから」
それが私の供養です。いよいよ葬儀屋のCMみたいになっちゃいますが、それでいいんじゃないですかね。個人のことを思い出して明るく笑う。それが一番いいと思います。私が帰天する時は、遺された人たちが悲しむのを見たくないし。
うん……そうですね。改めて、こうして書いていると、思いました。
つらいこと、たくさんありました。「もうヤダしにたい」と思ったことも、100回くらいあります(それ以上かも)。それでも色々なきっかけがあって、何とか引き戻されているんですが、改めてそう思いました。帰天でも成仏でもいいですが、幽明境を異にするというのは今肉体をもって生きている全人類に例外なく訪れるものであって……故人がこんなふうに思っているだろうな、といって笑うのは遺された人たちの権利であると思います。そこが天国なのか極楽浄土なのかわかりませんが、穏やかな気持ちで我々を見下ろし、時に「頑張ってるね」とか何とかって言ってくれればいいかなと思います。ま、天国の方が楽しすぎて私たちのことを忘れてくれてもいいのですが。
こっちにいた頃は、最期は心筋梗塞で……心臓の外まで血が漏れ出して、循環器科の先生も外科の先生も打つ手がないって言っちゃうくらい無理して……そのまま天に召されちゃったけれど……いいよね。ずっと第一線で活躍してきたんだから……ようやく、長期休暇が取れたんだよ。もう、働かなくてもいいんだよ。だから、まあ……私はもうしばらく、こっちの世界で暮らしてるから、そっちで楽しくやっててね。
また逢おうね。そのうち。
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(この記事は11月12日に書きました)
叔母が帰天してから1週間が経ちました。今日は仏教的な言い方をすれば「初七日」です。
この初七日というのは葬儀を終えた日からではなく、実際に帰天した日からカウントするそうです。その日も含めて七日間なので、11月6日から11月12日……これで一週間、初七日です。
人間が仏になるまでは四十九日間の修行があり、一週間ごとに閻魔様の審査を受けるとか。そして七日ごとにこちらを振り返るらしいので、ちゃんと往生できるように供養をしなければならない……というお話しだったでしょうか。完全に修行を終えてしまえば、迷わず成仏となるのでしょうから、それまでは普段通りの生活をしつつもちゃんと気にかけてみようかと思います。天の国に至る道が四十九日もかかるとは、聖書には書いていなかった気がしますが。まあいいです。私も緩やかな自称クリスチャン(非洗礼)だし。とにかく今生きている人の気持ちが安らげばいいんです。縄文時代でさえ「とむらい」という文化があったみたいだし。集団的無意識に深く深~く受け継がれてきた感情を大事にしたいと思います。
今回は岩手、および静岡からも親戚が集まり仙台にて葬儀を行ったのですが、葬儀告別さらに百か日法要まで全部まとめてやってしまいました。随分と合理的なお話しですが、まあ臨済宗の和尚さんがきちんと供養をしてくれたので、間違いはありません。それに和尚さんも、「法要はやったけれど初七日は来ます。四十九日は来ます。だから故人がちゃんと成仏できるように、みなさんもしっかり生きてください」ということをおっしゃっていたので、これで終わりではないんです。セレモニーは終わったけれど、心にずっと生き続ける。それでいいんです。
ちなみに臨済宗というのは禅宗の流派で、浄土宗とかとは少々スタイルが違うみたいです。読経の時に叩く木魚の力の入り具合とかも激しいし、右手で木魚を叩きながら左手で時々鏧子(けいす)をゴーンと叩いたり、おりんを連続的にチーンチーンチーンと鳴らしたり、極めつけは「かーつっ!」と絶叫したり……実にエキサイティングです。ロックですねどうもね。
って、莫迦なことを言ってはいけません。この喝は『引導』の喝です。中国の黄檗希運禅師が母を成仏させるために引導法語のち大喝さらに松明を放り投げた……そして川底に沈んでいた母は浮かび上がり、松明を頼りに無明の世界を渡り成仏したのです。実際に松明を模したオブジェを片手に大喝一閃! 祭壇に向けて力いっぱいそれをぶん投げた!……わけではありませんが、ともかくこれで叔母も心置きなく旅路に踏み出せることでしょう。
なんだか随分と罰当たりなというか、そろそろ臨済宗関係の人から袋叩きにされそうなことばかり書いていますが、あっという間に荼毘に付され、遺骨を抱えて葬儀場に戻り、お別れの言葉を述べて……とイベントがギュギュっと凝縮されていて、こうして書き出さないと自分でも心の整理がつかないのです。そして、葬式の話なんて気持ちのいいものではないと思うので、精いっぱい明るく書いています。
「生きるお葬式」なんていう某会館のフレーズはあまりピンと来ませんが、個人的には明るく楽しく送り出せたような気がします。あんまり湿っぽい思い出はなく、一方的ではあるものの、私は楽しい思い出を最後に送ったつもりです。その点については、また改めて書くとしましょう。ひとまず今日はこの辺で。
叔母が帰天してから1週間が経ちました。今日は仏教的な言い方をすれば「初七日」です。
この初七日というのは葬儀を終えた日からではなく、実際に帰天した日からカウントするそうです。その日も含めて七日間なので、11月6日から11月12日……これで一週間、初七日です。
人間が仏になるまでは四十九日間の修行があり、一週間ごとに閻魔様の審査を受けるとか。そして七日ごとにこちらを振り返るらしいので、ちゃんと往生できるように供養をしなければならない……というお話しだったでしょうか。完全に修行を終えてしまえば、迷わず成仏となるのでしょうから、それまでは普段通りの生活をしつつもちゃんと気にかけてみようかと思います。天の国に至る道が四十九日もかかるとは、聖書には書いていなかった気がしますが。まあいいです。私も緩やかな自称クリスチャン(非洗礼)だし。とにかく今生きている人の気持ちが安らげばいいんです。縄文時代でさえ「とむらい」という文化があったみたいだし。集団的無意識に深く深~く受け継がれてきた感情を大事にしたいと思います。
今回は岩手、および静岡からも親戚が集まり仙台にて葬儀を行ったのですが、葬儀告別さらに百か日法要まで全部まとめてやってしまいました。随分と合理的なお話しですが、まあ臨済宗の和尚さんがきちんと供養をしてくれたので、間違いはありません。それに和尚さんも、「法要はやったけれど初七日は来ます。四十九日は来ます。だから故人がちゃんと成仏できるように、みなさんもしっかり生きてください」ということをおっしゃっていたので、これで終わりではないんです。セレモニーは終わったけれど、心にずっと生き続ける。それでいいんです。
ちなみに臨済宗というのは禅宗の流派で、浄土宗とかとは少々スタイルが違うみたいです。読経の時に叩く木魚の力の入り具合とかも激しいし、右手で木魚を叩きながら左手で時々鏧子(けいす)をゴーンと叩いたり、おりんを連続的にチーンチーンチーンと鳴らしたり、極めつけは「かーつっ!」と絶叫したり……実にエキサイティングです。ロックですねどうもね。
って、莫迦なことを言ってはいけません。この喝は『引導』の喝です。中国の黄檗希運禅師が母を成仏させるために引導法語のち大喝さらに松明を放り投げた……そして川底に沈んでいた母は浮かび上がり、松明を頼りに無明の世界を渡り成仏したのです。実際に松明を模したオブジェを片手に大喝一閃! 祭壇に向けて力いっぱいそれをぶん投げた!……わけではありませんが、ともかくこれで叔母も心置きなく旅路に踏み出せることでしょう。
なんだか随分と罰当たりなというか、そろそろ臨済宗関係の人から袋叩きにされそうなことばかり書いていますが、あっという間に荼毘に付され、遺骨を抱えて葬儀場に戻り、お別れの言葉を述べて……とイベントがギュギュっと凝縮されていて、こうして書き出さないと自分でも心の整理がつかないのです。そして、葬式の話なんて気持ちのいいものではないと思うので、精いっぱい明るく書いています。
「生きるお葬式」なんていう某会館のフレーズはあまりピンと来ませんが、個人的には明るく楽しく送り出せたような気がします。あんまり湿っぽい思い出はなく、一方的ではあるものの、私は楽しい思い出を最後に送ったつもりです。その点については、また改めて書くとしましょう。ひとまず今日はこの辺で。
叔母が帰天しました。69歳でした。
私の母親は4姉妹の次女なのですが、「若い方から順番に帰天する」ということになりました。しばらく前に一番下の叔母が癌をわずらい、長い闘病生活の末こと切れになったのですが、今回は心筋梗塞で人事不省に陥り、そのまま、こと切れになりました。連絡をもらって、駆けつけた時にはすべてが終わっていたのです。
去年――こちらも心臓を悪くして、今は入院している祖母と一緒に会ったのが最後になりましたが、それだって青森で仕事をしていたら、葬儀に駆けつけることさえかなわなかったかもしれません。一度でも会えたのは、良かったのかなと思います。
葬儀場に安置されていた遺体は、血色の良い、自然な顔立ちでした。もちろんプロの人がそういうふうに仕上げてくれたからだと思います。病院で直後の叔母を見た母は、うっ血してあちこち赤くなっていたというので、上手に化粧を施してくれたのでしょう。「おくりびと」は見たことありませんが、前に沢内村(岩手県)のお寺に行って見たものを思い出しました。
死ぬこととは、ただ肉体が機能を停止する以上のものがあるのです。それは人間の集団的無意識に連綿と紡がれてきたイメージであり、それゆえに宗教があるのだと思います。天に上るのか黄泉に下るのか、解釈は色々あると思いますが、いずれにしても最期にもう一度、綺麗な顔を見て思い出を定着させ見送るという儀式は、必要なことなのです。
それでも「末期の水」を含ませたとき、唇が妙に固かったように感じました。死後硬直という小賢しい知識がバイアスになっていたかもしれませんが、やはり息をしていない、もう魂が帰天した後の身体なのかなって思いました。
かなしみとか虚無感とか、あまりにも急すぎて、死亡診断書に書かれた事実以外のことが何もピンと来ていない状況ですが、これからいろいろと思うことがあるでしょう。感情家として簡単に切り捨てるわけにはいきません。丁寧に感情を拾って、それを自分のなかできちんと処理したいと思います。
もう、誰にも「生きていてほしい」とか言いません。私が何を言ってもどう思ってもダメなんです。どうしようもないです。だから、かなしいけれど、もしも何かあったら「とうとうやったか……」と言って泣くことにします。
追記:
今回、葬儀のために黒いスーツをクリーニングに出したところ、胸ポケットに「ロザリオ」が入っていたことが発覚しました。以前東京に行った時、文京区のカテドラル内にあるお店で買ったもので、長いこと無くしたと思っていたのですが、このタイミングで出て来るとは……。
「たといこの世から去ったとしても、かなしむことはないんだよ」
イエス様がそうおっしゃっている気がしました。私は大丈夫です。
私の母親は4姉妹の次女なのですが、「若い方から順番に帰天する」ということになりました。しばらく前に一番下の叔母が癌をわずらい、長い闘病生活の末こと切れになったのですが、今回は心筋梗塞で人事不省に陥り、そのまま、こと切れになりました。連絡をもらって、駆けつけた時にはすべてが終わっていたのです。
去年――こちらも心臓を悪くして、今は入院している祖母と一緒に会ったのが最後になりましたが、それだって青森で仕事をしていたら、葬儀に駆けつけることさえかなわなかったかもしれません。一度でも会えたのは、良かったのかなと思います。
葬儀場に安置されていた遺体は、血色の良い、自然な顔立ちでした。もちろんプロの人がそういうふうに仕上げてくれたからだと思います。病院で直後の叔母を見た母は、うっ血してあちこち赤くなっていたというので、上手に化粧を施してくれたのでしょう。「おくりびと」は見たことありませんが、前に沢内村(岩手県)のお寺に行って見たものを思い出しました。
死ぬこととは、ただ肉体が機能を停止する以上のものがあるのです。それは人間の集団的無意識に連綿と紡がれてきたイメージであり、それゆえに宗教があるのだと思います。天に上るのか黄泉に下るのか、解釈は色々あると思いますが、いずれにしても最期にもう一度、綺麗な顔を見て思い出を定着させ見送るという儀式は、必要なことなのです。
それでも「末期の水」を含ませたとき、唇が妙に固かったように感じました。死後硬直という小賢しい知識がバイアスになっていたかもしれませんが、やはり息をしていない、もう魂が帰天した後の身体なのかなって思いました。
かなしみとか虚無感とか、あまりにも急すぎて、死亡診断書に書かれた事実以外のことが何もピンと来ていない状況ですが、これからいろいろと思うことがあるでしょう。感情家として簡単に切り捨てるわけにはいきません。丁寧に感情を拾って、それを自分のなかできちんと処理したいと思います。
もう、誰にも「生きていてほしい」とか言いません。私が何を言ってもどう思ってもダメなんです。どうしようもないです。だから、かなしいけれど、もしも何かあったら「とうとうやったか……」と言って泣くことにします。
追記:
今回、葬儀のために黒いスーツをクリーニングに出したところ、胸ポケットに「ロザリオ」が入っていたことが発覚しました。以前東京に行った時、文京区のカテドラル内にあるお店で買ったもので、長いこと無くしたと思っていたのですが、このタイミングで出て来るとは……。
「たといこの世から去ったとしても、かなしむことはないんだよ」
イエス様がそうおっしゃっている気がしました。私は大丈夫です。
この記事を書いているのは霜降を少し過ぎた頃なのですが、風邪をひきました。
「世情に疎く、時勢に昏く」を目標にSNSも節約し、mixiのトレンド的に配信されるニュースも見ないようにして、100年前の「最近の世の中」を書いた寺田寅彦の随筆などに夢中になる日々を送っているのに、こんなところだけ人並み世間並みなんだな……と悲しくなります。
とはいえ、無理が効かなくなってきているのは事実です。心が元気でも元気じゃなくても肉体の健康は大切です。最近はあまり料理をせず適当な食事ばかりしていたのも要因の一つでしょう。そう思ってまた「一日分の野菜」とか書いているジュースを飲むことにしています。何もしないよりは遥かにマシでしょう。
今日の仙台は最高気温22度とのこと。まずまずの温かさです。雨も降らなさそうだし。ちょっと具合がよくなったら、また街に出てそこで本を読むというのもいいかもしれません。うん、そういうことを考えていると気持ちが上向いてきたようです。
*
以前甍平四郎は毎日原稿を三枚書くので私も毎日書きますと宣言しこのブログも毎日書くようにしているのですが(ちょっと書くことが多すぎて順番待ちが発生していますが)、最初の頃と比べると少しずつ文章が良くなってきたな、という気がします。最初って、このブログを始めた2006年の頃と比べてもそうですし、本格的に復帰した時から数えたこの1か月の間でも……ね。
10年くらい前、毎日コツコツと更新していた時期というのは、朝に書くようにしていました。朝起きて、顔を洗ってPCの前に座る。そして近々にあったこと、思ったことをとりとめなくつづる……そんな場所なので、別に文章の巧拙にこだわることなく伸び伸び書けばよいと思うのですが……。
……うん、そうですよね。この点が甍平四郎とか、あるいは雑誌に載せるエッセーを書いている職業文士と素人たる私の違いなんでしょうね。すなわち「巧拙にこだわらなくても良い」と思っちゃうか、そうでないかということです。
随筆随想って言ったってある程度考えをまとめてから書くものなんです。それなのに私は、いま考えながらその時々の感情をリアルタイムに文章にしています。だから前に書いたことをまた繰り返したり、反対のことを言っていたり、何だったらこのひとつの文章のなかでさえ言っていることが支離滅裂になってたりします。長くなればなるほどその度合いはひどくなります。途中でほっぽり出されても文句は言えません。
だからある意味、Xってのも良いのかもしれませんね。140文字しか入力できないから、必然的に短い言葉で確定し世の中に放出される。書くのも読むのも電光石火です。これはとても刺激的なものです。私もここ1年くらい本格的に使ってみてよ~くわかりました。
無論、私と作者の間には編集者というプロ読者がいて、その人が推敲添削場合によってはタイトルまで変えちゃって広く世間に受け入れられるよう整えてから送り出されるのでしょうから、その完成度の高さもむべなるかな、でしょう。
……
うん? 私は「文章は上手に書かなければならないか否か」という話をしようとしていたのだったかな? いや、そうではないです。自分で読み返していて、一生懸命書いているうちにちゃんとした文章が書けていたことに気づいた、という話をしようとしていたのです。
ちゃんとした文章が書けるようになると、心持も変わってきます。最初は邪智暴虐の化身になりめちゃくちゃに書いてやろうと思って書きつけていたのですが、ともかくそうしていると「もっともっと自分のことを表現したい」という気になります。そのための私の武器は文章ですから、とにかく細かく丁寧に書いていくようになった……そういうことかもしれません。
誰に読んでほしいというわけでもありませんが、こうして文章にまとめると、自分の心の中も整理できて、気持ちが落ち着きます。
今年の夏ごろに「ちょっと文章の練習をしておこう」と思って読んだこちらの本の中でも、そういう意味合いのことが書かれていました。
最初は「世の中に自分の抱えている不満をぶつけてやろう」と意気込んで、その為の武器を磨くべく三宅さんの文章教室に来た人が、ある程度修練を積むと「もう少し時間を置いてからにします」とか「よく考えてから書いてみます」などと心変わりするのだと言います。まったく、文章を読むとか書くとかというのは不思議な玩味があるのだと思います。
なんて、丁寧に好き勝手なことを書いているうちにちょうどいい長さ(大体2000字程度)になったので、この辺でいったん締めくくることにしましょう。今日は寺田寅彦の随筆集の続きを読みつつ、穏やかに過ごしたいと思います。
ある日のことでした。――具体的に日にちをよく覚えていないのですが、たぶん10月21日の土曜日とか、その辺りであったと思います。
私が住んでいる宮城県の地方紙『河北新報』には、最近珍しくなった夕刊があります。珍しいので最初は駅売りのもの等を買って読んでいたのですが、門眞妙さんの個展など夕刊を切っ掛けに新しい文化的な気づきが何度もあったので、現在では夕刊だけを定期購読しています。だいぶん長い期間そういう生活をしているので、今日が休刊日なのかどうなのかも深く考えず、アパートの新聞受けに新聞が入っていれば「ああ、夕刊が来ているな」と言って持ち帰るのです。
その日の新聞を手にした時「妙に分厚いな」と思いました。通常夕刊というのは朝刊に比べれば分量が少なく、手にした時はもうちょっと軽い感じだったのですが……もっとも、折り込みの広告が一緒に入っていたりして、それなりに分厚いこともないわけではなかったので、そういうものだろうと思って……例によって深く考えず、部屋に持ち帰りました。
夕食の準備のために鍋を火にかけ、その様子を見ながら新聞を開いてみると、やはりいつもの夕刊とは違っていました。いつも読んでいるコラムがない。それで日付のところを見てみると、どうやらそれは夕刊ではなく朝刊であることに気づきました。「はて、何で夕刊しか申し込んでいない私のところに朝刊が来たのだろう」と思いましたが、
「配達員の人が、間違って私のところに配達したのかな」
「もしかしたら、何かあってお試し版を一部くれたのかも」
などと有り得ない空想をめぐらせた挙句、
「とにかく手元にある以上、私のものだ」
といって、一通り読んでしまいました。
「LGBT法案可決」「北別府学さん死去」……どうも既視感がありましたが、先ほどのように何でも都合よく解釈してしまうので、
「世の中では私が知らない間に、このようなことが起こっていたのだなあ」
と、何という考えもなく読んでいました。
翌日、たまってきた古新聞を整理していると、その新聞の日付が「6月17日」であることに気づきました。配達されたのは10月21日ですから、何か月も前の古新聞です。ただ、それが全く当たり前のように新聞受けに入っていた……果たして誰が、何のために……?
……つって、何でもかんでも検索して答えを求めようとする宇宙時代の皆様は、ここからもっともらしい推測をいくつも巡らせるものでしょうが、私が最近読んだのは『遠野物語remix』と『遠野物語拾遺retold』です。これを読んだうえでの私の文章は、このように締めくくりたいと思います。
だれが何のために、そんな古新聞を新聞受けに差し込んだのかはわからない。ただ、その後も佐藤は夕刊だけを定期購読している。夕刊以外には時々投げ込みの広告や瓦斯・水道の請求書などか入ってくるのみである。
私が住んでいる宮城県の地方紙『河北新報』には、最近珍しくなった夕刊があります。珍しいので最初は駅売りのもの等を買って読んでいたのですが、門眞妙さんの個展など夕刊を切っ掛けに新しい文化的な気づきが何度もあったので、現在では夕刊だけを定期購読しています。だいぶん長い期間そういう生活をしているので、今日が休刊日なのかどうなのかも深く考えず、アパートの新聞受けに新聞が入っていれば「ああ、夕刊が来ているな」と言って持ち帰るのです。
その日の新聞を手にした時「妙に分厚いな」と思いました。通常夕刊というのは朝刊に比べれば分量が少なく、手にした時はもうちょっと軽い感じだったのですが……もっとも、折り込みの広告が一緒に入っていたりして、それなりに分厚いこともないわけではなかったので、そういうものだろうと思って……例によって深く考えず、部屋に持ち帰りました。
夕食の準備のために鍋を火にかけ、その様子を見ながら新聞を開いてみると、やはりいつもの夕刊とは違っていました。いつも読んでいるコラムがない。それで日付のところを見てみると、どうやらそれは夕刊ではなく朝刊であることに気づきました。「はて、何で夕刊しか申し込んでいない私のところに朝刊が来たのだろう」と思いましたが、
「配達員の人が、間違って私のところに配達したのかな」
「もしかしたら、何かあってお試し版を一部くれたのかも」
などと有り得ない空想をめぐらせた挙句、
「とにかく手元にある以上、私のものだ」
といって、一通り読んでしまいました。
「LGBT法案可決」「北別府学さん死去」……どうも既視感がありましたが、先ほどのように何でも都合よく解釈してしまうので、
「世の中では私が知らない間に、このようなことが起こっていたのだなあ」
と、何という考えもなく読んでいました。
翌日、たまってきた古新聞を整理していると、その新聞の日付が「6月17日」であることに気づきました。配達されたのは10月21日ですから、何か月も前の古新聞です。ただ、それが全く当たり前のように新聞受けに入っていた……果たして誰が、何のために……?
……つって、何でもかんでも検索して答えを求めようとする宇宙時代の皆様は、ここからもっともらしい推測をいくつも巡らせるものでしょうが、私が最近読んだのは『遠野物語remix』と『遠野物語拾遺retold』です。これを読んだうえでの私の文章は、このように締めくくりたいと思います。
だれが何のために、そんな古新聞を新聞受けに差し込んだのかはわからない。ただ、その後も佐藤は夕刊だけを定期購読している。夕刊以外には時々投げ込みの広告や瓦斯・水道の請求書などか入ってくるのみである。
栗駒山を降りて、仙台に帰ろうかという時の話です。
元々極度の方向音痴で、来た道を戻ればいいのにどこをどう曲がったものか記憶があいまいになって、「何か違う気がするぞ」となってしまうことがよくあります。
そういう時に「まあ何とかなるだろう」と思って走り続ければ何とかなることもありますが、何ともならないことの方が多い気がするので、早い段階で引き返すようにしています。その時もちょっと広い駐車場を見つけたので右折進入し、来た道を引き返そうとしたのですが、ふと目に飛び込んできたのは「ボンネットバス」でした。
確かに私も昭和レトロ好きではありますが、まったく思いがけないタイミングだったので、ひどくビックリしてしまいました。そしていったんオートバイをその駐車場に止めて、近づいて写真を撮ってみた次第です。
ここはどういう街なんだろう。そう思って少し周辺を歩いてみることにしました。ここからはまず、何の予備知識もなく、調べることもなく、ひたすら体験して感じた第一印象をもとに書いていきたいと思います。
*
特にどこに行こうというわけでもなく、ふらふらと歩いていると、こんな看板がありました。
見たところ、やたらと広い広い空き地が広がっています。また看板を背にして街の方を振り返ってみると、道路も大きく開けていたので、
「これはもしかして、昔、駅か何かがあったんじゃないか」
と思って探してみると、やはりそうでした。
なるほど、どうやらかつては「くりはら田園鉄道」というのがあって、ここは「栗駒駅」があったんだな、ということを知りました。

そうなると、さっきの看板の裏面にある、この観光案内も納得がいきます。元より看板の雰囲気から、結構前に立てられたものだろうなとは思っていましたが、その頃の名残なのでしょうね。
そして、ここからは「電車で栗駒まで来た人」の気分を作り上げながら「きらめきの六日町」商店街を歩いてみることにしました。
六日町商店街はパッと見て、とても懐かしい感じがしました。それほど遠くない過去に、こういう街に私も住んでいたからです。事実として永遠にシャッターを下ろしたままの店が軒を連ね、その一方で昔からの雰囲気のまま現在も営業を続けているお店が混ざり合った商店街。
店先で男性の店員が、おそらく観光で来たであろうグループの女性たちに街の魅力を語っていました。反対側の道路を、ヘルメットをかぶった女子中学生が自転車で駆け抜けていきます。子連れの母親や、風景に溶け込むように路傍にたたずみ煙草をふかす年配の男性がいます。
そんな中にあって私はただただ(ほとんど迷い込んだ同然に)立ち寄ったよそ者ですが――いや、よそ者だけに、いっそう旅愁を感じました。
ここで昨日読了した京極夏彦『遠野物語remix』より引用させて頂きます。
通りを端っこまで歩き、再び商店街を引き返すことにしました。その時、本屋さんがあったので立ち寄り、一冊買って帰ることにしました。ちなみに店内にはイケメンキャラで売り出してた頃の狩野英孝さんのサインが飾られていました。
また、たまたま通りすがっただけの私に親しげに話し掛けてくれるおばさんがいました。なかなか人と話すのが苦手な私ですが、とにかく話が止まらなくて、余計な相槌を打つ必要も無く……でも自分のことも少し話せて、すごく良かったです。ライダー同士ですれ違いざまに挨拶するとか、そういうちょっとした交流が今の私にはとても嬉しいんです。
そうして、古いものと新しいものが混然一体となった不思議な街「六日町商店街」を後にしたのでした。皆様、お元気で。
*
で、ここからは、帰ってきて調べた情報です。
六日町通り商店街公式ホームページ
まずね、まず公式ホームページとかあるんですよ! インスタグラムもXもあるみたいだし! もう全然レトロじゃない! 現在進行形ですよスミマセンでした。
公式ホームページのストーリーによると、平成28年に地域おこし協力隊の力を得て新しい街づくりに取り組んでいるところのようですね。確かに歩いていると、新しいレトロ風のお店なのかな? と思うところもチラホラありました(ボンネットバスのお店もそうです)。ま、休店日のところが多くて、全然魅力は伝えられないんですが……それでもいくつか外観の写真は撮ったので、それを載せてみます。

何となく、最近読了した『帝都物語』を思い出しました。昭和70年代に大正時代の銀座をよみがえらせようとした鳴滝翁の話ですね。古い世界と新しい世界が混ざり合って、懐かしいような新しいような、奇妙な感覚を覚えます。これはもう一度、今度はこの商店街を歩くことを目標として、歩いてみなければなりません。バラージではないので、きっとたどり着ける、はず。
元々極度の方向音痴で、来た道を戻ればいいのにどこをどう曲がったものか記憶があいまいになって、「何か違う気がするぞ」となってしまうことがよくあります。
そういう時に「まあ何とかなるだろう」と思って走り続ければ何とかなることもありますが、何ともならないことの方が多い気がするので、早い段階で引き返すようにしています。その時もちょっと広い駐車場を見つけたので右折進入し、来た道を引き返そうとしたのですが、ふと目に飛び込んできたのは「ボンネットバス」でした。
確かに私も昭和レトロ好きではありますが、まったく思いがけないタイミングだったので、ひどくビックリしてしまいました。そしていったんオートバイをその駐車場に止めて、近づいて写真を撮ってみた次第です。
ここはどういう街なんだろう。そう思って少し周辺を歩いてみることにしました。ここからはまず、何の予備知識もなく、調べることもなく、ひたすら体験して感じた第一印象をもとに書いていきたいと思います。
*
特にどこに行こうというわけでもなく、ふらふらと歩いていると、こんな看板がありました。
見たところ、やたらと広い広い空き地が広がっています。また看板を背にして街の方を振り返ってみると、道路も大きく開けていたので、
「これはもしかして、昔、駅か何かがあったんじゃないか」
と思って探してみると、やはりそうでした。
なるほど、どうやらかつては「くりはら田園鉄道」というのがあって、ここは「栗駒駅」があったんだな、ということを知りました。
そうなると、さっきの看板の裏面にある、この観光案内も納得がいきます。元より看板の雰囲気から、結構前に立てられたものだろうなとは思っていましたが、その頃の名残なのでしょうね。
そして、ここからは「電車で栗駒まで来た人」の気分を作り上げながら「きらめきの六日町」商店街を歩いてみることにしました。
六日町商店街はパッと見て、とても懐かしい感じがしました。それほど遠くない過去に、こういう街に私も住んでいたからです。事実として永遠にシャッターを下ろしたままの店が軒を連ね、その一方で昔からの雰囲気のまま現在も営業を続けているお店が混ざり合った商店街。
店先で男性の店員が、おそらく観光で来たであろうグループの女性たちに街の魅力を語っていました。反対側の道路を、ヘルメットをかぶった女子中学生が自転車で駆け抜けていきます。子連れの母親や、風景に溶け込むように路傍にたたずみ煙草をふかす年配の男性がいます。
そんな中にあって私はただただ(ほとんど迷い込んだ同然に)立ち寄ったよそ者ですが――いや、よそ者だけに、いっそう旅愁を感じました。
ここで昨日読了した京極夏彦『遠野物語remix』より引用させて頂きます。
やがて、陽が傾いてきた。
風も吹き始めている。
そうなると、酔った男共が人を呼ぶ声もどこか寂しく聞こえ始める。女達の笑い声や、子供達の走り回る様も、すぐそこの嬌声であり、目の前の情景であるのに、何故か遠くのものごとのように思えて来る。旅情が搔き立てられる。
これこそを旅愁というのだろう。
それは如何ともしがたいものだ。
(角川学芸出版 京極夏彦x柳田國男 遠野物語remix 109ページ)
通りを端っこまで歩き、再び商店街を引き返すことにしました。その時、本屋さんがあったので立ち寄り、一冊買って帰ることにしました。ちなみに店内にはイケメンキャラで売り出してた頃の狩野英孝さんのサインが飾られていました。
また、たまたま通りすがっただけの私に親しげに話し掛けてくれるおばさんがいました。なかなか人と話すのが苦手な私ですが、とにかく話が止まらなくて、余計な相槌を打つ必要も無く……でも自分のことも少し話せて、すごく良かったです。ライダー同士ですれ違いざまに挨拶するとか、そういうちょっとした交流が今の私にはとても嬉しいんです。
そうして、古いものと新しいものが混然一体となった不思議な街「六日町商店街」を後にしたのでした。皆様、お元気で。
*
で、ここからは、帰ってきて調べた情報です。
六日町通り商店街公式ホームページ
まずね、まず公式ホームページとかあるんですよ! インスタグラムもXもあるみたいだし! もう全然レトロじゃない! 現在進行形ですよスミマセンでした。
公式ホームページのストーリーによると、平成28年に地域おこし協力隊の力を得て新しい街づくりに取り組んでいるところのようですね。確かに歩いていると、新しいレトロ風のお店なのかな? と思うところもチラホラありました(ボンネットバスのお店もそうです)。ま、休店日のところが多くて、全然魅力は伝えられないんですが……それでもいくつか外観の写真は撮ったので、それを載せてみます。
何となく、最近読了した『帝都物語』を思い出しました。昭和70年代に大正時代の銀座をよみがえらせようとした鳴滝翁の話ですね。古い世界と新しい世界が混ざり合って、懐かしいような新しいような、奇妙な感覚を覚えます。これはもう一度、今度はこの商店街を歩くことを目標として、歩いてみなければなりません。バラージではないので、きっとたどり着ける、はず。
過日(10月18日=相馬中村神社に行った翌日)、一度行ってみたいと思っていた『栗駒山』に行ってきました。もちろん私はライダーですから、オートバイで行ける頂上がゴールです。
仙台からひたすら北上。
途中、志波姫神社にお参りして……
いわかがみ平までたどり着きました。
最初は下の駐車場に通されたんですが、「バイクだったら頂上に止められるんで行ってください」と入場即退場、そのまま山道を駆け上りました。
今回初めて走ってみたのですが、なかなかの勾配とカーブの連続で……私の実家からほど近い場所にある『八幡平』の道のりを思い出しました。これも岩手屈指の「オートバイで走りたくなる道」なんですが、それと同じような雰囲気で、すごく楽しくなっちゃって。
ギアを何度も切り替えて一生懸命登って、そのうちパーッと景色が開けて……前日は松川浦の景色を眺めながら走ったのですが、
「わーい!」
声を上げました。本当にそう言いました。このところメンタルがずっと低迷していたのですが、ここで感情が爆発しました。松川浦での絶景で既に大爆発していたので、ここではレギュラー級の規模の爆発でしたが、いずれにしても素晴らしい景色でした。紅葉とか緑葉とか関係ありません。とにかく高いところからの景色、開けた景色がとっても素晴らしかったです。
そういう道路なので、私も含めたオートバイ乗りの皆さんも多くいらっしゃいました。みんなそれぞれ自分の愛車で来ていました。大きなバイクもたくさんあって、そういった人たちに遠慮して少し離れた場所に置いてみたのですが……
おおっ! この山道をスーパーカブやジョルノで駆けあがって来たライダーがいたんだ! と驚きました。そして、そんな小さなことにこだわっていた自分に恥じ入りました。
50ccのスクーターも1300㏄のスーパースポーツも、自分の愛車が一番良いんです。そんなに引け目を感じることなんて必要ないんです。もちろん私のD-TRACKER125だって、大好きだし一番良い愛車です。免許取る前にショップで購入手続きをして、2回卒検落ちたけどようやく合格して乗れるようになって、一度事故を起こしたけど今も元気に走ってくれる私の愛車……。

改めて、私はオートバイが好きです。何のてらいも気おくれもなく、今後はそう宣言します。もう隣に止めてあるオートバイが外車だろうとスーパースポーツだろうと、同じオートバイなんだから! と言いながら離れた場所に止めます。
*
一応、今日書きたいことは全部書きましたが、せっかく栗駒山まで行ったので、少しオートバイ以外のことにも触れます。
レストハウスにあった『記念バッヂ』です。なんか昭和感爆発の売り方ですね! ええもちろん買いましたよ買いましたとも! やっぱり記念品ですからね!
いわかがみ平レストハウスからの景色です。良いですね。
この日は栗原市の職員の方もいらっしゃいました。
*
最後に、これは栗原市ではなく福島県相馬市何ですが、先ほど話題に出た松川浦です。
片や太平洋、片や潟湖。その真ん中を横切る道路。……この時、奇跡的にスタートからゴールまで一切他の車がない貸し切り同然の状態で走ることができました。ここで低迷していた感情が大爆発。声の限り「わーい!」と叫び、最高の気分を味わうことができました。
とても楽しい2連休でした。これで秋の思い出ができました。あとはここからいくつ積み上げられるか。まだまだ楽しみはありそうです。
そんなある日のことでした。
仙台からひたすら北上。
途中、志波姫神社にお参りして……
いわかがみ平までたどり着きました。
最初は下の駐車場に通されたんですが、「バイクだったら頂上に止められるんで行ってください」と入場即退場、そのまま山道を駆け上りました。
今回初めて走ってみたのですが、なかなかの勾配とカーブの連続で……私の実家からほど近い場所にある『八幡平』の道のりを思い出しました。これも岩手屈指の「オートバイで走りたくなる道」なんですが、それと同じような雰囲気で、すごく楽しくなっちゃって。
ギアを何度も切り替えて一生懸命登って、そのうちパーッと景色が開けて……前日は松川浦の景色を眺めながら走ったのですが、
「わーい!」
声を上げました。本当にそう言いました。このところメンタルがずっと低迷していたのですが、ここで感情が爆発しました。松川浦での絶景で既に大爆発していたので、ここではレギュラー級の規模の爆発でしたが、いずれにしても素晴らしい景色でした。紅葉とか緑葉とか関係ありません。とにかく高いところからの景色、開けた景色がとっても素晴らしかったです。
そういう道路なので、私も含めたオートバイ乗りの皆さんも多くいらっしゃいました。みんなそれぞれ自分の愛車で来ていました。大きなバイクもたくさんあって、そういった人たちに遠慮して少し離れた場所に置いてみたのですが……
おおっ! この山道をスーパーカブやジョルノで駆けあがって来たライダーがいたんだ! と驚きました。そして、そんな小さなことにこだわっていた自分に恥じ入りました。
50ccのスクーターも1300㏄のスーパースポーツも、自分の愛車が一番良いんです。そんなに引け目を感じることなんて必要ないんです。もちろん私のD-TRACKER125だって、大好きだし一番良い愛車です。免許取る前にショップで購入手続きをして、2回卒検落ちたけどようやく合格して乗れるようになって、一度事故を起こしたけど今も元気に走ってくれる私の愛車……。
改めて、私はオートバイが好きです。何のてらいも気おくれもなく、今後はそう宣言します。もう隣に止めてあるオートバイが外車だろうとスーパースポーツだろうと、同じオートバイなんだから! と言いながら離れた場所に止めます。
*
一応、今日書きたいことは全部書きましたが、せっかく栗駒山まで行ったので、少しオートバイ以外のことにも触れます。
レストハウスにあった『記念バッヂ』です。なんか昭和感爆発の売り方ですね! ええもちろん買いましたよ買いましたとも! やっぱり記念品ですからね!
いわかがみ平レストハウスからの景色です。良いですね。
この日は栗原市の職員の方もいらっしゃいました。
*
最後に、これは栗原市ではなく福島県相馬市何ですが、先ほど話題に出た松川浦です。
片や太平洋、片や潟湖。その真ん中を横切る道路。……この時、奇跡的にスタートからゴールまで一切他の車がない貸し切り同然の状態で走ることができました。ここで低迷していた感情が大爆発。声の限り「わーい!」と叫び、最高の気分を味わうことができました。
とても楽しい2連休でした。これで秋の思い出ができました。あとはここからいくつ積み上げられるか。まだまだ楽しみはありそうです。
そんなある日のことでした。
過日(10月17日)、福島県相馬市にある『相馬中村神社』に行ってきました。
こちらの神社は相馬地方の総鎮守であり、相馬家代々の氏神として崇敬されてきた……という歴史があります。そして相馬家はルーツをたどると平将門公であって、この神社は神田明神とは別な意味で非常に縁のある場所なのです。『帝都物語』のヒロイン・辰宮恵子もこの神社の娘でした。いや小説では『相馬俤神社』という名前だし、本当にここがモデルになったのかどうかはわかりませんが、ただ「相馬家の氏神を祀っている神社」というとここなので、たぶん、そうでしょう。
境内には、将門公に次ぐ祟り神として名前が挙がっていた菅原道真を祀る『北野天満宮』に、将門公そのものを祀る『国王社』などもあります。もっとも国王社に関しては、帰ってきてリーフレットをよく読んで気づいたもので、実際に参拝したのは本殿だけでした。それだって、元をたどれば将門公が承平年間(931~937年)に下総国猿島郡に妙見社を創建したのが始まりですし、藩主家をはじめ相馬全領の総鎮守として祀られているのだから、まずここに参拝するのが当然の流れでしょう。将門公個人に関しては、神田明神ですでにお参りしているので、次に相馬に行った時まで待っていただくことにしましょう。
と、そういった歴史的なことはリーフレットに書いているので、ここからは私見を書きます。
境内にはこのように、多くの御神馬の像がありました。この地では毎年7月に『相馬野馬追』という……将門公の軍事訓練を由緒にもつお祭りがあるので、馬は特別に大切なものなのでしょうね。『帝都物語』でも恵子さんが魔物に襲われて窮地に立たされた時さっそうと現れた神馬が魔物どもを蹴散らして救ったし、加藤との決戦時にも神馬にまたがって突撃するシーンがありました。そう、将門公の次に神馬は大活躍しているのです。
というわけで、私の愛馬といっしょに写真を撮らせて頂きました。なかなか上手に写真を撮ることができず苦心しましたが、参道正面にオートバイを止めるわけにもいきませんので……これだってちょっと参道にかぶってますけど……何とかお許しいただければと存じます。
こちらは、きちんと撮影させていただいた雄々しき御神馬の姿です。これだけで、もう私のなかでは恵子さんがまたがって駆け抜けていくシーンを想像してしまいます。素晴らしい。
今回はひとまず最初の参拝と言うことですが……これまでに参拝したどの神社よりも、気持ちが澄み渡った気がします。特にこのところ、ちょっと不安障害みたいなので気持ちがしくしくしていたので、余計に元気に感じられるのかな。
いえ、私はそうは考えません。これも妙見様、そして将門公のおかげであると考えます。私のなかでくしゃくしゃになっていた心が押し広げられ、澄み渡った光にさらされることで、邪悪なものが祓われたのです。
まあ……こんな感じかと言えば……そうですけど。
でも本当に、ここまで来て良かったと思います。今度はちゃんと国王社もお参りしますし、女神転生IIにおける最強の防具のひとつ『マサカドのかぶと』が描かれたお守りも欲しいし。必ず、また参拝いたします!
こちらの神社は相馬地方の総鎮守であり、相馬家代々の氏神として崇敬されてきた……という歴史があります。そして相馬家はルーツをたどると平将門公であって、この神社は神田明神とは別な意味で非常に縁のある場所なのです。『帝都物語』のヒロイン・辰宮恵子もこの神社の娘でした。いや小説では『相馬俤神社』という名前だし、本当にここがモデルになったのかどうかはわかりませんが、ただ「相馬家の氏神を祀っている神社」というとここなので、たぶん、そうでしょう。
境内には、将門公に次ぐ祟り神として名前が挙がっていた菅原道真を祀る『北野天満宮』に、将門公そのものを祀る『国王社』などもあります。もっとも国王社に関しては、帰ってきてリーフレットをよく読んで気づいたもので、実際に参拝したのは本殿だけでした。それだって、元をたどれば将門公が承平年間(931~937年)に下総国猿島郡に妙見社を創建したのが始まりですし、藩主家をはじめ相馬全領の総鎮守として祀られているのだから、まずここに参拝するのが当然の流れでしょう。将門公個人に関しては、神田明神ですでにお参りしているので、次に相馬に行った時まで待っていただくことにしましょう。
と、そういった歴史的なことはリーフレットに書いているので、ここからは私見を書きます。
境内にはこのように、多くの御神馬の像がありました。この地では毎年7月に『相馬野馬追』という……将門公の軍事訓練を由緒にもつお祭りがあるので、馬は特別に大切なものなのでしょうね。『帝都物語』でも恵子さんが魔物に襲われて窮地に立たされた時さっそうと現れた神馬が魔物どもを蹴散らして救ったし、加藤との決戦時にも神馬にまたがって突撃するシーンがありました。そう、将門公の次に神馬は大活躍しているのです。
というわけで、私の愛馬といっしょに写真を撮らせて頂きました。なかなか上手に写真を撮ることができず苦心しましたが、参道正面にオートバイを止めるわけにもいきませんので……これだってちょっと参道にかぶってますけど……何とかお許しいただければと存じます。
こちらは、きちんと撮影させていただいた雄々しき御神馬の姿です。これだけで、もう私のなかでは恵子さんがまたがって駆け抜けていくシーンを想像してしまいます。素晴らしい。
今回はひとまず最初の参拝と言うことですが……これまでに参拝したどの神社よりも、気持ちが澄み渡った気がします。特にこのところ、ちょっと不安障害みたいなので気持ちがしくしくしていたので、余計に元気に感じられるのかな。
いえ、私はそうは考えません。これも妙見様、そして将門公のおかげであると考えます。私のなかでくしゃくしゃになっていた心が押し広げられ、澄み渡った光にさらされることで、邪悪なものが祓われたのです。
まあ……こんな感じかと言えば……そうですけど。
でも本当に、ここまで来て良かったと思います。今度はちゃんと国王社もお参りしますし、女神転生IIにおける最強の防具のひとつ『マサカドのかぶと』が描かれたお守りも欲しいし。必ず、また参拝いたします!
もう15年も前になりますが、太宰治の随筆『美男子と煙草』について書いたことがあります。
2008年8月26日 『気楽文学』
青空文庫にもあるので時々読み返しては嗤っているのですが、嗤いながらも、どうしようもなく「自分も同じようなものだな」と思ってしまいます。決してこの世のすべての不運不幸を背負い込んでニヤリと笑うような太宰治氏の取り巻きになりたいということはなく……むしろそんな取り巻きに囲まれた太宰氏のもとに出て「ぼくは太宰さんの文学が嫌いなんです」と言い放った三島由紀夫さんのカチリとした文章が好きなんですが……。
ただ、『美男子と煙草』を読んでいると、普段の私の考え方を鏡映しにしたような描写が多く出てくるのです。もし私にお給仕をしてくれるパートナーがいれば、箸もお茶碗も放り出して泣きべそをかいていたと思います。残念なことに私のパートナーはすでになく、そのうえここ半年ばかり邪恋に焦がれ憂き身をやつして「僕の神経衰弱の最も甚しかりしは令和五年の九月末なり」と芥川龍之介の『病中雑記』を捩って書きたくなるような強がりを言うのがせいぜいなのですが……
……いや、そんな状況だからこそ、『美男子と煙草』を読み返したのでしょう。自分の心を解放するために。
じつに、私にとっては文学とか美術とかっていうのは、自分の心を解放する行為なのです。
確かに私も人間ですから、アドラー先生の言う承認要求はあります。SNSで「いいね」をつけてもらえるよう一般向けの、フォトジェニックな、エモーショナルなものを求めて格好つけてみたこともあります。トレンド? という言葉のハッシュタグをつけて乗っかってみたことがあります。結果は無惨なものでしたが。
何よりもこの半年、……そう、確かにそれは恋でした!……私が恋をした相手に気に入ってもらいたくて、少しずつ自分を作っていきました。それは本来の自分とは違った彫像のようなものでしたが、それは結局、破綻してしまいました。私の心が、もうもたないところまで、来てしまったのです。
自分と違ったタイプの人に恋愛レベルで強く惹かれるのは無理からぬことではありますが、決して相容れない……論理と感情は天秤のように、どちらかが優勢になればもう一方は劣勢になるものであり……最初は「自分に欠けているものをこの人は持っている! これこそ理想のパートナーだ!」と思っても本来の自分が出てくると齟齬が出てきて、無理が生じる……そういうものである、ということは、河合隼雄先生の本で知っていました。
わかってはいました! わかってはいましたが!
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」(吉田松陰)
……ということです。
そして私は飛び降りました。衝突寸前でハンドルを切って、ガードレールを突き破って崖下に転落する道を選んだのです。
しかし、私は生き延びています。
ギリギリのところで私の心を文学と美術が救ってくれたのです。
文章を読んで想像する。美術作品を見て感情が湧く。
それで同じように心が活力を取り戻すなら、それでいいじゃないか。
そう思いました。
これから先、きっと私は、ずっと……こうして泣きべその気持ちを抱えながら生きていくことになると思います。
でも、仕方がないんです。これが私なんですから。
むしろ、こんな私の感情を突き詰めていって、「感じること、受け入れること」に関してであればだれにも負けない! というくらいに心を作って行ければいいかな、って気がしています。
『在りたい私』
今度はそう言うのを目指して、生きてみたいと思います。

…それは確実に進行しています。誰にも侵されない心の世界。それは神秘の本殿の奥深くに安置される本尊のようなものです。それを守るお社は、少しずつ作られています。
地上10階地下10階の大迷宮みたいなのがいいですね。カテドラルみたいなの。そのための資材はまだまだ足りません。もっともっと本を積み上げて、神秘の内的体験をしてみたいと思います。それが心のカテドラル建設というものです。
2008年8月26日 『気楽文学』
青空文庫にもあるので時々読み返しては嗤っているのですが、嗤いながらも、どうしようもなく「自分も同じようなものだな」と思ってしまいます。決してこの世のすべての不運不幸を背負い込んでニヤリと笑うような太宰治氏の取り巻きになりたいということはなく……むしろそんな取り巻きに囲まれた太宰氏のもとに出て「ぼくは太宰さんの文学が嫌いなんです」と言い放った三島由紀夫さんのカチリとした文章が好きなんですが……。
ただ、『美男子と煙草』を読んでいると、普段の私の考え方を鏡映しにしたような描写が多く出てくるのです。もし私にお給仕をしてくれるパートナーがいれば、箸もお茶碗も放り出して泣きべそをかいていたと思います。残念なことに私のパートナーはすでになく、そのうえここ半年ばかり邪恋に焦がれ憂き身をやつして「僕の神経衰弱の最も甚しかりしは令和五年の九月末なり」と芥川龍之介の『病中雑記』を捩って書きたくなるような強がりを言うのがせいぜいなのですが……
……いや、そんな状況だからこそ、『美男子と煙草』を読み返したのでしょう。自分の心を解放するために。
じつに、私にとっては文学とか美術とかっていうのは、自分の心を解放する行為なのです。
確かに私も人間ですから、アドラー先生の言う承認要求はあります。SNSで「いいね」をつけてもらえるよう一般向けの、フォトジェニックな、エモーショナルなものを求めて格好つけてみたこともあります。トレンド? という言葉のハッシュタグをつけて乗っかってみたことがあります。結果は無惨なものでしたが。
何よりもこの半年、……そう、確かにそれは恋でした!……私が恋をした相手に気に入ってもらいたくて、少しずつ自分を作っていきました。それは本来の自分とは違った彫像のようなものでしたが、それは結局、破綻してしまいました。私の心が、もうもたないところまで、来てしまったのです。
自分と違ったタイプの人に恋愛レベルで強く惹かれるのは無理からぬことではありますが、決して相容れない……論理と感情は天秤のように、どちらかが優勢になればもう一方は劣勢になるものであり……最初は「自分に欠けているものをこの人は持っている! これこそ理想のパートナーだ!」と思っても本来の自分が出てくると齟齬が出てきて、無理が生じる……そういうものである、ということは、河合隼雄先生の本で知っていました。
わかってはいました! わかってはいましたが!
「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」(吉田松陰)
……ということです。
そして私は飛び降りました。衝突寸前でハンドルを切って、ガードレールを突き破って崖下に転落する道を選んだのです。
しかし、私は生き延びています。
ギリギリのところで私の心を文学と美術が救ってくれたのです。
文章を読んで想像する。美術作品を見て感情が湧く。
それで同じように心が活力を取り戻すなら、それでいいじゃないか。
そう思いました。
これから先、きっと私は、ずっと……こうして泣きべその気持ちを抱えながら生きていくことになると思います。
でも、仕方がないんです。これが私なんですから。
むしろ、こんな私の感情を突き詰めていって、「感じること、受け入れること」に関してであればだれにも負けない! というくらいに心を作って行ければいいかな、って気がしています。
『在りたい私』
今度はそう言うのを目指して、生きてみたいと思います。
…それは確実に進行しています。誰にも侵されない心の世界。それは神秘の本殿の奥深くに安置される本尊のようなものです。それを守るお社は、少しずつ作られています。
地上10階地下10階の大迷宮みたいなのがいいですね。カテドラルみたいなの。そのための資材はまだまだ足りません。もっともっと本を積み上げて、神秘の内的体験をしてみたいと思います。それが心のカテドラル建設というものです。
志波姫神社に参拝したあと、栗駒山に向かう途中で二羽の「鶴」が羽ばたき去っていくのを見ました。
なるほど宮城県で鶴を見ることはあり得ないとおっしゃるかもしれません。それも結構。おそらく私が見たのは別の何かだったのでしょう。確かに私は生きた鶴を見たことがありません。主に昔の時代の屏風絵みたいなので見た鶴のイメージが全てです。
ただ、私は鶴を見ました。神社に参拝したあとに鶴を見て「吉兆なり!」と声をあげました。その体験が何よりも大事なのです。月に兎を見るように、私は空に鶴を見ました。
それでも事実誤認だというのなら、よろしい。ではこのように申し上げます。
私は「神秘」を見ました。起こり得ざる現象が現実に発生したと認識しました。神秘体験をしました。
別に信じていただかなくても結構です。ただし私はこの体験、この短いストーリーを忘れたくないのでこうして書き残すものとします。
昔、国道と市道を隔てる森の道路に入ったとき、その森のトンネルを覆うほど大量の蝶の群れが飛び去っていく…ヤプーズの歌と同じ光景を目にしたことがありますが、それ以来の神秘体験でした。
現実と仮想の境界がない世界。認識者たる私とその私に認識された世界。もし肉体によって隔てられ肉体によって認識される次元を現実というのなら、私は少しだけ、そうでない世界に体を浸しているのかもしれません。
この辺はちょっと三島由紀夫さんの「太陽と鉄」の影響もあるかもしれません。ともかく私の大好きな人が掲げる「肉体廃止」という言葉を生きながら実現するために、この体験は大きな手がかりになりそうな気がします。
上半期にたくさん広げた見識を深掘りするのは、これからです。
*
(10月12日に書いて非公開だった記事)
認識者とはいえ、やはり一定の考え方は持っていないといけないのかもしれませんね。心が空っぽで、誰かの意見を素直に取り込むのはいいけれど、また他の人の意見にすりかわっちゃうから。
的外れでもとんちんかんでもいいんです。まずは自分のタブローをこしらえて、それを誰かのものと比べて少しずつ修正していけばいいんです。このブログではそういうものを半年かけて作っていきたいと思います。

なるほど宮城県で鶴を見ることはあり得ないとおっしゃるかもしれません。それも結構。おそらく私が見たのは別の何かだったのでしょう。確かに私は生きた鶴を見たことがありません。主に昔の時代の屏風絵みたいなので見た鶴のイメージが全てです。
ただ、私は鶴を見ました。神社に参拝したあとに鶴を見て「吉兆なり!」と声をあげました。その体験が何よりも大事なのです。月に兎を見るように、私は空に鶴を見ました。
それでも事実誤認だというのなら、よろしい。ではこのように申し上げます。
私は「神秘」を見ました。起こり得ざる現象が現実に発生したと認識しました。神秘体験をしました。
別に信じていただかなくても結構です。ただし私はこの体験、この短いストーリーを忘れたくないのでこうして書き残すものとします。
昔、国道と市道を隔てる森の道路に入ったとき、その森のトンネルを覆うほど大量の蝶の群れが飛び去っていく…ヤプーズの歌と同じ光景を目にしたことがありますが、それ以来の神秘体験でした。
現実と仮想の境界がない世界。認識者たる私とその私に認識された世界。もし肉体によって隔てられ肉体によって認識される次元を現実というのなら、私は少しだけ、そうでない世界に体を浸しているのかもしれません。
この辺はちょっと三島由紀夫さんの「太陽と鉄」の影響もあるかもしれません。ともかく私の大好きな人が掲げる「肉体廃止」という言葉を生きながら実現するために、この体験は大きな手がかりになりそうな気がします。
上半期にたくさん広げた見識を深掘りするのは、これからです。
*
(10月12日に書いて非公開だった記事)
認識者とはいえ、やはり一定の考え方は持っていないといけないのかもしれませんね。心が空っぽで、誰かの意見を素直に取り込むのはいいけれど、また他の人の意見にすりかわっちゃうから。
的外れでもとんちんかんでもいいんです。まずは自分のタブローをこしらえて、それを誰かのものと比べて少しずつ修正していけばいいんです。このブログではそういうものを半年かけて作っていきたいと思います。
酒が好きです。体質的にもどちらかというと多く飲める方だと思います。
種類は、ビールが一番好きです。次がワイン。あとハイボール。日本酒もいいですね。焼酎というかチューハイは安いのでよく飲みます。……そんな感じです。味の好みはありますが、とりあえず飲みたい時は安いからチューハイ、強く酔っぱらいたい時は度数が強いからウイスキー。そんな感じで、要するに「酔っぱらいたいから飲む」そういう危うい動機で酒を飲むんです。
それが一番ひどかったのが、ホテル勤めの頃。毎日毎日ひどいストレスで押しつぶされそうになって、仕事中でもアルコールで気持ちを紛らわせておかないとやっていけなくなったのです。だから朝起きてまずビールを飲み、昼休みにまた酒を飲み、仕事が終わってからまた飲む。24時間常にアルコールが回っている状態を保ち、それと同時に向精神薬も過剰摂取。そうやって気持ちをメチャクチャに高めて、無理やり乗り切っていました。
でも正直「コンサータ」は、ある一定以上飲んでも効き目がなかった気がします。一日の摂取量の倍くらい飲んでもあまり変わらなかったから、「これだったら規定量を守って長持ちさせた方が、薬代が余計にかからないから得だ」という精神的ではなく経済的な理由で、薬の方はあまりハマらずに済みました。その点は、中島らもさんのようにはなれませんでした。
仙台に来て、新しい仕事を始めてからは、そこまでひどい飲酒をすることはありませんが、毎日それなりに飲んでいます。
ただ、最近……Xでつらいことがあって休止した後ですが、久々にウイスキーを飲みました。私の飲み方は180mlの小さな瓶を買ってきて、それを昔の映画で見たようにストレートで少しずつ飲むというものです。大体、体験的に180mlというのがちょうどよく酔っぱらえる量なんですよね。なおかつ飲み過ぎない。
けれど、最近はあんまり気持ちよく酔えなくなってきたんですよね。ウイスキーなら180ml。ワインならフルボトル1本。そんな感じできりよく気持ちよく酔える適量と言うのがあったのですが、最近はそれだけ飲んでも気持ちが晴れない。ただ夜中に何度も目覚めてトイレに行きたくなる、そのタイミングで眠れなくなる、そして翌朝の不快感……と、副作用ばかり出てきて、
「こんな思いをするくらいだったら、酒なんかやめた方がいいのかもね」
なんて考えるようになってきました。まあ長年にわたる強い精神的依存を簡単に断ち切れるものではありませんが。
あくまで私の想像ですが、依存を断ち切るって、すごく難しいし辛いことだと思います。自助努力だけじゃ無理だと思います。だからパートナーとか、誰もいなければそういうNPO団体の人たちとか、とにかく自分以外の誰かの力を借りるべきだと思います。「わかっちゃいるけど、やめられない」ってのは別にダメなことじゃなくて、ごくごく当たり前のことだと思います。
なんか話が少々重たくなってしまいましたが、これはすべて私個人のお話です。本当に「やめたくても、やめられない」って苦しんでいる方は、専門のお医者さんとかNPO団体の人たちを頼るべきです。私はどうかと言うと、たぶんこれからも、酒との付き合いは続くと思います。
ただよ、ただだ!(真壁刀義さんのモノマネで)
「今日は飲みたくないなあ」って時は飲まなくてもいいんだよ。
そこだけは、自分に分からせてあげたいです。今時はもう、酒をたくさん飲めることがステータスだとか、そんなものでもありません。また、酒は肉体にとって必須のものではありません。正直「私は下戸で酒が全然飲めなくて…」という人の方が元気で楽しく生きていける世界だとさえ思っています。
飲みたくないのに飲まなくちゃいけない。それは錯覚です。迷妄です。自動思考です。果たして私の心に幾重にも絡みついた邪悪な蔦を断ち切り、一段上の精神的な自由を獲得できるのか。いざという時は躊躇なく他の誰かを頼りますが、まずは自分で何とかできないか。そう考えたことを忘れないようにするために、記事を書きました。
*
これは言っても仕方がないことではありますが、時々悪夢としてよみがえってくることもあるので、こうして書き出します。そうやって意識上に引きずり出し、杭を打ち込むことで少しでも心が軽減されればいいなあと思うので。
私がどこかで酒に対して嫌悪感を抱くのは私の親父の影響があると思います。親父は私以上の酒好きで、毎日発泡酒のロング缶を2本、休みの日となれば昼間から飲み始め6本くらいは飲むような人類です。そして周りの人間に対して呪詛の言葉を投げかけます。反論しようがない、また反論しても大声をあげて取り合わないので、戦ってもこっちが傷つくだけで……じっと耐えるしかない時間……。
実家に帰りたくない理由と言うのは、それもあります。仙台に引っ越す直前、そうやって酔っぱらった親父に、「とっとと出て行けばいいんだ」とつぶやかれ(そのくせ目線はこちらに向けず、独り言のように言っていた)……夢の中でそんな親父に精いっぱい感情をぶつけてみるものの、結局何も解決せず、肉体的にも精神的にも具合の悪いまま目覚める……。
親父への嫌悪感を、そのまま酒に対しても投影しているのかもしれません。このエディプスコンプレックスと酒に対する怨恨を鎮めるためにはどうすればいいか。先日読了した『帝都物語』のなかで感じたものが、その助けになる気がします。
*
すみません、ますます重たくなっちゃったので、そろそろ切り上げます。
改めて言いますが、酒に罪はありません。適量を、気心の知れた仲間やおいしい料理と一緒に飲むのは良いと思います。最近出たクラフトスパイスソーダなんていうのは、本当に私好みで、ご飯がおいしくなります。
でも……ね。
酒でも煙草でも薬でも大好きな人にでも全力でぶつかってしまう私なんかは……
……
また生きていこう。

種類は、ビールが一番好きです。次がワイン。あとハイボール。日本酒もいいですね。焼酎というかチューハイは安いのでよく飲みます。……そんな感じです。味の好みはありますが、とりあえず飲みたい時は安いからチューハイ、強く酔っぱらいたい時は度数が強いからウイスキー。そんな感じで、要するに「酔っぱらいたいから飲む」そういう危うい動機で酒を飲むんです。
それが一番ひどかったのが、ホテル勤めの頃。毎日毎日ひどいストレスで押しつぶされそうになって、仕事中でもアルコールで気持ちを紛らわせておかないとやっていけなくなったのです。だから朝起きてまずビールを飲み、昼休みにまた酒を飲み、仕事が終わってからまた飲む。24時間常にアルコールが回っている状態を保ち、それと同時に向精神薬も過剰摂取。そうやって気持ちをメチャクチャに高めて、無理やり乗り切っていました。
でも正直「コンサータ」は、ある一定以上飲んでも効き目がなかった気がします。一日の摂取量の倍くらい飲んでもあまり変わらなかったから、「これだったら規定量を守って長持ちさせた方が、薬代が余計にかからないから得だ」という精神的ではなく経済的な理由で、薬の方はあまりハマらずに済みました。その点は、中島らもさんのようにはなれませんでした。
仙台に来て、新しい仕事を始めてからは、そこまでひどい飲酒をすることはありませんが、毎日それなりに飲んでいます。
ただ、最近……Xでつらいことがあって休止した後ですが、久々にウイスキーを飲みました。私の飲み方は180mlの小さな瓶を買ってきて、それを昔の映画で見たようにストレートで少しずつ飲むというものです。大体、体験的に180mlというのがちょうどよく酔っぱらえる量なんですよね。なおかつ飲み過ぎない。
けれど、最近はあんまり気持ちよく酔えなくなってきたんですよね。ウイスキーなら180ml。ワインならフルボトル1本。そんな感じできりよく気持ちよく酔える適量と言うのがあったのですが、最近はそれだけ飲んでも気持ちが晴れない。ただ夜中に何度も目覚めてトイレに行きたくなる、そのタイミングで眠れなくなる、そして翌朝の不快感……と、副作用ばかり出てきて、
「こんな思いをするくらいだったら、酒なんかやめた方がいいのかもね」
なんて考えるようになってきました。まあ長年にわたる強い精神的依存を簡単に断ち切れるものではありませんが。
あくまで私の想像ですが、依存を断ち切るって、すごく難しいし辛いことだと思います。自助努力だけじゃ無理だと思います。だからパートナーとか、誰もいなければそういうNPO団体の人たちとか、とにかく自分以外の誰かの力を借りるべきだと思います。「わかっちゃいるけど、やめられない」ってのは別にダメなことじゃなくて、ごくごく当たり前のことだと思います。
なんか話が少々重たくなってしまいましたが、これはすべて私個人のお話です。本当に「やめたくても、やめられない」って苦しんでいる方は、専門のお医者さんとかNPO団体の人たちを頼るべきです。私はどうかと言うと、たぶんこれからも、酒との付き合いは続くと思います。
ただよ、ただだ!(真壁刀義さんのモノマネで)
「今日は飲みたくないなあ」って時は飲まなくてもいいんだよ。
そこだけは、自分に分からせてあげたいです。今時はもう、酒をたくさん飲めることがステータスだとか、そんなものでもありません。また、酒は肉体にとって必須のものではありません。正直「私は下戸で酒が全然飲めなくて…」という人の方が元気で楽しく生きていける世界だとさえ思っています。
飲みたくないのに飲まなくちゃいけない。それは錯覚です。迷妄です。自動思考です。果たして私の心に幾重にも絡みついた邪悪な蔦を断ち切り、一段上の精神的な自由を獲得できるのか。いざという時は躊躇なく他の誰かを頼りますが、まずは自分で何とかできないか。そう考えたことを忘れないようにするために、記事を書きました。
*
これは言っても仕方がないことではありますが、時々悪夢としてよみがえってくることもあるので、こうして書き出します。そうやって意識上に引きずり出し、杭を打ち込むことで少しでも心が軽減されればいいなあと思うので。
私がどこかで酒に対して嫌悪感を抱くのは私の親父の影響があると思います。親父は私以上の酒好きで、毎日発泡酒のロング缶を2本、休みの日となれば昼間から飲み始め6本くらいは飲むような人類です。そして周りの人間に対して呪詛の言葉を投げかけます。反論しようがない、また反論しても大声をあげて取り合わないので、戦ってもこっちが傷つくだけで……じっと耐えるしかない時間……。
実家に帰りたくない理由と言うのは、それもあります。仙台に引っ越す直前、そうやって酔っぱらった親父に、「とっとと出て行けばいいんだ」とつぶやかれ(そのくせ目線はこちらに向けず、独り言のように言っていた)……夢の中でそんな親父に精いっぱい感情をぶつけてみるものの、結局何も解決せず、肉体的にも精神的にも具合の悪いまま目覚める……。
親父への嫌悪感を、そのまま酒に対しても投影しているのかもしれません。このエディプスコンプレックスと酒に対する怨恨を鎮めるためにはどうすればいいか。先日読了した『帝都物語』のなかで感じたものが、その助けになる気がします。
*
すみません、ますます重たくなっちゃったので、そろそろ切り上げます。
改めて言いますが、酒に罪はありません。適量を、気心の知れた仲間やおいしい料理と一緒に飲むのは良いと思います。最近出たクラフトスパイスソーダなんていうのは、本当に私好みで、ご飯がおいしくなります。
でも……ね。
酒でも煙草でも薬でも大好きな人にでも全力でぶつかってしまう私なんかは……
……
また生きていこう。
ふと、新しい遊びを思いつきました。
なに、難しいものではありません。例えば新聞などを読んでいて、
「発達障がい」とか「薬の過剰摂取」とか「連続飲酒」とか
瞬間的に心の神経に赤い警報がともり、カーッとなって言葉にならない強い感情が出るような記事があったら、それを切り取るとか何とかして、落ち着きを取り戻したあと何度も何度も読み返してやろう、というものです。そして、どうして自分はこんなにこの言葉に反応してしまったんだろうということを、何とか言葉になるまで辛抱強く待とう、というものです。
ま、こういうのを分析心理学では――と言って私は河合隼雄先生とユング自身の本しか読んだことないのですが――言語連想実験とか言うのでしょうが、あいにくと私は素人です。いくら河合先生の本を読んだところで、本当に心理療法をセルフで実践できるはずがありません(そうだったら世界中の精神科医はみんな失業してしまうでしょう!)。だから私のはあくまで遊びです。遊びだから、忘れてしまってもいいし、飽きたらやめちゃえばいいんです。子供の遊びと一緒です。
でも、そんな忘れてもいいような遊びのことをわざわざ一日分のスペースを使って記事として書いてしまうのは、こう言いつつも「絶対に忘れちゃいけない」ような気がしているからです。何かこれが、最近非常に不安定な私の心をカチリと固めてくれるような気がするのです。コールタールが熱せられてアスファルトになるように。熱せられた鉄が鍛え上げられて立派な鋼鉄になるように。
今はSNSで思いついたことをパッパッという時代だと思うのですが、それだと私の心がついて行けないんですよね。だから今は1日おきに投稿とか、ある程度下書きをたくさん書いてまとめて投稿するとか、非常に手間のかかる方法で投稿しています。
少なくとも私はこの方法のほうがいい気がします。ユング心理学でいうところの「内向的感情型」タイプである(と自分では思っている)私は、普段から「こういう時はどう言えばいいのかな」とか「こんなことを言ったら変に思われないかな」とかたくさんたくさん考えてようやく口にする人類ですから。そのせいで会話の流れから取り残され、ますます話についていけず寡黙になってしまうのですが……ま、それはいいでしょう。
とにかく、忘れたくないので書きました。以上です。
なに、難しいものではありません。例えば新聞などを読んでいて、
「発達障がい」とか「薬の過剰摂取」とか「連続飲酒」とか
瞬間的に心の神経に赤い警報がともり、カーッとなって言葉にならない強い感情が出るような記事があったら、それを切り取るとか何とかして、落ち着きを取り戻したあと何度も何度も読み返してやろう、というものです。そして、どうして自分はこんなにこの言葉に反応してしまったんだろうということを、何とか言葉になるまで辛抱強く待とう、というものです。
ま、こういうのを分析心理学では――と言って私は河合隼雄先生とユング自身の本しか読んだことないのですが――言語連想実験とか言うのでしょうが、あいにくと私は素人です。いくら河合先生の本を読んだところで、本当に心理療法をセルフで実践できるはずがありません(そうだったら世界中の精神科医はみんな失業してしまうでしょう!)。だから私のはあくまで遊びです。遊びだから、忘れてしまってもいいし、飽きたらやめちゃえばいいんです。子供の遊びと一緒です。
でも、そんな忘れてもいいような遊びのことをわざわざ一日分のスペースを使って記事として書いてしまうのは、こう言いつつも「絶対に忘れちゃいけない」ような気がしているからです。何かこれが、最近非常に不安定な私の心をカチリと固めてくれるような気がするのです。コールタールが熱せられてアスファルトになるように。熱せられた鉄が鍛え上げられて立派な鋼鉄になるように。
今はSNSで思いついたことをパッパッという時代だと思うのですが、それだと私の心がついて行けないんですよね。だから今は1日おきに投稿とか、ある程度下書きをたくさん書いてまとめて投稿するとか、非常に手間のかかる方法で投稿しています。
少なくとも私はこの方法のほうがいい気がします。ユング心理学でいうところの「内向的感情型」タイプである(と自分では思っている)私は、普段から「こういう時はどう言えばいいのかな」とか「こんなことを言ったら変に思われないかな」とかたくさんたくさん考えてようやく口にする人類ですから。そのせいで会話の流れから取り残され、ますます話についていけず寡黙になってしまうのですが……ま、それはいいでしょう。
とにかく、忘れたくないので書きました。以上です。
これは当初、『帝都物語』の感想の最後に付け加えた文章だったのですが、思いのほか長くなってしまったので切り分けました。
*
果たして現実とは何なのでしょう。
もとより私は蘭茶みすみさんが前に言っていた、「リアルとかバーチャルとかいう対立軸は無意味」という言葉を大切に心の中で育ててきました。みすみんサンはもう覚えていないかもしれませんが、私にとっては非常に重大な意味を持つ言葉でした。
仮に私が肉体を維持することでつながる世界を「リアル(現実)」とするのなら、私は非常にこの世界で生きづらさを感じています。なので本を開き「バーチャル(仮想)」の世界にあって心を解き放ちます。その仮想の世界にはいくつもの仮想世界があって、過去とか未来とかあの世と過去の世とかの対立軸はどんどんあいまいになっていきます。黄泉に行ったり現世に引き戻されたり。そういった世界と心の波長を合わせ共鳴しているうちに、私の心のなかにまかれた先ほどの言葉はグングン成長しました。
これから先、もしかしたら私は、とんでもない生き方をするかもしれません。あらゆる制約や概念を取っ払って、仮想を現実に引き戻す。肉体廃止の旗のもと、心の目をもって自由に生きる。もはや私以外の誰もが「現実」と呼ぶ世界にさえとらわれず、心を解放する! それは、なんと楽しみなことでしょう! できないことだらけで鬱屈としていた私が、そのエネルギーをすべて爆発させられる場所があると夢見ることは!
……って、これは『帝都物語』を読む直前に好んで読んでいた森茉莉さんの影響もあるのですが。
世の中全てを自分の色に塗ることは不可能だから、自分でその色がついた眼鏡をかけて、それを通して世界を見ればいいんですよ。すべては認識の問題です。
「それも心々ですさかいに」
……そして森茉莉さんの向こう側にいる三島由紀夫さんの『豊饒の海』に泳ぎ着くのでしょうか。
ただ「読んだ」「面白かった」だけじゃもったいない名作ばかりでした。そのエッセンス、栄養を自分のものにするべく、下半期はこうした狂気の文章をたくさん書いていきたいと思います。ついてこれなくても結構です。きっと、初めから誰にもわかってもらえないと思うので。
……でも……
わかってくれる人がいてくださったら、これほど嬉しいことはありません。そんな一縷の望みを託して、この文章を締めくくることとします。
*
果たして現実とは何なのでしょう。
もとより私は蘭茶みすみさんが前に言っていた、「リアルとかバーチャルとかいう対立軸は無意味」という言葉を大切に心の中で育ててきました。みすみんサンはもう覚えていないかもしれませんが、私にとっては非常に重大な意味を持つ言葉でした。
仮に私が肉体を維持することでつながる世界を「リアル(現実)」とするのなら、私は非常にこの世界で生きづらさを感じています。なので本を開き「バーチャル(仮想)」の世界にあって心を解き放ちます。その仮想の世界にはいくつもの仮想世界があって、過去とか未来とかあの世と過去の世とかの対立軸はどんどんあいまいになっていきます。黄泉に行ったり現世に引き戻されたり。そういった世界と心の波長を合わせ共鳴しているうちに、私の心のなかにまかれた先ほどの言葉はグングン成長しました。
これから先、もしかしたら私は、とんでもない生き方をするかもしれません。あらゆる制約や概念を取っ払って、仮想を現実に引き戻す。肉体廃止の旗のもと、心の目をもって自由に生きる。もはや私以外の誰もが「現実」と呼ぶ世界にさえとらわれず、心を解放する! それは、なんと楽しみなことでしょう! できないことだらけで鬱屈としていた私が、そのエネルギーをすべて爆発させられる場所があると夢見ることは!
……って、これは『帝都物語』を読む直前に好んで読んでいた森茉莉さんの影響もあるのですが。
世の中全てを自分の色に塗ることは不可能だから、自分でその色がついた眼鏡をかけて、それを通して世界を見ればいいんですよ。すべては認識の問題です。
「それも心々ですさかいに」
……そして森茉莉さんの向こう側にいる三島由紀夫さんの『豊饒の海』に泳ぎ着くのでしょうか。
ただ「読んだ」「面白かった」だけじゃもったいない名作ばかりでした。そのエッセンス、栄養を自分のものにするべく、下半期はこうした狂気の文章をたくさん書いていきたいと思います。ついてこれなくても結構です。きっと、初めから誰にもわかってもらえないと思うので。
……でも……
わかってくれる人がいてくださったら、これほど嬉しいことはありません。そんな一縷の望みを託して、この文章を締めくくることとします。
今日は何について書こうかしらん、と悩みながら河北新報の夕刊を読んでいたら、仙台文学館で劇作家・石川裕人氏の企画展をやるという話を知りました。そこで今日は「演劇」とテーマを決めて書いていきたいと思います。
といって別に演劇とは……なんて大上段に構えるようなことはありません。もちろん私は舞台俳優ではありませんし、認識者としても「年に100回は劇場に行っています」というわけでもありません。最初からないない尽くしでどうするんだって話なんですが、それでも決定的に心の中に生き続ける「演劇」があります。
それは今からちょうど20年前――2003年に盛岡の「劇団赤い風」さんが演じた『花札伝奇』です。当時すでにホームページで自己表現活動をやっていたので、その時の情報を再掲します。22歳当時の私の若書きですが、まあ御笑覧ください。
せーの、ドン!
闇に入り、闇より出ず――『花札伝綺』を見て
……今ここにタイムマシンがあったら、20年前の私に言ってやりたいですね。「下手でもいいからちゃんと筋書きを書け」と。たぶん自分会議になると思いますが。
当時もらったチラシは今も実家にあるんですが、内容は全然覚えていません。ただ、
「どこか薄暗くて肌寒い世界に引き込まれていくような感じがし、最後は再びそのような 冥土から現世に引き戻されたような、そんな感じがした」
確かに、そういう感覚だったように思います。
……でも、ま、20歳そこそこの私には、完全にキャパオーバーだったのでしょうね。正直、その頃と変わっていない部分はたくさんありますし。そんなに自分のことを責められないかな。当時の私にとっては感動に打ち震えて、これが精一杯だったのかもしれません。そうすると、まあ……今の心情からすれば……うん、いいよ。悪かった。ごめんごめん。
そんなわけで、私にとって「演劇」というのはそういう……20年も前にさかのぼってしまうのですが……とても重要なものです。それを現在にアップデートするために、会期中に行って見たいと思います。
といって別に演劇とは……なんて大上段に構えるようなことはありません。もちろん私は舞台俳優ではありませんし、認識者としても「年に100回は劇場に行っています」というわけでもありません。最初からないない尽くしでどうするんだって話なんですが、それでも決定的に心の中に生き続ける「演劇」があります。
それは今からちょうど20年前――2003年に盛岡の「劇団赤い風」さんが演じた『花札伝奇』です。当時すでにホームページで自己表現活動をやっていたので、その時の情報を再掲します。22歳当時の私の若書きですが、まあ御笑覧ください。
せーの、ドン!
闇に入り、闇より出ず――『花札伝綺』を見て
……今ここにタイムマシンがあったら、20年前の私に言ってやりたいですね。「下手でもいいからちゃんと筋書きを書け」と。たぶん自分会議になると思いますが。
当時もらったチラシは今も実家にあるんですが、内容は全然覚えていません。ただ、
「どこか薄暗くて肌寒い世界に引き込まれていくような感じがし、最後は再びそのような 冥土から現世に引き戻されたような、そんな感じがした」
確かに、そういう感覚だったように思います。
……でも、ま、20歳そこそこの私には、完全にキャパオーバーだったのでしょうね。正直、その頃と変わっていない部分はたくさんありますし。そんなに自分のことを責められないかな。当時の私にとっては感動に打ち震えて、これが精一杯だったのかもしれません。そうすると、まあ……今の心情からすれば……うん、いいよ。悪かった。ごめんごめん。
そんなわけで、私にとって「演劇」というのはそういう……20年も前にさかのぼってしまうのですが……とても重要なものです。それを現在にアップデートするために、会期中に行って見たいと思います。
思ったことを素直に書きます。
人とのつながりを持ちたい感情と、「私なんか、誰とも関わらずにひっそり生きた方がいい」という感情が拮抗しています。その間に立った私の自我は何とか調停するべくあっちに気を配りこっちに気を遣い、ほとほと疲れ切ってしまいました。「僕の神経衰弱の最も甚しかりしは大正十年の年末なり。」とは芥川龍之介の『病中雑記』ですが、私もそんなことを言いたくなってしまいます。
そうなんです。決して人とのつながりを断ちたいわけではなく「そうした方がいい」と考える私がいるんです。
「そこまで突き止めているのなら、その考えをやめればいいじゃないか」
そうおっしゃる向きもあるかもしれませんが、「自動思考」というのは、そう簡単には治らないんです。一応『認知療法』というのはありますが、それだって本人の不断の努力が必要なんです。
「そんなの私だってわかってるんだ。でも、そこにたどり着くまでの今が苦しいんだ」
だからお医者さんがいるんじゃないですか。そこにたどり着くまでのアシストをしてほしいから、話を聞いてほしいと思うし薬を処方してほしいと思うんです。最後は自分が何とかしなくちゃならないのはわかっているから、そこまで何とか導いてほしいんです。それが素人にはわからないノウハウを持ったお医者さんにやってほしいことなんです。それなのに!……
まあ、そんな恨み言をぶつけたい医師との関係も今となっては断絶、仙台に来たらどこもかしこも予約が入れられず強制的に自助努力で何とかしなければならない状況に放り出され、実際に何とかなって来たんですけどね。
何とかなっていたのが夢幻の如くなりなのか、それとも自転車の如く上手に乗りこなせていたのか。
……
確かに心の本質は変わらないかもしれません。どこまでも私は感情的な人間だし人づきあいは上手じゃないし悪くすると「怖い」と思っちゃうし。でも、そういう状態をできるだけ遠ざける技術はこの十数年で身についたはずなんです。そういう技術で得た経験で、もっともっと生きづらさを軽減することができるはずなんです。
このところちょっと気持ちが揺らいでいましたが、少し落ち着きを取り戻しました。やっぱり、書き出すことって大事です(これは最初に不安障害で飛び込んだ盛岡の心療内科医から教えてもらったことです)。
でも……やっぱり怖いです!
人とのつながりを持ちたい感情と、「私なんか、誰とも関わらずにひっそり生きた方がいい」という感情が拮抗しています。その間に立った私の自我は何とか調停するべくあっちに気を配りこっちに気を遣い、ほとほと疲れ切ってしまいました。「僕の神経衰弱の最も甚しかりしは大正十年の年末なり。」とは芥川龍之介の『病中雑記』ですが、私もそんなことを言いたくなってしまいます。
そうなんです。決して人とのつながりを断ちたいわけではなく「そうした方がいい」と考える私がいるんです。
「そこまで突き止めているのなら、その考えをやめればいいじゃないか」
そうおっしゃる向きもあるかもしれませんが、「自動思考」というのは、そう簡単には治らないんです。一応『認知療法』というのはありますが、それだって本人の不断の努力が必要なんです。
「そんなの私だってわかってるんだ。でも、そこにたどり着くまでの今が苦しいんだ」
だからお医者さんがいるんじゃないですか。そこにたどり着くまでのアシストをしてほしいから、話を聞いてほしいと思うし薬を処方してほしいと思うんです。最後は自分が何とかしなくちゃならないのはわかっているから、そこまで何とか導いてほしいんです。それが素人にはわからないノウハウを持ったお医者さんにやってほしいことなんです。それなのに!……
まあ、そんな恨み言をぶつけたい医師との関係も今となっては断絶、仙台に来たらどこもかしこも予約が入れられず強制的に自助努力で何とかしなければならない状況に放り出され、実際に何とかなって来たんですけどね。
何とかなっていたのが夢幻の如くなりなのか、それとも自転車の如く上手に乗りこなせていたのか。
……
確かに心の本質は変わらないかもしれません。どこまでも私は感情的な人間だし人づきあいは上手じゃないし悪くすると「怖い」と思っちゃうし。でも、そういう状態をできるだけ遠ざける技術はこの十数年で身についたはずなんです。そういう技術で得た経験で、もっともっと生きづらさを軽減することができるはずなんです。
このところちょっと気持ちが揺らいでいましたが、少し落ち着きを取り戻しました。やっぱり、書き出すことって大事です(これは最初に不安障害で飛び込んだ盛岡の心療内科医から教えてもらったことです)。
でも……やっぱり怖いです!
Xを再開したものの、不安が付きまといます。
いまなら不安障害とか、そういう言葉になるのでしょうか。いっぱい伝えたいことはあるし、伝わらなくても、心の解放治療という意味でも自分の気持ちをどんどん発信するのは良いことだと思うのですが、厄介なのは、「明確な理由がないけど強烈な抑圧感・不安感」が私の感情を支配しているということです。
だから、これを不安障害と言うのでしょう。
もっとも、こういう状態になったのは初めてではありません。私がまだ20代の頃、日常生活にも支障が出るくらい強烈な不安障害に襲われて(当時は「神経症」と言われたことを想い出した)、初めて心療内科に駆け込んだ時もそうでした。
その時は「パキシル」「メイラックス」という2種類の薬と、「考えていることや思ったことをノートに書き出してみるといい」「書き出すことで心が落ち着く」「あとで読み返してみると、自分がどういうことを考えていたのか整理できる」という先生のアドバイスで治しました。最近になってそれがいいなんて言っていますが、私の先生は20年も前にそのことを教えてくれていました。何を今さら、って話です。
そうして乗り越えてきたので、今の私は大丈夫だと思います。結局、本質的な部分は何も変わってない! 私は良くも強くもなってなかったんだ! ということは少し悲しいですが、これが私の個人的無意識なのでしょう。理屈で割りきれない心。幼いまま発達が止まってしまった心。何とかしようったって私ともならないなら仕方がありません。
すぐに何とかなるものじゃないことは、わかっています。でも絶対に治らないものじゃないことも、わかっています。また薬をもらえれば、大きな助けになるとは思いますが、なくてもここまでやってこられたのなら、必須ではないと思います。
焦らず、ゆっくりやっていきたいと思います。自分で何とかflat feelingの領域まで心を持っていければ大丈夫です。
いまなら不安障害とか、そういう言葉になるのでしょうか。いっぱい伝えたいことはあるし、伝わらなくても、心の解放治療という意味でも自分の気持ちをどんどん発信するのは良いことだと思うのですが、厄介なのは、「明確な理由がないけど強烈な抑圧感・不安感」が私の感情を支配しているということです。
だから、これを不安障害と言うのでしょう。
もっとも、こういう状態になったのは初めてではありません。私がまだ20代の頃、日常生活にも支障が出るくらい強烈な不安障害に襲われて(当時は「神経症」と言われたことを想い出した)、初めて心療内科に駆け込んだ時もそうでした。
その時は「パキシル」「メイラックス」という2種類の薬と、「考えていることや思ったことをノートに書き出してみるといい」「書き出すことで心が落ち着く」「あとで読み返してみると、自分がどういうことを考えていたのか整理できる」という先生のアドバイスで治しました。最近になってそれがいいなんて言っていますが、私の先生は20年も前にそのことを教えてくれていました。何を今さら、って話です。
そうして乗り越えてきたので、今の私は大丈夫だと思います。結局、本質的な部分は何も変わってない! 私は良くも強くもなってなかったんだ! ということは少し悲しいですが、これが私の個人的無意識なのでしょう。理屈で割りきれない心。幼いまま発達が止まってしまった心。何とかしようったって私ともならないなら仕方がありません。
すぐに何とかなるものじゃないことは、わかっています。でも絶対に治らないものじゃないことも、わかっています。また薬をもらえれば、大きな助けになるとは思いますが、なくてもここまでやってこられたのなら、必須ではないと思います。
焦らず、ゆっくりやっていきたいと思います。自分で何とかflat feelingの領域まで心を持っていければ大丈夫です。
Xを再開しました。
こんなに早く再開するつもりではなかったのですが、復帰する時期をいたずらに先延ばしにするのも良くないと思ったからです。時期は自分で決められるけど、「時機」は待ってくれないのです。
時機?
そう、「世情に疎く、時勢に昏く」を謳う私ではありますが、1年に1度のこのイベントを無視するわけにはいかないのです。そしてその話題は、今すぐ書くしかないのです。
青葉通地下道で開催されたイベント「地下道-3150」を見てきました。
去年も見てきましたが、今年も見てきました。
やっぱり、私にとっては一番大切なイベントなんですよね。もうお正月みたいなものですから。これがあると信じて1年頑張ってきたのだし、また来年もあると思って1年頑張る。そういう、重要なきっかけ作りのイベントなんです。
果たして今回もその雰囲気を楽しんできました。
今年は小さい子どもたちがキャッキャ言っているのが印象的でしたね。なので、「少数派も多数派もみんなおいでよ」という雰囲気でした。そして私みたいな世捨て人になりかけた人類もつかの間打ち解けられたのです。スタッフの方とお話をして、こちらの……
……と遊んだりして……。
そしてその感想を伝えるべきであるというのはもはや天啓だと思ったので、投稿しました。
そうしたところ、色々と心配の声を頂き、大変感動しました。
神経がひどく衰弱していて、すぐに元通りとはいきませんが……また少しずつ、始めていきたいと思います。ただし順番は、このブログが第一です。ある程度まとまった文章を書いて、そのあと繋がりを維持するためにXをやる。そんな感じで少しずつ……ね。
こんなに早く再開するつもりではなかったのですが、復帰する時期をいたずらに先延ばしにするのも良くないと思ったからです。時期は自分で決められるけど、「時機」は待ってくれないのです。
時機?
そう、「世情に疎く、時勢に昏く」を謳う私ではありますが、1年に1度のこのイベントを無視するわけにはいかないのです。そしてその話題は、今すぐ書くしかないのです。
青葉通地下道で開催されたイベント「地下道-3150」を見てきました。
去年も見てきましたが、今年も見てきました。
やっぱり、私にとっては一番大切なイベントなんですよね。もうお正月みたいなものですから。これがあると信じて1年頑張ってきたのだし、また来年もあると思って1年頑張る。そういう、重要なきっかけ作りのイベントなんです。
果たして今回もその雰囲気を楽しんできました。
今年は小さい子どもたちがキャッキャ言っているのが印象的でしたね。なので、「少数派も多数派もみんなおいでよ」という雰囲気でした。そして私みたいな世捨て人になりかけた人類もつかの間打ち解けられたのです。スタッフの方とお話をして、こちらの……
……と遊んだりして……。
そしてその感想を伝えるべきであるというのはもはや天啓だと思ったので、投稿しました。
そうしたところ、色々と心配の声を頂き、大変感動しました。
神経がひどく衰弱していて、すぐに元通りとはいきませんが……また少しずつ、始めていきたいと思います。ただし順番は、このブログが第一です。ある程度まとまった文章を書いて、そのあと繋がりを維持するためにXをやる。そんな感じで少しずつ……ね。
どうせ誰も見ていないだろうから、今しか書けないことを書きたいと思います。
最近Xを休止していますが、世の中とのかかわりを断って隠棲したい……かと言うと、少し違う気がします。
ただ、自分の心の中にあるものを伝える手段を変えてみたいと思った。時間が経って心が落ち着いてくると、そういうことなのかなって思いました。
短い文章でパッパッと伝えるのもいいんですけどね。その時その時の半リアルタイムな様子を伝える。嬉しいこととか辛いこととかをすぐに発信して誰かと共有する。そういうのが良さだと思うんですけど、その一言をつぶやくために30分も1時間も文章を考えて書くような人間ですから、その時間を使ってこうして文章で書いて表現する方法もいいんじゃないかなって。
そして、何かイベントとかに参加したら、その場で当事者の人に気持ちを伝えることを大切にしようということです。私はこの通り内向的な人間で、大好きな人や憧れの人に直接面と向かって気持ちを伝えようとすれば緊張の化身、膝も声もガクガクブルブル震えて丸井マリに出会ったドラえもんのごとくハカハカしちゃうんですが、それが受け手にとっての最高の自己表現だと思うのです。
私は認識者、受信者ですから。私が表現をして多くの人の心を動かすことは無理ですが、表現に触れて深くふか~く感じ入ることができます。だとしたら、上手じゃなくてもその気持ちを一番伝えたい人に伝えたい。そういうチャンスがあるのなら、それを逃さずに踏み出しぶつける勇気を何よりも大切にしたい。そう考えるようになったのです。

また、直接対面で伝えられない場合でも、便箋に手書で使って気持ちを伝えるようにしました。
そして画面の向こう側にいる大好きなひとには、チャット機能でコメントを送りました。
私には特別な輝きはありません。アイドルでもないしエモーショナルな写真や動画を発信しているわけでもないし上手な文章を書けるわけでもありません。SNSの流れにもついて行けなくなって、画面の向こう側にいる大好きな人にどうやって気持ちを伝えればいいのかわからなくなって、ひとりで泣いていました。
でも、伝えられないからと言って、この気持ちまで否定し消してしまうことはないですよね。素早く何度でもポンポンと伝えられなくたっていいじゃないか。大事な時――それが年に1回だけだとしても、自分の気持ちを表現し伝えられるのなら、それでいいじゃないか。
ちょうど今、仙台の各ギャラリーで開催されている無審査の美術展『アンデパンダン展』のことを重ねながら、そう思いました。チフリグリの人に聞いたところ、1年に1度、この時だけ自分の作品を出展する人もいるらしいし。アンデパンダン展については今日も行くので、後ほどまとめて書きますが。
そして、今日は1年に1度の……私にとっては一番大切なイベントがある日です。心の準備は万全ではありませんが、伝えたい気持ちを伝えられるように……頑張ります!
(注:この記事は10月7日に書きました)
最近Xを休止していますが、世の中とのかかわりを断って隠棲したい……かと言うと、少し違う気がします。
ただ、自分の心の中にあるものを伝える手段を変えてみたいと思った。時間が経って心が落ち着いてくると、そういうことなのかなって思いました。
短い文章でパッパッと伝えるのもいいんですけどね。その時その時の半リアルタイムな様子を伝える。嬉しいこととか辛いこととかをすぐに発信して誰かと共有する。そういうのが良さだと思うんですけど、その一言をつぶやくために30分も1時間も文章を考えて書くような人間ですから、その時間を使ってこうして文章で書いて表現する方法もいいんじゃないかなって。
そして、何かイベントとかに参加したら、その場で当事者の人に気持ちを伝えることを大切にしようということです。私はこの通り内向的な人間で、大好きな人や憧れの人に直接面と向かって気持ちを伝えようとすれば緊張の化身、膝も声もガクガクブルブル震えて丸井マリに出会ったドラえもんのごとくハカハカしちゃうんですが、それが受け手にとっての最高の自己表現だと思うのです。
私は認識者、受信者ですから。私が表現をして多くの人の心を動かすことは無理ですが、表現に触れて深くふか~く感じ入ることができます。だとしたら、上手じゃなくてもその気持ちを一番伝えたい人に伝えたい。そういうチャンスがあるのなら、それを逃さずに踏み出しぶつける勇気を何よりも大切にしたい。そう考えるようになったのです。
また、直接対面で伝えられない場合でも、便箋に手書で使って気持ちを伝えるようにしました。
そして画面の向こう側にいる大好きなひとには、チャット機能でコメントを送りました。
私には特別な輝きはありません。アイドルでもないしエモーショナルな写真や動画を発信しているわけでもないし上手な文章を書けるわけでもありません。SNSの流れにもついて行けなくなって、画面の向こう側にいる大好きな人にどうやって気持ちを伝えればいいのかわからなくなって、ひとりで泣いていました。
でも、伝えられないからと言って、この気持ちまで否定し消してしまうことはないですよね。素早く何度でもポンポンと伝えられなくたっていいじゃないか。大事な時――それが年に1回だけだとしても、自分の気持ちを表現し伝えられるのなら、それでいいじゃないか。
ちょうど今、仙台の各ギャラリーで開催されている無審査の美術展『アンデパンダン展』のことを重ねながら、そう思いました。チフリグリの人に聞いたところ、1年に1度、この時だけ自分の作品を出展する人もいるらしいし。アンデパンダン展については今日も行くので、後ほどまとめて書きますが。
そして、今日は1年に1度の……私にとっては一番大切なイベントがある日です。心の準備は万全ではありませんが、伝えたい気持ちを伝えられるように……頑張ります!
(注:この記事は10月7日に書きました)
今日はちょっと書くことがないので、身近なことから書きます。
わが仙台はビュービューゴーゴーと物凄い強い風が吹いていました。たぶんさえぎるものが何もない仙台平野だからなのかもしれませんが、一部の列車に影響が出るくらい強かったのですね。
以前、宮城県内のローカル番組で気象予報士の人が仙台をして『風の都』と呼んでいましたが、風の精シルフが大好きな私としては、すごく良いネーミングだと思います。
バレエ『ラ・シルフィード』など、元々美しい女性の姿で描かれるシルフですが、私が特に好きになった理由は昔のゲーム『シルフィア』によります。
かのコンパイルが制作した(アレスタエンジンで作られた)シューティングゲームで、希臘神話的な世界観はナムコの『フェリオス』にも似ていますが、初めから神様で英雄のアポロンがアルテミスを救うべくペガサスに乗って戦う『フェリオス』に対して『シルフィア』はちょっと悲壮感があっていいんですよね。
主人公のシルフィアは元々人間の剣士だったのですが、魔物との闘いで傷つき一度は倒れてしまいます。ただ、そのあと神々の力によって『シルフィア』に転生し、それによって再び……というのがオープニングムービーで流れます。
好きすぎて3回も長文レビューを書きました。20年以上経ってもずっと好きなキャラクタです。風と言えばシルフィアなんです。

追記。あまりに風が強すぎて、ツギハギして何とか持たせていたわが愛車のカバーがとうとう、用をなさなくなってしまいました。さすがにこれは……新しいのを買って来ようっと。

わが仙台はビュービューゴーゴーと物凄い強い風が吹いていました。たぶんさえぎるものが何もない仙台平野だからなのかもしれませんが、一部の列車に影響が出るくらい強かったのですね。
以前、宮城県内のローカル番組で気象予報士の人が仙台をして『風の都』と呼んでいましたが、風の精シルフが大好きな私としては、すごく良いネーミングだと思います。
バレエ『ラ・シルフィード』など、元々美しい女性の姿で描かれるシルフですが、私が特に好きになった理由は昔のゲーム『シルフィア』によります。
かのコンパイルが制作した(アレスタエンジンで作られた)シューティングゲームで、希臘神話的な世界観はナムコの『フェリオス』にも似ていますが、初めから神様で英雄のアポロンがアルテミスを救うべくペガサスに乗って戦う『フェリオス』に対して『シルフィア』はちょっと悲壮感があっていいんですよね。
主人公のシルフィアは元々人間の剣士だったのですが、魔物との闘いで傷つき一度は倒れてしまいます。ただ、そのあと神々の力によって『シルフィア』に転生し、それによって再び……というのがオープニングムービーで流れます。
好きすぎて3回も長文レビューを書きました。20年以上経ってもずっと好きなキャラクタです。風と言えばシルフィアなんです。
追記。あまりに風が強すぎて、ツギハギして何とか持たせていたわが愛車のカバーがとうとう、用をなさなくなってしまいました。さすがにこれは……新しいのを買って来ようっと。
このところ連日2000~3000字くらいの分量で書き続けてきましたが、これは……スピードが出過ぎて必死でブレーキをかけた時の制動距離みたいなものですから。というか、下り坂でブレーキがしんで止まれなくなってズガガーッって突っ込む緊急避難所みたいなものです。本来このブログは、日常の何気ないことを取り上げて書き出す場所ですから。そういうことを書きたいと思います。ある程度の長さの文章を書く練習っていうか、そう言うことができることを確認したいって気持ちは、少しありましたけど。
Xでいつも繋がっていた人たちと(一時的とはいえ)離れているのは、少々つらいです。本当に、人づきあいが下手なんだなと思います。繋がっていたいのか、一人でいたいのか。
多分どちらも正解なんです。繋がりたいから今はひとりで頑張っているんです。ちゃんと繋がれるような心を取り戻すために。
いわゆる承認要求っていうんでしょうか。やっぱり投稿すれば「いいね」をもらえるかどうかは気になります。どうすればみんなに見てもらえるかなって想像しながら書きます。内容を意識して書きます。本心を隠して一般向けの言葉を書きます。何かというとすぐに騒ぎになるSNSという世界では、それがいいのかもしれませんが、どうも面白くないんですよね。
せっかく自分を解放しようとして、自由にやろうとしているのに、そこでまた縛られてしまう。まったくどうしようもないですね。
そんなことを考えています。
これも私なら仕方ないですね。縛られるのも私なら縛るのも私。あえて離れるのも私の為だと思います。私は自分の選択を信じます。後になって「あれは間違っていた……」としても、更にその後で別な考え方になって「それでよかったんだ……」ってなるかもしれないし。何なら、もう、良いも悪いもないかもしれませんね。どうでもいいよ、そんなことって。
まだまだ心の解放治療は始まったばかりです。今日も頑張ります。
Xでいつも繋がっていた人たちと(一時的とはいえ)離れているのは、少々つらいです。本当に、人づきあいが下手なんだなと思います。繋がっていたいのか、一人でいたいのか。
多分どちらも正解なんです。繋がりたいから今はひとりで頑張っているんです。ちゃんと繋がれるような心を取り戻すために。
いわゆる承認要求っていうんでしょうか。やっぱり投稿すれば「いいね」をもらえるかどうかは気になります。どうすればみんなに見てもらえるかなって想像しながら書きます。内容を意識して書きます。本心を隠して一般向けの言葉を書きます。何かというとすぐに騒ぎになるSNSという世界では、それがいいのかもしれませんが、どうも面白くないんですよね。
せっかく自分を解放しようとして、自由にやろうとしているのに、そこでまた縛られてしまう。まったくどうしようもないですね。
そんなことを考えています。
これも私なら仕方ないですね。縛られるのも私なら縛るのも私。あえて離れるのも私の為だと思います。私は自分の選択を信じます。後になって「あれは間違っていた……」としても、更にその後で別な考え方になって「それでよかったんだ……」ってなるかもしれないし。何なら、もう、良いも悪いもないかもしれませんね。どうでもいいよ、そんなことって。
まだまだ心の解放治療は始まったばかりです。今日も頑張ります。
連休初日、久々にオートバイを出して七ヶ浜町に行ってきました。
仙台から車で30分くらいで到着します。砂浜と松島四大観のひとつ「偉観」とそれから……。
素敵な場所なんです。
代ヶ崎浜から火力発電所方面に走り、そうしているとお昼時になったので、『菜菜Cafe*キリカブ』でご飯を頂くことにしました。菜菜プレート(800円)です。
今風に言えばマクロビオティック? な料理って言うんでしょうか。よくわかりませんが、とにかく地産地消、ご主人が採った野菜をこのように少しずつ違った味付けで楽しめる(それでいて、結構おなかいっぱいになる)いぎなりう~まい! そしてやさし~い! 食事でした。
お店の雰囲気も、おそらくご主人が自ら切り出して来たであろう木の椅子など、自然感爆発で心地よいです。ちょうど私がお伺いした時はご主人がテラスでこのように手作りのコースターを作っているところでした。
で、食事がおいしかったのはもちろんなんですが、それと同じくらい楽しかったのがご主人のトークでした。マイク眞木さんのように銀髪を後ろに流した、今年70歳になろうかという方なんですが、二輪四輪問わず大の乗り物好きだそうで……。
「若いころ、誘われていったモトクロスの大会でいきなり優勝しちゃった」
「そのあと事故で大けがをして、『車買ってやるからやめてくれ』と家族に懇願され『それなら』ということでモトクロスはやめた」
「スターレットのエンジンを乗せ換えてピストン交換、ヘッド面研など極限メカチューンした(最終的に170psくらい出たらしい⇒ノーマルの2倍以上!)」
「その車で当時出始めのサバンナRX-7を置いてけぼりにした」
「52歳までサーキットで鳴らしていた」
「サーキットに行った時に『ドリキン』の異名を持つアノ人に会って同乗体験させてもらった」
……簡単に書き出しただけでも、ざっとこんな感じです。
そんなことを世間話の要領でスラスラと話してくれるのですから、「板垣恵介の激闘達人烈伝」のような感じでした。今こうして自然に親しみ優しい空間を作っているご主人は、達人とか仙人とかそういう領域の人なのかなって思いました。
でも、そういう話の中でふっと出てきたんですよね。こうも好きなことをやり続け、また奥様にもやらせてもらっている理由というのを。
それはご主人がまだ30歳そこそこの頃の話なんですが……当時、友人が不治の病で余命いくばくもないころ、病室に呼ばれて言われたそうなんですね。
「おれはやりたいことがいっぱいあったけど、結局、何もできなかった」
「お前はやりたいことをやれ。それも、年を取ってからでもできることじゃない。若いうちにしかやれないことをやれ」
そして翌日、その友人はこと切れになりました……とのことです。
そこで奥様にも「おれはこれから、やりたいことをやって生きるから」と宣言し、それを受け入れてもらって、本当に現在進行形でやりたいことをやっている……ということなのでしょうね。今はこうして自分の店を構え、カフェに民泊にと悠々自適な感じです。年齢的には70歳なんですが、それこそマイク眞木さんみたいな「格好いい歳の取り方」をしているなあ、という感じでした。
私も最初に就職した会社を辞めた時、そう宣言して未経験の業種に飛び込み、随分とひどい目に遭ったのですが……でも、何とか生きています。
やりたいと思っても、できないことは、あります。
不自由さ、生きづらさを感じることはあります。
でも、やってみたらできたことも、あります。
「やりたいことをやって生きる」
私はギリギリ、間に合ったと思います。
ご主人が乗っていたような高性能なやつではないし、1台ウン千万みたいな高級車でもありません(先日「8台で1億8千万」と称する外車二輪車三輪車の連隊が来たそうです)。でも、私はこれと一緒に走ることが「やりたいこと」なので。私もやはり、生きる方に動いていきたいと思います。
そして、私の大好きな人がしにたいと言ったら、全力で引き止めます。落ち込んだり心がつらかったら、全力でサポートしたいです。気持ちが熱すぎて不器用で上手に伝えられなくて今はこんな感じで全然伝わらない場所から発信していますが。いつかちゃんと伝えられるように、今からこうして発信しておきます。
大好きです。

*
最後に、もうひとつ。
ご主人はその外車のことを「ベンベ」と言っていました。少し前にテレビでBMWのことを「ベンベ」という人がいる、と見ていたので、頭の中ですぐにBMWと変換できたのですが、それが本来なんだろうなと思いました。
そりゃあまあ、「ビーエムダブリュー」って英語読みすればいいと思いますよ(CMでもそう言ってるし)。一般的にはそう言わないと通じないでしょうし。でもそれをドイツ語風の発音で、それも話し言葉としても流暢で短く言うと「ベンベ」なんだろうな、と。変に「びーえむ」とかって略するよりもずっと格好いいです。私が言っても様にならないですけど、達人とか仙人とかが言うと渋いなあ、格好いいなあと思った小僧っ子の私でした。
若くあろう若くあろうと悪あがきしているのではなく、「気が付いたら70歳になってましたが何か?」という雰囲気のご主人ですから、たぶん100歳になっても変わらないような気がします。私も色々考える切っ掛けをもらえて楽しかったです。
ごちそうさまでした!

仙台から車で30分くらいで到着します。砂浜と松島四大観のひとつ「偉観」とそれから……。
素敵な場所なんです。
代ヶ崎浜から火力発電所方面に走り、そうしているとお昼時になったので、『菜菜Cafe*キリカブ』でご飯を頂くことにしました。菜菜プレート(800円)です。
今風に言えばマクロビオティック? な料理って言うんでしょうか。よくわかりませんが、とにかく地産地消、ご主人が採った野菜をこのように少しずつ違った味付けで楽しめる(それでいて、結構おなかいっぱいになる)いぎなりう~まい! そしてやさし~い! 食事でした。
お店の雰囲気も、おそらくご主人が自ら切り出して来たであろう木の椅子など、自然感爆発で心地よいです。ちょうど私がお伺いした時はご主人がテラスでこのように手作りのコースターを作っているところでした。
で、食事がおいしかったのはもちろんなんですが、それと同じくらい楽しかったのがご主人のトークでした。マイク眞木さんのように銀髪を後ろに流した、今年70歳になろうかという方なんですが、二輪四輪問わず大の乗り物好きだそうで……。
「若いころ、誘われていったモトクロスの大会でいきなり優勝しちゃった」
「そのあと事故で大けがをして、『車買ってやるからやめてくれ』と家族に懇願され『それなら』ということでモトクロスはやめた」
「スターレットのエンジンを乗せ換えてピストン交換、ヘッド面研など極限メカチューンした(最終的に170psくらい出たらしい⇒ノーマルの2倍以上!)」
「その車で当時出始めのサバンナRX-7を置いてけぼりにした」
「52歳までサーキットで鳴らしていた」
「サーキットに行った時に『ドリキン』の異名を持つアノ人に会って同乗体験させてもらった」
……簡単に書き出しただけでも、ざっとこんな感じです。
そんなことを世間話の要領でスラスラと話してくれるのですから、「板垣恵介の激闘達人烈伝」のような感じでした。今こうして自然に親しみ優しい空間を作っているご主人は、達人とか仙人とかそういう領域の人なのかなって思いました。
でも、そういう話の中でふっと出てきたんですよね。こうも好きなことをやり続け、また奥様にもやらせてもらっている理由というのを。
それはご主人がまだ30歳そこそこの頃の話なんですが……当時、友人が不治の病で余命いくばくもないころ、病室に呼ばれて言われたそうなんですね。
「おれはやりたいことがいっぱいあったけど、結局、何もできなかった」
「お前はやりたいことをやれ。それも、年を取ってからでもできることじゃない。若いうちにしかやれないことをやれ」
そして翌日、その友人はこと切れになりました……とのことです。
そこで奥様にも「おれはこれから、やりたいことをやって生きるから」と宣言し、それを受け入れてもらって、本当に現在進行形でやりたいことをやっている……ということなのでしょうね。今はこうして自分の店を構え、カフェに民泊にと悠々自適な感じです。年齢的には70歳なんですが、それこそマイク眞木さんみたいな「格好いい歳の取り方」をしているなあ、という感じでした。
私も最初に就職した会社を辞めた時、そう宣言して未経験の業種に飛び込み、随分とひどい目に遭ったのですが……でも、何とか生きています。
やりたいと思っても、できないことは、あります。
不自由さ、生きづらさを感じることはあります。
でも、やってみたらできたことも、あります。
「やりたいことをやって生きる」
私はギリギリ、間に合ったと思います。
ご主人が乗っていたような高性能なやつではないし、1台ウン千万みたいな高級車でもありません(先日「8台で1億8千万」と称する外車二輪車三輪車の連隊が来たそうです)。でも、私はこれと一緒に走ることが「やりたいこと」なので。私もやはり、生きる方に動いていきたいと思います。
そして、私の大好きな人がしにたいと言ったら、全力で引き止めます。落ち込んだり心がつらかったら、全力でサポートしたいです。気持ちが熱すぎて不器用で上手に伝えられなくて今はこんな感じで全然伝わらない場所から発信していますが。いつかちゃんと伝えられるように、今からこうして発信しておきます。
大好きです。
*
最後に、もうひとつ。
ご主人はその外車のことを「ベンベ」と言っていました。少し前にテレビでBMWのことを「ベンベ」という人がいる、と見ていたので、頭の中ですぐにBMWと変換できたのですが、それが本来なんだろうなと思いました。
そりゃあまあ、「ビーエムダブリュー」って英語読みすればいいと思いますよ(CMでもそう言ってるし)。一般的にはそう言わないと通じないでしょうし。でもそれをドイツ語風の発音で、それも話し言葉としても流暢で短く言うと「ベンベ」なんだろうな、と。変に「びーえむ」とかって略するよりもずっと格好いいです。私が言っても様にならないですけど、達人とか仙人とかが言うと渋いなあ、格好いいなあと思った小僧っ子の私でした。
若くあろう若くあろうと悪あがきしているのではなく、「気が付いたら70歳になってましたが何か?」という雰囲気のご主人ですから、たぶん100歳になっても変わらないような気がします。私も色々考える切っ掛けをもらえて楽しかったです。
ごちそうさまでした!
私は現実を受け入れることが苦手です。苦手どころか苦痛です。本来であれば一生物語の中で生きたいと思う人間です。
世のため人のために活動している人を見て、「自分も社会に参加しなくちゃ!」と思って立ち上がることはあります。実際にそうしてきました。そして疲れて引きこもってしまいます。その繰り返しです。
私にないものをもっている人たちに強く惹かれるというのは人間の心理ですから、仕方がありません。内向的感情型の私ですから、理路整然とした言葉で世の中に打って出る人に心底共感して感情を爆発させてしまうのは自然の摂理だと思います。ただ自分の気質と違うからやがて無理が来てしまう。そういうことなのです。
そんなことを40年以上生きている間に何度も何度も繰り返せば、だんだんとその振り幅も大きくなってきます。そして、ある程度調整もきくようになってきました。振り幅が大きいということはどちらにしてもダメージが大きいということでもあるので、半年SNSやって疲れ果ててまたブログに回帰しているのですが、これも経験です。回復不能なレベルではないと思うので、何とか時間をかけて心をいやすこととします。
やはり、物語の世界は心地いいんですよね。
そして、そういう世界に居ながら一応現実を生きている人たちのことを、本を通じてたくさん知ったので、私も無理して社会活動に執心することもないんじゃないかな! という気がしてきました。
私は文学者でも何でもないので、最低限度生きていくためのことはします。そのために世の中と関わることはします。ただ、可能な限りそれ以外の時間は自分の世界に引きこもっていてもいいじゃないか。そういうふうにシフトすることにします。誰に分かってもらえなくてもいい。ただ私が一番良いと思うものを追求しそれを生きていく。それでいいじゃないか。
そういうのを追いかけ続けて、ある一定のカリテに到達した時、きっとSNSの世界に復帰できるのだと思います。流行を追い求め流行に乗っかる人たちばかりの世界で、誰にも顧みられることない内容の投稿ばかりする奇人として。いいんです、それが理想ですから。たまにはそういう人がいたっていいじゃないですか。多様性の世界なんですから。
世のため人のために活動している人を見て、「自分も社会に参加しなくちゃ!」と思って立ち上がることはあります。実際にそうしてきました。そして疲れて引きこもってしまいます。その繰り返しです。
私にないものをもっている人たちに強く惹かれるというのは人間の心理ですから、仕方がありません。内向的感情型の私ですから、理路整然とした言葉で世の中に打って出る人に心底共感して感情を爆発させてしまうのは自然の摂理だと思います。ただ自分の気質と違うからやがて無理が来てしまう。そういうことなのです。
そんなことを40年以上生きている間に何度も何度も繰り返せば、だんだんとその振り幅も大きくなってきます。そして、ある程度調整もきくようになってきました。振り幅が大きいということはどちらにしてもダメージが大きいということでもあるので、半年SNSやって疲れ果ててまたブログに回帰しているのですが、これも経験です。回復不能なレベルではないと思うので、何とか時間をかけて心をいやすこととします。
やはり、物語の世界は心地いいんですよね。
そして、そういう世界に居ながら一応現実を生きている人たちのことを、本を通じてたくさん知ったので、私も無理して社会活動に執心することもないんじゃないかな! という気がしてきました。
私は文学者でも何でもないので、最低限度生きていくためのことはします。そのために世の中と関わることはします。ただ、可能な限りそれ以外の時間は自分の世界に引きこもっていてもいいじゃないか。そういうふうにシフトすることにします。誰に分かってもらえなくてもいい。ただ私が一番良いと思うものを追求しそれを生きていく。それでいいじゃないか。
そういうのを追いかけ続けて、ある一定のカリテに到達した時、きっとSNSの世界に復帰できるのだと思います。流行を追い求め流行に乗っかる人たちばかりの世界で、誰にも顧みられることない内容の投稿ばかりする奇人として。いいんです、それが理想ですから。たまにはそういう人がいたっていいじゃないですか。多様性の世界なんですから。
SNSで思い切り世界を広がったのは事実ですが、広すぎて手に負えなくなってしまったのも事実です。元々そんなにポンポンと言葉が出てくるようなタイプじゃないし、そもそも内向的な人間だし。毎日毎日SNSで誰かとつながるのは楽しいですが、悲しいかな、私のキャパシティをちょっと超えてしまったようなのです。
それで今度は思い切り深堀してやろうと思って、またこのブログを再開しました。今は『森茉莉』さんの本を集中して読んでいます。
とっても上品で、その感覚を生涯持ち続けた茉莉さんは半ば神話的なひとだと思います。だからそれに対して群ようこさんが『贅沢貧乏のマリア』で好き放題に批評するのも、そんなに悪い気がしないのです。全面的に群ようこさんの言葉に「そうかな!」とうなずくわけではありませんが、「まあ、そうだよねえ」と言いながら読んでいます。
私はあくまで認識者、受信者ですから、詳しい批評はしません。ただ読んで面白がる。それでよいのです。批評はしません。でも感想は書きます。それは読者の権利だと思うので。
好きなものだけ読んで生きていきたい。感情家は偏食家なんです。
追記。今朝読み始めてもう読み終わりました。2時間弱くらいで読み終えてしまうとは…。うん、面白かったです。「そうだよねえ」半分「そんなものかね」半分です。こんなもんでしょうね。
大体にして、100パーセント全身全霊で大好きって言うのは危険なんですよ。その人みたいになりたい! むしろ私はその人と同じだ! つって日常生活に支障が出るんですから。このくらいがちょうどいいのです。
それで今度は思い切り深堀してやろうと思って、またこのブログを再開しました。今は『森茉莉』さんの本を集中して読んでいます。
とっても上品で、その感覚を生涯持ち続けた茉莉さんは半ば神話的なひとだと思います。だからそれに対して群ようこさんが『贅沢貧乏のマリア』で好き放題に批評するのも、そんなに悪い気がしないのです。全面的に群ようこさんの言葉に「そうかな!」とうなずくわけではありませんが、「まあ、そうだよねえ」と言いながら読んでいます。
私はあくまで認識者、受信者ですから、詳しい批評はしません。ただ読んで面白がる。それでよいのです。批評はしません。でも感想は書きます。それは読者の権利だと思うので。
好きなものだけ読んで生きていきたい。感情家は偏食家なんです。
追記。今朝読み始めてもう読み終わりました。2時間弱くらいで読み終えてしまうとは…。うん、面白かったです。「そうだよねえ」半分「そんなものかね」半分です。こんなもんでしょうね。
大体にして、100パーセント全身全霊で大好きって言うのは危険なんですよ。その人みたいになりたい! むしろ私はその人と同じだ! つって日常生活に支障が出るんですから。このくらいがちょうどいいのです。
もう一年以上病院にも通っていないしコンサータ(向精神薬)も飲んでいないので、個人的にはそれほどこだわりはないのですが、私は発達障がいです。ついでに自閉スペクトラム症です。だから健常者、定型発達者とは違うことは、わかっています。
ただ障碍者手帳は交付してもらえなかったし、今じゃ通院もやめてしまったので、今まさにADHDやASDで苦しんでいる人たちからしてみれば、「ふつうの人」のように見えるでしょう。
健常者とも障がい者とも言えない心。ついでに言えば、男性とも女性ともつかない心。健常者とも障がい者とも男性とも女性とも言えない私は何なのだろう…と考えれば考えるほどわからなくなってしまいます。
そして、わからなくなった果てにたどり着いたのは、「まあいいか」ってことです。ここでタイトルにもある「あっけらかん」という境地にたどり着きます。
だって私は私ですから。私以外私じゃないのですから。それでいいじゃないですか。
そうすれば今度は「回避性愛着障害」だと言われるかもしれませんが、そういうレッテルとか仕分けとかは他の誰かがすればいいです。
私は私です。障碍者手帳はありませんが診断書はもらったので間違いなくADHDでASDです。あと肉体的には男性でそれを受け入れていますが、心のなかでは完全に100%わずかな余地もなく男性であるとは思っていません。少しずつその比率は変わってきています。
ただ、私はそう言わないだけです。表に出さないだけです。どこまでも内向的、内面的な私を追求しこれを大事にしていきます。
「在りたい私」
大切にしたいです。

ただ障碍者手帳は交付してもらえなかったし、今じゃ通院もやめてしまったので、今まさにADHDやASDで苦しんでいる人たちからしてみれば、「ふつうの人」のように見えるでしょう。
健常者とも障がい者とも言えない心。ついでに言えば、男性とも女性ともつかない心。健常者とも障がい者とも男性とも女性とも言えない私は何なのだろう…と考えれば考えるほどわからなくなってしまいます。
そして、わからなくなった果てにたどり着いたのは、「まあいいか」ってことです。ここでタイトルにもある「あっけらかん」という境地にたどり着きます。
だって私は私ですから。私以外私じゃないのですから。それでいいじゃないですか。
そうすれば今度は「回避性愛着障害」だと言われるかもしれませんが、そういうレッテルとか仕分けとかは他の誰かがすればいいです。
私は私です。障碍者手帳はありませんが診断書はもらったので間違いなくADHDでASDです。あと肉体的には男性でそれを受け入れていますが、心のなかでは完全に100%わずかな余地もなく男性であるとは思っていません。少しずつその比率は変わってきています。
ただ、私はそう言わないだけです。表に出さないだけです。どこまでも内向的、内面的な私を追求しこれを大事にしていきます。
「在りたい私」
大切にしたいです。
ちょっと心が深刻なダメージで、Xを休止することにしました。
あくまでこれは一時的なものです。復帰を前提にした休止です。心が復調したらまた始めます。
で、その間はブログを書くことにします。
目標点としては、「世情に疎く、時勢に昏く」ですね。世の中の最新トレンドを皆がつぶやく世界で、私もそれに合わせて頑張ってみたのですが、思うようにいかないし。みんながつけてるハッシュタグをつけて自分もつぶやけばワッといいねが付くと思えばそんなことはないし。だったらもうやめよう! と思ったのですが、アカウント削除してしまえば、それこそ今までやってきたことが全部無駄になってしまうし。
そのうち、今は詳しく書けませんが(これからも?)、とにかく心が深刻で……
特にこのブログも、世の中に何かを訴えようとして書くわけではありません。ただ自分の考えを少しでも上手に文章で書きだすことができるようになるためのエチュードとして、日々とりとめのないことを書いていきたいと思います。
誰も見てくれなくてもいいです。でも、誰かが見てくださることを前提に書いています。
もし、もしも! こんなブログを見て少しでも興味を持っていただけるのであれば!……毎日書いていきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします!
あくまでこれは一時的なものです。復帰を前提にした休止です。心が復調したらまた始めます。
で、その間はブログを書くことにします。
目標点としては、「世情に疎く、時勢に昏く」ですね。世の中の最新トレンドを皆がつぶやく世界で、私もそれに合わせて頑張ってみたのですが、思うようにいかないし。みんながつけてるハッシュタグをつけて自分もつぶやけばワッといいねが付くと思えばそんなことはないし。だったらもうやめよう! と思ったのですが、アカウント削除してしまえば、それこそ今までやってきたことが全部無駄になってしまうし。
そのうち、今は詳しく書けませんが(これからも?)、とにかく心が深刻で……
特にこのブログも、世の中に何かを訴えようとして書くわけではありません。ただ自分の考えを少しでも上手に文章で書きだすことができるようになるためのエチュードとして、日々とりとめのないことを書いていきたいと思います。
誰も見てくれなくてもいいです。でも、誰かが見てくださることを前提に書いています。
もし、もしも! こんなブログを見て少しでも興味を持っていただけるのであれば!……毎日書いていきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします!