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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
順序がちょっと入れ替わってしまいましたが、これが100冊目の本でした。

 YA!ENTERTAINMENT というレーベルの本です。公式ホームページで見たところ、言うまでもなく非常に若い人たち向けのようですね。実際私が借りた図書館でも、子供向けコーナーの中にありました。

 それにもかかわらず今回図書館で借りてしまったのは、恥ずかしながら『表紙の女の子がかわいかったから』。まったくもって外道な理由であると思います。実際、非常に気にはなったものの、一度はスルーして帰りました。

 しかしながら、どうも気になって仕方がありません。気になる、きになる、キニナル……。

 何をしてもいまいち身が入らないので、だったらこちらから踏み込み一刀両断にしてやろう! ということになり、閉館間際のところで滑り込み借りてきた次第です。なお、私が一目ぼれしたのは3巻目でした。そして3巻目は戻ってくると誰かに借りられていたので、ひとまず1巻と2巻を借りてきました。なお、これと一緒に借りてきたのがこないだレビューを書いた平岩西遊記でした。


 主人公の飯塚有里は、中学のころはバドミントンをやっていました。しかしながら「そんな暇があったら勉強しろ」という家族からのプレッシャーにより途中でやめてしまったという過去がありました。

 それだけでなく、姉からは「スポーツなんかやって何になるの。オリンピックに出るわけじゃあるまいし」と冷たい言葉を浴びせられてしまいます。それで、

 「だったら、なってやろうじゃないの。オリンピックの選手に」

 と発起。学力的にもスポーツ的にもトップクラスの学校に入り、勉強にスポーツに一生懸命打ち込む……と、まあ、そんな感じの物語です。ちなみに1巻は入学から進級するところまでだったので、2巻は2年生編、3巻は3年生編のようです。


 若い人向けの本だから、3時間ほどで読み終えるだろう。そう思っていました。

 実際、そのくらいで読み終えたと思います。……ですが、なかなか読み始めることができませんでした。およそこういった青春を送ってこなかった(むしろ積極的に否定してきた)犬神にはちょっとまぶしすぎたのです。

 それでも、何とか1巻は読み終えました。

 うん、いいじゃないですか、飯塚有里。……馴れ合いではなくオリンピアンを目指すという目標を持っているためか、同級生となかなか打ち解けられずにいる辺りはちょっとハラハラしてしまいましたが。

 ほら、ボートは個人競技じゃなく団体競技だから、個人の能力はもちろん大事ですが、チームワークも大事ですからね。

 「モチベーションが高いのはいいことだが、もうちょっと、その……何とか、うまくやれんもんかね」

 まったく縁もゆかりもないオッサンの私ですが、そんなことを考えながら読んでいました。その結果どうなったかは、もちろんここでは書きませんが、犬神もまた飯塚有里の熱さに打たれ、「やってやろうじゃねえか」という気持ちになった次第です(何をやってやるのかは不明)。

 そんなわけで、現在は2巻目を読んでいます。飯塚有里も2年生に進級し、後輩が入ってきて、いよいよ主力選手として動き出す……といったところでしょうか。まだ50ページくらいしか読んでいないのでアレですが。


 最後はこの男のセリフで締めくくることにしましょう。



 やはり、熱さを持っている人が魅力的だと思うのです。私自身もそうありたいと思うのです。

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実はこれ、101冊目です。本当は100冊目に読んだ本のことを書くべきなんでしょうが、そのタイミングで『ダ・ヴィンチ』についての記事を書き、さらにこの101冊目を読み終えたところ、その物語の内容がすさまじく……なので順番をたがえても、この本のことについて書きたいと思います。

 なお、本作はフィクションであり、地名とかは実際にありますが、組織・人物などは架空のものです。ですが、これは『本の感想』なので、そのあたりは無視して思い入れたっぷりに書きます。なので実際の私自身の思想と異なる部分もあることを、おことわりしておきます。あと、あらすじについても結構、書いています。



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 表向きは会社の社長、しかしその実態は岩手最大・最古の暴力団の二次団体の組長である黒沢裕次郎。彼はかつて将来を嘱望されたスイマーだったものの、とある事件を起こしたことで表舞台から姿を消した過去があった。しかしながら、そんな彼が親友からの依頼により、スイミングクラブ同士の対抗戦に助っ人として出ることになる……と、まあ導入はそんな感じです。

 年齢は28歳で、きわめてハンサムで、表向きは会社の社長。しかも自宅にはトレーニング室もあり、常に身体を鍛えることに余念がない……となると、さしずめ『龍が如く3』の峯義孝のようなものでしょうか。もっとも性格はちょっと古風なところがある昔かたぎのヤクザで、義理人情に厚く堅気に迷惑をかけないことを信条にする熱血漢です。だからどちらかというと桐生さんの方に近いのかもしれません。

 実際、水泳だけでなく腕っ節もかなりのもので、堅気には手を出しませんが同業者、特に悪辣な手段で岩手を食い物にしようとする連中には一切容赦しません。そして物語の後半では、もっと過激な連中を相手に腕を振るうことになります。そのあたりも含めて桐生さんですね。
 
 『パラサイト・イブ』を読んだ時もそうだったんですが、中盤あたりから物語の勢いが急加速します。話がどんどん大きくなって、それにひるむことなく裕次郎もがんばるので、クライマックスでは日本中を巻き込んで? の大立ち回りとなります。このあたりはもはや娯楽100パーセント、ひたすら面白おかしくそして熱い雰囲気のまま駆け抜けエピローグへと突入します。


 私は堅気の人間なので、暴力団構成員の黒沢裕次郎を……表立って支持することはできません。ただ最近は堅気の人間の方がよほどタチが悪いんじゃないのか? と思うこともあります。少なくとも裕次郎は堅気を食い物にするような人物ではなく、むしろフロント企業の方で堅気の人たちを食わせるようなことをしています。困っている人や弱っている人がいたら(多少荒っぽいながらも)手を貸します。もちろん水泳で人助けもします。終盤には昭和残侠伝(ただし装備は日本刀+マカロフ拳銃)のような格好で悪党どもに挑みます。

 結局、職業とか見た目とかじゃなく、『何をするか』っていうことなんでしょうね。命をかけて誰かを守る。その行為には誰もが感動するはずです。そして、もちろん暴力団員になろうとは思わないまでも、人として男としてどう生きるべきか? そういうことを考えさせられるのです。

 ……な~んてマジメに考えている私を尻目に、裕さんはいつものようにマイペースで振舞っていることでしょうが。


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2013年は過去と向き合い、これを乗り越える年のようです。

 ……というと大仰な感じがしますが、そこは私ですから。ただ昔解けなかったゲームをクリアしたとか、読んでいなかった本を読んだとか、その程度のことです。

 で、昨日はそんな感じで「ダ・ヴィンチ」という雑誌を買いました。特集は……画業35年目に突入した高橋留美子先生特集で、表紙はラムでした。いやメガネ(アニメ版の登場人物)ふうに「ラムさん」というべきでしょうか。


 「うる星やつら」は私が初めて女の子を強く意識した漫画でした。中学1年生のころに出会ったのですが、当時は

 「こんなにかわいい女の子が出てくる漫画を読んでいることは、周りの連中に知られてはいけない」

 と思って、極秘裏にコミックスを買い集めました。当時はまだ「萌え」という言葉はなく、一般的に読まれていたのはジャンプやコロコロコミックなどといった少年誌でした。ちょっと背伸びした連中は『ヤングマガジン』とかを誇らしげに読んでいましたが、それでもこの手のふわふわした漫画を読んでいるやつはおらず、さながら隠れキリシタンのようにこっそりと読んでいました。


 一方『ダ・ヴィンチ』は大学の図書館でよく読んでいました。

 あまり自信はありませんが「書評雑誌」というコンセプトでいいんでしょうか。今世の中ではこういうのがはやってますよとか、それはこういうところがウケるからはやってるんですよとか、そういうのを紹介する雑誌です。……ですよね?

 そのころはすべてを理屈で受け止め、自分の中で整理整頓したいと考えていた時期だったので、非常に熱心に読みました。特に「少女漫画に関する分析」と「戦闘美少女に関する分析」については、当時の記事をコピーしたものを今もファイリングしています。あと町田康さんの特集記事とかも。ああ、それから爆笑問題の日本史原論が大好きで、笑いを押し殺しながら毎号楽しみに読んでいました。


 そういうわけで、相乗効果で一も二もなく飛びついた……というわけではありませんでした。

 まず私自身が、他人の意見を聞かない超頑固者になったこと。――という割には、ブログ・ホームページなどで誰かが書いた本の感想などにフムフムとうなずいたり、時にはその本を買うなり借りるなりして読むこともあるので、まったく聞かないというわけでもないのですが……少なくとも『はやってるから読む』とか、そういうことはしないですね。

 自分のセンサーに照らし合わせて、反応があれば読む。それを手にしたのが発売当日に平積みにされたものだったり、古本屋の店先にある一山100円のワゴンの中に放り投げられたものだったり、はたまた図書館の書庫の奥深くで30年来ずっと眠り続けているものだったり。まあシチュエーションは色々ありますが、いずれにしても読む本は『出会うべくして出会う』という思いがあるのです。

 あとは、その……『うる星やつら』が好きなのであって、高橋留美子先生の世界すべてが好きなわけではないからです。『めぞん一刻』とかは後ほど読んでみたいリストに入っていますが、『らんま1/2』とか『犬夜叉』とかにはハマれませんでした。それ以外の作品については、まあ読んでいないので良いも悪いもないのですが、少なくとも『うる星』を初めて見た時に感じたようなパッションを感じることができませんでした。

 高橋留美子先生の世界がいかにすばらしいものかは、知っている人は知っているし、知らない人は本誌を買っていただければわかると思うので書きませんが、今の私はその世界にいられるような人間ではないと感じました。

 それならわざわざ590円もだして本を買わなくてもいいようなものですが、今回は中学~大学時代の私の『落とし前』として買いました。たぶん、今後はもう買うことはないでしょう。

 でも、すごくライトに流行の本の魅力とかがわかる『ダ・ヴィンチ』いい雑誌だと思います。特に今号はラムさんが表紙で、背表紙は『めぞん一刻』(のソフトの紹介)ですからね。ファンならつい手が出てしまう一冊でしょう。そして手にしただけで「ラムさぁーーーん!」と千葉繁さんの声で叫ぶか、あるいは「響子さーん! 好きじゃーーー!」と叫ぶことでしょう(※ 近所迷惑です)。

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遠藤周作という作家は、正直なところ「こういう作風だ」とか「こういう感じの人だ」ということが語れるほど詳しくありません。せいぜい『イエスの生涯』を読んだことがあるくらいで、小説の類はまだ一度も読んだことがないのです。じゃあどんなイメージなのかといえば、こんなイメージなんです。

 

 決して茶化すわけではありませんが、とにかくこのイメージが真っ先に思いつくのです。あとはネスカフェゴールドブレンドの人のイメージ。

 それにもかかわらず今回借りてきたのも小説ではなくエッセイ。『狐狸庵閑談』というものです。これは『THIS IS 読売』という雑誌の1992年5月号~1994年4月号まで連載されたエッセイをまとめたもののようです。

 ひょっとしたら阿佐田哲也と色川武大みたいに分けて考えるべきなのかもしれませんが、とりあえず読みました。


 感想をざっくり申し上げると、とても面白かったです。

 何せ違いがわかる男ですからね。さぞかしインテリな思想の持ち主だと思ったのですが、本人は大の勉強嫌いであったと告白しています。そんなわけで、そんなものを遊び盛りの子供を塾に通わせるなどけしからん! と激怒しておられました。ちなみに私の場合は、ただの1度も塾というやつに通ったことがありませんでした。ついでに言えば試験勉強らしいことも、あまりやった記憶がありません。「どこそこの学校に入るために勉強する」のではなく、「今の学力では入れそうな学校に行く」というグータラ逆転発想野郎だだったのです。

 また、連載エッセイということもあって、時事的な内容も書いています。エリツィン政権になったロシアのこととか。私は小学生だったので世の中の動きなどは漠然としかわかりませんでしたが、30代になった今になればわかります。なるほど、こういう感じだったんだな~とかって。

 あと、狐狸庵先生は織田信長をあまり評価されていないんですよね。ズバリ『信長は天才だが、視野は狭かった』ためにいくつかドジをやり、最終的には取り返しのつかないドジをやってしまった、と。まあ連載エッセイのひとつに、そういう風に書いていただけなので、もしかしたらまた違った論評をされているかもしれませんが。ともかく「そういう見方もあるんだな」と思いました。私自身の視野が少し広がった気がします。

 さて、そんなわけで狐狸庵先生のエッセイはとても面白いのですが、遠藤先生は小説家ですからね。攻め手一冊でもいいから、有名どころを読まないといけませんわな。『沈黙』ですか。『海と毒薬』ですか。何を読むかはわかりませんが、後ほど「これは!」という一冊にめぐり合えることを期待したいと思います。

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 というわけで、『西遊記』を読みました。

 正確には、平岩弓枝先生が以前に毎日新聞で連載していた版の『西遊記』を読みました。

 何せ媒体(アニメ、マンガ、ドラマ)によってものすごいアレンジを施される物語だけに、これをもって『西遊記』のすべてを知った、というつもりは毛頭ありませんが、それでも基礎はクリアした、といってもいいのではないでしょうか。


 唐の太宗皇帝から、天竺に行ってありがたいお経を取ってくるよう言われた三蔵法師が、道々で3人の弟子と出会い、様々な困難を乗り越え成長しつつ旅を続ける。そういう話です。

 さしあたってこれは平岩西遊記の感想となりますが、なんとも心温まる場面がたくさんあります。基本的に悟空は(最初は)「ぶっ殺してやる」が口癖の荒くれ者で、そのために何回かホーム(花果山)に帰ってしまう場面がありますが、それでも三蔵法師も、あと神仙の世界に住む人たちも、悟空を優しくなだめます。お経を唱えると頭をギリギリとしめつける「きんこ」もあるにはありますが、それをもって無理やり従えるという場面はほとんどありません。

 ……いや、もっと言えば、「これはこういうものだよ」というのを教えるためにやった時以外には、記憶にありません。三蔵法師自身も、できるだけこれは使いたくないという気持ちのようです。何より中盤以降は、悟空自身が三蔵法師のことを心配し、自発的に動きまくるので、必要ないんですよね。

 また、最初はプライドが高くていけ好かないキャラだった猪八戒もだんだんと融通が利くようになりました。沙悟浄は……天界でも、追放されて人界に下りてきた後も、色々と地道にがんばってきた苦労人なのでね。最初からそれほど悪いキャラではなかったので、特に『変わった』という印象はないんですけどね。

 そんなわけで、折々に差し込まれる挿絵も手伝い、たっぷり楽しめました。平岩弓枝という名前は「なんとなく、聞いたことがある」というレベルでしたが、これで『読んだことがある』というレベルに進化しました。さて平岩先生といえば『御宿かわせみ』というのが代表作らしいのですが、これも機会があれば読んでみたいと思います。


 ちなみに、今年の2月から読んだ本のタイトルをテキストファイルに保存しているのですが、この西遊記の下巻で98冊目となりました。図書館で一緒に借りてきた本はあと3冊。ということは、いよいよ『100冊』の大台に乗せる時が来たということですね。……まあ、その中には『魔女の宅急便』などの児童文学が含まれているのですが……。

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『帝都物語異録』という本を読みました。

 これは荒俣先生が監修した本ですが、いわゆる『帝都物語の解説書』とは少し違います。魔術・妖術などをテーマにその手の専門家たちが・・・どちらかというと現実世界にいる人たちを取り上げた話がいくつか入ったものです。直接的に物語の解説をするページばかりではないのですが、『帝都物語』の世界をより深く理解することができると思います。そしてフィクションとノンフィクションの境目が言い意味であやふやになってしまいます。

 あとは、これは個人的なことなんですが、いきなり種村季弘・澁澤龍彦といった名前が出てきた時はギョッとしてしまいました。先日書いたように、澁澤龍彦という名前は、ある意味では神聖な響きをもっていますから。

 両氏からはいろいろとオカルト・魔術的な話を聞かせてもらったということですが、その内容がアート的、文学的な世界での話だったので、「高等遊民的なところ」に消化不良を感じてしまった・・・ということでした。

 私は荒俣先生も澁澤さんも大好きなので、両氏の間にそういった交流があったことに驚きと(なぜか)うれしさを感じるところですが、その一方で「なるほど、それで荒俣先生は、さらに踏み込んだ世界に行ったのだな・・・」と息を呑みました。アートの世界や文学の世界だけではなく、実際に世界をひっくり返すくらいの魔術。それが『帝都物語』の中で思いっきり開花したわけですね。


 ということを書きましたが、私が本当に言いたいのは、別にどちらがいいとかそうじゃないとか、そういうことではありません。

 「どっちもいい、どっちも好き、どっちも面白い」

 自分はそういうワガママを言える立場にあるのだな、ということを確認したかったのです。

 私はアマチュアですし、知識もなければ読解力も少々怪しいものですからね。たくさん本を読んでも、その内容をきちんと理解している・・・自信がありません。たとえばこの場で何か文学論をぶち上げたとしても、それが中学生の読書感想文以下だったりする・・・かもしれません。

 でも、お金を払ってそういう創作物を読む側の人間だからこそ、ちょっとヘンテコな解釈をしても許してほしいと思うのです。


 ……一応、言い訳をしておきます。私がこういった考え方にいたったのは、中学生のころに読んだオーケンさんこと大槻ケンヂさんのエッセー『SR311』のおかげです。

 今でこそ色々なものにツッコミを入れながら見るスタイルは一般的なのかもしれませんが、96年当時の私にとっては非常に新鮮でした。江戸川乱歩の短編『人間椅子』の主人公に対しては「コラ。そんなことしている暇があったら働け!」と断罪する一方、『あの娘の名前はなんてんかな』という歌でマネキン人形とは知らずに声をかけ続ける故・坂本九さんを「九ちゃん大丈夫か!?」と心配したりしています。あげくのはてには浜田麻里さんの『All Night PARTY』という歌の冒頭に出てくる「いかれた奴ら」をドリフのバカ兄弟のようなものと想像し、阿鼻叫喚の有様を散々イメージした後で「叫ばんでもとっくに狂ってる」と結論付けています。

 「これは面白い!」

 以来、そういったヘンテコな考え方をするようになってしまったのです。

 でも、ただ突っ込んで終わりというわけではありません。それでは使い捨て、ただの消費です。オーケンさんも、ちゃんと正しい解釈? をすればこういうことなんだけど・・・という前提で、あえてヘンテコな読み方をして楽しんでいるわけですから。どこまでも真摯に向き合い、ちゃんと理解する努力は必要であると思います。


 なんか、妙な話になってしまいました。私自身、自分の考えを上手にまとめきれていないので、これに関するツッコミは無用とさせていただきます。ただ言いたいことは、『物事は、色々な見方がある』ということ。これはオーケンさんの本でも大学の講義でも学んだ、私の最重要人生哲学です。

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消える書店:ネットに負け相次ぎ閉店 地域中核店も(10/23 毎日新聞)

 しばらく前から、本に関しては極力、本屋で買うようにしています。

 確かにAmazonで注文すれば、極端な話、自宅から一歩も出ることなく手元に本が届くわけですからね。欲しいものが欲しいだけ確実に手に入る。こと利便性を思えば、本屋が消えていくのは時代の流れなのかもしれません。

 ただ、「時代の流れ」で片付けられるほど、私の本屋に対する思いはヤワじゃないんです。

 本屋というのは、かつての私にとってゲーセンと同じくらい重要な、そして大好きな場所でした。いや、過去形じゃなくて現在進行形で大好きな場所なんです。


 古い人間なのかもしれません。やはり本は実際に手に取りたいと思うのです。そしてお店が許してくれるのなら、最初の方をちょこっと立ち読みして、「これは!」という衝撃を受けて、レジに持っていく行程を味わいたいのです。

 あとは、これが本屋の楽しみなんですが、通常まじわることのないような世界の本も見ることができるのが楽しいんですよね。その気があれば平積みされた児童書を眺めてしみじみすることもできるし、少女漫画の表紙に「うん?」と立ち止まることもできる。さらにいえば軍事専門誌のコーナーにアニメちっくな女の子の姿を見つけて2~3度通りすがった後にどうしても看過できず「お前はどこのワカメじゃ」と故・石立鉄男氏の物まねをしつつ手に取る、なんていうこともできたりするわけです。

 こうしていると、まったく思いがけない出会いがあり、そこから一気に世界が広がったりすることもあるのでね。こういうのも、人間自身のセンスを磨くチャンスでもあるのかな、と思うのです。振り返れば高校生のころ、『カードキャプターさくら』を買ったきっかけも、こうして本屋で立ち読みをしたのがきっかけでした。


 「皆さん、本屋さんで本を買ってください。そうしないと町から本屋がなくなります」(海文堂書店、福岡店長)

 最後の最後まで、私は本屋さんを愛し、通い続けます。・・・店頭に並んでなかったら、注文すればいいのだし。1週間でも1ヶ月でも待ちますよ私は。待つわいつまでも待つわですよ(古いなあ)。

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「澁澤龍彦画廊」という本を読みました。

 澁澤龍彦という名前に惹かれて、先日書いたプロレス本といっしょに借りてきたのですが、どうやらこれは1995年に日動画廊というところで開催されたイベントにあわせて出版されたもののようです。中身はその展覧会で出された作品の写真と、何人かのエッセーです。

 ・・・ということでいいと思うんですが、どうでしょうか。あまり自信がありませんが、私はそう受け止めました。


 一応、私も高校生のころに、たまたま立ち寄った古書店で文庫版の著書を数冊買い求め、その勢いでサドの翻訳なんかも読んだクチなのですが、やはりまだまだだな、と思うのです。「私と澁澤龍彦」なんて文章は、恐れ多くて書けないな、と思うのです。

 だから、これはあくまでも、澁澤龍彦関連の本を一冊読みました。それだけのことです。


 それでも、私自身のために書いておきたいことなのですが、私もまた澁澤龍彦という人の言葉や思想に触れ、趣味や行動理念に大きな影響を受けた人間のひとりであると思うのです。一時期、離れていたこともありましたが、やはり私にとっては重要なポジションを占めているというか・・・まあシンプルに言えば、大好きな作家なんです。それだけに、今後も、もっともっと読まなければイカンなと思った今日この頃です。

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『ケロのスーパープロレス天国』という本を読みました。これは渋民図書館から借りてきたものです。

 ケロというのは、かつて新日本プロレスでリングアナをやっていた田中秀和さんのことで、内容としてはリングアナウンサーの立場から見た巡業中のレスラーたちの日常を書きとめた旅日記といった形式です。なにやらこれで6冊目だといいます。

 年代としては1994年ごろのようです。私が本格的にプロレスに入り込んだのは2008年ごろですから、あまり詳しくはないのですが・・・さしあたって新鮮だったのは、蝶野さんがまだ黒くなる前だっていうことですね。それに、現在『第三世代』と言われている人たちがまだヤングライオンと呼ばれていること。小島さんはホテルのビデオ代が高いとボヤき(今ならカードで買うような大人向けのものだとケロさんは推測している)、中西さんはイベントの司会者の女性をタクシーの中でず~っと口説き、永田さんは・・・と言った具合に、ちらほらと名前が出てきます。

 あとは、いまや口に出すのもはばかられる『JJジャックス』も現役でした。今の『クレイジー坊主』以前の飯塚さんって、ぜんぜんイメージできない・・・黒くない蝶野さんもそうですけど。

 まあ大半は『破壊王』橋本真也さんの豪快エピソードなんですけどね。よく食べよく寝てよく回りに迷惑をかけて(イビキがうるさい、など)・・・。


 ひとつ印象に残ったのは、いまや国会議員となった馳センセーのジャイアントスイングについて。自分にもダメージがあり、一度もフォールを奪ったことのないジャイアントスイング。そんな風に言われていました。・・・まさかリングアナが、そういうことを言うとは・・・確かにそうだったかもしれませんが・・・。

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山岡荘八『徳川家康』18巻、読了しました。

 弟者からもらった本はここでいったん区切りとなります。なぜか次が21巻、22巻となっているためです。

 即座に図書館に行って続きを借りて読めばいいのかもしれませんが、何せここまで18冊も読んできましたからね。小説の中でも『天下分け目』と言われた関が原の戦いが終結し、一時的な平和が訪れましたからね。私も少々違う世界や漫画の方にシフトしていこうかなと思っています。もちろん、いずれは図書館で借りるなり何なりして、全部読む予定ではありますが、とりあえず・・・ね。


 それにしても、まあ、よくもここまでひとつの物語を読み続けてこられたものです。上下2段で印刷された、一冊あたり300ページそこそこの厚さの本を18冊。もちろん内容がとても面白いから読み続けてこられたわけですが。正直なところこれがトルストイとかドストエフスキーとかだと、どうも読める自信がありません(まあ、これも全然読んだことがないからであって、読み始めれば案外いけるかもしれませんが)。

 読んだ感想を一言で表すことはできません。一言どころか百万言でも足りないかもしれません。・・・それでも無理にあらわすとすれば、この本を読むことで、私の人生観が大きく変わった気がします。具体的にどう変わったかをあげ連ねることはしませんが、何かを思ったり行ったりする時に、「この時、家康公ならどうするかな」なんてことを考えるようになったのです。

 まったくもって私は凡愚極まりない小人ではありますが、・・・あるいは、だからこそ、でしょうか。熟慮に熟慮を重ね、時に『古だぬき』 『極悪人』 などとさげすまれるような采配の先に、ひたすら天下泰平を求めた家康公に少しでも近づきたいと思っているのです。


 *


 この本を読んでいる間、ずっと前からやりたかった『戦国無双2』を買ったのですが、どうもアクションゲームが下手になっているような気がします。これは技術的な問題よりも心構えの問題だと思います。戦い自体をそれほど好まない性格になってしまったようです。

 無論、乱れきった当時の世の中では、戦争も必要だったと思います。(18巻時点で)一番新しい戦いである関が原の戦いの時も、戦場に立った内府殿は若かりしころと変わらぬ軍略で見事に東軍を勝利に導きましたし。・・・ただ・・・好むか好まないかといえば、好まない性格になってしまいました。

 そういった思想を持って、私は2013年を生きています。

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巨星堕つ。

 ・・・『徳川家康』15冊目、読み終わりました。

 これはあくまでも、その時代から400年以上経った21世紀に、まったくかかわりのない立場から、しかも山岡荘八先生の小説を読むという形で触れた上での感想でありますが、やはりどこまでも豊臣秀吉と言う人は・・・不世出の人であったと思うのです。

 清洲の庶民レベルから這い上がり、天下人まで上り詰めたのも秀吉であれば、無謀な海外出兵や女子供にも容赦のない処断の嵐を吹き荒らしたのも秀吉。単純に好き好き大好きとは言えませんが、猿太閤とか老醜老害とかと卑下することもできません。

 ひたすらに天下のためと駆け抜けた秀吉公でさえ、晩年には秀頼のこと、ひいては自分の家のことを思い煩うような、ひとりの父親になってしまうのだ・・・と、しみじみ感じたのでした。

 やはり日吉丸改め木下藤吉郎改め羽柴秀吉改め豊臣秀吉。すばらしい人であります。

 
 その一方で、何かと重苦しい・・・いや、重厚な雰囲気を貫く本編にあって、からりとさわやかな新風を吹き込むような男がいます。その名は納屋助左衛門・・・通称『呂宋(ルソン)助左衛門』です。太閤立志伝5でも主人公の一人としてプレイすることができる堺の豪商です。

 基本的にこの物語は内府家康公が(三方が原の戦いで大敗北を喫したあたりから)思慮深く慎重な性格であるため、血気にはやる家臣をじっくり諭すような場面が多く、ひいては物語自体もどっしりとした雰囲気なのですが、そんな中にあってこの男は豪放磊落を絵に描いたような性格をしています。

 何せこの男の夢は、海外に『日本人町』を作ること。もちろんそれは軍事的な侵略拠点ではなく商業拠点としての日本人町です。そして平和な時代が訪れた後に職にあぶれた浪人たちを片っ端から雇用しようという野望を抱いているんですね。そして、そのためにルソンなどと海外貿易を繰り返して巨万の富を築いている・・・というわけです。

 まあ、石田治部どのあたりはその大野望が理解できないのか、はたまたやっかんでいるだけなのかわかりませんが、難癖をつけてひっとらえようとします。ところがそこでも一歩先をいっているのがこの男で、その時には大事なものをすべて船に乗せ、持ち出せないもの(聚楽第もかくやといわんばかりの豪邸など)は処分して、役人が手入れに行った時にはもぬけの殻だった・・・というわけです。

  痛快この上ない、と言わざるを得ません。史実の助左衛門は後にルソンからカンボジアに渡り、そこでまたひと財産築いたと言われますが、ある意味ではどの戦国武将よりも豪快でビッグな生き方であったと思います。本当に、気持ちのいい男でした。・・・って、この後もしかしたら、出てくるかもしれませんが。

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仮面ライダーフォーゼふうに一文字ずつ中黒を入れてみましたが、ええ、豊臣秀次の話です。

 『徳川家康』(山岡荘八)も15冊目に突入。1度目の朝鮮出兵が何とかまとまるかな? という時期です(その後どうなったかは・・・まあ、書かれていくことでしょうが)。

 国内では茶々(淀君)が子を産み、めでたい空気もある一方で、不穏な話もあります。それが秀次です。

 実子のない秀吉の後継者とされたものの、一族郎党まとめて処断された・・・というのが歴史上の事実。そしてその理由については様々な乱暴狼藉悪逆非道をとがめられたため、といわれていますが、一方で、「本当は実子を継がせたい秀吉の陰謀によって処断されたんじゃないの」という話もあるようです。

 どっちがどうなのかは・・・まあ、置いておくことにします。うかつにネットで調べると、「時の権力者によって隠蔽された歴史の真実」のようなものを自身のブログで公開しているような正義と真実の使徒(by多羅尾伴内)の語る話にぶつかり、



 となってしまうからです。それにこのブログは小説の豊臣秀次の話ですから。


 作中では、まだ読み始めたばかりなのでアレですが、う~む・・・悪い人じゃないけれど、小さい人として描かれています。ちょっとしたことで腹を立てて、三十人からの侍女たちに八つ当たりをするとか。あと、太閤が自分を手打ちにしようとしてるんじゃないか、という噂話を恐れたりとか。

 周囲の噂話や家臣(どさくさにまぎれて成り上がろうとする野心100の連中)たちに翻弄されて、やがてその時を迎えるのかな・・・と、『その時歴史が動いた』みたいな気分で読み進めています。

 「どうして昔のように、何も気にせず太閤と話ができぬのじゃ」

 涙ながらにそう語る秀次のパートでは、私もちょっと泣きそうになりました。

 秀吉も秀次も、生まれながらの極悪人ではないのです。同じように、派手好きで『人をビックリさせること』が大好きな人なのです。ただ叔父の秀吉が、一般人10万人分くらいの才気をもって駆け抜けてきた人なので、相対的に秀次の方がダメダメに見えてしまうのかな・・・というのが私の印象。だからと言って、積極的に付き合いたいわけではありませんが。

 そんな感じで、また読みます。さしあたって18巻(関が原の戦いのあたり)までしか、ありませんが。

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ここ1ヶ月ばかり、山岡荘八の『徳川家康』を読んでいます。

 上下二段組で、全26巻。間違いなく私の人生でもっとも長い小説です。これ以上長い物語は宇宙英雄ローダンシリーズぐらいしか知りません。

 物語は神君家康公が生まれる少し前から始まり、たぶん亡くなる時まで続くのでしょうが、今は九州平定~小田原攻めのあたりです。巻数で言えば、12巻をちょうど読み終えたところです。


 思ったことはたくさんありますが、多くは言いません。

 思ったことや感じたことを、どんな風に書き出そうかとあれこれ思案しているうちに、「別にわざわざ語るほどのことでもない」と思ってしまうからです。

 また、あまり自分は語ることが上手でないし、それでいいような気がするからです。


 そういう人にあこがれている、というのもあるのです。

 特に印象に残っているのは、時流に抗い、自らの意地を貫き通すために死んだ柴田勝家。秀吉とも仲のいい前田利家が間に入って何とかとりなそうとしたものの、あえてそれを拒み、武士として死んだその生き方。それは以前に読んだ『天を衝く』の九戸政実公や、それから250年ぐらい後の時代に盛岡藩の家老として戦った楢山佐渡公、さらにはトシさんこと土方歳三と重なります(トシさんの意地についてはこちらを参照)。

 私自身がそういう人生を貫き通せるかと言うと、まったく自信はありません。どんな状況にあっても「生きてこそ」が信条ですから。たとい人質になろうと「三河の宿無し」と陰口を叩かれようと馬上で焼き味噌をアレしようと(詳細は「三方が原の戦い」で検索)自分のため、自分を信じてついてきてくれる人たちのためにあの手この手を尽くす家康公が好きです。


 おまけ:今週の最先端

 久々に帰ってきた弟者がツイッターとかラインとか、そういうのを当たり前のように使いこなしているのに驚愕した私。かつて「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ♪」なんて歌って一世を風靡した人がいましたが、今の時代は言いたいことを何でも言える時代のようですね。

 でも、私のように、そもそも言いたいことがあんまりないような人間では使いこなせそうにないですね。ツイッターも以前やったことがありますが(自分のホームページの宣伝のため)2回ほどでやめてしまったし。不言実行とか、そういうのはいまどきはやらないのかもしれませんが・・・それでも、私はそういう生き方を貫いてみたいと思います。そういうのがかっこいいと思うから。

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 『帝都物語』を読みました。

 漫画を読んだとか、映画を観たとか、そういうのはあったのですが、原作を読んだのは初めてでした。・・・とにかく長いので、なかなか手が出なかったのです。

 ただ、最近は本を読むことにも慣れてきたのでね。

 「女神転生が好きなのに帝都物語も読んでいないのでは片手落ちだ」

 そう思って、このたび図書館で豪華愛蔵版6冊(旧文庫版12冊に相当)を借りてきて、10日ほどかけてようやく読み終わりました。やっぱり、長かった・・・。

 とはいえ、とても面白かったです。これで私も東洋の呪術についてとか、平将門についてとか、そういったことについて語る最低限の資格が身についたというものです(?)。

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 『維新銃姫伝』を読みました。

 今は『人間 土方歳三――新撰組副長秘め語り』という本を読んでいます。

 どうして初期からのメンバーである永倉新八・原田左之助・斎藤一と別れなければならなかったのか。どうして近藤局長と別れなければならなかったのか。いつもそういうところに関心が行ってしまいます。関連書籍を読んでも、あまり詳しく書いていないからです。

 そのあたりを、じっくりと読み進めています。かなりゆっくりと読み進めています。


 これで、私の維新も終わるのかな。・・・今の政治家が言っているような維新じゃありませんよ。幕末小説を読むことが一段落、っていうことです。

 『幕末銃姫伝』に始まった私の回天。その後『竜馬がゆく』 『燃えよ剣』 『新撰組血風録』 『人斬り以蔵』 『果心居士の幻術(※)』 『北の士魂――楢山佐渡の生涯』 『壬生義士伝』 そして『維新銃姫伝』。

 時系列的には『維新銃姫伝』が最新となります。名前の通り維新後の話です。山本八重が新島八重になるあたりまでの話です。歴史上の出来事でいえば、紀尾井坂の変が起こったあたりです。ええ、世間一般で言うほうの『維新三傑』の最後の一人、大久保利通が暗殺される事件です。


 一通り読んでみて感じたのは、やはり、それぞれに立場も違えば戦う理由も違うのだということ。

 要するに、モチベーションが違うんですよね。

 あまり詳細な話はしませんが、奥羽越列藩同盟の人たちは「幕府のために、何が何でも薩長をコテンパンにしてやるぜ!」 という会津者や新撰組ほどの気持ちはなかったんじゃないかな、と思うのです。ご近所さん(会津藩)がひどい目に遭いそうだから何とかとりなそうとしたら難癖をつけられて、それでやむなく参戦した、と。

 だから土方さんが仙台に来て、

 「オレがリーダーになったら、オレの言うことは何でも聞いてね。言うこと聞かないやつは誰でも斬るから」

 と言われても、「う~ん・・・」となっちゃうのは仕方がないと思うのです。歳さん、そいつは無理ってもんですよ。そんな感じです。
  

 そんな感じで、私の明治維新は終わりました。

 これまでは、まるで自分がその時代に生きているような気分で読んでいたのですが、今後は過去を回想するような気分で読むことになると思います。そういうことができるだけの知識がついたというか、気持ちの整理がついたというか。

 たくさんの思想がぶつかり合い、たくさんの刃や銃弾が飛び交い、たくさんの血が流れた時代。

 それから百何十年も経過した2013年に生きる私は、立場にかかわらず、自分にとって有意義と感じる思想をツマミ食いしています。

 坂本竜馬の現実主義。土方歳三の理想主義。楢山佐渡の温情主義(?)。山本八重の情熱主義(??)。それを全部まぜっこにしようとすれば、いかにも中途半端なものになるかもしれませんが、私はそれでいいんです。だって、ここまで本を読むようになったきっかけの一冊が、河合隼雄先生の『ユング心理学入門』でしたから。人の心はあいまいであやふやで多面的なもの――相反する感情が共有できる器――そう考えていますから。




 (※ これは神代や戦国時代の話をも含む短編集ですが、いくつか新撰組ものも含まれているので)

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 たまたま立ち寄った本屋にあった、藤本ひとみ先生の『維新銃姫伝』をきっかけに幕末小説ばかり読んでいる私。正確には、これより少し前の時代(会津戦争のあたりまで)を描いた『幕末銃姫伝』が最初に読んだ本なのですが。

 以来『竜馬がゆく』 『燃えよ剣』の2大長編を読破、さらに『人斬り以蔵』 『新撰組血風録』などの短編もかじり、つい先日までは『北の士魂‐楢山佐渡の生涯』という本を読みました。当時の盛岡藩の家老です。

 『維新三傑』という言葉があります。…ありますと言ったものの、具体的に誰なのかは、今この記事を書きながら調べています。ああ木戸孝允、西郷 隆盛、大久保利通ですか。まあ多分そうなんでしょうけど、私の三傑は『坂本竜馬』『土方歳三』『楢山佐渡』の3人です。

 まあ、詳しくは言いませんが、とにかく今の私はこの3人の存在が心の支えです。誰もが好きなことを書き散らかすことができるのがインターネットの世界ですから、見ていると「ウムム・・・」と苦りながらも納得せざるを得ない批判的な言葉や「何をこの」と突っかかりたくなるような言葉も飛び交っています。そのひとつひとつを糾弾するつもりはありません。案外そういうことを言っている人のほうが正しいのかもしれないからです。

 でも、いいんです。誰がなんと言おうが、私にとってはこの3人がヒーローです。あとはここに山本(新島)八重と岡田以蔵が入ります。さらに勝海舟も入りますが、こうなると戦隊物のようになってしまうので(勝海舟は長官役か)、やはり3人に絞ることにしましょう。


 そんな私がこれから読もうとしているのは『壬生義士伝』。どういう結末になるのかは知っているのですが、とりあえず自分の目でそれを見届けたい。そう思います。

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 『燃えよ剣』での土方歳三は、自分の理想とするものを作るために自分にも他人にも厳しい『鬼の副長』として描かれておりますが、時としてその厳しさは近藤局長に向けられることもあります。

 


 そんなころ、歳三の眼からみればじつにばかばかしいことが、おこった。
 この年、ちょうど年号がかわって慶応元年の正月のことだが、歳三は大坂へ出張した。
 (中略)
 廊下を、近藤がゆく。
 なんと、顔を真白にぬたくって、公卿も顔負けの化粧をしているのである。
 (野郎、とうとう気がくるいやがったか)
 (中略)
 「どうしたんだ」
 「これか」
 近藤はにこりともせずに自分の顔を指さし、
 「ほとがらよ」
 (畜生。……)
 歳三はこわい顔ですわった。京都では、化粧のことをほとがらとでもいうのだろう。
 「きょうは、はっきりというがね。お前さんは近頃料簡がおかしかねえか」
 歳三は、沖田にいったようなことを、ずけずけといい、
 「人問、栄誉の座にのぼるとざまァなくなるというが、お前さんがそうだね。おれはお前さんをそんな薄っ気味のわるい白首の化物にするために、京へのぼったんじゃないよ」
 「歳、言葉をつつしめ。おらァ、おめえの多摩の地言葉でまくしたてられると、頭がいたくなってくる」

 


 ほとがら、というのはフォトグラフのことです。当時、禁裏御守衛総督という肩書きだった一橋慶喜が写真大好きだったこともあり、とにかく大名をつかまえては写真を撮らせていて、近藤局長もその対象になったってわけですね。
 
 それが、よく見るあの写真なのでしょうが、当時は露光にものすごい時間がかかったため、さすがの近藤局長も表情がかたくなってしまいました。

 「歳三は、ばかばかしくなった。京都政界の大立物になった近藤の写真は、これで永久に残るだろう。息をつめて、それがために悪鬼のような形相になっている近藤の写真が。」

 土方さんはそういうのが嫌で、この時は写真を撮りませんでしたが、後にあの洋装写真を撮ったのは皆様ご存知の通りです。

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 佐藤洋太『不良ボクサー母校へ帰る』を読みました。

 これはWBC世界スーパーフライ級王者の佐藤洋太選手が昨年夏に著した、自叙伝です。口語に近い文章で書いているので、読みやすいです。


 洋太選手のことを詳しく知らない人もコレを読めばわかると思うのですが、いわゆる不良(と書いてヤンキーと読ませる)ではないんですよね。確かに中学生のころから染毛したりピアスをつけたりして、優良……ではないですが、自分から喧嘩を吹っかけるようなタイプではなかったみたいです。目立つせいかよく先輩から殴られまくったそうですが(これがボクシングを本格的にやる原動力となった)。

 要するに派手好きの目立ちたがりなんです。だからタトゥーも入れたりしてますけど、これにしたって大学を中退して盛岡で定まらない生活を送っていた頃に入れたみたいだし。見た目は派手でそれらしい雰囲気をしていますが、字面どおりの『不良ボクサー』ではないんです。そのあたりをもっと理解してもらいたいですね。


 あと、面白いなと思ったのは、メンタルの話。洋太選手は「スイッチを切る」と表現していますが、要するに試合中はすごく冷静に戦っているみたいなんですね。練習の時はもちろんスパーリングを尋常じゃないくらいたくさんこなし、アレコレと激しく動き回るそうなんですが、そうじゃない時は冷静な気持ちで。そうすると相手のパンチも見えるし、自分のペースで戦えるのだそうです。

 このあたりは、平直行さんの感覚とも似ているのかな。どんなに力が強くても、相手にパンチを思うように出させなければ何の意味もないから、自分のペースに持ち込んでしまう戦い方。それがいいとか嫌だとか、いろんな意見があると思いますが、私は単純に『面白いなあ』と思いました。


 昨年の大晦日に2度目の防衛戦を乗り越え、2013年1月現在も世界チャンピオンとして君臨するよう洋太選手。どこかの有名チャンピオンみたいに防衛回数を重ねるためだけに弱い相手とばかりやるのではなく、とにかく強い相手とガンガンぶつかりたい! ということで、今はタイの選手と交渉中だとか。ボクシングの試合を組むのは色々と政治的な駆け引きがあるみたいですが、ともかく誰にも文句を言わせないような強力な相手とぶつかり合い、そして勝ってほしいと思います。



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 部屋を整理していると、色々と懐かしい本が出てくることがあるものですが、先日もそういった本が出てきました。まあいっぱいあるので、何もこれといったネタがない時なんかはこうして埋め草をしたいと思います。


 今日の一冊は『’89年版ラジコンカタログ大百科』(ケイブンシャ)。どんな内容かをタイトルですべて説明しているので、あえて私が詳しく語るまでもありませんが、そういう本です。

 当時の私は小学校2年生。元々車が好きだったこともあり、ラジコンは憧れの存在でした。まあ組み立て完成済みのトイラジコンはすでに買ってもらっていたのですが、この本に載っているのはほとんどが自分で組み立てて作る代わりに性能も高いホビーラジコン。とても自分の手に負えないことはわかっていましたが、写真とか紹介記事を眺めて空想することがとても好きでした。

 この頃には(たぶん、ミニ四駆ブームの影響ですが)田宮模型至上主義のような気持ちがあったので、その他のメーカーは完全に格下のものと見ていました。ABCホビー? 何それ。京商? まあ頑張ってるけど田宮には勝てないね。東京マルイ? フン。……こんな感じ。

 まあ20代になって再販された『グラスホッパー』や『ホーネット』を手に入れた頃に当時のことを調べて、他社(特に京商様)の方が田宮よりもよほど競技志向、よほど高性能であることを知ったので、今では田宮一辺倒と言うわけではありませんが……私のジャリボーイ時代はミニ四駆とともにあったので、どうしても田宮びいきをしてしまいます。アバンテ最高! なんです。


 なお、巻末には色々なチューニングパーツのカタログもあります。一応、ミニ四駆にもそういうのがありましたから、やはりこういったパーツには心躍ります。「もしも自分がラジコンを買ったら、モーターはコレにして、バッテリーは……足回りは……」とかって、想像の中で自分の一台を組み立てるのが好きでした。

 カラーの表紙もなくなり、開けばページがバラバラと抜け落ちるくらいいたんでしまいましたが、それでも本の中には私がときめいたあの頃のラジコンがたくさんあります。後にこの本の中にもあった田宮の『ソニックファイター』を実際に手に入れたのですが、それはこの本を手にしてから数年後のことでした(改装する模型屋の在庫処分セールで手に入れた)。

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 何とはなしに本屋に行ってきました。一日がすごく忙しくて、気持ちがちょっとよどんでしまったので、そんな気持ちをリフレッシュさせるためでした。

 まあ読まなくちゃいけない本はたくさんあるので、新規に読みたい本があるわけではないのですが、出会いはあるかもしれませんからね。すぐ買わないにしても表紙を眺めたり、手にとって紹介文を読んでみたり。大学の頃もそうだったんですが、やっぱり本屋って楽しい。そう思います。


 スポーツ関係の雑誌コーナーから始めて、アニメの方に移り、コミックスの新刊平積みコーナーをしばし物色。「最近のマンガはよくわかんねえなあ」などと言いつつ、新しい何かを求めてゆっくりと眺めて歩く……。

 そしていつしか足は児童書コーナーに向かっていました。ラノベとは違った意味で若々しい、フレッシュな気持ちになれるものがないか。そんな期待を持って歩いていたところ……んんっ!? ちょっと気になる本がありました。

 タイトルは……『レッド・データ・ガール』。今度アニメになるとかで、私もそのタイトルは知っていましたが、てっきりラノベだと思っていただけにね。まさか児童書コーナーで出会うとは……。ついつい、その場で立ち止まってしまいました。

 もしかしたら、ラノベのくくりではなくて、少年少女向け文学なのかな? と思い、「それなら」と手を伸ばそうとしたのですが……表紙の隅っこにある『角川銀のさじ』という文言を見て手を止めました。


 そう、角川銀のさじシリーズと言えば『十方暮の町』。同じように出会いを期待して手に取ったものの、汚れきってすさみきった私の心にはあまりにもぴゅあぴゅあはーとすぎて、土下寝で謝罪したい気持ちになった物語です。

 素敵な物語であることは間違いないでしょうが、今の私では太刀打ちできないでしょうからね。そのままその場を立ち去ってしまいましたが、その名前だけは覚えておきましょう。そんな感じでした。

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 1時間ほどで読み終えてしまいました。

 内容は、『超時空要塞マクロス』のヒロインのひとりである早瀬中尉がマクロスのクルーになる以前の話です。アニメではちょっとだけ触れられていた昔の想い人『ライバー』との出会いと別れの話、士官学校に入ってからマクロスのクルーになるまでの話。大体そういったところです。アニメでは描かれなかった早瀬中尉の少女時代の魅力がたっぷりと詰まっていますが、特に早瀬中尉のファンではない方にはおすすめできません。そういう漢字の本でした。

 まあ、こんなものを買うのはたぶん、テレビアニメを全部見てそれでも物足りないファンでしょうからね。すごくアッサリと読み終えてしまいましたが、満足です。

 ……本の感想だから、もう少し何か書くことがないかなと思いましたが、このくらいしか書くことがありませんでした。すいません。

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 昨日も初売りに出かけました。

 昨日の場合は、ちょっと私と兄者の意思疎通に難があったために、なし崩し的にブックオフに出かけるような形になってしまいました。これじゃ~いつもと変わらないじゃないか!

 と言ってみたものの、新春特別セールで本が2割引だったのでね。そういう意味ではよかったのかなと思います。


 もともと偏屈・偏狭な性格である上に、年末年始と書店に行っては不可思議なマンガの表紙を眺め(参考1参考2)、よりいっそう心が狭くなってしまった私。なんだか、世の中がわからなくなってきました……。

 そんな漂泊の迷い人たる私がたどり着いたのは、ある一軒のコンビニでした。そこは赤い鳥居が並んでいるあたりに夕暮れ時になると現れるそうで、大事な探し物がある人は必ずここで見つけられるそうです。

 そのコンビニの名前は「たそがれ堂」……そう、村山早紀『コンビニたそがれ堂』ってやつを買ったんです。

 村山早紀先生といえば『はるかな空の東』。私が児童文学の世界に本格的にのめりこむきっかけになったファンタジー物語です(※)。その割にほかの作品を読んでいなかったのですが、今回2冊目となります。最初の数ページを読んで、ちょっと気持ちが緩んだので、本格的に買って読むことにしました。

 それから平直行さんの『身体感覚の宝島』という本。これは技術書と言うよりも思想書……というか、平さんがこれまでの人生で感じてきたことを、平さん一流の平易な言葉で説明してくれた本です。かつて『格闘技のおもちゃ箱』を読んだ時もそうだったんですが、すごく心が緩むんですよね。

 このご時世、ちょっとしたことにもアアだコウだと色々な人が意見を出し、動きが取れなくなってしまうものですが、そういった難しいところもスルッとすり抜けてしまう平さんの言葉。今の私に足りないものはこのあたりなのかな、と思い購入することに。

 そのほかにも『浜村渚の数学ノート 3さつめ』とか『早瀬未沙 白い記憶』とかを混ぜ込み、レジにもっていった私。やっぱり奇をてらった物語はもういいです。今の私はスタンダードな物語を求めているのです。


 (※ それ以前に『ふしぎの国のアリス』に興味を持っていたものの、それは作品単体を好きになったわけで、児童文学というジャンル全般に興味を持ったのは『はるかな空の東』がきっかけでした)

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 『十方暮の町』を読みました。

 初めに申し上げますが、私が至らないばかりに後半は結構な高速読みになってしまいました。これは作者にも本作品のファンの方にも申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 読み終えた今、思うのは……ついに最後までわかりあえなかったな、ということ。

 でも、それでいいんです。そう思っています。

  *

 思えばこの本を買った当時は「とにかくラノベでも何でも、少年少女が活躍する物語を読もう」「そして私も気持ちを若々しくしよう」とかって、そんなことを思っていたような気がします。それでたまたま立ち寄った本屋で特設コーナーを設けられ、かなりプッシュされていた本作を手に取ったのでした。

 やってることは間違ってないと思います。悩んだり怒ったり落ち込んだり。主人公は男子中学生ですから、色々あるでしょう。私もそれを読んで感情を共有し、心を取り戻さなければいけない。そう思っていました。

 でも、心に響かないんです。

 ひとえにこれも、私の心がすっかり汚れきってしまったからでしょう。もういまどきの中学生みたいに、ぴゅあぴゅあはーとで好きな人のために頑張っちゃったりできないんです。かといって作中に出てくる大人たちのように振舞うこともできないだろうし。

 結局、私の居場所はどこにもなかったみたいです。

 それでも、最後まで読みきりました。そうしないと前に進めないと思ったからです。

  *

 これから先、私はもう、『大人でいいかな』と思います。

 ことさら大人ぶることもないと思いますが、頑張って十代のジャリボーイになろうとすることもないかなって。

 大人には大人の責任があるし、そういうものを背負わなければいけないことで身につく強さもある。今後はそういうものを目指して行こうと思ったのです。

 そう思うと、急に気持ちが楽になりました。無理して中学生らしい気持ちにならなくたっていいんです。大人は大人として生きればいいんです。

 そういうことをわからせてくれた『十方暮の町』は、私にとって非常に重要な物語となりました。ほとんど心には響きませんでしたが、そういう意味では、とても意義のある一冊でした。




 ……ところで、この本と同時に買った、同じ作者様の本があるんだけど……これはどうしようかなあ。

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 『刹那 獣の奏者外伝』を読みました。

 これは本編の第2部と第3部の間に起こった出来事をまとめたものです。主人公のエリンがその後の人生のパートナーとなるイアルと出会い、息子・ジェシを授かるまでの物語と、エリンの師匠であるエサルの若き日の物語、そして2歳になったジェシのちょっとしたエピソードの3篇が収録されています。


 私の場合は相手の温度を身体中で感じられるようなパートナーはいないのですが、上橋先生の文章で読んでいると、なんか……つかの間、それを感じられるような気がするんですよね。
 
 ただ、それは萌えの感情とは少し違う気がします。もっと生々しい感じ。人間として生きている中で積み上げてきた色々なものが意味を成さないような、もっと原始的な感情。

 多分それは挿絵がまったくないからだと思います。まず視覚を通して「あ、可愛いな」と思うのではなく、文章を読むことでもっと深いところからこみ上げてくる感情。それがじわりじわりと身体中に広がっていくから、こんな気持ちになったのかもしれません。


 そういった経緯で精神的な体温が上がったので、なかなか冷めません。これに限らず『守り人』シリーズも『狐笛のかなた』もそうだったんですけど、心の奥深いところからグググッと力がこみ上げてくるような効果が得られるんですよね。

 それはきっと、みんな、色々と困難な場面に向き合うけれど、よく考えた上で踏み出すからなんでしょうね。生まれた家のせいだとか、世の中の仕組みのせいだとか、色々な理由があるにせよ、何とか自分の意志を貫こうとする力の強さ。エリンもそうだし、イアルもエサル師もそう。

 そして、ただ感情の赴くままにやりたい放題をするのではなく、しっかりと考えに考えた上で、そういった道を選ぶところに、私は力をもらっているんだと思います。周りから見ればひっくり返るようなトンデモナイことに見えても、その決断にはしっかりとした理由がある。理由があるから、その決断も力を持つ。そういうことなのです。


 なんか、あまり上手にいえませんが、また力をもらいました。今の私の仕事もかなり大変な状況で、ともすれば不平不満をこの場所で並べ立ててしまいたくなりますが、そんなことをしても仕方がないですからね。そうやって吐き出す前に読みきれて、よかったと思います。



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 先日、押入れを整理したところ、長いこと行方不明扱いにしていた本が何冊か出てきました。その中にはかつての名タレント『大瀬しのぶ』さんの自伝なんかもあったのですが、それと一緒に出てきたのがポプラ社文庫の『雨ニモマケズ』。宮沢賢治です。

 タイトルは『雨ニモマケズ』ですが、本の大部分は長編『ポラーノの広場』です。そのあと、詩集『春と修羅』からの数編と、タイトルの『雨ニモマケズ』。詩の方は時系列に沿って並べられているので、心象スケッチと本人が読んだように、その時々の気持ちの変化が見て取れます。

 何度も花巻市にある宮沢賢治記念館に足を運んでいる割に、きちんと本を読むのは初めてな私。最初はほんのさわりだけ、と思ったものの、とまらなくなってしまって。ちょうどラジオで『ミュージックライン』を放送していたので、それを聴きながらず~っと読み続けました。いきなり読了です。

  *

 井上陽水はかつて「ワカンナイ」という歌で、この『雨ニモマケズ』の思想を否定(※)していますが、こうして読んでみると、やっぱり訴えかけてくる内容です。病床で手帳につづっているその時の情景が眼に浮かぶようです。そして考えさせられるのです。

 あとは、妹との死別についてつづった『永訣の朝』。これも妹へのひたすらな愛情と仏様への信心、さらにはそれをもってしても病気には抗えない無念さが伝わりました。とりあえず私はそんな風に受け取りました。

 あとは長編『ポラーノの広場』ですが、これが初長編だったこともあって、まずは読むのが精一杯でした。思わず私もまた井上陽水ばりに「ワカンナイ」と言いそうになってしまいました。

 なので、詳しい内容とか感想とかは書けませんが、いわゆるファンタジー物語ではなく、割合に現実的な世界の物語なんですね。『銀河鉄道の夜』みたいな世界を勝手に想像していたもので、そこはちょっと勘違いでしたが、いずれにしても面白かったです。

 ちなみに私が読んだのは1984年初版の古~いやつです。ということは小学生のころに兄者が買ったものでしょう。それを四半世紀以上の時を経て私が読む。すでに私は30代になってしまいましたが、とにかく同じ本を読み、同じ世界を共有することができたのはよかったかな、と思います。まったくもって個人的な話ですが。




 こっちは2005年初版の現代版。中身はいっしょみたいですね。




 (※ そこまで強い内容ではありません。そもそも陽水さんですから、あんまりまじめに深読みすることもないのかな、と捉えています。私にとっては陽水さんの歌も、同じくらいファンタジーな世界ですから)

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