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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
『帝都物語異録』という本を読みました。

 これは荒俣先生が監修した本ですが、いわゆる『帝都物語の解説書』とは少し違います。魔術・妖術などをテーマにその手の専門家たちが・・・どちらかというと現実世界にいる人たちを取り上げた話がいくつか入ったものです。直接的に物語の解説をするページばかりではないのですが、『帝都物語』の世界をより深く理解することができると思います。そしてフィクションとノンフィクションの境目が言い意味であやふやになってしまいます。

 あとは、これは個人的なことなんですが、いきなり種村季弘・澁澤龍彦といった名前が出てきた時はギョッとしてしまいました。先日書いたように、澁澤龍彦という名前は、ある意味では神聖な響きをもっていますから。

 両氏からはいろいろとオカルト・魔術的な話を聞かせてもらったということですが、その内容がアート的、文学的な世界での話だったので、「高等遊民的なところ」に消化不良を感じてしまった・・・ということでした。

 私は荒俣先生も澁澤さんも大好きなので、両氏の間にそういった交流があったことに驚きと(なぜか)うれしさを感じるところですが、その一方で「なるほど、それで荒俣先生は、さらに踏み込んだ世界に行ったのだな・・・」と息を呑みました。アートの世界や文学の世界だけではなく、実際に世界をひっくり返すくらいの魔術。それが『帝都物語』の中で思いっきり開花したわけですね。


 ということを書きましたが、私が本当に言いたいのは、別にどちらがいいとかそうじゃないとか、そういうことではありません。

 「どっちもいい、どっちも好き、どっちも面白い」

 自分はそういうワガママを言える立場にあるのだな、ということを確認したかったのです。

 私はアマチュアですし、知識もなければ読解力も少々怪しいものですからね。たくさん本を読んでも、その内容をきちんと理解している・・・自信がありません。たとえばこの場で何か文学論をぶち上げたとしても、それが中学生の読書感想文以下だったりする・・・かもしれません。

 でも、お金を払ってそういう創作物を読む側の人間だからこそ、ちょっとヘンテコな解釈をしても許してほしいと思うのです。


 ……一応、言い訳をしておきます。私がこういった考え方にいたったのは、中学生のころに読んだオーケンさんこと大槻ケンヂさんのエッセー『SR311』のおかげです。

 今でこそ色々なものにツッコミを入れながら見るスタイルは一般的なのかもしれませんが、96年当時の私にとっては非常に新鮮でした。江戸川乱歩の短編『人間椅子』の主人公に対しては「コラ。そんなことしている暇があったら働け!」と断罪する一方、『あの娘の名前はなんてんかな』という歌でマネキン人形とは知らずに声をかけ続ける故・坂本九さんを「九ちゃん大丈夫か!?」と心配したりしています。あげくのはてには浜田麻里さんの『All Night PARTY』という歌の冒頭に出てくる「いかれた奴ら」をドリフのバカ兄弟のようなものと想像し、阿鼻叫喚の有様を散々イメージした後で「叫ばんでもとっくに狂ってる」と結論付けています。

 「これは面白い!」

 以来、そういったヘンテコな考え方をするようになってしまったのです。

 でも、ただ突っ込んで終わりというわけではありません。それでは使い捨て、ただの消費です。オーケンさんも、ちゃんと正しい解釈? をすればこういうことなんだけど・・・という前提で、あえてヘンテコな読み方をして楽しんでいるわけですから。どこまでも真摯に向き合い、ちゃんと理解する努力は必要であると思います。


 なんか、妙な話になってしまいました。私自身、自分の考えを上手にまとめきれていないので、これに関するツッコミは無用とさせていただきます。ただ言いたいことは、『物事は、色々な見方がある』ということ。これはオーケンさんの本でも大学の講義でも学んだ、私の最重要人生哲学です。

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