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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。

 去る2/10、仙台フォーラスで【仙台藝術舎/creek成果発表展Vol.5「つくるところ」】を見ました。その中の一部分、赤瀬川沙耶さんによる東北大学日就寮に関する展示とそれに対する私の感想について、一度書きました。
2024年2月18日|それでも私は市民メディア

 その時こう思ったのは事実なんですが、時間を置いて写真を見返したり手持ちの資料を眺めたりしていると、その時とは違った感情が湧き上がってきたんですね。あるいは、心の整理がついて、その時に感じたことをちゃんとまとめられるようになったからかな。
 そんなわけで、改めて――今度は展覧会全体のことを含めて、振り返りたいと思います。また引用しまくり写真掲載しまくりですが(差支えがある場合は直ちに削除します)、これはこれで今の気持ちですから。手加減なしでしっかり書ききります。



◎テーマ 「つくるところ」について
現在、表現活動をめぐる状況は、高度に戦略的に見えます。
SNSやデザインツール、 AI をはじめとする様々なメディア環境によって、 作品を 授受することのグローバルな拡散性に満ちている一方、自身の表現を問い、 生み出す困難さやしがらみを感じることも多々あります。 翻って、私たちが暮らす 場所に立ち返ると、 地方都市 「仙台」で表現することにおける、どこか「むず痒い」 感覚も同時にあることでしょう。必要なのは、そのむず痒さを土着のクリティカルな感性の種とし、耕し育むことだと考えます。例えば、私たちが (仙台・・・etc.) で働き、学び、生活している理由を、一般的な現実や状況に求めるのではなく、極私的な好奇心や探究心、作品を制作する感性にまで開いてみること。これもまた、技術の習得と同等な「つくること」、そして「つくるところ」 へのプラクティスであるはずです。
キュレーター 丹治圭蔵 (5期生)



 今回の美術展は前もって開催情報を知って出かけたわけではなく……メディアテークで東北生活文化大学美術表現学科の卒展を見終わった後、余勢を駆って仙台フォーラスの7階にあったギャラリー『TURN ANOTHER ROUND』で何かやってるかな~? と思って立ち寄ったらやっていた……そういう感じで見ました。そして、今こうして記事を書こうとした時になって、頂いたリーフレットを読み、そのコンセプトを知りました。
 ただ、最近何かと繰り返し申し上げておりますが、切っ掛けはそれほど重要ではないと思っています。どういう切っ掛けであれ、実際にその展示内容を眺め、それが気に入ったということが緊要なのですから。

   *

 まず「おおっ!」と思ったのが、イトウモモカさんの作品「この街で生きるということは…」「明日はきっといい日になるよね」です。わざと1枚目の写真にもちょっと写り込むようにしたのですが、改めて全文を引用します。この文章も含めてすごく心打たれたからです。
 せーの、ドン!


これまで地元から逃れたいという気持ちを抱えて生きてきた。この場所にいるとトラウマが蘇るからだ。だがどんな遠くへ逃げても、生まれも育ちも宮城である私にとって帰る場所はただ一つしかない。 逃れることの出来ない絶望感を抱えていたが「つくること」を通して素晴らしい人たちと出会い、生きる希望を見出すことができた。 憎しみに執着して見ようとしなかっただけで、私には居場所があるということに気づいた。今いる環境で自分ができることを考える。それこそが心のケアにも繋がっている。 地元に対する特別な思いを表現した。


 ……
 最初に読んだ時もそうだったのですが、今こうして記事を書きながら読み返してみても、ちょっと込み上げてくるものがあります。岩手県盛岡市で生まれ育ち、トラウマが散々生成された十和田から逃れ、たどり着いた安息地が仙台である私にとって帰る場所はどこだろう……とか、逃れることの出来ない絶望感の代わりに、「ここが私の居場所だ」「この街なら私は私らしく生きていけるはず」と信じて日々を頑張る私は幸せなのかな……とか何とかって。
 この辺が、やっぱり「宮城出身か、そうじゃないか」っていうことなんでしょうね。宮城県、特に仙台市がホームなのか、そうじゃないのか。それによって考え方は全然異なるでしょう。当然です。イトウモモカさんにとっての仙台は私にとっての盛岡です。その辺の、異なる部分と重なる部分を少しずつ調整しながらしみじみと感じ入りました。
 ちなみに、イトウモモカさんの作品はタナランで開催された「にがつのねこといぬ」展さらに仙台フォーラス7Fのギャラリー『TURN ANOTHER ROUND』最後のイベント「アートバザール」でも拝見しました。良いと思います!


   *


 このイトウモモカさんの作品のほかに、しばらく手に取って見入ったのは写真集「帽子の女の子」でした。絵画などがメインだと思って見に来たら写真作品もあって、私自身も写真を好んでやる人類なので「ああ、こういうのもあるのか」と思って見ていて……作者の言葉を読まずいきなり作品を眺めたので、
 「ああ、可愛いねえ」
 「……あれ?」
 「……ああ、そうか……そういうことなのかな……」
 という順番で、自分なりにストーリィを作り上げ、後になってパンフレットを読み自分の推測が正しかったことを確認した。そういう次第でした。記事を書くつもりで眺めたわけではないので詳細なことは書けませんが、これは製作者の御母堂の生涯を追いかけた写真集であり――可愛いねえと言った幼少期のものは製作者の祖父が撮影した写真で、そういうことなのかなと推測したのは御母堂が帰天した1年後の世界を映したものだったのです。
 恐らくひとつのコンセプトに沿って編まれたものだとは思いましたが、それがどういうことなのかをテキストで知り、改めて得心しました。こうして、写真集という形で編み最後まで読むことで伝える方法もあるのですね。ただ、それは私みたいにちゃんと最後まで手に取って眺める人類でなければ伝わらないと思いますが……まあ、他の人のことはいいか。
 私はちゃんと受け止めました。それでいいですよね。

   *

 そして、改めて振り返ります。赤瀬川沙耶さんによる『日就寮の暮らし2023-2024』です。ステートメントに関しては、前回の記事を読み返すと一部省略していたので、改めて全文を引用させていただきます。





 本展覧会のテーマ 「つくるところ」 を問いかけとすると、 私のアンサーは「仙台の中にある閉じられたモノ・コト」へ向ける興味関心なのだと思う。

 自身が雑誌、ポータルサイトなどのメディアを用いた発信を飯の種としている一方で、無責任な手癖で運用されているメディアのあり方に疲労感を覚える。元・表現者としての目が残っているからなのか、マスメディアによる雑な報道は言うまでもなく、マスに属さないメディアが「適当でも速報性があれば良い」と持て囃される現代においては、編集を学ぶ意欲すら削がれる。

 マスに属さないメディアとは、ニコニコ動画やYoutube、ブログ、SNSをはじめとした誰でも情報発信できるものを指す。せんだいメディアテーク(以下・smt)の言葉を借りれば「草野球」的なものだ。堅く言えば、市民メディア。その市民によるメディアも商業的な手垢がつきすぎた。

 私はそんなものより、学生自治寮の壁の落書きや張り紙の方がよっぽど純粋な事実であり、本来の草野球的な市民メディアなのではないかと捉えた。クローズドではあるものの、形式にとらわれず学生生活を送る中での叫び、遊び、学びを残しておくことに純粋な美しさを感じる。その純粋さは大衆性、専門性の外側にある限界芸術のような趣がある。

 今回は東北大学日就寮の近年の暮らしや建物について寮内の「壁メディア (と勝手に呼ばせていただく)」のアウトラインをなぞる形で見聞録を制作した。正統派の編集やジャーナリズムの梯子を外した上で、壁メディアの変化や寮の位置付け、近年の暮らしのありかたを感じていただければと思う。


 このステートメントに対する最初の感想はすでに書いたのですが、展示内容を見て、さらに手元の写真を振り返りながら1か月後の現在どう感じたかといえば、
 「こんな60年代的な世界が、令和の時代にも生き残っていたのか」
 それが適切な言い方なのか、赤瀬川沙耶さんの伝えたいことと一致するのかどうかというと、まったく自信がないのですが、とにかく私はそう感じました。今からそのことについて、一生懸命自分が感じたことを説明します。
 1981年生まれの私が想像する「60年代的」な概念は、その当時を生きていた人――澁澤龍彥、寺山修司、三島由紀夫、四谷シモン――が書いた本を通じて組み立てたリブレスクなものです。そういったものをベースにして、テレビや雑誌などで触れた映像イメージの世界……特に大学生が「自治」を求め体制と全面戦争を繰り広げていたイメージなんですが、それがまだ八木山に残っていたのか!……と。そんなシステムは精神的なものも含め安保闘争の終焉と共に滅び去ったのだと思っていたので、これは本当に驚きました。さすが帝国大学以来の歴史を誇る東北大学ですね。
 そういう、閉じられた空間の中であふれかえる熱さが飾り立てられることなく壁に書きつけられたり貼り付けられたりした「落書き文化」と「張り紙文化」は、このところ積み上げてきた私の美的感覚を軽々と飛び越え感情に訴えかけてきます。これは私の「直観」なので、あまり上手に説明することができないのですが……。
 「いや違うから!!!」と怒られるのを覚悟で申し上げると、私がこの20年あまりやってきたことと似てるからかな。バズるとかトレンドとかとは一切関係なく、自分の身の回りのことを一生懸命にストレートに伝えること。
 確かに私もSNSをやっている時、思いがけず反響を呼んで嬉しくなったことはあります。一方で「今の時代、情報を発信するなら速報性や話題性をもった内容じゃなければならない」と思い、すっかり疲れ切ってしまったのも事実です。
 そして原点に立ち返り、私が読んだ本とか見た景色とかのことを時速100キロの勢いで伝えること(このブログ)を再開しました。ここ半年で原稿用紙数百枚分も書きました。寺山修司は「モノローグ的」と批判するかもしれませんが、それでいいんです。私の記事を読んでくれる人がいたし、私が書いた小説を気に入ってくれた人もいたし、私の服装を「可愛い」と言ってくれる人もいました。
 「時代の流れについて行けなくてもいい。取り残されてもいい。私は私が良いと思ったものを発信しよう」
 そういう人間なので、強力に背中を押してもらったような気がしたのです。私もそんなにくよくよしないで、思い切り自分が良いと思ったことを、自分の方法で爆発させればいいじゃないかって。

 既に私もそういうものを始めています。

 あちこちのイベントに参加し、感想を書くノートがあれば必要以上に書き込みまくり……

今年の1月末で閉店したアリオ仙台泉とか2月で長期休業に入り恐らく休業明けにはオーパになるであろう仙台フォーラスとかにメッセージを貼り付け……

 こんな感じで自分が良いと思った服を着て街を歩いているわけです。ああ、そうか、既にこういうことをやっていたから、共感しやすかったのかもしれませんね。

 というわけで、赤瀬川沙耶さんのステートメントを読み、展示内容を見て感じたことを書いた後で、改めて20年以上「市民メディア」と呼ばれるものをやってきた人類としての率直な気持ちをまとめます。
 安易に赤瀬川沙耶さんの言葉に乗っかるつもりはないのですが、私は私で「商業的な手垢がつきすぎた」市民メディアというものに対して疲れ切ってしまった……というのがあります。
動画の世界は言うまでもなく、私がやっているブログの世界も、私が書き始めた頃と比べると、やっぱり変わってきているな……というのは肌感覚で感じています。
 初めから私は商業的なこととか考えて始めたわけじゃないんですよね。むしろそういったもの、大衆性とは真逆のサブカルチャー的なこと、マニアックなこと、「私だけが知っている」ことをあえて書き、みんなに知ってもらいたい! そういう気持ちでホームページを始め、ブログを18年も続けているので……そう思っていたところでした。
 その一方で今回の仙台藝術舎/creek成果発表展も含め、昨年秋から色んなイベントに(観る側の人間として)参加しました。そしてローカルな世界で共有する作品や人との交流をたくさん体験し、少しずつ私がやりたいことを思い出し、再構成してきました。
 私はADHDでASDで……定型発達者の皆さんと比べれば心の発達が緩やかな人間であると自認していますが、それとは別にユング心理学でいうところの「内向的感情型」タイプです。いつだって他の人と話している時「こういう時、なんて言ったらいいのかな」「こんなことを言ったら、相手が変に思うんじゃないかしらん」ということばかり考えて、上手に言葉が出て来なかったりトンチンカンなことを言ったりしてしまいますが、その分、感じることにかけては自信があります。
 最近になって、感じたことを文章に翻訳する技術の方も、少しずつ身についてきた気がします。相手の言っていることを上手に理解することが苦手でも、とりあえず自分が感じたことを伝えたい。「そういうことじゃないんだけど!!!」と言われたら「ごめんなさい」ですけど、
 「とにかく私はそう感じた、そう考えた」
 それをすぐに引っ込めてゴミ箱に放り込むのではなく、それはそれとして大事にするのが、きっと心の成長に必要なことなんですよね。「あの時はこう思ったんだけど、それは実は、こういうことだったんだよね」って修正するために必要な材料としてね。そうやって少しずつ修正しながら、生きていければいいかな。
 それに、こんな私の言葉を、ひょっとしたら誰かが「いいね」って言ってくれるかもしれないし。――なんて、そんな夢まで見ちゃいました。壁メディア、良いと思います!

 思いつくままに長々と、私の心の一部を開陳してみました。美術展のレポートにかこつけて、心の整理をしているところをお見せするような文章になってしまいましたが……私という人間をわかってもらいたいので、最後までしっかり書ききります。
 今回の美術展はそんなアートと文芸の両面で心が共鳴し、こうした形で昇華させることができた――とても良い機会に恵まれたと思います。赤瀬川沙耶さん、イトウモモカさん、そして今回の美術展に出展された皆様、ありがとうございました。好き勝手なことばかり申し上げましたが、どうか怒らないでくださいね。

 恐らくアートと文芸は、これからもずっと大好きであり続けると思います。

 アートは私の感情を解放し爆発させ心を生かすために。
 文芸は爆発的な感情をうまく制御し心を活かすために。

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