こんなお二方の本を並べて、今更何を書くつもりなのよと訝る向きもあろうかと思いましたが、特別にそんな意気込みがあるわけではありません。先日仙台市泉図書館に行った時に本棚を眺めていて、気になって手に取った本が矢川澄子さんの本であり澁澤龍彥さんの本だったのです(そしてもう1冊が稲垣足穂でした)。
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最初に『「父の娘」たち―森茉莉とアナイス・ニン―』の感想を。こないだ矢川澄子さんの本は一段落って言ったばかりなんですけどね。
そもそも私が最初に読んだ矢川澄子さんの本がベスト・エッセイ集だったので既読のものも多少ありましたが、本のサブタイトルにある通り森茉莉とアナイス・ニンという2名の女性に関するテーマのものを集中して読めたのは良かったと思います。以前ユリイカの矢川澄子特集でお名前を知った佐藤亜紀さんの文章も引用されていたし。それをまたこの場で引用することはしませんが。
そして、今この記事を書いていて印象に残っているのは、これまた引用された室生犀星の文章でした。森茉莉さんの部屋の様子を見て「かなしみのあまりよく眠れなかった」と言った室生犀星に対して「やっぱり男性にはそのように見えるのでしょうね」と厳しく断罪(そうでもない)。それぞれ異なった捉え方をする二人のうち私がどちらに共感したかといえば、これは恐れながら室生犀星の方でした。
この辺が……男性と女性の違いなのかなあ。どれほどアニマを育てても矢川澄子さんの本を読んでも心の奥から湧き上がる感情は男性原理に基づくものだということに気づきました。「ほら、やっぱりあなたは男じゃない」それはそうです。その通りです。でも、「だからあなたには理解できないのよ」といえば、そんなことはありません。確かに私の感情生活は男性原理に基づいたものですが、私にも女性の心に近しい要素があります。時流も男女間での齟齬を無くそうという風潮になっています。
そのような風潮と素敵な出会いにより、ずっと押し込めていた私のアニマが解放され……それゆえに矢川澄子さんの本をたくさん読み、その空気を取り入れることができたのだと思います。
読書中に1枚。私はこの格好をした自分のことをとても可愛いと思います。
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という話をした後で、今度はまた男性に戻ります。『狐のだんぶくろ』の感想です。
初めて澁澤龍彥というひとの本を読んだのは十代、高校生の頃なんですが、その頃大好きだったのが『玩物草紙』という……朝日ジャーナルの連載をまとめたエッセー集だったんですね。過去と現在を行き来しつつ気ままに筆を振るうっていう印象です。
この『狐のだんぶくろ』も、まさにそんな感じですね。主に昭和初期、少年時代のことを中心に書いていて……澁澤さんより半世紀ほども遅く生まれた身としては、原風景というより歴史上の出来事に思いをはせるような気持ちで楽しく読みました。
楽しく読みました、という以上の解説は特に必要ないんじゃないかな、という気がします。あえて言えば、私はこういう文章を書きたいと思って、ブログを始めたんじゃないかな……と言うことを思い出しました。あるいは新聞のコラムのような文章。当たり障りないけれど、読んだ人がクスッと笑ったりヘェーとうなずいたりしてくれる文章。
でも、そういうのって150キロの快速球が投げられる人が書くからできるんですよね。巻末にある出口裕弘さんの言葉を読んで再認識しました。あくまでこれは「肩に力を入れない投法」で放った緩やかなスローボールであって、そういうボールしか投げられない人は無理なんです。……それでも、ようやく90キロくらいのボールが投げられるようになってきたかな……って気はしますが。
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稲垣足穂、森茉莉、室生犀星、矢川澄子、澁澤龍彥……。
何となく心に浮かんだ作家の名前を挙げ連ねてみましたが、理性と感情それぞれの分野で「そうだ!」「そうかな!」「そういうものか……」と胸に沁み込みました。言葉抜きで直接共感できることもあれば、言葉を通じて自分の心の中にも同じような要素があることに気づいてハッとしたり、共感はできなくても違いを理解して心を整理したり。
感じ方は男女で違うかもしれませんが、私はその垣根を身軽に飛び越えて自分の心を育てていきたいです。発達障がいでも自閉スペクトラム症でも、私は私らしく生きるんです。
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