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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
こんばんは。

別にお酒を飲まなくても眠れます

「森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです(今日はビール・ワインを飲用済み)。


村山早紀先生の「その本の物語」を読んでいます。まだ上巻の半分ほどを読んだくらいですけどね。

これは物語の中の物語というか、我々と同じ世界にいる少女「南波」が親友に語って聞かせる「風の丘のルルー」という魔女の物語がどちらかというとメインなのかな、という感じです。ひとまず100ページほど読んだところでは、そちらが主な内容でした。

本当は十代の少年少女あるいはもう少し年少の…たとえば小学校高学年とか、それくらいの年齢の子が読むのが適切、なのかもしれません。少なくともあと1週間そこそこで35になろうかという野郎(ギリギリ既婚)が読むべきものではないと思います。

少女の難しい心象風景、魔女(御年110歳くらい:ただし魔女は歳をとるのが遅いので見た目は小学校高学年くらい)の心象風景。村山先生の描く、温かくも切ない心模様に私も感じるところがありますが、やはり30過ぎのオッサンゆえの気恥ずかしさ。お酒を飲んで酔っ払って、「まあまあ、いいじゃねえかそんなこと」と勢い任せに振り切ってしまいたくなる部分もあります。

この、「そぐわない雰囲気」がたまらなく好きです。と言ったら皆さま「はぁ?」と思うでしょう。ですが正直、率直な感想としては、そういう感じなんです。

いまだに十代の少年少女のようにちょっとした心の機微に敏感に感じられるセンスがあること。そして、それをどこか冷静に眺め、「いいことだ」と考えられる理性があること。

――要するに? あくまでも私の勝手な、自己満足的なことだとは思うんですが、大人と大人未満の若者と、両方の感動をひとつの頭の中で同時に共有できるのかなと。そういう気がするんです。いまだにティーンの感情を捨てきれていないというか。

あるいはずっと「隠し持っていた」のかもしれませんね。表向きはいち社会人、常識人として生きていくための方策を身に着け、それを実行に移していたものの、その中で隠し持っていたもの。すなわち感情。心に壁を作り、建前と本音を使い分けてきた35年間。



…いや、これ以上はよしましょう。話せば私の半生を振り返るような、とてもこの一日のブログに収まらないような回想録になってしまうので。

何が言いたいのか。一言で言えば「魔女上等」ってことです。たといルルーが魔女だろうと鬼女だろうと、心が優しくて、魔女ではない人々と仲良くなりたいというのなら、それを拒むことは何もないということです。そしてそれを、私はルルーではない魔女だったとしても、そうしたいなと思ったのです。

その本の物語の主人公であるルルーの心情は、私たち読み手は詳しく知ることができます。知っているから仲良くしてあげたいと思います。これは当然のことです(そうでなければ、本を読むことはしないでしょう)。問題は、私がそんなルルーの心情を知らず、普通の女の子だという認識しかなかったら? ということ。何の前触れもなく、それまで仲良くしていた子が「実は魔女だった」と分かった時、それを受け入れられるのか? ということ。

そんな時でも私は「受け入れたい」と思うのです。たとい私が受け入れた魔女が本当は悪魔の手先で、結局は取り込まれて非業の死を遂げるようなことになったとしても、後悔はしません。

「信じる心ってのは、人間、死ぬ間際でも持てるんだ」

昔、とある元暴力団会長(その後、児童養護施設経営者→タクシー運転手)が瀕死の重傷を負った時、そう言っていたから。私はその人の言葉がとても好きだから。

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