こんばんは。
過度に先鋭化する精神を御するべく、体を鍛える。
いぬがみです。
こないだ本棚を整理して澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』を再発見し、その三島氏の「太陽と鉄」を読み、さらにユルスナールの「三島あるいは空虚のヴィジョン」……と、続けざまに読んでいる私です。
すでにこの時点で私は三島氏に強く魅了されています。困ったことにそれが、例えば三島氏の文学を読んで感動して……というのではなく、精神と肉体のそれぞれを鍛え上げて自分の求める境地にたどり着こうとした三島氏の生き方そのものに共感あるいは共鳴してしまっているのです。
実際に私が同じ轍を踏まないのは、私が三島氏と比べてあまりにも凡庸であり拙劣であり、またアニメや漫画やその他もろもろ……三島氏や澁澤氏が生きていた時代には存在しなかった雑多なものに、すでに心をからめとられているからです。
そして、それゆえに私はまだまだ生きていたいと願うからです。
今回の妄想は、私がゆるぎない生への執着を心の中にいつも燃やし続けていることを前提にお読みください。って、ここまで書いている文章を読んで、すでに皆さまあきれ返って、このあとの駄文を読むことはないでしょうが。それであればこそ、私も心置きなく妄想をメモすることができるのですが。
とりあえず私が思っていることを書きます。
市ヶ谷で割腹自殺を遂げた三島氏は、ヴェトナム戦争に反対して抗議の焼身自殺を遂げた僧侶と重なります。
どちらも、何かしらの精神的危機に追い込まれ衝動的に自殺した……という凡百のそれとは異なります。おそらくですが、自分の意志で、よりによって非常に苦痛を伴うであろう方法により自殺をしようと思ったのです。
どうして?
そのことを検索すれば、なんやかんやと情報が見つかるでしょう。時間も空間も異なる人たちがそれぞれに推測して論じていることでしょう。しかし、私はそういうのを見ようとは思いません。
彼らのことを思えば、どうしても客観的になれないからです。
どうしても、どうしても軍服に身を包み関孫六を携えて市ヶ谷に飛び込んだ三島氏やガソリンを持って往来に出ていった僧侶に、自分自身を重ねてしまうのです。まるで自分がその当事者になったようなイメージを持ってしまうのです。
その日――自分が切腹や焼身といった、凄惨極まりない、およそ人間が知覚できる最大限の苦痛を伴う死を、自分自身の手で行う時、どういう気持ちなんだろう。
たとえば、明日の朝、それをすると決めていたら。
「今日は寝る。明日起きる。そして明日の正午に自分は死ぬ。自分の手で。自分の意志で。」
「ガソリンをかぶって、自分で火をつける」
「鋭い刀を自分の腹につきたてる。さらに突き立てた刀を、意志をもって真横に滑らせる。そして自分の腹筋と内臓をズタズタに切り裂く」
1月19日にそうすると1月1日に決めて、それまで、どんな思いで生きるのか。
その日、何を思うのか。
前の日の夜、何を思うのか。
「豊饒の海」の最終稿を、切腹する日にまとめ上げた三島氏はどう思っていたのか。
その前の日の夜、何を思っていたのか。
今、何を思うのか。
今……。
何を……………………。
過度に先鋭化する精神を御するべく、体を鍛える。
いぬがみです。
こないだ本棚を整理して澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』を再発見し、その三島氏の「太陽と鉄」を読み、さらにユルスナールの「三島あるいは空虚のヴィジョン」……と、続けざまに読んでいる私です。
すでにこの時点で私は三島氏に強く魅了されています。困ったことにそれが、例えば三島氏の文学を読んで感動して……というのではなく、精神と肉体のそれぞれを鍛え上げて自分の求める境地にたどり着こうとした三島氏の生き方そのものに共感あるいは共鳴してしまっているのです。
実際に私が同じ轍を踏まないのは、私が三島氏と比べてあまりにも凡庸であり拙劣であり、またアニメや漫画やその他もろもろ……三島氏や澁澤氏が生きていた時代には存在しなかった雑多なものに、すでに心をからめとられているからです。
そして、それゆえに私はまだまだ生きていたいと願うからです。
今回の妄想は、私がゆるぎない生への執着を心の中にいつも燃やし続けていることを前提にお読みください。って、ここまで書いている文章を読んで、すでに皆さまあきれ返って、このあとの駄文を読むことはないでしょうが。それであればこそ、私も心置きなく妄想をメモすることができるのですが。
とりあえず私が思っていることを書きます。
市ヶ谷で割腹自殺を遂げた三島氏は、ヴェトナム戦争に反対して抗議の焼身自殺を遂げた僧侶と重なります。
どちらも、何かしらの精神的危機に追い込まれ衝動的に自殺した……という凡百のそれとは異なります。おそらくですが、自分の意志で、よりによって非常に苦痛を伴うであろう方法により自殺をしようと思ったのです。
どうして?
そのことを検索すれば、なんやかんやと情報が見つかるでしょう。時間も空間も異なる人たちがそれぞれに推測して論じていることでしょう。しかし、私はそういうのを見ようとは思いません。
彼らのことを思えば、どうしても客観的になれないからです。
どうしても、どうしても軍服に身を包み関孫六を携えて市ヶ谷に飛び込んだ三島氏やガソリンを持って往来に出ていった僧侶に、自分自身を重ねてしまうのです。まるで自分がその当事者になったようなイメージを持ってしまうのです。
その日――自分が切腹や焼身といった、凄惨極まりない、およそ人間が知覚できる最大限の苦痛を伴う死を、自分自身の手で行う時、どういう気持ちなんだろう。
たとえば、明日の朝、それをすると決めていたら。
「今日は寝る。明日起きる。そして明日の正午に自分は死ぬ。自分の手で。自分の意志で。」
「ガソリンをかぶって、自分で火をつける」
「鋭い刀を自分の腹につきたてる。さらに突き立てた刀を、意志をもって真横に滑らせる。そして自分の腹筋と内臓をズタズタに切り裂く」
1月19日にそうすると1月1日に決めて、それまで、どんな思いで生きるのか。
その日、何を思うのか。
前の日の夜、何を思うのか。
「豊饒の海」の最終稿を、切腹する日にまとめ上げた三島氏はどう思っていたのか。
その前の日の夜、何を思っていたのか。
今、何を思うのか。
今……。
何を……………………。
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