ギャラリー越後さんについては、一度Rimoさんの個展の時に書いてしまいましたが、時系列的にはこちらが最初となります。アンデパンダン展の時に初めて行ったということですね。
双葉ケ丘というのは住宅地です。正直、これまで訪れたことのないエリアであったため、完全にGoogle map頼みでどこをどう走ったものか……ともかく「目的地に到着しました」ということであたりを見回してみると……
はい、これがそうです。付近に駐車場らしい駐車場が見つけられなかったので(車でご来場の方はご注意ください)、邪魔にならなさそうなところにオートバイを止め、「ここ……だよねえ?」と恐る恐るドアを開きました。そうしたところギャラリーのオーナーである『越後しの』さんに温かく迎え入れていただき、3か所目のアンデパンダン観覧が始まりました。
チフリグリさんで心がときめき、中本美術館で心が若干ギスギスして、今度はどうなんだろう……と不安/高揚の入り混じった気分で入ると、まずはよく陽の入る窓にこれらの作品が展示されていました。せーのドン!
さて、これらの中でも特に文字通り心に刺さったのが、一番手前のこれでした。倍率ドンさらに倍!
まだXに復帰できないくらい心が痛んでいたので、まるで自分の心臓に錆びた釘を刺され、さらにそれをギギギギ……と引きずられているような感じがしました。まあ、見たままの内容なんですけど、本当にそのくらいの錯覚をしました。
一方で、このようにわかりやすく可愛いイラストもあり、色々な意味で不安定だった心がホッと和みました。今まで変化球(または魔球)みたいなのばかりポンポン投げ込まれていたので、ここに来て直球が来て安心したのでしょう。これは素直に文句なしで良いと思います! だって可愛いですもの!
あとは、写真作品で出展している人もいらっしゃいました。
これはルワンダで撮影された子どもたちの写真ということです。そういう写真の原点としては、私はやはり澤田教一さんとか一ノ瀬泰造氏らが活躍したヴェトナム戦争時代の写真になるんですが、そういう私が見て思ったのは、
「やっぱり、子どもの笑顔を撮るのが上手な人は素晴らしいなあ」
ということでした。それは写真撮影の技術というよりは、上手に被写体をリラックスさせる雰囲気作りとか、そういうところになるのだと思います。それは『ライカでグッドバイ』とか『地雷を踏んだらサヨウナラ』とか、あとヴェトナム戦争関連の色んな本を読んだうえで私が想像しているスキルです。きっとそういう場所で生きている人が自然に身につけているであろうスキル。私にそういうのがなかったとしても「ま、仕方ないか」と納得できるような種類のスキル。……
で、私はせいぜいこのギャラリー越後さんの雰囲気のいい出窓と合わせて、ちょっと「それっぽい」写真を撮ろうとして手持ちのスマホカメラでパチリとやり、出来栄えの無惨さに嗤いながらちょっと泣いてみるのが精一杯なのです。これでいい、これで……だって、私にも素敵な写真を見て「素敵だな」って感じる素直な心がまだ残っているのですから……。
なんて、ちょっとセンチメンタルな振りをしましたが、スミマセン泣いてはいません。でも、良いものを良いと認め、それを受け入れて楽しむことができるようになったのは事実です。何も私まで無理して輝かなくてもいいんだって。下手でも何でも写真が好きなら撮ればいいし、それをみんなに見せたかったら見せればいいんです。私にはそういう自由があるはずです。アマチュアの自由な精神。まさにアンデパンダン。
……そうか、そういうことか!
この記事が公開されるのは11月2日ですから、翌3日は「文化の日」です。なので最後にちょっとだけ、それを意識して、ちょっと結論めいたことを書いてみようと思います。
自由と独立の精神。誰にでも開かれた場。自分がいいと思ったものを自分の一等得意な方法で精いっぱい表現する。ジャンルも形式も違ったアレコレをいっぺんに見て私が感じたことをまとめているうちに、何かがはじけた気がします。
私だって、思い切り大好きを表現してもいいはずなんです。誰に遠慮がいるものか。公序良俗に反するのはダメですけど、そうでないなら……ね。今の時代はコミュニケーションツールが発達して、バズるとか、たくさん「いいね」がつくような表現じゃないといけないような風潮がありますが、そんなことはないんです。むしろ流行るものは廃れるものでもあります。それよりも「消費されない」ものを……誰にも気づかれず褒められもしないけど、無くなりもしない、ずっと心に残り続けるものを……そういうものを食べて生きていきたいし、自分でも形にしていきたいなと思いました。
この「消費されない」という言葉については、また別な機会に書きます。あとアンデパンダン展の話は、まだ続きます。これはまだ1日目のことなので。2日目の話はまた明日。
双葉ケ丘というのは住宅地です。正直、これまで訪れたことのないエリアであったため、完全にGoogle map頼みでどこをどう走ったものか……ともかく「目的地に到着しました」ということであたりを見回してみると……
はい、これがそうです。付近に駐車場らしい駐車場が見つけられなかったので(車でご来場の方はご注意ください)、邪魔にならなさそうなところにオートバイを止め、「ここ……だよねえ?」と恐る恐るドアを開きました。そうしたところギャラリーのオーナーである『越後しの』さんに温かく迎え入れていただき、3か所目のアンデパンダン観覧が始まりました。
チフリグリさんで心がときめき、中本美術館で心が若干ギスギスして、今度はどうなんだろう……と不安/高揚の入り混じった気分で入ると、まずはよく陽の入る窓にこれらの作品が展示されていました。せーのドン!
さて、これらの中でも特に文字通り心に刺さったのが、一番手前のこれでした。倍率ドンさらに倍!
まだXに復帰できないくらい心が痛んでいたので、まるで自分の心臓に錆びた釘を刺され、さらにそれをギギギギ……と引きずられているような感じがしました。まあ、見たままの内容なんですけど、本当にそのくらいの錯覚をしました。
一方で、このようにわかりやすく可愛いイラストもあり、色々な意味で不安定だった心がホッと和みました。今まで変化球(または魔球)みたいなのばかりポンポン投げ込まれていたので、ここに来て直球が来て安心したのでしょう。これは素直に文句なしで良いと思います! だって可愛いですもの!
あとは、写真作品で出展している人もいらっしゃいました。
これはルワンダで撮影された子どもたちの写真ということです。そういう写真の原点としては、私はやはり澤田教一さんとか一ノ瀬泰造氏らが活躍したヴェトナム戦争時代の写真になるんですが、そういう私が見て思ったのは、
「やっぱり、子どもの笑顔を撮るのが上手な人は素晴らしいなあ」
ということでした。それは写真撮影の技術というよりは、上手に被写体をリラックスさせる雰囲気作りとか、そういうところになるのだと思います。それは『ライカでグッドバイ』とか『地雷を踏んだらサヨウナラ』とか、あとヴェトナム戦争関連の色んな本を読んだうえで私が想像しているスキルです。きっとそういう場所で生きている人が自然に身につけているであろうスキル。私にそういうのがなかったとしても「ま、仕方ないか」と納得できるような種類のスキル。……
で、私はせいぜいこのギャラリー越後さんの雰囲気のいい出窓と合わせて、ちょっと「それっぽい」写真を撮ろうとして手持ちのスマホカメラでパチリとやり、出来栄えの無惨さに嗤いながらちょっと泣いてみるのが精一杯なのです。これでいい、これで……だって、私にも素敵な写真を見て「素敵だな」って感じる素直な心がまだ残っているのですから……。
なんて、ちょっとセンチメンタルな振りをしましたが、スミマセン泣いてはいません。でも、良いものを良いと認め、それを受け入れて楽しむことができるようになったのは事実です。何も私まで無理して輝かなくてもいいんだって。下手でも何でも写真が好きなら撮ればいいし、それをみんなに見せたかったら見せればいいんです。私にはそういう自由があるはずです。アマチュアの自由な精神。まさにアンデパンダン。
……そうか、そういうことか!
この記事が公開されるのは11月2日ですから、翌3日は「文化の日」です。なので最後にちょっとだけ、それを意識して、ちょっと結論めいたことを書いてみようと思います。
自由と独立の精神。誰にでも開かれた場。自分がいいと思ったものを自分の一等得意な方法で精いっぱい表現する。ジャンルも形式も違ったアレコレをいっぺんに見て私が感じたことをまとめているうちに、何かがはじけた気がします。
私だって、思い切り大好きを表現してもいいはずなんです。誰に遠慮がいるものか。公序良俗に反するのはダメですけど、そうでないなら……ね。今の時代はコミュニケーションツールが発達して、バズるとか、たくさん「いいね」がつくような表現じゃないといけないような風潮がありますが、そんなことはないんです。むしろ流行るものは廃れるものでもあります。それよりも「消費されない」ものを……誰にも気づかれず褒められもしないけど、無くなりもしない、ずっと心に残り続けるものを……そういうものを食べて生きていきたいし、自分でも形にしていきたいなと思いました。
この「消費されない」という言葉については、また別な機会に書きます。あとアンデパンダン展の話は、まだ続きます。これはまだ1日目のことなので。2日目の話はまた明日。
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11月になりました。秋深し、隣は何をする人ぞ。これを書いているのはまだ10月21日なんですけどね。
前回の続きです。ギャラリーチフリグリさんでお話を伺いながら色々と見て回り、次に訪れた「中本誠司現代美術館」は、青葉区の住宅街の中にあります。地理的なものはGoogle Mapを使わないとだめでしたが、近づいてみるとすぐにわかりました。
私はこの美術館に冠せられた作家のことをよく知りません。今回はアンデパンダン展のために来ました。特に運営の人がいるわけでもなく、詳しい説明もなかったので、次の機会があるまでこの中本誠司という人のことについては触れずに置きます。展示作品だけ見て帰って来たので、私の感想によるところがすべてです。
ここもなかなかバラエティに富んでいました。幼稚園だったか保育園だったか……子どもたちが真っ白なTシャツに思い思いの絵の具で彩ったシャツの歓迎を受けて館内に入ると、こちらも平面と立体それぞれの作品が展示されていました。まずは、ざっと写真をあげてみます。
……どうですか。
改めて写真を見返しつつ、ギャラリーを見た時のことを思い出すと、チフリグリさんの明るく楽しい雰囲気と逆に、冷たくて暗い雰囲気がしました。ただ、どちらも平面と立体、小さな子どもから大人まで、カオスなほどにバラエティに富んでいるのは事実です。
違いといえば、気持ちが明るくウキウキしてくるチフリグリさんと違い、こちらの展示物はどうも私にプレッシャーを与えて来るんですよね。なんか、目に見えない透明な板をもって私の心と体を押しつぶそうとするような圧力。それが、絵に込められた力だと思うので、心地よくはありませんが素晴らしいと思います。見ても何にも感じられない……具体的に何がそうだとは言いませんが……代物よりはずっといいです。
いや、本当に不思議な感じなんですよね。心地よくはないけど、それはそれで何か、心のなかのセンサーを刺激しているから。「この感情は何だろう?」というのが気になって、ますます絵の世界に入り込んでいく。これはなかなか面白い体験です。
ある意味、対決ですね。絵(あるいはその作者)と私との、心のぶつかり合い。私の心の中に、これをどう落とし込んでやろうかと挑戦的な気分になってしまいます。というとなんか喧嘩腰みたいになっちゃうなあ。違うんですよね、そうじゃなくて……ううん……。
あるいは、怖いものを見た時の感動に近いのかなあ。普段、あまり身近でないものを見てびっくりして、ちょっと怖がったりして。お化け屋敷に行ってキャー! って言って、怖い思いをして、でも終わった後なぜか「楽しかった!」ってなるような。うん、そういうのが、一等近い感覚かもしれません。
あと、4枚目のさんまのあたまについては、作者の意図とは違った写真の撮り方をしています。本来はこのような形で1セットとなります。手前の段ボール箱は豆腐であり、「醤油をかけたくなるもの」というのがコンセプトだそうです(後で展示リストと製作者のコメントを読んで気づきました)。ただ、私がパッと見た時の印象を伝えるため、あえてあのような構図の写真を先に掲載しました。
一方で、下記のような冷静かつ優しい作品もありました。写真の撮影順に並べているので、おおむね私が見た順番と思っていただいてよろしいかと存じます。
『アリアドネの糸』とは希臘神話に由来するものです。勇者テセウスがミノタウロス討伐のために迷宮に入った際、ちゃんと戻ってこられるように用意した糸のことで、現代では非常に難しい状況から抜け出す際に、その道しるべとなるもののたとえとして使われるそうです。果たして展示の順序を決めた人がそれと知っていたわけではないでしょうが、私としてもこのタイミングでアリアドネの糸にたどり着いたのは良かったです。そのあとは不安にざわざわした気持ちがゆっくりと癒されていき、最後は穏やかな気分で次の目的地『ギャラリー越後』さんに向かうことができたのですから。
……あれ? 結局チフリグリさんと同じくらいの文字数になっちゃいましたね。では、また日を改めて書きましょうか。こんなに長くなるとは思わなかったなあ。
前回の続きです。ギャラリーチフリグリさんでお話を伺いながら色々と見て回り、次に訪れた「中本誠司現代美術館」は、青葉区の住宅街の中にあります。地理的なものはGoogle Mapを使わないとだめでしたが、近づいてみるとすぐにわかりました。
私はこの美術館に冠せられた作家のことをよく知りません。今回はアンデパンダン展のために来ました。特に運営の人がいるわけでもなく、詳しい説明もなかったので、次の機会があるまでこの中本誠司という人のことについては触れずに置きます。展示作品だけ見て帰って来たので、私の感想によるところがすべてです。
ここもなかなかバラエティに富んでいました。幼稚園だったか保育園だったか……子どもたちが真っ白なTシャツに思い思いの絵の具で彩ったシャツの歓迎を受けて館内に入ると、こちらも平面と立体それぞれの作品が展示されていました。まずは、ざっと写真をあげてみます。
……どうですか。
改めて写真を見返しつつ、ギャラリーを見た時のことを思い出すと、チフリグリさんの明るく楽しい雰囲気と逆に、冷たくて暗い雰囲気がしました。ただ、どちらも平面と立体、小さな子どもから大人まで、カオスなほどにバラエティに富んでいるのは事実です。
違いといえば、気持ちが明るくウキウキしてくるチフリグリさんと違い、こちらの展示物はどうも私にプレッシャーを与えて来るんですよね。なんか、目に見えない透明な板をもって私の心と体を押しつぶそうとするような圧力。それが、絵に込められた力だと思うので、心地よくはありませんが素晴らしいと思います。見ても何にも感じられない……具体的に何がそうだとは言いませんが……代物よりはずっといいです。
いや、本当に不思議な感じなんですよね。心地よくはないけど、それはそれで何か、心のなかのセンサーを刺激しているから。「この感情は何だろう?」というのが気になって、ますます絵の世界に入り込んでいく。これはなかなか面白い体験です。
ある意味、対決ですね。絵(あるいはその作者)と私との、心のぶつかり合い。私の心の中に、これをどう落とし込んでやろうかと挑戦的な気分になってしまいます。というとなんか喧嘩腰みたいになっちゃうなあ。違うんですよね、そうじゃなくて……ううん……。
あるいは、怖いものを見た時の感動に近いのかなあ。普段、あまり身近でないものを見てびっくりして、ちょっと怖がったりして。お化け屋敷に行ってキャー! って言って、怖い思いをして、でも終わった後なぜか「楽しかった!」ってなるような。うん、そういうのが、一等近い感覚かもしれません。
あと、4枚目のさんまのあたまについては、作者の意図とは違った写真の撮り方をしています。本来はこのような形で1セットとなります。手前の段ボール箱は豆腐であり、「醤油をかけたくなるもの」というのがコンセプトだそうです(後で展示リストと製作者のコメントを読んで気づきました)。ただ、私がパッと見た時の印象を伝えるため、あえてあのような構図の写真を先に掲載しました。
一方で、下記のような冷静かつ優しい作品もありました。写真の撮影順に並べているので、おおむね私が見た順番と思っていただいてよろしいかと存じます。
『アリアドネの糸』とは希臘神話に由来するものです。勇者テセウスがミノタウロス討伐のために迷宮に入った際、ちゃんと戻ってこられるように用意した糸のことで、現代では非常に難しい状況から抜け出す際に、その道しるべとなるもののたとえとして使われるそうです。果たして展示の順序を決めた人がそれと知っていたわけではないでしょうが、私としてもこのタイミングでアリアドネの糸にたどり着いたのは良かったです。そのあとは不安にざわざわした気持ちがゆっくりと癒されていき、最後は穏やかな気分で次の目的地『ギャラリー越後』さんに向かうことができたのですから。
……あれ? 結局チフリグリさんと同じくらいの文字数になっちゃいましたね。では、また日を改めて書きましょうか。こんなに長くなるとは思わなかったなあ。
どういう切っ掛けでこの『せんだい21アンデパンダン展』というイベントが開催されることを知ったのか。正直よく覚えていないのですが、たぶん、9月21日あたりではないかと思うのです。その日はXに2件「これが最後の投稿になってもいいように」という内容をポストし、とある企画展(その話はまた長くなるので今日は語りません)を見て、
「1年前と同じように、ちょっとギャラリー巡りでもしてやろうか」
と泣きべその気持ちで青葉区大手町にある「ギャラリー ターンアラウンド」(タナラン)に行って撮った写真があったので、そういうことにしておきます。
この頃はブログ復帰後最初の記事でも書いたように、ひどく心を乱していて、自分で何かを発信することが上手にできなくなっていたので……その一方で、その企画展を切っ掛けに心がアートの世界に親しんでいたので……
「無審査? 何が飛び出すかわかったもんじゃないな。
面白そうじゃないか!」
と、『美男子と煙草』で浮浪者と一緒に写真を撮られた太宰治みたいに泣きながら強がって、実際に行ってみたら非常に面白かった……そういうことです。
面白かった。それで心の中にしまい込んでいてもいいんですが、今日(10月21日)は朝から何本も記事を書いていて、あれもこれも書きたいと気持ちが加速して止まらないので、勢いのままに書き出してみたいと思います。こうして感想を書くことで、私の筆力も僅かながら向上するでしょうし、(空)想像力も確実に向上するでしょうから。ええ、ここまで読んでくださったんですから。まあしばらくお付き合いください。
初めにお伺いしたのは宮城野区五輪の「ギャラリーチフリグリ」さん。近くには楽天の球場、また仙台育英の校舎などがあります。ギャラリーの方が私みたいなのにも色々と話し掛けてくれて、この後のギャラリー行脚(郊外篇)の良いスタートダッシュが切れました。
全部で6か所(+屋外会場1か所)回った中で、最初に訪れたここが一番カオス……いやバラエティに富んでいました。またギャラリーの方から聞いたお話しもあわせて、「アンデパンダン展って、こういう感じのイベント」という概要がつかめました。
平面でも立体でも、絵でも書画でも楽器でも人形でもいい。出展料さえ支払えば無審査でそれが美術展に出せるということで、
「普段はダンサーとして活動しているが、毎年この時だけは絵を描いて出展する」
「普段は書画の活動をしている人たちが、この企画のために共同で作品を作った」
「普段は職業美術家として活動しているが、毎年この時だけは変名で自由な作品を出展する」
……とのことです。また出展者の年齢も下は年中さん上は75歳と、本当に自由な感じです。
こちらは私のXでの投稿によく「いいね」をつけて下さる人首美鬼さんの作品です。
こちらは村井康文さんが描く……まあ、一見すると流行の漫画の二次創作であり、実際そうだといえばそうなんですが、混ぜ込まれた時事問題と地元ネタとの配分がとてつもなく高度で、凡百の二次創作同人誌なんかが束になっても勝てっこないような質と熱量でした。1ページめくるごとにドンドンのめり込んでしまって……ギャラリーの方も大変お気に入りだったようですが、それもわかります。これはスゴイ!
そしてこれは「カリンバ」という楽器です。楽器? そう楽器です。ベンチに腰かけて、両端にある金属の棒をはじくと、えもいわれぬ美しい澄んだ音が響きます。楽譜が読めなくたってカリンバを一度も演奏したことなくたって問題ありません。ただ座って適当に弾いてあげればいいのです。そうすると、何となく気持ちよくなって心がふわふわしてきます。これはそういう『宇宙船』のようなものなのです。
(これは私の空想ではなく、製作者「創作カリンバ工房」の方のテキストによるものです)
*
なんだか、チフリグリさんの話だけで1,500字くらい費やしてしまいましたが、まあ、たくさんお話をさせて頂きましたからね。いったんここで休憩しましょうか。続きはまた明日。
「1年前と同じように、ちょっとギャラリー巡りでもしてやろうか」
と泣きべその気持ちで青葉区大手町にある「ギャラリー ターンアラウンド」(タナラン)に行って撮った写真があったので、そういうことにしておきます。
この頃はブログ復帰後最初の記事でも書いたように、ひどく心を乱していて、自分で何かを発信することが上手にできなくなっていたので……その一方で、その企画展を切っ掛けに心がアートの世界に親しんでいたので……
「無審査? 何が飛び出すかわかったもんじゃないな。
面白そうじゃないか!」
と、『美男子と煙草』で浮浪者と一緒に写真を撮られた太宰治みたいに泣きながら強がって、実際に行ってみたら非常に面白かった……そういうことです。
面白かった。それで心の中にしまい込んでいてもいいんですが、今日(10月21日)は朝から何本も記事を書いていて、あれもこれも書きたいと気持ちが加速して止まらないので、勢いのままに書き出してみたいと思います。こうして感想を書くことで、私の筆力も僅かながら向上するでしょうし、(空)想像力も確実に向上するでしょうから。ええ、ここまで読んでくださったんですから。まあしばらくお付き合いください。
初めにお伺いしたのは宮城野区五輪の「ギャラリーチフリグリ」さん。近くには楽天の球場、また仙台育英の校舎などがあります。ギャラリーの方が私みたいなのにも色々と話し掛けてくれて、この後のギャラリー行脚(郊外篇)の良いスタートダッシュが切れました。
全部で6か所(+屋外会場1か所)回った中で、最初に訪れたここが一番カオス……いやバラエティに富んでいました。またギャラリーの方から聞いたお話しもあわせて、「アンデパンダン展って、こういう感じのイベント」という概要がつかめました。
平面でも立体でも、絵でも書画でも楽器でも人形でもいい。出展料さえ支払えば無審査でそれが美術展に出せるということで、
「普段はダンサーとして活動しているが、毎年この時だけは絵を描いて出展する」
「普段は書画の活動をしている人たちが、この企画のために共同で作品を作った」
「普段は職業美術家として活動しているが、毎年この時だけは変名で自由な作品を出展する」
……とのことです。また出展者の年齢も下は年中さん上は75歳と、本当に自由な感じです。
こちらは私のXでの投稿によく「いいね」をつけて下さる人首美鬼さんの作品です。
こちらは村井康文さんが描く……まあ、一見すると流行の漫画の二次創作であり、実際そうだといえばそうなんですが、混ぜ込まれた時事問題と地元ネタとの配分がとてつもなく高度で、凡百の二次創作同人誌なんかが束になっても勝てっこないような質と熱量でした。1ページめくるごとにドンドンのめり込んでしまって……ギャラリーの方も大変お気に入りだったようですが、それもわかります。これはスゴイ!
そしてこれは「カリンバ」という楽器です。楽器? そう楽器です。ベンチに腰かけて、両端にある金属の棒をはじくと、えもいわれぬ美しい澄んだ音が響きます。楽譜が読めなくたってカリンバを一度も演奏したことなくたって問題ありません。ただ座って適当に弾いてあげればいいのです。そうすると、何となく気持ちよくなって心がふわふわしてきます。これはそういう『宇宙船』のようなものなのです。
(これは私の空想ではなく、製作者「創作カリンバ工房」の方のテキストによるものです)
*
なんだか、チフリグリさんの話だけで1,500字くらい費やしてしまいましたが、まあ、たくさんお話をさせて頂きましたからね。いったんここで休憩しましょうか。続きはまた明日。
仙台市青葉区は双葉ケ丘というところにある「ギャラリー越後」にて、仙台市の美術作家Rimoさんの個展『再び生きる』を見てきました。
先日仙台市内の数か所のギャラリーで開催された無審査の芸術展『アンデパンダン展』の時にこちらのギャラリーの存在を知ったのですが、ここはアパルトマンの一室を使ったアトリエ兼ギャラリーで、私のアパルトマンから乗り物で10分、歩いても30分程度で着いてしまうという、割合近くの場所なのです。
ただしいつもオープンしているわけではなく、このように時々個展などを開催する時だけ開けるのだそうです。実際入り口は(扉の横に「いらっしゃいませどうぞ」という札が張り付いている以外は)アパルトマンのそれなので、なかなか入りづらいものがありますが、そ~っと開けるとオーナーの越後しのさんがご挨拶をして下さるので、私も気安く入れます。今回は二回目の来訪でした。
私が行ったのは10月22日の午前中だったのですが、ちょうどその時、作者のRimoさんがいらっしゃいました。新しい作品ができたのでそれを追加しに来たのだそうです。
作品は2点あります。まず1点は油絵。せーの、ドン!
Rimoさんいわく、「初めて、自分でも好きだと思えるような絵が描けた」とのことですから、会心の出来と言ったところでしょうか。30号のキャンバスに大きく鳥が描かれておりますが、それでも足りず、周りを覆うようにキャンバスを追加して雲の模様を付け加えた大作です。この機会とばかりにお話を伺いながら見ることができたのですが、よく見るとキャンバスごとに一つ一つ独立した、違った雲の絵が描かれているのですね。これはそれぞれ別な日の雲の様子を描いたそうで……。
そして感情家の私はどう思ったのか。じっと見ていると、特に真ん中の鳥ですね。これが、もう……キャンバスから浮き出して見えたんです。そのくらい印象が強くて。いや本当にステレオグラムとか、ああいう仕掛け絵を見た時のように、この鳥が飛び出してきたような錯覚をしました。隣の部屋でインスタレーション作品の準備をしているから、というのもあったのですが、いつまでも見飽きない、素敵な絵でした。いぎなり良いと思います!
そしてもう一点が、隣の部屋全体を使って表現されたインスタレーション作品です。なお私は今回この記事を書くにあたり、初めてこういう作品のことをインスタレーションというのだと知りました。続いての作品です。はい、ドン!
まったく全体像が伝わらない写真ばかりで申し訳ないのですが、本当に私自身、どう写真を撮ればいいのか、正直わからなかったのです。とりあえず印象的な部分を切り取っては見たものの、これは完全に力不足です。トホホ……。
仕方がないのでこれまたRimoさんのお話で補完します。それだってメモを取りながら聞いたわけじゃないので、結構抜け落ちている部分もあるのですが。
まずこのドレスですね。これは30年ほど前にRimoさんのお嬢様のために縫ったものだそうです(それをお召しになったお嬢様の当時の写真も飾られておりました)。それをベースに、リハビリのために歩いていた『万葉の森』(黒川郡大衡村)と、そこに住まうたくさんの蝶をちりばめた……今日いらっしゃったのは、その蝶の新しいものが出来上がったので、追加するためにやってきた……とのことです。何せひとつひとつ色付けをしているもので、大変な時間がかかっているそうです(1頭に3日かかったとか)。またドレスの足元に広がる長い裾は、万葉の森の水の流れを表しているとのことで、これは密かに「そうか!」と声を上げました。そうすると、部屋中に広がる木の枝のイメージともリンクしてきます。
そして感情家の私のダイナモが激しく回転し始め、ムクムクとイメージが広がりました。
30年前に少女を飾ったドレスは役目を終え、少しずつ朽ち始めていた。しかし、Rimoさんの手によって新たな生命を吹き込まれたドレスからは清らかな水が流れ出し、それを含んだ木々が成長して部屋いっぱいに広がっている。やがて無数の蝶が宿り、ここは思い出と希望をたたえた『万葉の森』となったのだった……。
なんかヤプーズの『森に棲む』みたいな話ですが(私はヤプーズが大好きです)、パッと見て、お話しを聞いて私の無意識からわき出したイメージはそんな感じです。これはむしろ、帰ってきて数時間経って思い返すほどに気持ちが湧き上がってきますね。ああ、これは良かったなあ、って。
*
帰り際、もう一度Rimoさんとお話しする機会があったので、アンデパンダン展で見た作品の感想も伝えさせていただきました。
これは教科書で読んで「初めて泣いた」宮沢賢治の『よだかの星』をイメージして制作した作品だった、とのことです。たまたまというか……いや、アンデパンダン展は仙台市内の数か所のギャラリーで同時多発的に開催されていて、それを頑張って全部回った私ですから、出合うべくして出合ったというべきでしょうね。そして、個展が開催されることも、このアンデパンダン展で初めて行ったギャラリー越後さんで開催されることも何かの縁だ、って言って訪れた。そうしたところ、ちょうどRimoさんご本人とお会いすることができた。すべてにおいて縁でしょう。やはり、積極的に行動すれば、おのずと縁が強まるのです。
そんな感じで一生懸命に気持ちを伝え、会場を後にしました。来年もまた個展を開催されるとのことなので、その時のために、今日はこの記事を書きました。色んなものを見て想像力を働かせ、感情のままに自分だけの空想世界を広げてそれを書きつける。それが感情家たる私の自己空想表現です。
先日仙台市内の数か所のギャラリーで開催された無審査の芸術展『アンデパンダン展』の時にこちらのギャラリーの存在を知ったのですが、ここはアパルトマンの一室を使ったアトリエ兼ギャラリーで、私のアパルトマンから乗り物で10分、歩いても30分程度で着いてしまうという、割合近くの場所なのです。
ただしいつもオープンしているわけではなく、このように時々個展などを開催する時だけ開けるのだそうです。実際入り口は(扉の横に「いらっしゃいませどうぞ」という札が張り付いている以外は)アパルトマンのそれなので、なかなか入りづらいものがありますが、そ~っと開けるとオーナーの越後しのさんがご挨拶をして下さるので、私も気安く入れます。今回は二回目の来訪でした。
私が行ったのは10月22日の午前中だったのですが、ちょうどその時、作者のRimoさんがいらっしゃいました。新しい作品ができたのでそれを追加しに来たのだそうです。
作品は2点あります。まず1点は油絵。せーの、ドン!
Rimoさんいわく、「初めて、自分でも好きだと思えるような絵が描けた」とのことですから、会心の出来と言ったところでしょうか。30号のキャンバスに大きく鳥が描かれておりますが、それでも足りず、周りを覆うようにキャンバスを追加して雲の模様を付け加えた大作です。この機会とばかりにお話を伺いながら見ることができたのですが、よく見るとキャンバスごとに一つ一つ独立した、違った雲の絵が描かれているのですね。これはそれぞれ別な日の雲の様子を描いたそうで……。
そして感情家の私はどう思ったのか。じっと見ていると、特に真ん中の鳥ですね。これが、もう……キャンバスから浮き出して見えたんです。そのくらい印象が強くて。いや本当にステレオグラムとか、ああいう仕掛け絵を見た時のように、この鳥が飛び出してきたような錯覚をしました。隣の部屋でインスタレーション作品の準備をしているから、というのもあったのですが、いつまでも見飽きない、素敵な絵でした。いぎなり良いと思います!
そしてもう一点が、隣の部屋全体を使って表現されたインスタレーション作品です。なお私は今回この記事を書くにあたり、初めてこういう作品のことをインスタレーションというのだと知りました。続いての作品です。はい、ドン!
まったく全体像が伝わらない写真ばかりで申し訳ないのですが、本当に私自身、どう写真を撮ればいいのか、正直わからなかったのです。とりあえず印象的な部分を切り取っては見たものの、これは完全に力不足です。トホホ……。
仕方がないのでこれまたRimoさんのお話で補完します。それだってメモを取りながら聞いたわけじゃないので、結構抜け落ちている部分もあるのですが。
まずこのドレスですね。これは30年ほど前にRimoさんのお嬢様のために縫ったものだそうです(それをお召しになったお嬢様の当時の写真も飾られておりました)。それをベースに、リハビリのために歩いていた『万葉の森』(黒川郡大衡村)と、そこに住まうたくさんの蝶をちりばめた……今日いらっしゃったのは、その蝶の新しいものが出来上がったので、追加するためにやってきた……とのことです。何せひとつひとつ色付けをしているもので、大変な時間がかかっているそうです(1頭に3日かかったとか)。またドレスの足元に広がる長い裾は、万葉の森の水の流れを表しているとのことで、これは密かに「そうか!」と声を上げました。そうすると、部屋中に広がる木の枝のイメージともリンクしてきます。
そして感情家の私のダイナモが激しく回転し始め、ムクムクとイメージが広がりました。
30年前に少女を飾ったドレスは役目を終え、少しずつ朽ち始めていた。しかし、Rimoさんの手によって新たな生命を吹き込まれたドレスからは清らかな水が流れ出し、それを含んだ木々が成長して部屋いっぱいに広がっている。やがて無数の蝶が宿り、ここは思い出と希望をたたえた『万葉の森』となったのだった……。
なんかヤプーズの『森に棲む』みたいな話ですが(私はヤプーズが大好きです)、パッと見て、お話しを聞いて私の無意識からわき出したイメージはそんな感じです。これはむしろ、帰ってきて数時間経って思い返すほどに気持ちが湧き上がってきますね。ああ、これは良かったなあ、って。
*
帰り際、もう一度Rimoさんとお話しする機会があったので、アンデパンダン展で見た作品の感想も伝えさせていただきました。
これは教科書で読んで「初めて泣いた」宮沢賢治の『よだかの星』をイメージして制作した作品だった、とのことです。たまたまというか……いや、アンデパンダン展は仙台市内の数か所のギャラリーで同時多発的に開催されていて、それを頑張って全部回った私ですから、出合うべくして出合ったというべきでしょうね。そして、個展が開催されることも、このアンデパンダン展で初めて行ったギャラリー越後さんで開催されることも何かの縁だ、って言って訪れた。そうしたところ、ちょうどRimoさんご本人とお会いすることができた。すべてにおいて縁でしょう。やはり、積極的に行動すれば、おのずと縁が強まるのです。
そんな感じで一生懸命に気持ちを伝え、会場を後にしました。来年もまた個展を開催されるとのことなので、その時のために、今日はこの記事を書きました。色んなものを見て想像力を働かせ、感情のままに自分だけの空想世界を広げてそれを書きつける。それが感情家たる私の自己空想表現です。
初めに大事なことを書いておきます。
先月Xを休止してブログを再開した頃から、「認識者」または「受信者」としての自分を突き詰めるべく奮闘しております。
それは対象によって「観る」だったり「聴く」だったり「読む」だったりするわけですが、いずれにしても私は完全な受け手としてそれに向き合います。「自分だったらこう演じる」とか「私も今度、文章を書くときにこういう技法を真似てみよう」とか、そんな小賢しいことはすべて排除し、ただただ楽しむのです。
でも、楽しんで終わりじゃただの消費行為です。XでもyoutubeでもTikTokとやらでもいいんですが、次から次へと新しいものが現れては消えてしまいます。感想も「エモい」とか何とかって刹那的な快楽になっているのではないでしょうか。少なくとも私の感想はそうです。そうなっていました。
確かに、最初に字数制限を無視して書きたいことを書き、そこから削りに削ってようやく140文字にして発信するとか、そういう方法をとってはいるのですが、それでも毎日毎日そんな短い言葉ばかり使っていると、短い文章しか書けなくなります。せっかくの感動も薄まって細切れになって溶けてしまいます。私はね。私は……。
だから、じっくりと長い文章に向き合う。そして自分の心が感じたことを大切にしながら、それをどんどん膨らませていく。膨らんだ感想をできるだけ損なわないように片っ端から文章にしてみる。そうすると1000~3000字、時には6000字級の文章が出てくるわけです。このブログは今やそんなヘヴィ級の文章を連発する壮絶な解放治療場と化してしまったのです。
でも、そう言うのが必要だと思います。そうして自分の心をしっかり守りながらはぐくんでいく。1か月くらい続けて、私の心も少しずつ復調しています。1日おきとか2日おきにXもやっていますし、やったら自分の好きな人にリプライをつける位のことはしますが、わざわざXで発信するよりはこのブログで思い切りのびのびと書いていた方が楽しいのです。誰が読んでくれているのかわかりませんが、ともかくこれが私です。そんな私がこないだ見てきた写真展のことについて、今回は、書いてみたいと思います。
*
現在、仙台市内のギャラリーでは「仙台写真月間」という催し物が開催されています。仙台市青葉区錦町にある「仙台アーティストランプレイス」(SARP)で毎週、異なる写真家のひとの展示が開催されるので、写真(下手の横)好きとして見てきました。ただこのごろは先述したように、もう自分にはいわゆる「上手な写真」は撮れっこないから……という気になっているので、別に技術を学ぼうとかそういうわけではなく、ね。ただ見てみたいから見に行く。それだけです。
感想を第一に言うと、沖縄で撮影されたという事前情報がなければ、それとわからないような写真です。送電線の鉄塔とか、どこかの橋脚とか、そんなのばかりで。ただ、そんなことはどうでもよくて――ひたすら画面の大半を占める空間の広さが気に入りました。
心をふさいでいた蓋がパン! と吹き飛ばされたのです。そして、それっきり音も何もない「制止した世界」に自分が立っている気分になりました。しばらく――ずっと――眺めていたくて、その場に立っていました。
嬉しかったです。嬉しい?
ええ、確実に「受け手」としての私の内面、心は開かれていることが確認できたからです。そして、こうしてそれを言葉にして伝えることも、だんだん思い通りにできるようになってきたからです。
そう、やはり私はこれがいいんです。自分が何かを発信して誰かを感動させるなんて夢のまた夢です。というよりも、夢見る必要すらありません。私がどれほど頑張って輝いて見せたところで、それ以上に輝く星がいっぱいあるのでは、仕方ないじゃありませんか。だったら私が輝かなくてもいい。その代わりそこに星が輝いていることを見つける側の人間になろう。地上から星を見上げる人間になろう。観測者、認識者になろう。そういう活動が確実に心身を良い方向に運んでいると確認できたのです。
そのうえで、感想は伝えます。感想を伝えるにも技術は必要です。ただし感想とは別に技術技法を解説するものでなくても良いと思います。自分がどんなところをどう感じたか、自分の経験と照らし合わせて何を思ったか。そういう、私にしか見えないような魅力を伝え、「そうだったのか…」と思ってもらえるだけの技術は必要であると思います。
おや? 確か私は「別に、誰も読んでくれなくてもいい、伝わらなくてもいい」と思っていたのではなかったかな? 確かにそれはそうです。ただ、今この文章を書いている中で思ったのは、それとはまた少し違っていて……まだうまく言えないのですが、大体こんな感じでしょうか。すなわち、
「読んでくれなくてもいい。伝わらなくてもいい。でも伝わるよう努力はする。読んでもらいたい心は込める。今は伝わらなくても、いつか伝わるように。わかってもらえる人がいてくれると信じて、ひたすら書き続ける」
今は誰も読んでくれなくても、更に十年二十年と続けたら、少しは良くなっていくかもしれない。もしかしたら、一生誰にも読まれないまま終わってしまうかもしれないけれど、それでもいいじゃないか。とにかく書き出してみる。それで私の心が育つなら、それでいいじゃないか。
そんな感じで、やっぱりブログは続けていきたいと思います。毎日書きます。ただ、既にお気づきと思いますが、時間があって書きたいことが山ほどある時は、何日分かまとめて書いています。時間が経てば鮮度が落ちるから、新鮮なうちに調理してしまわないといけないのです。今日はもう4日分くらい書きました。読むに堪えない雑文ですが、それでも積み上げればきっと……。
先月Xを休止してブログを再開した頃から、「認識者」または「受信者」としての自分を突き詰めるべく奮闘しております。
それは対象によって「観る」だったり「聴く」だったり「読む」だったりするわけですが、いずれにしても私は完全な受け手としてそれに向き合います。「自分だったらこう演じる」とか「私も今度、文章を書くときにこういう技法を真似てみよう」とか、そんな小賢しいことはすべて排除し、ただただ楽しむのです。
でも、楽しんで終わりじゃただの消費行為です。XでもyoutubeでもTikTokとやらでもいいんですが、次から次へと新しいものが現れては消えてしまいます。感想も「エモい」とか何とかって刹那的な快楽になっているのではないでしょうか。少なくとも私の感想はそうです。そうなっていました。
確かに、最初に字数制限を無視して書きたいことを書き、そこから削りに削ってようやく140文字にして発信するとか、そういう方法をとってはいるのですが、それでも毎日毎日そんな短い言葉ばかり使っていると、短い文章しか書けなくなります。せっかくの感動も薄まって細切れになって溶けてしまいます。私はね。私は……。
だから、じっくりと長い文章に向き合う。そして自分の心が感じたことを大切にしながら、それをどんどん膨らませていく。膨らんだ感想をできるだけ損なわないように片っ端から文章にしてみる。そうすると1000~3000字、時には6000字級の文章が出てくるわけです。このブログは今やそんなヘヴィ級の文章を連発する壮絶な解放治療場と化してしまったのです。
でも、そう言うのが必要だと思います。そうして自分の心をしっかり守りながらはぐくんでいく。1か月くらい続けて、私の心も少しずつ復調しています。1日おきとか2日おきにXもやっていますし、やったら自分の好きな人にリプライをつける位のことはしますが、わざわざXで発信するよりはこのブログで思い切りのびのびと書いていた方が楽しいのです。誰が読んでくれているのかわかりませんが、ともかくこれが私です。そんな私がこないだ見てきた写真展のことについて、今回は、書いてみたいと思います。
*
現在、仙台市内のギャラリーでは「仙台写真月間」という催し物が開催されています。仙台市青葉区錦町にある「仙台アーティストランプレイス」(SARP)で毎週、異なる写真家のひとの展示が開催されるので、写真(下手の横)好きとして見てきました。ただこのごろは先述したように、もう自分にはいわゆる「上手な写真」は撮れっこないから……という気になっているので、別に技術を学ぼうとかそういうわけではなく、ね。ただ見てみたいから見に行く。それだけです。
感想を第一に言うと、沖縄で撮影されたという事前情報がなければ、それとわからないような写真です。送電線の鉄塔とか、どこかの橋脚とか、そんなのばかりで。ただ、そんなことはどうでもよくて――ひたすら画面の大半を占める空間の広さが気に入りました。
心をふさいでいた蓋がパン! と吹き飛ばされたのです。そして、それっきり音も何もない「制止した世界」に自分が立っている気分になりました。しばらく――ずっと――眺めていたくて、その場に立っていました。
嬉しかったです。嬉しい?
ええ、確実に「受け手」としての私の内面、心は開かれていることが確認できたからです。そして、こうしてそれを言葉にして伝えることも、だんだん思い通りにできるようになってきたからです。
そう、やはり私はこれがいいんです。自分が何かを発信して誰かを感動させるなんて夢のまた夢です。というよりも、夢見る必要すらありません。私がどれほど頑張って輝いて見せたところで、それ以上に輝く星がいっぱいあるのでは、仕方ないじゃありませんか。だったら私が輝かなくてもいい。その代わりそこに星が輝いていることを見つける側の人間になろう。地上から星を見上げる人間になろう。観測者、認識者になろう。そういう活動が確実に心身を良い方向に運んでいると確認できたのです。
そのうえで、感想は伝えます。感想を伝えるにも技術は必要です。ただし感想とは別に技術技法を解説するものでなくても良いと思います。自分がどんなところをどう感じたか、自分の経験と照らし合わせて何を思ったか。そういう、私にしか見えないような魅力を伝え、「そうだったのか…」と思ってもらえるだけの技術は必要であると思います。
おや? 確か私は「別に、誰も読んでくれなくてもいい、伝わらなくてもいい」と思っていたのではなかったかな? 確かにそれはそうです。ただ、今この文章を書いている中で思ったのは、それとはまた少し違っていて……まだうまく言えないのですが、大体こんな感じでしょうか。すなわち、
「読んでくれなくてもいい。伝わらなくてもいい。でも伝わるよう努力はする。読んでもらいたい心は込める。今は伝わらなくても、いつか伝わるように。わかってもらえる人がいてくれると信じて、ひたすら書き続ける」
今は誰も読んでくれなくても、更に十年二十年と続けたら、少しは良くなっていくかもしれない。もしかしたら、一生誰にも読まれないまま終わってしまうかもしれないけれど、それでもいいじゃないか。とにかく書き出してみる。それで私の心が育つなら、それでいいじゃないか。
そんな感じで、やっぱりブログは続けていきたいと思います。毎日書きます。ただ、既にお気づきと思いますが、時間があって書きたいことが山ほどある時は、何日分かまとめて書いています。時間が経てば鮮度が落ちるから、新鮮なうちに調理してしまわないといけないのです。今日はもう4日分くらい書きました。読むに堪えない雑文ですが、それでも積み上げればきっと……。
こんにちは
ちょっとアート見てきました
高杉です(6/18に書いた記事です)。
通勤やお出かけのため週5か週6くらいで利用する仙台市地下鉄南北線旭ヶ丘駅の掲示板で、佐々木香奈子さんの個展をメディアテークでやるという情報を聞いて、行ってきました。
あいにく美術方面には全く明るくないものの、かつて拠点を置いていた青森県十和田市の名所「現代美術館」で少しく影響を受けていたので、
「パッと見てハッとして!Goodしたらそれでオッケー」
という感覚があります。若干80年代的な言い回しで恐縮ですが、素人であることを言い訳にして、評論的な良し悪しをレビューすることをご容赦していただきたいと思います。てなことを言いつつ見てきました。ちょうど借りていた本を返すために行ったしね。
率直に言ってどうだったかといえば、非常に良かったです。
青色を基調に描かれた抽象画はキャンパスだけでなく、ハーレーダビッドソンの車体を彩ったり(解説文の中では、映画の中でジャンヌ・ダルクが発した「follow me」という言葉に関連付けられていたようです)、AR的な演出をしたり……と、色々楽しませていただきました。これは私がオートバイ乗りで新しもの好きだから、というだけではありません。
確かに抽象画というのは、具体的に「何がどういいのか」わかりません。ただ私の精神構造も抽象画みたいなもんですから、グチャグチャドロドロした、自分でもよくわからない自分の心を限りなく純粋に形にしてくれたような気がして。それが嬉しいような、気持ちいいような。
そうですね、とにかく見ていて、心地よかったのです。
会場には佐々木香奈子さんご本人もいらっしゃいました。もちろんシャイな私ですから、顔見知りの人と親しげに話しているのと遠めに見ているだけだったのですが、すごく心に響きました。このブログで発信したところで……とは思いますが、とにかく世界中に発信します。すごく良かったです。
ちょっとアート見てきました
高杉です(6/18に書いた記事です)。
通勤やお出かけのため週5か週6くらいで利用する仙台市地下鉄南北線旭ヶ丘駅の掲示板で、佐々木香奈子さんの個展をメディアテークでやるという情報を聞いて、行ってきました。
あいにく美術方面には全く明るくないものの、かつて拠点を置いていた青森県十和田市の名所「現代美術館」で少しく影響を受けていたので、
「パッと見てハッとして!Goodしたらそれでオッケー」
という感覚があります。若干80年代的な言い回しで恐縮ですが、素人であることを言い訳にして、評論的な良し悪しをレビューすることをご容赦していただきたいと思います。てなことを言いつつ見てきました。ちょうど借りていた本を返すために行ったしね。
率直に言ってどうだったかといえば、非常に良かったです。
青色を基調に描かれた抽象画はキャンパスだけでなく、ハーレーダビッドソンの車体を彩ったり(解説文の中では、映画の中でジャンヌ・ダルクが発した「follow me」という言葉に関連付けられていたようです)、AR的な演出をしたり……と、色々楽しませていただきました。これは私がオートバイ乗りで新しもの好きだから、というだけではありません。
確かに抽象画というのは、具体的に「何がどういいのか」わかりません。ただ私の精神構造も抽象画みたいなもんですから、グチャグチャドロドロした、自分でもよくわからない自分の心を限りなく純粋に形にしてくれたような気がして。それが嬉しいような、気持ちいいような。
そうですね、とにかく見ていて、心地よかったのです。
会場には佐々木香奈子さんご本人もいらっしゃいました。もちろんシャイな私ですから、顔見知りの人と親しげに話しているのと遠めに見ているだけだったのですが、すごく心に響きました。このブログで発信したところで……とは思いますが、とにかく世界中に発信します。すごく良かったです。