(この記事は11月12日に書きました)
叔母が帰天してから1週間が経ちました。今日は仏教的な言い方をすれば「初七日」です。
この初七日というのは葬儀を終えた日からではなく、実際に帰天した日からカウントするそうです。その日も含めて七日間なので、11月6日から11月12日……これで一週間、初七日です。
人間が仏になるまでは四十九日間の修行があり、一週間ごとに閻魔様の審査を受けるとか。そして七日ごとにこちらを振り返るらしいので、ちゃんと往生できるように供養をしなければならない……というお話しだったでしょうか。完全に修行を終えてしまえば、迷わず成仏となるのでしょうから、それまでは普段通りの生活をしつつもちゃんと気にかけてみようかと思います。天の国に至る道が四十九日もかかるとは、聖書には書いていなかった気がしますが。まあいいです。私も緩やかな自称クリスチャン(非洗礼)だし。とにかく今生きている人の気持ちが安らげばいいんです。縄文時代でさえ「とむらい」という文化があったみたいだし。集団的無意識に深く深~く受け継がれてきた感情を大事にしたいと思います。
今回は岩手、および静岡からも親戚が集まり仙台にて葬儀を行ったのですが、葬儀告別さらに百か日法要まで全部まとめてやってしまいました。随分と合理的なお話しですが、まあ臨済宗の和尚さんがきちんと供養をしてくれたので、間違いはありません。それに和尚さんも、「法要はやったけれど初七日は来ます。四十九日は来ます。だから故人がちゃんと成仏できるように、みなさんもしっかり生きてください」ということをおっしゃっていたので、これで終わりではないんです。セレモニーは終わったけれど、心にずっと生き続ける。それでいいんです。
ちなみに臨済宗というのは禅宗の流派で、浄土宗とかとは少々スタイルが違うみたいです。読経の時に叩く木魚の力の入り具合とかも激しいし、右手で木魚を叩きながら左手で時々鏧子(けいす)をゴーンと叩いたり、おりんを連続的にチーンチーンチーンと鳴らしたり、極めつけは「かーつっ!」と絶叫したり……実にエキサイティングです。ロックですねどうもね。
って、莫迦なことを言ってはいけません。この喝は『引導』の喝です。中国の黄檗希運禅師が母を成仏させるために引導法語のち大喝さらに松明を放り投げた……そして川底に沈んでいた母は浮かび上がり、松明を頼りに無明の世界を渡り成仏したのです。実際に松明を模したオブジェを片手に大喝一閃! 祭壇に向けて力いっぱいそれをぶん投げた!……わけではありませんが、ともかくこれで叔母も心置きなく旅路に踏み出せることでしょう。
なんだか随分と罰当たりなというか、そろそろ臨済宗関係の人から袋叩きにされそうなことばかり書いていますが、あっという間に荼毘に付され、遺骨を抱えて葬儀場に戻り、お別れの言葉を述べて……とイベントがギュギュっと凝縮されていて、こうして書き出さないと自分でも心の整理がつかないのです。そして、葬式の話なんて気持ちのいいものではないと思うので、精いっぱい明るく書いています。
「生きるお葬式」なんていう某会館のフレーズはあまりピンと来ませんが、個人的には明るく楽しく送り出せたような気がします。あんまり湿っぽい思い出はなく、一方的ではあるものの、私は楽しい思い出を最後に送ったつもりです。その点については、また改めて書くとしましょう。ひとまず今日はこの辺で。
叔母が帰天してから1週間が経ちました。今日は仏教的な言い方をすれば「初七日」です。
この初七日というのは葬儀を終えた日からではなく、実際に帰天した日からカウントするそうです。その日も含めて七日間なので、11月6日から11月12日……これで一週間、初七日です。
人間が仏になるまでは四十九日間の修行があり、一週間ごとに閻魔様の審査を受けるとか。そして七日ごとにこちらを振り返るらしいので、ちゃんと往生できるように供養をしなければならない……というお話しだったでしょうか。完全に修行を終えてしまえば、迷わず成仏となるのでしょうから、それまでは普段通りの生活をしつつもちゃんと気にかけてみようかと思います。天の国に至る道が四十九日もかかるとは、聖書には書いていなかった気がしますが。まあいいです。私も緩やかな自称クリスチャン(非洗礼)だし。とにかく今生きている人の気持ちが安らげばいいんです。縄文時代でさえ「とむらい」という文化があったみたいだし。集団的無意識に深く深~く受け継がれてきた感情を大事にしたいと思います。
今回は岩手、および静岡からも親戚が集まり仙台にて葬儀を行ったのですが、葬儀告別さらに百か日法要まで全部まとめてやってしまいました。随分と合理的なお話しですが、まあ臨済宗の和尚さんがきちんと供養をしてくれたので、間違いはありません。それに和尚さんも、「法要はやったけれど初七日は来ます。四十九日は来ます。だから故人がちゃんと成仏できるように、みなさんもしっかり生きてください」ということをおっしゃっていたので、これで終わりではないんです。セレモニーは終わったけれど、心にずっと生き続ける。それでいいんです。
ちなみに臨済宗というのは禅宗の流派で、浄土宗とかとは少々スタイルが違うみたいです。読経の時に叩く木魚の力の入り具合とかも激しいし、右手で木魚を叩きながら左手で時々鏧子(けいす)をゴーンと叩いたり、おりんを連続的にチーンチーンチーンと鳴らしたり、極めつけは「かーつっ!」と絶叫したり……実にエキサイティングです。ロックですねどうもね。
って、莫迦なことを言ってはいけません。この喝は『引導』の喝です。中国の黄檗希運禅師が母を成仏させるために引導法語のち大喝さらに松明を放り投げた……そして川底に沈んでいた母は浮かび上がり、松明を頼りに無明の世界を渡り成仏したのです。実際に松明を模したオブジェを片手に大喝一閃! 祭壇に向けて力いっぱいそれをぶん投げた!……わけではありませんが、ともかくこれで叔母も心置きなく旅路に踏み出せることでしょう。
なんだか随分と罰当たりなというか、そろそろ臨済宗関係の人から袋叩きにされそうなことばかり書いていますが、あっという間に荼毘に付され、遺骨を抱えて葬儀場に戻り、お別れの言葉を述べて……とイベントがギュギュっと凝縮されていて、こうして書き出さないと自分でも心の整理がつかないのです。そして、葬式の話なんて気持ちのいいものではないと思うので、精いっぱい明るく書いています。
「生きるお葬式」なんていう某会館のフレーズはあまりピンと来ませんが、個人的には明るく楽しく送り出せたような気がします。あんまり湿っぽい思い出はなく、一方的ではあるものの、私は楽しい思い出を最後に送ったつもりです。その点については、また改めて書くとしましょう。ひとまず今日はこの辺で。
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