先に借りてまだ読んでいない本があったのですが、せっかく仙台市泉図書館に来たのだから何か借りていこうかと思い本棚をじっと眺めていたら……小説の方にもエッセーの方にも矢川澄子さんの本があって、3冊ばかり借りてきてしまいました。そして最初に読んだのが、この『失われた庭』でした。
非常に面白かったです。正直、一晩経った現在でも上手に感想をまとめることが出来ないのですが、とにかく読後感を書いておきたいと思います。いずれまたユリイカの矢川澄子特集とかを再読して、ちゃんと固まったらまた書くとしてね。
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タイトルにある失われた庭というのは、物語の主人公『F・G』が新人「女流画家」としてグループ展に出展した手造り本の画集『LOST・GARDEN』によります。これは「最近偶然発見されたある前世紀末の擬古典派的画家の遺作の紹介書」という体裁で制作されているのですが、そんな画家は実在せず、すべてF・Gにより創作された作品でした。これがとある美術評論家の目に留まり、めったに新人を褒めないとされていたその評論家がこれを大きく取り上げた……というのが、主人公とその周辺の人間関係を作る切っ掛けになったのですが、物語の大半はそういった人間関係というよりもF・Gと作品『LOST・GARDEN』そしてこの世に一冊しかないオリジナル版を渡した「受取り手」にまつわる話に割かれています。
この受取り手というのは……私の勝手な想像ではありますが、たぶん明確にモデルがいます。『兎とよばれた女』とか、矢川澄子さんのエッセーで時々触れられていた実在の人物です。私もそのひとが大好きで、これまで読んで来た経験からすぐにあたりを付けました。そして読み進める中で「実際にこういうことがあったのだろうか」という感情と「いやいや、これはあくまで小説なんだから、事実を丸ごと書いているとは限らないよ」という理性が絶えず衝突を繰り返しました。
そして矢川澄子さんの「同類」どころか「同性」ですらない私が読んでいくと「きっとあなたにはわからないでしょうね」と突き放されるような理性と、「わかりたい、私なりに感じ取りたい」と全力で向き合い寄り添おうとする感情の衝突も繰り返し起こりました。
正直なところ「男性らしさ」とか「女性らしさ」とかって言葉も、怪しいものです。便宜的に、そう表現するのが一番適当と思われる場面であればそれもよろしいかと思いますが、肉体的には女性であったとしても矢川澄子さんと血を分けた姉や妹の間にさえ思想的な差異が生じていたようですし(これは今読んでいる『反少女の灰皿』によるものですが)、やはり究極的には個々のパーソナリティがあり、それを重んじなければならないと思いました。というか、もともとそういう思想があったのですが、それをさらに強力に推し進めることができたのかなって。
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「女流のくせにですか」
F・Gのことを褒めた美術評論家に対して、その助手はそんな風に言って懐疑的な目を向けます。それに対して――って、別に作中で面と向き合って言い放ったわけではないんですが、この「女流」という言葉に対するコダワリについて語っている場面があります。さすがに全部引用するわけにはいきませんが、要するに、
具体的に言えば、少女F・Gは、自分の作品を「女流として」見てほしくなかったのだ。少くとも「男性並に」、ねがわくは「性別の彼岸で」、正しく評価されることを切に、切にのぞんでいたのだった。(『失われた庭』87ページ8-10)
ということだったんです。そしてこういう考え方は、私自身10年くらい前からひそかに持っていた思想だったんです。
といっても、別に男女同権とかフェミニズムとかそういう思想的なものではありません。そもそもどうしてそんな風に考えるようになったかといえば、その頃に読んだ『レーシング少女』という小説が切っ掛けだからです。これはミニバイクのレースで戦う少年少女の青春物語なのですが、主人公の女子高生レーサーが同じように悪意と偏見に満ちた目線に晒され憤慨する場面があって……それ以来、「男性も女性も関係ない」「同じステージに立って競っているのだから、同じように正しく結果を評価するべきなんだ」と信じるようになったのです。
「性別の彼岸」というのは、とても良い言葉だと思います。ちょっと作品の感想とは外れてしまうのですが、特に強い印象を受けたので書かせて頂きました。
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そんなわけで、激しい葛藤とその先にある「止揚」のステージを目指している現在進行形の私の心の中を告白させて頂きました。小説と随筆の中間、告白と創作の黄昏時みたいな作品でした。『兎とよばれた女』とセットで本棚に並べたいです。古本で買おうったって簡単にはいかないと思いますが、いつか巡り合えたら……。
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