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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
それは「わたし、にしかみえない星」という名前の企画展でした。これは『門眞妙』さんと『ペロンミ』さん、『ユ、六萠』さんらのグループ展ということでした。

 まず場所を探すところから始めて、大手町からどこをどう歩いたか……たぶん定禅寺通りまで来て、それから錦町に向かって歩いたのだと思いますが……ともかく1時間くらい歩いたのかな。途中でふらふらと寄り道しながら歩いたので、そのくらい時間が経っていました。

 これは1年前の記憶だけなので少々不確かですが、外側から「わたし、にしかみえない星」という企画展の大きな看板と一緒に何か絵を見た気がします。その時の印象を限りなくリアルに再現するとこんな感じです。

 「ほう……
  ……?……
  うん……まあ、見てみようかな」

 正直に申し上げると、この展示を見るまで『ドローイング』というものを見たことがなく、その存在さえ知らずに生きてきたので、ちょっと理解するのに時間がかかったのです。こう、展覧会に飾る絵って、鮮やかな彩色があるものばかりだと思っていたので。まあ、生まれて初めてドローイングというものを見た非美術畑の人はこういうふうに思うんだって、そのくらいの軽さで受け止めてください。

 中に入ります。

 

 いまならもっと積極的に写真を撮りまくっていたのですが、この時はまだちょっと遠慮があって、それほど写真を撮っていませんでした。それでも、ちゃんと象徴的な絵はおさえていたので、何とか格好はつくかな。

 

 これは一緒に会場にあった『ユ、六萠』さんの創作ノート(というのかな?)です。そっと中身を見させていただきましたが、その時に、私といま自分が見ている美術の世界をさえぎっていた透明な壁がパリンッ! と音を立てて崩れ落ち――見ている私もようやく門眞さんとペロンミさんとユ、六萠さんの世界に入り込めたような気がします。

 むしろ、見終わってから1日経ち、2日経ち……その時に感じたことを思い出し定着させようとするほどに、「ああ、あれは良かったなあ」という感情が押し寄せてきて、少しずつ波高が上昇していくようでした。今だったらもっと写真を撮ったのに! とか、もっとじっくり見てたくさんテキストに書き起こしたのに! とかという後悔が起こりました。まあ、これがその時の私のキャパシティ的な限界だったのでしょう。仕方がありません。よく頑張ったよ……。



 これはお知らせのはがきと、会場にあった『ユ、六萠』さんのテキストです。活字を食べて生きてきた人間なので、こういうのはしっかり読みます。門眞さんの、開催にあたってのテキストもじっくり読みました。ペロンミさんは……いいんですよ。逆にSNSで何のコメントもなくパン! と画像を見せられて、ウムム!? とうなるのがいいんです。ペロンミさんは問答無用なんです。なんかすごいこと言っちゃった。いや本当に皆さんの作品がとっても好きです。

 そして、今年の8月にお披露目された回顧本(?)『「わたし、にしかみえない星」の本』が発売され、それを購入して振り返ることができるようになったのは、私にとっては望外の喜びでした。一度は見えなくなってしまった星がまたきらめきだした! といって飛び上がるくらい嬉しかったのです。

 

 この時は春日町の古書店『マゼラン』さんでお披露目会と称して小さな展示会があったので、開催期間中に4度も通い、ここぞとばかりに写真を撮りまくりました。そしてコーヒーを頂き、森茉莉さんの『贅沢貧乏』を購入し、そしてそして! 新作を持ってきた門眞妙さんにご挨拶をさせて頂いたのでした!!! もうね、もう嬉しすぎて膝が震えるし声が震えるし号泣寸前だったんです。



 このように、本にサインもしていただきました。催し物としてのサイン会に並んだことはありますが、こうしてだしぬけにサインをお願いしたのはほかに一度しかありません。ただ、その時よりも心が近しく感じていたので、緊張の度合いは格段に上でした。私の宝物です。



 そしてこれは、マゼランさんで行われた「おひろめ会」に展示されていたユ、六萠さんの『天界へようこそ』という作品です。マゼランの店主の高熊さんにお願いしてユ、六萠さんに連絡を取ってもらい、譲ってもらって現在は私の部屋に飾ってあります。その上には門眞妙さんの新作があります。さらにその周りも、ここ1年でお迎えしたキャンバスがあるので、とてつもなく賑やかになってきました。

 *

 かくして現在に至ります。ずっと考えてきた「消費されないキャラクタ」とは何か。何かって、明確な形に残るようなものではないかもしれませんが、少なくともこの日に見た作品のキャラクタたちは1年近く経った現在でも生き続けています。

 その時に見たキャラクタ、読んだテキスト、小さなテレビの中に映し出された景色。


(2022年11月16日、タナラン『まあたらしい庭』にて)

 私にとってそれは、ただパッと見て「可愛い!」だけじゃ成立しないような気がします。もちろんアニメも漫画も大好きなので、「可愛い!」キャラクタは大好きです。広告の看板だろうと何だろうと写真を撮ったり右クリックで保存したりします。でもその印象以上の何かがないと、すぐに気持ちが薄れて、忘れてしまう――「消費」されてしまうような気がします。

 次から次へ矢継ぎ早に大量生産され世に出回り、ちょっとかじってすぐ捨てて次の新しいものに食いつくのが今の流行なのかもしれませんが……そしてそれは良いも悪いもない、「時流」とか「時勢」とかいう、私なんかが竿をさしてもすぐに流されてしまうようなものであると思うのですが……私はそういうの、ちょっとついていけないです。時流についていこうとしたら飲み込まれておぼれかけてギリギリのところで岸に流れ着いて、しばらくそこで動けなくなって、ようやく呼吸が少し楽になった。そういう感じの人類なので、消費されないキャラクタというのは私にとって必要不可欠というか、私が求めているものである気がします。

 ここで「わたし、にしかみえない星」展の会場にあった門眞さんのステートメントを引用させて頂きます。

現代において私たちは消費せずには生きてゆけない。各方面でその速度は早まっているように思う。”キャラクター”も同様に欲望を喚起し消費されることを宿命づけられている表象だが、一方で私たちに安心を与えてくれる、お守りのような存在でもある。ここにいる三名は、まずは自身のために制作を始める。その過程を踏まなければ、”キャラクター”へも、作ることそのものへも、そして鑑賞者へもアクセスできないことを知っているからだ。

わたしにしか見えない星が、あなたにも見えるかもしれない。
その事に希望を託して。

門眞妙
 
 これを自分の中に落とし込むためには1年近い時間が必要だったのかなと思います。言葉の上で理解したものの心の深いところまでしみ込むには、ある程度の時間と経験が必要でした。

 つまり、私はキャラクタが物凄い勢いで生産され、消費されていることを、知らなかったのです! あるいはそれを感じ取りつつも、まだ個人的無意識の闇にあって、そこから意識の此岸(しがん)に引っ張り出すことができなかったのです! だから激流にもまれ、足のつかない真っ暗な水の中で足をバタバタさせながら流され、溺れたのでしょう……。

 でも、この時の言葉をずっと大切に持ち続けていたから、何とか水面に顔をだし、岸にたどり着き、息を吹き返すことができたのでしょう。消費されないキャラクタ、誰にでも見えるものではないけど私には見える星があることを知っていて、それを追い求めていたから……。

 *

 仙台に来て、新生活を始めて、生き方レベルで変わったことはたくさんあります。色んな場所に行って、イベントにも行って、SNSで知り合って……それを何度か文章にしたことはあります。

 ただ、これまで門眞妙さんやペロンミさんやユ、六萠さんのことについては、まとまった形で話したり書いたりしたことがなかったので、この機会とばかりにまとめてみました。あれもこれもと盛り込んでいたら、なんだか分量ばかり多くて不格好で胃もたれしそうな爆盛り料理みたいになってしまいましたが、大好きを語る時はどうしたって一生懸命になっちゃうのでお許しください。

 曇っていたり、太陽がまぶしすぎたりして、しばしば見えなくなるけれど、そこに星があると信じられるから、私は生きていけそうです。たまにくじけそうになるけど、そんな時は時間をかけて元気になるまで待つことにします。



 また、こういう機会があることを信じています。

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