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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
『徳川家康』23巻は、私のような泰平の時代を生きてきた人間にとっては非常に重い話でした。

時代的には大坂冬の陣の少し前。秀頼・淀君の思惑とは別に全国から行き場を失ったゴロツキ牢人どもが集う大坂城から何とか出てもらうべく、家康公は鐘に刻まれた文言が自分を呪う言葉だと言いがかりのような難癖をつけます。しかしそれは従来私が考えていた「戦を吹っかけるための口実」ではなく、大坂開城(=戦争回避・家名存続)を決断してもらうための「謎かけ」だったのです。

「わしは秀頼公を、ひとりの大人として接するぞ」

そう言って、あえていくつもの謎を吹っかけた家康公。それは秀頼公に器量があるかどうか? を計るための謎かけでした。

しかし、残念ながらいくつもの誤解や何やがあって、戦争は回避できない状況になってしまいます。

真田幸村が入城するのは、そんな秋の頃でした。


家康公いわく、真田幸村の父親である真田昌幸は『天下取り病』であったといいます。なおほかの病人は奥州の伊達政宗、そして今年何かと話題の黒田如水です。

「この世から戦がなくなることはない、人は戦をせずにはいられない生き物だ」

そういって生涯を戦いに捧げ、サイヤ人級の戦争屋として死んでいった(ように見えた)真田昌幸の思想を思い切り濃く受け継いでいる真田幸村。それゆえ兄・信之の説得にも応じず、大坂城に入っていきます。

万に一つも勝ち目のない戦にのぞみ、自分の信義を貫き通そうとする姿は非常にカッコイイ……というのが世間一般の評価であろうと思います。なればこそ戦国無双では主役中の主役として抜擢されているのでしょう。

ただ、今の私は、そういうのを好みません。そういう生き方を否定はしませんが、この状況であれば、やはり家康公の側に理があるというか、そうするべきだと思うのです。大坂方に加わらないようにする、と。

それはここまで23冊分触れ合ってきた家康公に、私も少なからず影響を受けているからだろうと思います。


この頃の日本国は関が原以来戦争がなく、それゆえ戦争の何たるかを知らずに育ってきた世代が出てきました。昔『戦争を知らずに僕らは育った』なんていう歌がありましたが、まさにそうなんです。そしてそういう若者に限って戦争を勇ましくカッコイイものとして捉え、ことさら戦争をしたがるのだ、と言うんですね。幼少期からその戦争の渦に巻き込まれ、親兄弟を早くに亡くし、何度も何度もつらい目に遭ってきた家康公は、それゆえ全身全霊をかけて戦争を回避するよう努力しているのに。

この言葉には、すごく共感しました。あまり多くは語りませんが、私はそんな家康公を心から尊敬します。そして、それゆえに見られなくなったアニメや出来なくなったゲームがいくつかあることを最後に記しておきます。

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