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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
こんばんは。

 時間があるときは低温浴で半身浴

 いぬがみです。


 やはりある程度熱めの風呂にサッと入るのが粋だとは思うのですが、実際問題として低い温度のお風呂に長く入るというのは、なかなか気持ちがいいものですね。追い炊き機能のない部屋の風呂だから、自然と低温浴になった……とも言いますが、ともあれ気持ちがリラックスしました。

 飲酒、喫煙、ゲームにスマフォン。色々なものに依存している私ですが、結局のところ何も変わらないんですよね。うまくいかないことはうまくいかないまま。

 というわけで、久々に「ユング心理学入門」を読んでいます。

 私の弟者はアドラー学派であり(漫画がたくさん入ったわかりやすい本をすすめられた)ユング派の私とは相いれないのかもしれませんが、まずは……ね。いったん自分のもっとも心惹かれるユング心理学の、日本で一番わかりやすい解説をしてくださる河合隼雄先生のこれを読んでからね。それからアドラー心理学の方もかじってみることにしましょう。

 かつて栄華を誇ったソロモン王も、主から与えられた知恵によって人々を導き、その時代を築きました(※)。精神の悪いものを追い出すためには知恵と理性が必要です。それを鍛えるためにも、まずはコレを読み、さらに河合隼雄先生のほかの著書にも触れてみたいと思います。昔パソコンが壊れた時は、ほかにすることがないので本を読みまくっていたわけですが……そう思えば、別にスマフォンをつらつらと眺めるだけが人生じゃないんですよね。

 情報をたくさん仕入れようとして、仕入れた気になって、その実何も変わらない。それだったら1時間かけて、たとい30ページくらいしか読めなかったとしても、良書に触れる方がよっぽどためになります。寺山修司の出身県ですが、私は街へ出ず書を読み漁りたいと思います。


 ※ そのソロモン王の知恵は遠く時空を超えて17世紀の日本にいたり、当時の南町奉行・大岡越前守も互いに実子と主張し1人の子を取り合う2人の母親に対する調停の際に判例として大いに参考にしたといいます。

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おはようございます。

 新しいカメラが欲しい

 いぬがみです。


 といって現在利用しているペンタックスSPに飽きたとかってわけではありません。ただ、時々ミラーアップしたまま戻らなくなったり、巻き上げレバーが動かなくなったりと、機械的トラブルが生じるたびに、
 「今度壊れたら、どうしよう」
 そういう思いが起こるのも事実。もちろん、またオーバーホールに出せばよい話なのですが、その一方で新しい機種を使うというのもアリかな……と思いまして。いっそのことデジタル一眼に移行するのもどうだろう、と思い最新機種のカタログをもらってきました。



 世の中、キヤノンやニコンといった極・大メーカーからソニーのような新規メーカー(源流はミノルタですが)、さらに小型軽量というコンセプトを推し進めた独立独歩、唯一無二の存在感を放つオリンパス……やらなにやら。まあ一言で言えば目移りしてしまいます。

 そんな時、何をもって長い相棒となる一機を選ぶのか? というのは、私にとっては非常に大事かつ慎重に決めなければならないことです。それは性能とか用途とかに加えて、

 「自分はこういうわけで、このカメラを使っています」

 そういう風に迷いなく全世界にアピールできるようなものに、しなくちゃいけないと思っているからです。

 だって、単純にそこそこきれいな写真が撮りたいのならスマフォンのカメラで十分事足りますし。さらにいえばうちの嫁からもらったソニーのコンデジもあるからx倍ズームで遠い距離もまずまず対応できます。それなのにもう一台のカメラを、しかも完全アマチュア野郎の私が使おうっていうのであれば、ちょっとやそっとの理由づけじゃうちの嫁の稟議がおりません。あ! いや……ここだけの話ってことで……。


 現在使っているペンタックスSPは(露出計以外は)機械制御のアナログフィルムカメラという趣味性の強いカメラです。測光もアナログだし、フィルムの感度とその時の空気によって、どんな写りになるのかわかりません(少なくともデジタル的な写真ほど)。フィルム代も現像代も、コストも高いですから、一枚一枚に気持ちが入り込みます。

 そういうことを考えると、やはり次もメカニカル機であろう、と考えている私。デジタル一眼に関しては(「OM-D」を除いて)やはり興味がわきません。そこまで超絶ハイスペックな性能は必要ありませんし。大体、覚えることが多すぎて途中で嫌になっちゃう気がするんですよね。それこそ趣味として楽しみ続けることができなくなってしまう気がするのです。

 それなら最初から、そんな面倒くさい機能がついていないカメラがよろしい。露出計くらいはあった方がいいけど、ペンタックスの露出計が故障したときはスマフォンアプリの露出計を使って何とかしたし、絶対にそれがなくちゃダメってわけでもない。手動で露光調整して手動でピント合わせて手動でフィルム巻き上げてカシャン! それがいいんです。

 ニコンやキャノンのロゴが入ったストラップで最新デジタル一眼(レフだかミラーレスだか)を首から下げて、渡部陽一さんみたいな服を着て、超望遠ズームつきレンズをまるでショットガンでも構えるように両手で抱えて振り回すハイアマチュア気取りの人たち……いや実際ハイアマチュア級の技術のある人たちなんでしょうけど……そういった人たちに対して変にコンプレックスを感じなくていいんです。ちゃんとしたポリシーをもって、こだわりの一台をもっていれば。


 話が長くなったので、今はニコン「FM2」「FM10」あたりを考えていることを書いて、文章を締めくくることにしましょう。あとデジタルカメラに関しては「OM-D」でしょうかね。それらに関する考えはまた次回以降ということで。

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おはようございます。

 久しぶりに書いたら、書きかけの記事が消えてしまいました

 いぬがみです(めげずに最初から書きます)。


 最近またカメラを始めました。逆に言うと、しばらく写真を撮ることをやめていました。

 そりゃあ確かにスマフォンでビシバシ写真を撮ることはあったし、それで用が足りなければうちの嫁からもらったソニーのコンデジを使ってオートフォーカスだx倍ズームだと、早い話がわざわざ重くて面倒くさいカメラを使う理由がないのです。

 だけど、このままこれを錆びさせ朽ちさせゴミにしてしまうのは少々忍びない……そう思ったのか何なのか、久々に手に取ったら、この雰囲気がよろしい。今回「カメラのキタムラ」で見つけた、コダック製のフィルム(感度200)を試したいという思いもあって、やってみました。

 そしてこのブログも、また、やってみることにしました。

 私にとって写真を撮ることは、息をすることにも準じることです。やっぱりどんなにつまらない映像になろうと、その瞬間を意識してパチッとすることは、どこかに飛んで行ってしまいそうな自分の心を引き寄せるような行為だからです。それを映像で切り取るのが写真であり、言葉でつなぎとめるのがブログです。

 高精度CMOSセンサーで何千万画素? そういう写真じゃなくていいんです。アナログ測光方式で、ちょっと変な癖……いや特色の出るフィルムで、何よりも久しぶりのマニュアルフォーカス機で視力も悪くなって、結論的には、

 「ボケたって何したって、それで出すぞ」
 「それが味だ」

 ということですよ。ブログも写真も、それでいいんです。また、やっていきたいと思います。

 

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おはようございます。

記事を入力してください。

いぬがみです。


 取り立てて書くことはありませんが、今のところまだ生存しています。

 ブログの更新が一定期間なければ、指定された場所にヘリを飛ばしてください。

 (ゴルゴ13 第99巻-1 「最後の戦場」を参照)

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おはようございます。

 田代まさし容疑者、何度目の逮捕ですか

 いぬがみです。


 といって私はマーシーを糾弾するためにこのブログを書くわけではありません。断罪するつもりもありません。といって擁護するわけでもないのですが……私は「田代容疑者をよく知る人」ではありませんので。ずいぶん前に「志村けんのバカ殿様」で側用人を務めていた時代(ピンクの着物)とか、そういう時代しか知りませんから。

 あくまで想像の話をします。そして、それにかこつけて自分自身の話をします。



 覚せい剤というのは難しいものです。精神的な依存がとても強いといいます。だから何度でもやってしまうのです。

 ただし、それは本人の意志が弱いからではありません。本人の意志ではどうしようもないくらい深く体と心に刻み込まれているからなのです。あと、そういった人に違法に覚せい剤を提供する人間が、もっと悪いと思います。そりゃ、手元にあれば使いますよ。

 これを「覚せい剤」じゃなくて「タバコ」とか「アルコール」とかに置き換えてもいいと思います。禁煙しようとしている人に「1本くらいならいいんじゃない?」と手渡せば、そりゃ吸いますよ。「ビール1杯くらいなら大丈夫だよ」と差し出せば、そりゃ飲みますよ。そして再び禁酒禁煙の誓いも破られてしまうのです。

 だから、誰かのサポートが必要なのです。

 どんな状況にある人でも受けることができる至上のサポートは神様、すなわちイエス様の福音でありますが、そのほかにも家族・友人その他、自分以外の誰か。誰でもいいです。お医者さんとかNPO法人とか、よりプロフェッショナルな人のサポートが受けられるのならベターでしょう。

 自分の力だけで解決できなくていいんです。自分の無力さを恥じ入る必要はないのです。

 それだったら、誰かの力を借りればいいのですから。


 そういうことを思ったのは、昨夜家に帰ってきてから。

 家族には以前「禁煙宣言」をし、実際に家族の前でタバコを吸うことはしていなかったのですが、会社や寮では割ともくもくやっていた私。好きな銘柄はラッキーストライク。forever flavor with youですよ。going luckystrikeですよ。

 でも、家族は私が本当に禁煙したと思っているみたいなんですよね。

 宣言してから何か月だろう。最近はタバコを吸ってもあんまり気持ちが落ち着かないし、臭いし具合が悪くなるデメリットばかりが気になるし、お金もかかるし、「今度こそ本当にやめよう」と何十回も思っていたところですが……辞められなかったのは、きっと、辞めるのもやめるのを辞めるのも自分だけで決めていたからだと思います。

 でも、こうやって誰かの目線、誰かの信頼があると思えば、簡単に禁を破るわけにはいかない。そう思えるのです。

 134回目の禁煙宣言。継続していきます。(数字に意味はありません)。

 もっとも、中枢神経刺激薬「コンサータ」は、私はもうやめられないと思います。こないだ、飲まないで仕事をしていたら集中力が散漫になるし、やる気も出ないし。でも薬を飲むと急に意識がさえて、自分の精神的メモリが100%に近い領域で使い切れるような気がするのです。だから想像してしまうのです。

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おはようございます

 台風の影響、皆様のところはいかがでしょうか

 いぬがみです。


 昨日の夜に実家に帰ってきて、まずやったことはわが弟者が一時期とてつもなく熱を上げていた「ゆるキャン」という漫画を読むことでした。

 どんな漫画なのかは超人気のそれですので、私がどうこう言う必要はありませんよね。そういう漫画です。

 当家の場合まずは兄者(長男)が結構なキャンパーでして、機材とかも本格的にそろえてふらりと出かけたりするんですね。ソロキャンプもみんなでキャンプもお手の物です。その影響を受けて弟者(三男)もまた、ある程度の経験を積んでいます。もともと料理が好きなので、アウトドアで色々なものを調理する腕はピカイチです。

 そして私は特別な技術はないものの、自然を愛する気持ちは一人前である私(次男)は弟者についていって、テント設営などの作業はその都度教えを請いながら実行、料理の下ごしらえなど自分がすることが何もない状況になれば付近の散策と言って場内を放浪、それに飽きると拠点に戻ってきてビール祭り……と、それぞれスタイルは違いますが、とりあえず私が各務原なでしこのポジションであることは疑いようがありません。


 ただ、私はそういったキャンプ漫画としてだけではなく、バイク漫画としても楽しんでいます。登場人物のひとり・志摩リンが原付に荷物を積み込んで遠く離れた場所にソロキャンプに出掛けていく。その道中の色々な思いや困難や楽しみなど……もうすぐ雪が降り、バイクに乗れなくなってしまいますが、今年は自分もちょっとしたツーリング(日帰り圏内)を経験したので、きょっと共感できるんです。

 やはりキャリアは必要です。何らかの形で取り付けて、もうちょっと荷物をたくさん搭載できるように、そしてキャンプにいけるようになりたい。荷物を最小限にして出かけるのがバイクライフの基本だとは思いますが……ね。

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こんばんは。

 張り詰めた精神を、ゲームで緩和

 いぬがみです(ゲームオタク歴30年)。


 十和田市内に「レトロゲーム秘密基地」というお店があります。

 これはかつて駄菓子屋ゲーセンを経営していた家に生まれたオーナーさんが、そのころの夢よもう一度……という感じで、グリグリと稼働する「アウトラン」筐体を目玉に、月替わりで色々なアーケードゲームがプレイできる小さなゲーセンであります。

 現在の仕事は過酷極まるスケジュール、次々と辞めていく仲間たち、環境は日に日に悪化しています。そんな中で私の精神状態も日に日に悪化の一途をたどっておる今日この頃ですが、そんな私のささやかな癒しの時間がこのゲーセンです。

 詳細なことを書き出せば、ひとつのゲームに15行くらいかかりそうなので、今回はざっくりと書くにとどめておきますが……素晴らしい場所です。足しげく通い、今後も楽しんでいきたいと思います。

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こんばんは。

 吉野さん、ノーベル化学賞受賞、おめでとうございます

 いぬがみです(NHKのニュースウォッチ9を見ながら書いています)。


 まったくもってどうでもいいことをサラサラと書き流す。それこそこのブログの本文であると思い、アサヒスーパードライの力を借りて、書いていきたいと思います。明日は6時出勤ですが、まだ早い時間だし、もうちょっと大丈夫でしょう。

 何せ普段「バーリアル」ばっかり飲んでいる私ですからね。「もらったけれど、ビールが飲めないから……」といって、ロング缶を4本もいただいてしまいましたからね。じゃ~もうありがたくありがたくありがたくいただきます!!! なんで3回も言ったんだよ「絶対伝えたいからだよ!!!」

 ……と三四郎の漫才のオチ風にやってみましたが(だから最後のやり取りは相田さん→小宮さんの声で再生してください)、本来の話題に戻ります。今日絶対伝えたかった事(?)は、「ゴールドツナ」あるいは「ツナピコ」について。

 一応「なんだそれ?」という方向けに説明しますと、よくスーパーとかのおつまみコーナーで売っている、金とか銀とかの包装紙にキャンディ的に包まれたやつです。くるくるっと引きほどいてみると、中にあるのは小さな四角い塊。パクリと口に放り込むと甘辛い味わいとソリッドな触感がたまらない……と、そういうやつです。食べたことがないにしても、見たことはありますよね皆さん?

 私は子供のころから味……というよりも、やはり金ピカ銀ピカの包み紙がなんとも魅力的で、両親についてスーパーマーケットに買い物に行った折にはついついねだってしま……いたくなる気持ちがあるものの、やはり自分が一般的に食べているお菓子よりも幾分割高であるため、たとえば親戚同士が集って行われる飲み会のオードブルなんかに乗ったのをそっとくすねる……そして森永チョコボールのエンゼルよろしく銀の方を優先的に食べ、いよいよというところで金の包み紙をほどく……そんなプレミアムな喜びを味わっていました。

 そんな淡い思い出のツナピコが、「一口まぐろ」という名前でダイソーにあったものですからね。「食品は軽減税率だかなんだかで8パーセントだったよなあ? そうすると8円あれば間に合うよなあ?」とかと思案したうえ「ええい、ままよ!」とクワトロ大尉の物まねを(心の中で)敢行しつつレジへ突撃。果たしてお財布の中の小銭はきっかり100円玉4枚……そんな達成感をかみしめつつ、そのゴールドツナで一口まぐろなツナピコをポクポク食べつつ2本目のアサヒスーパードライ(ロング缶)をやっつけているところです。


 結論:いろいろあるけど、今日も私は平和です。

 
 今日の名言:「天国にビールはないから生きているうちに飲め!」←ベルギートラピスト修道院の格言……らしいですが、聖書において「飲みすぎ(泥酔)」は厳しく戒められています。そもそもトラピストビールというのはwikipediaによれば飲用に適する水を確保することが難しい状況で保存がきくビールやワインが積極的に作られたという歴史があるわけであって、決して今の私のように酔っぱらう口実にはならないのですが……

 イエス様、こんな私をお許しください。アーメン。

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おはようございます。

 やっぱりgroup_inouが好き

 inugamiです。


 近頃はたいてい22時とか23時とかから自分の時間が始まるので、風呂に入ってご飯を食べて、適当に動画を見て寝る…という非生産的な生活が続いています。こうして明るいうちからブログの記事をかけるのは、休みの日に実家に帰ってきている時くらいです。こないだなんか13時間くらい寝てしまいましたからね。やれやれ。

 そういう時に見る動画はたいていバラエティの、あんまり頭を使わなくてもいいものが多いのですが、時々ミュージックビデオを見たりします。そして思い出したように聞くとザックリ心に刺さり、「ああ、やっぱり自分はこの人たちの音楽が好きなんだ」と再認識する。それがgroup_inouでした。

 AC部の映像により一部で有名なtherapyはもちろんですが、そのほかにはcoming outとかも好きです。そして一番好きなのがeyeです。



 ヘッドフォンで聞くと、適当な内蔵スピーカーでは聞こえなかったベース音が聞こえて感動した私。もともとリズム感重視で意味があるのかないのかわからない歌詞ではありますが、このフレーズだけは強烈に印象に残ります。歌い方もそうですしね。

 できない気がしていた できると思っていた

 うまくいった日もいかなかった日も、何とかもう少し生きてみよう。そう思わせてくれる楽曲です。


 では今日、言いたいことを言います。

 実際できようとできまいと、何事においても「成功するイメージをもって」行動することが大事であるといいます。失敗したときのことを考えると、実際に失敗するし、逆に成功するイメージを持って行動すれば成功すると。だったら成功するイメージをもって動いた方が前向きじゃん、という話なんですね。

 具体的に私がやってみて思ったのは、成功するイメージをもって事に当たると「これを実現するためには、どうすればいいんだろう」ということが浮かび、それをひとつひとつ当たっていくエネルギーがわいてきます。それと同時に、多少失敗があってもダメージが軽減されるような気がします。ちょっとしたスーパーアーマー状態です。

 反対に、失敗するイメージをもって事に当たると、「これをやっておかないと失敗するな」というイメージでひとつひとつ当たっていきます。どちらにしても、やらなくちゃいけない項目をこなしていくわけですが、せっかくやっても次につなげるエネルギーが生じないんですよね。要は負債をひとつひとつ減らしていくようなイメージだから。そして多少の失敗でも、若干防御力が下がっている状態だから、余計に動きが鈍くなってしまう。そんな感じ。

 これはオートバイの卒業検定の時に初めて認識しました。狭路走行(いわゆる一本橋)で落ち、さらに教習時に一度も失敗しなかったクランクで引っ掛けて落ち……技術よりもメンタルが問題だ! どうすればいい! と思って色々と検索し、頭の中を成功するイメージでいっぱいにして挑んだら何とかなりました。

 そして最近そのことを思い出し、実際にやって、その通りなのかなと思ったので書きました。忘れないようにするために。

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こんばんは。

 message in a bottle

 いぬがみです(邦題:孤独のメッセージ)


 twitterというやつを久しぶりに開いてみました。

 それはkenny noyesという人の近況を確認するため。

 誰だそれ? というひとがほとんどでしょう。そういう方はこちらの動画をご覧ください。




 この動画でsuperbikeのカワサキのライダーとしてモタードとガチバトルをしているのがkennyです。自分はモタード乗りですがカワサキ乗りでもありますので、この人がすごく好きです。

 日本版wikipediaではかなり古い戦績までしか記載されていませんが、kennyはレースの事故により重大なケガをしました。長い間意識不明の重体でした。その後、意識を取り戻したものの、重い障害を負い不自由な生活を強いられています。それは英語版のkennyの公式サイトに詳しい記述があります。

kenny noyes 公式ホームページ

 洋の東西を問わず、やっぱりこういうストーリィには勇気づけられます。残念ながら日本語のサイトではkennyに関する情報はほとんどないので、いぬがみがあえて発信します。kennyは生きています。不随な体になってしまったものの、懸命にリハビリをしています。そして、実際に少しずつ日常生活に不自由のない身体になりつつあります。

 こういう人の近況を見ると、とても勇気づけられます。自分は色々と精神的にアレな部分はありますが、ちゃんと自分で歩いて、自分でご飯を食べられるじゃないか。精神的なことなんて、物理的なことと比べれば、どうにでもなるじゃないか。そんな風に思った今日この頃です。


 って、今日はkennyの話題もそうなんですが、本題は別にあります。

 そのkennyのことを知りたくて、久しぶりにtwitterを開きました。いや実はtwitterって、色々な特典とか、こうやってフォローしている人の近況を見るためにだけ登録していたのですが、ろくすっぽtweetもしない私のアドレスをフォローしてくれている人がいらっしゃるんですね。そしてそして、その中には漫画家の「アキヨシカズタカ」先生がいらっしゃるのを見て……慌ててtweetというやつをやってみた次第です。

 アキヨシカズタカ先生は、自分が原付二種までしか乗れない(小型限定免許だから)コンプレックスを払しょくしてくれた、素敵な漫画『げんつき』の作者です。現在は自らの「ライフワーク」と宣言されている漫画『かたるし』を描かれておりますが、そんなアキヨシカズタカ先生にフォローしていただけるとは……たといそれが形式的な「フォロー返し」だとしても私は嬉しいです。勝手にうれしいって思っちゃいます。そういう感じです。


 それと同時に、「ああ、これが現代的な『人のつながり』なんだな」と思いました。

 インターネットで不特定多数の人とつながり、インターネットで不特定多数の人と語り合う。そんな中で顔が見えないゆえの誹謗中傷を受けて落ち込むことがあるから、私はあまりそういったコネクションを軽視していたのですが……自分にとって雲の上どころか別な次元に生きていると思い込んでいた人と、たといデジタルな形であれ、つながりを持つことができた。それはとても嬉しいものです。

 なるほど、これがtwitterというやつですか。


 そして、ブログ同様、

 「誰が見ているかわからないけど、誰かは見ているかもしれない」

 そういうものなのかな、と思いました。

 毎日みんな、自分の世界で生きていますよね。仕事で失敗しては怒られ、そんなつもりじゃないのに怒られ、なんだかんだで気持ちが傷つけられたり苦しくなったり「もう死んでしまいたい」と思ったり。色々あると思います。

 そんな思いをSNSで打ち明ける。

 自分ではそういうの、良くないと思っていました。

 でも、そんなナマの思いに共感してくれる人がいるかもしれない。不特定多数の人……といえば、いったいどれほどの人がいるでしょう。何百万では済まないかもしれませんからね。そういった人たちと安易に交信しあうことができるSNSというメディア……。

 なるほど、面白いのかもしれません。


 最近は私も、アナログ的な付き合いができる人が激減しました。昔からいっしょに仕事をしてきた人が次々と会社を辞め、今はもう私ひとり。周りにいるのはそれほど深い話ができない人たちばかり。それなのに責任は重大。もう、どうしたらいいんだろう。何かあったら、どうすればいいですか。死んで詫びればいいですか。そんなことを思ったこともありました(割と昨日とか)。

 でも、もう少しだけ生きてみてもいいのかな。そう思いました。

 どうせ人間いつか死ぬのだから、それまでに精いっぱいワガママを振りかざしてもいいんじゃないのか。周りの人からバカだのなんだの言われたとしても、生きたいように生きてみてからでもいいんじゃないのか。そんな風に思って、ネガティブな感情を外側に押し出してきました。

 「生きるだけ生きたならば死ぬることもあろうて・・・
  まったく、面白い世の中であったわ・・・。」

 これは「信長の野望・革新」における前田利益(前田慶次)の死亡時の台詞ですが、こういうことですよね。「ああ、もうどうすればいいんですか死ねばいいですか自分が死んで詫びればみんな気持ちが収まるんでしょじゃあ死にますよ」そんな気分になった時に歯止めをかけてくれる言葉がこれです。といって自分が前田慶次的な生き方をできるとは思いませんが、ただ、

 「生きるだけ生きる」

 果たして自分がそれを実現できたか? と言われれば、その点においてなかなか納得できないんですよね。

 本当に「生きるだけ生きた」のであれば、「死ぬこともあろう」と納得し「まったく面白い世の中であったわ・・・」と入滅することもできるでしょうが、自分はなかなか、そういう域には達しておりません。

 なぜかと言えばそれはたぶん、いまだに自分の中で、

 「周りの人に気を遣う」

 その呪縛から逃れられていないからでしょう。

 周りの人から何を言われようと、自分の思ったとおりに言葉を発し、生きてみる。そういうのを、色々な遠慮から実際にはできていないから、きっとダメなんです。まだまだ生きていないんです。生きるだけ生きていないんです。


 不肖いぬがみ、少なくとも今の会社では、ある意味「最終章」と位置付けています。

 自分が好きな人はいない。「この人のために、頑張ってみよう」という人はいない(そういう人はみんな辞めちゃったから)。もはや自分しかいない。だったらどうする?

 1.自分もさっさと辞める
 2.ふがいない自分を恥じてとっとと死ぬ
 3.どうせ死ぬ(=懲戒免職も含む)のなら、自分のやりたいことを最大限やってみる

 答え:3
 答え:3
 答え:3

 そう、言いたいことを言いやりたいことをやる。その過程で周りからバカだのなんだのと言われたら、それもすべて糧にする。そして、次のステージへと旅立つ。そういうつもりでやっています。

 いいんです。一般的な常識が無かろうと、なんであろうと。私は私ですから。


 大事なことなので二度言います。

 私は私です。

 そして、あなたはあなたです。周りと合わないことがあってもいいんです。

 あなたは、あなたなんです。

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こんばんは。
 
 本日は、皆さまにご報告をいたします。

 いぬがみです。

 
 数日前に宮迫博之さん・田村亮さんの記者会見があり、今日は吉本興業の岡本社長が記者会見をしているところですが、今日は私もご報告をいたします。

 不肖いぬがみ、2003年10月8日に普通自動車免許を取得――続きまして2018年11月2日に自動二輪(小型二輪に限る)運転免許を取得してから、ずっと無事故無違反であることを誇りにしてきましたが、とうとう今日、それが終わりました。

 ええ、事故を起こしてしまったのです。


 確かに原因としては「信号無視でいきなり車道に出てきた老人の自転車を見て、慌てて急ブレーキをかけた結果、転倒」……そういうことになりますが、それはあくまでも私の言い訳です。第三者、すなわち警察の実況見分における見解からすれば、「そういう自転車がいることを認知しなかったアナタもね……」という話です。

 そういうことです。

 運転免許というのは、それだけ重いものです。ありとあらゆる危険に対して、それを回避あるいは予測し、決して事故を起こさないよう運転するだけの能力を持っている――それに対して行動を車やバイクで走る資格を「許す」ものなのです。そして事故を起こしたということは、その資質を欠く存在である……そういうことなのです。


 「自転車を見て急ブレーキをかけ、転倒」

 そういったものの、自転車の老人と接触はしていません。私が体の右側を下にして20メートルだか30メートルだか……転んだあと派手に滑走した時点で、その自転車の老人は反対車線に渡り切っていました。つまりケガをしたのは私だけ。ある意味、私の自損事故。そういう感じです。

 それでも、きっかけは、そういうことですから。

 ケガの程度はちょっと……。

 上半身はジャージ+レザージャケット、下半身もジャージとカーゴパンツの二枚重ねでありましたが、それでも右膝・右ひじに結構激しい擦り傷を負いました。歩いたりしゃがんだりする時に結構痛みがありますが、骨折がないだけまだマシなのかな。


 ともかく、気持ちの整理がついたら、また書きます。

 皆様、本当に、心から申し上げます。


 老人の自転車は交通法規を一切守らない無法者です。信号も走行レーンも関係ありません。善良なドライバーが持ち合わせているモラルを一切持ち合わせていない――それでいて悪びれることもなく、万が一ケガや死亡事故になったら、その善良ドライバーが下衆の極み・鬼畜の所業を行った極悪人として社会的行政的な処分を受けるのです。今回はそんな老人を巻き込むことなく、私自身のケガだけで済んで、本当に良かったと思います。ですから皆さま、これを読んだ皆様に心から申し上げます。

 老人の自転車は、いつあなたの前に飛び出すかわかりません。どうか、どうかお気を付けください。

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こんばんは。

 今日は夜飯が、最初のめしでした

 いぬがみです(ラマダン)。


 何が正しいのか正しくないのか……よくわかりませんが、とにかく自分の気持ちを貫き通すことが大事なんだろうなと思いました。間違っていると言われたら、それを直せばいい。ただ自分の気持ちをしっかりと持って生きていけばいい。

 それはわかっているのですが……そのためには、非常に強い精神力を要するわけですよね。

 決して誰かと口論するのが得意なわけではないので、そうやって話をするのは負担が大きい……けれど、もう、そういうことをしなくちゃいけない立場になってしまったのです。

 洋画のセリフふうに言えば、

 「オレにもつけがまわってきたか」

 ということです。

 まあ深刻に思いつめることもありますが、そういう時はお祈りをして気持ちを静めます。そうすると、またやれるような気になってしまうから、不思議なものです。

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おはようございます。

 シャキーン!

 いぬがみです。


 何のことを書こうかと思いましたが、難しく考えても仕方がないので、朝飯を食べながら見ていたNHK教育……じゃなくてEテレの『シャキーン!』の話をします。

 なんか『ウゴウゴルーガ』を思い出したんですよね。子供向け番組というカテゴリではあるものの、そこに出演する人は各界の一流どころばかり。メインMCの子どもたちをサポートするジュモクさんは私の大好きな片桐仁さんです。テレビくんが年月を経てこうなったんでしょうか。

 ずっと朝は「めざましテレビ」を見ていたのですが、最近はあんまり面白くないですね。

 地域トラブルのこととかを取り上げて、何の解決もしないテレビに意味はあるのか?

 たぶんないですね。

 難しいことは考えたくないです。話も聞きたくないです。地域トラブルは当事者同士が解決するしかないですもの。それに私も含めた第三者がどうこう言うべきではありません。そう思います。

 今度からは、7時からは『シャキーン!』を見ます。小学50年生って、のりお師匠!

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こんばんは。

 なんだこの店はまだ団子なんか売ってるのか

 いぬがみです。


 ……こんな、誰も見ていないようなブログで何を恥ずかしがることがあるものか……という気もしますが、やっぱりちょっと照れくさいですね。あんなことを書いていたのに。

 でも、まあ、ね。また書きたくなったから書きます。

 色々と、つらいこともあるけれど、楽しいこともありますから。

 
 とりあえず、私は『男はつらいよ』が好きなんです。特に吉永小百合さんがマドンナ役で出た『柴又慕情』と、浅丘ルリ子さんがヒロインで出たやつ。なんだっけ。まあいいや。いや、『寅次郎忘れな草』だったかな。でも『柴又慕情』は、2回見ました。

 もっとも、『柴又慕情』の方は、自分の部屋を貸間にあてがわれてしまったことにふてくされて、いったん怒って立ち去ってしまいますが。そのあとさらにひと悶着あって、最終的にカッとなったおいちゃんが決定的な一言を口にしてしまい、それまで熱くなっていた寅さんが急にハッとして、

 「それを言っちゃあ、おしまいよ」

 ……何の話でしたっけ。だから、その、えーと……。

 まあ、あんまり気取らずに、時々更新していきますから。よろしくお願いします。

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これが最後になるかもしれないし、なんか、言っておきましょう。最後だからちょっとメッセージ色の強いことを言っておきましょう。



 もしも、周りと違うことに悩んだり、周りの人と合わせられないことに悩んだりしている方がいたら、言ってやりたいことがあります。

 それ、実は強力な武器なんですよ。

 ほかの人がフツーにできることができない方は、逆にほかの人がフツーにできないことを、とびっきりのレベルでできるんです。

 フツーの人と感じ方や考え方が違う人こそ、フツーの人よりもとびぬけた何かを生み出すことができるんです。

 そして、それは別に芥川賞とかブルーリボン主演男優賞とかゴールデンラズベリー賞とか、国民栄誉賞とか勲三等瑞宝章とか黄金柏葉剣ダイヤモンド付騎士鉄十字章とかをもらえるようなものじゃなくてもいいんです。誰にも理解されなくていいんです。誰にも言わなくていいんです。

 あなたはあなたの世界がある。あなたの世界を突き詰め、その中で楽しめばいい。それはあなただけの特権です。


 私はとりあえず、自分の世界を突き詰めていきます。

 誰にも言わず、誰にも言えないものをめいっぱい抱えて。

 戻ってくるのか、来ないのか。

 さようならはもしもの時のためにとっておきますか。さようならにさようなら、なんてむちゃくちゃも言ってみたくなる気がしますが、それはμ'sのラストシングルだ。ちょっと私には気恥ずかしい。

 それよりも、私にとってはこの言葉がいいかな。

 「もし、うまく撮れたら、持って帰ります。
  もし、うまく地雷を踏んだら、サヨウナラ!」










 ――いぬがみのバカはどこだ!! (ドガッ)

 アンコールワットの写真を撮ると言って
 カンボジアに行きました!

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おはようございます。

SNSって、嫌いです

いぬがみです。


不適切動画が拡散し、テレビで流れ、様々な人が意見を言う。

人の数だけ正義がある。

不毛な議論。

それが永遠に終わらない。


こないだの徳井青空さんのラジオ番組を聴いて思いました。

自分はオタクだけどオタでは無い。今どきの人みたいに明るくペラペラ喋ることができない。

そう、暗いんです。人と喋りたくないんです。オタクであることを隠して生きていたいんです。隠れキリシタンみたいなもんです。そうしないと当時はコミュニティからはじき出されたから。




私も最初はこういうブログを通じて、自分の好きなことを語り、それでもって誰かとつながったり、共感してもらったり…そう言うのが楽しいと思っていました。

でも、時代がドンドン先鋭化して、言葉は次第に簡素でチャチになって、そのうちに言葉さえ無くなって。

ハッキリ言えば、誰でも何も考えなくても全世界に醜態をさらすことが出来るようになって。現在に至るのでしょう。


アップロード、自動削除、誰かが拡散、炎上。

アップロード、自動削除、誰かが拡散、炎上。

アップロード、自動削除、誰かが拡散、炎上。
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人間よ、
もう止せ、こんな事は。

(高村光太郎 ぼろぼろな駝鳥 より)






そんな昨今、ただでさえコンサータの過剰摂取により精神がバーストしているいぬがみ、テレビのニュースもインターネットもあまり見ないようにしています。まあどちらも文化的生活には必要なものですから、全然見ません! というわけではありませんが、退屈しのぎに…みたいなことは、できるだけ控えるようにしています。

そういうわけでこのブログも、たぶん更新しません。あんまり。

でも、ホームページは続けていこうと思います。もう20年近くやってるし、いわゆるSNSとは違うから。それに、検索すれば時々上位の方にヒットするから。

やっぱり、言葉は残るんです。

ゲームの攻略とかにしても、今どきは動画に字幕をつけて賑やかにやるのが主流でしょう。私のところみたいにテキストばっかりで面倒くさくて地味なスタイルは流行らないでしょう。

そう思っていた時期がオレにもありました(闘技場のボクサーと中国拳法の戦いを見ながら)。

でも、残るんです。しかもWikipediaの記事になったりするんです。私のあふれる妄想力ででっち上げたインチキ設定が。

そう考えたとき、やはり遺し続けることに意味があるのだなと思いました。そして、これからも遺し続けなければならない、と。

もうすぐ東日本大震災から8年。あの時から流れている「花は咲く」という歌詞にこんなのがあります。

「私は何を残しただろう」

2011年から私の30代がスタートし、大波乱のさなかにいる私。何度もくじけましたが、今も生きています。

オタクだからです。オタじゃなくて、オタクだから。本当の意味で、あまり人と関わりたくないから。自分の好きなことを突き詰めていたいから。そうやって生きてきたから。

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おはようございます。

 20年ぶりに代替わり

 いぬがみです。


 私の感覚では、声優というのは「こえのおしごと」であって、それを演じている人がどんな人なのかを感じさせい――あるいは興味がないんですよね。もちろん映画のパンフレットとかに、写真付きでコメントを載せるとか、そういうのはいいと思うんですが、テレビでこれでもかとばかりにアピールしたり、自らステージに立ってアニメと同じ衣装と動きでパフォーマンスしたり……そういうのはちょっと受け入れられないな、と思ったんですよね。

 要するにラブライブ! ですよ。いや私はラブライブ大好きですけど、基本的にはアニメ派。フィギュアさえ食指が動かない二次元派です。私の物理学に2.5次元なんていうのは存在しません。

 だから私は「声優は声優」「アニメの女の子はアニメの女の子」と区別して考えます。

 その上で、Aqoursとかμ'sとかの人たちはスゲーなと思うのです。

 「声優は声優」「アニメはアニメ」その境界線は絶対的に存在するものの、それぞれがとても魅力的である、と。


 私の中のそういう存在は「かないみか」さんでした。

 90年代半ば、私がまだ月野うさぎ14歳中二(三石琴乃さんの声で)と同じ現実的14歳中二だったころ。当家にセガサターンとともにやってきた「アイドル雀士スーチーパイSpecial」で主人公の御崎恭子/スーチーパイ役を演じておられたのが、かないみかさん。続編の「スーチーパイII」には特典ディスクとして、声優さんが声優さんとして作品のこととかを語る映像が収録されていました。

 これ以来、私にとってかないみかさんというのは、ひとつのイコンとなりました。まさにメロンパンナのメロメロパンチです。私の場合メロメロパンチではなくスーチースティックの一撃でしたが。

 ちなみに本作には、松本「サトシ」梨香さんや、故・水谷優子さんもキャストとして出演していました。今思えばこの頃から、声優さんを自分が好きなキャラクタの名前で呼ぶようになったのかもしれません。


 それが最近、変わりました。ようやく代替わりです。

 それが「三森すずこ」さん。

 その名前を知ったのは「ミルキィホームズ」のイベント……に、新日本プロレスの真壁刀義さんが乱入したのを新日本プロレスの公式ホームページで読んだ時。当時は今ほどスイーツキャラが認知されておらず、一般人からしてみれば、文字通り野獣が乱入して来たような印象だったのではないでしょうか。

 「かわいいじゃねえか」

 ……なんか、そんな感じで真壁さんが絡んでいったとか、報じられていたような気がします。

 結局ミルキィホームズはあんまりハマりませんでしたが、その三森すずこという名前はずっと憶えていました。

 それから時は流れて、ウチの弟がラブライブ! にハマり始めた頃。キャラクタと声優の羅列をズラズラ見ていると、「園田海未:三森すずこ」という名前が。

 先述した理由により、あまりラブライブは興味がなかったのですが、「三森すずこが声を当てているなら、ちょっと見てやろうかね」と思って、とりあえず見てみました。

 


 で、現在に至る、と。


 ただ、それだけであれば「好きなキャラクタを演じている声優」の枠を出ないのですが、私が目を開かされたのは、三森すずこさんのこの日のブログ記事です。

 ミルキィ ふぉーえばー!!!!


 自らを表現者と名乗った三森すずこさん。そうか、ラブライブもミルキィホームズも終わったけど、声優としても歌手としてもラジオのパーソナリティとしても活躍する三森すずこさん自身を追いかければいいんだ。そう確信した時、私の中の「絶対声優」が代変わりしました。今後は何があろうと三森すずこさんを全力応援します! ところでオカダ・カズチカとの結婚はいつになるんでしょうか? 東スポ「だけ」が真剣交際とかって報じたのもだいぶん前になる気がするんですが!

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こんばんは。

 今日は半日、テレビ見てました

 いぬがみです(休みで実家)。


 病院に行ったら5分で9000円。ろくに話も聞いてもらえず、こっちから一応相談してみても
「にべもなく」というか、塩対応というか。

 「ネットでそういうのあるから、やってみて」

 あ~じゃ~絶対やりませんから! 私、そう言われるとインターネットとか見ませんから! と、酒の勢いに任せてそのインターネットを利用したブログを書いている今日この頃。

 ううん、やっぱり私は分裂思考なんですよね。いっぺんに、色々なことを考えちゃう。こうやって書いていても、頭では全然違うことを考えていたりするから。

 
 今日は午前中に病院に行って、帰ってきてご飯食べて、そのあと正月のVS嵐スペシャルを見ていました。そして、写真を印刷してみました。自宅にあるキヤノンip2700で、写真光沢紙で。

 写真プリントといえば写真屋さんでやるものですから、初めて……とは言いませんが、あんまり自宅でやったことがなかった私。そりゃあコピー用紙とか年賀はがきで印刷したことはありますが、写真光沢紙でプリントをやってみたことは、一度もなかったんですよね。

 それで、やってみた、と。どうだった、と。

 「……ほう、こんなものか」

 思ったほどじゃなかった、と言いますか。なんか、20年くらい日焼けしたような風合いになりましたね。全体的に色が薄いというか、パソコンのディスプレイで見るよりもずっと「ああ……」とうなってしまうような。

 印画紙のせいなのか? 顔料インクのせいなのか? なんだかよくわかりませんが、とりあえず、こういうものなんでしょうね。ひとまず、いいです。今日はそんな感じで、あえて「何もしない」そんな贅沢な休日を過ごしました。そしてビールを飲んで缶チューハイを飲んで、この後活性原酒雪っこを飲みます。薬との相性? 

 んなもん知るかー! 

 ……あ、この部分は片桐仁さんが演じる「怪傑ギリジン」の物まねです。

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おはようございます。

 Be yourself no matter what they say

 いぬがみです(トーストは両面焼きですけど)。


 と、いきなりEnglish man in New Yorkで始まりましたが、今日はそういうことではありません。というか、本来であればこうして公開するような話でもないのですが、一応何かしら書いておきたいので書きます。

 ええ、というのは、別に世界に対して何かを発信するわけではなく、ごく個人的な気づきの話なんですけどね。

 まあ、それでも、どこでどう誰の心に作用するかわからないですし。スタローンも俳優のオーディションには落ちたけれど、その去り際に「ところで脚本があるんだけど」と言い出したことから『ロッキー』が日の目を見て、人生が大きく動き出したわけですから。


 今月に入って「ラブライブ!サンシャイン!!」の映画を3回も見てしまいました。

 別に週替わりの特典をコンプリートしたいというわけではありません。本当に映画が好きで、あるいはアニメの女の子たちが好きで、その物語の世界に行きたいと思うからそうするのです。それにしたって、物の半月で3回も映画を見に行くなんてことは初めてです。もはや狂気と言ってもいいでしょう。……って、そこまで強迫神経症的なイメージではないのですが。映画を観るのだってタダじゃないしね。

 何でこんなに好きなんだろう。女の子がかわいいから? そりゃ~そうですよそうに決まってるじゃないですか。

 でも、それだけじゃないんですよね。

 そこで今日のテーマ。たぶん私がこうも好きな理由は、物語が「女の子の物語」だからなんだろう、と思うのです。――逆に言えば、私がかわいい女の子に一瞬目を引かれながらも直後に激しい拒絶反応を覚えスゴスゴと遠ざかることが多かったのは、その女の子と私の間に物語の担い手たる男子がいるからだと思うのです。ズギャーン!

 ハイ、だからといってオール・オア・ナッシングというわけではありませんよ。よくある実用書とかタイトルばかり長いライトノベルじゃないんですから、主人公が男だから全部ダメだってわけじゃありませんよ。感情移入しやすい男性が主人公なのであれば、それは面白いです。そういうの、たくさんあります。でも、感情移入しづらい男性が主人公なのであれば、それはダメです。特にそういう人物が一人称で地の文を書いている物語とかそれを原作にしたアニメとか、そんなのはまったくもって拒絶反応です。そんな奴ァ2秒で排除です。遅れた奴は脾臓送りです(byキラーT細胞さん)。

 このテーマ、これから色々と考えていきます。そして気付いたことをその都度書きます。だから今日はあまり長くならないうちに締めくくります。

 早い話が、女の子が主人公の物語に余計な男はいらないってことです。

 少女漫画の主人公の女の子が作中のイケメン男子に恋をして云々というのはよろしい。それは自然な流れですから。

 ただ、一応男性向けのカテゴリにある、女の子が主人公の物語であれば、男子の存在は邪魔になってしまうような気がします。そういう要素いらないから。女の子がその世界で特別純米大吟醸に躍動していれば、見ている私は勝手にヒートゲージが上がってバーニングしちゃいますから。まあ慎み深いμ’s以来のライバーたる私は、光る棒切れを往来で振り回すようなことをせず、精神世界で飛んだり跳ねたりするわけですが。

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おはようございます。

 アメリカはチャンスの国

 いぬがみです(フィラデルフィアより愛を込めて)。


 もちろんこの記事を書いている現実的な場所はフィラデルフィアではなく青森県ですが、昨日は映画「ロッキー」の1作目を見ました。そういう話です。

 これが初めてだったんですよね。

 最初に見たのは「ロッキー4」。これはなぜか2回見ました。獲得した賞と言えばゴールデンラズベリー賞です。今見れば確かに「……」ですが、とにかく2回見たことは事実です。

 次に見たのは「クリード」の1作目。これは面白かったですね~。

 そして現在はクリードの続編が公開されています。2世同士の対決。そうなると相手は当然「ソ連の殺人マシーン」ことドラゴの息子でしょう。いや詳しくストーリィは知らないんですが、どうもポスターを見た限りでは、そうなのかな、と。

 
 ともかく「2」~「5」まではもれなくポンコツ映画の烙印を押されていますが、1作目は良かったといいます。どうしてなのかといえば、

 「どうしようもないポンコツが、努力を積み重ねて夢をかなえる」

 という不変の絶対的なテーマを、当時本当にそんな感じだったスタローンが映画の中でやってみせたからなのでしょう。そのあたりの話はDVDの特典映像で25年後のスタローンが語っています。wikipediaの「ロッキー」とか「カール・ウェザース(アポロ・クリード役の人)」とかの項目を見ると、この時に語っていた内容が記載されています。


 ともすれば超有名なテーマ曲「gonna fly now」「final bell」が安いバラエティ番組で頻繁に流され、すっかり食傷気味だった私。しかも努力が嫌いで、いつもできない理由を探して積み上げて逃げ回ったり立ち止まったりしていた私。というか「努力したってダメなものはダメ」という思想を十代の頃オーケンさんから学んだ私。ゴミクズ同然の人生です。

 でも、ロッキー・バルボアも最初から素晴らしい人間じゃなかったんです。

 びっくりしたのは、冒頭――試合のシーンから始まるのですが、リングから降りた直後にタバコを吸ってるんですよね。ボクサーなのに。スポーツマンなのに。そのあともしょっちゅうタバコは吸うし、ビールは飲むし。生業は高利貸しの借金取り立て屋だし。そのくせ非情になり切れないから、ボクサーとしてもゴロツキとしても中途半端な状態だったんですよね。

 そんなわけだから、あの有名なフィラデルフィアの図書館を駆け上がるシーンも、最初はひどいものでした。途中で足はフラフラガクガク、息も絶え絶えで何とか上り切るものの、もう惨憺たるものでした。本当にボクサーなの? って。そんな感じ。

 それでも、ひたむきに努力を重ねることで、例のあのシーンですよ。ドヤ街を駆け抜けて、オレンジを投げつけられてもパシッと受け止め(これはアドリブで受け止めたのをそのまま本編に使った……というんは有名な話)、軽やかに階段を駆け上がって高々と両手をあげるアレ。そして練習だけでなく、実際の試合でも「地上最強」の呼び声も高い世界ヘビー級チャンピオンと互角以上の激闘を繰り広げるわけです。


 とにかく最後までまったく退屈しませんでした。これは本当にいい映画です。


 私自身の話をすると無駄に長くなってしまうので、それはバッサリ割愛するとして。最後に、DVDの映像特典の中にあるスタローンの言葉を聞いた感想を少々。

 自分自身もやはり1作目が最高傑作、奇跡の出来と評しているんですよね。そして絶頂に達してしまえば、「あとは落ちるだけ」と――。

 悲しいですが、切ないですが、たぶんそれが事実でしょう。「1作目より2作目の方が面白い」というのは、要するに前作がまだ絶頂でなかったからなのでしょう。そしてロッキーに関しては、やはり1作目が絶頂で2作目以降は落ちるだけというのが事実なのでしょう。それはスタローン自身も認めるところなのでしょう。

 ただし、この話は2001年(ロッキー1を振り返って「あれから25年か」と言っている)に収録されたものですからね。本当の意味での最終作? である「ロッキー・ザ・ファイナル」は2006年ですから。

 そういうわけで、次はこれを見ます。そのうえで、クリードの続編も見たいと思います。劇場で見るのは……間に合うかなあ?

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こんばんは。

 今日と明日の境目で

 いぬがみです(23時59分)。


 明日は休みですが、もうすぐにでも寝たいので、短い文章を書きます。

 一生懸命にやって、それを怒られることがありました。

 「自分はほかの人と比べて仕事ができない。だから一生懸命に仕事をしたのに、どうしてそれがいけないんだろう」

 目の前が真っ暗になった……とは言いませんが、ひどく気持ちが落ち込みました。

 もう、酒も飲みたくなくなるくらい。

 まあ、結果的に、それなりに飲んでしまったのですが。半分はお付き合いで。


 そうして、今、自分の部屋に戻ってこの記事を書いています。

 しかし、少し視線を逸らせば、そこには「ラブライブ!サンシャイン!!」の一年生チームのアクリルクロックが。

 それだけで、気持ちが幸せになるのです。


 この時計、とある中古雑貨店で「500円」で買いました。

 包装を開けて電池を入れてみると、どうもちゃんと動かない。よく見たら秒針が長針に干渉して先に進めず、結果的に時計としての役割をはたしていない、と。

 「あるいは、こういう仕様なのか?」とも思いましたが、その後5分くらい様子を見ても、直る気配はない。その時点で、あくまでも時計としてこれを買ってきた私は決心しました。

 「もしかしたら、壊れてしまうかもしれないけれど、それでもコレを時計として使いたい」

 ということで秒針を両手の指で挟み、慎重に引っ張り上げました。とりあえず、長針に干渉しないくらいに。

 おそらく本来であれば、こんなことをしなくても、ちゃんと時計として機能したことでしょう。秒針が若干折れ曲がっているのは前のユーザーのせいか、はたまた梱包が雑なショップのせいか。それはよくわかりませんが、ともかく今私の目の前にある時計は、秒針がちょっぴり不自然に曲がっていますが、とりあえず時計として機能しています。



 一口に「時計の修理」といえば、それはねじと歯車のひしめきあう心臓部の修理ということであり、こうやって秒針を力ずくで折り曲げる作業なんざぁ誰だってできることです。

 しかしながら、「動かないものを動くようにする」ことを修理というならば、私のこの作業も立派な修理です。そして、それが時計だった。……私もずっと愛用していた自動巻き時計『シチズンセブンスター」の分解整備に行った時、その超絶精密メカニズムとそれをオーバーホールしてくださった時計職人の方に多大な尊敬の念を抱いていましたから、技術的な差は天地ほどあるにせよ、自分なりに「時計を直した」というのは、何よりうれしいのです。子どもが近くの公園でテレビのヒーローになり切って走り回るのと同じ感覚だとはいえ、やっぱり

 「動かない時計を、自分の手で動くようにした」

 それが、とても嬉しいのです。


 そんな嬉しさがあるから、私は今日も生きています。

 このブログを書き始めた今日は昨日になり、明日が今日になりましたが、私はまだまだ生きていたいと思います。

 だって、この世界には楽しいことがまだまだたくさんあるから。それを糧に、生きていけるから。

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こんばんは。

 「いだてん~東京オリムピック噺~」面白いですね

 いぬがみです(まだ第一話しか見ていませんが)。


 ドラマの方はさておいて、精力善用というのは、このドラマにも出てきた講道館開祖・嘉納治五郎先生がおっしゃっていた言葉です。正確には「精力善用・自他共栄」ですが。

 私も薬の影響で勢力が常時138%の過剰状態であり、その衝動が赴くままにあんなことやこんなことをしていましたが、やはり精力善用です。

 とはいえ今から柔道を始めるというわけではありません。そこは私なりの解釈です。

 要するに激しすぎる感情をドン・ファン的遊蕩生活で消耗するようなことは慎み、身体を動かすにしても自分のステータスアップになるような、何かしら実のなる行動をしようと思ったのです。いやステータスアップじゃなくてもいいです。

 「健康で、生活に便利なカラダ」

 それを作れればいいです。薬で精神的に過剰な状態になるのなら、精神の入れ物である肉体のキャパシティを広げてあげればよろしい。100キロが限界のコーナーを101キロで曲がることはできませんが、限界を101キロに引き上げることはできるんです。って、これは湾岸ミッドナイトですが。


 ともかく、人生は楽しいです。考えることがたくさんあります。

 まだまだ、できることもいっぱいあります。

 明日も、生きます。楽しく、元気にね。

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おはようございます。

 朝から熱中症

 いぬがみです(めまい、吐き気)。


 今から20年前、私は高校2年生でした。ちょうど微妙な月なので具体的に書くと、1998年度、高校2年生でした。なので1999年4月から高校3年生というところです。

 現在公開中の映画「ラブライブ! サンシャイン!!」であれば、2年生の子たちと一緒です。いや一緒っていうか、ちょうど20年、離れているということですね。キリのいいところで。

 こないだの『ファインダー』に出てきた女子高生もそうですけど、現実的に高校生だった時代から、そろそろ20年。そしてそれ以上の時間が経とうとしています。

 よく考えればジョシコーセーが主人公の物語なんて、いつの時代もあったから、どこかでこういうタイミングが来るのだとは思いますが……あるいは、20年という節目だからかな。『仮面ライダージオウ』とか何とかもそうですけど、色々メモリアルイヤーな感じがします。


 たぶん、今年が勝負でしょうね。

 今までいろいろと忘れていたこと、捨ててきたこと、後悔していること、物足りないこと。その10年分20年分あるいは30年分を取り戻そうとして、ここ半年くらい頑張ってきましたが、やはり30年分をいっぺんに生きようとすると、時間が足りません。物理的時間は万物において平等ですから、あとはいかにその時間を濃厚に生きるか。

 幸いにも私にはコンサータがあります。これを服用し始めてから、人生を143パーセントくらい生きている気がします。その分、身体的負担も小さくありませんが。


 題名は、ナムコの格闘ゲームのキャラクターのセリフです。

 これは記憶違いかもしれませんが、「ソウルキャリバー」の主人公であるジークフリートが勝利時に言っていたセリフです。確かドリームキャスト版で、ソウルエッジに乗っ取られた『ナイトメア』のバージョン違いとして出てきたはずですが、こんなことを言っていたような気がします。

 そしてもうひとりは、「鉄拳4」のオープニングの三島一八ですね。

 「生きていたのか!」

 自分の手で抹殺したつもりの親父・三島平八に対してモニターカメラ越しに叫んだセリフ。正確には「貴様からは……すべてを取り戻す!」ですが、そんな感じです。

 
 何もしてこなかった――と思い込んでいた社会人生活の10年。

 何もかもを捨てよう――と忘れ去っていた中/高/大学生時代からの20年。

 ラジコンとファミコンの合間で泣いたり笑ったりしていた小学校時代からの30年。


 そして、もうすぐ40年。

 ずっとずっとずっと先のことだと思っていた未来が、もう手の届きそうなところにある。

 だから私は生きます。

 過去を、そして、現在を。



 *


 ……本当は20年くらいで区切ろうと思っていたのですが、今この記事を書きながら聞いているのが『女神転生』のサントラなものですから、ちょっと範囲を広げてしまいました。1作目は1987年、2作目は1990年なので少々ずれはありますが、キリのいいところで30年ということにしました。大変だぞ、こりゃあ(笑)。

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おはようございます。

 世界最高の読心(リーディング)能力

 いぬがみです(……「ときメモが好きなようだな」)


 それは90年代の名作「メタルギアソリッド」の登場人物であるサイコ・マンティスですが、以前「TRICK」というドラマを見た時、ホットリーディングとかコールドリーディングとか、そう言う言葉を覚えました。のちに「ザ・クイズショウ」でも出てきましたが。

 いずれも相手の心を読む技法なわけですが、そのことをいまさら突き詰めるつもりはありません。それを知ったところで、本当にその技術を自分のものにしている人からすれば、容易に看破できるというか、むしろそれこそつけ入る隙だと思いますので。メンタリストの方のダイゴさんを見ていると、そう思いますね。こんな人と相対したら、私は全面降伏です。

 今日は、要するに人間だれしも、ほかの人の言葉を自分に当てはめてしまうものだな、と思いました。っと、そう言う話です。


 本を読んでも映画を見ても、「ああ、これは今の自分と一緒だ」と思ったり。それは感情移入という言葉でもいいですが。そして、すべての創作物というのは、そのために存在しているのだと思いますが。

 その、最も強力なものが聖書ですね。これはもう2000年以上かけて磨き抜かれた言葉の数々ですからね。たぶん人間の側に立って考える人は、これらの言葉さえ様々な心理学用語を振りかざして理詰めで解明するのでしょう。

 それなら、それでよろしい。聖書の言葉をイエズス様すなわち神様のありがたい教えと受け止め、そのように行動しようとすることを嗤うのなら、嗤えばよろしい。

 その先に私が求めるものは無いですから。私は私の信じる道を行きますから。


 *


 あと、もうひとつ書こうと思っていた話題があります。

 これは自分でもあんまりよくわからないのですが、やはり――この際聖書だろうと何だろうといいのですが、同じ文章を目にしても、電子メディアよりも紙メディアの方が頭に入るんですよね。

 …………

 あれ、この話、「湾岸ミッドナイト C1ランナー」で出てきたような気がするな。すみません、これはコミックスを読み直して、また改めて書きます。

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こんにちは。

 冷めやらぬ余韻

 いぬがみです(数日前に見たまんが映画のね)。


 こんなことを言っているから私は、突き詰めることができないんですよね。また、それでいいと思っている節もありますし。

 さて、ユルスナールの『三島あるいは空虚のヴィジョン』を読了しました。

 私が昨晩書いた、三島氏の自決直前の雰囲気は、ユルスナール女史と澁澤龍彦氏(翻訳者)によって大体わかりました。あとはもう結構です。

 やはり私にとっては、この3冊を併せて読むことでバランスが取れるのかなと思います。当事者たる三島氏があって、「親しくそして本質的な理解者」であり「時間を超えた優しい眼差し」を注ぐ澁澤龍彦氏があって、さらに、その澁澤氏が自ら翻訳を手掛けたユルスナール女史があって。そのおかげで私は現代を生きることができるのです。

 まあ背の立つところまでしか入っていないのに「海を知った」というようなものですが、これも含めてあくまでも仮想体験、冗談のひとつと思っていただければよろしいです。


 そして、改めて思ったのは、やはり文章力というのは重要だということです。

 平易なのか難解なのかという問題とは別に、上手なのか下手なのかということですね。

 たぶんその辺が、心に響くとか響かないとか、そう言うことなのかなと思うのです。

 大学まで行って文学をやってきたわりに、なんだか拙劣極まりない文章しか書けない私としては、これら偉大な方々の文章を読むたびにトホホと苦笑いしてしまいます。もはや頭をかきながら情けなく笑って引き下がるしかありません。

 まあ、私自身の文章がまずいので、せめて良い文章をたくさん読みたいと思います。よし、今日はコンパクトにまとまりましたね(?)。

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