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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
こんばんは

 今日も少しくお酒を飲みながら記事を書いています

 いぬがみです(飲まないとやってられない)。


 私は洗礼を受けたわけではないのでクリスチャンではありませんが、生き方の物差しというかモラルのよりどころとして聖書の言葉を大事にしています。昔の日本の「キリシタン」みたいなものです。洗礼は受けていないけれど、やっぱり神様に心を開くと、荒み切った気持ちがすごくフラットになるのです。

 さて今日は、聖書とお酒に関するお話です。なに、私もすでに酒を飲みながら書いているので、皆様も構えずに読み流してください。


 ことに酒というのは昔々から人類とともにあるものですが、それゆえに宗教によってはこれを厳しく禁止するものがあります。私たちのように八百万の神々が住まう文化に生まれ育った人間からしてみれば、「イスラム教が飲酒を禁止してるから、キリスト教もダメなんだろうな」とかって思いがちですが、必ずしもそういうわけではありません。

 そもそもイエス様が、いわゆる「最後の晩餐」の席上にて、弟子たちに「これは私の肉、これは私の血」といってパンとワインを振舞っています。さらに聖パウロが『テモテへの手紙』の中で、こんなことを言っています。

 『これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。』
(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:20~23)

 ……な~んて、これを日本人の特技『錦の御旗』として掲げて、欲望のままにワインを飲みまくる……そんなことでは、いけません。私は過去に何度も何度も何十回もそういう過ちを犯してしまったから、あえて言います。ついでに言えば、当時の衛生環境とか何とかということを、この記事を書くためにアレコレ調べているうちに知ったので、それを踏まえて言います。


 聖パウロがこういう風に書いた時代(今から2000年くらい前)は、そもそも飲料水というものが、かなり……よくなかったらしいのですね。衛生面とか、そういうので。

 それなのに私は現代日本の、「カルキ臭い」なんて贅沢な不満が出てくるくらい徹底的に消毒された安全な水を毎日のように飲みまくっている価値観で解釈してしまったものですから、ついつい「なんだ、聖書でもワインを飲むことを推奨してるじゃないか」「適量だったらいいんだよ、適量ならね」つって、ついつい過度に飲酒してしまう……そんな日々を過ごしていました。

 
 日本語で言う「宗教」というもの。神様でも仏様でもイエス様でも、なんでもよろしい。とにかく自分が信じて一生懸命にその教えの通りに生きようと思う「目安」となるもの。その拠り所となるものが、歴史の長さがあればあるほど権威があるような気もしますが、一方でその当時の世の中の環境とか、そういうものも意識しないといけない――そうでないと、大事なことを見誤ってしまうかもしれない。今日はそんな自戒の意味を込めた記事でした。

 終わりで~す!(唐突に三四郎小宮さん風オチ)。

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