こんばんは
今日は遠藤周作「人生の同伴者」を読みました
いぬがみです(これは「対談集」ですね)。
まったくもって文学的素養を欠いていると痛感した私。何せいまだに『海と毒薬』も『沈黙』も読んでいないし、遠藤先生の師匠筋にあたる堀辰雄も読んでいません。だからあんまり、最後まで読み終えても、深い感動とか……そういうのは、ありませんでした。
重ねて申し上げます。それは私があまりにも不勉強だからです。
そのため、私はおそらくこの本をまとめた方とは全然違うところで、しかも全然大したことない、きわめてレベルの低い次元で、感じたことがありました。すなわち、
「やはり何につけ『技法』というものがあり、それは努力して勉強しないと身につかないのだ。……そして、プロの人というのは、最低限の技法を身に着けているものなのだ」
何を当たり前のこと言ってるんだ馬鹿野郎様!……いや、わかりますよ。わかりますから、そんなに真面目に糾弾しないでください。これは今まで自分が認めたくなくて回避していたことに正面から向き合い、苦しいながらも受け入れようとしているところなんですから。
まぁ自分が全然できないことに関しては、それは素直に理解できるんですよ。楽器を演奏するとか、飛行機を操縦するとかね。でも、なまじ自分が好きで勝手にある程度やっていることに関しては、改めて技法云々、すなわち「〇〇入門」みたいなものを手に取り技術的なアレコレを学ぼうという気には、どうしても、なれないんですよ。
たとえば文章を書くこととか、写真を撮ることとか、でしょうか。
良い文章というのはあります。良い写真というのはあります。私だって、これでも元・写真部ですし、写真を撮ること自体は大好きなので、どうせ撮るからには「良い写真」を撮りたいと思います。そのために「花の写真の撮り方入門」とか「スナップ写真の撮り方特集」とか、そういうのを勉強しようと本を手に取ったことは、あります。
そして、そういう本には例外なく技術的なことが書かれております。これをキッチリと頭に入れて、ファインダーをのぞきながらアレコレと瞬時に計算し、位置取りを決めてバシッと撮れば百発百中、いわゆる「良い写真」が撮れるでしょう。いわゆる職業カメラマンともなれば、そういう技術が必要でしょう。
それに対して勉強嫌いの私はこう言って、技法を身に着けることを拒否します。すなわち、
「(文章を書くのも)写真を撮るのも、自分が一番いいと思った瞬間を固着させるための手段だから。自分はそれでいいと思っているから」
……ね~。まったくもって独りよがり、自己満足、極論すれば自分のナニをアレして気持ちよくなるウンチャラ~と同じことです。そのくせ、そうやって撮影した写真とか、書き上げた文章とかを誰かに見てもらいたいっていう気持ちもあるんですから。まったくもって、どうしようもない野郎です。
だから私は、「自分の好きなことでプロにはなれない」と確信しているのです。
私にとってそれは、お金をもらうためではなく、自分の心をどうにかこの世界につなぎとめるための、食べることや寝ることとほぼ同格の「愛の行為」ですから。
そしてそして、そんな自分には決してできないことを身に着け、さらにその上に自分のスタイルというものを身に着けて、「小説家」とか「写真家」とかっていう看板で活動されておられる方は「すげえなあ」と思うのです。そんな憧憬というか尊敬というか。そういうのを素直に認められるようになれば、きっと私の心も浄化されるんだろうなって。そう願いつつ文章を締めくくりたいと思います。
余談
直木賞とか芥川賞とか、それ以外にもナニナニ文学賞とかナニナニ新人賞とか、いっぱいありますよね。そりゃあノーベル文学賞っていうのもありますけど、一般的に言えば、直木賞と芥川賞っていうのが、ひとつの権威ですよね。
……本当はこのあと「大体こういう賞をもらう人って、今まで聞いたことない人たちばっかりだよね」という話を書こうと思ったんですが、念のためにと少々調べたら、そりゃあそうですよね。もともとこれは「新人」に与えられる文学賞なんですから。遠藤周作先生だって、デビューして2年目で受賞しているんだし。
なるほど、腑に落ちました。そのうえで改めて、書こうと思っていたことを書きます。
文学賞をもらうだけの作品を書ける人は、もちろん素晴らしい。でも、それを『私が』面白いと思うかどうかは別問題だって。これまた「当たり前だろうがボケカス」といってヒートアクションを繰り出したくなると思いますが、どうか抑えてください。こういうことをきちんと言葉に書き出すことが、私の精神的なリハビリテーションですから。
余談++
いったん記事を投稿した後、Wikipediaの「芥川賞」の項目を読みました。……うん、なるほどね……。
いま私が青森で仕事をしているということを抜きにしても、私は太宰治という人が好きです。
つらいことがあると悩み、落ち込み、(想像ですが)顔をくしゃくしゃにして男泣きにむせびながら「ひどいじゃないか。ひとが、こんなに頑張ってるのに。……ひどいよ」と弱音を吐くお人柄が、どうも他人のような気がしなくて。「わかった、みなまで言うな!」と全力で慰めてあげたくなっちゃいます。自分と、どうしても、重ねちゃって……。
そんな太宰治という人を、よりによって本人の面前で「大嫌いだ」と言ってのけた三島由紀夫氏もけっこー好きなんですが……とりあえず、アレですね。今度は川端康成をかじろうと思います。小学校の図書室で『坊っちゃんから伊豆の踊子まで―名作入門』という本を読み、それがきっかけで漱石の方はやっつけたんですが、いまだに川端康成といえば『知ってるつもり!?』で見た記憶しかないですからね。これじゃあダメだろう、と。
いやはや、まだまだ生きたくなる理由がありますね。本当に、これだから、長く生きることというのは……まったくもって、面白いことばかりです。
※
「誰からも必要とされていない」とか「自分なんか、さっさと自殺した方が世の中のためだ」とか。もしも、万が一、何かの間違いでも何でもいいんですが、もしもそう考えている人がこの記事を読んでいたとしたら。そんなあなたに申し上げます。
自分が生きたかったら、生きていていいんです。生きられるうちは、生きていていいんです。
どうか、そんな優しすぎる、まじめすぎる、清らかすぎる理由で、自殺しないでください。
そうです、あなたはとっても優しくて、純粋で、まじめなんです。
だから、もうちょっと、デタラメに生きていいと思うんです。私がそうです。
「自分なんか、死んでしまった方が世の中のためだ」そう思っていた時期がありました。それに関しては次のような理屈でぶっ飛ばしました(論破ではなく、無理やりぶっ飛ばした)。すなわち、
「世の中にとっていいかどうかは、自分ごときが決められるものじゃない」
ということです。自分がわかること、知っていること、想像ができることなんて、ごくごく狭いものですから。そもそも私たちがこの世に生まれて生きながらえている理由は何か? と言えば、それはひっきょう、ヨハネ伝3章16節に集約されるのです。それで十分でしょう。
そのうえで、「それはキリスト教徒のひとだから、そう言えるんでしょう」とおっしゃる方のために、さらに独自の理論をぶち上げたいと思います。これはきれいな言葉じゃありません。もしかしたらイエス様も「そりゃ~ダメだよ」と言うかもしれませんが、あえて言います。いま、つらすぎて死にたいって思ってる人たちに向けて。
「いま生きている以上、生きたいように生きる権利がある」
と。
……と言って! もちろん、我が国は法治国家ですから。民主主義ですから。「生きたいように生きる権利がある。よし、自由闊達にやりますか」といってライフルを乱射、無差別殺人を犯したうえで動機について「生きたいように生きた」というのは、許されるものではありません。わざわざこんなに諄(クド)い話をしなければならないのか。そういうご時世だからね。そういえば今日読んだ『人生の同伴者』でも、そんなことを言っていたな。「聞いている人に、わかってもらえるかどうか心配だから、ちょっと諄いセリフ回しになってしまう」ってね。
……結論的には、そもそもこんなことを、不特定多数の人が目にするブログという場所で申し上げるべきじゃないのかもしれませんね。
それでも、やっぱり、言わずにはいられないのです。やっぱり、自分よりもずっと若い人が、命を絶つような事例が少なくないっていうニュースを見てしまったから。
私が正しくないというのなら、正しくなくてもいいです。極端な話、私のせいで「自分がやりたいことをやろうと思った」という動機で凶悪犯罪事件が急増したというのなら、それも仕方がないというか……責任を取ることはできませんが、「なんとでも言ってくれ」という感じです。それでも私は言いたいのです。すべての人に。特に、先述したような人たちに。
生きられるうちは、生きていていいって。それでも「自分なんて、生きてるだけで周りの人に迷惑をかけるだけだから、死んだ方がましだ」っていうのなら、いいですよ、「周りの人たちに迷惑をかけるために生きるんだ」それくらいの気持ちでも、いいと思うんです。
もしかしたら、あなたが想像できないくらいの未来で、あなたを必要としている人が、いるかもしれないから。そういう人と、出会うかもしれないから。そういう時のために、あなたは生きているのかもしれないから。
これは外ならぬ私自身が「体感」したことです。想像ではありません。事実です。
そういう思いが、今の私を生きながらえさせています。
今日は遠藤周作「人生の同伴者」を読みました
いぬがみです(これは「対談集」ですね)。
まったくもって文学的素養を欠いていると痛感した私。何せいまだに『海と毒薬』も『沈黙』も読んでいないし、遠藤先生の師匠筋にあたる堀辰雄も読んでいません。だからあんまり、最後まで読み終えても、深い感動とか……そういうのは、ありませんでした。
重ねて申し上げます。それは私があまりにも不勉強だからです。
そのため、私はおそらくこの本をまとめた方とは全然違うところで、しかも全然大したことない、きわめてレベルの低い次元で、感じたことがありました。すなわち、
「やはり何につけ『技法』というものがあり、それは努力して勉強しないと身につかないのだ。……そして、プロの人というのは、最低限の技法を身に着けているものなのだ」
何を当たり前のこと言ってるんだ馬鹿野郎様!……いや、わかりますよ。わかりますから、そんなに真面目に糾弾しないでください。これは今まで自分が認めたくなくて回避していたことに正面から向き合い、苦しいながらも受け入れようとしているところなんですから。
まぁ自分が全然できないことに関しては、それは素直に理解できるんですよ。楽器を演奏するとか、飛行機を操縦するとかね。でも、なまじ自分が好きで勝手にある程度やっていることに関しては、改めて技法云々、すなわち「〇〇入門」みたいなものを手に取り技術的なアレコレを学ぼうという気には、どうしても、なれないんですよ。
たとえば文章を書くこととか、写真を撮ることとか、でしょうか。
良い文章というのはあります。良い写真というのはあります。私だって、これでも元・写真部ですし、写真を撮ること自体は大好きなので、どうせ撮るからには「良い写真」を撮りたいと思います。そのために「花の写真の撮り方入門」とか「スナップ写真の撮り方特集」とか、そういうのを勉強しようと本を手に取ったことは、あります。
そして、そういう本には例外なく技術的なことが書かれております。これをキッチリと頭に入れて、ファインダーをのぞきながらアレコレと瞬時に計算し、位置取りを決めてバシッと撮れば百発百中、いわゆる「良い写真」が撮れるでしょう。いわゆる職業カメラマンともなれば、そういう技術が必要でしょう。
それに対して勉強嫌いの私はこう言って、技法を身に着けることを拒否します。すなわち、
「(文章を書くのも)写真を撮るのも、自分が一番いいと思った瞬間を固着させるための手段だから。自分はそれでいいと思っているから」
……ね~。まったくもって独りよがり、自己満足、極論すれば自分のナニをアレして気持ちよくなるウンチャラ~と同じことです。そのくせ、そうやって撮影した写真とか、書き上げた文章とかを誰かに見てもらいたいっていう気持ちもあるんですから。まったくもって、どうしようもない野郎です。
だから私は、「自分の好きなことでプロにはなれない」と確信しているのです。
私にとってそれは、お金をもらうためではなく、自分の心をどうにかこの世界につなぎとめるための、食べることや寝ることとほぼ同格の「愛の行為」ですから。
そしてそして、そんな自分には決してできないことを身に着け、さらにその上に自分のスタイルというものを身に着けて、「小説家」とか「写真家」とかっていう看板で活動されておられる方は「すげえなあ」と思うのです。そんな憧憬というか尊敬というか。そういうのを素直に認められるようになれば、きっと私の心も浄化されるんだろうなって。そう願いつつ文章を締めくくりたいと思います。
余談
直木賞とか芥川賞とか、それ以外にもナニナニ文学賞とかナニナニ新人賞とか、いっぱいありますよね。そりゃあノーベル文学賞っていうのもありますけど、一般的に言えば、直木賞と芥川賞っていうのが、ひとつの権威ですよね。
……本当はこのあと「大体こういう賞をもらう人って、今まで聞いたことない人たちばっかりだよね」という話を書こうと思ったんですが、念のためにと少々調べたら、そりゃあそうですよね。もともとこれは「新人」に与えられる文学賞なんですから。遠藤周作先生だって、デビューして2年目で受賞しているんだし。
なるほど、腑に落ちました。そのうえで改めて、書こうと思っていたことを書きます。
文学賞をもらうだけの作品を書ける人は、もちろん素晴らしい。でも、それを『私が』面白いと思うかどうかは別問題だって。これまた「当たり前だろうがボケカス」といってヒートアクションを繰り出したくなると思いますが、どうか抑えてください。こういうことをきちんと言葉に書き出すことが、私の精神的なリハビリテーションですから。
余談++
いったん記事を投稿した後、Wikipediaの「芥川賞」の項目を読みました。……うん、なるほどね……。
いま私が青森で仕事をしているということを抜きにしても、私は太宰治という人が好きです。
つらいことがあると悩み、落ち込み、(想像ですが)顔をくしゃくしゃにして男泣きにむせびながら「ひどいじゃないか。ひとが、こんなに頑張ってるのに。……ひどいよ」と弱音を吐くお人柄が、どうも他人のような気がしなくて。「わかった、みなまで言うな!」と全力で慰めてあげたくなっちゃいます。自分と、どうしても、重ねちゃって……。
そんな太宰治という人を、よりによって本人の面前で「大嫌いだ」と言ってのけた三島由紀夫氏もけっこー好きなんですが……とりあえず、アレですね。今度は川端康成をかじろうと思います。小学校の図書室で『坊っちゃんから伊豆の踊子まで―名作入門』という本を読み、それがきっかけで漱石の方はやっつけたんですが、いまだに川端康成といえば『知ってるつもり!?』で見た記憶しかないですからね。これじゃあダメだろう、と。
いやはや、まだまだ生きたくなる理由がありますね。本当に、これだから、長く生きることというのは……まったくもって、面白いことばかりです。
※
「誰からも必要とされていない」とか「自分なんか、さっさと自殺した方が世の中のためだ」とか。もしも、万が一、何かの間違いでも何でもいいんですが、もしもそう考えている人がこの記事を読んでいたとしたら。そんなあなたに申し上げます。
自分が生きたかったら、生きていていいんです。生きられるうちは、生きていていいんです。
どうか、そんな優しすぎる、まじめすぎる、清らかすぎる理由で、自殺しないでください。
そうです、あなたはとっても優しくて、純粋で、まじめなんです。
だから、もうちょっと、デタラメに生きていいと思うんです。私がそうです。
「自分なんか、死んでしまった方が世の中のためだ」そう思っていた時期がありました。それに関しては次のような理屈でぶっ飛ばしました(論破ではなく、無理やりぶっ飛ばした)。すなわち、
「世の中にとっていいかどうかは、自分ごときが決められるものじゃない」
ということです。自分がわかること、知っていること、想像ができることなんて、ごくごく狭いものですから。そもそも私たちがこの世に生まれて生きながらえている理由は何か? と言えば、それはひっきょう、ヨハネ伝3章16節に集約されるのです。それで十分でしょう。
そのうえで、「それはキリスト教徒のひとだから、そう言えるんでしょう」とおっしゃる方のために、さらに独自の理論をぶち上げたいと思います。これはきれいな言葉じゃありません。もしかしたらイエス様も「そりゃ~ダメだよ」と言うかもしれませんが、あえて言います。いま、つらすぎて死にたいって思ってる人たちに向けて。
「いま生きている以上、生きたいように生きる権利がある」
と。
……と言って! もちろん、我が国は法治国家ですから。民主主義ですから。「生きたいように生きる権利がある。よし、自由闊達にやりますか」といってライフルを乱射、無差別殺人を犯したうえで動機について「生きたいように生きた」というのは、許されるものではありません。わざわざこんなに諄(クド)い話をしなければならないのか。そういうご時世だからね。そういえば今日読んだ『人生の同伴者』でも、そんなことを言っていたな。「聞いている人に、わかってもらえるかどうか心配だから、ちょっと諄いセリフ回しになってしまう」ってね。
……結論的には、そもそもこんなことを、不特定多数の人が目にするブログという場所で申し上げるべきじゃないのかもしれませんね。
それでも、やっぱり、言わずにはいられないのです。やっぱり、自分よりもずっと若い人が、命を絶つような事例が少なくないっていうニュースを見てしまったから。
私が正しくないというのなら、正しくなくてもいいです。極端な話、私のせいで「自分がやりたいことをやろうと思った」という動機で凶悪犯罪事件が急増したというのなら、それも仕方がないというか……責任を取ることはできませんが、「なんとでも言ってくれ」という感じです。それでも私は言いたいのです。すべての人に。特に、先述したような人たちに。
生きられるうちは、生きていていいって。それでも「自分なんて、生きてるだけで周りの人に迷惑をかけるだけだから、死んだ方がましだ」っていうのなら、いいですよ、「周りの人たちに迷惑をかけるために生きるんだ」それくらいの気持ちでも、いいと思うんです。
もしかしたら、あなたが想像できないくらいの未来で、あなたを必要としている人が、いるかもしれないから。そういう人と、出会うかもしれないから。そういう時のために、あなたは生きているのかもしれないから。
これは外ならぬ私自身が「体感」したことです。想像ではありません。事実です。
そういう思いが、今の私を生きながらえさせています。
PR
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック