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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
こんばんは。

今日はワインを飲みながらAFX-2

『森のキュイジーヌ」管理人のいぬがみです(selected ambient works 85-92)


明日は仕事が休み。でも実家には帰らない。すなわち仕事が終わって、すぐにお酒を飲むことができる。しかもビールよりも好きなワインを。そして現在時刻、午前1時。

こういう状況からもわかると思いますが、今の私、とても酔っています。それをタテにして、今日は、ちょっと放言しちゃいます。すべては「酒に酔っていて覚えていない」の言い訳となるので、どうかそのあたりを了承のうえ、以下の記事をご覧ください。



こないだ2週間ぶりに休みを頂き、実家に帰り。そこで「何か、気持ちの支えになる本をもっていこう」と思って選んだのは故・大山倍達総裁の『自分に勝て! わが性格改造論』。そう、かつてゴッドハンドの異名を持ち、極真会館を興した大山総裁が『わが肉体改造論』に続いて出版した若者向けの? 本です。

大山総裁自身の経験に基づいて書かれた(ことになっている)同著。何かといえば実はアアだったコウだった…とネット上はたまた週刊誌上で書きたてられるご時世を考慮して、あえて(ことになっている)というカッコ書きを入れましたが、正直なところそれが真実であろうがそうでなかろうがどうでもよろしい。酔った勢いもあって書いてしまいますが、そういった真偽云々といった議論を、それこそ正拳一撃チェストー! とばかりに打ち砕く力が、大山総裁の言葉からは感じられます。

であれば、その言葉を受けてひどく感動。ほんのちょっぴりでも、「よし自分も強くなろう! 大山総裁のように強い人間になろう!」と文字通りの性格改造を志した私自身を否定することもあるまい、と思ったのです。

それが今回のタイトルとした「感動まで否定することはない」ということです。

実際に大山総裁がどういう人物であったか。私は残念ながら大山総裁に近い人間ではありませんし、そもそも空手を習った経緯もありません。ただただ『空手バカ一代』に感動し、どちらかというとオーケンこと大槻ケンヂさん経由で『大山カラテもし戦わば』を知りこれを読み、さらに総裁の関連著書を読んで生木に拳足を打ち込みアイタタタ~となった分際ですから(?)。なるほど、あるいは大山総裁いや大山倍達という人は、私が考えているような「超人」ではなかったのかもしれません。

でも、たとい勘違いだとしても。

「勘違いもまた感動の一形態である」とは特殊音楽家・とうじ魔とうじ氏の名言ですが(それはオーケンさんのエッセイで知った)、大山総裁のキャラクタに感銘を受け、それでもって自分を変えようと色々な行動をし、実際にそれなりの成果があった…。

その時点で、私にとっては「人生の師」の一人となっているように思うのです。少なくとも、情報化社会の恩恵でしょうか、色々と乱れ飛ぶ「本当はこの人、こういう人だったんだよ」という「真相」を突っぱねられる力を得た存在として、私はそう言えます。


リアルタイムで今、ワインを飲みながら書いている勝手もあるので、勢い任せに申し上げます。実際のところ私にとって、それが真実かどうかは、関係ないんです。すべては私がどう生きるか。そのためにプラスになるのなら、たといフィクションだろうと何だろうと、関係ないんです。その話を聞いて、自分をより良い方向にシフトさせられるのなら、どんなことであれすべてOKというのが私の基本理念。もちろん、言葉を尽くして…ここで書ききれないくらい、色々な思いはありますが(酔っぱらうとそれが5割増し以上?に膨れ上がる)…色々と考えます。

でも、ね。

やっぱり一番大切なのは、自分ですから。自分がこれから先、どう生きていくか。そのことを念頭に置いて考えた時ですね。自分がプラスになるのなら、たとい冗談だとしても、あえてそれを本気の考えとして取り込み、自分の糧としていく。

「あえて」これが大事なキーワードですよ。試験に出ます。メモしてください。…何の試験に出るかは、わかりませんが。


  *


もうずいぶんと酔ってしまっているので、勢いついでに書きましょう。

その昔、筋肉少女帯が発表した『UFOと恋人』というアルバムの最後に収録されていた「バラード禅問答」。私はその歌詞の内容に、結構、人生レベルで影響を受けています。

本当はもう彼氏がこの世にいないのに「彼は宇宙人にさらわれて、どこかで生きている」という女性。

本当はもう娘がこの世にはいないのに、少女人形を娘のように扱っている男性(これ、たぶんデカルトがモデルですよね)。

その、「本当はわかっているけど、あえて…」という考え方。

多分これ、私の基本理念です。私の行動の、最もプリミティブな部分に、こういう考え方があると思います。

いつのころからか、そうなってしまいました。

でも、そのおかげで、なんというか…「心が広くなった」…というか…。

ちょっとやそっとの「真実」に、心が動じなくなったような、気がするんです。

「ああ、実際はそうなんだ。でも、オレは(実際ではない)これがいいんだ」

そう言えるようになったというか。…それはある意味、色々な「実はこうだった」情報が氾濫するこのご時世に適応するための必然ということかもしれませんが…。


ああ、なんだか今日は随分と、酔ってしまったようです。

仕方がありません。今日はいったん、この辺で打ち切ることにしましょう。

本当は「24時間テレビ」にあてつけて(?)、もう半分の思いを打ち明けようと思っていたのですが、、それはまた次回ということで。

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こないだ2週間ぶりに休みを頂き、実家に帰り。そこで「何か、気持ちの支えになる本をもっていこう」と思って選んだのは故・大山倍達総裁の『自分に勝て! わが性格改造論』。そう、かつてゴッドハンドの異名を持ち、極真会館を興した大山総裁が『わが肉体改造論』に続いて出版した若者向けの? 本です。

大山総裁自身の経験に基づいて書かれた(ことになっている)同著。何かといえば実はアアだったコウだった…とネット上はたまた週刊誌上で書きたてられるご時世を考慮して、あえて(ことになっている)というカッコ書きを入れましたが、正直なところそれが真実であろうがそうでなかろうがどうでもよろしい。酔った勢いもあって書いてしまいますが、そういった真偽云々といった議論を、それこそ正拳一撃チェストー! とばかりに打ち砕く力が、大山総裁の言葉からは感じられます。

であれば、その言葉を受けてひどく感動。ほんのちょっぴりでも、「よし自分も強くなろう! 大山総裁のように強い人間になろう!」と文字通りの性格改造を志した私自身を否定することもあるまい、と思ったのです。

それが今回のタイトルとした「感動まで否定することはない」ということです。

実際に大山総裁がどういう人物であったか。私は残念ながら大山総裁に近い人間ではありませんし、そもそも空手を習った経緯もありません。ただただ『空手バカ一代』に感動し、どちらかというとオーケンこと大槻ケンヂさん経由で『大山カラテもし戦わば』を知りこれを読み、さらに総裁の関連著書を読んで生木に拳足を打ち込みアイタタタ~となった分際ですから(?)。なるほど、あるいは大山総裁いや大山倍達という人は、私が考えているような「超人」ではなかったのかもしれません。

でも、たとい勘違いだとしても。

「勘違いもまた感動の一形態である」とは特殊音楽家・とうじ魔とうじ氏の名言ですが(それはオーケンさんのエッセイで知った)、大山総裁のキャラクタに感銘を受け、それでもって自分を変えようと色々な行動をし、実際にそれなりの成果があった…。

その時点で、私にとっては「人生の師」の一人となっているように思うのです。少なくとも、情報化社会の恩恵でしょうか、色々と乱れ飛ぶ「本当はこの人、こういう人だったんだよ」という「真相」を突っぱねられる力を得た存在として、私はそう言えます。


リアルタイムで今、ワインを飲みながら書いている勝手もあるので、勢い任せに申し上げます。実際のところ私にとって、それが真実かどうかは、関係ないんです。すべては私がどう生きるか。そのためにプラスになるのなら、たといフィクションだろうと何だろうと、関係ないんです。その話を聞いて、自分をより良い方向にシフトさせられるのなら、どんなことであれすべてOKというのが私の基本理念。もちろん、言葉を尽くして…ここで書ききれないくらい、色々な思いはありますが(酔っぱらうとそれが5割増し以上?に膨れ上がる)…色々と考えます。

でも、ね。

やっぱり一番大切なのは、自分ですから。自分がこれから先、どう生きていくか。そのことを念頭に置いて考えた時ですね。自分がプラスになるのなら、たとい冗談だとしても、あえてそれを本気の考えとして取り込み、自分の糧としていく。

「あえて」これが大事なキーワードですよ。試験に出ます。メモしてください。…何の試験に出るかは、わかりませんが。


  *


もうずいぶんと酔ってしまっているので、勢いついでに書きましょう。

その昔、筋肉少女帯が発表した『UFOと恋人』というアルバムの最後に収録されていた「バラード禅問答」。私はその歌詞の内容に、結構、人生レベルで影響を受けています。

本当はもう彼氏がこの世にいないのに「彼は宇宙人にさらわれて、どこかで生きている」という女性。

本当はもう娘がこの世にはいないのに、少女人形を娘のように扱っている男性(これ、たぶんデカルトがモデルですよね)。

その、「本当はわかっているけど、あえて…」という考え方。

多分これ、私の基本理念です。私の行動の、最もプリミティブな部分に、こういう考え方があると思います。

いつのころからか、そうなってしまいました。

でも、そのおかげで、なんというか…「心が広くなった」…というか…。

ちょっとやそっとの「真実」に、心が動じなくなったような、気がするんです。

「ああ、実際はそうなんだ。でも、オレは(実際ではない)これがいいんだ」

そう言えるようになったというか。…それはある意味、色々な「実はこうだった」情報が氾濫するこのご時世に適応するための必然ということかもしれませんが…。


ああ、なんだか今日は随分と、酔ってしまったようです。

仕方がありません。今日はいったん、この辺で打ち切ることにしましょう。

本当は「24時間テレビ」にあてつけて(?)、もう半分の思いを打ち明けようと思っていたのですが、、それはまた次回ということで。

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