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大好きなアートと文芸関係、それに仙台を中心に私が見た日常のことを書いています。時々頑張って大体のんびり。もさらくさらの18年……。
こんばんは。

 message in a bottle

 いぬがみです(邦題:孤独のメッセージ)


 twitterというやつを久しぶりに開いてみました。

 それはkenny noyesという人の近況を確認するため。

 誰だそれ? というひとがほとんどでしょう。そういう方はこちらの動画をご覧ください。




 この動画でsuperbikeのカワサキのライダーとしてモタードとガチバトルをしているのがkennyです。自分はモタード乗りですがカワサキ乗りでもありますので、この人がすごく好きです。

 日本版wikipediaではかなり古い戦績までしか記載されていませんが、kennyはレースの事故により重大なケガをしました。長い間意識不明の重体でした。その後、意識を取り戻したものの、重い障害を負い不自由な生活を強いられています。それは英語版のkennyの公式サイトに詳しい記述があります。

kenny noyes 公式ホームページ

 洋の東西を問わず、やっぱりこういうストーリィには勇気づけられます。残念ながら日本語のサイトではkennyに関する情報はほとんどないので、いぬがみがあえて発信します。kennyは生きています。不随な体になってしまったものの、懸命にリハビリをしています。そして、実際に少しずつ日常生活に不自由のない身体になりつつあります。

 こういう人の近況を見ると、とても勇気づけられます。自分は色々と精神的にアレな部分はありますが、ちゃんと自分で歩いて、自分でご飯を食べられるじゃないか。精神的なことなんて、物理的なことと比べれば、どうにでもなるじゃないか。そんな風に思った今日この頃です。


 って、今日はkennyの話題もそうなんですが、本題は別にあります。

 そのkennyのことを知りたくて、久しぶりにtwitterを開きました。いや実はtwitterって、色々な特典とか、こうやってフォローしている人の近況を見るためにだけ登録していたのですが、ろくすっぽtweetもしない私のアドレスをフォローしてくれている人がいらっしゃるんですね。そしてそして、その中には漫画家の「アキヨシカズタカ」先生がいらっしゃるのを見て……慌ててtweetというやつをやってみた次第です。

 アキヨシカズタカ先生は、自分が原付二種までしか乗れない(小型限定免許だから)コンプレックスを払しょくしてくれた、素敵な漫画『げんつき』の作者です。現在は自らの「ライフワーク」と宣言されている漫画『かたるし』を描かれておりますが、そんなアキヨシカズタカ先生にフォローしていただけるとは……たといそれが形式的な「フォロー返し」だとしても私は嬉しいです。勝手にうれしいって思っちゃいます。そういう感じです。


 それと同時に、「ああ、これが現代的な『人のつながり』なんだな」と思いました。

 インターネットで不特定多数の人とつながり、インターネットで不特定多数の人と語り合う。そんな中で顔が見えないゆえの誹謗中傷を受けて落ち込むことがあるから、私はあまりそういったコネクションを軽視していたのですが……自分にとって雲の上どころか別な次元に生きていると思い込んでいた人と、たといデジタルな形であれ、つながりを持つことができた。それはとても嬉しいものです。

 なるほど、これがtwitterというやつですか。


 そして、ブログ同様、

 「誰が見ているかわからないけど、誰かは見ているかもしれない」

 そういうものなのかな、と思いました。

 毎日みんな、自分の世界で生きていますよね。仕事で失敗しては怒られ、そんなつもりじゃないのに怒られ、なんだかんだで気持ちが傷つけられたり苦しくなったり「もう死んでしまいたい」と思ったり。色々あると思います。

 そんな思いをSNSで打ち明ける。

 自分ではそういうの、良くないと思っていました。

 でも、そんなナマの思いに共感してくれる人がいるかもしれない。不特定多数の人……といえば、いったいどれほどの人がいるでしょう。何百万では済まないかもしれませんからね。そういった人たちと安易に交信しあうことができるSNSというメディア……。

 なるほど、面白いのかもしれません。


 最近は私も、アナログ的な付き合いができる人が激減しました。昔からいっしょに仕事をしてきた人が次々と会社を辞め、今はもう私ひとり。周りにいるのはそれほど深い話ができない人たちばかり。それなのに責任は重大。もう、どうしたらいいんだろう。何かあったら、どうすればいいですか。死んで詫びればいいですか。そんなことを思ったこともありました(割と昨日とか)。

 でも、もう少しだけ生きてみてもいいのかな。そう思いました。

 どうせ人間いつか死ぬのだから、それまでに精いっぱいワガママを振りかざしてもいいんじゃないのか。周りの人からバカだのなんだの言われたとしても、生きたいように生きてみてからでもいいんじゃないのか。そんな風に思って、ネガティブな感情を外側に押し出してきました。

 「生きるだけ生きたならば死ぬることもあろうて・・・
  まったく、面白い世の中であったわ・・・。」

 これは「信長の野望・革新」における前田利益(前田慶次)の死亡時の台詞ですが、こういうことですよね。「ああ、もうどうすればいいんですか死ねばいいですか自分が死んで詫びればみんな気持ちが収まるんでしょじゃあ死にますよ」そんな気分になった時に歯止めをかけてくれる言葉がこれです。といって自分が前田慶次的な生き方をできるとは思いませんが、ただ、

 「生きるだけ生きる」

 果たして自分がそれを実現できたか? と言われれば、その点においてなかなか納得できないんですよね。

 本当に「生きるだけ生きた」のであれば、「死ぬこともあろう」と納得し「まったく面白い世の中であったわ・・・」と入滅することもできるでしょうが、自分はなかなか、そういう域には達しておりません。

 なぜかと言えばそれはたぶん、いまだに自分の中で、

 「周りの人に気を遣う」

 その呪縛から逃れられていないからでしょう。

 周りの人から何を言われようと、自分の思ったとおりに言葉を発し、生きてみる。そういうのを、色々な遠慮から実際にはできていないから、きっとダメなんです。まだまだ生きていないんです。生きるだけ生きていないんです。


 不肖いぬがみ、少なくとも今の会社では、ある意味「最終章」と位置付けています。

 自分が好きな人はいない。「この人のために、頑張ってみよう」という人はいない(そういう人はみんな辞めちゃったから)。もはや自分しかいない。だったらどうする?

 1.自分もさっさと辞める
 2.ふがいない自分を恥じてとっとと死ぬ
 3.どうせ死ぬ(=懲戒免職も含む)のなら、自分のやりたいことを最大限やってみる

 答え:3
 答え:3
 答え:3

 そう、言いたいことを言いやりたいことをやる。その過程で周りからバカだのなんだのと言われたら、それもすべて糧にする。そして、次のステージへと旅立つ。そういうつもりでやっています。

 いいんです。一般的な常識が無かろうと、なんであろうと。私は私ですから。


 大事なことなので二度言います。

 私は私です。

 そして、あなたはあなたです。周りと合わないことがあってもいいんです。

 あなたは、あなたなんです。

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